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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(5月)月次掲示板
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東日本大震災から八年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
17193df6b1fe081e4228eb7991140605d5c8e997_87_1_12_2宇治新茶
 ↑ 「宇治新茶」摘み取りイベント

新緑の五月になりました。
新人は五月病にならないようにストレスに気をつけましょう。 旧人はのんびりと。

 手に摘みしやはらかき葉よ軒先に新茶一服いただいてゐる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・内藤明
 あけぼののいろにもみづる楓の時間しづかに熟れてゐるなり・・・・・・・・・・・・・・・・春日真木子
 亡きひとが作りし薔薇の乾燥花崩るるときのおとのかそけさ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池光
 シャガールの「サーカス」のごとく浮遊する 船の上なるこのひとときは・・・・・・・・・中川佐和子
 にんげんに尾があったなら性愛はもっとさびしい 風を梳く草・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大森静佳
 きみからの手紙はいつも遠浅の海が展けてゆくようだ 夏・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小島なお
 行く春のひかりとなりて 柿稚葉。標なき終焉へ 皆、ひた向かふ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 成瀬有
 黒糖のようなる鬱がひろがりてからまる髪をほどいておりぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 野口あや子
 なまぐさく馬酔木花の匂ふころだらう生きてゐた犬は公園を駆く・・・・・・・・・・・・・・ 河野美砂子
 みづからが飛べざる高さを空と呼び夕陽のさきへ鳥もゆくのか・・・・・・・・・・・・・・・・・・光森裕樹
 横穴墓掘られた頃の野やいかに田んぼの水に映る青空・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 武藤ゆかり
 ひとが死にあきたる穴に嵌めらるるひとつのピース くちをつぐみな・・・・・・・・・・・・ 久我田鶴子
 音もなく射しくるものをひかりとも影とも言ひて小公園に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・阪森郁代
 急傾斜地崩壊危険蒲公英黄・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 高島茂
 死ぬときは箸置くやうに草の花・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小川軽舟
 すでに女は裸になつてゐた「つづく」・・・・・・・・・・・・・・・加藤静夫
 入れているふしぎの海のナディア像・・・・・・・・・・・・・・・川合大祐
 行春や涙をつまむ指のうら・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 八田木枯
 中指を般若の口に入れてみる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・森山文切
 あをあをと山きらきらと鮎の川・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 高田正子
 壁の染みあるいは逆立ちの蜥蜴・・・・・・・・・・・・・・・・・・芳賀博子
 雉の鳴く頃にはいくさ頭抱く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・赤野四羽
 初夏の口笛で呼ぶ言葉たち・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・生駒大祐
 かしはもち天気予報は雷雨とも・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 上田信治
 黄昏の夢
コカコーラ飲みほしぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・大中博篤
 眠りへの入口しれず春逝きぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池康生
 晩春や猫のかたちに猫の影・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤御影
 細胞の隅々にまで新茶汲む・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・栗山麻衣
 終わっていく平成それからエルドラド・・・・・・・・・・・・・・・・大川崇譜
 脈打つ度にゆれる♂♀(野花)よ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大迫香雪
 麦の秋海の向かうも麦の秋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・青島玄武
 行間の白から春の海に出る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・月波与生
 陸の鳥海の鳥遭うころもがへ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・薮内小鈴
 テニス部はいつも朗らか風五月・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・杉原祐之
 猫の仔をタオルに包み農学部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 折勝家鴨
 春深しやさしくされて泣けてくる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・津野利行
 囀りや投函口に銀の屋根・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・金子 敦
 マネキンの眼はうつろ黄砂降る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・市堀玉宗
 朝寝して躯に裏と表あり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高勢祥子
 墜落の蝶に真白き昼ありぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・安田中彦
 存分に肥えて機を待つ牡丹かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・江口明暗
 にもつは靴だんまりのなか虻になる・・・・・・・・・・・・・・・・・青本柚紀
 牡丹やどかと置かれしランドセル・・・・・・・・・・・・・・・・・ハードエッジ
 より苦きクレソン添へる銀の皿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三嶋ちとせ
 夏みかん小さな切手に小さい人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・丸田洋海
 粉を吹いて祖父は微睡む花林檎・・・・・・・・・・・・・・・・・・・吉川千早
 雨は何色海の鳥居赤を濃くし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・渥美ふみ
 天守からパパを呼ぶ声夕薄暑・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・寺沢一雄
 いただいたさやえんどうとりあえず塩茹で・・・・・・・・・・・・伊藤角子
 イタリアンパセリが胸毛見せている・・・・・・・・・・・・・・・・・岩根彰子
 土筆野や起筆のやうに楡一樹・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木牛後


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ぜひコメントを置いてください。コメントには必ず返事いたします。 ただし不穏当なものは勝手ながら削除いたします。
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★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』(角川書店刊)
 歌集 『嘉木』 (角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 歌集 『嬬恋』(角川書店刊)
 歌集 『昭和』(角川書店刊) 
 歌集 『無冠の馬』(KADOKAWA刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 詩集 『修学院幻視』(澪標刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

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国家より犬猫供出命令来北海道割当十万七千匹・・・長谷川知哲
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──<非>季節の歌──

     国家より犬猫供出命令来
            北海道割当十万七千匹・・・・・・・・・・・・・長谷川知哲


短歌結社「短歌人」で、こんな歌とコメントを見つけた。
コメントには、こう書かれている。
<軍馬の碑はあるが、殺された犬猫の碑はない。寒さの中で戦う兵隊さんの外套や軍靴を作るため、国中の無数の犬猫が供出命令を受ける。>

続いて、こんな歌が引かれている。

     仏壇の抽斗に戦死せし叔父の
            ブリキの型押し勲章ひとつ・・・・・・・・・・・・・・長谷川知哲


コメントには、こう、ある。
<兵卒を、英語ではexpendables、消耗品と呼ぶ。冗談のような、薄っぺらなブリキの勲章が帝国より下賜される。グリコのおまけに似ている。 >
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久しぶりに、短歌の中に「知性」を見た、という気がする。
先の戦争の、「狂気」のような時代を、何も知らない世代には、こういうことも、きちんと言っておかなければならないだろう。
人間だけでなく、今はペットととして愛玩されている彼らにも、こういう受難の時代があったのだよ、ということである。
私も初めて知る事実である。
また、日本軍は兵卒を「消耗品」と呼んだのは知られていることだが、「英語」でも、そう呼ぶ、と、このコメントには書かれていて、悲痛な思いになった。

「短歌人」の作者の、誠実な知性を見せていただいたので、敢えて転載させてもらった。 
有難うございました。





堀井令以知『言語文化の深層をたずねて』・・・木村草弥
堀井

──新・読書ノート──(再掲載・初出2015/05/30)

     堀井令以知『言語文化の深層をたずねて』・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・ミネルヴァ書房2013/05/30刊・・・・・・・・

先に「エッセイ」として堀井令以知の死去にまつわるエピソードなどを載せたが、彼の「自伝」の本である。
先のエッセイと一緒に読んでもらいたい。
さっそくアマゾンから取り寄せたのが、画像に出した本である。
このシリーズの本としては2012年に日本史学者・上田正昭の本を買って読んだことがある。 
堀井令以知の本は、もっと分厚くて詳細な索引も付く学術的な体裁である。

この本に入る前に、ネット上で「京都流・古都技」というサイトに堀井令以知のインタヴュー記事が三回にわけて載っていたので紹介する。
(注・この記事は、その後、削除されたので現在は存在しない。 念のため。)
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2007年1月17日水曜日

≪特別編≫関西外国語大学 堀井令以知教授 <前編>
今月の京師は≪特別編≫でお送りします。
特別編第二回目は『関西外国語大学 堀井令以知教授』です。

幼い頃から言語学者を目指し、現在フランス語と京ことばと共に教壇に55年立っておられる堀井先生に身近に使われている“京ことば”の意外に知られていない裏話をじっくりと三話に分けて掲載いたします。お楽しみ下さい。
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教壇に立って55年
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―― 京都出身とお伺いしたのですが、幼い頃はどのようなお子さんだったのでしょうか。
“言語”には興味がおありでしたか?

私は大学の教壇に立って55年になります。非常勤なども含め、全部で11大学で教えてきました。
1925年生まれで、中学校1年生の時の志望欄に夢は『言語学者』と書きました。幼い頃から『言葉』には興味がありましたし、関心を持っておりました。

子どもの頃も今と変わりません。終始そんなに目立つところもなければ、それほど引っ込むこともなく、普通の子でした(笑)。

私の住んでいた京都の家は、今ではもう建築150年経っております。古い家ですが、今でもまだ残っており、親戚の者が守ってくれています。

うなぎの寝床、間口が狭い割には奥行きがある家、いわゆる町家で暮らしていたので、当然京都の伝統ともふれあい、京都御所によく散歩に行きました。

現在、私は関西外国語大学で言語学とフランス語も教えています。戦前、私の家が『欧文の印刷屋』をやっていたことと関係があります。
東一条に関西日仏学館があるのですが、初代の学館長ルイ・マルシャン氏は印刷の用事で自宅に来られました。テキストを作ったり、学館の仕事を請けていたのです。
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言語学者
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―― どうして言語学者になろうと思われたのですか?

中学生の頃、私が言語学者になろうと思っていたのには、新村出先生という広辞苑の著者でもある先生の影響があります。

広辞苑はその当時はまだ前の辞苑の段階でした。印刷屋の父は、その辞典に非常に敬意をはらっており、父も私を言語学者にするつもりだったようです。

そんな中、私が旧制中学4年の時に太平洋戦争が始まりました。印刷屋の仕事も、欧文の仕事が出来なくなり、日本語の印刷に切り替えたのです。

そして私も軍隊へ行きました。昭和20年の6月18日まで広島の部隊でした。
原爆投下前、運よく京都の部隊へ転属になり、私は京都で「忍び難きを忍び」という終戦の詔書を聞きました。

それから、大阪外大の前身、大阪外専に復学しました。そして、言語学を勉強するために京大に行き、そこで勉強をして今日に至っているのです。
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ふるさとの言葉
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―― どのような経緯で言語を研究されるようになったのですか

大学で始めはヨーロッパ系の言語に関心を持っていました。
しかし、1950年(昭和25年)に、当時の言語学会、社会学会、民俗学会など8つの学会が連合しまして、第1回長崎県対馬の総合調査を行ったとき、『言語学会』から、一番若かったのですが、私がメンバーに加えてもらい調査に行き、全島をまわり方言を調べました。

今も元気ですが、その当時はもっと元気でしたので、上島から下島までのほとんどを周ったことが、日本語を研究しなければと思ったきっかけなのです。

私の知っている方言と言うと、何といっても、『京ことば』です。当時は京ことばの字引が一つもありませんでした。

他の地域の方言集は出版されていたのですが、肝心の京都が空白地帯だったのです。それは、研究の上で不思議なことでした。
地元のこともわからないなんて、と思い、それから少しずつ調査を始めたことが、京ことばを研究するようになったきっかけなのです。

まず考えたのは、小さい頃から、一番近くて、よく散歩をしていた御所のこともわからない、ということでした。

そこで、御所の中では、どのような言葉が話されていたか、と疑問に思ったのです。そして京都の御所のことを調べだしました。

≪特別編≫関西外国語大学 堀井令以知教授 <中編>
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京ことば
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―― 京ことばの地域の範囲はどこからどこまでなのですか?

「上がる」「下がる」

「上がる」「下がる」という地域ですね。
東入(イル)、西入という所が、おおよそ京ことばの範囲だと思ってください。ほとんど間違いありません。
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いろいろな京ことば
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私は、祇園の舞妓さんがよく使う「京ことば」は3つあると考えています。

「おたのもうします」・「すんまへん」それから、「おおきに」この3つが一番よく使われるのです。
フランスのパリで生活していても、この3つに当たることばをよく使います。おたのもうします「シルブプレ」、すんまへん「パルドン」、おおきに「メルシー」。
京都では、その3つの言葉を祇園の花街でよく使っています。おもしろいでしょ?

室町の問屋街でも使われている、いわゆる商人の言葉。ちょっと独特なのですが、これがおおよそ京ことばの典型的な町家のことばです。

もう1つは西陣のことばです。織屋さんのことば。室町ことばと共通性はありますが、ちょっとまた違います。

京都には伝統産業というのが50種類程あります。扇屋さんは扇屋さんの。そこで使われている職人ことばは他の人ではわからないような言葉です。
他には、友禅染、清水焼、竹細工、京漆器、和菓子屋、京料理などの職人ことばがあります。だから、一概に京ことばと言っても、総合的に見なければならないのです。
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はんなり
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『京都の雅びなことば』の代表のひとつは「はんなり」という言葉。元々「はんなり」というのはどういう気持ちを表すかというと、色彩について言うことが多いのです。
だから「まぁ、奥さん、ええ帯しめといやすなぁ。はんなりしたええ帯どすなぁ」と使います。

『明るい、上品、雅び、すきっとしている』という意味をかね合わせたのが「はんなり」です。
部屋がスキッと綺麗になっていることも「あぁこの部屋ははんなりしてますな」と使います。

まったり「まったりする」というのも使われ方が変わってきているんですよね。
元々は“料理用語”だったのです。またい(全)の語幹に接尾語「り」を付け、「まったり」と言ったのが起源なのですが、料理用語での使われ方は「梅酒も、数年つけますと、まったりした味やな」というふうに使うのです。とろっとしてコクがある、穏やかな味のことです。

京都は正月の雑煮は白味噌ですね。白いお味噌、御所ことばではしろのおむしと言います。しろのおむしでね、とろけるようなとろっとした味が出てくるでしょ。
そういうときの味加減のことを、「まったり」と言うのです。

ところが、その意味を若者が変えだしたんです。日曜なんかに「明日家でまったりしよう」と、そういう風に使うようになったのです。

だから、たぶん料理用語が全国区の地位を占めてきて、料理用語として、テレビなんかで放映されたんですね。
それを原宿か新宿か、あの辺の若者たちが使い出して、逆輸入されてきてしまったのです。それでこの辺にも広がってのんびりする意味になりました。
だからその意味は広辞苑には載っていません。そういう風に若者の使うことばが変遷している。
さまざまな京ことばが、若者ことばの意味に代わりつつある。急にここ数年の現象なのです。

≪特別編≫関西外国語大学 堀井令以知教授 <後編>
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言葉は常に『揺れている』
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―― 言語は変わっていきますが、言語が乱れているのをどうお考えですか?

意外とどんな言語も乱れているのです。だから私は「乱れている」という言葉は使いません。「揺れている」といっているのです。
日本語が生きている限り、動いている、揺れているのです。

そんな今の時代に、奈良時代の人が来ても平安朝時代の人が来ても何を言っているのかわからないはずです。

例えば、「つらら」と言う語がありますよね。「つらら」と言ったら、平安時代には氷のことだったのです。
当時は「つらら」のことを「たるひ」と言っていました。氷が垂れるから「たるひ」なのです。

現在でもそれは東北地方に残っていて、そこでは「たるひ」とか「たろひ」と言われています。平安時代の使い方が各地に残っていて、面白い現象ですね。

では、何故「つらら」と言うかというと、元来氷はつるつるしているから「つらら」というのです。

英語にも意味が大きく変わる語がありますよ。「ナイス」というのも、今ではいい意味で使っていますが、元々は「ばかな」という意味でした。
このように、どの言語も揺れているのです。
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「たこ」と「いか」
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普通に言うとお正月にあげるのは「たこ」ですよね。ところが、私どもが小さい時は「いか」と言っていました。
「いか」といったらみんな笑うのですが、本来このあたりは「いか地帯」なのです。

江戸時代の文献を見ると、江戸は「たこ」、上方は「いか」と言うと書いてあるのです。江戸と京都を比較して並べて記載されています。

うちの祖母は文久元年生まれなのですが、「いか」と言っていました。私の小さい時は「いか」と「たこ」どちらも知っていましたね。

何故「たこ」になってしまったかというと、『お正月』の歌が原因だと思います。
「もういくつ寝るとお正月、お正月にはたこあげて」と歌いますよね。「いかあげて」とは言わないでしょ。(笑)

京都学研都市付近を調べると「いーか」と言ったり、洛北でも、「いかのぼり」とか「いかのぼし」と言います。どうやら京都市を跨いだ南北には残っているようです。
まだ他の名称もあるのです。面白いでしょ、京都では「いか」というと逆に笑われてしまいますね。

こんなことを話し出したら、何時間あっても足らへんよ(笑)
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『おおきに』
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―― 変わってくるのが当たり前でこれは残さなあかんって言う言葉はありますか?

全国広しと言えども、京都で使われる言葉だけは京都弁・京都方言ではなく、「京都語」や「京ことば」と言い、私の著作の中でも「京ことば」・「京都語」と書きます。
それほど京都というのはプライドが高いということなのです。

京都の人が一番残したい言葉のトップは何だと思いますか?大阪の人と偶然にも一致したのです。

―― 「おおきに」ですか?

そうやね。「おおきに」がトップなのです。この頃、若い人は使わないようになっています。「ありがとう」と言うようになっていますね。

『おおきに』は江戸時代後期の後半から使い出されはじめました。
元は「おおきに」は「はなはだ・大いに」ということだったので「おおきに、お世話さん」とか、他のことばに付けられていました。
ありがとうだけでは物足りなくなって「おおきに」を付け出し、「おおきにありがとう」といった。それでは長いので省略して、「おおきに」が残ったのです。
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『ほっこり』
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『ほっこり」は本来疲れて帰ってきた時に、「やっと会議が済んでほっこりしたわ」と疲れを休める時に使います。

昔はそういう時も使ったのですが、今は使わなくなりました。今の人は「あそこの喫茶店へいってほっこりしよう」という意味で使っています。
このように、時代によって意味が変わった京ことばがいろいろあるのです。

―― 今の学生さんと先生が学生さんだったころとどう教育は変わっていますか?

