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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(7月)月次掲示板
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東日本大震災から八年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
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 ↑ 百日紅 ( サルスベリ )

七月になりました。
梅雨が明けたら、輝く夏が始まります。


 月ほそくうすく見ゆるを子は言ひて獣あまた載る絵本をひらく・・・・・・・・・・・・・・・・・大口玲子
 三振りを五振りに七味で気合ひ入れ狐も狸もわれも目覚めよ・・・・・・・・・・・・・・・・・川野里子
 熊鷹の一羽を鴉の群れが追ふ集団的自衛権の行使かあれは・・・・・・・・・・・・・・・・真鍋正男
 耳、鼻に綿詰められて戦死者は帰りくるべしアメリカの綿花・・・・・・・・・・・・・・・・・・・吉川宏志
 逝く秋に読み返したる一冊の『白痴』は遠き回転木馬・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・前川佐重郎
 さはあれど比喩は間接の域を出ずまして暗喩は奢りが臭ふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・来嶋靖生
 風渡る聖河のほとり人と人睦みて大悲分けあえるとぞ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・谷岡亜紀
 「安寧」の意味など今日は訊いてくる佐藤かおりに何がありしか・・・・・・・・・・・・・・・・森山良太
 糸吐きて繭を裡よりつくり出す蚕の声きこゆ夏白き昼・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・桜野ムツ
 立ちて百日紅坐りては見る千年紅われ息長にその紅を吸ふ・・・・・・・・・・・・・・・・・春日真木子
 エゾイチゲの花が咲いたと妻が言ひさうかと花を覗きにゆきぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・時田則雄
 つと視野を過ぎし蛍のかの夜よりこの世を夢と思ひ初めにき・・・・・・・・・・・・・・・・・照屋眞理子
 その身美しきこと知りゐるや知らざるや黒揚羽無心に舞ふ夏の朝・・・・・・・・・・・・・・ 石川恭子
 まさかそんなとだれもが思ふそんな日がたしかにあつた戦争の前・・・・・・・・・・・・・・永田和宏
 始めしは縄文人か奥久慈の炭火であぶる鮎の塩焼き・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 武藤ゆかり
 雨ごとに色を添へたる夏山の若葉に結ぶ露の輝き・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・多田羅 花
 ごろすけほう あ、いや、ごろごろわあおおわ 俺が何者かなんてどうでも・・・・・・ 久我田鶴子
 君の掌に乗する碧玉耀へり街の精霊となりてひびけよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 櫟原聰
 いちめんの向日葵畑の頭上には磔ざまに太陽のある・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 阪森郁代
 午後三時はちみつ色の犬眠る・・・・・・・・・・・・・・・・伊賀風香
 夏来るアンモナイトはひび割れて・・・・・・・・・・・・・・豊田佳那
 花火見て元素を当てる理系たち・・・・・・・・・・・・・・・・・栗原慧
 会いに行く理由がほしい夏の月・・・・・・・・・・・・・・・田中馨子
 母ちゃんの麦茶一口夏が来る・・・・・・・・・・・・・・・・斎藤真満
 かまきりがうわ目使いで見てる夏・・・・・・・・・・・・・ 寺崎航平
 仏法僧青空探し旅に出る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三井麗奈
 風を枕に里を遥かに三尺寝・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 市堀玉宗
 海からの風夏蝶を大きうす・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・仲寒蝉 
 クレヨンを使い切ってる夏の恋・・・・・・・・・・・・・・・・ 松井政典
 いちご食べすっぱい過去を甘くする・・・・・・・・・・・・ 河野莉奈
 半袖の亜米利加人や巴里祭・・・・・・・・・・・・・・・・ハードエッジ
 浴衣着てペンギンさんと呼ばれをり・・・・・・・・・・・・・青島玄武
 雷鳴の厨包丁みだれなく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・薮内小鈴
 朝一便飛び立つ先の雲の峰・・・・・・・・・・・・・・・・・・杉原祐之
 夏座敷ひとりに一つづつ鞄・・・・・・・・・・・・・・・・・・・津野利行
 長き橋日傘の信者渡り来る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・折勝家鴨
 元気かとドッペルゲンガーに言われ・・・・・・・・・・・・ 月波与生
 迷宮の颱風眼の蝸牛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・豊里友行
 正岡子規記念球場の熱き哉・・・・・・・・・・・・・・・・・・江口明暗
 夏蝶の渚といふはしのわずり・・・・・・・・・・・・・・・・・青本柚紀
 消火器をぐっと握って夏に立つ・・・・・・・・・・・・・・・・丸田洋渡
 丸椅子の真ん中に穴冷し中華・・・・・・・・・・・クズウジュンイチ
 ぱつくりと麦藁帽子割れにけり・・・・・・・・・・・・・・・・・寺沢一雄
 硝子鉢うねる金魚の尾の暗さ・・・・・・・・・・・・・・・・・赤野四羽
 立葵のぼる蟻一匹の一方通行・・・・・・・・・・・・・・・・・・大西節
 アガパンサスは気まま雨の中の花火・・・・・・・・・・・伊藤三枝
 サーバーを守って俺がダウンする・・・・・・・・・・・・・デクノボー
 つまみたる夏蝶トランプの厚さ・・・・・・・・・・・・・・・・・高柳克弘 
 向日葵の波を駆け抜け秘密基地・・・・・・・・・・・・・・ 木内実希
 黒揚羽旅は罅より始まりぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・冨田拓也
 全身を触覚にしてシャワー浴ぶ・・・・・・・・・・・・・・・・ 北大路翼
 夏橙その手ざわりの過去を言う・・・・・・・・・・・・・・・・ 伊藤淳子
 屋根裏に蛇這う音の昭和かな・・・・・・・・・・・・・・・・奥山津々子
 蕗十杷漬け置く桶の水の色・・・・・・・・・・・・・・・・・・五十嵐義知
 モナリザの微笑の先の水羊羹・・・・・・・・・・・・・・・・・・矢野玲奈
 夏木立つばさもちちふさも楽器・・・・・・・・・・・・・・・・・中村安伸
 避暑家族鳥とも違ふ会話して・・・・・・・・・・・・・・・・・・田中亜美
 大ぶりの蜘蛛の巣いい仕事してるなあ・・・・・・・佐々木香代子
 耳朶染まる多肉植物むんむんと・・・・・・・・・・・・・・・・榎本祐子
 撫でるごとトマト湯むきす子は遠し・・・・・・・・・・・・・・森岡佳子
 さざなみ今もすこしずつ砂になる・・・・・・・・・・・・・・・・・高梨章
 恋愛が模型の丘に置いてある・・・・・・・・・・・・・・・・・福田若之
 岩礁の苔のぬめりの深き夏・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石井薔子
 山の蛾のひとり網戸に体当たり・・・・・・・・・・・・・・・・・ 山田仁
 あられもなき五体ありけり大夕焼・・・・・・・・・・・・・・・・ 秦夕美
 軍艦島かごめかごめでいなくなり・・・・・・・・・・・・・・ 河西志帆
 白極む父のようなるアマリリス・・・・・・・・・・・・・・・・・・・乾志摩
 スカートの影も軽やか更衣・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・盛蓉子
 淋しさの色もいろいろ濃紫陽花・・・・・・・・・・・・・・ 藤原千賀子
 独りもいい紫陽花に降る雨の音・・・・・・・・・・・・・・・ 桑田佳穂
 古書店で紙魚になってるお父さま・・・・・・・・・・・・・・ 岩根彰子
 美味き草不味き草あり草を刈る・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木牛後 


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 歌集 『嬬恋』(角川書店刊)
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 歌集 『無冠の馬』(KADOKAWA刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
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山椒の葉かげに卵を生みゐたる黒揚羽蝶わらわらと去る・・・木村草弥
kuroageha-omoteクロアゲハ雌

    山椒の葉かげに卵(らん)を生みゐたる
        黒揚羽蝶わらわらと去る・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。

掲出の写真①は黒揚羽蝶の雌の羽の表の様子である。裏側の模様は少し違うが省略する。写真映りは白っぽいが、色は真っ黒である。

ageha032クロアゲハ

黒揚羽蝶の成虫は葉っぱを食べているわけではない。写真②のように花の蜜を吸って生きているのである。
揚羽蝶には色々の種類があるが、概して卵を生む植物は「香り」の強い草木に限定されているが、その中でも黒揚羽蝶は山椒、金柑などの柑橘類の木、パセリなどのハーブ類に卵を生む。
ハーブと言っても種類は多いので、その中でもパセリ類に限定される。
揚羽蝶の種類も色々あり、羽の模様もみな違うように取り付く草木も、それぞれ違う。黒揚羽と並揚羽とは取り付く木も共通するものが多い。
ここでは要点を絞って黒揚羽蝶と、その幼虫に限定する。
kuroageha-youchu01クロアゲハ威嚇

気持が悪いかも知れないが、写真③は幼虫の蛹になる直前の終齢の頃のもので、頭の先に赤い角状のものを出して「威嚇」しているところ。
独特の臭気も発する。これも威嚇のためである。
この写真の一日後には、この幼虫は「蛹」(さなぎ)になった。
写真④に、その蛹の様子を載せる。
kuroageha4クロアゲハ蛹

糸を一本吐いて柑橘類の木の茎に体を固定して蛹の様態に入ったもの。
この段階で捕食者から襲われないように、周囲の木と同じ色になって保護色を採るというから、その知恵には恐れ入る。
幼虫は夏の間に何度も孵るが、晩秋に蛹になったものは、この蛹の状態で「越冬」して、翌年の春に「羽化」して黒揚羽蝶の成虫になり、
雄、雌が交尾して、雌が産卵して新しい年度の命が発生する。
卵は纏めては生まない。ちょうど鰊の「かずのこ」の一粒のような大きさの卵を木の葉っぱのあちこちに、ポツンポツンと産み付ける。
色は葉っぱに似せて緑色をしている。この卵の段階でつまんで取り去ることも出来る。
この卵から孵ったものは黒っぽいが、黒揚羽も普通の揚羽も、とてもよく似ている。
この段階では緑と黒の保護色なので、葉っぱに紛れて見つけにくい。
写真⑤は蛹になる直前の終齢の幼虫を角度を変えて撮ったもの。
kuroageha3クロアゲハ幼虫終齢

黒揚羽の幼虫は、ここまで来ると、写真③も同様だが、いかにも気味の悪い毒々しい姿になったところである。

「蝶」は春の季語だが、春以外の季節にも居るので、その時は季をつける。
夏の蝶の代表は揚羽蝶である。これには十種類ほど居るという。一番よく目に止まるのは黒と黄色の縦じまの普通の(並)揚羽蝶ということになる。
黒揚羽蝶は夏らしい強さ、激しさを持っていると言われている。
以下、それらを詠んだ句を少し引いて終わりたい。

 黒揚羽花魁草にかけり来る・・・・・・・・高浜虚子

 渓下る大揚羽蝶どこまでも・・・・・・・・飯田蛇笏

 夏の蝶仰いで空に搏たれけり・・・・・・・・日野草城

 碧揚羽通るを時の驕りとす・・・・・・・・山口誓子

 乱心のごとき真夏の蝶を見よ・・・・・・・・阿波野青畝

 山の子に翅きしきしと夏の蝶・・・・・・・・秋元不死男

 夏の蝶一族絶えし墓どころ・・・・・・・・柴田白葉女

 日蝕のはげしきときに揚羽とぶ・・・・・・・・百合山羽公

 賛美歌や揚羽の吻を蜜のぼる・・・・・・・・中島斌雄

 夏蝶の風なき刻を飛べりけり・・・・・・・・池上浩山人

 黒揚羽舞ひ来て樹下に風起す・・・・・・・・茂恵一郎

 好色の揚羽を湧かす西行墓・・・・・・・・安井浩司

 黒揚羽黒と交わる神の前・・・・・・・・出口善子

 熟睡なすまれびととあり黒揚羽・・・・・・・・久保純夫

 魔女めくは島に生まれし黒揚羽・・・・・・・・大竹朝子

 摩周湖の隅まで晴れて夏の蝶・・・・・・・・星野椿

 乱心のごとき真夏の蝶を見よ・・・・・・・・阿波野青畝

 磨崖仏おほむらさきを放ちけり・・・・・・・・黒田杏子

白炎天鉾の切尖深く許し・・・橋本多佳子
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  白炎天鉾の切尖深く許し・・・・・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

