FC2ブログ
K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
201908<<123456789101112131415161718192021222324252627282930>>201910
POSTE aux MEMORANDUM(9月)月次掲示板
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
東日本大震災から八年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
aaoohiganb3ヒガンバナ大判

九月になりました。
空には鰯雲、赤トンボが飛びます。

 岬遠く風吹く海に浜木綿は白き炎立つ夏の終りに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松本みよ
 われもまたおちてゆくもの透明ならせんをかすかにためらいながら・・・・・・・・・・・沙羅みなみ
 橋脚ははかなき寄る辺ひたひたと河口をのぼるゆふべの水の・・・・・・・・・・・・・・・・大辻隆弘
 安倍晋三と金正恩の会談を思ひみるなり孫と孫との・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・花山多佳子
 みずうみの舟とその影ひらかれた莢のかたちに晩夏をはこぶ・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤弓生
 濡れやすき花と思へり秋海棠のこされて見しかの日よりずつと・・・・・・・・・・・・・・・・福井和子
 半身は秋涛深く裁ちてゆく吃水のごと薄野を行く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三宅勇介
 ポテトチップのコンソメ味がぽっかりと頭に浮かんでいる夜歩き・・・・・・・・・・・・・・・・・・永井祐
 秋がくれば 秋のネクタイをさがすなり 朽葉のいろの胸にしたしく・・・・・・・・・・・・・ 土岐善麿
 九月一日すなはち九朔、哲久の生日にして第一歌集の名・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・沢口芙美
 なだれ咲く秋桜の野にふたり来つ、過去と未来の接ぎ目なす野に・・・・・・・・・・・・・・・ 高島裕
 既視感(デジャビュ)は夢にもありて前にみし夢と知りつつ夢を見てゐる・・・・・・・・・・小野雅子
 ゆつくりと夕暮の来る気配して影をうしなふ舗道(いしみち)のうへ・・・・・・・・・・・・ 照屋眞理子
 老いたりといえど凶暴なおんどりが犬に挑んで小屋を占拠す・・・・・・・・・・・・・・・・・武藤ゆかり
 口開くとけぽつと魚を吐き出せり宇治平等院屋根にかはせみ・・・・・・・・・・・・・・・・ 久我田鶴子
 秋の夜の最中の空に照る月の今宵かぎりの名にし負ふ影・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・多田羅 花
 ひとひらの昼の半月ゆつくりと愛の水位を高めつつある・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 阪森郁代
 新しいあなたと出会ふ朝のため床に広げてある鯨瞰図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石川美南
 瓦斯燈を流沙のほとりに植えていき、そうだね、そこを街と呼ぼうか・・・・・・・・・・・・・千種創一
 汗拭きてリュックを降ろす岩かげに苔ももの実は赤く光れり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・櫟原聰
 ひと鳴きに序章終章法師蝉・・・・・・・・・・・・・・・ 桑田佳穂
 蟻一匹影より大き蝶担ぎ・・・・・・・・・・・・・・・・・・水上啓治
 名月を戴きこの家肉食す・・・・・・・・・・・・・・・・・・榎本祐子
 蒼ぎんなん枝にびっしりお母さん・・・・・・・・・・・・高木一恵
 青春の「十五年戦争」釣瓶落し・・・・・・・・・・・・・・金子兜太
 秋曇りうつぶせで書くものがたり・・・・・・・・・・・・・河西志帆
 太陽に遠く女陰あり稲の花・・・・・・・・・・・・・・・・・折勝家鴨
 つぶあん派こしあん派ゐて月を待つ・・・・・・・・・・・ 金子敦
 帰るさの我に返れば蕎麦の花・・・・・・・・・・・・・・ 市掘玉宗
 雑木林もう足音になった秋・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小池弘子
 ばあちゃんは鳥語魚語で生きている・・・・・・・・・ 月波与生
 なぶるだけなぶらして夏終りけり・・・・・・・・・・・・・津野利行
 頬杖ながき無為の怖さの晩夏かな・・・・・・・・・・・伊東友子
 鬼百合やひとり欠伸は手を添えず・・・・・・・・・ 川崎千鶴子
 三人四人五人六人風邪心地・・・・・・・・・・・・・・・・華呼々女
 烏瓜の花さみしさは少し塩っぽい・・・・・・・・・・・・ 伊藤淳子
 散らかしたままの女よ百日紅・・・・・・・・・・・・・・・・菊川貞夫
 新涼の道はローマへ晩節へ・・・・・・・・・・・・・・・北村美都子
 秋の蝉和む暗さの茶会かな・・・・・・・・・・・・・・・・ わだようこ
 トウキビの熟毛ほどよき男髭・・・・・・・・・・・・・・鈴木八駛郎
 野の水に映りて毛虫焼く父よ・・・・・・・・・・・・・・・・関田誓炎
 志功天女乳房奏でる良夜かな・・・・・・・・・・・・・・・武藤鉦二
 覇気のないバーゲン中の扇風機・・・・・・・・・・・・・石川青狼
 隊員募集そんな貼り紙毛虫這う・・・・・・・・・・・・・ 大西健司
 独り赴任無人駅出て会ふとかげ・・・・・・・・・・・・・ 川口裕敏
 遠帆よ吾に東シナ海漂流記・・・・・・・・・・・・・・・・・草野明子
 禁猟区人は眉書き爪を染め・・・・・・・・・・・・・・・・・児玉悦子
 田の神にまず一礼し稲咲かせ・・・・・・・・・・・・・・・ 後藤岑生
 言の葉の戦ぎに任す晩夏かな・・・・・・・・・・・・・ 近藤亜沙美
 生きていることをおどけて法師蝉・・・・・・・・・・・・・ 大池美木
 活断層割りそこねたる大南瓜・・・・・・・・・・・・・・・・ 武藤暁美
 夕焼けに一歩近づく別れかな・・・・・・・・・・・・・・・・斎藤一湖
 銀やんま飛ぶ寸前の発電所・・・・・・・・・・・・・・・・・山中葛子
 屈託の元はくねくね夏の果て・・・・・・・・・・・・・・・下山田禮子
 白雲の駄々と過ぎゆく晩夏かな・・・・・・・・・・・・・田口満代子
 自転車に秋刀魚と空を振り分けて・・・・・・・・・・・・・岩根彰子
 仔牛待つ二百十日の外陰部・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木牛後


ご来訪くださいまして有難うございます。
ぜひコメントを置いてください。コメントには必ず返事いたします。 ただし不穏当なものは勝手ながら削除いたします。
コメントは各記事の末尾に「コメント」という欄がありますから、それをクリックしてお入りください。
私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。
本文の中で「色の変っている」部分は「リンク」になっていることを意味します。クリックで当該記事へ飛びます。
 GoogleYahooで「木村草弥」や「K-SOHYA POEM BLOG」で検索して頂くと数千件のヒットがあります。重複も多いのですが、ここでしか読めないものもあります。

閲覧の仕方
「当月」の記事は開いている状態でご覧になれますが、「先月」などのバックナンバーの閲覧は、上部のカレンダーの « の印を押して「過去」へ進んでください。
「月別アーカイブ」は30件表示するようになっています。30件以上ある場合は「NEXT」を押して進んでください。
「カテゴリー」を選んでいただくと、当該カテゴリーの一覧として、ずらっと出てきます。よろしく。 
私の記事は、引用、リンク、転載フリーです。事後でもお知らせ下さると嬉しいです。
パソコンの画面は「最大化」でご覧ください。

私のブログは大きい写真が入りますので、チョン切れを避けるためです、よろしく。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』(角川書店刊)
 歌集 『嘉木』 (角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 歌集 『嬬恋』(角川書店刊)
 歌集 『昭和』(角川書店刊) 
 歌集 『無冠の馬』(KADOKAWA刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 詩集 『修学院幻視』(澪標刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
◆第六歌集『無冠の馬』、第三詩集『修学院幻視』は、下記のところで買えます。   
お求めはamazonをはじめオンライン書店や、一般書店からの取次ぎでお願いしたい。
アマゾンには在庫してもらってあるので、即刻の配達が可能の筈です。
◆私の「旧作」は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。amazon「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

Wikipedia─木村草弥

Facebook─木村草弥

Twitter─木村草弥

ランキングを確認する ★ ──登録ジャンル:学問・文化・芸術>小説・詩
 これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓ します。アクセス数によるのでしょう。 ご覧ください。


banner99条守ろう

  9条守ろう!ブロガーズ・リンクに参加しています(0215)
 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