それは違いますね。「先生かわいいね」と言われることがあります(笑)。でも、『かわいい』というのが始めは理解できなかったのです。
何故かわいいと言われているのか、もう言葉の感覚が違っているのです。私は常に学生と喋っていても、言葉の動態をキャッチしています。  ―終わり―
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なぜ、このようなインタヴュー記事を長々と載せたかというと、本書にも同様のことが書かれていて重複するからである。
先の「エッセイ」に引いた記事にも書かれていたが、彼・堀井令以知は、この本の校正「初校」を済ませて亡くなったという。
だから、この本のはじめに書房の編集部からの「添書き」が載せられている。 
普通、校正というのは二校、三校あたりまで行うのだが、著者が亡くなったので、あとは書房の編集部が責任をもって校正したということである。

46堀井令以知
 ↑ 晩年の堀井令以知

この本の「はしがき」をスキャナで引いておく。 (文字化けがあれば指摘されたい。直します)

     はしがき
本書は私が言語学者として、幼少のころから、どのようにことばについて関心を抱き、ことばを学
習し、研究してきたかを自伝としてまとめたものである。
老齢になった私は、今では語彙論の分野で、京ことばの研究、特に御所ことばの研究において上げ
た業績によって一般に知られている。また、言語学の視点から本格的な語源研究を行い、ことばの由
来を解明するなど、日本語の研究を促進していることによっても、多くの人から評価を得ている。
ヨー口ツバの諸言語について若いころから関心があったことも、本書によつて理解していただけるで
あろう。
今までのささやかな業績は次の三分野に大別される。
第一に、京ことばについて『京都のことば』『京都府ことば辞典』『京都語を学ぶ人のために』『お
公家さんの日本語』など多くの著書・論文を執筆した。特に御所ことばは、明治維新まで京都御所で
使用され、日本語の研究に重要な位置を占めるにもかかわらず、従来、理解する人は少なかった。皇
室の御所ことば使用が減少している現今、御所ことばの研究は貴重であろうとおもう。
第二に、私は語源研究についても多くの書物を残している。『日本語の由来』のような啓蒙書をは
じめ、本格的な『語源大辞典』を作成し、『日常語の意味変化辞典』 『上方ことば語源辞典』を著し、
『決まり文句語源辞典』 『外来語語源辞典』を刊行した。
語彙論の分野において、多くの人々に日本語への関心を喚起するのに役立つように努力したつもり
である。
第三に、私は若いころから、フランス語の意味論を研究し、フランス文化の発展に尽した功績によ
り、昭和四九年(一九七四)にはフランス政府からパルム•アカデミック勲章、昭和五一年には功労
国家勲章を受けた。その成果の一郤も本書に収めることにした。
私の言語学研究の態度は、言語と人間・社会•文化を結ぶ絆を大切にする方針に基づいている。著
者独自の言語一般理論の探究は今も続けている。
深く広い視点から言語研究を促進し、『一般言語学と日本言語学』 『ことばの不思議』『比較言語学
を学ぶ人のために』などの著書にみられるように、ョ—ロッパ諸言語についても言及し、日本語と諸
言語との意味の対照比較研究も行ってきた。
NHKの大河ドラマやスペシャルドラマでは多くのシーンで言語指導を行い、かっては「クイズ日
本人の質問」に出演して、ことばのルーツを解説し,民改にもことばの問題で出演の機会に恵まれた。
朝日新聞には「ことばの周辺」と題して三年間毎週執筆し、平成二○年度は「折々の京ことば」を京
都新聞に毎日執筆掲載して好評を得た。
自分のたどってきた言語研究の道筋を述べることは、いかに困難な仕事であるかを痛感している。
幸い、幼少のころからの資料を保存しておいたので、忘れられようとする記憶をたどりながら、ここ
に大正・昭和・平成を生きてきた私の、ことばの研究を通じての自叙伝をまとめることができた。失
われた言語生活の時を求めようとする人達の参考にしていただければ幸いである。
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この本は
第一章 少年のことば
第二章 言語学習期
第三章 言語研究を始める
第四章 西ヨーロッパの言語生活
第五章 フランス語と印欧語
第六章 語源をさぐる
第七章 京都語の研究
第八章 言語一般の理論
第九章 方言の研究
第十章 「わたくし」について         という構成になっている。

第二章には、学徒出陣のため繰り上げ卒業となり「豊橋第一陸軍予備士官学校」に入る頃のことが詳しく書かれている。
古い資料が保存されており、その周到さには感心するばかりである。
巻末には「年譜」も載っているが、これを見ると彼・堀井令以知は、私の次兄・木村重信と同年であり、「豊橋第一陸軍予備士官学校」も同期であることが判る。
彼らは「特甲幹」と称する身分で、入校した時点で「伍長」に任官している。戦争で一般兵のみならず、将校も消耗が激しく、即戦力化が急がれたのである。
面識があったかどうかは判らない。私の兄もポツダム少尉である。 機会があれば聞いてみたい。
この豊橋陸軍士官学校の跡地は「愛知大学」になり、後日、彼・令以知が勤務することになるが、その奇縁についても書かれている。
第三章の中に「自由間接話法」というところがあり、私も教えてもらった大阪外語の和田誠三郎先生の名前も出てきて、その和田先生から「自由間接叙法」について教わった記憶が戻った。

「年譜」によると、彼の父は堀井二郎といって明治32年生まれ、とある。私の母は33年(1900年)生まれである。
父親は、伯父さんの経営する京都の弘文社という印刷所に勤めて印刷技術を覚え、昭和11年に独立して「堀井欧文印刷所」を起すことになる。
ここに「伯父」とあるから、父親の兄ということになるが、父親の兄というのも早くから京都に出て、印刷屋を営んでいたことになる。
主な得意先が関西日仏学館だったことなどは先のエッセイに書いた通りである。
結婚は遅く、35歳になってからだと判る。

大部の本であり、詳しく引くことは出来ないが、私も「ことば」に関わることをやっているので、彼の言語学などについての専門的なことも関心があり、面白い。
これからも折々にひもといて読んでみたい。
不完全ながら、今日は、このくらいにする。


那須信孝『心の窓』~街角の掲示板~ ・・・木村草弥
那須_NEW

──新・読書ノート──

     那須信孝『心の窓』~街角の掲示板~ ・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・方丈堂出版2019/05/26刊・・・・・・・・

この本は、私の大学の同級生で、親友の那須信孝が、自坊の「一行寺」の路傍に毎日掲げてきた「法話の掲示板」に載せてきた文句を一冊にまとめたものである。
「まえがき」に、こう書かれている。

<一行寺の堂宇を再建して頂いて五十年足らず、毎月一回、時には二回か三回、掲示法語を記載して参りました。
 通りがかりの人が、その意味をわざわざ尋ねに訪れられたり、宗門の要人・学者の方々から賛辞を頂いたり、
 そして「御本にされたら」との要請があったりしました。
 住職を辞任し、法嗣の住職就任にあたって、やっとまとめることにいたしました。
 聖典をはじめ有名な方々の金言や無名の方々の句、自作の言葉など六百首余りにも及びます。
 その中から約百五十首を選び、難しい金句の説明、また当時の特別な社会的な事件や身近な出来事を感じて引用したものには説明も交えましたので、往時を偲んで頂ければと存じます。
 また、挿絵の花のイラストを描いてくれた孫・新戸彩月、平成十五年三月に六十四歳で往生された木村泰三氏が生前に楽しんで掲示の揮毫をしてくださったことを偲び、ここに感謝申し上げます。
                          一行寺第十五代住職 釋 信孝  >

以下、無信心者としての私が、恣意的に選んで抽出するのをお許しいただきたい。 掲示年月日は省略する。(木村草弥・記)

   劫初より作りいとなむ殿堂にわれも黄金の釘一つ打つ     与謝野晶子

お内陣荘厳に魂を込められた物心の建立荘厳して頂いたことに対しての、感謝と賛辞の意味で掲示しました。

   化土は死人の生まるるところ 真実の浄土は生ける人の生まるるところなり     曽我量深

曽我量深は那須君の敬愛する仏教学者で、大谷大学学長などを務められた人である。 極めて難しい本だが、先年、彼に関する本を那須君は著した。

     生まれては、死ぬるなり。釈迦も達磨も、猫も杓子も    一休和尚

   我なくとも法は尽きまじ 和歌の浦 あおくさ人の あらんかぎりは  親鸞聖人の辞世の句、という

   地のめぐみ天のめぐみをゆたにうくる わが身尊き春のあけぼの    九条武子

   散れば咲き咲けばまた散る春ごとに花のすがたは如来常住    一休和尚

   やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ   山本五十六

   年たけて いよよ帰らん 古里や いのちのもとの 永久の自然へ   平沢 興

平沢先生は、元・京都大学総長。六月十七日、八十九歳で還帰されました。偉大なる凡人として最も尊敬し、人生の指針として親しく接しさせて頂き、ご遺言で葬儀の導師をさせて頂きました。

   業の落葉がふりつもり腐葉土のようになり ながい年月には私の肥料になる   榎本栄一

   はだかで 生まれてきたのに何不足    小林一茶

   念仏して五欲の暑さ忘れうぞ    句仏上人

大谷 光演、1875年(明治8年)2月27日 ~ 1943年(昭和18年)2月6日)は、明治から大正時代にかけての浄土真宗の僧、俳人、画家。法名は「彰如」。俳号は「句仏」。東本願寺第二十三代法主。真宗大谷派管長。

   ただ生き ただ死ぬ ただの二字に 一切が輝き ただの二音に万有は光る   坂村真民

   無一物中、無尽蔵 花あり月あり楼台あり     蘇東坡

   寿命とは仏の寿   賜った寿を生きること

これは那須君が自分の米寿にあたって、掲示した言葉である。  ↑

   万代に年は来経とも梅の花 絶ゆることなく咲き渡るべし   万葉集

新元号「令和」を迎えることになって、平成最後の日に掲げた言葉である。

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先年、このブログで採り上げたが、「曽我量深に聞く『宗教的要求の象徴・法蔵菩薩』」を参照されたい。
私の解説が稚拙なので分かりにくいかも知れないが、お許しを。

那須信孝君は、私と同年生まれであり、同じ大学で共に学んだ仲である。専攻は違うが「親友」と言ってよいだろう。
西本願寺門前にある自坊「一行寺」は、西本願寺の、いわば「塔頭」のような存在であるらしい。
彼は前門主とも親しく、門主みずから一行寺に遊びに来られるような仲だったという。
彼は、先にも書いたように、つい最近、五月二十六日に住職を退き、息子の一真 に住職の座を譲った、という。その記念として、この本が出版されたという。
信孝君、おめでとうございます。われわれ市井の者とは立場が違うが、長年ご苦労さまでした。
佳い本をいただき愛読させていただきます。
私の知っている、例えば、坂村真民さんが採り上げられているなど、親しみを持って読みました。
有難うございました。            (完)







三村あきら詩集『楽土へ』・・・木村草弥
楽土_NEW

──新・読書ノート──

      三村あきら詩集『楽土へ』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・澪標2019/05/31刊・・・・・・・

この本が贈られてきた。
山田兼士先生が「帯文」を書いておられる。
この作者は、七十歳を過ぎてから、大阪文学学校で、小説や詩を学んだらしい。
そこで山田兼士に勧められて、この詩集を編んだという。

三村あきら
1936年 岡山県の北辺に生まれる

この詩集の概要は、山田兼士の「帯文」に書かれている通りである。
この本には、全部で30篇の作品が、ほぼ見開き2ページに一篇の詩として収録されている。
少し作品を見てみよう。

       枯れ野をゆく      三村あきら

   仕事に疲れて呻きながら
   御堂筋を南へくだり
   銀杏並木に和らげられながら
   南御堂に辿りつく

   椎の巨木の下に句碑はある
   ・・・・・夢は枯れ野をかけめぐる (芭蕉)
   ストレスが溜まり 吟詠すると
   心労から解きほぐされた

   夢を求めて枯れ野をかけめぐり
   楽土を求めて呻吟し
   土木を生業にして生きた

   母の匂いは 土のにおい
   作業服のぬくもりは 母の肌
   枯れ野に 安養の祈りをささげる

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この詩は Ⅰ 楽土へ の八番目に載るものだが、ほぼ、この詩集の概略を盛った作品と言っていいだろう。

こんな詩もある。

       平安な家庭     三村あきら

   窓が明るんでくる カタンコトン
   遠く環状線の鉄橋の響き
   寝間のなかで 鉄路の音を聞き分け
   その日の天候を予知し 起きる

   最近 向いに高層マンションが建ち
   生駒の遠景は閉ざされ 鉄路の響きは遮断
   窓 窓から幼児の泣き声
   虐待かと窓から身をのりだす

   窓 窓から夫婦喧嘩のがなりあい
   ギャンブルに敗けたら取り返せ
   死ぬほど働いても何もならん
   銭がすべての世の中と

   平和な家庭に夢をあたえる
   都構想 カジノで大儲け予告
   依存症は法律が守ってくれる

   ギャンブルで楽しい家庭
   心寂れ カタンコトンの響きを懐かしみ
   窓を見あげると 狭い青

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この詩は、今どき大阪で話題になっている「大阪都構想」を、皮肉っている。
また「幼児虐待」などの時事性にも触れていて秀逸である。
こういう時事に敏感な耳も大切にしたい。
そして大阪人には東に聳える「生駒」連山が、原風景として必須なのだが、それが懐かしく詠われている。
大阪と言っても広いから、北大阪、南大阪、あるいは和泉地方の人々には違和感があるかも知れない。

Ⅱ 望郷  には、離れてきた古里への郷愁が詠われている。
1936年生まれだから、先の大戦の記憶を濃く持つ作者である。大戦争中に少年期を過ごした。
作品を引くことはしないが、詩として情趣深く描かれていることを書いておきたい。
作者は、もう若くはないが、これからも折に触れて詩を書いてもらいたい。

ご恵贈に感謝して筆を置く。        (完)



山田兼士詩集『孫の手詩集』・・・木村草弥
孫の手_NEW

──山田兼士の詩と詩論──(18)

      山田兼士詩集『孫の手詩集』・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・澪標2019/06/02刊・・・・・・・・

畏敬する山田先生が、標記の本を出された。
文字通り「孫」を詠んだ詩─娘さんが生んだ「ハル」という男の孫を詠んだ21篇の短詩から成る。
「ハル」というから女の子かと思うところだが、どうやら「ハル」というのは、この子の名前に因む「愛称」らしい。
嫁いだ娘さんの生んだ子、つまり「外孫」である。
横浜に住んでいて、毎日LINEで写真が送られて来る、という。
短歌の世界では「孫の歌は詠うな」と言われているが、「詩」の世界では、たくさんあるらしい。寡聞にして私は知らなかった。
さすがにフランス文学に精通した山田先生だけあって、この本に書かれている。

<孫のことを書いた詩はこれまでにもたくさんありますが、一冊がまるごと孫の詩というのは、私にはヴィクトル・ユゴー『祖父たる術』と金子光晴『若葉のうた』ぐらいしか思いうかびません。>

この本には、一冊そっくりではないが、孫を詠った詩が「前書き」や「挿入」の形で載っている。
谷川俊太郎、梶井基次郎、シュペルヴィエル、などである。

少し詩を引いてみよう。

      春の帰還       山田兼士

   三月 一七〇〇グラムで生まれ
   六月 四〇〇〇グラムで巣立って行ったハル
   八月 六〇〇〇グラムになって帰ってきた
   やあ大きくなったなあ
   と呼びかけたら ほほえむ
   と思ったのに 号泣された。

   ボードレールの善良な老婆なら
   絶望に泣くところだが
   二十一世紀の祖父はがまん強い
   しばらく遠目で目配せしあって
   一時間後には抱きあげていた
   おたがい 緊張気味ではあったが。

   十一月 木枯らしが吹いた
   明日はハルが
   三か月ぶりに帰ってくる
   体重計を用意して
   小春日和を
   待ち構えている祖父である。


       はるのたんじょうび      山田兼士

   おじいちゃんが ておしぐるまと
   えほんを おくってくれたよ
   たんじょうびの ぷれぜんとだって

   ておしぐるまは じきにおせるようになったよ
   あるくのにべんりだって すぐわかった
   えほんには 手のえがたくさんあって
   おかあさんは しゃしん? だっていうけれど
   ぼくの手ににてるのも にてないのもあって
   ずいぶんちいさな手もあるよ

         ・・・・・・

   はやくはなせるようになりたいな
   字もおぼえたいな
   ておしぐるまなしで
   あるけるようになりたいな
   はるはきょう 一さいになりました

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後の詩が巻末に載るものである。
予定より六週間も早く、早産の未熟児で生まれた孫なので、心配はらはら。
それだけに可愛いくて仕方がないのであろう。
この本に挿入される写真も、すべて山田先生によるという徹底ぶりである。その写真も、ぼかしてあってカット風で好ましい。
いかにも現代らしく、スマホやら、LINEやらを駆使した、でれでれの「おじいちゃん」丸出しの、微笑ましい一冊である。

ご存じのように、西欧詩の「ソネット」は、一篇が、4 4 3 3、または4 4 4 2 の行分けによって書かれる。
これは国によって違いがあるからだが、今回の詩の三分の一くらいが、見事なソネットになっていることを指摘しておきたい。

ご恵贈に感謝して紹介を終わりたい。六月の今では、 もう「歩き」だしたのではないか。    (完)


    

万緑やおどろきやすき仔鹿ゐて・・・橋本多佳子
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    万緑やおどろきやすき仔鹿ゐて・・・・・・・・橋本多佳子

       ■雄鹿の前吾もあらあらしき息す

       ■女(め)の鹿は驚きやすし吾のみかは


今日5月29日は橋本多佳子の忌日である。
生まれは東京の本郷。杉田久女に会い、はじめて俳句を作った。のち山口誓子に師事し「天狼」同人だった。昭和38年大阪で没する。64歳だった。
彼女の句は命に触れたものを的確な構成によって詠いあげた、情熱的で抒情性のある豊麗の句境だった。

掲出した句は奈良の鹿に因むものを三つ並べてみた。
上に書いたように「命に触れた」みづみづしい、生命に関する「いじらしい一途さ」に満ちている。
私は彼女の句が好きで、今までに何句引いただろうか。
以下、ネット上の正津勉「恋唄 恋句」から当該記事を引いておく。  ↓
(草弥・注 この記事は、その後削除されて今は見られない。念のため)
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2橋本多佳子

20. 橋本多佳子

    雪はげし抱かれて息のつまりしこと

橋本多佳子。美女の誉れたかい高貴の未亡人。大輪の花。ゆくところ座はどこもが華やいだという。
 明治三十二年、東京本郷に生まれる。祖父は琴の山田流家元。父は役人。四十四年、菊坂女子美術学校日本画科に入学するも病弱のために中退。
大正三年、琴の「奥許」を受ける。
 六年、十八歳で橋本豊次郎と結婚。豊次郎は大阪船場の商家の次男で若くして渡米し、土木建築学を学んで帰国、財を成した実業家。
ロマンチストで、芸術にも深い造詣があった。結婚記念に大分農場(十万坪)を拓き経営。
九年、小倉市中原(現、北九州市小倉北区)に豊次郎設計の三階建て、和洋折衷の西洋館「櫓山荘」を新築。
山荘は小倉の文化サロンとなり、中央から著名な文化人が多く訪れる。
 十一年、高浜虚子を迎えて俳句会を開催。このとき接待役の多佳子が、暖炉の上の花瓶から落ちた椿の花を拾い、焔に投げ入れた。
それを目にした虚子はすかさず一句を作って示すのだ。「落椿投げて暖炉の火の上に」。この一事で俳句に興味を覚える。
これより同句会に参加していた小倉在住の杉田久女の指導を受けて、やがて「アララギ」他の雑詠に投稿する。
 昭和四年、小倉より大阪帝塚山に移住。終生の師山口誓子に出会い、作句に励む。
私生活では理解ある夫との間に四人の娘に恵まれる。まったく絵に描いたような幸せな暮らしぶり。しかし突然である。

    月光にいのち死にゆくひとと寝る

 十二年九月、病弱で寝込みがちだった豊次郎が急逝。享年五十。「運命は私を結婚に導きました」(「朝日新聞」昭和36・4)。
その愛する夫はもう呼んでも応えぬ。これもまた運命であろうか。多佳子三十八歳。葬後、ノイローゼによる心臓発作つづく。
「忌籠り」と題する一句にある。

    曼珠沙華咲くとつぶやきひとり堪ゆ

 日支事変から太平洋戦争へ。十九年、戦火を逃れ奈良の菅原に疎開。美貌の人が空地を拓き、モンペをはき、鍬を振るい畑仕事に精を出す。
 敗戦。二十一年、関西在住の西東三鬼、平畑静塔らと「奈良俳句会」を始める(二十七年まで)。奈良の日吉館に米二合ずつ持ち寄り夜を徹して句作する。
この荒稽古で多佳子は鍛えられる。「何しろ冬は三人が三方から炬燵に足を入れて句作をする。疲れればそのまま睡り、覚めて又作ると云ふ有様である。
夏は三鬼氏も静塔氏も半裸である。……奥様時代の私の世界は完全に吹き飛ばされてしまつた」(「日吉館時代」昭和31・9)
 はじけた多佳子は生々しい感情を句作ぶっつけた。

    息あらき雄鹿が立つは切なけれ

 秋、交尾期になると雄鹿は雌を求めもの悲しく啼く。「息あらき雄鹿」とは雌を得るために角を合わせて激しく戦う姿。多佳子はその猛々しさに目見開く。
「雄鹿の前吾もあらあらしき息す」「寝姿の夫恋ふ鹿か後肢抱き」。雄鹿にことよせて内奥をあらわにする。それがいよいよ艶めいてくるのだ。
 ここに掲げる句をみよ。二十四年、寡婦になって十二年、五十歳のときの作。
降り止まぬ雪を額にして、疼く身体の奥から、夫の激しい腕の力を蘇らせた。亡夫へこの恋情。連作にある。