京都の「祇園祭」は7月17日の今日、三十数基の山鉾が巡幸する。
数年前からは旧例に戻して今日の「前祭」23基と、7月24日の「後祭」10基に分けて巡行されることになった。
この頃は梅雨末期で激しい雨が降ることもあり蒸し暑いが、京都では祇園祭が過ぎると梅雨が明けると言われているが、今年はどうだろうか。

「貞観大地震・大津波」についての朝廷による公式記録『日本三代実録』のことは歌集『昭和』にも載せたが、
町衆の祭である「祇園祭」も、同年は御霊鎮(みたましずめ)として催行されたと言われている


掲出の橋本多佳子の句は、スケールの大きい祇園祭を、思念ふかく描いて秀逸である。
丁度そのときは雨が上って夏の太陽が──つまり「白炎天」が照り付けていたのだろう。
だから炎帝が高い長刀鉾の切っ先が空に突き刺さるのを許している、と並の詠み方ではなく、描いているのである。

写真①は鉾の行列の先頭を切る長刀鉾である。

03s祇園祭外人

祇園祭も国際化して、写真②の「くじ改め」の塗り箱を指し出すのは外人である。
外人は、こういうイベントに参加できるのが大好きなので、選ばれたことに大感激である。
裃(かみしも)姿で正装して張り切っている。
お断りしておくが、写真は、いずれもネット上から拝借した過年度のものである。
「フリー」と表示してあるものを選んだが、不適当ということなら指摘してもらいたい。削除します。


ここで「祇園祭」のことを少し振り返ってみよう。
02s稚児

写真③は巡幸にあたり道路に張られた注連縄を太刀で切る「稚児」である。
この稚児の役は資産家の子供が選ばれ、約1ケ月間、家族と離れて精進潔斎して奉仕するが、家からの持ち出しは大変な金額にのぼるので、誰でもがなれるものではない。

祇園祭は「町衆」の祭と言われる。
この祭は八坂神社の祭礼の一環だが、貞観11年、陸奥では大地震・大津波が襲来し、各地で疫病が流行し都も荒れ果てていた時に町衆が中心になって催行したという。

詳しいことはネット上で検索してみてもらいたい。
IMG_1333-01s胴がけ

写真④は鉾や山の胴体を飾る「胴掛け」と呼ばれるタペストリーなどである。掲出した胴掛けは尾形光琳の有名な「かきつばた」図を忠実に織物にしたもので、これは最近の新作である。古いものではヨーロッパから渡来したタペストリーなども幾つかある。この辺にも当時の町衆の財力のすごさを示している。
祇園祭方向転換

写真⑤は四つ角に差し掛かった時に鉾の方向転換の引き綱の様子を上から見たものである。「辻まわし」という。
昔と比べると、巡幸のルートも大きく変わった。昔は四条通よりも南の松原通などを通っていたが、道が狭いので、道路の広い御池通(戦争末期に防火帯として道路を使用する目的で沿道の建物を強制的に引き倒した、いわゆる疎開道路で拡幅されたもの)を通るように、当時の高山義三市長が強引に替えたものだが、今では、これが正解だったと判るのである。

ここで「宵山」と当日の大きな写真を載せておく。
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終りに歳時記に載る句を少し引く。

 月鉾や児(ちご)の額の薄粧(けはひ)・・・・・・・・曾良

 祇園会や二階に顔のうづ高き・・・・・・・・正岡子規

 人形に倣ふといへど鉾の稚児・・・・・・・・後藤夜半

 鉾の灯のつくより囃子競ひぬる・・・・・・・・岸風三楼

 神妙に汗も拭はず鉾の児(ちご)・・・・・・・・・伊藤松宇

 大車輪ぎくりととまり鉾とまる・・・・・・・・山口波津女

 水打つてまだ日の高き鉾の街・・・・・・・・飯尾雅昭

 鉾の上の空も祭の星飾る・・・・・・・・樋口久兵

 鉾を見る肌美しき人と坐し・・・・・・・・緒方まさ子



木の椀に白粥さくと掬ひをり朝粥会の法話終りて・・・木村草弥
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    木の椀に白粥さくと掬(すく)ひをり
        朝粥会の法話終りて・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。

京都の夏は、盆地性の気候のため、とても暑い。
この夏の間を利用して各地の寺院などで暁天座禅会や緑蔭講座などが催される。
掲出の私の歌は、もう二十数年も前のものであり、どこの寺のものか、などの詮索は止めて、一般的なものと受け取ってもらいたい。
掲出の「白粥」も、その場で写せるものではないので、あくまでもイメージであることを了承されたい。

hodo法堂

写真②は建仁寺の法堂(はっとう)であるが、ここ建仁寺でも毎年7月初・中旬に「暁天坐禅会と緑蔭講座」が催される。
もともと昔からの行事として「夏安居」という90日間の僧の修行の行事があったが、それを庶民にも開放したのが、暁天行事として定着したと言えるだろう。
建仁寺の場合に触れると、本年7月12日(金)~7月14日(日)の3日間に亘り開催された。

坐禅開始は6:30~、緑陰講座は7:10~。(終了 8:00前後)

※最終日7月14日の講座後には粥座(しゅくざ)[朝食]の接待があった。

◎各日程の緑陰講座の講師は下記の通り。

7月12日(金)

講  師  ㈱中根庭園研究所代表取締役所長
      東京農業大学客員教授  

中根 史郎 先生

演  題 『日本庭園の今と昔』

7月13日(土)

講  師  エッセイスト

岸本 葉子 先生

演  題 『病と介護に学んだこと』

7月14日(日)

建仁寺派管長  小堀泰巖老大師

提  唱   碧巌録第九十九則
      『粛宗十身調御(しゅくそうじっしんちょうご)』

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このような催しはあちこちで盛んであり、京都でもたくさんあるが、朝粥の接待のあるところは、後始末が面倒なので減ってきたらしく、
朝粥の出るのは、西本願寺の法話・朝粥、智積院の法話・朝粥などである。後は「おにぎり」「点心」「そーめん」などの接待が見える。
全国各地で朝粥会は行なわれ、毎週おこなわれるところも見られる。

ここでは「夏安居」を詠んだ句を引いて終りたい。

 まつさをな雨が降るなり雨安居・・・・・・・・藤後左右

 夏行とも又ただ日々の日課とも・・・・・・・・高浜虚子

 杉深くいかづちの居る夏行かな・・・・・・・・富安風生

 食堂(じきどう)も炷きこめられし安居かな・・・・・・・・皆吉爽雨

 夏に籠る山六月の椿かな・・・・・・・・・喜谷六花

 山門に山羊の仔あそぶ夏の始め・・・・・・・・中川宋淵

 夏行僧白粥に塩落しけり・・・・・・・・土居伸哉

 土性骨敲かれて居る安居僧・・・・・・・・河野静雲

 黒揚羽絶えず飛びゐる安居かな・・・・・・・・川上一郎



むらさきにけぶる園生の遥けくてアガパンサスに恋の訪れ・・・木村草弥
yagapanアガパンサス

──季節の歌鑑賞──夏の「花」三題──

   ■むらさきにけぶる園生の遥けくて
       アガパンサスに恋の訪れ・・・・・・・・・・・・木村草弥


今日は夏の花三題を採り上げることにする。
掲出する歌は、いずれも私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
「花言葉」の連作を作っていたときの作品だ。
写真①は「アガパンサス」で、このごろではあちこちに見られるようになった。
花言葉は「恋の訪れ」であるから、この言葉を元にして歌を作ってある。
ユリ科の多年草で、南アフリカ原産。強い性質で日本の風土にもよく合うらしく、各地の花壇や切花用に盛んに栽培されるようになった。
君子蘭に似ているのでムラサキクンシランの和名もある。

gabera4ガーベラ①

    ■ガーベラに照り翳(かげ)る日の神秘あり
      鷗外に若き日の恋ひとつ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


写真②のガーベラも花色はいくつもある。花言葉は「神秘」。
この花はキク科の多年草で、この花も南アフリカ・トランスバールが原産地。野生ではなく、はじめから園芸植物として開発されたらしい。
明治末にわが国に紹介されたが、今では公園などに広く植栽され、色とりどりの彩りを見せている。
花期は長く秋まで咲く。

yun_942ルピナス

    ■藤房の逆立つさまのルピナスは
       花のいのちを貪りゐたり・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「ルピナス」は、マメ科ハウチワマメ属の総称。ルーピンとも言う。
世界各地に300種類もあるという。原産地は南ヨーロッパ。
藤の花を立てたようなので和名は立藤草。
私の歌は藤色の花を詠んでいるが、ルピナスは2008年、北海道の富良野でたくさん見かけた。
ただし写真は私のものではなく、yun氏の撮ったものを拝借した。
生命力旺盛な草で、花言葉は「貪欲、空想」。私の歌は、その「貪欲」を詠み込んである。

俳句に詠まれるものは、横文字の花の名で字数も多く、詠みにくいのか作品数も多くないので、省略する。


昏梅雨をつきて盛れる火の祭たいまつの男は汗みどろなる・・・木村草弥
img_news那智の火祭り

    昏(くれ)梅雨をつきて盛れる火の祭
       たいまつの男(を)は汗みどろなる・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載る「み熊野」と題する一連の中のものである。
毎年7月14日に行なわれる「那智の火祭」は熊野那智大社の例大祭である。
この祭は12体の熊野の神々が大滝の前の飛滝神社に年に一度の里帰りの様子を表したものである。12体の大松明の迫力と熱気に、みんな我を忘れての歓声である。
2004年に「熊野三山の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されて、観光客も大幅に増えて来たという。
参詣道として世界で二例目ということでスペインの「サンチアゴ巡礼の道」からの視察団も表敬訪問してくれたという。

himatsuri2那智大社

写真②が熊野三山のひとつ熊野那智大社だが、社殿の前に熊野三山の守り神、三本足の神鳥「八咫烏(やたがらす)」の像が建っている。
熊野三山というのは、この熊野那智大社のほかに熊野本宮大社、熊野速玉大社をいう。
熊野那智大社は、ご神体は那智の滝であり、自然信仰の原点のように考えられるところである。
この大社に隣接して青岸渡寺があるが、明治初期の廃仏棄釈までは、両社一体の神仏混交のものであった。
前に書いたが、この青岸渡寺は「西国三十三ケ所霊場」巡りの一番札所である。
himatsuri5那智火祭②

写真④は、この火祭で松明をかつぐ役を奉仕した男たちが勢ぞろいして役目の報告をするところである。
himatsuri7那智火祭③

中世には「熊野詣で」と称して天皇や法皇などが行列をしつらえて京の都から遥々と参詣したのである。
今それらの道程が日の目を浴びて復活してきたのであるが、「歴史遺産」というのは古いままで保存されているのが原則であるのに、
道を整備し直して批判を浴びているという笑えぬ事態も出てきているらしい。

写真⑤は、この祭の一環として、火祭の前に奉納される「稚児の舞」である。和歌山県の無形文化財に指定されている。
himatsuri1火祭稚児の舞

いま歳時記を調べてみたが、那智の火祭ないしは火祭という項目は出て来るが、例句は無い。
今でこそ「熊野那智」の地は脚光を浴びているが1980年代あるいは90年代は、ローカルな行事として採録されなかったものと考えられる。
私の持っているようなものではなく、もっと大部の歳時記であれば載っているかも知れないが、お許し願いたい。
そんなことで、この辺で終りにしたい。