Banner_125x125_0003_D.jpg

   「地球上のすべての人が、
  人類すべての知識への自由かつ完全なアクセスを分かち合えたら、
  と想像してみてください。」
──── ウィキペディア創設者 ジミー・ウェールズ

「角川書店」話題の新刊書籍
「新潮社」
講談社BOOK倶楽部
「集英社文庫」新刊
「岩波書店」
「青土社・ユリイカ」
詩の本の思潮社
土曜美術社出版販売「詩と思想」
文芸春秋社・書籍ショールーム





「短歌以前─木村草弥の歌集のトポス(共通場)」・・・南日耿平
かむとき
 ↑ ──『霹靂』13号2001/09、題字は山中智恵子・筆

──書評・評論──再掲載・初出・『霹靂』13号2001/09掲載

      「短歌以前─木村草弥の歌集のトポス(共通場)」・・・・・・・・・・南日耿平

プロローグ
『霹靂』(かむとき)はもとの『鬼市』という名を変えて、その通巻として出発したが、
のちに短詩型文学全般にも通じる新しい視座へと拡大され、俳句の堀本吟さん、川柳Z
賞受賞の樋口由紀子さん、碧梧桐賞受賞の異色作家・森山光章さん、そして僅か十年の間
に三冊も歌集を出された木村草弥さんなど多彩な作家たちによって、新しくスタートが切
られたのです。
新世紀をむかえ、『霹靂』の天空での大音響の現出に、佐美雄、冬彦、赤黄男、重信など
の先駆者の方々の拍手喝采が聞こえそうであり、短歌一首も作っていない私にとっても新
しい<共時的詩的世界>への開眼の機をいただく思い。
何故私がこうした文芸の世界に興味をもったかは、五十年前、体育、スポーツの研究者と
して<愛と美と力>のデルタ構造で未来像をかかげ、<スポーツ美学論>を初めて講義題目と
して講じてきたこと。昨年、「新世紀スポーツ文化論」(タイムス社)で、<スポーツ曼荼
羅>の胎蔵部として、宗教・哲学・芸術。金剛界として体育学、スポーツ人約150名の方
々を五芒星形図として、図像学的(イコノグラフィー)手法で示し学会発表の機を得た。
本文の「短歌以前」の表題も、短歌音痴の私が、短歌の技法でなく、その深層部に秘めら
れた歌人・木村草弥さんの独自の境位を、私なりに楽曲分解(アナリーゼ)させていただい
たものとしてご笑覧いただければ幸いです。

(一) 木村さんの短歌作品の胎蔵部
木村さんとの出会いで驚いたのが、お住まいが山城の青谷村。私が三十代、三年も結核で
お世話になった国立の療養所のある茶処の問屋さんのお生まれで、また府立桃山中学校の
第23回卒。私が6回卒ということで二度びっくり。さらには長兄が、<兄の書きし日記を
もとに書かれたり太宰治の『パンドラの匣』>の作品にみられるよう夭折されたのも同じ
療養所だったと思われること。
早世の兄・木村庄助さんも弟の草弥さんが文学の血を引き継いでいることを喜んでおられ
るだろうと、「未来」の川口美根子さんが第一歌集の序で述べられるよう感性ゆたかな芸
術一家。兄上が京都大学に学ばれ、美術評論家・阪大教授でもあった木村重信先生(現在
兵庫県立近代美術館館長)がご生存とわかれば、世阿弥の<稽古の位>をこえた<生得の位>
にめぐまれた方、非凡な才能ゆたかな詩人・歌人・評論家。
先日、十年前『日本歌人』同人の横田利平さんの歌集『宇宙浪漫主義へ』での利平美学の
極みとしての<いまいまやいまいまいまやいまいまやいまいまいまやいまいまや我>をお送
りした所、これはセックスに於けるエクスタシーの瞬間(道元では<有事>(うじ)空海の<理
趣経>の十七清浄句の<妙適>の世界)と断じられ驚いた所。
一休の『狂雲集』におけるかずかずの作品は、第二歌集にはこれに関連十一首もあり、仏
典に関する御研鑽の広さと深さに驚くのみ。なるほどフランスの仏は仏教にも通じるかと
ほほえまれるしだい。
さらに、この「理趣経・十七清浄句」についての金岡秀友師とその弟子の論争の事も示さ
れた学識の深さに、長年空海の世界にあこがれ文献を集めていた老生とも照合するものと
先の七月の草田男をテーマとした短詩型文学を語る会に、横田さんの歌集への私の『日本
歌人』へ発表した感想文をお配りしたのです。その木村さんの冴えわたった感性・直感力
の非凡さには驚くのみです。
医学の近藤俊文博士の『天才の誕生-南方熊楠の人間学』にかかれた「ゲシュビント症候
群」とも照応、俳句の岡井省二先生と同じ天来の霊的人間(ホモ・スピリチュアーリス)の
天性。
第四にかかげたいのが木村さんが現代詩から短歌に転向されたこと。歌人・前登志夫さん
も私と共に敗戦後、奈良より詩誌《斜線》を出していましたが、詩集『宇宙駅』を残して
短歌に転じ、あっというまに歌壇に新風をおこされた吉野山住みの快男子。迢空賞受賞の
とき恩師代表で祝辞を求められたことが忘れられません。木村さんが文語定型、口語律、
定型、非定型にこだわらぬ自由多彩な韻律世界に遊んでおられるのもこの故と思います。
五番目にあげたいのは、木村さんが外語、京大の仏文科に学ばれたこと。九鬼周造の『い
きの構造』にも似てヨーロッパで一番あかぬけしているフランス語を学ばれ、更には全世
界を旅されたコスモポリタン。スケールの大きさは格別。やっておられないのは宇宙遊泳
のみ。この世界を埋めようと遊んでおられるのが木村さんの新しい短歌的世界。
先の短詩型の会に御来会の津田清子さんの句集『無方』で詠まれた<はじめに神砂漠を創
り私す><自らを墓標となせり砂漠の木><女には乳房が重し夜の砂漠>とも共鳴するコスモ
ロジーの世界が感じられてなりません。
木村さんは、一口で申せば静かな熱血漢。情感ゆたかなロマンと強力な実践力。只今は同
じ山城地区の法蓮寺にお住まいの山本空外先生の書法芸術に心酔。ハイデッガー、ベルグ
ソン、フッサールと共に学ばれた哲学者であり、その書は書家の書とは異なる<書法>とし
て出雲に<空外記念館>もある方。
幸い、黒谷住の戸川霊俊博士とは二十年前より御指導いただいているので空外先生につい
て御教示いただくよう予定している所。御年九十九歳。私も空外ファンの一人であり、偶
然の一致に驚いている所です。