    雪はげし夫の手のほか知らず死ぬ

 物狂おしいまでの夫恋。「夫の手のほか知らず死ぬ」。微塵たりも二心はない。そうにちがいない。

だがしかしである。
 ここに多佳子をモデルにした小説がある。松本清張の「花衣」がそれだ。主人公の悠紀女が多佳子。清張は小倉生まれだ。
「自分も幼時からK市に育った人間である。……彼女がその街にいたときの微かな記憶がある。
それはおぼろげだが、美しい記憶である」として書くのだが、いかにも推理作家らしい。
なんとあのドンファン不昂(三鬼)が彼女を口説きひどい肘鉄砲を喰らわされたとか。
それらしい面白おかしいお話があって、ちょっと驚くような記述がみえる。
「……悠紀女は癌を患って病院で死んだ。……その後になって、自分は悠紀女と親しかった人の話を聞いた。彼女には恋人がいたという。
/対手は京都のある大学の助教授だった。年は彼女より下だが、むろん、妻子がある。
……よく聞いてみると、その恋のはじまったあとあたりが、悠紀女の官能的な句が現れたころであった」
 でもってこの助教授が下世話なやからなのだ。それがだけど彼女は別れるに別れられなかったと。そんなこれがぜんぶガセネタ、デッチアゲだけでもなかろう。
とするとこの夫恋の句をどう読んだらいいものやら。ふしぎな味の句も残っている。

    夫恋へば吾に死ねよと青葉木菟

 しかしやはり多佳子はひたすら豊次郎ひとりを一筋恋いつづけた。ここはそのように思っておくことにする。
美しい人は厳しく身を持して美しく老いた。年譜に二十七、三十一、三十三年と「心臓発作」の記録がみえる。

    深裂けの石榴一粒だにこぼれず

 三十五年七月、胆嚢炎を病み入院。年末、退院するも、これが命取りとなる。じつにこの石榴は病巣であって、はたまた命の塊そのもの。

    雪の日の浴身一指一趾愛し

 三十八年二月、入院前日、この句と「雪はげし書き遺すこと何ぞ多き」の二句を短冊にしたためる。
指は手の指、趾は足の指。美しい四肢と美しい容貌を持つ人の最期の句。
 五月、永眠。享年六十四。




楢の木の樹液もとめて這ふ百足 足一本も遊ばさず来る・・・木村草弥
ムカデ-殺し方

   楢の木の樹液もとめて這ふ百足(むかで)
        足一本も遊ばさず来る・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

百足(むかで)というのは噛まれるとひどく痛い害虫で、気持の悪い虫だが、樹木の茂る辺りから梅雨から夏にかけて住宅の中にまで侵入してくるから始末が悪い。
朝起きると枕元に大きなムカデが居て、ギョッとして大騒ぎになることがある。噛まれなかってよかった、ということになる。
以前住んでいた家は雑木林がすぐ近くにあったので夏にはムカデがよく家の中に入って来たものだ。
ムカデは節足動物だが、ムカデ綱に属する種類のうち、ゲジ目を除いた種類の総称で、日本には1300種類も居るという。
写真は何という名前の百足だろうか。写真を見て「おぞましい」と思う人は見ないでもらいたい。卒倒されたら困る。

このように気持の悪い虫だが、私の歌にある通り、ナラやクヌギなどの里山には、カブトムシなどと争って木の樹液を求めて出てきたりするのである。
ムカデにも肉食と、樹液などを吸いに来るものと二種類いるそうである。
私の歌は、そういう樹液に群がるムカデを詠んでいる。
物の本によると、
<ムカデは主に小さな昆虫を獲物にするほか樹液も餌にするため、カブトムシやクワガタと一緒に樹液場に現れことがあります。
樹液自体を餌にするのはもちろん、樹液に寄ってくる小型の昆虫を待ち伏せするためだと考えられます。>
と書いてあるから、私の記事は的外れでもなさそうである。
ムカデの動きを観察していると、私の歌の通り、あの多くの足をからませることもなく、すすすすと進んで来るのである。だから私は「足一本も遊ばさず来る」と表現してみた。

先に「害虫」だと書いたが、昔から、ものの本によるとムカデは「益虫」だと書いてあるという。
ムカデは百足虫とも、また難しい字で「蜈蚣」とも書いて、いずれもムカデと訓(よ)ませる。

 蜈蚣をも書は益虫となしをれり・・・・・・・・相生垣瓜人

という句にもある通りである。
以下、歳時記に載るムカデの句を引いて終わりたい。

 小百足を打つたる朱(あけ)の枕かな・・・・・・・・日野草城

 硬き声聞ゆ蜈蚣を殺すなり・・・・・・・・相生垣瓜人

 夕刊におさへて殺す百足虫の子・・・・・・・・富安風生

 百足虫出づ海荒るる夜に堪へがたく・・・・・・・・山口誓子

 ひげを剃り百足虫を殺し外出す・・・・・・・・西東三鬼

 殺さんとすれば百足も動顚す・・・・・・・・百合山羽公

 壁走る百足虫殺さむ蝋燭火・・・・・・・・石塚友二

 なにもせぬ百足虫の赤き頭をつぶす・・・・・・・・古屋秀雄

 三四日ぐづつく雨に百足虫出づ・・・・・・・・上村占魚

 殺したる百足虫を更に寸断す・・・・・・・・山口波津女

 百足虫出て父荒縄のごと老いし・・・・・・・・大隈チサ子


閑さや岩にしみ入る蝉の声・・・松尾芭蕉
蝉

   閑(しづか)さや岩にしみ入る蝉の声・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人」という有名な言葉で始まる『おくのほそ道』の旅は元禄2年5月27日に山形の立石寺に到達する。
この句は、そこで詠まれたものである。
もちろんこの日付は旧暦であるから今の暦では7月となるが敢えて今日の日付で載せることにする。
地元では「りっしゃくじ」と発音するとのことで、それに倣いたい。

今の所在地は山形市大字山寺という。
山寺駅の鄙びた駅舎を出ると、目の前にいきなり突兀たる山寺の山容が迫ってくる。別名・雨呼山、標高906メートル。長い石段をあえぎながら登る。
岩峰の一つ一つに堂塔が配され、壮観とも絶景とも言えよう。立谷川を渡るとまもなく根本中堂がある。
本尊は薬師如来で、貞観2年(860年)慈覚大師円仁の開山と伝えられる。
現在の根本中堂は天文12年(1543年)の再建とあるから、芭蕉が山寺を訪れた元禄2年(1689年)には、この建物は建っていたわけである。
『おくのほそ道』は、

<岩に巌を重て山とし、松柏年旧(としふり)、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。
岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。/閑さや岩にしみ入蝉の声>

と描きしるしている。

芭蕉の頃は、今のように「送り仮名」が統一されておらず、読みにくいが、おおよその意味は通じるだろう。
この「蝉の声」の句碑は、境内慈覚大師お手植えの公孫樹の木陰をくぐると、芭蕉の銅像と並んで立っている。
この山寺は恐山、早池峰山、蔵王山、月山、羽黒山などと共に東北における山岳信仰の代表的な山とされ、何よりも、この山の特徴は、
死後魂の帰る霊山と考えられていることである。
「開北霊窟」の扁額を掲げる山門をくぐると、奥の院までの石段は実に千数百段、中腹に芭蕉の短冊を埋めたという「蝉塚」がある。
もちろん書かれた句は「閑さや」であろう。
「奥の院」まで登る人は多くない。一般的には「山門」までで、私も、そうした。

ところで、芭蕉が訪れた時に、果たして「蝉」が鳴いていたか、という論議が古くから盛んである。
曾良『随行日記』には長梅雨の最中だったが、山寺の一日だけ晴れた、と書かれているが、晴れたからといって、その日だけ蝉が鳴いたというのも不自然である。

では、なぜ芭蕉は、此処で蝉の句を詠んだのか。

芭蕉は若き日、故郷の伊賀上野で藤堂主計良忠(俳号・蝉吟)に仕えた。
元禄2年は、旧主・蝉吟の23回忌追善の年にも当る

「岩にしみ入る」と詠まれた山寺の岩は、普通の岩塊ではなく、岩肌に戒名が彫られ、板塔婆が供えられ、桃の種子で作った舎利器が納められる。
つまり、あの世とこの世を隔てる入口なのである。
俗に「奥の高野」と言われ、死者の霊魂が帰る山に分け入り、死の世界に向き合った芭蕉が、
自分を俳諧の道に導いてくれた蝉吟を悼み、冥福を祈って「象徴的」に詠んだ句
──それが、この「閑さや」の句だ、という説がある

私は、この説に納得するものである。

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↑芭蕉と曽良の銅像(曽良は芭蕉の弟子で「奥の細道」の旅の同行者で日記を残している)
画面奥の銅像が芭蕉の像。両者の間に、芭蕉の句碑が立っている ↓
100520basyou_kuhi.jpg
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「山寺・立石寺」については、このサイトが写真で詳しい。
このサイトに芭蕉句碑の鮮明な写真があるので拝借したいと思ったが有料とのことで断念し、リンクをするにとどめた。ぜひアクセスしてみられよ。


みづからを思ひいださむ朝涼しかたつむり暗き緑に泳ぐ・・・山中智恵子
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     みづからを思ひいださむ朝涼し
         かたつむり暗き緑に泳ぐ・・・・・・・・・・・山中智恵子


いま二行に分けて書いてみたが、もちろん原歌は、ひと連なりの歌であるが、二行に分けて書いてみると、その感じが一層強くするのが判った。
この歌の上の句と下の句は、まるで連句の付け合いのような呼吸をもって結びついている。
事実、作者は一時期、連句、連歌に凝っていた時期がある。
この歌の両者は微妙なずれ、あるいは疎遠さを保って結びついているので、却って、結びつきが新鮮なのである。
この歌は字句を追って解釈してみても、それだけでは理解したことにはならないだろう。
叙述の飛躍そのものの中に詩美があるからである。
「みずからを思い出す」という表現は、それだけで充分瞑想的な世界を暗示するので、下の句が一層なまなましい生命を感じさせる。
大正14年名古屋市生まれの、独自の歌境を持つ、もと前衛歌人であったが平成18年3月9日に亡くなられた。
この歌は昭和38年刊『紡錘』所載。

先に、永田耕衣の「かたつむり」の句を挙げたので、それに対応してこの歌を掲出した。 掲出の画像は「ヒメマイマイ」というかたつむり。
以下、山中智恵子の歌を少し引く。
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   道の辺に人はささめき立春の朝目しづかに炎えやすくゐる

   わが戦後花眼を隔てみるときのいかにおぼろに痛めるものか

   ああ船首 人は美し霜月のすばるすまろう夜半めぐるらう

   さやさやと竹の葉の鳴る星肆(くら)にきみいまさねば誰に告げむか

   淡き酒ふくみてあれば夕夕(ゆふべゆふべ)の沐浴ありときみしらざらむ

   この世にぞ駅てふありてひとふたりあひにしものをみずかありなむ

   未然より未亡にいたるかなしみの骨にひびきてひとはなきかな

   秋はざくろの割れる音して神の棲む遊星といふ地球いとしき

   こととへば秋の日は濃きことばにてわれより若きガルシア・マルケス

   こもりくの名張小波多の宇流布志弥(うるぶしね) 黒尉ひとり出でて舞ふとぞ

   ああ愛弟(いろせ)鶺鴒のなくきりぎしに水をゆあみていくよ経ぬらむ

   ながらへて詩歌の終みむことのなにぞさびしき夕茜鳥

   意思よりも遠く歩める筆墨のあそびを思ひめざめがたしも

   きみとわれいかなる雲の末ならむ夢の切口春吹きとぢよ

   その前夜組みし活字を弾丸とせし革命よわが日本になきか

   くれなゐの火を焚く男ありにける怪士(あやかし)の顔ふりむけよいざ

   ポケットに<魅惑>(シャルム)秋の夕風よ高原に棲む白きくちなは



井上荒野『あちらにいる鬼』・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

     井上荒野『あちらにいる鬼』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・朝日新聞出版刊。初版2019/02/28 第五刷2019/05/30・・・・・・・・

掲出した図版でも読み取れるように、よく売れている本である。
「作者の父・井上光晴と、私の不倫が始まった時、作者は五歳だった」と瀬戸内寂聴が書くように、「スキャンダル」でなくて、何だろうか。
ところが、この本では、作者の母との「三角関係」が、普通ならば、ドロドロした愛憎劇になるところが、そうならず、譬えは悪いかもしれないが、「戦友愛」みたいなもので繋がっているように感じるのである。

カバー装の絵は、恩地孝四郎の「ポーズの内 憩」(『恩地孝四郎版画集』形象社刊)というものらしい。
大正末期より昭和初期にかけて起こった大衆文学ブームにより、本は庶民にとって身近な存在になり、出版社は次々と個性的かつ内容にふさわしいデザインの書籍を作った。
恩地孝四郎は明治24年に東京に生まれ、その生涯を通し、版画、詩、書籍の装幀、写真などの分野ですぐれた作品を遺した。

この本の「初出」は、「小説トリッパー」2016年冬季号から2018年秋季号に発表されたもの。
この本は、独特の編集がなされている。
「chapter 1 1966 春」  「みはる」 ~ 「chapter 5 1973、11、14」   「みはる」 「笙子」
「chapter 6 1978~1988」  「寂光」 ~ 「chapter 7 1989~1992」  「寂光」 「笙子」
「chapter 8 2014」   「寂光」 「笙子」

という風に章立てが進行してゆく。
「みはる」のちの出家後「寂光」は瀬戸内晴美のことであり、 「笙子」は井上光春の妻のことである。
小説とは言っても、限りなくルポルタージュに近い。もちろん、小説であるから作者の創作になる部分も多いだろう。
別段に引いた「対談」にもあるように、瀬戸内晴美の証言から多くの部分が引かれているだろう。
だから、小説としてのプロットは秀でたものがあるが、細かい点では私小説と言っていいだろう。
この本で、作者の井上荒野は「海里」という名前で登場する。

小説の最後は、こう描写されている。

<目が覚めると篤郎はもういなかった。きっと私が眠ってしまったから、自転車で散歩にでも行ったのだろう。
 私も行こう、今出れば追いつくだろう。・・・・・
    さようなら。
 私は呟く。そうしなければならないことが不意にわかったのだ。だがそのとき、私は自分の娘たちのことも、長内さんのことも考えていなかった。
 ただ篤郎のことだけを考えている。>
  

私が下手な紹介をするより、下記の記事を読んでみてもらいたい。 ↓

※AERA 2019年2月18日号より抜粋
不思議な三角関係について、瀬戸内寂聴と語り合った。
*  *  *
瀬戸内寂聴(以下寂聴):この作品を書く前、もっと質問してくれて良かったのよ。

井上荒野(以下荒野):『あちらにいる鬼』はフィクションとして書こうと思ったので、全部伺ってしまうよりは想像する場面があったほうが書きやすかったんです。

寂聴:そうでしょうね。荒野ちゃんはもう私と仲良くなっていたから。そもそも私は井上さんとの関係を不倫なんて思ってないの。井上さんだって思ってなかった。今でも悪いとは思ってない。たまたま奥さんがいたというだけ。好きになったらそんなこと関係ない。雷が落ちてくるようなものだからね。逃げるわけにはいきませんよ。

荒野:本当にそうだと思います。不倫がダメだからとか奥さんがいるからやめておこうというのは愛に条件をつけることだから、そっちのほうが不純な気がする。もちろん大変だからやらないほうがいいんだけど、好きになっちゃったら仕方がないし、文学としては書き甲斐があります。大変なことをわざわざやってしまう心の動きがおもしろいから書くわけで。

寂聴:世界文学の名作はすべて不倫ですよ。だけど、「早く奥さんと別れて一緒になって」なんていうのはみっともないわね。世間的な幸福なんてものは初めから捨てないとね。

荒野:最近は芸能人の不倫などがすぐネットで叩かれますが、怒ったり裁いたりしていい人がいるとしたら当事者だけだと思うんですよね。世間が怒る権利はない。母は当事者だったけれど怒らなかった。怒ったら終わりになる。母は結局、父と一緒にいることを選んだんだと思います。どうしようもない男だったけど、それ以上に好きな部分があったんじゃないかって書きながら思ったんです。

寂聴:それはそうね。

荒野:母は父と一緒のお墓に一緒に入りたかった。お墓のことはどうでもいい感じの人だったのに。そもそも寂聴さんが住職を務めていらした天台寺(岩手県二戸市)に墓地を買い、父のお骨を納めたのも世間的に見れば変わっていますよね。自分にもう先がないとわかったとき、そこに自分の骨も入れることを娘たちに約束させました。

寂聴:私が自分のために買っておいた墓地のそばにお二人で眠っていらっしゃるのよね。

荒野:私には、母が父を愛するあまり何もかも我慢していたというより、「自分が選んだことだから、夫をずっと好きでいよう」と決めたような気がするんです。だから『あちらにいる鬼』は、自分で決めた人たちの話なんです。

寂聴:そうね。

荒野:そもそも母は、寂聴さんのことはもちろん、ほかの女の人がいるってことを私たちの前で愚痴を言ったり怒ったりしたことは一度もない。父が何かでいい気になっていたりすると怒りましたけどね。

寂聴:思い返すと私はとても文学的に得をしたと思いますよ。以前は井上さんが書くような小説を読まなかったの。読んでみたらおもしろかったし、彼の文学に対する真摯さは一度も疑ったことがない。だから、井上さんは力量があるのにこの程度しか認められないということが不満でしたね。井上さんは文壇で非常に寂しかったの。文壇の中では早稲田派とか三田派とかいろいろあって、彼らはバーに飲みに行っても集まる。学校に行ってない井上さんにはそれがなかった。みんなに仲良くしてもらいたかったんじゃなかったのかしら。孤独だったのね。だから私なんかに寄ってきた。

荒野:父はいつもワーワー言ってるから場の中心にいたのだと思っていましたが、違ったんですね。確かに父にはものすごく学歴コンプレックスがありました。アンチ学歴派で偏差値教育を嫌っていたのに、私のテストの点数や偏差値を気にしていましたね。相反するものがあった。自分のコンプレックスが全部裏返って現れている。女の人のことだってそうかも。

寂聴:「俺が女を落とそうと思ったら全部引っかかる」って。

荒野:女遊びにも承認欲求があったのかもしれない。寂聴さんから文壇では孤立していたと伺ってわかる気がしました。そういえば以前、「寂聴さんがつきあった男たちの中で、父はどんな男でした?」とお尋ねしたら、「つまんない男だったわよッ」とおっしゃいましたよね(笑)。

寂聴:私、そんなこと言った? ははは。いや、つまんなくなかったわよ。少なくとも小説を書く上では先生の一人だった。

荒野:『比叡』など父とのことをお書きになった作品でも設定は変えていらっしゃいますね。父の死後はお書きにならなかったですが。

寂聴:もうお母さんと仲良くなっていたからね。井上さんは「俺とあんたがこういう関係じゃなければ、うちの嫁さんと一番いい親友になれたのになあ」と何度も言っていた。実際にお会いしたら、確かに井上さんよりずっと良かった。わかり合える人だったし。

荒野:最終的には仲良くしていただきましたよね。いちばんびっくりしたのは死ぬ前に母がハガキを寂聴さんに書いたということ。私にも黙っていたから。

寂聴:ハガキは時々いただきましたよ。私が書いた小説を読んでくれて、「今度のあの小説はとても良かった」って。自分ではよく書けたと思っていたのに誰も褒めてくれなかったから、すごく嬉しかった。本質的に文学的な才能があったんですよ。だから井上さんの書いたものも全面的に信用してなかったと思う。

荒野:小説についてはフェアな人でした。私の小説もおもしろいときはほめてくれるけど、ダメだと「さらっと読んじゃったわ」ってむかつくことをいう。父は絶対けなさなかったのに。

寂聴:井上さんはあなたが小さい頃から作家になると決めていたの。そうじゃなかったら「荒野」なんて名前を誰がつける?