桔梗や男も汚れてはならず・・・石田波郷
yun_448桔梗本命

  桔梗や男も汚れてはならず・・・・・・・・・・・・・石田波郷

桔梗(ききょう)あるいは漢字の音読みにして「きちこう」とも発音される。
この波郷の句ではキチコウの読みである。

キキョウ科の多年草で「秋の七草」の一つであるから、俳句では秋の季語となるが、実際には六月中旬には咲きだすところが多い。
青みがかった紫のものが多いが、栽培種も多く、白、紫白色、二重咲きなどいろいろである。
矮性の小さな種類もあるが、在来の50センチくらいの高さで、紫色のものが一番ふさわしい。
kikyou4キキョウ白

この波郷の句の「男も汚れてはならず」というフレーズに、老いの境地に居る私としては、ピシリと鞭うたれるような気がして、とっさに頂いた。
老いても男は身ぎれいにして、シャキッとして居なければならぬ。
「万葉集」にいう「あさがお」は桔梗のこととされている。

小林一茶の句に

 きりきりしやんとしてさく桔梗かな

というのがあるが、きっぱりと、すがすがしい野性味のある花と言えるだろう。
私の歌にも桔梗を詠んだものがあるが、昨年に採り上げたので遠慮して、歳時記に載る句を引いて終わる。
yado33kikyouキキョウ矮性

 桔梗の紫さめし思ひかな・・・・・・・・高浜虚子

 仏性は白き桔梗にこそあらめ・・・・・・・・夏目漱石

 かたまりて咲きし桔梗のさびしさよ・・・・・・・・久保田万太郎

 桔梗の花の中よりくもの糸・・・・・・・・高野素十

 桔梗やまた雨かへす峠口・・・・・・・・飯田蛇笏

 桔梗には鳴る莟あり皇子の墓・・・・・・・・平畑静塔

 桔梗いまするどき露となりゐたり・・・・・・・・加藤楸邨

 桔梗一輪死なばゆく手の道通る・・・・・・・・飯田龍太

 桔梗挿す壺の暗さをのぞいてから・・・・・・・・桂信子

 桔梗やおのれ惜しめといふことぞ・・・・・・・・森澄雄

 おもかげをさだかにしたり白桔梗・・・・・・・・細見綾子

 技芸天桔梗花びら露むすび・・・・・・・・沢木欣一

 誰やらの死をたとふれば桔梗かな・・・・・・・・石原八束

 桔梗やきりりと辛き飛騨の酒・・・・・・・・草間時彦

 百本の桔梗束ねしゆめうつつ・・・・・・・・藤田湘子

 桔梗の色を見てゐる麻酔の前・・・・・・・・宮岡計次

 桔梗咲く母のいのちのあるかぎり・・・・・・・・小桧山繁子
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写真③は矮性のキキョウである。


七月や雨脚を見て門司にあり・・・藤田湘子
moji04門司港レトロ
↑ 門司港レトロ
 
   七月や雨脚を見て門司にあり・・・・・・・・・・・・・・・・藤田湘子

一読して何のあいまいさもなく納得される句である。
しかし、句の背景をなす情緒の中身については、読者の側で、さまざまに空想できるふくらみがある。
たとえば、作者名を消し、人物を女性だとしたら、急な夕立の雨脚を見ている情感には別な映像が結びつくだろう。
出会い、別れ、若い人、老いた人、あるいは、ごく日常的なすれ違いなど、さまざまな人生模様が想像できそうである。
短詩型では、常に「何を詠むか」と同時に「何を詠まないか」の選択が決め手となる。
この句は明瞭な事実だけを詠んで、あとは読者の想像に任せている。思い切りよく「捨てて」広がりを採ったのである。
昭和51年刊『狩人』所載。
掲出画像は「門司港レトロ」である。七月の雨脚の写真を出したかったが、いい写真がない。
藤田湘子は国鉄に勤めていたから、関門海峡の関所であった「門司」は親しい処だったと思われる。

いまや七月半ばである。陰暦の七月は文月で秋に入るが、陽暦の七月は、最も夏らしい月である。
七月を詠んだ句を少し引いてみる。

 七月のつめたきスウプ澄み透り・・・・・・・・・・日野草城

 七月の鶏の筒ごゑ朝の杉・・・・・・・・・・森澄雄

 夕月に七月の蝶のぼりけり・・・・・・・・・・原石鼎

 七月の夕闇ちちもははもなし・・・・・・・・・・平井照敏

 七月の蝌蚪が居りけり山の池・・・・・・・・・・高浜虚子

 七月の青嶺まぢかく溶鉱炉・・・・・・・・・・山口誓子

 七月や銀のキリスト石の壁・・・・・・・・・・大野林火

 少年のつばさなす耳七月へ・・・・・・・・・・林邦彦

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藤田湘子の今の季節の句を引いて、終わりにする。

 柿若葉多忙を口実となすな

 口笛ひゆうとゴッホ死にたるは夏か

 蝿叩此処になければ何処にもなし

 干蒲団男の子がなくてふくらめり

 わが裸草木虫魚幽くあり

 真青な中より実梅落ちにけり

 朝顔の双葉に甲も乙もなし

 水草生ふ後朝(きぬぎぬ)のうた昔より

 巣立鳥明眸すでに岳を得つ

 山国のけぢめの色の青葡萄



己が花粉浴びまみれてや立葵・・・三橋敏雄
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     己(し)が花粉浴びまみれてや立葵・・・・・・・・・・・・・・・三橋敏雄

アオイ科の越年草で人間の背丈よりも高くまで伸びる。単にアオイという植物はなく、一般にタチアオイのことを葵という。
原産地は中国、小アジアで、日本には室町時代に渡来し、鑑賞用に、また薬用に植えられたという。

葵の名が日本で最初に現れるのは「万葉集」だが、これはフユアオイまたはフタバアオイ(写真②)であるらしい。
futaba-aoiフタバアオイ本命

京都の「葵祭」に用いられるのもフタバアオイで、花ではなく葉を「挿頭」(かざし)にされるのである。
この植物は葵の名はついていても全く別のものでウマノスズクサ科のものである。
徳川家の家紋に使われたのが、これで、葉を三枚組み合わせて使われた。
先に5/15付けの「葵祭」の記事を書いた時に牛車の脇に吊るされるのが「藤の花」かと書いたのは正解で、葵祭は挿頭にフタバアオイの葉をかざしたので、この名がついたことが判明した。
写真③にフタバアオイの花をお見せする。
futaba-aoi3フタバアオイ花

話は変わるが、ネアンデルタール人の埋葬骨と一緒にタチアオイの花粉が発見されているという。
中国の唐代に牡丹が台頭するまではタチアオイが花の代表選手だったという。
花言葉は「平安」「単純」。花の色には白、赤、紫などがある。中国美女の立ち姿に似ており、古い中国で花の代表だったのも頷ける。

俳句にもたくさん詠まれており、それを引いて終わる。

 ひともとの葵咲きつぎたのしけれ・・・・・・・・日野草城

 門に待つ母立葵より小さし・・・・・・・・岸風三楼

 峡深し暮をいろどる立葵・・・・・・・・沢木欣一

 立葵のぞき棚経僧来たる・・・・・・・・石原八束

 咲きのぼるばかり葵の咲きのぼる・・・・・・・・見学玄

 蜀葵人の世を過ぎしごとく過ぐ・・・・・・・・森澄雄

 呼鈴を押してしばらく立葵・・・・・・・・鷹羽狩行

 雨はゆめなり雨の夜は白蜀葵・・・・・・・・阿部完市

 立葵まつすぐに来て破顔せり・・・・・・・・金谷信夫

 呼ぶ子帰る子十二時の立葵・・・・・・・・広瀬直人

 立葵大きな雨が三日ほど・・・・・・・・矢島渚男




中沢新一『鳥の仏教』・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

      中沢新一『鳥の仏教』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・・・新潮文庫2011/06/26刊・・・・・・・・・・・

鸚鵡が尋ねる。 カッコウが答える。 鳥たちの言葉から、ブッダの教えを伝える名著。 カラー挿絵多数収録。

カッコウに姿を変えた観音菩薩がブッダの最も貴い知恵について語り、鶴、セキレイ、ライチョウ、鳩、フクロウなどの鳥たちが、幸福へと続く言葉を紡ぐ。
20世紀初頭に存在が知られるようになったこの経典は、チベットで古くから読み継がれてきた、農民や牧畜民など一般の信者に向けられた書物。
はじめてチベット語から翻訳される、仏教思想のエッセンスに満ち溢れた貴重な一冊。

この文庫版は 2008/11/28に発売された単行本の文庫化である。
最初に出た際に新潮社の読書誌「波」2008年12月号に載る書評を引いておく。
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            『鳥の仏教』・・・・・・・・・・・・中沢新一

    「苦しみから私たちを解き放つ、正しい方法を教えてください」、鸚鵡は問いかける。
     カッコウに姿を変えた観音菩薩は答える、最も重要なブッダの知恵を。
     やがて森に集まった鶴、セキレイ、ライチョウ、鳩、フクロウ、
     様々な鳥たちが真の幸福へ続く言葉を歌い出す。
     チベットの仏典を訳し、仏教の核心にある教えを優しく伝える、貴重な一冊。
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        鳥たちが伝える仏教・・・・・・・・・・・・・・養老孟司

 鳥の仏教。
 表題がいいじゃないですか。『鳥の仏教』って。
中沢新一さんがこういうとっても「わかりやすい」ものを訳すようになるってことは、もう歳だっていうことじゃないですか。
まだまだ若いと思っていたのに。

 私自身の体験のなかにも、ネズミの仏教がある。
 東大医学部で解剖学教室の助手をしているときだった。
編集者に頼まれて、岩波書店の雑誌「科学」に、当時調べていたトガリネズミについて、自分の仕事の総説を書いたことがある。
 なんでわざわざ、そんな変なネズミを調べるのか。理屈をいえば、いくらだってある。
もう古稀を越えた現在の年齢になれば、なにをいおうと、要するにそんなものは理屈、後知恵だとわかっている。
でも当時は若かったから、マジメに書いた。でも最後のところでどうしても書きたくなった。
ヒトが本当に動物を「理解する」としたら、それはどういうことになるのか。むろん理屈にはならないはずである。
いくら素朴な科学主義者でも、どこまでも「理」でネズミがわかるとはいうまい。
 じつはそう考えたわけではない。ひとりでに筆が走った。
もし私が本当にトガリネズミを理解するとしたら、それはどういうことになるのか。最終的には「共鳴」というしかないであろう、と。
 出来上がった原稿は、恩師の中井準之助先生に目を通していただいた。なにしろ学術論文ではない、はじめての文章である。
こんなこと、発表していいのか。それもあって、読んでいただくつもりだった。
やがて帰ってきた原稿には、ただ「共鳴」の部分から線が引き出してあって、その線の先に、先生の字で「合掌」と赤字で書かれていた。
思えばこれが、私の最初の信仰告白だった。中井先生もそれをちゃんと「理解」しておられたことになる。
最後まで私にとっては頭が上がらない方だった。
 先生は若いときに両親を亡くされ、親戚の家で育てられたという。
家は建物自体も二百五十年続いた近江商人の旧家である。小さいときにはお題目をあげさせられて、閉口した思い出を語っておられた記憶がある。
 私も歳だから、自分が結局は仏教で育てられていることを、しばしば認識する。現代では大方の若者がそれに気づいていないであろう。
でもこういうものは、文化の根に入ってしまって、無意識になっているから、どちらにしても仕方がないのである。本音を語ればどこかで仏教が出てくるに違いない。
「鳥の仏教」は現代チベット仏教を一般人に親しみやすいように語ったものだという。
成立はたぶん十九世紀、でもその背景には古くからのチベット民話がある。
いろいろな種類の鳥が出てきて、それぞれの鳴き声で仏教の教えを語る。
こういう本って、いいですよね。あんまり説教臭くなく、説教をするからである。
 ダライ・ラマ14世がそうである。今年ダージリンのチベット難民センターに行った。
そうしたら壁にダライ・ラマの言葉の抜粋が貼ってある。
英語だけれど、韻を踏んで面白かったから、池田清彦との共著『正義で地球は救えない』(新潮社)の「あとがき」に盗用しておいた。
 チベット仏教は殺生戒が厳しいので、虫が採りにくい。タバコもダメ。そういうことについては、もっとだらしない宗派がいい。
でもまあ、私はお坊さんではないし、要は仏教のことだから、そうやかましいことはいわないだろう。
そう思いながら、欧米の病院で書類を書かされると、宗教の欄には「仏教」と胸を張って書くのである。  (ようろう・たけし 解剖学者)