(二) 木村さんの歌集について
第一歌集『茶の四季』(1995年)は、茶問屋の社長ながら、土耕、茶摘み、製茶などの実
務にたずさわり、茶道をたしなみながらの体験の中から生まれたもの。五章からなるが、
家族や山城の風光の他、海外旅行詠と多彩。<茶畑はしづかに白花昏れゆきていづくゆ鵙
の一声鋭し>の見事な序歌から始まる。好きな歌は、<茶に馴染む八十八夜のあとやさき緑
の闇に抱かれて寝る>、<茶の花を眩しと思ふ疲れあり冬木となりて黙す茶畑>
川口美根子さんの「俳諧的な魅力さえ感じさせる」の言葉に同感。
<兄の書きし日記を元に書かれたり太宰治の『パンドラの匣』>、<葬り終へ寝ねたる妻が
寝言にて姑との別れを嘆きて叫ぶ>、<汝が額の汗をガーゼでぬぐひつつ不意にいとしく掻
き抱きたし>、<原始の美を尋ね求めて駆けきたる兄は「大地の人(ホモ・フムス)たれ」と
唱ふ>の家族の歌につづいて、外国旅行の歌がうたわれている。中国での<ふたたびは訪ふ
こと無けむ竜門の石の洞をぞ振り返りみつ>は戦争で雲岡の石仏群近くまで行った私とし
てはなつかしい限り。<ワルシャワのショパンの館に来て聴くは祖国追はれし「別れの曲(し
らべ)」<さびしさを青衣にまとひエーゲ海の浜辺に惑ふ「沈思のアテナ」>なども四十年
前ヨーロツパで学んだことのある私としては感激ひとしお。<六人の乙女支ふる露台には
裳すそ引きたる腿のまぶしさ>。スペインで詠まれたフラメンコの踊り、ガウディの作っ
た教会の尖塔の歌など、さすが美の世界を一瞬につかまれる見事な「視覚構造」と嘆ずる
のみ。
第二歌集『嘉木』は、中国の古書の茶の木を詠まれたもの。『茶経』の出だしに「茶は南
方の嘉木なり」と記されているよう、日本の茶道の源流としての利休につらなる家元体制
であるとも記されているが、<明日のため見ておく初夏の夕焼は茶摘みの季の農夫の祈り>
にはじまり<汗あえて茶を刈る時にそぼつ身を女神のごとき風通るなり>とし、<茶の湯と
はただに湯を沸かし茶をたてて心静かにのむばかりなり>と詠じて、自らは「番茶道」を
提唱されているのも独自の木村さんの、形式化した家元を頂点とするヒエラルキー体制批
判として注目されます。
興味あるのは、一休(宗純)を詠んだ<夢に見て森女の陰に迷ひ入り水仙の香に花信を覚ゆ>
<風狂と女犯にふける宗純は妙適清浄これ菩薩なれ>と空海の理趣経につながっていると見
立てた眼力。
秘めごとめく吾-沓冠十五首-からは、現代短歌に未来はあるか、として展開。
<いなづまのびりりと裂きし樹の闇を殻もゆらさず蝸牛ゆく音>、<フランスのをみなが髪
をかきあぐる腋あらはにてむらさき匂ふ>、<場所(トポス)はもペロポネソスに満ち満てる
悦楽の言辞(トポス)に通ふと言へり>、<白桃に触れたる指をいとしみてしばらく宙にかざ
しゐる宵>、<汗匂ふゆゑにわれ在り夏草を刈りゐたるとき不意に思ひぬ>、<季節くれば
花を求めて飛んでゆく美しき翅よ うす青き蝶>、<失せもののいまだ出でざる夜のくだち
和紙の吸ひゆくあはき墨の色>、<牧神の午後ならねわがうたた寝は白蛾の情事をまつぶさ
に見つ>、<病む妻のため娘らはひたすらに石切神社にお百度を踏む>、<人知りて四十年経
ぬ萌え立てる君は野の花ムラサキハナナ>、<引退はやがて来るものリラ咲けばパリの茶房
に行きて逢はなむ>など、心にしみこむ秀歌が、それぞれの韻律と木村さんのいう<幻の領
域(トポロジー)>として<ゆほびかに>展開されている。
第三歌集『樹々の記憶』は、序で宮崎信義さんが述べられているよう<定型の魔力>からの
脱皮・転進・挑戦。デリダ流に言えば「短歌の脱構築」新短歌への序曲と申せよう。
巻頭<茶どころに生まれ茶を離れられない 茶の樹の霜が朝日に白い>、<季節(シーズン)
は春から夏へ蒼ぐろい樹の場面転換(ディゾルブ)にいそしんでいる>、ルビが外国語にな
っている。
<わたくしが愛するものは仮借なき攪拌だとは挑発的(プロヴォカティヴ)ね>、<美しく老
いる そんな言葉は糞くらえだ 美しい老年などどこにある>
一字あけの三段構成に注目されたい。
<瞬間(とき)の迷路を辿れば ここは何処? 地平線まで歩いてゆこう>と<?>が入る。
<にじむ脂汗の不眠の夜 墓標の在処(ありか)は教えるな>の歌には高柳重信の俳句が思い
出される。俳諧の二段構成。<沈黙の中で長く枝分かれしてゆく夜の闇-それが時間>-----
断章(パガテル)への郷愁。<私は一つの場所を探している 墓をつくるばかりの広さの>、
<死は甘美か 生者と死者の間に月がのぼる 死は甘美だ>-------くりかえしの美学。
<そり うねり 巻き込み 波うち ちぢれ 花の肢体>六つのシラバス構成。<秋だ 鉄
道の白い柵に電車の音にみじろぎもせず野菊は咲いていた>自由律。メルヘン的な詩秋の
詩。
木村さんが、あとがきで申されるよう、この第三歌集は、自由律短歌へのかずかずの挑戦
の詩。現代語なりの韻律に<現代の非定型・自由律運動の目標>とされる<短歌的自由詩>と
しての新しいポエジーの波動を目指す絵画的な「コラージュ」あるいは「パロディ」と記
しておられるのも、あるいは兄上・木村重信先生の影法師かも知れない。
問屋を娘さん夫婦にまかされ、これからが自由の身で、「方円宙遊」の新しい詩(ポエジ
ー)の歌、つくって下さい。

コーダ
短歌の木村草弥さんとの奇しき邂逅は、俳句の岡井先生と共に、私にとってはまこと有難
い御縁と感謝しています。お二人とも、デリダの「脱構築」--------奇しくも道元の<身心
脱落>にも共響する自在自由な新天地めざされ、新風を目覚めさして下さいました。
益々の御活躍をお祈りしています。

(奈良教育大学名誉教授・近藤英男) ──「南日耿平」は詩歌に遊ぶときの近藤先生のペーンネーム。
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
近藤英男氏死去 奈良教育大名誉教授

 近藤 英男氏(こんどう・ひでお=奈良教育大名誉教授、体育理論)
3月15日午後7時2分、肺炎のため京都府木津川市の病院で死去、94歳。京都府出身。自宅は木津川市木津大谷31。葬儀・告別式は既に営まれた。喪主は長女の東典子(あずま・のりこ)さん。
近藤氏は1990年勲三等旭日中綬章・受賞。「身体文化論」など専攻。1984/12:座長・「祭儀と芸能──身体文化の原点」(近藤英男),奈良体育学会定例会,於佐保女子短期大学 など。      2008/04/01 13:01 【共同通信】




「私の座右の歌 -小野茂樹-」・・・木村草弥
小野茂樹
↑ 現代歌人文庫「小野茂樹歌集」国文社刊1995/03/10初版第二刷
小野雅子
 ↑ 小野茂樹夫人・小野雅子歌集『青陽』ながらみ書房刊平成九年七月十日
小野
 ↑ 小野茂樹夫人・小野雅子第四歌集『白梅』ながらみ書房2013/06/27刊

──エッセイ──再掲載・初出・「地中海」誌1998年10月号

     「私の座右の歌 -小野茂樹-」・・・・・・・・・・・木村草弥

     くさむらへ草の影射す日のひかりとほからず死はすべてとならむ ・・・・・・・・・・・小野茂樹

 小野茂樹は河出書房新社の秀れた編集者として仕事をしていたが、帰宅するために乗ったタクシーが午前一時すぎに運転をあやまり車外に投げ出され昭和四十五年五月七日早朝に死亡した。
三十四歳であった。その夜、一緒であった小中英之と別れた直後の事故であるという。
掲出の歌は第二歌集『黄金記憶』の巻末に近い「日域」と題する五首の一連のものである。
この歌をみると「死」の意識が色濃く漂っているのに気づく。
歌の構成としては、初句から三句までの上の句の叙景と、四句五句の下の句の「死」というものについての独白の部分とに直接的な関連はない。
こういうのを「転換」というけれども、この上の句と下の句とが異和感なく一首として成立しているのが、この歌の秀れたところである。
「とほからず死はすべてとならむ」という心の独白は「くさむらへ草の影射す日のひかり」を見ていて、無理にくっつけたものではなく、
「くさむら」を見ていた作者の頭の中に、ふと自然に湧き上がって来た想念なのであろう。
だから、この歌は無理なく読み下せるのである。「転換」という手法を用いた秀歌の典型と言ってよかろう。
調べもよいから、一度ぜひ口に出して音誦してみてもらいたい。

この第二歌集『黄金記憶』を通読すると、何となく沈潜したような雰囲気が印象として残る。少し歌をみてみよう。

・輝きは充ちてはかなき午後の空つねに陰画(ネガ)とし夏を過ぎつつ
・午後の日はいまだ木立に沈まねば蝉は無数の単音に鳴く
・われを証す一ひらの紙心臓の近くに秘めて群衆のひとり
・見しために失ひしもの雪の夜の深き眠りに癒やされむとか
・冷えて厚き雪の夜の闇灯のごときものを守りて妻は眠れり
・垣間見しゆゑ忘れえぬ夕映えのしたたる朱は遠空のもの
・母は死をわれは異なる死をおもひやさしき花の素描を仰ぐ
・黎明といふ硬質の時のひだ眠り足らざる心とまどふ
・蛾に生まれ蛾に死にてゆく金色の翅はときのまゆらめくとなし
・翳り濃き木かげをあふれ死のごとく流るる水のごとくありし若さか