荒野:ある種の妄信ですよね。

寂聴:今回の作品もよく書いたと思いますよ。売れるといいね。テレビから話が来たら面倒でも出なさいよ。テレビに出たら売れる。新聞や雑誌なんかに出たって誰も読まないからね。

荒野:はい(笑)。

(構成/ライター・千葉望)
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何とも凄い「作家根性」ではないか。

瀬戸内寂聴が頼まれて住職を務めている岩手県の僻地の、つぶれかかった「天台寺」のために、自分の稼いだ原稿料や印税をつぎ込んで再興し、千人を超す人々に「法話」の会を催し、墓地を分譲して浄財を募る、などしてきた。
その墓地の一画に瀬戸内さんの予定区画もあるらしいが、その傍に井上光晴と妻が眠るのを希望した、という。
この三角関係の何とも麗しいことではないか。

瀬戸内晴美の出家の「師僧」は「今東光」であり、1973年11月の瀬戸内晴美の中尊寺での出家得度に際しては、師僧となり「春聽」の一字を採って「寂聴」の法名を与えた。

終わりに、言っておきたいことがある。
それは、リンクに引いた対談の中で井上荒野が言っていることだが、

<これが小説だからですよね。ルポルタージュではなく、基本的には私の創作です。
父であり母である人のことを書いているけれど、私にとっては彼らは小説の登場人物なんです。
だから、この三人の事実を書いたわけではなくて、私にとっての、この三人の真実を書いたんだなって思います。>

アンダーラインを引いたのは私だが、「事実」と「真実」とは違うということを彼女が指摘していることは、的確で、凄いことだと思う。
このことを強調しておきたい。

井上荒野
1961年生まれ。1989年「わたしのヌレエフ」でフェミナ賞。2004年『潤一』で島清恋愛文学賞。2008年『切羽へ』で直木賞。
2011年『そこへ行くな』で中央公論文芸賞。2016年『赤へ』で柴田錬三郎賞。2018年『その話は今日はやめておきましょう』で織田作之助賞受賞。など。

「井上光春」などはWikipedia などを参照されたい。
リンクになっています。 ↓ 読んでみてください。
「井上荒野」対談
「作家の読書道・井上荒野」


角川書店「短歌」六月号掲載作品「cogito, ergo sum」12首・・・木村草弥
草弥_NEW

草弥②_NEW

800px-Frans_Hals_-_Portret_van_René_Descartesデカルト
↑ デカルト肖像
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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──草弥の詩作品「草の領域」──(93)

     「cogito, ergo sum」12首・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
           ・・・・・・角川書店「短歌」六月号掲載・・・・・・

      cogito, ergo sum   木村草弥

   ユリシーズの時代には肉体が見事だというだけで英雄になれた

   今では貧弱な肉体の持ち主がコンピュータを操って巨万の富をかせぐ

   むかし「若者よ体を鍛えておけ」という歌が流行った

   作者は獄中十数年という経歴の持ち主の詩人だった

   「美しい心が逞しい体に支えられる日がいつかは来る」

   と、その人は言った。ひろし・ぬやまという詩人だった

   その昔「自由律」というだけで刑務所にぶち込まれた俳人が居る

   デカルトは「cogito(われ考える), ergo(ゆえに) sum(我あり)」と言った

   デカルトの研究者というだけで三木清は獄死した

   北原白秋に「時局」を諭され前田夕暮は自由律から定型へ復帰した

   香川進大尉は「自由律歌人」だからと陸士出の将校に殴打された

   「自由」というだけで何でや?今どきの若者よ、それが時代の狂気なのだ
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このたびは、自由律、新かなづかい、に致しました。第三歌集『樹々の記憶』に連なるものです。

ここで、「デカルト」について少し書いておく。
考える主体としての自己(精神)とその存在を定式化した「我思う、ゆえに我あり」は哲学史上でもっとも有名な命題の1つである。
そしてこの命題は、当時の保守的思想であったスコラ哲学の教えであるところの「信仰」による真理の獲得ではなく、人間の持つ「自然の光(理性)」を用いて真理を探求していこうとする近代哲学の出発点を簡潔に表現している。
デカルトが「近代哲学の父」と称される所以である。

ただし、デカルトはそのすべてを信仰も根ざして考えており、著書『方法序説』においても神の存在証明を哲学的にしようと試みてさえいる。
初めて哲学書として出版した著作『方法序説』(1637年)において、冒頭が「良識(bon sens)はこの世で最も公平に配分されているものである」という文で始まるため、思想の領域における人権宣言にも比される。
また、当時学術的な論文はラテン語で書かれるのが通例であった中で、デカルトは『方法序説』を母語であるフランス語で書いた。その後のフランス文学が「明晰かつ判明」を指標とするようになったのは、デカルトの影響が大きい、ともいわれる。

私が大学に居たとき、哲学の演習で、テキストにデカルトの『省察』(メディタティオーネス)が採用され、担当の先生は、辻村公一さんであった。 ←リンクになっているのでアクセスされよ。
この本は岩波文庫の一冊になっていたが、訳者は三木清になっている。この本はラテン語で書かれている。
こういう翻訳の場合、「下訳」として何人かがやることが多いが、この本の場合も、辻村公一さんが当たられたらしい。
そのことは、この教室で辻村さん自身から聞いた。
この演習は二学年度だっと思うが、四月から勉強が始まり、夏休み中にレポートとしてまとめるように、という課題が出た。
何とか苦心して、その頃流行っていたアランの本なんかも読み込んで、九月の新学期に提出。90点の成績をもらったのを覚えている。
私の歌の中で書いたように、三木清は戦争末期に投獄され、すでに獄死していて、戦争が終わっても娑婆に生きて帰ることは叶わなかった。
三木清の投獄については「治安維持法違反の或る被疑者に服や金銭を与えた」という事情があるが、私の歌では単純化してあるから念のため。
なお、「岩波文庫」が創刊された際に、巻末に載る「読書子に寄す」の草稿は三木清によって書かれたものだという。
辻村先生についても、私が習ったときは先生も若かったのだが、のちに京都大学文学部哲学科主任教授になられたのである。
そういう私の「極私的な」思い出も、この一連の中には含まれていることを想起していただきたい、のである。

参考までに書いておく。
今でも、そうだと思うが、京都大学文学部文学科では、西欧語を専攻すると、「ラテン語」か「古代ギリシア語」の履修が必須となる。
これらの言語から、現代の西欧語が派生した、と考えられているためである。
現にフランスの大学教育ては、ラテン語が必修であるらしい。この二つは、現在は、現実に使われている訳ではない。「話者」も居ない。
イギリス議会では、開会式にエリザベス女王が、ラテン語で開会の演説をする、という習慣があるらしい。
私は「ラテン語」を選択した。担当はイタリア文学科の野上素一教授で、一年間学んだのであった。

この12首の欄は「短歌」誌の巻頭作家欄に次ぐもので、基本的に「結社の主宰者」 「有望な作家」に指定して投稿を求められるものである。
これには安いが原稿料が頂ける。 有難いことである。






みほとけの千手犇く五月闇・・・能村登四郎
sanjusan3.jpg
 ↑ 京都・三十三間堂の千手観音の一部

    みほとけの千手犇く五月(さつき)闇・・・・・・・・・・能村登四郎

今日5月24日は能村登四郎の忌日である。
それに因んで記事を載せる。

昼なお暗い五月雨(さみだれ)どき。大寺の御堂の中にたたずんでいると、不意に眼前に立つ千手観音の手がひしめくような気配を感じたのである。
この観音は多分大きな仏像であろう。
五月闇と言われるほど陰鬱な梅雨時の薄暗がりの中で、長い歳月を経た仏像に秘められている魔性が、ふとざわめいたような思いのする肌寒さ。
「千手犇く」が次の「五月闇」と重なって、仏像のある意味では不思議に官能的な側面を引き出している。
千手観音像は普通40本の手で表わされる。
掌中にはそれぞれ一眼を備え、一本の手毎に二十五有(う)を救うとされているところから、25×40=1000で「千手」と言われる。

昭和59年刊『天上華』に載る。

能村登四郎は明治44年東京生まれ。国学院大学卒。水原秋桜子に師事。「沖」主宰。
第8句集『天上華』で1984年「蛇笏賞」受賞。第11句集『長嘯』で1993年第8回「詩歌文学館賞」受賞。
平成13年没。

↓ 写真②は、石川県七尾市和倉温泉に建つ能村の句碑である。 <春潮の遠鳴る能登を母郷とす  登四郎>
略歴には、みな「東京生まれ」と書かれているが、この句のように、彼は石川県の「能登」を母郷としている、と言う。
この句碑の説明文によると、祖父が、ここの出身だという。

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すこし能村の句を引く。

 くちびるを出て朝寒のこゑとなる

 ぬばたまの黒飴さはに良寛忌

 寡作なる人の二月の畑仕事

 妻のほかの黒髪知らず夜の梅

 白鳥の翅もぐごとくキャベツもぐ

 梅漬けてあかき妻の手夜は愛す

 白川村夕霧すでに湖底めく

 優曇華や寂と組まれし父祖の梁

 秋蚊帳に寝返りて血を傾かす

 花冷えや老いても着たき紺絣

 夢の世と思ひてゐしが辛夷咲く

 男梅雨かな三日目は蘆伏して

 朴散りしのち妻が咲く天上華

 墓洗ふみとりの頃のしぐさにて

 秋蒔きの種子とてかくもこまかなる

 ほうたるの火と離れたき夜もあらむ

 今思へば遠火事のごとくなり

 ゆつくりと来て老鶴の凍て支度
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あたらしき声出すための酢牡蠣かな
おぼろ夜の霊のごとくに薄着して
きのふてふ遥かな昔種子を蒔く
すぐ帰る若き賀客を惜しみけり
たわいなき春夢なれども汗すこし
てのひらの艶をたのめる初湯かな
ひだり腕すこし長くて昼寝せり
べつたりと掌につく春の樹液かな
むばたまの黒飴さはに良寛忌
ゆつくりと光が通る牡丹の芽
よき教師たりや星透く鰯雲
ガニ股に歩いて今日は父の日か
一雁の列をそれたる羽音かな
一撃の皺が皺よぶ夏氷
一度だけの妻の世終る露の中
羽蟻ふり峽のラジオは悲歌に似て
煙管たたきて水洟漁夫の不漁(しけ)ばなし
遠い木が見えてくる夕十二月
夏つばめ同齡者みな一家なす
火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ
火取虫男の夢は瞑るまで
花冷えや老いても着たき紺絣
潟人の大長靴が枯るゝ戸に
葛の花遠つ江(あふみ)へ怨み文
気に入りの春服を出す心当て
去年よりも自愛濃くなる懐手
教師に一夜東をどりの椅子紅し
教師やめしその後知らず芙蓉の實
隙間入る雪四十なる平教師
月明に我立つ他は箒草
己が糞踏み馬たちに冬長からむ
吾子すがる手力つよし露無量
今思へば皆遠火事のごとくなり
今日の授業誤ちありし青葉木萸
紺の厚司で魚賣る水産高校生
妻死後を覚えし足袋のしまひ場所
削るほど紅さす板や十二月
鮭の切身の鮮紅に足止むる旅
子とみれば雪ゆたかなり童話劇
子にみやげなき秋の夜の肩車
子等に試驗なき菊月のわれ愉し
紙魚ならば棲みてもみたき一書あり
秋づきし母の嶺負ひし檜挽き
秋燕をくらきが吸ふ遠山家
秋風に突き当りけり首だせば
春ひとり槍投げて槍に歩み寄る
初あかりそのまま命あかりかな
身にしみて一つぐらいは傷もよし
甚平を着て今にして見ゆるもの
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明治44年に東京に生まれる。
国学院大卒。市川高校に40年勤務し、俳人として活躍する。戦前から水原秋桜子の「馬酔木」に投句し昭和24年に同人となる。
昭和45年俳誌「沖」を創刊し平成13年春まで主宰。
昭和31年句集『咀嚼音』で現代俳句協会賞、昭和60年句集『天上華』で蛇笏賞、平成4年『長嚼』で詩歌文学館賞を受賞し、俳壇の賞を総なめにした。
身辺の日常の中に幻想や心象を見るイメージ俳句を追求し評論もおこなっていた。
代表句に「春ひとり槍投げて槍に歩み寄る」がある。
平成13年5月24日八幡にて逝去。

かたつむりつるめば肉の食い入るや・・・永田耕衣
sizen266カタツムリ

     かたつむりつるめば肉の食い入るや・・・・・・・・・・永田耕衣

永田耕衣は明治33年兵庫県生まれの現代俳壇の長老の一人だった。
戦後、東洋的無の立場を裏づけにもつ「根源俳句」の主張で注目を浴びたが、仏教とくに禅への関心が深く、現代俳句における俳味と禅味の合体、
その探求者と言えば、先ずこの作者をあげる必要があるという。
この「かたつむり」の句は、そのような俳人の面目躍如とした作で、清澄な心境と混沌たる性的世界への凝視とが一体化したような力強さと、一面、面妖な迫力がある。
「つるめば肉の食い入るや」という観察は、対象がかたつむりであるだけに、何とも粘着力のある、一読忘れ難い印象を与える。
性を詠んで性を突き抜けているのだ。昭和27年刊『驢鳴集』所載。

永田耕衣は「阪神大震災」に遭遇し、これを題材にした秀句があるが、いま手元にないので引くことが出来ない。それまでの時期の句を引きたい。
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 夢の世に葱を作りて寂しさよ

 夏蜜柑いづこも遠く思はるる

 野遊びの児等の一人が飛翔せり

 厄介や紅梅の咲き満ちたるは

 梅雨に入りて細かに笑ふ鯰かな

 近海に鯛睦み居る涅槃像

 蛍火を愛して口を開く人

 泥鰌浮いて鯰も居るというて沈む

 野を穴と思い跳ぶ春純老人

 白桃を今虚無が泣き滴れり

 夢みて老いて色塗れば野菊である

 淫乱や僧形となる魚のむれ

 生き身こそ蹤跡無かれ桃の花

 我が頭穴にあらずや落椿

 男老いて男を愛す葛の花

 薄氷や我を出で入る美少年

 いづこにも我居てや春むづかしき

 桃の花道在ることに飽きてけり

 空蝉に肉残り居る山河かな

 強秋や我に残んの一死在り

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ネット上から「もう一つの仏教学・禅学 」という記事を転載しておく。
永田耕衣のことが詳しく書いてある。写真②は「耕衣自伝」(1992年沖積舎刊)
024kouijiden耕衣自伝

根源俳句、永田耕衣
根源俳句 人間を探求した俳人
永 田 耕 衣 の 生 涯


参考文献
(A)『永田耕衣』    俳句文庫 春陽堂
(B)『生死』 「永田耕衣句集]  ふらんす堂
(C)『部長の大晩年』 城山三郎  朝日新聞社
(D)雑誌『俳句』平成10年2月(永田耕衣特集) 角川書店

「 」は、参考文献からの引用。例えば(C28)は上の参考文献Cの28頁を表す。

幸福とは言えない幼少時代
明治三十三年(1900) 1月21日、兵庫県加古郡尾上村(現在、加古川市尾上町)に生まれる。本名軍二。父岩崎林蔵は村役場収入役。
明治三十九年(1906)[6歳]父母と同居のまま母系永田家を継ぐ。 父母の仲は悪かった。母親が家を出て長く帰らぬこともあった。母が家出するころには、兄や姉も家を離れており、家には耕衣ひとり残された。
大正三年(1814)[14]兵庫県立工業学校入学。文学誌を発行。 俳句に関心を持つほか映画・演劇にも興味を持つ。
大正八年(1919)[19]勤務の三菱製紙高砂工場にて抄紙機で右指組織潰滅の負傷。

禅との出会い
このころ、禅哲学に興味を抱く。
「最初は禅そのものを求めてというより、縁を生かし、好奇心につられてのこと。この大怪我のため静養中、実家が檀家でもある祥福寺で、新住職を迎えての晋山式(しんざんしき)があり、そこで法戦が行われると聞いて出かけて行った。」(C37)
「禅に親しみ始めたのは二十歳位の頃でしたな。生まれ故郷のお寺で禅問答が公開されたのを見聞に言ったときからです。その師家に雲水が、「青島」(チンタオ)へ行ってこられたそうですが、何か珍しいことがありましたか」と問う。師僧がその雲水を説き伏せる意味で「雀はチュウチュウ、カラスはカアカア」と答えるが早いか、その雲水の肩をシッペイでパ-ンと打ったんです。そういうことが実に印象的でしたね。何となく禅というものは面白いと思いました。」(A20)
「このことがおもしろくて、耕衣は高僧の法話や座禅の催しがあると知ると出かけ、ときには、これはと思う禅寺を一人で訪問した。 秋の夕暮れ、訪ねて行った臨済宗の寺の老師は、闇の迫る中で、灯火もつけず、「禅というのは、厄介なものや」
禅修行で悟りを開いたはずなのに、一歩退いたところから、そんな風に眺める「ユトリ」といったものがあり、耕衣はさらに興味をかきたてられたりし、以後、生涯にわたって禅への関心は消えなかった。 もっとも、それはあくまで気ままに、高僧を訪ねたり、道元や西田幾多郎の著作を通じて学ぶということであって、荒行や修行の類とは無縁。その時間がないというより、それらが一つの型式、一つの型に人間をはめこみ、その中での自己陶酔になりかねぬ、と感じたからである。」(C37)

文芸活動
大正九年(1920)[20]右腕負傷のため兵役免除。結婚。毎日新聞兵庫県版付録俳句欄に初投句。 このころ大阪の俳誌『山茶花』に投句。
昭和三年(1928)[28]武者小路実篤の文学に心酔。「新しき村」入村を志すが、手の障害では農作業は無理だと断念、村外会員となる。 村の機関紙「新しき村」昭和3年6月号に短編小説『秋風』が掲載される。
昭和四年(1929)[29]このころ俳誌『山茶花』から『鹿火屋』(原石鼎主催)にのりかえる。 「鶏頭陣」(小野撫子主催)にも投句。古陶趣味の影響を撫子より受ける。このころ原石鼎敬慕。
昭和十年(1935)[35]主宰俳誌「蓑虫」を創刊。(十六号で休刊)

地元の俳誌加入を拒否される
「地元で新たな俳誌ができ、加入を申し込んだところ、耕衣が「ホトトギス」系でない「鹿火屋」誌などに関係していたという理由で拒絶された。」(中略) (原石鼎の句「淋しさにまた銅鑼(どら)打つや鹿火屋守」はーー) 「孤独の深さをうたう美しい句だが、写生中心のホトトギス系の世界からは遠いとされ、ついでに耕衣も敬遠された。

自ら、句誌「蓑虫」を創刊
俳句の世界にも、派閥や縄張り意識があるのかと、耕衣は興ざめしたが、そこでくさることなく、それならそれでと、工場内で関心のありそうな仲間に声をかけ、四十人を集めて、句誌「蓑虫」を創刊、その中の何人かを撫子の「鶏頭陣」誌にも紹介した。」(C55)
昭和十二年(1937)[37]文化趣味の会「白泥会」を結成。棟方志功・河井寛次郎らに接し、民芸の精神を養う。白泥会は、高砂の工楽(くらく)長三郎(造船、海運で財をなした)邸で行われた。

<棟方志功とのつきあい>
「長三郎は芸術や文化への関心が強く、若手の芸術家や学者を招いて、土地の同期の人々と共に話を聞く集いを持つようになった。会の名は「白泥会」。」(C22)
「耕衣は、この白泥会で志功の話を聞くだけでなく、会が無い日でも志功が工楽邸に泊まるときには、欠かさず訪ねて話こんだ。(中略) 二人には、禅や謡曲といった共通の話題もあったが、何より「もう一つの仏教学・禅学 」も創作への姿勢という面で共鳴し合った。「根源」とか「第一義」とかを問題にし、写生よりも、自己主張や観念を打ち出す。泥くさく見られたりすることなど、念頭にない。」(C22)
昭和十五年(1940)[40]「鶴」に投句、のち同人。思想弾圧下の時勢下で小野撫子より警告を受ける。