中沢新一/ナカザワ・シンイチ
1950(昭和25)年山梨県生まれ。人類学者。
妻は翻訳家の川口恵子。日本史学者網野善彦は義理の叔父(叔母の夫)。作家の芹沢光治良は親戚。林真理子は小中学校の後輩。
2006年(平成18年)から多摩美術大学美術学部芸術学科教授・芸術人類学研究所所長。
著書に『チベットのモーツァルト』『森のバロック』『フィロソフィア・ヤポニカ』『カイエ・ソバージュ』シリーズ(全五巻)『精霊の王』『僕の叔父さん 網野善彦』『アースダイバー』『芸術人類学』『ミクロコスモスI~II』など多数。
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中沢新一の本は難解で読みづらいものだが、この本はイラストなども多く、読みやすい。


女子ゴルフ・渋野日向子とN響・山田和樹・河村尚子を視聴する・・・木村草弥
214279渋野日向子

    女子ゴルフ・渋野日向子とN響・山田和樹・河村尚子を視聴する・・・木村草弥

この日曜日はゴルフと音楽を堪能した。 いい日曜日だった。

女子ゴルフ「資生堂アネッサ・レディース杯」は二十歳の去年プロになったばかりの「渋野日向子」がプレーオフで勝って優勝しました。
攻めるゴルフが秀逸で、今期二勝目ですからね。

https___imgix-proxy_n8s_jp_content_pic_20170128_96958A9F889DE3E0E3E4E0E6E7E2E0E4E2E3E0E2E3E5E2E2E2E2E2E2-DSXMZO1216248026012017000001-PB1-10河村尚子
 ↑ 河村尚子
32507_1山田和樹
↑ 山田和樹

夜はN響の定期演奏会は日本人若手の山田和樹指揮で日本人作曲の二曲。
平尾喜四男の交響詩「砧。」
二番目は矢代秋雄の「ピアノ協奏曲」。ピアノは河村尚子でした。雅楽の要素も取り入れた作品で「和声」の表情豊か。
河村は、沖縄の芭蕉布のような涼しげな服装で熱演でした。
演奏が終わって、指揮者の山田と固くハグしたのが印象的でした。
久々に日本人の作曲、演奏を堪能しましたね。

因みに、矢代 秋雄とは、こういう人。 ↓
矢代 秋雄(やしろ あきお、1929年9月10日 - 1976年4月9日)は日本の作曲家。若い頃より英才として将来を期待され、東京音楽学校作曲科、東京藝術大学研究科を卒業した後、パリ国立高等音楽院に留学。和声法で一等賞を得る等、優秀な成績を修めて卒業。晩年は、作曲家として活動する一方、東京藝術大学音楽学部作曲科の主任教授として、後進の指導にあたった。門下より、野田暉行、池辺晋一郎、西村朗、荻久保和明、糀場富美子など現在の日本を代表する作曲家を輩出している。完璧主義、寡作主義で知られ、残された作品はどれも完成度が高く、再演も多い。

平尾喜四男とは、こういう人。 ↓
東京府東京市日本橋区(現・東京都中央区)生まれ。化粧品業を営む平尾聚泉の四男として育つ。家は裕福であった。慶應義塾幼稚舎・慶應義塾普通部を経て慶應義塾大学医学部に進んだが、文学部独文科に転じ、1930年に卒業。大学在学中、ソルフェージュと音楽理論をヴァンサン・ダンディ門下の陸軍軍楽隊長、大沼哲に師事した。また、卒業して8ヶ月後の11月に戸沢妙子と結婚。
1931年、夫婦でパリへ渡航。始めはスコラ・カントルム[1]で学ぶものの、学校紛争に巻き込まれた結果、セザール・フランク音楽学校(英語版)に転学。1935年まで在籍した。2つの学校で作曲を、課外でフルートを学ぶ。フルートの師はガストン・クリューネル(英語版)。1936年に帰国。1948年に作曲グループ「地人会」を安部幸明らと結成。作品に、ソプラノとバリトン独唱と管弦楽伴奏のための「隅田川」 (1936年)、管弦楽曲「砧」(1942年)、ヴァイオリン・ソナタ(1947年)、ピアノソナタ(1948年)、などがあり、室内楽がほとんどを占める。
戦後は国立音楽大学教授、日本現代音楽協会委員長などを務めるが、病気のため「オーボエ・ソナタ」(鈴木清三の委嘱、1951年)を最後として、1953年12月、46歳で没。翌年、「木管五重奏曲」(東京管楽器協会の委嘱)に対して毎日音楽賞を追贈される。
弟子に冨田勲、宇野誠一郎、一柳慧がいる。



アルル「サン・トロフィーム教会」・・・木村草弥
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↑ サン・トロフィーム教会
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 ↑ 回廊中庭から鐘楼を望む
 
──巡礼の旅──(13)─再掲載・初出2013/07/12

     アルル「サン・トロフィーム教会」・・・・・・・・・・・・木村草弥

サン=トロフィーム教会 (Cathédrale Saint-Trophime d'Arles)は、南フランスの都市アルルに存在するロマネスク様式の教会堂。
教会そのものもさることながら、美しい彫刻が刻まれた柱の並ぶ回廊も高く評価されており、「アルルのローマ遺跡とロマネスク様式建造物群」の一つとして世界遺産に登録されている。

もともとはこの教会の敷地に存在していたのは、聖ステファノ(サン=テチエンヌ)に献堂されたバシリカ式教会堂であった。
11世紀から、当時アリスカンに眠っていた聖トロフィムス(3世紀のアルルの聖人)の聖遺物(遺体)を、この教会に安置しなおそうという動きが持ち上がり、ロマネスク様式の現在の教会堂の原型が形成された。そして、1152年に聖トロフィムスの聖遺物が移されると、彼にちなんで「サン=トロフィーム大聖堂」となった。
15世紀にはゴシック様式の内陣が加えられた。
かつてこの教会は大聖堂(司教座聖堂)であったが、1801年に小教区教会に格下げされた。
この司教座教会はサンティアゴ・デ・コンポステーラへの4つの巡礼路の始点の一つにあたる。
この巡礼路は、現在のこの教会がつくられた11世紀頃からローマ(カトリック)教会が奨励したものであり、建物の建て直しと関連があるものと推察される。

この教会堂は、古代ローマ建築との共通性が特徴とされている。
確かに、アーキトレーヴ(開口部の回りに付けられる装飾用の枠組み)を埋める浮彫りとそれを支える円柱、その中に立つ彫像の組み合わせも古代ローマ神殿を思わせる。
特に見どころとされているのは、西正面(ファサード)と回廊である。

800px-Arles_St_Trophime_Kreuzgang_20040828-240サントロフィーム回廊
 ↑ 回廊

入り口のティンパヌムには、最後の審判をイメージした彫刻がある。
そこでは、イエスが中心に配され、マタイ、ルカ、マルコ、ヨハネらが黙示録の四つの獣に対応させられる形で描かれている。
またその周囲の壁面などにも、十二使徒、受胎告知、ステファノの石打ち等の聖書にゆかりのある諸情景、および諸聖人が刻まれている。
回廊の柱も様々な美しい彫刻に彩られている。ここには、イエスの生涯などのほか、地元プロヴァンスにゆかりのある聖トロフィムスや怪物タラスクなども描かれている。

この教会については → 「南仏ロマネスク訪問記」に詳しい写真などがある。アクセスされよ。(注・目下は見られない、ということである)
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ここで、先日来、「巡礼の旅」として書いてきたことだが、「プロヴァンス」という地名の由来について書いておきたい。
この「プロヴァンス」という名前は、古代ローマでの「属州」(プロヴィンキア)という普通名詞に由来する。
しかも、この地方は五世紀の蛮族侵入のあともローマに最後まで忠実であった「ゴール」の州だからである。そして、その中心がアルルであった。
後年、ローマ教皇庁がローマに居られなくなったときに、かなりの期間、ここアルルはアヴィニョンにローマ教皇庁が置かれたのも、そういう理由によるのである。
ここではローマの古代都市の俤が、闘技場、劇場、広場(フォラム)などに、もっとも典型として残っており、社会教育制度も八世紀までローマ風に維持されていたのである。
アルルは当時ローヌ川を遡ってくる港であり、地中海の貿易が盛んであったから、古代文明は衰退したとはいえ、それは人々の心性に残り、
それが一般民家や教会、修道院建築にまで大きな影響を及ぼした。その一つが、ここに採り上げたアルルのサン・トロフィーム教会なのである。
ここはギリシア出身のペテロの弟子で、46年、当地、プロヴァンス地方に布教した聖トロフィームを祀ったところであり、
一時は「司教座教会」としてプロヴァンス地方に重きをなしていたのもその故である。
詳しくは、リンクに貼ってある「南仏ロマネスク訪問記」を参照されたい。見事な写真や記事が見られる。(注・目下は見られない、ということである)

ここで、蛇足かも知れないが「カテドラル」という呼称の教会のことについて書いておく。
これはカトリックに限ることだが、「カテドラル」=「司教座教会」に限って呼ばれるのであって、建物の大きさとは関係がないから念のため。
よくガイドなんかも、でたらめな説明をする人が居るが、これは厳密な約束事であるから、よく覚えておいてもらいたい。
その地域を管轄する「司教」さんが駐在する教会ということである。


梅雨空へ天道虫が七ほしの背中を割りて翔びたつ朝・・・木村草弥
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    梅雨空へ天道虫が七ほしの
       背中を割りて翔びたつ朝(あした)・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、制作時期は、もう20年以上も前になるが、大阪、京都、奈良の30数人が出席した合同歌会が、奈良の談山神社で開かれたときの出詠歌で、
出席者の大半の票を獲得した、思い出ふかい歌である。
自選50首にも選んでいるので、Web上でも、ご覧いただける。

この談山神社は藤原鎌足を祀るが、蘇我氏の横暴を抑えようと、中大兄皇子と鎌足が蹴鞠をしながら談合したという故事のある所である。
ここに務める神官で、かつ歌人でもある二人の友人がいるところでもある。

「テントウムシ」には、益虫と害虫の二種類があって、この「ナナホシテントウムシ」は作物にたかるアブラムシなどを食べてくれる「益虫」である。
朱色の背中に黒い●が7個あることから、この名前になっている。
テントウムシには、ほかに「二星」などの種類があるが、これらはすべて「害虫」とされている。
つまり、作物の汁を吸ったり、食害を与えたりする、ということである。

今日、農業の世界でも農薬、除草剤などの薬害の影響が叫ばれ、できるだけ農薬を使用しないように、ということになっている。
こういう化学合成による農薬ではなく、この「七ほし天道虫」のように「天敵」を利用するとか、害虫の習性を利用して、
雌雄の引きあうホルモン(フェロモン)を突き止めて、それを発散する簡単な器具を作り、雄を誘引して一網打尽に捕える、などが実用化されている。

ここで歌集に載せた一連の歌を引いておきたい。

     天道虫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

   菖蒲湯の一たば抱けばああ若き男のにほひ放つならずや

   梅雨空へ天道虫が七ほしの背中を割りて翔びたつ朝(あした)

   濡るるほど濃き緑陰にたたずめば風さわさわと松の芯にほふ

   夏草の被さる小川は目に見えず水音ばかり韻(ひび)かせゐたり

   散るよりは咲くをひそかに沙羅の木は一期の夢に昏るる寺庭

   野良びとが家路を辿る夕まぐれ野の刻しんとみどりに昏るる

   土鈴ふる響きおもはせ驟雨きて梅雨あけ近しと知らすこのごろ

   茄子の花うす紫に咲きいでて農夫の肌にひかりあふ夕

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談山神社に関していうと、私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に、次のような歌がある。