 これらの歌の中で一首目の「陰画とし」、二首目の「単音に鳴く」三首目の「群衆のひとり」というような捉え方は、感性に流された作り方ではなく、
心の底に何か「しんとした」あるいは「クール」な醒めた目を感じさせる。
 十首目の「翳り濃き木かげをあふれ死のごとく」と「流るる水のごとく」という対句が、結句の「ありし若さ」という言葉に、いずれも修飾句としてかかる、
という表現も面白いが、それよりも「死のごとく」という直喩表現に、どきりとさせられるのである。
これは、いわゆる若者の歌としては珍しい。誤解を恐れずに言えば茂樹は、早くから、こういう「死」の意識を、ずっと持ちつづけて来たと言える。
この歌集の題名となった「黄金記憶」というのは、戦争末期に岩手県に学童疎開した時の記憶を三十三首の歌として発表したものに一因んでいる。
その中に

・ふくらはぎ堅くけだるし音もなく明けくる刻をゆゑなく恐れき
・たれか来てすでに盗めりきりきりとトマトのにほひ夜の畑に満つ
・こゑ細る学童疎開の児童にてその衰弱は死を控へたり

のような歌がある。作者は戦争が終って帰京したとき、栄養失調のような体調であったと言われるが、その様子が現実感をもって詠われている。
これらの歌からも、すでに「死」と向かい合っていた作者の心情が読み取れるのである。
「ふくらはぎ堅くけだるし」というのは栄養失調で骨と皮とになった痩せた体と心の状態を詠ったものであり子供心に「餓死」という恐怖を持っていたが故に「明けくる刻をゆゑなく恐れき」と表現されている。
 なお、この歌集は音楽好きだった作者を反映して「エチュード」「プレリュード」「ノクターン」「ブルース」「スキャット」「アダージオ」「カデンツ」などの音楽用語が項目名として使われている。
また長女綾子への愛情表現もひときわだったようで、こんな歌がある。

・みどりごは無心にねむる重たさに空の涯なる夕映えを受く
・父も母もいまだなじまぬ地に生れて知恵づきゆくか季節季節を
・露に満ち甘きにほひをたつるさへ果実はゆかしみどりごの眼に

 三首目の歌は、この歌集の巻末におかれた歌で、子煩悩であった作者の歌として、またいとほしい子の歌として妥当な置き方であると言えよう。
みどりご(長女綾子)の眼を「露に満ち甘きにほひをたつる果実」と比喩表現で情趣ふかく詠われているのも並並ならぬ父の愛を感じさせる。

掲出した歌が第二歌集に収められている関係から、この歌集から文筆を書きはじめたが、順序としては第一歌集『羊雲離散』から始めるべきだったかも知れない。
 この第一歌集は、あの有名な

・あの夏の数かぎりなきそしてまたたった一つの表情をせよ

という歌に代表されるように「相聞」が一篇をつらぬく主題と言ってよい。

・五線紙にのりさうだなと聞いてゐる遠い電話に弾むきみの声
・あたらしきページをめくる思ひしてこの日のきみの表情に対す
・くちづけを離せば清き頬のあたり零るるものあり油のごとく
・青林檎かなしみ割ればにほひとなり暗き屋根まで一刻に充つ
・さぐり合ふ愛はいつより夜汽車にて暁はやき町過ぎにつつ
・強ひて抱けばわが背を撲ちて弾みたる拳をもてり燃え来る美し
・わが眉に頬を埋めしひとあれば春は木に濃き峠のごとし
・汝が敏き肌に染みつつ日は没りて乏しき視野をにじり寄る波
・路に濃き木立の影にむせびつつきみを追へば結婚飛翔にか似む

 この「結婚飛翔」にはナプシヤル・フライトというルビが附られているが、これは昆虫の雌雄が相手を求めて飛ぶことを指している。

・エプロンを結ぶうしろ手おのれ縛すよろこびの背をわれに見しむる
・拒みしにあらずはかなく伸べ来たるかひなに遠く触れえざるのみ
・いちにんのため閉ざさずおくドアの内ことごとく灯しわれを待てるを

 茂樹と妻・雅子は東京教育大学附属中学校に在学中の同級生ということだが、年譜によると、それぞれ他の人との結婚、離婚を経て、
十五歳の時の初恋の相手と十五年ぶりに結婚にこぎつけたということである。
 そういう愛の波乱が、作られた歌にも反映していると思うが、どの頃の歌が、どうなのかは私には分らない。
ただ「愛」というものが一筋縄ではゆかない代物であることを、これらの作品は陰影ふかく示している。
巻末の歌は「その指を恋ふ」と題されて

・われに来てまさぐりし指かなしみを遣らへるごときその指を恋ふ
・かかる深き空より来たる冬日ざし得がたきひとよかちえし今も
・風変はる午後の砂浜うたたねのかがやく耳に光はそそぐ
・根元近くみどりを残す浜草の乱れを敷きてねむりてあれよ

と詠われている。エロスあふれる情感が快い。

・あの夏の数かぎりなくそしてまたたった一つの表情をせよ
の歌は、終りから二つ目の項目の「顔」という十二首の一連の中にある。
 この辺りの歌は雅子との愛を確定したときの歌と断定できるだろう。
紆余曲折のあった愛の道程をふりかえって、晴れ晴れとした口調で愛の勝利宣言がなされているように、私には見える。

 昨年のことだが未亡人の小野雅子歌集『青陽』が出版され、その鑑賞文「悲傷-メビウスの環」を、私は書いた。
これも一つの思い出となったが今回の文章を書くに当っては久我田鶴子が茂樹のことを書いた評論集『雲の製法』や小中英之その他の文章には敢えて目をつぶって、
私なりの感想をまとめた。

 国文社刊『小野茂樹歌集』(現代歌人文庫⑪)には、この二冊の歌集が収録されているのでぜひお読み頂きたい。
はじめに書いた小中英之の『黄金記憶』頌-小野茂樹論へのノートーという文章も載っている。

(お断り)この原稿が「地中海」誌に載ったときに「誤植」の多いのに、とまどった。
     今回、ここに収録するに当って出来る限り訂正したが、なお見つかるかも知れない。
     見落しに気づかれたら、ご指摘をお願いする。 よろしく。
-----------------------------------------------------------
小野雅子第四歌集『白梅』が2013年出版され、← その本の紹介を拙ブログに載せた。アクセスされたい。
先年、第五歌集『昭和』を出版したが、東京で「読む会」を開いていただき二十数人の方がおいで下さった。
その中に、小野雅子さんもおいでいただいて批評を賜った。久しぶりにお会いして挨拶したが、お元気そうで何よりだった。
ここに記して、改めて御礼申し上げる。





忽然とシーギリヤ・ロック巨いなる岩現れぬ密林の上に・・・木村草弥
25121028287シーギリヤ
 ↑ シーギリヤ・ロック──スリランカ
main_PCMB02シーギリヤ・ロック
↑ シーギリヤ・ロックの俯瞰
lrg_10375026ロック頂上への登り口
 ↑ ロック頂上への登り口
c0156438_08666シーギリヤ
 ↑ 岸壁画の一部
mukannouma (2)
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■


      忽然とシーギリヤ・ロック巨いなる
         岩現れぬ密林の上に・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 
             ・・・・・・・第六歌集『無冠の馬』所載・・・・・・・・・・

  忽然とシーギリヤ・ロック巨いなる岩現れぬ密林の上に

  いづこにも巨岩を畏れ崇(あが)むるかシーギリヤ・ロック地上百八十メートル

  父殺しのカーシャパ王とて哀れなる物語ありシーギリヤ・ロック

  汗あえて息せき昇る螺旋階ふいに現はるシーギリヤ美女十八

  草木染に描ける美女(アプサラ)は花もちて豊けき乳房みせてみづみづし

  ターマイトン土で塗りたる岩面に顔料彩(あや)なり千五百年経てなほ

  貴(あて)なる女は裸体、侍女は衣(きぬ)被(き)て岩の肌(はだへ)に凛と描ける

  昔日は五百を越ゆるフレスコ画の美女ありしといふ殆ど剥落

  獅子(シンハ)の喉(ギリヤ)をのぼりて巨いなる岩の頂に玉座ありしか

  聞こゆるは風の音のみこの山に潰えしカーシャパ王の野望は

  熱帯にも季節あるらし花の季は十二月から四月と言ひぬ

   ──つい数年前までタミール人「解放の虎」テロとの血みどろの抗争があり、大統領が訴へた──
  「憎しみは憎しみにより止むことなく、愛により止む」ブッダの言葉

------------------------------------------------------------------------------
嬬恋