写生とは違う俳句へ
「俳壇で主流を占めてきたのは、高浜虚子が主催する「ホトトギス」派で、正岡子規の写生説を忠実に守り、花鳥諷詠を中心に置いた俳句づくりをというものであったが、一部の俳人たちはそれにあきたらず、昭和に入ってからの社会不安や軍国主義のひろがりの中で、人生や社会をも見つめ、また写生にとらわれぬ句をと、「ホトトギス」から脱退、「京大俳句」「旗艦」「馬酔木」(あしび)などの句誌を出し、俳句革新運動をはじめた。季語のない句をつくるなどもし、「新興俳句」の名で呼ばれた。
人間として爆発するように生きたいとする耕衣は、花鳥諷詠の「ホトトギス」派とはもともと波長が合わなかったが、といって「革新運動」などという組織的な活動に加わるのもにが手。
しかし、その新しい運動の中で、自分の句がどう評価されるかには興味があり、日野草城主催の「旗艦」に投句してみた。だが、思ったほどの反応がないため、一年ほどでやめ、今度は石田波郷主催の「鶴」に投句したところ、三ケ月で同人に推された。」(C63)

新興の俳人の思想弾圧
昭和15年2月「京大俳句」の平畑静塔ら8人が、治安維持法違反で検挙される。
 5月、東京の同人四人も逮捕。
 8月、西東三鬼が逮捕される。
昭和16年2月、秋元不死男が逮捕される。
 逮捕者15名中3名起訴され、残りの人は数カ月から一年拘置され、釈放されたが、「執筆禁止」を言い渡された。 こういう状況にあって、小野撫子が体制側にあって俳句を検閲していたらしく、小野から耕衣に警告の知らせが届いた。耕衣は上京し、小野にあい、しばらく句作を中断する旨、伝えた。だが、しばらくして小野に無断で、名前を変えて石田波郷の俳誌「鶴」に投句。

戦争中参禅
「早く禅の道へ踏みこんでいた彼は、俳句に注いでいた時間の一部を禅にふり向け、時間をつくっては、神戸祥福寺の臥牛軒老師を訪ね、年末の臘八接心(ろうはつせっしん)に参禅したりした。
動き出してしまうと止まらなくなるのが、耕衣の常である。祥福寺だけでなく、近くの明石や加古川の禅寺へも出かけた。また、禅に明るい哲学者西田幾多郎の著作を人にすすめられ、読みはじめると、これまた夢中になり、次々に読みふけった。 こうして禅への親しみが深まると、彼は自分一人がその法悦に浸っていては申し訳ない、という気がしてきた。
このため、会社でのクラブ活動の一つとして座禅会をつくり、加古川の寺の和尚を招いて提唱を聞くことにしたところ、工場長はじめ三十人ほどが参加するようになった。」(C77)

戦後、独自の道へ
昭和二十二年(1947)[47]石田波郷・西東三鬼が来て一泊。三鬼が耕衣の句を激賞。「現代俳句協会」会員に推される。
昭和二十三年(1948)[48]西東が中心の「天狼」同人となる。「根源探求論」を展開する。
「天狼」が「他の結社との重籍を認めず」という規約があったため、「鶴」「風」同人を辞退。

自由を縛る「天狼」に嫌気
「その句が純ホトトギス系でないという理由で、播磨の俳誌グループへの入会を断られことが戦前にはあったが、戦後、また似たようなことが始まったのか、と。

「マルマル人間」
結社があって俳人があるわけでなく、俳人たちが「マルマル人間」として自由に集まる組織が結社のはずであり、それ以上のものでも、それ以下のものでもないはずではないか -。 三鬼との間に、こうして思いがけぬ隙間風が吹くようになった。」(C100)
昭和二十四年(1949)[49]「琴座」(リラザ)創刊、主宰となる。 (「琴」のギリシャ語から、リラ座と呼ぶ。)
昭和二十七年(1952)[52]三菱製紙高砂工場製造部長となる。
昭和二十八年(1953)[53]「天狼」を脱会。「鶴」同人に復帰。

孤高の道
禅僧との交わり

「耕衣は志功を訪ねたが、当時、逆に耕衣との議論を好み、須磨の家まで訪ねてきた別世界の人が居る。
神戸祥福寺の師家、山田無文。
たまたま耕衣とは同年だが、その説法は評判が高く、後に臨済宗妙心寺派管長となる。花園大学学長もつとめ、国際的にも知られた高僧だが、生活は質朴。文化勲章も拒否する気骨の人であった。」(C25) 《(注)昭和28年から祥福寺の師家。》
「手の障害のせいもあって、耕衣は旅を苦手としたが、東京出張の機会を活かし、社用が終わると、朝比奈宗源などの禅僧や、俳人たちを訪ねたが、それは耕衣がそのときどきに興味や関心を持った相手ということであって、このため、「天狼」以外の俳人とばかり接触していると、うわさする声もあった。
このため、耕衣は「天狼」を去った。
戦前、大結社の「ホトトギス系」に拒まれたため、結果的に新興俳句の流れとして扱われた耕衣だが、その流れの延長上に在る「天狼」からも離れることで、耕衣はいわゆる結社らしい結社とは無縁の生き方をすることになった。」(C116)
昭和三十年(1955)[55]定年退職。赤尾兜子・橋門石らと研鑽のため「半箇の会」を結成。 毎日新聞神戸版俳句欄選者となる。

退職後、読書に時間をさく。詩人の西脇順三郎、歌人、斎藤茂吉に傾倒。 禅に造詣の深い詩人、高橋信吉にも。
昭和三十一年(1956)[56]神戸在住の金子兜子を知る。
昭和三十三年(1958)[58]「俳句評論」創刊とともに同人となる。
昭和三十七年(1962)[62]「現代俳句協会賞」審査員。
昭和三十八年(1963)[63]初の書作展を神戸新聞会館で開く。
昭和四十四年(1969)[69]東京三越本店で「書と絵による永田耕衣展」を開催。
敬慕の西脇順三郎と初対面のほか多くの出会いを得る。津高和一展(西宮)で須田剋太と初対面。

<棟方志功が祝辞>
「昭和四十四年には、東京の三越本店美術サロンで、「書と絵による永田耕衣展」を。このときには、そのカタログに西脇順三郎らの跋(ばつ)とともに、棟方志功がいかにも志功らしい次のような祝辞を寄せた。
<禅機ということを聞く。永田耕衣氏の書は同意から生まれていると機す。書くというよりも「機す」とその意を介した方がよくまた解した事でもよい。ヨロコンダリ。ワラッタリ。ベソカイタリ。アカンベイヲ、シタリ。ナキヤマナイヨウ、ダッタリ。ダダヲコネタリ。お終いにはスヤスヤねむって仕舞って、ひとり笑いしている様な書を生むのを得意としているこの人の書は、滅多に他に無いようだ。羨ましい。>」(C139)
昭和四十六年(1971)[71]「銀花」第7号で耕衣の書画が特集される。須永朝彦・高橋睦郎来訪。
昭和四十七年(1972)[72]ラジオ関西で「山頭火について」4回放送。
昭和四十九年(1974)[74]舞子ビラにて全句集「非佛」出版記念会が開かれる。神戸市文化賞受賞。
昭和五十年(1975)[75]「琴座」300号で俳句的信条<陸沈の掟>十一ケ条を提示。
昭和五十一年(1976)[76]吉岡実編「耕衣百句」に対する丸谷才一の評文が朝日新聞に掲載される。
昭和五十六年(1981)[81]神戸新聞社「平和賞」受賞。
昭和五十九年(1984)[84]兵庫県文化賞受賞。
昭和六十一年(1986)[86]妻ユキエ死去。
平成二年(1990)[90]第2回「現代俳句協会大賞」受賞。
平成三年(1991)[91]第6回「詩歌文学館賞」受賞。

遅すぎる受賞
「長い長い積み上げがあって、耕衣句はようやく世間の目に触れるようになった。
昭和六十年には、朝日文庫の「現代俳句の世界」シリーズで、『永田耕衣 秋元不死男 平畑静塔集』が刊行され、平成三年には薄く小型の選句集『生死』(ふらんす堂)、その翌年には『永田耕衣』が春陽堂俳句文庫の一冊として出た。」(C199)
「俳句関係には早くから大小さまざまな賞があったが、耕衣に対する全国版の賞は、はじめてのことであった。
句歴が長いだけでなく、耕衣はたしかにここ数年も力作、異色作を発表し続けてきた。(中略)
あまりにもおそい受賞ともいえた。
俳壇から孤立というか、異端視されてきた耕衣としては、手放しでよろこぶという具合には行かない。
そこで、次の一句。
「褒貶(ほうへん)をひねり上げたり鏡餅」」(C193)
平成七年 [95歳] 一月、阪神大震災によって自宅全壊。2階のトイレに閉じ込められたが救出され、天理教の講堂に避難。
2日後、市内の同人の家に避難
半月後、寝屋川の特別養護老人ホームへ移る。車椅子が必要になる。
同人が、自宅から書籍を発掘して姫路文学館に収める。
六月、大阪で「耕衣大晩年の会」を開催、150人集まる。
平成八年 [96歳] 五月、神戸で「大晩年耕衣書画展」
朝食に向かう途中、ころんで、左上腕骨を折り、書けなくなる。
平成九年 [97歳] 『琴座一・二月合併号』で廃刊。
八月25日、死亡。泉福寺に墓地がある。(ここには埋葬されていないという


ネウマ譜の起伏のごとき午睡かな・・・島本融
a0136223_17372262ネウマ譜
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──再掲載──初出2004/04/29 Doblog──「島本融の詩と句」(再掲載にあたり編集し直しました)

     ネウマ譜の起伏のごとき午睡かな・・・・・・・・・・・・・島本融

「午睡」というのは夏の季語だが、もう夏日の気温の日がつづく昨今であるので、もう夏「仕様」で行きたいと思う。
ところで「ネウマ譜」については ← Wikipediaに詳しい。
ネウマ譜というのは一般的にはグレグリオ聖歌の表示法として知られるが、「ネウマ」とは中世の単旋律歌曲の記譜で使われた記号。
旋律の動きや演奏上のニュアンスを視覚的に示そうとしたものが基本。
ネウマ譜とは、上に述べたネウマを使った記譜法。
9世紀頃現われ、高音を明示しないネウマ、高音ネウマ(ダイアステマ記譜法)を経て、やがて11世紀から「譜線ネウマ」へ移行する。
ネウマ譜は先に述べたようにグレゴリオ聖歌の表示法として知られるが、中世の世俗的歌曲も、貴族の館を中心に「吟遊詩人」の歌として流行した。
単声で、譜線ネウマ譜で表わしていた。
最初は、歌詞の上に記号をつけただけだったが、10世紀頃イタリアやイギリスで譜線が登場する。
譜線の数は1本から4本まで増え、線と線の間隔は3度間隔を示すようになり、「譜線ネウマ」と呼ばれるようになる。
後には近代5線譜で古い楽譜が写本されることもあるらしい。期間的には9世紀から14世紀にかけて、ということになる。

実は私はネウマ譜の実物か写本というものを見たことがない。
本で、その存在を知っていたに過ぎないが、2004/04/20付けの新聞で大阪の女性がネウマ譜の装飾的な美しさに引かれて写本を手掛けている、
という記事に触発されて、島本氏の、この句を採り上げる気になった。
昔のヨーロッパの本は、小説でも神学の本でもページの文頭の字は、大きく、しかも色彩的にも極彩色に装飾した「飾り文字」になっているが、
このネウマ譜も、そういう装飾文字で始まるらしい。
装飾的ということからは、この大阪の女性の写本のモデルになっているのは14世紀イタリア式譜面の装飾かも知れない。
ネウマ譜の画像をいくつか出しておいた。
GregorienA4グレゴリオ聖歌17世紀楽譜
 ↑ グレゴリオ聖歌17世紀楽譜

島本融氏については、私のWeb上のHPで一章を設けて句集『午後のメニスカス』の抄出をしてある。
島本融氏は河井酔茗、島本久恵氏のご次男で群馬県立女子大教授などを勤められた美学者である。
美学者としての教養から横文字が多いが、知的な雰囲気に満ちている。以下、句を抄出する。
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 母は闇に坐して涼しき銀河系

 吾亦紅野辺のアウラというべきか

 くすぐられてしなやかな子の夏合宿

 すこやかになまあしやはりさむいという

 てふてふの旧かなめきし羽根づかひ

 秋灯に偽書ほどほどの読みごたえ

 様式とはめだかみごとに散るごとく

 二河白道一輻だけの花の寺

 ミネルヴァの梟を言い冬学期

 十代連はチアののりにて阿波踊り

 謝恩会のゼミ学生の抜き衣紋

 青嵐におののきやめずメニスカス

 酔漢がハモってゆくや歳の暮

 波奈理児のすはだに生絹(すずし)添えまほし

 ビリティスの偽書も編みたし蔦の花


泰山木の巨き白花さく下にマタイ受難曲ひびく夕ぐれ・・・木村草弥
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     泰山木の巨き白花さく下に
        マタイ受難曲ひびく夕ぐれ・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
この歌の一つ前には

  おほどかに泰山木の咲きいでていきなり管楽器鳴りいづるなり

という歌が載っているので、これと一体として鑑賞してもらいたい。

泰山木の木は葉も花も大きいもので、葉は肉厚で落葉は昔の大判の貨幣のようである。
この頃には「青嵐」という季語もあるように季節の変わり目で突風が吹くことが多いが、そんな風に吹かれて泰山木の大きな落葉が新芽にとって代られて、
からからと転がってゆく様子は季節ならではのものである。
モクレン科の常緑高木であって、高いものは17、8メートルにもなる。
北アメリカの原産で明治のはじめに日本に渡来し公園などに植えられた。葉はシャクナゲに似、花はモクレンに似ている。
花は葉の上に出て、大きさは15センチもある。木が大きく、葉も花も大きいので「泰山木」という命名がいかにも相応しい感じがする。
花の雄大さと白い色、高い香りが焦点である。

私の歌は、そういう、いかにも西洋風な花と木に触発されて、「管弦楽」ないしは「マタイ受難曲」という洋楽を配してみたが、いかがであろうか。

YouTube 「マタイ受難曲」 ← いい演奏なので聴いてみてください。

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↑ 自筆総譜より # 61 レチタティーヴォ開始部分

「マタイ受難曲」 出典:Wikipedia
「マタイ受難曲」(Matthäus-Passion)とは、新約聖書「マタイによる福音書」の26、27章のキリストの受難を題材にした受難曲で、
多くの場合独唱・合唱・オーケストラを伴う大規模な音楽作品である。
このうち最も有名なものはヨハン・ゼバスティアン・バッハ(以下バッハ)の作品である。
ここではこのバッハの作品について述べる。

バッハのマタイ受難曲(Matthäus-Passion)は新約聖書「マタイによる福音書」の26、27章のキリストの受難を題材にし、
聖句、伴奏付きレチタティーヴォ、アリア、コラールによって構成された音楽作品である。
BWV244。
台本はピカンダー(Picanderは「かささぎ男」という意味の筆名であり、本名クリスティアン・フリードリヒ・ヘンリーツィ、あるいはヘンリーキ)による。
正式なタイトルは「福音史家聖マタイによる我らの主イェス・キリストの受難Passion unseres herrn Jesu Christi nach dem Evangelisten Matthäus」となる。

バッハのライプツィヒ時代(1723年-1750年)を代表する作品であるとともに、その全作品中の最高峰に位置づけられる。
宗教作品であるが、様々な人間的に普遍的なドラマが描かれており、その音楽の壮大さ、精緻さ、大胆さ、精神性は、しばしばクラシック音楽、西洋音楽作品中の最高傑作とさえ評されるほどである。 バッハが作曲したとされる受難曲は、マタイ受難曲(2作あったとされるが、「2作目は合唱が2組に分けて配置される」という記述の目録があるので現在伝わっているのは2作目あるいは何らかの改作後の方であることがわかる)のほか、音楽的にはマタイほどの完成度ではないもののより劇的とされるヨハネ受難曲(BWV245、1724年)、ルカ受難曲(BWV246)、マルコ受難曲(BWV247、1731年)の計4つが数えられるが、ルカ受難曲は真作と見なされておらず、マルコ受難曲は台本のみが現存し、他は消失している。これらのなかで、マタイ受難曲は内容的にも規模的にも最も重要かつ画期的である。

初演および復活上演
初演 1727年4月11日、ライプツィヒの聖トーマス教会において初演。その後改訂が加えられ、1736年に最終的な自筆稿が浄書されている。かつては1729年4月11日の初演と伝えられ、未だに古典派・ロマン派の愛聴者の中に支持する者もいるが、完全に否定されている。この勘違いは、メンデルスゾーンの初演に用いた楽譜が1729年稿であったこと、蘇演の広告が「100年ぶりの復活演奏」と銘打ったこと、1728年に没したケーテン侯レオポルトに捧げた追悼カンタータがマタイ受難曲のパロディだったこと(教会音楽を世俗音楽に書き換えることはありえないと信じられていた)など、非科学的な思い込みによって誘発されたものである。

復活上演 バッハの死後、長く忘れられていたが、1829年3月11日、フェリックス・メンデルスゾーンによって歴史的な復活上演がなされ、バッハの再評価につながった。

この復活上演はいくつかのカットが伴われ、また古楽管楽器オーボエ・ダ・カッチャを、同じ音域のオーボエ属楽器であるイングリッシュホルンではなくバスクラリネットで代用するなど、メンデルスゾーンの時代により一般的であった、より現代に近いオーケストラの編成によって演奏された。この編成の演奏を再現した録音CDも存在する。当時の新聞評は芳しいものではなく、無理解な批評家によって「遁走曲(フーガ)とはひとつの声部が他の声部から逃げていくものであるが、この場合第一に逃げ出すのは聴衆である」と批判された。しかしこれを期に、当時は一部の鍵盤楽器練習曲などを除いて忘れ去られていたバッハの中・大規模作品をはじめとする音楽が再評価されることになったのである。
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「泰山木」は俳句にも詠まれているので、それを引いて終わりたい。

 壺に咲いて奉書の白さ泰山木・・・・・・・・渡辺水巴

 磔像や泰山木は花終んぬ・・・・・・・・山口誓子

 太陽と泰山木と讃へたり・・・・・・・・阿波野青畝

 泰山木天にひらきて雨を受く・・・・・・・・山口青邨

 泰山木巨らかに息安らかに・・・・・・・・石田波郷

 泰山木樹頭の花を日に捧ぐ・・・・・・・・福田寥汀

 ロダンの首泰山木は花得たり・・・・・・・・角川源義

 泰山木開くに見入る仏像ほし・・・・・・・・加藤知世子

 泰山木君臨し咲く波郷居は・・・・・・・・及川貞

 初咲きの泰山木に晴れつづく・・・・・・・・武内夏子


さゐさゐと鳥遊ばせて一山は楢の若葉に夏きざし初む・・・木村草弥
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     さゐさゐと鳥遊ばせて一山は
         楢の若葉に夏きざし初む・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
この歌の次に

     初夏の明けの小鳥の囀りにぼそと人語をさしはさむ野暮

という歌が載っているが、これも一体として鑑賞してもらいたい。

歌について少し説明しておくと「さゐさゐ」というのは漢字で書けば「騒騒」である。
先に書いたかと思うが、楢の木というのは「里山」の木であって、結構いろいろな昆虫なども豊富で、
それらの虫は小鳥たちの絶好の餌になるのであった。
だから小鳥たちが寄ってきて「騒騒」と賑やかなのであった。
こういう鳥たちとの交歓というのは杉、桧のような針葉樹の林では見られない。
針葉樹は人間にとって有用な木材としては最適であるかも知れないが、広くいろんな生物との共生という意味では、貧弱な生態系にしか過ぎないと思われる。
虫や昆虫、小鳥の多いのは広葉樹の林である。
上に挙げた歌につづいて

     みづうみを茜に染めて日の射せばひしめき芽ぶく楢の林は

というのが載っている。
これらの歌の三部作を含む項目の題は「鳥語」と私はつけた。
やはり楢などの雑木林には小鳥が豊富であり、したがって鳥の声に満ちている──つまり「鳥語」が特徴であろう。