   談山の社に佇てば鞠を蹴る音のまぼろし「蘇我氏を討たむ」・・・・・・・・・木村草弥

この歌は、もちろん上に書いた鎌足と中大兄皇子の故事に因むものである。
ついでに書いておくと、現在の談山神社の宮司は長岡千尋氏で、彼は「日本歌人」所属の歌人である。
ネット上では、特別講話「藤原鎌足と多武峰信仰」というのが見られるから、アクセスされよ。

天道虫は童謡にも登場する虫で、どこか人なつっこいところがある。
俳句にも、よく詠まれているので、それを引いて終わる。

 のぼりゆく草細りゆく天道虫・・・・・・・・・中村草田男

 旅づかれ天道虫の手にとまる・・・・・・・・阿波野青畝

 ほぐるる芽てんたう虫の朱をとどむ・・・・・・・・篠田悌二郎

 翅わつててんたう虫の飛びいづる・・・・・・・・高野素十

 天道虫だましの中の天道虫・・・・・・・・高野素十

 老松の下に天道虫と在り・・・・・・・・川端茅舎

 天道虫天の密書を翅裏に・・・・・・・・三橋鷹女

 てんと虫一兵われの死なざりし・・・・・・・・安住敦

 愛しきれぬ間に天道虫掌より翔つ・・・・・・・・加倉井秋を

 砂こぼし砂こぼし天道虫生る・・・・・・・・小林恵子

 天道虫羽をひらけばすでに無し・・・・・・・・立木いち子

 天道虫バイブルに来て珠となりぬ・・・・・・・・酒井鱒吉

 天道虫玻璃を登れり裏より見る・・・・・・・・津村貝刀


荒梅雨のその荒星が祭らるる・・・相生垣瓜人
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    荒梅雨のその荒星が祭らるる・・・・・・・・・・・・・相生垣瓜人

七夕(たなばた、しちせき)は、日本、台湾、中国、韓国、ベトナムなどにおける節供、節日の一つ。五節句の一つにも数えられる。
旧暦の7月7日の夜のことであるが、日本では明治改暦以降、お盆が7月か8月に分かれるように、7月7日又は月遅れの8月7日に分かれて七夕祭りが行われる。
しかし今では、おおよそ新暦で行われることが多い。 だから掲出句のような詠み方がなされる。
新暦では、まだ梅雨の末期であり、大雨が降ることが多いからである。
しかし歳時記では「七夕」は「秋」の季語であるから注意が必要である。

古句には

   秋来ぬと妻恋ふ星や鹿の革・・・・・・・・芭蕉

   彦星やげにも今夜は七ひかり・・・・・・・・西鶴

   うき草のうかれありくや女七夕・・・・・・・・才麿

   かささぎやけふ久かたのあまの川・・・・・・・・守武

   七夕や野にもねがひの糸すすき・・・・・・・・一茶

などがある。

古くは、「七夕」を「棚機(たなばた)」や「棚幡」と表記した。
これは、そもそも七夕とはお盆行事の一環でもあり、精霊棚とその幡を安置するのが7日の夕方であることから7日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになったともいう。
元来、中国での行事であったものが奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた言葉である。

そのほか今では、「牽牛織女の二星」の物語として行事が行われる。
もともとは、牽牛織女の二星がそれぞれ耕作および蚕織をつかさどるため、それらにちなんだ種物(たなつもの)・機物(はたつもの)という語が「たなばた」の由来とする江戸期の文献もある。

起源としては、日本古来の豊作を祖霊に祈る祭(お盆)に、中国から伝来した女性が針仕事の上達を願う乞巧奠(きっこうでん/きこうでん)や佛教の盂蘭盆会(お盆)などが習合したものと考えられている。そもそも七夕は棚幡とも書いたが、現在でもお盆行事の一部でもあり、笹は精霊(祖先の霊)が宿る依代である。

七夕を特別な日とすることがいつから起こったかは定かではない。
この日の行事について書かれた最も古い文献は後漢時代の崔寔が書いた『四民月令』に書物を虫干しにしたことが記されているが、七夕の風俗を記したものとしては東晋時代の作と考えられる『西京雑記』に「漢彩女常以七月七日穿七孔針于襟褸、人倶習之」と記録されたものが初見である。

織女と牽牛の伝説は『文選』の中の漢の時代に編纂された「古詩十九首」が文献として初出とされているが、まだ7月7日との関わりは明らかではない。
その後、南北朝時代の『荊楚歳時記』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったと書かれており、7月7日に行われた乞巧奠と織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かる。
また六朝・梁代の殷芸(いんうん)が著した『小説』には、「天の河の東に織女有り、天帝の子なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」(「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」『月令廣義』七月令にある逸文)という一節があり、これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証できる史料のひとつとなっている。

日本語「たなばた」の語源は『古事記』でアメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)又は『日本書紀』葦原中国平定の1書第1にある「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡から棚幡という。また、『萬葉集』卷10春雜歌2080(「織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者将長」)たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ など七夕に纏わる歌が存在する。

日本では、雑令によって7月7日が節日と定められ、相撲御覧(相撲の節会)、七夕の詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた。その後平城天皇が7月7日に亡くなると、826年(天長3年)相撲御覧が別の日に移され、行事は分化して星合と乞巧奠が盛んになった。

乞巧奠(きこうでん、きっこうでん、きっこうてん、きぎょうでん)は乞巧祭会(きっこうさいえ)または単に乞巧とも言い、7月7日の夜、織女に対して手芸上達を願う祭である。古くは『荊楚歳時記』に見え、唐の玄宗のときは盛んに行われた。この行事が日本に伝わり、宮中や貴族の家で行われた。宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺して、五色の糸をより合わせたもので針のあなを貫いた。一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。また『平家物語』によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書いた。二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女子が当然身につけておくべき技能であった訳ではない。

沖縄では、旧暦で行われ、盂蘭盆会の一環として位置づけられている。墓を掃除し、先祖に盂蘭盆会が近付いたことを報告する。また往時は洗骨をこの日に行った。

来歴にこだわり過ぎたので、七夕などを詠んだ句を引いて終る。

 月蝕の話などして星の妻・・・・・・・・正岡子規 

 七夕の女竹を伐るや裏の藪・・・・・・・・夏目漱石

 秘めごとのなき歳となり星祭る・・・・・・・・阿部みどり女

 七夕や髪ぬれしまま人に逢ふ・・・・・・・・橋本多佳子

 七夕の竹となれずにやぶにゐる・・・・・・・・辻田克己

 シャガールの空翔ぶ二人星祭・・・・・・・・土肥典子

 大涛のとどろと星の契りかな・・・・・・・・飯田蛇笏

 星合の波の音する新羅の壺・・・・・・・・飯島晴子

 昧爽(まいさう)といふべき星の別れかな・・・・・・・・山田みずえ

 星合の雨の函館泊りかな・・・・・・・・富田郁子

 彦星を恋ふに憚りなかりけり・・・・・・・・渡辺恭子

 婚約やひときは光る織女星・・・・・・・・佐々木かつの

 七夕や大和をみなの翔ぶ宇宙・・・・・・・・荻田いさほ





藤原光顕の歌「ばらばら」17首・・・木村草弥
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──藤原光顕の歌──(41)

       藤原光顕の歌「ばらばら」17首・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                  ・・・・・「たかまる」No.114/2019.7掲載・・・・・・・

      ばらばら       藤原光顕

  最後の視野になる窓辺には柿の枝の釣り忍など絵になりそうで
  呑み込んだあのひとことのお蔭ですチョコなど舐めてテレビ視ている
  そんなのもありかこの世は 殺された五歳が書いたひらがなの詫び
  汗拭いてまた庭の草抜いてゆくやっぱりそうか自死だったのか
  十五回では儂に勝てんなと笑ったYさんはもう引っ越せない処にいる
  日暮れまえの舞子過ぎれば思い出す国道沿い安藤さんのガリ版の店
  右の耳に鳴いたカラスがいっしゅんで左の耳に羽音をのこす
  思い出す白い横顔 六十年前 鈴蘭台の霧の夜の駅
  神戸大丸 まっすぐ屋上まで上がる まず山と眩しいビルを確かめる
  あの人に明日は電話してみようあるようでない用事をつくって
  住む人のいるようでいないようでのたくっている庭の散水ホース
  見下ろした角度のせいだ ここまで来て訪ねないまま引き返すのは
  返すこと念押した本は戻らない電話帳みたいな山頭火句集など
  水加減間違えた飯を噛み続けるいつまでも噛んでおれる朝飯
  オッこんなところにあったかと覗いて締めてまた置いておく
  給料日前夜も何かは口にした あれから六十五年が経った
  探しまわった眼鏡が鼻にのっている梅雨の一日が無事に暮れる
----------------------------------------------------------------------
藤原さんが、ようやく元気になられたようで慶賀至極と申し上げる。
庭の雑草抜きなどに汗を流しておられるらしい。
相変わらず「懐旧」的な歌が続くが、無理からぬところがあるだろう。
一、二苦情を呈しておくと、
十五回では儂に勝てんなと笑ったYさん>
<オッこんなところにあったかと覗いて締めて
アンダーラインを付けた個所などは、意味不明で舌足らずである。
「十五回」とは碁か将棋を打っている景であろうか。
現代詩などでは「意味を追うな、感じるものだ」などと言うが、短歌は、意味を重んじる詩であるから、もう少し言葉を足したい。
それにしても、やはり「梅木さん」の絵は、いいなあ。

湿気の多い梅雨から夏になるので、体に注意して、これからも佳い歌を詠んでください。
有難うございました。


蛸飯とコロッケで済ます昼ごはん乾電池が梅雨の湿気を帯びる・・・木村草弥
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8100107_01L乾電池

      蛸飯とコロッケで済ます昼ごはん
           乾電池が梅雨の湿気を帯びる・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の最新刊の第六歌集『無冠の馬』(KADOKAWA刊)に載せたものである。
梅雨入りした今の時期の歌として出しておく。
この一連は「湿気」という項目名で載せたもので、この歌の前に、こんな歌がある。

  軽薄な明るさをいつか蔑んだ張りついた汗が乾かない午後

  些細な嘘が限りなく増殖する午後ぶあつい湿気にどつぷり巻かれ
・・・・・・・木村草弥

今となっては、いつの制作かは、はっきりしないが、さぞ湿気が多い憂鬱な梅雨どきだったのだろう。
「蛸飯」は、自分で作ったものではなく、誰かの瀬戸内の旅のみやげにもらったものだろう。
瀬戸内では明石のタコが有名で、それを干して作った蛸飯が美味で、よく売られている。

    章魚食つて路通はその忌知れずなり・・・・・・・・安住敦

という句が歳時記に載っている。

今回、この歌集を進呈した人の引用歌に、これらの作品が引かれていることがあった。
<軽薄な明るさをいつか蔑んだ>という個所を指摘する人もあったし、<些細な嘘が限りなく増殖する>というところを批評してもらったのもあった。
歌集を出して、こういう風に、よく読みこんで手紙をもらう、のが一番うれしいし、参考になる。
それらについては批評欄に引いておいた。

今度の歌集では、考えるところがあって「あとがき」を書かなかった。
歌集は通常「あとがき」が付いていることが多いが、詩集などでは「あさがき」が無い場合がある。
私は、いつも「あとがき」で喋り過ぎる、きらいがあるので、今回は敢えて、書かなかった。
来信には、そのことに触れて、訝る人もあったが、私が意図的にしたことである。