掲出したのは私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)だが、この歌集の表紙の写真を撮るために2003年の春にスリランカへ行った。
それにまつわる紀行文「光り輝くインド洋のひとつぶの涙の雫-スリランカ」があるが、この歌集には、その時に作った歌は収録できなかった。

この巨大な石塊の岩棚に美女アプサラの絵が描かれている。
スリランカはイギリスの植民地の頃には「セイロン」と呼ばれていたが、「シーギリヤ・レディー」と俗称されている。
これらの歌は、この歌集以後のものとして結社誌にも発表したし、習作帳にも保存してあったが、第五歌集『昭和』(角川書店)編集の際には収録を忘れて、これにも洩れている。
そんなことで久しぶりに『無冠の馬』に収録した次第である。


ノートルダム=ド=ストラスブール大聖堂・・・木村草弥
450px-Absolute_cathedrale_Strasbourg_04ストラスブール大聖堂
Strasbourg_Cathedralストラスブール大聖堂
 ↑ ノートルダム・ド・ストラスブール大聖堂

──巡礼の旅──(21)再掲載・初出2013/09/26

     ノートルダム=ド=ストラスブール大聖堂・・・・・・・・・・・木村草弥

アルザス地方というのは、ドイツ領とフランス領に何度も支配の変更を繰り返してきた土地である。
その中心地がストラスブールである。 この教会は、その街の象徴的な建物である。     
「ノートルダム」とは「聖母マリア」のことであり、聖母マリア信仰の強いカトリック圏では、いたるところに同名の教会がある。

ノートルダム=ド=ストラスブール大聖堂(フランス語: Cathédrale Notre-Dame-de-Strasbourg、 ドイツ語: Liebfrauenmünster zu Straßburg)は、フランスのストラスブールにあるカトリックの大聖堂である。その大部分はロマネスク建築だが、一般にゴシック建築の代表作とされている。主な建築者としてはエルヴィン・フォン・スタインベックがいる。1277年から1318年に死ぬまで建設に関わった。

高さ142メートルで、1647年から1874年まで世界一の高層建築だった。1874年にハンブルクの聖ニコライ教会に高さを追い抜かれた。現在は教会としては世界第6位の高さである。

ヴィクトル・ユーゴーは「巨大で繊細な驚異」と評した。
アルザス平原のどこからでも見え、遠くはヴォージュ山脈やライン川の反対側にあるシュヴァルツヴァルトからも見える。
ヴォージュ産の砂岩を建材として使っており、それによって独特なピンク色を呈している。

ストラスブールがアルゲントラトゥムと呼ばれた時代にはこの場所に古代ローマの聖域があり、その後ストラスブール大聖堂が建設されるまでいくつかの宗教建築物が次々とここに建てられた。
7世紀にストラスブール教区の司教である聖アルボガストが、聖母マリアに捧げられた教会を元にして大聖堂を建設したことが知られているが、全く現存していない。
古い大聖堂の遺物は1948年と1956年の発掘で出土しており、4世紀末期から5世紀初頭のものとされている。これは現在の聖エティエンヌ教会の位置から出土した。
8世紀、最初の大聖堂はカール大帝の時代に完成したと推測されているより重要な建築物に置き換えられた。
司教レミギウス(レミ)は778年の遺言でその建物の地下霊廟に埋葬されることを望んでいる。842年のストラスブールの誓いがこの建物で結ばれたことは確実である。最近行われた発掘調査により、このカロリング朝の大聖堂には3つの身廊と3つのアプスがあったことが明らかになった。司教 Ratho(Ratald または Rathold とも)の詩によると、この大聖堂は金や宝石が装飾されていた。このバシリカは873年、1002年、1007年とたびたび火事にみまわれた。

1015年、司教 Werner von Habsburg がカロリング朝のバシリカの廃墟に新たな大聖堂の基礎となる最初の石を置いた。彼はロマネスク様式の大聖堂を建設した。この大聖堂は1176年、身廊の屋根が木製だったため火災で焼け落ちた。

この惨事の後、司教 Heinrich von Hasenburg はそのころちょうど完成したバーゼルの大聖堂よりも美しい大聖堂を建設することを決めた。
建設は既存の構造の基礎を利用して始まり、完成に百年ほどかかった。司教 Werner の建てた大聖堂の地下聖堂は焼け残っていたため、そのまま残し西側に拡張した。

800px-Choeur_-_Cathedrale_de_Strasbourgクワイヤ
 ↑ クワイヤ
France_Strasbourg_Magi三博士
↑ サンローラン玄関にある東方三博士と聖母子像

建設はクワイヤと北の翼廊からロマネスク様式で始まり、記念碑的側面や高さの面で皇帝大聖堂と呼ばれる建物に着想を得ていた。しかし1225年、シャルトルから来たチームがゴシック建築の様式にすることを示唆し、建設方針が大転換された。身廊は既にロマネスク様式で建設が始まっていたが資金不足に陥ったため、教会は1253年に贖宥状を発行して資金を集め、この資金で建築家と石工を雇った。シャルトルのチームの影響は彫刻にも見られる。有名な「天使の柱 (Pilier des anges)」は南の翼廊の天文時計の隣にあり、最後の審判を柱で表現している。

ストラスブール市自体と同様、この大聖堂はドイツ風のミュンスターとフランス文化の影響を受ける一方、東側の構造(例えば、クワイヤや南の玄関)は特に窓よりも壁が強調されている点からロマネスク様式の特徴が色濃く残っている。

とりわけ数千の彫刻で装飾された西側のファサードはゴシック時代の傑作とされている。尖塔は当時最先端の技術を駆使したもので、石が高度に直線的に積まれ、最終的な見た目は一体となっている。それまでのファサードも確かに事前に設計した上で建設されたが、ストラスブール大聖堂のファサードは事前設計なしでは建設不可能だった。ケルン大聖堂と共に設計図を使った初期の建築物とされている。アイオワ大学の Robert O. Bork の研究によれば、ストラスブール大聖堂のファサードの設計はほとんど無作為にも思える複雑さだが、一連の八角形を回転させた図形を使って構成されていることを示唆した。

1439年に完成した尖塔は1647年(シュトラールズントのマリエン教会の尖塔が焼け落ちた年)から1874年(ハンブルクの聖ニコライ教会の尖塔が完成した年)まで世界一高い建築物だった。ファサードを対称にするためもう1つの尖塔が計画されていたが作られることはなく、独特な非対称の形状になった。見通しがきく場所なら30kmの距離から塔が見え、ヴォージュ山脈からシュヴァルツヴァルトまでライン川沿いで見える。塔は四角い柱体部分を Ulrich Ensingen、八角形の尖塔部分をケルンの Johannes Hültz が建設した。Ensingen は1399年から1419年、Hültz は1419年から1439年に建設を行った。

1505年、建築家 Jakob von Landshut と彫刻家 Hans von Aachen が北の翼廊の外にあるサンローラン玄関 (Portail Saint-Laurent) の修復を完了した。この部分はゴシック後期、ルネサンス前期の様式が目立つ。ストラスブール大聖堂の他の玄関と同様、設置されている彫像の多くはレプリカで、本物はルーヴル・ノートルダム美術館に移されている。

中世後期、ストラスブール市は大司教の支配を脱して自由化することに成功し、帝国自由都市となった。15世紀は Johann Geiler Kaysersberg の説教と宗教改革の萌芽で彩られ、16世紀にはジャン・カルヴァン、マルチン・ブーサー、ヤコブ・シュトゥルム・フォン・シュトゥルメックといった人物が活躍した。1524年、市議会はこの大聖堂をプロテスタントの手に委ねることを決定した。そのため聖像破壊運動の影響を受けて建物に損傷が生じた。1539年、文献上最古のクリスマスツリーがこの大聖堂に設置された。