虫が居れば成虫である蝶も居るということである。「蝶」の句を引いて終わる。
なお、ただ単に「蝶」と言えば春の季語であるが、揚羽蝶など盛夏に居る夏の蝶は、もちろん夏の季語の題材になる。「夏の蝶」「斑蝶」「セセリ蝶」など。

 ほろほろと蝶こぼれ来る木下闇・・・・・・・・富安風生

 木の暗を音なくて出づ揚羽蝶・・・・・・・・山口誓子

 夏蝶や歯朶揺りてまた雨来る・・・・・・・・飯田蛇笏

 弱弱しみかど揚羽といふ蝶は・・・・・・・・高野素十

 夏蝶の放ちしごとく高くとぶ・・・・・・・・阿部みどり女

 下闇に遊べる蝶の久しさよ・・・・・・・・松本たかし

 磨崖仏おほむらさきを放ちけり・・・・・・・・黒田杏子

 一途なる蝶に身かはす木下闇・・・・・・・・佐野まもる

 下闇や揚羽の蝶の二つの眼・・・・・・・・松尾静子

 奥の院八丁とあり黒揚羽・・・・・・・・近藤笑香

 首塚の湿りを出でて揚羽蝶・・・・・・・・長田群青


今度こそ筒鳥を聞きとめし貌・・・飯島晴子
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     今度こそ筒鳥を聞きとめし貌・・・・・・・・・・・・・・・飯島晴子

「ツツドリ」は、人間の住むような里山には近づかず、林間に居て、鳴き声だけが遠くから聞こえてくる。
この句は、そういう筒鳥の生態を、よく捉えている。
私の歌にも、こんなものがある。

  筒鳥の遠音きこゆる木の下に九十の母はのど飴舐むる・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
自選にも採っているのでWebのHPでも、ご覧いただける。

筒鳥は郭公やほととぎすと同じ仲間で姿、形が似ている。これらの鳥は鳴声は田舎なら、よく聞くことがあるが、姿を見ることはめったにない。
この種類の鳥は子育ての際に、独特の「托卵」という習性があることが共通している。

私の第二歌集『嘉木』(角川書店)にも

   み熊野の出で湯に宿るあかときにぽぽろぽぽろと筒鳥の声

という歌を載せている。
掲出の歌のことだが、私の母は93歳で亡くなったが、この歌は90歳の頃のことを詠んでいる。母には曾孫も出来ていたから文字通り悠々自適の晩年だった。
初夏のむせかえるような陽気の日には大きな木の蔭でのんびりと過ごしていた。
「のど飴」を舐める母、というところに私の歌作りの工夫を込めたつもりである。

以下、歳時記に載る句を少し引いて終わりたい。

 つつ鳥や木曽の裏山木曽に似て・・・・・・・・加舎白雄

 筒鳥を幽かにすなる木のふかさ・・・・・・・水原秋桜子

 筒鳥なく泣かんばかりの裾野の火・・・・・・・・加藤楸邨

 筒鳥や楢の下草片敷けば・・・・・・・・石田波郷

 筒鳥鳴けり腕を撫でつつ歩むとき・・・・・・・・大野林火

 旅にして聴く筒鳥も辰雄の忌・・・・・・・安住敦

 筒鳥やひとの名彫られ一樹立つ・・・・・・・・中島斌雄

 筒鳥や涙あふれて失語症・・・・・・・・相馬遷子

 筒鳥や分れて道は火山灰ふかく・・・・・・・・皆吉爽雨

 筒鳥や思はぬ尾根に牛群れて・・・・・・・・堀口星眠

 筒鳥や山に居て身を山に向け・・・・・・・・村越化石

 筒鳥の遠音近づくことのなし・・・・・・・・森田峠

 筒鳥の風の遠音となりにけり・・・・・・・・三村純也

 筒鳥やこんにやく村はすぐ陰る・・・・・・・・茂木連葉子

 筒鳥や豆が双葉となりし朝・・・・・・・・矢上万理江



目には青葉/山時鳥/初鰹・・・山口素堂
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     目には青葉/山時鳥(ほととぎす)/初鰹・・・・・・・・・・・・・山口素堂

この句は作者名を知らなくても、多くの人に愛誦されている代表格のものだろう。
元の句には区切りなど無いが、意味をはっきりさせるために敢えて区切りを入れてみた。了承されたい。
なぜ「山時鳥」というのかについては ← のところで書いたので参照されたい。
「目に青葉」と読む人があるが、正しくは、字余りになっても「目に青葉」と読んでもらいたい。

山口素堂は芭蕉と親交のあった江戸の俳人。句は「鎌倉にて」という前書きがある。
目のためには一帯の山の青葉。耳のためにはほととぎす。鎌倉の初夏はすばらしい。
その上に、相模の海の名物の初鰹とは、何とよい土地柄だろう、というのである。初物好きの江戸っ子の美意識が強く感じられる。

大島蓼太の句にも

    鎌倉は波風もなし鰹つり

というのがあるが、相模湾は、その昔、マグロやカツオの漁でも有名だった。
同じ江戸中期の国学者で歌人の賀茂真淵には

    大魚(おほな)釣る相模の海の夕なぎに乱れて出づる海士(あま)小舟かも

という爽快な漁場風景を詠んだ歌がある。
なお、念のために申し添えておくが、「青葉」「ほととぎす」「初鰹」ともに俳句の世界では「夏」の季語である。つまり一句の中に季語が三つあることになる。
今は一句の中に複数の季語を入れることを喧しく指摘する宗匠もあるらしいが、そんなことに拘らない「大らかさ」が、この句にはあり微笑ましい。
旧暦の四月(卯月)、新暦の五月からは「夏」になる。
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d0080223_19245841ホトトギス

ここでは、「ほととぎす」にまつわる句歌を少し引いておく。

    谺(こだま)して山ほととぎすほしいまま・・・・・・・・・・杉田久女

結句の「ほしいまま」というのが鳥の自由奔放な命の発露を言いとめている。
この句の前書きには「英彦山」とある。福岡、大分両県にまたがる修験道の霊山である。
久女は昭和5年高浜虚子選で行われた全国新名勝俳句に応募のため、英彦山に登ってこの句を得、金賞を獲得した。
しかし同じ句を「ホトトギス」に投句した時には没だったという話もある。
久女の浪漫的で大胆な句風は女流俳人中で異彩を放ったが、なぜか昭和11年理由不明のままホトトギスから除名された。悲運の閨秀作家である。

    ほととぎすそのかみ山の旅枕ほのかたらひし空ぞわすれぬ・・・・・・・・式子内親王

詞書には「いつきの昔を思ひ出でて」とある。
「いつき(斎)の昔」というのは、式子内親王が賀茂神社の斎院として青春の十年間を神に奉仕する身であった時代を回想してという意味である。
「そのかみ」と「かみ山」とは掛け詞で、後者は賀茂神社のある森のことを神山(こうやま)と今でも言う。
「旅枕」は賀茂の祭礼のとき、社殿の脇の神館に斎院が一夜泊るしきたりを、旅になぞらえたのである。
ほととぎすよ、その昔、賀茂の神館に旅寝した夜明け、お前がほのかに鳴いて過ぎた、あの時のことが忘れられない、という意味である。
口ずさめば歌は縹渺たる時間と空間を呼び起し、恋歌のような情緒さえ刺激する。
現在では「上賀茂神社」と一般的に呼称する。
「神山」の辺りには今は京都産業大学のキャンパスが広がっている。
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山口素堂についてネット上から転載しておく。

山口素堂(やまぐち そどう)

(寛永19年(1642)5月5日~享保元年(1716)8月15日、享年75歳)

 甲州白州巨摩郡教来石山口(現山梨県北杜市白州町。現在では、近くにサントリー白州ディストラリーがある)の人と言われている。
父山口市右衛門の長男として誕生し、甲府魚町で家業の酒造業を営んでいたが、向学心に燃えて家督を弟にゆずり江戸に出て、漢学を林春斎に学ぶ。
芭蕉とは2歳ほど年上だが、相互に信頼しあって兄弟のような交わりをした。儒学・書道・漢詩・能楽・和歌にも通じた当時稀有な教養人であった。(以上『甲斐国史』による)
 名は信章<しんしょう>、字は子晋<ししん>、通称は勘兵衛。
俳号素仙堂・其日庵・来雪・松子・蓮池翁など多数。子晋・公商は字。趣味も多彩で、蓮を好んだことから「蓮池翁」などと呼ばれた。
延宝4年には『江戸両吟集』を、延宝6年には『江戸三吟』を芭蕉との合作で発表。75歳で死去。
「四山の瓢」参照。

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素堂の代表作

目には青葉山ほとゝぎす初がつを (『あら野』)

池に鵞なし假名書習ふ柳陰 (『あら野』)

綿の花たまたま蘭に似たるかな (『あら野』)

名もしらぬ小草花咲野菊哉 (『あら野』)

唐土に富士あらばけふの月もみよ (『あら野』)

麥をわすれ華におぼれぬ鴈ならし (『あら野』)

髭宗祇池に蓮ある心かな (『炭俵』)

三か月の隠にてすヾむ哀かな (『炭俵』)

うるしせぬ琴や作らぬ菊の友 (『續炭俵』)


まざまざと夢の逃げゆく若葉かな・・・寺田寅彦
konara小楢本命

     まざまざと夢の逃げゆく若葉かな・・・・・・・・・・・・・・寺田寅彦

今や見渡すかぎり、みどり一色の若葉である。 この句は、そんな季節感を巧く作品化している。
作者の寺田寅彦 ← というのは、こんな人である。物理学者だが夏目漱石に師事し俳句やエッセイなどをよくした。

私の歌にも、若葉を詠んだ、こんなものがある。

   日が照ればエーテルのごとく香を放つ楢の若葉よ午前六時だ・・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

写真は小楢の若葉である。ちょうど開花期で雄花序が垂れ下がっている。
ナラ、クヌギの類は人家に近い、いわゆる「里山」の木で、薪にされてきたもので、伐採した後には株元から次の新芽が出てきて林が更新するのである。

konara4コナラ青

写真②はナラの実、いわゆるドングリである。ナラの実は細長い。クヌギの実は、もっと丸い形をしている。

里山は薪などに加工して、伐採して世代更新をしないと木は大きくなりすぎて逆に荒廃する。
この頃では農村でも台所では電気やプロパンガスを使うので薪の使い場所がない。
ようやくシイタケ栽培のホダ木としてシイタケの菌を打つ位であるが、そのシイタケが中国産に押されて価格が下がり日本産は採算が合わないとかで、栽培は減っている。
五月に入ると里山も気温がぐんぐんあがり、天気のよい、湿気の多い日には林はむっとむせかえるような様子になる。
yun_1079白糸の滝

私の歌は、そういう楢の林が新緑に満ちた朝六時の光景を詠っている。
新芽からはツンとする新緑特有の香りが立ち、太陽が中天にさしかかると、むせかえるような空気に包まれる。
「森林浴」というのは本来、ロシアで言われてきたことで、針葉樹の木から出る「フィトンチッド」というエーテル系の成分が体によいことを指したのだが、
今では広葉樹の森の森林浴も含めて言われるようになってしまった。しかし、いずれにせよ森林浴というのは、いいものである。

俳句にも「新緑」「新樹」など多く詠まれているので、それを引いて終わりたい。

 大風に湧き立つてをる新樹かな・・・・・・・・高浜虚子

 夕風の一刻づつの新樹濃し・・・・・・・・中村汀女

 阿蘇も火を噴くと新樹のきのふけふ・・・・・・・・百合山羽公

 夜の新樹詩の行間をゆくごとし・・・・・・・・鷹羽狩行

 若葉して御目の雫拭はばや・・・・・・・・松尾芭蕉

 若葉して手のひらほどの山の寺・・・・・・・・夏目漱石

 動くもの皆緑なり風わたる・・・・・・・・五百木瓢亭

 槻若葉雫しやまずいつまでも・・・・・・・・加藤楸邨

 青葉若葉しかすがに逝く月日かな・・・・・・・・中川宋淵

 青葉満ちまなこばかりの稚魚誕生・・・・・・・・加藤一夫

 新緑やうつくしかりしひとの老い・・・・・・・・日野草城

 新緑の天にのこれりピアノの音・・・・・・・・目迫秩父

 摩天楼より新緑がパセリほど・・・・・・・・鷹羽狩行

 水筒の茶がのど通る深みどり・・・・・・・・辻田克己

 まぶたみどりに乳吸ふ力満ち眠る・・・・・・・・沖田佐久子


今年の南山城の「晩霜」被害について。・・・木村草弥
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↑ 化繊・クレモナによる覆い下茶園

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 (ご参考) ↑ 「防霜ファン」を設置してある風景

──エッセイ──

      今年の南山城の「晩霜」被害について。・・・木村草弥

当地の茶摘みが八十八夜を過ぎても、一向に始まらないので気になっていたが、四月下旬の強い「晩霜」によって、露地茶園だけでなく、覆い下園も被害を受けたらしい。
ようやく昨日辺りから、茶摘みが始まった。
「晩霜」被害を受けた茶の新芽は凍結するので、黒く変色した部分が硬くなるのを待って、竹箒などで、丁寧に払い落とす必要があり、大手間である。
これを丁寧にやっておかないと、新芽に混じると品質が凄く低下するので慎重に作業される。
そういう作業が済み、二番芽が、ようやく生え揃ったらしい。
新聞などでも、これらのことは全く報道されない。というより、茶農家が、変な風評被害を怖れて、語りたがらない、のが原因だろう。
茶農家の人と話していると、霜害は二度あり、特に後の日の被害がひどかったらしい。手摘みの場合は、傷んでいない芽を拾い摘みする始末で大損害だという。
ここで「覆い下園」栽培についての最新の研究成果を、下記に引いておく。  ↓
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覆下栽培は、茶の樹木の上に稲わらなどを被覆し、直射日光を避けてお茶の品質を高める伝統的な栽培手法。
1577年に宣教のため来日したポルトガル人ジョアン・ロドリゲスが1604年に著した「日本教会史」に初めて宇治の覆下茶園が登場しており、これが最古の文献記録となっている。
 研究は府立大学地域貢献型特別研究の一環。
同大学院生命環境科学研究科の矢内純太教授と中尾淳准教授ら土壌、地質、年代測定、植物各分野の研究者5人が共同で実施。
室町時代の将軍、足利義満が特に優れていると指定した「宇治七茗園(うじしちめいえん)」のうち、現存唯一の茶園「奥の山茶園」(宇治善法、20㌃)で2015・16両年度に行った。
 在来最古の茶樹直下の土を60~70㌢掘り起し、土壌試料を採取した。
土壌断面の調査と合わせて、往時の覆下栽培に用いられてきた稲ワラに由来する炭素やケイ酸の含量、土層中の位置関などを科学的に分析。
その結果、文献記録による16世紀後半より約150年前、少なくとも15世紀前半にまでさかのぼると推定できたという。
 同茶園は15年4月に文化庁認定日本遺産「日本茶800年歴史散歩」の構成文化財にも選ばれている。
所有者の㈱堀井七茗園(宇治妙楽)の堀井長太郎社長(68)は「先人がこんなにも早くから覆下に着目し、茶づくりをしていたことが科学的に実証され、びっくりするとともにうれしい。宇治茶の伝統や歴史保持につながる」と喜ぶ。
 矢内教授は「宇治茶の歴史に対し、理系側のアプローチで示すことができたのが今回の意義。宇治茶の独自性を高めることにつながる」と期待する。
測定調査では年代幅があるため、さらにさかのぼって同茶園の開設当初から覆下栽培が行われていた可能性もあるという。
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質問があったので、「防霜ファン」の画像を、念のために追加しておく。



金雀枝や基督に抱かると思へ・・・石田波郷
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       金雀枝(えにしだ)や基督に抱かると思へ・・・・・・・・・・・・・・・・・石田波郷

エニシダの咲き誇る季節になった。
もともとエニシダはヨーロッパ原産の植物である。
私にはキリスト教と深く結びついている木のように思える。
私の歌に次のような作品がある。

    金雀枝(えにしだ)は黄に盛れどもカタリ派が暴虐うけしアルビの野なる・・・・・・・・・・・木村草弥

エニシダは地中海原産で、ヨーロッパに広く野生化している。日本には中国を経て、延宝年間に入ってきたと言われる。
オランダ語ではゲニスタやヘニスタと呼ばれていたが、日本ではエニスタと言われるようになり、今のエニシダになったという。マメ科の落葉低木。

この歌は1998年5月に南フランスに旅した時にボルドーの内陸部のアルビに立ち寄った時の歌である。
アルビというと、画家ロートレック(日本では慣習的に「ロートレック」で呼ばれるが、正しくは「トゥルーズ=ロートレック(ロトレック)」でひとつの姓である)の故郷で、
その美術館も見たが、ガイドがさりげなく説明した「異端審問」で、この地でカタリ派が受けた暴虐を思い出して歌にしたものである。
アルビの野は、それらのカタリ派の無惨な血の記憶が染み付いているのである。


エニシダは初夏の花である。この歌は第二歌集『嘉木』(角川書店)に載っている。
この歌のすぐ後には

   まつすぐにふらんすの野を割ける道金雀枝の黄が南(ミディ)へつづく

が載っている。高速道路の路傍には、文字通り「エニシダ」の黄色が果てしなく続くのであった。

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「異端審問」あるいは「魔女狩り」というのは、キリスト教の歴史の中でも「負」の遺産として語り継がれているが、旅の中でも、こうした心にひびく体験をしたいものである。
そして、深く「人間とは」「神の名のもとに」という愚かな蛮行を思い出したい。

そんな意味からも、掲出した石田波郷の句は、私には関連づけて読みたい作品だったので、引いてみた。

「カタリ派」については、← ここにリンクした「世界宗教大辞典」の記事に詳しい。長いものだが参照されたい。


以下、エニシダを詠んだ句を少し引く。

 えにしだの黄色は雨もさまし得ず・・・・・・・・高浜虚子

 えにしだの夕べは白き別れかな・・・・・・・・臼田亜浪

 エニシダの花にも空の青さかな・・・・・・・・京極杞陽

 金雀枝(えにしだ)や基督に抱かると思へ・・・・・・・石田波郷

 金雀枝やわが貧の詩こそばゆし・・・・・・・・森澄雄

 金雀枝の咲きそめて地に翳りあり・・・・・・・・鈴木東州

 金雀枝の黄金焦げつつ夏に入る・・・・・・・松本たかし



櫟原聰歌集『火謡』 『碧玉記』 『華厳集』 評論集『一語一会』・・・木村草弥
火謡_NEW
 ↑ 砂子屋書房2002/08/08刊
碧玉記_NEW
 ↑ 本阿弥書房2013/07/25刊
華厳集_NEW
 ↑ 砂子屋書房2016/05/08刊
一語一会_NEW
↑ ながらみ書房2016/09/20刊

──新・読書ノート──

   櫟原聰歌集『火謡』 『碧玉記』 『華厳集』 評論集『一語一会』・・・・・・・・・・木村草弥

まだ会ったことはないが、櫟原聰氏は、私の畏敬する人である。
FBで知己を得て、いつも私のブログの記事にアクセスして「いいね」をポチッと押していただき、時たまコメントを書いてくださる仲である。
先ずWikipedia櫟原聰を引いておく。 ← リンクになっているのでアクセスされたい。
これを見れば判る通り、奈良の有名な進学校・東大寺学園を出て、京都大学文学部国文科を卒業して、すぐ母校の東大寺学園に就職、最後は教頭を務められた、という経歴である。
詳しくはWikipediaを見てもらいたい。
「ヤママユ」の前登志夫の弟子として歌と論の両面で活躍されている。文化講座の講師なども、あちこで勤めておられる。
ここに掲出した本は、アマゾンのネット古書で、まとめて買った。
そんな高名な櫟原先生の本とは言え、古書としては馬鹿ほど安い。一番高いのが『火謡』で300円、一番安いのが『華厳集』で1 円である。いずれも新本同様の本である。
送料が257円とか取られるが、トータルでも2000円でおつりが来る始末である。
「進呈本」は多くは、そのまま売りに出される。私の本の場合も同様で、アマゾン古書として多くが出回っているが、目にとめた人が買って読んでもらえば有難いのである。