以下、「梅雨」または「梅雨湿り」に因む句を引いて終わりたい。

  大梅雨の茫茫と沼らしきもの・・・・・・・・高野素十

  家一つ沈むばかりや梅雨の沼・・・・・・・・田村木国

  梅雨ふかし戦没の子や恋もせで・・・・・・・・及川貞

  梅雨の崖富者は高きに住めりけり・・・・・・・・西島麦南

  ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき・・・・・・・・桂信子

  梅雨霧を見てゐていつか包まるる・・・・・・・稲畑汀子

  梅雨の星齢といふも茫々と・・・・・・・・広瀬直人

  かく降りて男梅雨とはいさぎよし・・・・・・・・沢村芳翆

  梅雨の底打ちのめされてより力・・・・・・・・毛塚静枝


現代短歌文庫・144「恒成美代子歌集」・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

     現代短歌文庫・144「恒成美代子歌集」・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・砂子屋書房2019/05/18刊・・・・・・・

この本が贈られてきた。
恒成美代子さんは、短歌結社「未来」の主要作家で、近藤芳美の弟子であった。
私も「未来」に一時、籍を置いていたことから、お名前は存じているし、私の著書も差し上げたし、年賀状の交換もしていた仲である。
私は川口美根子のところに所属していた。
亡妻がガンに罹り、その闘病に伴走するために私は歌壇とも縁を切って「未来」からも離れた。
そんなことからも、恒成さんとも、すっかり疎遠になってしまった。
妻が亡くなり、その間の闘病の日々などを綴った詩集『免疫系』(角川書店)を出すべく、その打ち合わせのために、平成20年秋に久々に上京して、その足で、さいたま市の川口先生のお宅にお邪魔したが、先生はすでに痴呆の症状が出ていて、妹さんが面倒をみておられる状態だった。
その後、音信不如意のまま川口先生は施設に入られ、先年、亡くなられたが、告知もなく無く、淋しい晩年だった。
私が歌壇とも縁を切っていた時期にも、角川書店「短歌」編集部からは歌の注文を頂くなど可愛がってもらい、それらの作品は
    「生きる」 「短歌」誌2005/6月号
    「幽明」  「短歌」詩2006/10月号
    「明星の」  「短歌」誌2008/10月号
に載ったが、いずれも、この詩集の中に一緒に収録した。

すっかり前触れが長くなってしまった。お詫びする。
恒成美代子さんは「未来」の主要作家で、近藤芳美亡き今は、どの欄に所属しておられるのか分からない。会員は、どこかの「欄」に所属する決まりになっているからだ。
詳しくはWikipedia─恒成美代子を見てもらいたい。
「未来」も、すっかり替わった。主宰の岡井隆も体調を崩しているらしく短歌雑誌にも作品は出ていない。
選者の顔ぶれも、すっかり変わり新しい顔の名前が見られる。「未来」生え抜きではない人も選者になっている。

この砂子屋書房の「現代短歌文庫」は、主要な短歌作家の第一歌集の再録などを中心にしたアンソロジーである。
ここには第一歌集『ひかり凪』をはじめとして、自選の歌やエッセイ、評論などが載っている。
今回、私に本を贈っていただいたのには、私が書いた「雨宮雅子」さんに関する記事が、恒成さんの記事に触れているからである。
それは、 高旨清美『昼顔讃歌』 という本にまつわることである。 ← リンクになっています。アクセスして読んでみてください。

この本『恒成美代子歌集』には、処女歌集の『ひかり凪』をはじめ、自選歌などが主要なページを占めているのだが、敢えて、巻末の「歌論・エッセイ」から、恣意的に文章を選んで、書いてみる。 お許しを。

「鷹女から蕪村へ」というのがある。「未来」2008/02月号に書かれた文章である。
<俳句を読むのは、好きなほうである。短歌をはじめたころ俳句もつくっていて、地方新聞に投稿していた。・・・・・
 なぜ俳句をやめたかと言うと、誰に訊ねても短歌と俳句は両立できない、と言う。人によっては節操がないと、忠告してくれる。
 節操よりも、両立する能力がなかったのだろう。当時、好きだった俳人は三橋鷹女だった。
        鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし
        詩に痩せて二月渚をゆくはわたし
 鷹女の孤独は私の孤独でもあった。鷹女の激しさのなかに、わたしの激しさを見る思いがした。・・・・・>

私のブログにも、これらの句を採り上げたのがある。 ↓ リンクになっているので、読んでみてください。
鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし  三橋鷹女
詩に痩せて二月渚をゆくはわたし   三橋鷹女

また、吉原幸子にまつわる、こんな文章もある。 「未来」2005年1月号 掲載

<四十代の十年間、わたしはじたばたともがいていた。・・・・・
 そんな時に巡り遇ったのが、吉原幸子の詩だった。
      風 吹いてゐる
      木 立ってゐる
      ああ こんなよる 立ってゐるのね 木
 『幼年連禱』のなかの「無題ナンセンス」という詩の冒頭の一節に不覚にも涙がこぼれた。>

私のブログにも、この詩に触れた文章がある。 ↓
風 吹いてゐる /木 立ってゐる/ああ こんなよる 立ってゐるのね 木   吉原幸子

極めて恣意的な、私的な思いからの「リンク」で申し訳ないが、お許し願いたい。

今回この本を頂いて、多分に懐旧的な気分になったので、その気分のままに、恒成美代子さんにお返しする次第である。
私のブログの「リンク」にも、目を通していただきたい。
ご恵贈有難うございました。あなたの処女歌集も、ゆっくり読ませていただきます。         (完)



シトー会修道院教会堂「プロヴァンスの三姉妹」・・・木村草弥
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↑ セナンク修道院
800px-Le_Thoronet_eglise_abbatialeル・トロネ修道院
 ↑ ル・トロネ修道院
800px-Church_of_Silvacane_Abbeyシルヴァカンヌ修道院
 ↑ シルヴァカンヌ修道院

──巡礼の旅──(12)─再掲載・初出2013/07/08

    シトー会修道院教会堂「プロヴァンスの三姉妹」・・・・・・・・・・・木村草弥

アヴィニョンから東へ50キロほど行くとセナンク修道院に着く。
途中、別荘の多いなだらかな丘にのぼり、ゴルドの町を通る。まるでイタリアの丘の上の町のような印象だ。
春には曲がりくねった露地の向こうに杏の花が咲き、夏には修道院を前にしてラヴェンダーの畑が広がり、谷一帯が匂い、強いプロヴァンスの光によって溢れている。
まるで「幸福の谷」とでも呼びたいほどである。
14世紀、アヴィニョンに教皇庁が出来たとき、教皇ベネディクトゥス十二世がシトー修道会出身であったため、この修道院の保護は厚かったという。

プロヴァンスの三姉妹(Trois sœurs provençales)とは、フランス南部のプロヴァンス地方にある三つのシトー会修道院教会堂の呼び名である。

12世紀から13世紀初頭にかけてほぼ同時期 に建設された、マザン修道院の娘修道院としての二つの修道院、ル・トロネ修道院、セナンク修道院そしてシルヴァカンヌ修道院の三つをさしてプロヴァンスの三姉妹と呼ぶ。
この呼び名は一般的に、これら三つの修道院が「よく似ている」という説明として使用され 、賛辞としてのニュアンスも含まれる。

1098年、ロベール・ド・モレーヌがブルゴーニュのシトーに創建したシトー修道院は12世紀以降急速に発展し、ヨーロッパ各地に支院(支部のこと)が創建されてゆく。
この支院のことを娘修道院と呼ぶ。
800px-Mazan_l_Abbayeマザン修道院の廃墟
 ↑ マザン修道院の廃墟
1120年、ヴィヴァレ地方にマザン修道院が創建され、そのさらに娘修道院として「三姉妹」のル・トロネ修道院とセナンク修道院が創建されることになるが、
13世紀を頂点として、以降はヴァルド派の異端勢力やフランス革命の影響により衰退してゆくことになる。
シルヴァカンヌにいたっては革命後には農場になっているという有様であった。 再発見されるのは19世紀中ごろになってからのことである。
セナンクにはこの時期に一旦は修道士たちが戻ってきたが長続きはせず、現在のような現役の修道院となるのは20世紀に入ってからであった。

なお、2002年現在でも、母修道院であるマザン修道院だけは廃墟のままであり 、2013年現在で修道院として使用されているのはセナンク修道院だけである。
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↑ セナンク修道院 俯瞰
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↑ セナンク修道院内部

三姉妹という呼び名
最初にこれらの修道院に対して「三姉妹」という語が使われた時期は判明していないが、「研究対象として」最初に「三姉妹」の呼称を用いたのは再発見の時期、1852年である。
これは当時、ヴァール県の記念物監査官であったルイ・ロスタンがその報告書の中で使用した時が「三姉妹」の初出であり、
現在でも一般的に使用されるようにその外見の類似性に力点を置いた記述であった。
この呼び名であるが、観光ガイドや一般の解説書向けの「非専門家」用語として使われるケースが主であり、逆に現在の研究書や専門書ではあまり用いられないと指摘される。
まず「三姉妹」はそれぞれの大体の外見や寸法は確かに似ているものの、細部においてはむしろ差異のほうが多いからである。
とはいえ、シトー会修道院の建築には一定の様式的な統一性があることも確かである。
母修道院のマザン修道院からル・トロネ、セナンクに受けつがれた側廊の傾斜尖頭トンネルヴォールトなど 、 たしかに類似性・影響はある。
あくまでもこの「プロヴァンスの三姉妹」という呼び名は「学術分野ではあまり使われない」、ということである。

 → 「女一人旅」 というサイトに写真などがある。


冨上芳秀詩集『真言の座』 『かなしみのかごめかごめ』 『蕪村との対話』 『恥ずかしい建築』 『詩遊60』 『詩遊61』 『詩遊62』・・・木村草弥
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 ↑ 第9詩集
かごめ_NEW
 ↑ 第10詩集
蕪村_NEW
 ↑ 第11詩集
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↑ 第12詩集
詩遊60_NEW
  ↑ 詩遊60号
詩遊61_NEW
 ↑ 詩遊61号
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↑ 詩遊62号

──冨上芳秀の詩──(2)

   冨上芳秀詩集『真言の座』 『かなしみのかごめかごめ』 『蕪村との対話』 『恥ずかしい建築』
                  『詩遊60』 『詩遊61』 『詩遊62』・・・・・・・・・木村草弥


半月ほど前、初めて冨上芳秀の詩を紹介したばかりだが、今回、詩集などが、一度にドカッと贈られてきた。
私の紹介が認められたものと考えて嬉しい次第である。
今回は本の数か多いので、ほんのつまみ食い程度しか触れられないと思うが、お許しを。
そして、冨上芳秀の詩」を「カテゴリ」にまとめることにしたので、前回のものも含めて設定し直したので、ご了承を。

さて、本論である。
現代詩作家というと、とかく日本古来の文学、文芸の「伝統」から「切れたがる」人が多い。
つまり「和歌」「短歌」「俳句」「川柳」などの差別、切れる、のみを強調することである。
日本人として生きてきて、そんなことが果たして可能なのか、否である。
良識ある詩人たちは、そんなことは、しなかった。
今回いただいた本を見てみると、冨上芳秀氏は、そんな人たちとは立場が違うようである。
詩集の題名を見るだけで、それが分かる。 「真言」「蕪村」など、作者は、これらを、よく学んで居られることが分かる。

『真言の座』では、難解な仏教の定義「真言」を、見事に噛み砕いて「九界によって構成された混沌としたメーズ」として把握して作品が創られている。

「真言」は、サンスクリット語の「mantra」を漢訳したものである。
最初はバラモン教の聖典である『ヴェーダ』に、神々に奉る讃歌として登場し、反復して数多く唱えることで絶大な威力を発揮すると考えられていた。
後に、バラモン教に限らず不可思議力を有する呪文をことごとく「mantra」というようになった。
バラモン教や非アーリヤ系の土着の信仰の「mantra」が仏教に採り入られて、治歯・治毒・悪鬼羅刹からの護身・延命など現世利益のための「mantra」が用いられるようになった。
この「mantra」を龍樹や玄奘は、「呪文」または「神秘的な呪文」の意味で「呪」・「神呪」等と訳し、善無畏や不空は、「仏の真実の言葉」の意味で「真言」、「仏の秘密の言葉」の意味で「密言」等と訳した。