1681年9月30日、ストラスブール市はルイ14世の支配下に入り、同年10月23日、王と領主司教 Franz Egon of Fürstenberg が出席して大聖堂でミサが行われた。これにより大聖堂はカトリックに戻され、対抗宗教改革で改訂された典礼に従って内装の再設計が行われた。1682年、1252年に設置された内陣障壁を取り払ってクワイヤを身廊に向かって拡張した。この内陣障壁の一部はルーヴル・ノートルダム美術館とクロイスターズ(メトロポリタン美術館の別館)に展示されている。主祭壇はルネサンス初期の彫刻だったが、同年取り壊された。その一部はルーヴル・ノートルダム美術館に展示されている。

1744年、Robert de Cotte の設計した丸いバロック様式の聖具保管室が北側の翼廊の北西に追加された。1772年から1778年にかけて、大聖堂の周囲に出店していた商店群を整理するため、大聖堂の周囲に初期ゴシック・リヴァイヴァル様式の回廊を建設した(1843年まで)。

1794年4月、ストラスブール市を支配したアンラジェ(過激派)は、平等主義を損ねているという理由で尖塔を引き下ろすことを計画し始めた。しかし同年5月、市民が大聖堂の尖塔に巨大なブリキ製フリジア帽(アンラジェも被っていた自由の象徴)を被せたため、破壊を免れた。この人工物は歴史的コレクションとして保存されていたが、1870年に完全に破壊された。ストラスブール包囲戦の際、プロイセン軍の放った砲弾が大聖堂に当たり尖塔の金属製十字が曲がった。また、クロッシングのドームにも穴が開いたが、後により雄大なロマネスク・リヴァイヴァル様式で再建された。

Virgen_estrasburgo_UEステンドグラス
↑ 「ストラスブールの聖母」はクワイヤの窓になっている
800px-Strasbourg_Dom_Detail_9ストラスブール大聖堂詳細
 ↑ 柱頭彫刻の一部

第二次世界大戦中、ストラスブール大聖堂は両陣営から象徴とみなされた。アドルフ・ヒトラーは1940年6月28日にストラスブールを訪問し、大聖堂を「ドイツ人民の国家的聖域」にしようとした。1941年3月1日、フィリップ・ルクレール将軍は「クフラの誓約」として「ストラスブール大聖堂の上に再び我々の美しい国旗がたなびくまで、決して武器を置かない」と誓った。また、ドイツ軍はストラスブール大聖堂のステンドグラスを74枚取り外し、ドイツ本国のハイルブロン近郊の岩塩鉱山に隠した。戦後、アメリカ軍がこれを発見し、大聖堂に返還した。

大聖堂は1944年8月11日のストラスブール中心部への英米軍の空襲で被害を被った。1956年、欧州評議会は Max Ingrand 作の有名なステンドグラス窓「ストラスブールの聖母」を大聖堂に寄付した。この戦争での損傷が完全に修復されたのは1990年代初頭のことである。

800px-Absolute_cathedrale_Strasbourg_03後陣
 ↑ 巨大な建物を支える外側の「フライング・バットレス」

ここでストラスブールの街の写真をいくつか出しておく。

800px-Strasbourg_PanoNE2ストラスブール
 ↑ ストラスブール俯瞰
800px-Strasbourg-6-8_GrandRueストラスブール木組みの家
 ↑ 「木組みの家」
800px-Strasbourg,_Quai_des_Bateliersストラスブール運河沿いの木組みの家
 ↑ ストラスブール運河沿いの木組みの家




「写俳」の提唱・創始者─伊丹三樹彦が死んだ・・・木村草弥
c1811e36伊丹三樹彦
 ↑ 近影。一緒に写るのは娘の啓子。
sim伊丹三樹彦
↑ 伊丹三樹彦 全句集
41676aca伊丹三樹彦
 ↑ 写俳集Ⅶ。ギリシア・イタリアなど
20180324171731564784_4c5b7c0556110f6ed3f76c3bc0fc96d5伊丹三樹彦「隣人」
 ↑ 写俳集「隣人」
BK-480601687X_3L伊丹三樹彦
 ↑ 第26句集『当為』
bookoffonline_0016614036伊丹三樹彦「写俳」
bookoffonline_0016637432伊丹三樹彦
02itami伊丹三樹彦
579865677伊丹三樹彦

──エッセイ──

     「写俳」の提唱・創始者─伊丹三樹彦が死んだ・・・・・・・・・・・・木村草弥

新聞報道で知って驚いた。
伊丹三樹彦というのは、こういう人だった。

伊丹三樹彦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

伊丹 三樹彦(いたみ みきひこ、1920年3月5日 - 2019年9月21日)は、俳人、写真家。本名は岩田 秀雄(いわた ひでお)。別号・写俳亭。

略歴
兵庫県伊丹町(現伊丹市)に生まれ、同三木町(現三木市)で育つ。三木市立三樹小学校、兵庫工業高等学校卒業。
13歳から長谷川かな女の俳誌「水明」にて俳句を始める。1937年、日野草城の「旗艦」に投句、のち「旗艦」が統合された「琥珀」同人。
戦後、同門の桂信子や楠本憲吉らと「まるめろ」を創刊。また「太陽系」に参加。1949年、日野草城主宰の「青玄」創刊に参加し、編集、発行を行う。
高校卒業後は神戸大学工学部を受験するも失敗、神戸市役所に採用される。
1956年の草城没後は「青玄」を継承し主幹となる。
以後、第二次「青玄」においてリアリズム・リリシズム・リゴリズムの「三リ主義」を標榜し、超季、分かち書き俳句を推進。
1970年、写真と俳句の相乗による「写俳」運動を創始。2003年、現代俳句大賞受賞。
その他、兵庫県文化賞、神戸市文化賞、尼崎市民芸術賞、大阪市民文化功労賞、半どんの会文化功労賞、文部大臣地域文化功労者表彰を受ける。
2006年、脳梗塞で倒れたが奇跡的に元気を回復、高齢ということもあり自重して「青玄」を607号にて終刊。

妻の伊丹公子(2014年12月15日没の89歳)、娘の伊丹啓子はともに俳人。
現在、啓子が2006年に創刊した季刊誌「青群」顧問、現代俳句協会顧問などを務める。門下に坪内稔典、松本恭子ら。

2019年9月21日、肺炎のため伊丹市の病院で死去。 99歳。
-----------------------------------------------------------------------------
私のブログでも初期の写俳集を採り上げて載せたことがある。
前の大戦をくぐってきた人なので、「反戦平和」についての強い意志を表明していた。

ここに写俳集の写真の一端を掲げて、哀悼の意を表したい。  合掌。


松林尚志句集『山法師』・・・木村草弥
松林_NEW

──新・読書ノート──

       松林尚志句集『山法師』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・ふらんす堂2019/09/25刊・・・・・・・・・

この本が恵贈されてきた。松林氏については、このブログで何度か書いてきた。
松林尚志というのは、こういう人である。  ↓
 
1930年 長野県生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。
現代俳句協会、現代詩人会 各会員。
俳誌「木魂」代表、「海程」同人。
著書
句集 『方舟』 1966 暖流発行所 
    『冬日の藁』 2009 角川書店
詩集 『木魂集』 1983 書肆季節社 他
評論 『古典と正統 伝統詩論の解明』 1964 星書房
    『日本の韻律 五音と七音の詩学』 1996 花神社
    『子規の俳句・虚子の俳句』 2002 花神社
    『現代秀句 昭和二十年代以降の精鋭たち』 2005 沖積舎
    『斎藤茂吉論 歌にたどる巨大な抒情的自我』 2006 北宋社
    『芭蕉から蕪村へ』 2007 角川学芸出版
    『桃青から芭蕉へ 詩人の誕生』 2013 鳥影社
    『和歌と王朝』 2015 鳥影社 
    『一茶を読む やけ土の浄土』 2018  鳥影社   他

私が松林氏を知るきっかけになったのは 『日本の韻律 五音と七音の詩学』 の本を読んで「新短歌」誌に小文を書いたことによる。
この本が出たのが1996年であり、まだ私はブログをやっていなかったので、私の文章を今ここに引くことが出来ないのだが、以後、御著を恵贈されたりして今に至っている。

この本は主宰される俳誌「こだま」その他に載ったものを一冊にまとめられたのである。
略歴にも書かれているように兜太主宰「海程」にも籍を置かれていたようである。
その兜太も亡くなって、手元にある句を世に出す気持になられたようである。

先ず、この記事 →  「大井恒行の日日彼是」を読んでみていただきたい。

見出しになっている「汗冷める老人に席譲られて」の句は巻末の「平成二十九年・三十年」のところに載っている。
大井氏のサイトには金子兜太のこと、朝日俳壇の選者として金子の後任に高山れおな、が就任してことなどが引かれている。
私も高山れおな、のことは、このブログに載せたことがあるので親近感を持って読んだ。