本の数が多いので、走り書きになると思うが、ぼつぼつと読んでみたい。

先ず、前登志夫の作品から、私に響く歌を少し引いておく。

   かなしみは明るさゆゑにきたりけり一本の樹の翳らひにけり (『子午線の繭』昭和39)

   地下鉄の赤き電車は露出して東京の眠りしたしかりけり (『子午線の繭』昭和39)

   夕闇にまぎれて村に近づけば盗賊のごとくわれは華やぐ (『子午線の繭』昭和39)

    暗道(くらみち)のわれの歩みにまつはれる蛍ありわれはいかなる河か (『子午線の繭』昭和39)

    さくら咲くその花影の水に研ぐ夢やはらかし朝(あした)の斧は (『霊異記』昭和47)

   狂ふべきときに狂はず過ぎたりとふりかへりざま夏花揺るる (『霊異記』昭和47)

    杉山に朝日差しそめ蝉のこゑかなしみの量(かさ)を湧き出づるなり (『霊異記』昭和47)

    三人子(みたりご)はときのま黙し山畑に地蔵となりて並びゐるかも (『縄文記』昭和52)

    雲かかる遠山畑と人のいふさびしき額(ぬか)に花の種子播く (『鳥獣蟲魚』平成4)

   夜となりて雨降る山かくらやみに脚を伸ばせり川となるまで (『青童子』平成9)

前登志夫の本も何冊かあったのだが、昨年、日本現代詩歌文学館にまとめて寄贈したので、今は手元にない。
エッセイも名手だった。それらから引用できないのが残念である。
ここに引いた歌が代表作のすべてかどうか、も自信がないが、前登志夫が「自由詩」から出発したというのは重要なことだろう。
どこかの座談会で[縦の関係としての伝統]ということを発言していた、のを記憶している。(記憶が間違っていたらゴメンナサイ)
前衛短歌華やかなりし頃は、伝統から「切れる」ことが叫ばれたが、前川佐美雄に会って短歌に転向して以後、前登志夫は土俗性を含むアニミズムに沈潜してきた。
それが伝統ということなのだろう。  (閑話休題)。

今回、取り寄せた本が、櫟原聰の作品を網羅的に捉え得ているかは自信がないが、初めての本なので努力してみよう。

『火謡』である。 2002年8月8日刊行の本である。 第四歌集ということになる。
「あとがき」で
<この間、世紀末から二一世紀へと、世界は大きく動き・・・・本歌集に収録した歌も、その世相を自ずと反映しているだろう。
 歌集名を『火謡』としたゆえんである。願わくは、歌からわが心身を浄化する炎として立ち、未来をも照らし出さんことを。>

と書かれている。「火謡」とは、火の歌、という意味だろうか。
先に、前登志夫の歌を抄出したのには意味がある。
弟子である櫟原聰が、どういう歌を詠っているか、という比較のためである。

   *あかつきの夏野を走る鹿あれば太き腕に抱きしめられむ
   *しゆわしゆわと熊蝉啼いて街はいま夏野の記憶語りはじめる
   *空と風のレストラン森に開店す木の実を摘みに森へ行かうよ
   *樹は暑き風に揺らげり街に立つ家森林となりはじめたり
   *刺客らは街に満ちゐて子を殺め樹を殺めしづかに生くる日本

この本の巻頭に載る歌から引いた。 巻頭には自信作を据えると巷間言われるからである。
これらの歌では「森林」→「街」へとイメージが変換されている。前登志夫の詠った「森林」から、櫟原聰の「街」へで、ある。
前登志夫の「踏襲」ではなく、櫟原聰としての「一歩」ということであろうか。
東大寺という有名な寺院の経営する学園に務める者として「仏たち」に接するのは日常のことであろう。
だから「仏」の歌が多く詠まれる。

   *如来よりも菩薩を好むこのわれの修行足らざる悟らざる、よし
   *持国天増長天広目天多聞天戒壇院の青やかな気よ
   *胎蔵界曼荼羅にわれは孕まれて秋深まれる大和国原

Ⅱの章のはじめに「火の謡となる」という一連がある。 ここから題名が採られているらしい。

   *真青なる空の深みへのびあがる樹木の骨は火の謡となり
   *鳥が飛ぶ明日香の明日は卑弥呼より日見子へ渡り火の謡となる

二番目の歌は私には分からない。古語、古代語を専門に学んだという著者ならではのこととして受け取っておく。
この本の真ん中あたりに「身に沁む不況日本」とかの歌がある。
もう忘却の彼方になってしまったが、新世紀はじめの頃、日本は不況だったのか。「ミレニアム」の五月に私は亡妻とイスラエルに行っていたのだが。

   *宣りつづけ呪ひとなりしわが言葉青葉の梢ゆさやに消えゆけ
   *夕しぐれに濡れつつひとり鳴く鹿よ奈良の秋ひそとここに来たらむ

巻末の「都市の歩道を」には、新世紀初に起こったニューヨークのビル崩壊の大事件の一連がある。

   *わが額に飛行機の先突き刺さるニューヨークの空あくまで青く
   *イスラムの教へ身近に迫り来る文明世界の支配を絶てと

現時点に生起する事件にも敏感に作歌される姿勢に共感する。   『火謡』終わり。

『碧玉記』である。 2013/07/25刊行である。 第六歌集ということになる。
この間に、第五歌集『古事記』雁書館 2007年 があることになる。
「古事記」は著者が専門として学習されたようだが、手元にないので仕方がない。
この本の「後記」に
<この間、歌の師である前登志夫を失うという事態に遭遇した。> とある。
前登志夫の死は2008年(平成20年)4月5日のことである。
<30代から40代にかけては、いわば全力疾走の状態にあった。> と書く。
歌集名の由来は図版でも読み取れるように
   <君の掌に乗する碧玉耀へり街の精霊となりてひびけよ> に由来する。

「伴侶」という項目に
   *君こそは最高の伴侶ある時はわが陽光の楽の音のごと
   *寛衣よりこぼるる乳房匂ひたつ白昼夢の中なる女
   *夕暮れは嘆きの雨にうたれゐてわが半生の伴侶たるべき

これらの一連は「喩」にくるんであるが、令夫人を詠んだものにちがいなかろう。 佳い一連である。特に二首目の歌はエロチックで佳い。

この本辺りから、肩肘の力が抜けて、櫟原聡独自の、平易な詠いぶりになってきたようである。
この本には仏像、東大寺、学園の描写などが載ることになる。

   *華厳とは奈良のことだとわが言へばほほゑみてをり奈良の佛は
   *春の日は新入生にふりそそぎ花ふぶき舞ふ校庭となる
   *大佛に参拝するを最後とし東大寺学園生となりたり

また生地である大和郡山や、いま住む家から望むと思われる「生駒」連山を詠んだ歌がある。

   *横たはる女体のこどき生駒嶺やとも寝をせむと眼つむれり
   *生駒川流れゆくなり富雄川流れ澄むなりふたつ並びて
   *わが父の物理学者の人生は認知症とぞ記憶失ひ

三首目の歌に物理学者だったという父君のことが、さりげなく詠われている。
また、著者は音楽にも蘊蓄が深いらしい。それらに因む歌が見られる。

  *言問へば空はまさをに深まりてショパンとリストの楽の音は来る
  *マーラーを聴けば遙けし夜の闇に漕ぎ出づ男、女のひびき

はじめに引いた歌は、この本の巻末に載るものであった。

   *君の掌に乗する碧玉耀へり街の精霊となりてひびけよ
   *苦しみの地方の王となり果てて御霊帰りぬ父の碧玉
                                          『碧玉記』終わり。

『華厳集』である。 砂子屋書房2016/05/08刊で、第八歌集ということになる。
この本の「後記」に、こう書かれている。

<東大寺に関係する学園に六年間学び、大学を出てからはそこに職を得て、いつしか四〇年を閲することとなった。
 その間、半ばは東大寺の境内に過ごし、心は常に華厳の教えとともにあった、と言ってようだろう。
 「一切即一」「重々無尽」とは、万物すべてのつながりを意味する。その思いをもって、『華厳集』と名付けた。
 二つの大震災において、人のつながりは明らかに見られたし、また父の死後、母を介護する日々の中、人々の助けを実感する毎日が続いている。
重々無尽に繋がる、生きとし生けるものの関連に、改めて気づかされる日々である。>

この言葉は、この一巻をめぐる歌を貫いていると言えるだろう。

   *母います平城蝸牛庵足萎えて歩みもならぬ母はいませり

巻頭の「紡ぐ」という項目にある歌である。 ご母堂の入っておられる施設のことが詠まれている。

この本には海外に亘る「羇旅」の歌が多い。 海外に足を延ばせる時間か出来たからだろう。
項目名だけ引いてみる。 「サンマルコの鐘」「ヨーロッパ音楽の旅」「ヨーロッパ絵画の旅」「真珠湾」など。
国内旅行でも「信州は秋」「奥入瀬の秋」「朝の林道」など。 少し歌を引いてみよう。

   *操船の女水兵くつきりとランジェリーの線を身する白服
   *強風に帽子を押さへ目をこらすハレアカラ火山のクレーターはや

一首目はハワイの真珠湾での光景である。エロスに満ちた佳い写生詠である。女水兵の姿が彷彿とする。

   *寒蝉に聴く前登志夫前登志夫父ゐぬわれの閑居に沁みて
   *朝繰る雨戸にひたと吸ひつきて戸惑ひ顔の守宮を目守る
   *青幡の忍坂の寺の石仏幽かに遺す白鳳の朱
   *花に酔ふ花のごときを抱きながら春三月の酒沁みわたる
   *春昼や妻のおしやべり続きをり娘の音楽も子等のダンスも
   *ストラヴィスキー火の鳥も奏されて楽友協会ホール輝く
   *ラスメニーヤス、王女の側にベラスケス誇れる姿示しゐたりき
   *青の時代のピカソに会へりバルセロナピカソ美術館の夕暮れ

総体として平易なリアリズムの歌が多い。
この本の鑑賞は、この辺で終わる。                『華厳集』終わり。

『一語一会』である。 ながらみ書房2016/09/20刊。 評論集である。
大方は「ヤママユ」誌に連載されたものを集めたものである。 一篇6ページほどの文章である。
前登志夫の歌に因んで書いてものが多い。その他のものでも、筆者の旺盛な読書力に裏打ちされてブッキッシュである。
ここで「目次」の項目を引いておく。

Ⅰ 現代短歌の心と言葉 
   1 前登志夫の歌と思想──原発は既に荒れて
2 存在の住処
   3 『前登志夫全歌集』に寄せて
   4  『樹下集』の頃
   5 「私」論の地平
   6  奈良の歌
Ⅱ 古歌と現代
   1 ほととぎすの歌
   2 古歌の歌人たち
Ⅲ 口語短歌の文法序説
Ⅳ 選歌と添削──前登志夫の系譜
Ⅴ 講演録

スキャナの調子も悪くて、ここに書き写すにも根気が要るので、かんべんしていただき、「目次」の項目を並べるだけにする。
教師だけあって、その論旨は精細を極めている。

駆け足の紹介に終始したことをお詫びする。
今回はじめて櫟原聰先生の労作に接し得て、幸運だった。有難うございました。
気が付けば、補筆するかも知れない。               (完)



茶師なれば見る機もなき鴨祭むらさき匂ふ牛車ゆくさま・・・木村草弥
g08葵祭

   茶師なれば見る機(をり)もなき鴨祭
     むらさき匂ふ牛車(ぎつしや)ゆくさま・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』に載るものである。自選にも採っているのでWebのHPでも、ご覧いただける。
この歌は塚本邦雄氏が読売新聞の「短歌時評」で採り上げて下さった2首のうちの一つである。
葵祭5月15日(雨天順延)に行われるが、この歌の主旨は、私が「茶」を生業としていたので、丁度その頃には新茶の製造時期であり、
それどころではない忙しい日々を過ごしていたので、じっくりと祭を見物する機会もなかった、ということである。
この祭は古来、俳句などでは五音に収まるというので「鴨祭」と通称されてきたのである。
京都には三大祭といって、葵祭、祇園祭、時代祭のことだが、一番古いのが、この葵祭である。もともと京の先住民とも言える賀茂氏の祭だった。
現在の上賀茂神社(賀茂別雷神社)と下鴨神社(賀茂御祖神社)という賀茂氏の神社で五穀豊穣を祈願する祭が、平安遷都を境に国家的な祭になって行った。
さわやかな新緑匂う皐月の頃、藤の花で飾られた牛車(ぎっしゃ)や輿に乗った「斎王代」を中心にした行列が、
御所を出て下鴨神社から上賀茂神社を巡幸する祭の光景は、
平安の昔をそのままに、都の雅(みやび)そのものを展開すると言える。

写真の説明をしておくと写真①が御所をでる行列、写っているのは牛車。写真②は、牛車の側面──藤の花の房で飾られている。写真③は輿に乗る斎王代。
hyosi牛車

saio-03輿に乗る斎王代

現在の祭の主役は「斎王代」だが、この斎王代が主役となっての祭の歴史は新しい。
斎王代とは、その名の示すように、斎王に代わるもの、代理である。
斎王は伊勢神宮や賀茂の神社に奉仕した未婚の内親王、女王のことである。
平安の昔、この祭が国の祭であった頃、賀茂の宮には斎王が居られ葵祭に奉仕しておられた。
お住いを斎院と言い、祭のときに出御し、勅使の行列と一条大宮で合流する習いだったという。
写真④は下鴨神社のみたらし川での斎王代の禊の様子。祭の数日前に行われる。
saio-01斎王代みそぎ

葵祭の始まりは平安時代初期、弘仁元年(810年)、嵯峨天皇が伊勢神宮にならって、賀茂社にも斎宮を置いた。
この初代斎王─有智子内親王から鎌倉時代はじめの礼子内親王(後鳥羽院皇女)まで、約400年にわたって続いたが、後鳥羽院と鎌倉幕府との政変、承久の変で途絶する。
以後、葵祭は勅使は出るものの、斎王が復活することはなかった。
saio-02女人行列

それを昭和28年に葵祭復活後、行列を華やかに盛り上げるために、葵祭行列協賛会などの努力で「斎王代」を中心にした女人行列(写真⑤)などを加えて、今日に至るのである。
斎王代は民間の未婚の女性が選ばれることになっている。
これに選ばれることは名誉なことであるが、選ばれることによる持ち出しも大変なもので一千万円にも及ぶ出費を覚悟しなければならず、
高額所得のある社長令嬢しか、なれない役目である。

参考までに申し上げると、三大祭の他の二つは、
「祇園祭」は中世に京の都が荒れ果て、病気が蔓延していた頃、「町衆」が立ち上がり世の平穏と病魔退散を願って立ち上げたのが祇園祭であり、別名を町衆の祭と言われている。
だから、この祭には勅使なども一切参ることはない。昨年にも書いたが「大文字の送り火」も町衆の発起したものである。
もう一つの「時代祭」は、明治になって平安神宮が郊外の岡崎の地に造営されたのを機会にはじめられた時代行列である。まったく新しい祭である。
都が東京に遷都して京都の町が疲弊していたのを立て直すイベントとして考案されたもの。

以下、葵祭を詠んだ句を引いて終わりたい。

 草の雨祭の車過ぎてのち・・・・・・・・与謝蕪村

 賀茂衆の御所に紛るる祭かな・・・・・・・・召波

 地に落ちし葵踏みゆく祭かな・・・・・・・・正岡子規

 しづしづと馬の足掻きや加茂祭・・・・・・・高浜虚子

 懸葵しなびて戻る舎人かな・・・・・・・・野村泊月

 うちゑみて葵祭の老勅使・・・・・・・・阿波野青畝

 牛の眼のかくるるばかり懸葵・・・・・・・・粟津松彩子

 賀茂祭り駄馬も神馬の貌をして・・・・・・・・伊藤昌子
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「葵祭」の名前の由来は、この儀式全体を通じて「葵」─フタバアオイの葉っぱを延一万本も飾ったり掲げたりすることによる。これを「挿頭」(かざし)という。
写真⑥がフタバアオイの葉っぱである。
今までは、この葵は神社の境内に自生しているものから摘み取って使ってきたが、枯渇してきたので神社奉賛会などの努力で、苗を各地で栽培してもらって提供していただいているという。
牛車の脇に垂らされるのが「葵」の花なのか「藤」の花なのか。フタバアオイの花は写真に写るようなものとは全然別のものであるからフタバアオイの花である筈がないのである。
だから今の季節の華やかな花である「藤」の花が垂らされているようである。
フタバアオイの花の咲くのは一ヶ月も後であり、そのフタバアオイの花の写真⑦もつづいてお目にかける。
なお掲出した写真は、いずれも過年度のものである。


高旨清美『昼顔讃歌』・・・木村草弥
六花_NEW

──新・読書ノート──

    高旨清美・雨宮雅子作品鑑賞『昼顔讃歌』─離教への軌跡・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・六花書林2019/05/24刊・・・・・・・

この本が恵贈されてきた。
高旨清美さんは同人雑誌「晶」で、いつも作品を拝見している人である。
ここに居る村島典子さんとは親しくお付き合いさせてもらっているが、高旨さんとは名前を知るのみで親しい付き合いはない。
そんな私に御著を頂いて有難いことである。厚く御礼申し上げる。
いま調べてみると、「晶」79号2012/09/18で私のブログに高旨清美さんの作品「猫友だち20首」を採り上げているのである。
そこには、私は、こう書いている。 
<高旨さんは、無類の猫好きとして知られているが、今回も猫を媒体として、古今を飛翔して都会の哀歓を詠んで、読者を引き付ける。>
ネット検索で出てくるのは変な体裁になっているが、ご覧いただきたい。

さて、雨宮雅子は高名な歌人であるから、よく知られている人である。
彼女の歌集に『昼顔の譜』というのがあり、高旨さんの本の「昼顔讃歌」というのは、ここから採られている。
題名の副題として書かれる「離教」というのは、Wikipediaの記述を参照されたいが、長年キリスト者として過ごしてきた彼女がキリスト教を離れたことを意味する。
画像でも読み取れるように長年、私淑してきた雨宮雅子を精彩に鑑賞したのが、この本になる。

いまネット検索していいると、こんな記事が目に留まった。  ↓

  雨宮雅子さんの生前最後の作品 ?    恒成美代子

『短歌往来』(ながらみ書房)の2015年1月号の「編集後記」を読んでいたら、「本号、雨宮雅子氏の作品は生前最後の作品ではないかと思われる。」と書いてあった。
雨宮さんは昨年の10月25日、85歳で亡くなられている。
作品締切のことなど、考えあわせると、そのようにも思う。

           昼顔         雨宮 雅子

      海の風に触れゐるところ須臾の間をはた悠久を咲ける昼顔
      

      曼珠沙華この世の修羅も見尽さで野放図なるは穏しき野ゆゑ


      父母の知らざりし世よいまの世にわれも知らざること多くなる


      神はいますや画然としてものらみな秋のひかりのなかなるひと日


      肩掴み老耄にわれを据ゑたがる強きちからよいつ勝負せむ

                                     (7首中の5首)

亡くなられたのちに読者に届いた歌。
2首目の「この世の修羅も見尽さで」は、曼珠沙華であり、作者そのひとでもあろう。
もう、新作が読めないと思うと、ほんとうに惜しまれてならない。
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ここでも「昼顔」である。 雨宮さんは、この「昼顔」に、物凄い執着があったのが窺える。
高旨さんも、巻末に載る「エッセイ」で、こう書いている。

     悠久を咲く昼顔  「雅歌」62号2015年4月号所載

  海の風に触れゐるところ須臾の間をはた悠久を咲ける昼顔
                               「短歌往来」2015年1月号

「昼顔」は、雨宮さんが繰り返しうたってきた花のひとつである。
とりわけ昼顔を好んだのではないだろうか。
第八歌集『昼顔の譜』のあとがきには、こう記されている。
   「昼顔」は私の大好きなはな。貌花とも言われるこの花のあえかな美しさは、この世のものではない感じがある。
    あの世からの音信のように昼顔を眺めて暮らした一夏──