この本から一つ詩を引いてみる。

     誰もいないさびしい町で、私は初めて死と出会った。そっと私の横に滑り込んできた青白い死の身体は冷たく冷え切っていた。 
     それ以来、死はいつも私の側にいた。・・・・・  
     尖った乳房をこすりつけてくる死の柔らかい耳を咬みながら、「もう別れよう」と囁いたが、死は自信たっぷりに嫣然と笑った。
     「いいわ、別れても。でも、私はけっしてあなたを忘れない」と。            最愛の人  

題名が作品の末尾に置かれるのが、独特である。
どの詩集でも、そうだが、上田寛子による挿絵が秀逸である。
この本は八個の絵が入っている。
この詩集は2014年1月1日に刊行された。 最近は1月1日発行が続いている。 これも特異なことである。

『かなしみのかごめかごめ』である。
この頃、作者の娘さんが自裁されたという。そこから「かなしみのかごめかごめ」の題になっているという。

かなしみのかごめかごめ
地獄の鐘が毎朝、毎晩カンガン響いてとてもこわいのですとあの子が言いましたか。そうですか。あの子がかごめかごめの話をしましたか。体育館で生徒たちがバスケットボールをしています。いつまでたっても鳥は籠からは出られません。鳥は永遠に愛を失くした恨みを歌っています。・・・・・
そうしてみんな死にました。・・・・・後ろの正面だぁあれ?と尋ねる人も、もう、だれもいません。此の世にはぽつねんと両手で目隠しをして、何も見ようとしない鬼が一匹、蹲っているばかりでした。もう周りにはだれもいませんでした。そうして鬼はひとりで死にました。

この詩は、創作ではありながら、娘さんの死に関連するものだということは確かだろう。
作者の、辛い記憶に結び付く一篇と言っておく。
この本は2015年1月1日に刊行された。

 『蕪村との対話』である。
この本の「帯」裏に、こう書かれている。

<蕪村の俳句には特異なポエジーがある。
 特にシュールレアリズム的な魔的で不気味な魅力を感じながら蕪村とは異質な私自身の世界で蕪村と対峙しようと思ったのである。
 ・・・・・ここ十年ほど私は無謀ともいえるこの実験を繰り返してきた。
 蕪村という時代を超えた偉大な詩人と対話することで私は自分の姿を少しは見ることができたのではないかと思っている。>

作品を一篇引いてみる。

  月光西にわたれば花影東に歩むかな (蕪村)

  猫時計は昼も夜も眠っています。真っ赤なトマト、まともなマトン。どうやら背中に傷を負ったらしい。
  昨日、観音講に行った時に女に舐められたからな。酒を飲んでぶっとんじやったんだ。死ぬまで沼でチリヌルオワカ。
  ・・・・・不精な蕪村。今朝の電話にはまいったな。変わらぬ古女房は歳月の猿。・・・・・
  町をさっそうと長いコートで身を包んで大股に歩いていた。その下はスッポンポンだったのには笑ってしまったな。
  また、はじめての時みたいに皮を剥いで新鮮に食べた。                       歳月の猿


  古池に草履沈ミてみぞれ哉 (蕪村)

 老いを追い人生の枯野をさまよう。ウリウリガウリウリニキテウリウレズ、ウリウリカエルウリウリノコエ。
  笈を背負い人性の町で鯖を読む。売れませんねえ。人生の晩年の重い思いを売り売り、笈を負い人生の涸れ、彼の悩を収まんように。
  ウリウリガウリウリニキテウリウレズ、ウリウリカエルウリウリノコエ。
  生いを蔽う新生の華麗の能に産婆さま酔う。老いを負い人世の加齢の脳をさまよう。        老いのニガウリ

「言葉あそび」が秀逸である。詩人の極致である。 上田寛子の絵も、ますます冴えている。
この本は2016年1月1日に刊行された。

 『恥ずかしい建築』

この本は、散文詩の形ではなく、普通の「行分け」の詩になっている。
この本の「帯」裏に、こう書かれている。

<建築という言葉は通常の場面では恥ずかしいものではない。しかし、状況によっては、恥ずかしいと感じさせる言葉にもなる。
 ・・・・・言葉は色々な側面からアプローチしなければ、その実態をつかませない鵺のような存在である。
 ・・・・・言葉の足の裏をくすぐって笑わせたいと思った詩が集まってきたように思う。>

この本の詩を一篇引いてみる。

   アニマルごっこ

  雨の降るあばら家で
  あなたと私は
  アニマルごっこをしています
  明日の朝は雨が止んで
  朝顔の花
  青い花
  赤い花が咲いているでしょうか
  アボガド、アオクビ、アホウドリ
  アカチャン、アリサン、アシタノシアワセ
  アセボ、アオムケ、アンパンマン
  青虫は雨の紫陽花を登って
  虹の橋を渡り
  朝日を浴びて
  青空の向こうに
  蝶となって飛んでいきました
  浴びる浴びる愛の雨
  アニサン、アネサン、アカネサス
  あなたと私のアニマルごっこ

他に「ガムを噛むアメリカ人」という作品があるが、作者の愛着のある詩らしいが、掲出した図版で読み取れるだろう。
これらはいずれも見事な「言葉あそび」である。
この本は2017年1月1日に刊行された。

詩遊は、作者が講師を務める大阪文学学校の卒業生らが、作品を発表する場として用意されているようだが、この冊子の巻末に「詩についてのメモ」という欄があって、恵贈された詩集などについて書かれている。
作者が先年、病気になられたようで、本がたくさん溜まっているらしい。
62号までで、新延拳詩集2018/10/30までのものに言及されている。
ここに載る作品については、勝手ながら省略させてもらう。

たくさんの本を有難うございました。                     (完)




怒涛もて満ち来る潮や夾竹桃・・・岡田貞峰
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      怒涛もて満ち来る潮や夾竹桃・・・・・・・・・・・・・・・岡田貞峰

夾竹桃はインド原産という極めて強い、繁殖力旺盛で排気ガスなどにも強い木である。根や樹液に有毒な成分を含んでいるという。
インド原産というだけあって北国の寒いところには生育しないらしい。信州人に聞くと長野県には夾竹桃はない、という。

aaookyouch夾竹桃白

改良されたのか色々の色があり、赤、白のほかにピンク色の種類もあるようである。
私の住む京都では、冬も常緑のミドリがあざやかな木である。
夾竹桃は花期の長いことでも、花の少ない真夏には重宝するのではないか。単調な高速道路などでは、夏の景観を賑わすものとして貴重である。

kyoochikutou5夾竹桃実

三番目の写真は、夾竹桃の「実」というものである。
これは冬も加温する植物園のもので、私の家にも生垣に夾竹桃をたくさん植えていたが、こんな実は生ったことがない。
文字どおり熱帯的な環境ならば、実が生る、ということであろうか。

kyoochikutou9夾竹桃種子

四番目の写真は、その実が熟して「種子」が綿毛に包まれて、そよいでいるところ。もちろん植物園の環境下でのもの。

ここまでが夾竹桃の説明であり、本題の掲出した句に戻りたい。

掲出した岡田貞峰の句は、夾竹桃という極めて強い樹木と、怒涛という「荒い」現象とを対比させて非凡である。

以下、歳時記に載る夾竹桃の秀句を少し引く。

 画廊出て夾竹桃に磁榻(じたふ)濡る・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 夾竹桃荒れて台風圏なりけり・・・・・・・・・・山口誓子

 夾竹桃花なき墓を洗ひをり・・・・・・・・・・石田波郷

 白夾竹桃のたそがれながし予後の旅・・・・・・・・・・角川源義

 病人に夾竹桃の赤きこと・・・・・・・・・・高浜虚子

 夾竹桃戦車は青き油こぼす・・・・・・・・・・中村草田男

 夾竹桃しんかんたるに人をにくむ・・・・・・・・・・加藤楸邨

 しどけなく月下夾竹桃みだる・・・・・・・・・・篠田悌二郎

 火を焚くや夾竹桃の花の裏・・・・・・・・・・波多野爽波

 夾竹桃垣に潮の香があげて来る・・・・・・・・・・道部臥牛

 夾竹桃かかる真昼もひとうまる・・・・・・・・・・篠田悌二郎
--------------------------------------------------------------------------
一番はじめの飯田蛇笏句の「磁榻」(じとう)とは磁器製の長椅子のことである。雨に濡れてもいいように、庭園などに置かれるのであろう。



俳句誌「鷹」2019/7号を読む・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

      俳句誌「鷹」2019/7号を読む・・・・・・・・・・・・・木村草弥 

俳句結社「鷹」は、この七月に創刊五十五年を迎えるという。
七月七日には、京王プラザホテルで、55周年記念大会と同人総会が開催されるという。
普通は外から客を迎えて開催されるのだが、この会は外からは招かず、「鷹」同人だけで開かれるという。 

私は俳句の実作者ではないし、もちろん局外者である。
ただ、折勝家鴨句集『ログインパスワード』を読んだことから、折勝さんの知己を得て、付き合っているので、頒価1300円を支払って取り寄せてみた。
↑ リンクになっているのでアクセスしてみてください。
その折勝さんは、現在、「鷹」の事業部長という席にあって、大会準備に大忙しだろう。 

私は局外者ではあるが、「鷹」の創立者・藤田湘子の同行者だった「飯島晴子」に多少のゆかりがあるのである。 ↓ の文章を読んでもらいたい。  
「俳人・飯島晴子のこと」

さて「鷹」2019/7号のことである。
巻頭に、小川軽舟「風塵」12句が載っている。

     青麦や大聖堂は遠く燃ゆ       小川軽舟

     筍のうつふんと掘りあげられし

     ダービーの風塵と去る馬群かな


初句は、もちろん、パリはシテ島のノートルダム大聖堂の火災による焼失のことである。
二番目に引いた句の「うつふんと」というオノマトペが秀逸である。
そして、日本ダービーの景を「風塵」として把握した。いずれも時事として的確である。
現・主宰の小川軽舟は、前主宰からの指名と先輩同人たちの挙っての賛成で推挙されたという。そんな「いきさつ」も、この号に詳しい。

この号の「俳句時評」に大西朋氏が自由律俳句の住宅顕信のこと、映画化のことを書いている。
私は2012/03/02に「水滴のひとつひとつが笑っている顔だ」という記事を書いている。 ← リンクになっています。アクセスして読んでください。
私は映画は見ていないが、この句が彫られて岡山の旭川のほとりに建っている。

私も短歌結社に所属していたので経験があるが、結社の成り立ちによって、結社誌の構成も、さまざまである。
俳句のヒエラルキーには詳しくないが、「鷹」は古くからの伝統を守っているらしい。
古参作家による「日光集」一人6句。幹部を集めた「月光集」一人5句。あとは「鷹集」という4~1句の欄。
その間に「推薦30句」軽舟選というのや、「秀句の風景」という2ページの批評の欄があったりする。
「俳壇の諸作」として、結社外の作品について折勝家鴨氏が2ページの批評を書いている。
他に、記念号だけあって、主宰の「自選50句」があったり、「主宰に聞く」10ページが組まれている。
「特集 平成、あの年」というのに多くのページが組まれている。
その中の「平成の鷹俳句を読む」企画の「昨日のように」上田鷲也による記事の中で
      梅白し死者のログインパスワード     折勝家鴨 (24年)
が引かれているが、このことからも、、この句が、一つのメルクマールとして燦然と光っていることが分かる。

極めて走り書きに過ぎない書き方になったが、「鷹」創立55周年にあたり、お祝いの意味を込めて書いてみた。
大会には、同人たち三百数十人が集うそうである。   おめでとうございます。    (完)



絹糸腺からだのうちに満ちみちて夏蚕は己をくるむ糸はく・・・木村草弥
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    絹糸腺からだのうちに満ちみちて
       夏蚕(なつご)は己をくるむ糸はく・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