松林氏は私と同じ年の生まれで、「目下は終活の日々です」と年賀状に書かれる状態で、私も同様の心境である。
子供たちが文芸には縁がないので、私が死んだら膨大な量の本も屑になってしまうので昨年、日本現代詩歌文学館などに蔵書を寄贈して書架は、からっぽになった。

前書きが長くなったので、そろそろ句集を見てみよう。
「あとがき」に

<前句集『冬日の藁』を出したのは平成二十一年で、そこには平成十四年までの句を集めている。
 ・・・・・平成十五年以降の句をまとめることとした。・・・・・ともかく705句をまとめることが出来た。
 ・・・・・私は詩を読むことから俳句へ入っており、無季を容認した滝春一先生のもとで学び、
 また金子兜太さんの「海程」にも加わって歩んできた。
 ・・・・・俳句も詩歌の一端を担うとすれば、やはり思いを陳べる表現志向も底流している筈である。
 ・・・・・兜太さんは、季語がなければならないと言った覚えはないとの言葉を残しており、最後の九句には無季の句が四句あった。・・・・・
 外題の「山法師」は、我が家の前に並木があり、初夏の季節になると清楚な白い花を咲かせ、
 ・・・・・この集には山法師を詠んだ句を幾つか載せている。そんなことから迷わず決めた。・・・・・>

と書かれている。煩を厭わず引いてみた。 では、私の目に止まった句を引く、

平成十五年・十六年
     *暖かさうなマダム羊が初夢に
     *冬桜耿之介書の独歩の詩
     *青山二丁目風縦横に茂吉の忌
     *森は若葉縄文土器と詩人のペン      村野四郎記念館
     *さかしらの猿も頬染む年酒かな
     *烏骨鶏梅より白し城守る           小田原城 
     *リュックには餡パン一つ山法師
     *一棒を食らひて海鼠涙せり

平成十七年・十八年
     *鶏鳴に覚めし初夢しばし追ふ
     *果汁壜残せし人の春逝けり          悼 伊藤陸郎氏
     *仮面土偶は蟷螂の貌ばつた飛ぶ
     *寒すばる金輪際をしやがむ君
     *芽木そろひ柔軟体操風まかせ
     *アイネクライネナハトムジーク柿若葉
     *弱冠にして若干は鶴の性
     *寒星をみしみし踏んで大熊座

平成十九年・二十年
     *花曇握り返さるる手に力
     *ベンチ三つ老人三人蝌蚪の紐
     *地の果てに灯台ありと来しが芒         銚子吟行
     *一月やはつしはつしと冬木の芽
     *虫眼鏡虫の目玉に睨まれぬ
     *寒禽のぎやーていぎやーてい鳴き去るも

平成二十一年・二十二年
     *指添へる弥勒の思案春の地震
     *会釈して去りしその笑み梅に浮く        悼 阿部完一氏
     *梅雨深し管を巻かれて磔に
     *寒の夜景眼にちりばめて高階に         傘寿を迎へし日
     *蛇泳ぐ池しなやかにめぐる女
     *さはやかや兜太に活を入れられて

平成二十三年・二十四年
     *雪のせて笑みおほどかや石仏
     *根こそぎの魔王の津波迫り迫る          東日本大震災
     *花終はり毛虫一匹宙ぶらりん
     *来春のことを話せり病む兜太と
     *洗はれて河床の石の聡き冬

平成二十五年・二十六年
     *気を楽にせよと声あり恵方神
     *起き上がり小法師のんのん春愁ひ
     *まぼろしの学徒の軍靴聴く寒夜
     *晩年は素のままがよし山法師

平成二十七年・二十八年
     *痛切に句を吐き逝けり冬の蝶          上間月吐氏を悼む
     *虫は蝶へザムザ氏は虫に変身す
     *原節子より智衆思へり花馬酔木          鎌倉
     *たひらげし秋刀魚の骨のきれいなり
     *冬晴れや無一物即無尽蔵

平成二十九年・三十年
     *冬灯尼僧の青き頭も光り
     *卒寿二人身近に逝きて春深し
     *陽炎や「折々のうた」幾年経し           大岡信氏逝去
     *寒卵コツンと割れておてんと様
     *青鮫の去りにし庭か梅白し             金子兜太師逝去
     
「帯」裏には「自選十五句」が載っているが、そこには収録されていない句を選んだ。
最近は「ただごと句」のような作品が多いが、私は俳句は作らないが、松林氏のような、こういうブッキッシュな、教養的な句づくりが好きである。
なにぶん句の数が多いので佳句を見落としたかも知れない。
雑駁な鑑賞に終始したことをお詫びする。 有難うございました。    (完)



後閑達雄句集『母の手』・・・木村草弥
後閑_NEW

──新・読書ノート──

     後閑達雄句集『母の手』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・ふらんす堂2017/09/04刊・・・・・・・

FBで知り合った後閑達雄氏から、この本が贈られてきた。
先ず、発行元である「ふらんす堂」社長山岡喜美子さんの紹介記事をネット上から拝借し、ここに貼り付けておく。  ↓
-------------------------------------------------------------------------
後閑達雄(ごかん・たつお)の句集『卵』に次ぐ第2句集である。
前句集に引き続き装画は漫画家のつげ忠男氏。後閑さんとは交流のある間柄である。
後閑達雄さんは、昭和44年(1969)年神奈川県生まれ。
平成3年 流通経済大学卒業。 千葉県流山市に在住、現在は「椋」(石田郷子代表)所属。
本句集は『卵』上梓よりほぼ8年間の作品を四季別に収録したものである。
俳句をはじめたきっかけは、「うつ病がひどい時、母にすすめられ始めました」と『卵』のあとがきに記されている。
タイトルは、その母との濃密な関係を象徴するものとしての「母の手」である。

      *吾よりも母の手あたたかしいつも

第一句集上梓後、母のアルツハイマーが進行し介護生活を経て、私自身初めての一人暮らしをしています。

本句集の「あとがき」の言葉である。
こう書くご本人の後閑さん自身も、肉体の持病と精神の病に苦しみ薬が離せない毎日だ。

     *障碍者後閑達雄と書いて蟬

     *渡り鳥働かぬまま生きてをり

     *秋思なりずつと薬を飲む病気

     ⋆冬の鵙大きな粒の頭痛薬

タイトルが示すように母を詠んだ句がかなり多い。
それは著者と母との現実であり、そこにはわれわれを圧倒的するものがある。

     *春立ちぬ母の肌着を畳みつつ

     *吾よりも母の手あたたかしいつも

     *母に腕嚙まれてしまふカーネーション

     *初桜母と手のひら合はせけり

     *跪き母に白靴履かせけり 

いくつか紹介したが、あたたかな「母の手」が詠まれていると同時にここから見えてくるのは、著者の「手」である。
母に働きかける「手」である。あらゆる記憶をなくしつつある母を、この世につなぎとめておこうとする「手」である。

いつか後閑さんと電話で話したときに、
「今日は、母の見舞いに行ってきました。そうしたら、お母さん、僕の顔をぺろぺろぺろぺろ舐めるんですよ。顔中を舐められて帰ってきました」

と。

母と子のきわめて動物的な愛情のつながりだ。言葉にはならなくても愛おしいものとしてのとして存在するもの。

本句集はある意味で極限状況におかれた著者の壮絶な日々であるはずだが、句集を一貫しているものは、清々しいまでの明るさである。
それを支えているのが母への愛であり、母からの絶対的な愛だ。へんな言い方だが、臍と臍が見えない糸でむすびついているような感じ。

