FC2ブログ
K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
201907<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>201909
大文字送り火(補遺)・・昔は十山で焚いた・・・木村草弥
daimonji_map大文字マップ

        大文字送り火(補遺)・・・昔は十山で焚いた・・・・・・・・木村草弥

公式記録の残っていない大文字の送り火
これだけの行事でありながら、大文字の起源や由来について公式記録は残っていない、という。
長らく日本の首都であった京都の行事は、朝廷による公式の記録が残っているが、公的な行事でなかったためか、記録は一切ないという。だから「いつ、だれが、何のために」始めたのか不明である。
因みに「祇園祭」も町衆の祭であったために公式な記録はない、というが運行のための町衆の記録というものがあり、ほぼ解明されていると言えるが、大文字の送り火については、現在までのところ、見つかっていないという。
先のBLOGで「慶長年間」から始まったらしい、というのも、ある人の日記風の記録に大文字見物のことが書かれ、日付があるので、その時点では、もう始まっていたのは確実ということである。
弘法大師がはじめたとか、いろいろの説が出ているのも、そういう事情によるらしい。

掲出の図は大文字の配置図である。直線化して描いてあるので、位置関係を示すものとして見てもらいたい。

苦難の時代
現在では五山で執り行われているが、明治以前には十山で行なわれていたという。
それは、今の五山のほかに、「い」の市原、「一」の鳴滝、「蛇」の北嵯峨、「長刀」の観空寺村、「竿に鈴」の五つである。
明治になり、大文字や祇園祭は迷信であるとして、明治初年から10年間、この両者は禁止された。
その後、再開されはしたが、公的、私的に援助を受けられず、昭和初期までに次々と無くなり、現在の五山となった。

無くなった送り火
無くなった五山とは、先に書いたものであるが、そのうち「竿に鈴」は大正初期まで点火されていたにも拘らず、その場所が一乗寺だったか、静原だったのか、西山(松尾山)だったとか、方角も真反対の場所もあり、もうすでに明らかではなくなってしまった。
人間の記憶というものは、何というあやふやなものであろうか。とにかく「記録」するということが、いかに重要かということになる。
「い」とか「一」とかいうのは点火する火床の形である。漢字で書くと「蛇」になるが北嵯峨のは、蛇がとぐろを巻いた形だったのではないか。
「長刀」というのはナギナタの形、「竿に鈴」は竿の先に鈴がつけてある形であろう。

明治新政権になってからの「皇国史観」強制のための尖兵として強行された「廃仏棄釈」の記録も全く残っていない、という。
薩摩藩は、以前から藩内で、このような政策を取ってきたというが、貴重な仏教美術や彫刻などが外国に流出している。
こういう排外的な新政権の政策に表だって反対することは破滅に繋がるので、みな口をつぐんで、見て見ぬふりをしたものであろう。
この頃にはすでに「新聞」も出ていたと思われるのに、権力を恐れてか、あるいは強力な弾圧があったのか、「廃仏棄釈」に関する記事は報道というか、記録に残っていない。
大文字についても、それに類した弾圧政策に毒されたものであろうか。





copyright © 2019 Powered By FC2ブログ allrights reserved.