「養蚕」(ようさん)という蚕を桑の葉で育てる仕事は、最近では急速に廃れ、見られなくなった。
一応、説明しておくと、蚕蛾(かいこが)という虫の幼虫が吐く糸から「絹糸」が出来る。
この「蚕(かいこ)」には春蚕(はるご)と夏蚕(なつご)とがあり、春蚕は四月中、下旬に掃き立てをし、五月下旬か六月上旬に繭になる。
夏蚕は夏秋蚕のことで、二番蚕とも言い、飼う時期が暑いので成長も速く七月には上簇するが、量も多くなく、収量も品質も劣るという。

sanken01蚕本命
写真②は蚕蛾の幼虫──俗に「蚕」と言う──の選り分け作業の様子。

写真③は蚕の口である。口は二つあり、下の小さな口が「吐き口」といって繭を作るとき糸を吐く口。上の大きな口には、アゴが一対あって桑の葉を噛み切る。
kuti蚕の口

蚕の幼虫の体は細長く13の体節からなり、体長は5齢盛食期で6、7センチ。頭部、胸部(第1~3節)、腹部(第4~13節)に分けられる。
蚕の雌は幼虫、蛹、蛾とも雄より大きい。
「上簇」(じょうぞく)というのは、いよいよ繭を作る段階に達した蚕を集めて繭を作るために専用の蚕簿に移す作業をいう。
蚕は四回眠り四回脱皮して、そのあと繭を作るが、その際、体が半透明になる。これが私の歌に詠んだ「絹糸腺」が肥大して体中に満たされるためである。
「蚕簿」というのは藁を加工して三角錐の空間が集合したようなもの。ここに蚕を移してゆく手間のかかる労働である。後は蚕が絹糸腺から糸を吐き「繭」を作る。
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この繭から絹糸を引き出すのだが、これは蚕が吐いた糸であるから、一つの繭から引き出した糸は一本である。
大きな釜に湯を沸かし、その中に繭を入れて中の蛹を茹で殺して糸を探り出して引き出す。
独特の臭気がして慣れないと不快なものである。
糸を取った後の蛹の死体は栄養豊富なので、ウナギの餌などに使われた。

繭をそのままに放置しておくと、繭の中の蛹が蚕蛾になり繭を溶かして孔を開けて出てくる。
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写真⑤が蚕蛾である。繭の中で蛹は十日で羽化する。だから養蚕というのは、繭が完成したら、すばやく熱湯にひたして羽化を阻止しなければならない。
日数の計算も厳密な作業であり、忙しい。
羽化した雌は腹に卵を一杯もっており、雄と交尾すると産卵し、雄雌ともにすぐに死んでしまう。
この交尾の際に雌が特有の「フェロモン」を出し雄を誘引するのである。
ものの本によると、これを感知すると雄は狂ったように全身を震わせて匂いの元に寄ってくるという。
だから実験として蚕の雌が居なくても、このフェロモンを放射すれば雄は群がるように寄ってきて交尾しようとするらしい。
養蚕用には優秀な蚕に黒い紙の上に生ませた「蚕卵紙」というのが養蚕試験場などから交付され、それを養蚕家は買って蚕の幼虫を孵化させて桑の葉に移す。
これを「掃き立て」という。

昔は桑の葉を摘んで蚕に与えていた。これを桑摘みという。
この労働を簡素化するために桑の枝を切ってきて与える、というのが戦後に開発され、今日では桑の葉を含むペレット状の粒剤を与えているようであるが、
それよりも中国などから安価な絹糸が入ってくるようになり、今では絹布にした加工品が中国で最終製品として作られるようになり、
日本国内の養蚕業は壊滅したと言える。養蚕器具は資料館でしか見られず、養蚕の様子も学習のためか、デモンストレーションとして行なわれるに過ぎない。
私の子供の頃は、近所でも養蚕や糸の引き出し作業などもやられていたし、繭の集荷に小学校の講堂が使われていたものである。

掲出の歌の前後に載る歌を引いて終わりたい。

くちびるを紫に染め桑の実を食みしも昔いま過疎の村・・・・・・・・・・木村草弥

よき繭を産する村でありしゆゑ桑摘まずなりて喬木猛る

桑実る恋のほめきの夜に似て上簇の蚕の透きとほりゆく

桑の実を食みしもむかし兄妹(きやうだい)はみんなちりぢり都会に沈む


この歌の一連は、もちろん創作であるから舞台設定や兄妹というのも、事実そのものではない。文学作品中における「虚構」ということである。

もともと蛾類は自然環境で「繭」を作ることが知られて(その中でサナギになるためである)、人間は、これに着目して幼虫を捕らえて飼い、繭を作らせることを考案した。
そして立派な繭を作らせるために品種改良を加えて、今日の養蚕業となったのである。
今でも「天蚕てんさん」「山繭やままゆ」といって、自然環境で作られた「繭」を採取して布にしたものがあるが、極めて希少価値の高いもので高価であり、めったに手には入らない。

「養蚕」については、このWikipediaの記事に詳しい。参照してみられたい。
また越智 伸二「カイコの一生」養蚕、お蚕さま、カイコの生態、形態には蚕の飼育全般について判りやすく詳しく書いてある。
過程ごとの詳しい写真があるので、よく判る。未知の方には、目からウロコである。



「未来山脈」掲載作品・2019/07 「森の記憶②」・・・・木村草弥
未来_NEW

img_1スペイン帆船
↑ スペイン帆船 模型
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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──「未来山脈」掲載作品──(19)

      森の記憶②・・・・・・・・・・・・・・木 村 草 弥
             ・・・・・2019/07掲載・・・・・・・

         森の記憶②    木 村 草 弥

    私たち人間は聳え立つ巨木に対して畏るべき威厳を感じる

    深い森や木立に対して不気味で懐かしい気配を感じる

    樹木は、人間が人間として生き始める遥か十数億年も前から

    地球環境に適応する術を編み出して生き続けてきた

    人間は生きるために樹木を必要とするが樹木は人間を必要としない

    人間の身体を構成する六〇兆の細胞のひとつは、

    人間を作る以前から樹木の細胞と長い付き合いがある

    かつてスペイン人は樹木を大切にしなかった

    世界の海を制覇したスペイン人の活力は森の衰退と共に失せた

    樹が少なければ水を呼ばない。乾燥するのは樹が少ないからだ

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この号には、先日、角川「短歌」誌2019/6に発表した私の作品「cogito, ergo sum」12首が「転載」として掲載されている。




卓上日記いま真二つ半夏生・・・鈴木栄子
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      卓上日記いま真二つ半夏生・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木栄子

今日7月2日は半夏生である。
半夏生(はんげしょう)は雑節の一つで、半夏(烏柄杓)という薬草が生えるころ(ハンゲショウ=カタシログサ)という草の葉が名前の通り半分白くなって化粧しているようになるころとも。

七十二候の一つ「半夏生」(はんげしょうず)から作られた暦日で、かつては夏至から数えて11日目としていたが、
現在では天球上の黄経100度の点を太陽が通過する日となっている。毎年7月2日頃にあたる。

農家にとっては大事な節目の日で、この日までに農作業を終え、この日から5日間は休みとする地方もある。
この日は天から毒気が降ると言われ、井戸に蓋をして毒気を防いだり、この日に採った野菜は食べてはいけないとされたりした。
また地方によってはハンゲという妖怪が徘徊するとされ、この時期に農作業を行う事に対する戒めともなっている。

関西ではこの日に蛸を、讃岐では饂飩を、福井県では大野市などで焼き鯖を食べる習慣がある。

この頃に降る雨を「半夏雨」(はんげあめ)といい、大雨になることが多い。
この頃に咲く花を半夏生または半夏生草という。掲出した写真が、それである。
この花が咲くときに、花序に近い葉の数葉は下半部が白くなる。花穂は白い小さな花をたくさん付ける。
「片白草」とも呼ばれるが、この名前は開花の時期と、葉の様子を表している。
本格的に梅雨の時期に入って咲く印象的な草と花である。

以下、季節としての「半夏生」と、草としての「半夏生」(片白草)を詠んだ句を引く。

 汲まぬ井を娘のぞくな半夏生・・・・・・・・・・言水

 田から田へ水の伝言半夏生・・・・・・・・・・鈴木喜美子

 平凡な雨の一日半夏生・・・・・・・・・・宇多喜代子

 貝の砂噛んでむなしき半夏生・・・・・・・・・・羽田岳水

 笹山を虻と越えけり半夏生・・・・・・・・・・岡井省二

 半夏生点せば仔牛おどろきぬ・・・・・・・・・・宮田正和

 半夏生北は漁火あかりして・・・・・・・・・・千田一路

 塩入れて湯の立ち上がる半夏生・・・・・・・・・・正木ゆう子

 高原の風身に添へる半夏かな・・・・・・・・・・恩田秀子

 塔の空より半夏の雨の三粒ほど・・・・・・・・・・斉藤美規 

 生涯を素顔で通し半夏生・・・・・・・・・・出口善子

 朝の虹消えて一ト雨半夏生・・・・・・・・酒井黙禅

 夕虹に心洗はれ半夏生・・・・・・・・・・八島英子

 降りぬきし空のうつろや半夏生・・・・・・・・・・渡部杜羊子

 地球儀のどこが正面半夏生・・・・・・・・・・田中太津子

 木の揺れが魚に移れり半夏生・・・・・・・・・・大木あまり

 朝の戸に死者の音声半夏生・・・・・・・・・・山口都茂女

 水攻の野に咲くものに半夏生・・・・・・・・・・細川子生

 片白の何をたくらむ半夏生草・・・・・・・・・・松岡心実

 半夏生の白は化粧の白ならめ・・・・・・・・・・酒井土子

 一樹下にしののめ明り半夏生・・・・・・・・・・西坂三穂子






かたつむりの竹の一節越ゆるを見て人に会ふべき顔とりもどす・・・木村草弥
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     かたつむりの竹の一節越ゆるを見て
        人に会ふべき顔とりもどす・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

カタツムリはどこにでも居る陸の巻貝だが、農業を営む人たちや園芸家たちには新芽を舐めて害するので嫌われている。
私は昆虫少年でもなかったが、内向的な性格の子供だったので、虫や昆虫、カタツムリなどの生態を、じっと見つめているのが好きだった。
この作品は、もちろん後年のものだが、少年期の、そういう記憶が歌に結実したものと言えるだろう。
カタツムリの這う速度は、文字通り遅々としていて、この歌に詠んである通り、竹の一節を越えるのに大層な時間がかかる。
そんなカタツムリの歩みをじっと見つめていて、ようやく竹の一節を越えたなぁ、と思っているうちに、
「そうだ、誰それさんに会う約束があるのだった」と、ハタと気がつく、という歌である。
私自身は、この歌が結構気に入っているのである。

梅雨のシーズンになるとカタツムリの大好きなじめじめした天気になる。
カタツムリを詠んだ句を引いて終る。

 蝸牛(ででむし)の頭もたげしにも似たり・・・・・・・・正岡子規

 雨の森恐ろし蝸牛早く動く・・・・・・・・高浜虚子

 蝸牛や降りしらみては降り冥み・・・・・・・阿波野青畝

 やさしさは殻透くばかり蝸牛・・・・・・・・山口誓子

 あかるさや蝸牛かたくかたくねむる・・・・・・・中村草田男

 蝸牛喪の暦日は過ぎ易し・・・・・・・・安住敦

 蝸牛いつか哀歓を子はかくす・・・・・・・・加藤楸邨

 蝸牛遊ぶ背に殻負ひしまま・・・・・・・・山口波津女

 蝸牛や岐れ合ふ枝もわかわかし・・・・・・・石田波郷

 かたつむり日月遠くねむりたる・・・・・・・・木下夕爾

 悲しみがこもるよ空(から)の蝸牛・・・・・・・・鷹羽狩行

 かたつむりつるめば肉の食ひ入るや・・・・・・・・永田耕衣

 かたつむり甲斐も信濃も雨の中・・・・・・・・飯田龍太

 妻の疲れ蝸牛はみな葉の裏に・・・・・・・・沢木欣一






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