この年(2002年)の四月に、雨宮さんは東京・江東区から湘南の地に転居したのだった。
そして縁の深かった海辺の地で、2014年10月、一生を終えられた。
昼顔は、線路沿いの空き地などに普通に見られる。
浜辺に咲くのは浜昼顔であるが、どちらも強靭な植物でありながら、その色と姿ははかない、と見えるほどに淡い。
雨宮さんは昼顔に、天からの光を湛える「受動的な器」としての美しさを見ていたのではないだろうか。
昼顔は、天からの使者、メッセンジャーとしての働きをもつ花。
その存在は単独では果敢ないが、ときに神の仲介者として、永遠を示唆する美を輝かせるものとなる。

   けふひと日ひかりによりて耐へさせよ昼顔のうへ夏のきてをり    『昼顔の譜』

   昼顔のむらがるところかがやきて壮年の人の汗したたらす      『非神』
   ひるがほは群生のうへ翳りたり神の横顔の過ぎむとしつつ

「神」は雨宮さんの思惟における翳りの源の一つ。
現実の生の課題を抱え、そこから解き放たれることを願っての求道の心を、長く、苦しく、離教するまでもち続けた雨宮さんであった。

   わがつぎの世にも咲くべし夏果つる無人の駅の昼顔の花      『秘法』

雨宮さんから歌誌「雅歌」の「招待席」のページのお話をいただいてお引き受けしてから、いつの間にか十八回を重ねた。
・・・・・六年間の誌面での歳月を「雅歌」の皆様に感謝申し上げると共に最後まで拙い鑑賞文を続けさせていただいたことで、少しでも雨宮さんのお気持ちにお応えできただろうかと思う。
永遠の眠りにつかれた雨宮さんのご平安を、心よりお祈りする。
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ここに引いた高旨さんの文章に、この本のエッセンスが凝縮していると言えるだろう。
ほんの一部に触れただけで恐縮するが、ご恵贈に対する御礼としたい。
不十分な鑑賞に終始したことをお詫びします。             (完)







昨夜の雨二上山を洗ひ練供養・・・石垣青葙子
taima-oneri1練供養

    昨夜の雨二上山を洗ひ練供養・・・・・・・・・・・・・・石垣青葙子

奈良県の二上山麓の当麻寺(たいまでら)では5月14日16時から「中将姫」ゆかりの「練供養」行列が催行される。
この日は、この寺に当麻曼荼羅をもたらした中将姫の忌日にあたる。

中将姫(写真②の坐像)とは、どういう人なのだろうか。
187中将姫坐像

当麻寺境内の「中将姫」説明板によると、姫は奈良時代の右大臣・藤原豊成の娘で、幼くして母を失い、継母に育てられが嫌われ、ひばり山に捨てられた。
その後父に再会し都に戻ったが、姫の意向を無視して当麻寺に入れられたが、称賛浄土経一千巻の写経をなしとげ、17歳で中将法如として仏門に入り、
曼荼羅を織ることを決意した。
百駄の蓮茎を集めて蓮糸を繰り、これを井戸にひたすと糸は5色に染まった。そして、その蓮糸を、一夜にして一丈五尺もの蓮糸曼荼羅を織り上げた。
姫が29歳の春、雲間から一条の光明とともに、阿弥陀如来をはじめとする25菩薩が来迎され、姫は現身のまま成仏して西方極楽浄土へ向かわれたと伝える。

03当麻曼荼羅

写真③は曼荼羅堂の曼荼羅だが、公開されているのは1502年に作られたレプリカで、原本は国宝で痛みがひどく非公開。

練供養の25菩薩は当番の人が面をかむり、娑婆堂から曼荼羅堂まで高い引摂橋が組まれ、観音、勢至が中将姫の像を守り、25菩薩を先導する。
これは弥陀来迎のさまを表現したもので、恵心僧都がはじめたという。中将姫の曼荼羅の奇跡に弥陀来迎の信仰を、目で見る信仰とした昔の芝居けたっぷりの行事と言える。

関西では有名な行事だが、俳句に詠まれるものは多くはない。それを引いて終わる。

 練供養二つの塔を望み来し・・・・・・・・青木月斗

 一役のかなひし父や練供養・・・・・・・・松岡汀月

 葉ばかりとなりし牡丹や練供養・・・・・・・森田木亭

 雨雲の塔に振り来し練供養・・・・・・・・徳岡洋子

 練供養待ちくたぶれし久米の子ら・・・・・・・民井とほる

 附き人が菩薩を煽ぐ練供養・・・・・・・・右城暮石

 日は西に二十五菩薩練りにけり・・・・・・・・山口峰玉

 脚長き菩薩増えたる練供養・・・・・・・・高松早基子

 もの言うて菩薩親しも練供養・・・・・・・・今井妙子

 菩薩みな頭でつかち練供養・・・・・・・・成瀬桜桃子



夏草や兵共がゆめの跡・・・松尾芭蕉
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       夏草や兵共(つはものども)がゆめの跡・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

夏草の一句を挙げよ、と言われれば、余程のことがないかぎり、芭蕉の上の一句をあげる人が多いだろう。

元禄2年5月13日、芭蕉の『おくのほそ道』の旅は、この日平泉に到達する
今日の日に拘ってBLOGをアップする所以である。
もっとも、この日付は旧暦であるから、新暦では六月中旬であり、年によって前後するので、敢えて旧暦の日付のままに載せた。

平泉で繰り広げられた奥州藤原氏三代の栄華もはかなく消えて、華美を尽した秀衡の館も田や野に変わっていた。
芭蕉は、衣川が、その下流で北上川に合流する、もと源義経の館だった高館(たかだち)にのぼる。
辺りは夏草が生い茂り、その昔、ここで討ち死にした義経主従の奮戦も一場の夢と化していた。
芭蕉は「国敗れて山河あり、城春にして草青みたり」という杜甫の詩『春望』を思い出し、栄枯盛衰に涙して、この句を作ったと『おくのほそ道』は記述する。

以下、少し、かの地に触れて書いてみる。
岩手県西磐井郡平泉町だが、平泉駅から西へ500メートルの毛越寺(もうつうじ)の山門をくぐると、
境内の右手の植え込みの中に「夏草や兵どもが夢の跡」の新旧2基の句碑がある。
はじめに掲出した画像は、その左側の句碑である。
この句碑は明和6年(1769年)、碓花坊也寥が建立。
彫られている筆跡は芭蕉の字から起こしたもので、芭蕉の真筆といわれる。
碓花坊也寥とは、宮城県柴田郡柴田町の大高寺第十四世環中道一和尚のこと。
ここに画像は載せないが、右側の石碑は、それから後、文化3年(1806年)、慈眼庵素鳥建立のもので芭蕉の筆跡ではないという。

医王山毛越寺は本尊が薬師如来、平安時代末期の東北に覇を唱えた藤原氏二代目・基衡の建立で、
盛時には堂塔40、僧坊500を数える大伽藍だったと言われ『吾妻鏡』が「わが朝無双」と讃えたほどであったらしい。

義経の館跡という高館にのぼると、小高い丘の上には、正面に義経堂があり、中には義経像が祀られる。
また東側は断崖で、芭蕉の「高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河也」という『おくのほそ道』の一文のように、くろぐろと流れ、
彼方には束稲山(たばしねやま)が裾を引いている。
二度平泉を訪れた西行は、

  聞きもせず束稲山の桜花吉野のほかにかかるべしやは(山家集)

の歌を残しているが、当時この山は京都東山を模して1万本の桜が植えられ、花の名所だった。
芭蕉が平泉に足跡を印したのは、西行が建久元年(1190年)河内の弘川寺で亡くなって丁度500年後の元禄2年(1689年)のことで、
芭蕉の『おくのほそ道』紀行の目的には、その生涯を通じて畏敬した西行への500回忌追善や、
この高館で悲運の最期を遂げた義経への追悼が含まれていたという。


そのことを裏付けるように、

「さても義臣すぐって此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ」

という記述に芭蕉の感動がうかがえる。さらに文末に据えられた「夏草や」の句は絶唱である。

高館を下り、北進して中尊寺の山内に入る。
初代・清衡が関山中尊寺の建立に着手したのは長治2年(1105年)、その規模は堂塔40余宇、禅坊300余宇と『吾妻鏡』は誌している。
21年の歳月を費やし、竣工から2年後、清衡は権勢の永続を念じながら73歳で没した。

konnziki2金色堂覆堂
↑金色堂覆堂   ↓金色堂
dab912046829718bf54019a977e38eef_2金色堂

芭蕉が、

  五月雨の降のこしてや光堂

 と詠んだ金色堂は、本坊から200メートルほど奥になる。
覆堂(さやどう)に納められた内陣の須弥壇は三段あり、それぞれに金色の阿弥陀如来を本尊として、観音・勢至菩薩が脇に従い、
さらに三体づつ、これも金色の六地蔵、壇の前には持国天・増長天が仏界を守護するように、破邪の形相で立っている。
そして中央の壇には初代・清衡、左が二代・基衡、右が三代・秀衡の遺体と四代・泰衡の首級が安置され、
昭和25年の学術調査では、三代ともミイラ化していたことが判明し、内外に大きな感動を与えたという。
泰衡だけが首級だったのは頼朝の奥州征伐のためであるが、藤原氏が滅んだ文治5年(1189年)奥州の旅から戻った西行は、河内の弘川寺に草庵を結んでいた。
弟の義経を庇護したことが仇になり、頼朝に滅ぼされた藤原氏の悲運を、源氏嫌いの西行が、どんな想いで聞いたであろうか。
西行が平泉を訪れた頃は、まだ覆堂はなく、自然の中にじかに建つ金色堂を目のあたりにした筈なのに、彼は一字一句もその印象を残していない。

500年後、金色堂を訪れた芭蕉の「光堂」の句には、覆堂を取り払ってみたいもどかしさが感じられる。
同時代人として悲劇を直視せざるを得なかった西行と、追善の涙に身をゆだねた芭蕉との違いであろうか。

5/09付けで、那須の原で、芭蕉が西行ゆかりの「遊行柳」の傍の田で詠んだ句を載せたが、そこにも書いたように四月中、下旬のことであり、
支援者の家に世話になったりして北上して、芭蕉一行は、この日に平泉に着いたのだった。
その間、ほぼ二旬の日時が経過したことになる。
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中尊寺については、中尊寺執事長を勤められた、中尊寺仏教文化研究所所長の佐々木邦世『中尊寺千二百年の真実』(祥伝社黄金文庫)、
『平泉の文化遺産を語る』(大正大学出版会)の本に詳しい。


高島屋史料館『与謝野晶子と百選会─作品と資料』・・・木村草弥
高島屋

──新・読書ノート──(再掲載・初出2015/05/10)

     高島屋史料館『与謝野晶子と百選会─作品と資料』・・・・・・・・・・木村草弥
                     ・・・・・・・・高島屋史料館2015年4月刊・・・・・・・・・

戦前「百選会」は「上品会」を生み、戦後は「ヌーベルモード」「シャンブル・シャルマント展」など、洋装や家具、インテリア分野の高島屋オリジナル催事の基になった。
海外ブランドのカルダンなど他店に先駆けて取り入れている。
このような、高島屋における進取の気性やチャレンジ精神は、生活に美や潤いをもたらそうとする呉服店時代から培われていたが、
大正デモクラシーやモダニズムの進展を背景に、百貨店草創期の「百選会」によって育まれた伝統である。
百選会の趣意・テーマづくりや染織業界との協調などの新しいシステムは、高島屋独自の企業文化を生んだ。
百選会はまさに高島屋の「ものづくり」の原点と言えよう。
与謝野晶子招聘(1917年)の役割を果たした宣伝部員・川勝堅一は、のちに取締役就任(1936年)に際し晶子から
   <人に過ぎ抱く心の深ければ世を幸ひす行はんこと>
をはじめ、祝いの歌15首を贈られている。
百選会が一企業の流行催しという枠を超えて美学者、美術家、文学者、詩人・歌人、著名文化人らを集め、文化サロンのような広がりを見せて文化事業と評価されたのには、
与謝野晶子と川勝堅一のベスト・コンビによる二十年余の活動が大きく働いている。
百選会を舞台にした彼女の「きもの賛歌」は、その象徴にほかならない。しかもそれは、ものづくりに精進した人たちへの応援歌であり、人間賛歌でもある。
百選会で、晶子が最後に詠った
  <今ののち世を美しく包むべき朝霧いろと思はるるかな>(1940年)の歌から七五年が経過した。そして彼女の詩歌の全容が初めてまとめられた。

この本には、解説として
「前衛的な百選会と与謝野晶子の貢献・・・・・・・木村重信(大阪大学・京都市立芸術大学名誉教授)」
という13ページに及ぶ文章が載せられているが、この本は同氏から贈られたものである。

この百選会に出品された呉服に寄せて、晶子が詠んだ歌、あるいは晶子の発想によって呉服が製作された、など、百選会と晶子の歌とは、切り離せない関係にある。
詠まれた歌も、みな優れた、芸術性高いもので、与謝野晶子作品集にも未採録と思われるので、関係者によって全集に加えられるよう要望したい。

ここで、百選会に晶子が寄せた歌のいくつかを引いておきたい。

  わたつみのうしほの色を上に着て風流男(みやびを)達へものいひてまし

この歌は百選会に初めて賛歌を所望されたときの冒頭の歌。1921年大正10年、第17回春の回に寄せたものである。

  銀糸もて倭模様を衣におく楊家の女さへしらぬことかな

「楊」とは玄宗皇帝に寵愛された楊貴妃のことである。

  あなめでた秋のものとて少女子(をとめご)もマロンの色を許されにけん

  いにしへの清女も書きぬわれも言ふ春は曙むらさきの佳し


「清女」とは、枕草子の清少納言のことである。

  鹿の子刺繍(ぬひ)しぼり摺箔古代をばひとり忘れぬ高島屋かな

  うぐひすは霧の金紗の手ざはりに胸の迫ると暁に鳴く

  高円の蔦も立田のもみぢ葉もまたたをやめに添ふ日となりぬ

  いつまでも流行の衣が心ひくおのれを保ち行くよしもがな

  新しくルイ王朝のロココをばとりなす色の臙脂と鬱金

  友染も籠も紫雲英(げんげ)と蒲公英(たんぽぽ)を盛りぞ集むる少女子のため


  金糸をば間道とするすさびなど心憎かる機少女かな

  追ひ風の源氏の君の身に沁みし桂の色を衣に着なまし

  この店に購ひがたきものも無し一世紀をば守りこし故


この歌は1932年春のもので、高島屋の創業百年に祝意を表したものである。

  羽の色を人に許してうたふなり鳥の中なるかなりやの貴女

  海越えて来し南国の木の実をば銀の地に織るくれなゐの糸


百選会に寄せた晶子の歌は総数470 に達するという。 ここに引いたのは、ほんのささやかなものに過ぎないが、ご了承を得たい。 
なお、ここに書いた文章は、本誌に載る表田治郎「あとがき」と「きもの賛歌」の記述と、晶子の短歌の引用に多くを頼ったことを明記し、ご了承と、お許しを願いたい。
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この記事を「再掲載」したのには理由がある。
私の兄・木村重信が一昨年の一月末に亡くなり、表田治郎氏から電話をいただいた。
此処に載せた冊子の出版にあたって表田治郎氏は何度も重信宅を訪問されたらしい。
兄が死んで、何度か連絡を取ろうとされたが繫がらないので私のところに電話して来られたようだ。
しばらく時期を置くように申し上げたが、死の前後というのは仕方のないものであった。
その後、五月に、かつて館長を務めた国立国際美術館で「木村重信さんを偲ぶ会」 ← リンクになっているので参照されたい。 が開催され、その際には会場の陳列の花などの設営を表田氏の指図で高島屋がなさったらしい。
そんな経緯があったので、敢えて「再掲載」させてもらった。

そんな表田治郎氏だが、今年の年賀状は「欠礼」というハガキが来た。昨年、令夫人が死去されたという。
お淋しいことだろう。敢えて書き記してお悔やみ申しあげる。 合掌。
 


母ありといふなしといふ母の日に・・・小坂順子
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     母ありといふなしといふ母の日に・・・・・・・・・・・・・・小坂順子

今日5月12日は第二日曜日で「母の日」である。
母に感謝を捧げる日とされ、カーネーションの花を贈ったり、胸につけたりする。
花言葉は「婦人の愛」ということになっている。母のない人は白を、母のある人は赤をつける。
この日が選ばれた起源はアメリカのウェブスター在住のアンナ・ジャーヴィスが
1908年、この日に白いカーネーションを教会の友人たちに分けたことに由来する。
1914年5月9日、ウイルソン大統領により「母の日」として制定された。
number7カーネーション

この花は2000年以上も前の古代ギリシアから鑑賞がはじまった。
「冠飾の花」coronation flower が変化してカーネーションになったとか、原種の花の色(濃いピンク)からラテン語のincarnation(肉色) が語源との説もある。
学名は Dianthus caryophyllus というが、これはギリシア語の dios(神、ゼウス)+anthus(花)が語源。
花言葉は先に書いたものの他に「あらゆる試練に耐えた誠実」「純粋な愛情」「貞節」など。
この花を「国花」にしているのは、スペイン、モナコ、ホンジュラスなど。

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カーネーションを詠んだ句を引いて終わりたい。

 母の日や大きな星がやや下位に・・・・・・・・中村草田男

 母の日の花を身につけ駅に入る・・・・・・・・横山白虹

 母の日やそのありし日の裁ち鋏・・・・・・・・菅裸馬

 母の日や忙を楽しむ母にして・・・・・・・・徳永山冬子

 母の日のひばりのあがる麦畑・・・・・・・・轡田進

 母の日の母包紙大切に・・・・・・・・安良岡昭一

 母の日が母の日傘の中にある・・・・・・・・有馬朗人

 母の日のてのひらの味塩むすび・・・・・・・・鷹羽狩行

 母の日の母の記憶やめくら縞・・・・・・・・矢ケ崎雅雲

 母の日や童女のごとき母連れて・・・・・・・・恩田秀子

 母の日や病み臥すこともなく八十路・・・・・・・・高村寿山

 宅急便来て母の日に誰も来ず・・・・・・・・畑中律子

 母の日や母恋ふことに終りなし・・・・・・・・山崎泰世



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詩「丘に立ち風を見る」・・・折口立仁
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──<非>季節の詩歌句──

      詩「丘に立ち風を見る」・・・・・・・・・・・・・折口立仁
              ・・・・・「詩と思想」2019年四月号掲載・・・・・・・

     丘に立ち風を見る      折口立仁

  丘に立ち町をはるかに眺めていた少年は
  木々を揺らし瞬く間に消え去る風のはじまりは
  いったいどこなのかと訝った

  芝生に寝ころび空を見ていた高校生は
  全くの青をそのままに映す網膜も
  やがては汚れ 空を曇らせることを怖れた

  砂浜に座って暗い海を見ていた二十二歳は
  欲望と不安に満ち満ちている自分を
  不機嫌な恋人のように持て余していた

  今 丘に立って風を見る

  行方を問うわたしに
  風は音を立てて吹いている
  きっとわたしも
  はじまりも終わりもないのだろう

  かわいた空の果てにも
  冷たい海の底にも
  わたしは行かないのだろう

  時を超えてきた少年に風が吹く

  丘を越え
  さまざまに色を変えて
  風は吹いて行く

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この詩は、「詩と思想」誌2019年四月号に「現代詩の新鋭」として掲載されているものである。
この作者の紹介記事には、こう書かれている。

<折口は堺市生まれ。大阪の大学を出て、役所で定年近くまで勤めあげた。
 演劇部出身であり、小説もこつこつ書き続けていたが、定年後、京都のNHK文化センターを受講。
 リアルなダンディズムの詩を作るようになる。
 彼は言う。 「どんな形をとるにせよ、作品は、自分が語るべきひとつの物語になるだろう。 物語を、ひとつ。」 >


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