本句集に、石田郷子代表が序句を寄せている。

       春を待つ手を甘嚙みの白猫と     郷子

やはり「手」である。
「春を待つ手」とは、著者の「手」であり母の「手」だ。
句集そのものへの挨拶句となっている。

本句集の担当はPさん。

Pさんは、『卵』の時から後閑達雄さんの俳句が好きだと言っていた。Pさんの紹介する句は

     *料峭や親指でむくゆで玉子

     *水温む生まれたるもの立ちあがり

     *エプロンの深きポケット蓬摘む

     *シクラメン部屋あたためて待つてゐる

     *頬白の飛ぶ明るさを待つてをり

     *夏料理箸を正しく使ふ人

     *夏空の下やドラムを組み立てて

     *傘の骨残りし二百十日かな

     *夜の卓レモンの卓となりゐたり

     *指先にナンの熱さよ小鳥来る

     *冬眠の前の薬を数へけり

この句集を老人ホームで寝たきりの母に報告するつもりです。

と「あとがき」に書かれているが、句集『母の手』を手に取られたお母さまはどんな反応をされるだろうか。
病状が大分すすんでおられるとも伺っているが。

本句集の装丁は、和兎さん。
-------------------------------------------------------------------------
はじめから、他人の記事ばかりで失礼するが、この文章が要を得ているので、敢えて引用させてもらった。お許しいただきたい。
ただし、その記事そのままではなく、補筆、構成し直したので、ご了承を。

この本の「カバー」裏に

◆自選十句
雛あられレジの所に置いてある
啓蟄のよごれた顔でこんにちは
目の前の大きなお尻潮干狩
母に腕嚙まれてしまふカーネーション
先生がダリアの前で立ち止まる
手打そば秋の風鈴鳴り出して
虫売の立てば大きな男かな
よく拭きし眼鏡を母に菊日和
鯛焼に鯛は入つてゐないけど
今日も俳句にありがたうです日脚伸ぶ

が載っている。 自選であるからには、これらの句が作者の愛着のあるものなのだろう。
全篇を通じて、一巻は、このようにして、淡々と、坦々と、進行する。それが後閑氏の俳句の特徴である。
そして全篇を通じて「母」との濃厚な関係があるのである。
 

    *てのひらの小鳥の卵割れてをり

    *あたたかき洗濯物を畳みけり

    *アパートに日の差す時間初燕

    *子も妻もなくて母居る花はこべ

    *花冷えや母と二人で暮らす部屋

    *朝寝して車通ると揺れる家

    *夏至の日や見切シールを貼る仕事

    *パソコンの修理業者へ藺座布団

    *空蝉を三個拾ひて二個落とす

    *冷蔵庫中に小さな部屋のある

    *秋深しタクシーで行く精神科

    *団栗のごりごり廻る洗濯機

    *木枯らしやマクドナルドのない町に

    *冬帽の母に私物の少なさよ

    *泣く母に何もできずよ冬の梅

いまアトランダムに句を抽出してみた。 文字通り「ただごと句」と言えるものである。短歌の世界で「ただごと歌」と称される作品があるように、である。
私は「ただごと句」が悪いと言っているのではない。
前衛句の反動として、今は、こういう何でもない句が俳壇全体を覆っているという印象を受ける。
それは師匠である石田郷子氏の作風自体が、そうである。
句集の構成は歳時記の通り、春夏秋冬で纏められている。 以下のようなものである。これもアトランダムに引いてみた。

「春」
白梅の芯まで濡れてをりにけり
旧姓で母呼んでみる梅の花
雛あられレジの所に置いてある
吾よりも母の手あたたかしいつも
目の前の大きなお尻潮干狩
二時からの面会時間げんげ摘む

「夏」
母に腕嚙まれてしまふカーネーション
火の上で廻り始める鮑かな
月曜の軽い貧血ほととぎす
三人でいつぱいの部屋蟬時雨

「秋」
鶏の土蹴つてゐる残暑かな
チューナーを一ミリずらし星月夜
西瓜切る人の数より多く切る
アパートにフレッツ光小鳥来る
新米の水を静かに流しけり
低血糖起こさぬやうに茸飯
梨を食ぶ母は小さく口開けて

「冬」
表札を出さぬ暮らしや冬に入る
白鳥の喧嘩つひには脚も出る
白鳥の居場所タクシー無線より
沢庵を最後に食べて昼休み
セーターの背中つまんで別れけり
母の胸むかし豊かに冬至風呂
数へ日の薬たくさん貰ひたる
元日を母の個室に過ごしけり

ただ、お母上の病気と、ご本人の「うつ病」だかのことが気にかかる、と書いて筆を置きたい。 ご自愛を。
雑駁な書き方に終始したことをお詫びする。 またFB上でお会いいたしましょう。
最近は「ふらんす堂」の本に接することが多い。歌集なんかも、そうである。
ご恵贈有難うございました。      (完)







シャンパーニュ・ランス「サン・レミ聖堂」・・・木村草弥
IMG_0488サン・レミ聖堂内部
 ↑ サン・レミ聖堂内部
image_1-9cf18サン・レミ聖堂後陣
 ↑ サン・レミ聖堂後陣
img_861149_60878088_23サン・レミ聖堂
 サン・レミ聖堂礼拝堂
E58699E79C9F-28a6a右手前の彫像の並んでいる部分がサン・レミの墳墓
 ↑ 右手前の彫像の並んでいる部分がサン・レミの墓
img_861149_60878088_18サン・レミの墳墓
↑ サン・レミの墓

──巡礼の旅──(20)再掲載・初出2013/09/24

     シャンパーニュ・ランス「サン・レミ聖堂」・・・・・・・・・・・木村草弥

聖レミとは、496年、ランス大聖堂でフランク王国の建国者クロヴィスに洗礼を授けたランス司教レミギウスのことである。
伝説では、このとき天から鳩が現れ、王の頭に注ぐ聖なる膏を入れた瓶をもたらした。
聖レミギウスの遺骨とともに、この瓶はサン・レミ聖堂に保管され、フランス歴代の王の戴冠式では修道士たちが、これを運んだという。
そんな歴史的にも有名な寺院なのだが、ランス大聖堂の蔭に隠れて、尋ねる観光客も少ない。
ここに入ると、一見して、いろいろな時代のスタイルが入り混じっていることに気づく。
これは中世では当たり前のことだが、長い年月をかけて少しづつ建築し、必要に応じて改築してきたのである。

この教会はランスの歴史においてとても重要なはずなのだが、やはりランス大聖堂の方が「微笑みの天使」と「シャガールのステンドグラス」で観光客の人気をひきつけていて、この教会を訪れる人は少ない。

場所としては、シャンパーニュ・カーブのポマリ、ヴァランケン、ヴーヴ・クリコと3つのカーブに囲まれるように広がる公園、Square Saint Nicaseのすぐ後ろにある。
ここは後ろなのか手前なのかはどこからそれを位置づけるかによるから、近くと言った方が良いかもしれないが、公園から見える。

ここはパイプオルガンが立派で目立つ。よくコンサートに使われるらしい。
フランスにはたくさんの教会があってツアーで来る観光客に言わせるとどれを見ても同じのようだが、ひとつひとつの教会が独自のスタイルと歴史を持っている。

私は教会が大好きで、それはもちろんステンドグラスを始めとする建築に興味がある、パイプオルガンの音色が好きというのはもちろんだが、旅行者のための格好の休憩所だからだ。
聖書の一句に「疲れている人は誰でも私のところに来て休みなさい」というものがある。
これは精神的に疲れている人を指しているのみでなく、身体的にもそうである人を対象にした癒しの言葉だと私は理解している。
旅行で歩きつかれた、日差しが強すぎて疲れた、雨に打たれて疲れた、外気が寒すぎて疲れた、何でも良いんだと思う。
教会は安息のための場所である。人種も宗教も問わない場所である。
私は静かに本を読みたいとき、ちょっとナポレオン式居眠りをしたい時、教会のお世話になる。
美しいステンドグラスと麗しいパイプオルガンの音色に癒されて、ロマネスクやゴシック建築に心を鷲づかみにされて感動することで自分が生きているんだ、何かを感じることが出来るんだ、健全であるんだと確認するのである。
この教会のステンドグラスは、いずれも美しい。 写真に出せないのが残念だが、ネット上にいくつも出ているので、ご覧ください。

ここランスには、先に2013/07/21付で載せた「フジタ礼拝堂」も存在する。
「シャンペン」生産の中心地なのである。
ここランスは、この礼拝堂の誕生によって、特に日本人観光客の足を延ばさせる土地となった。


こめかみのわびしき日なり毀誉褒貶かしましき日の暮れなむとする・・・木村草弥
620px-Temple_(anatomy)_(PSF).png
 ↑ こめかみの位置 (Temple)

       こめかみのわびしき日なり毀誉褒貶(きよほうへん)
           かしましき日の暮れなむとする・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
「こめかみ」は漢字で書くと難しい字だが、事典には下記のように載っている。
------------------------------------------------------------------------
こめかみ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

こめかみ(顳顬({需頁})、蟀谷)とは、頭の両側の目尻の後、目と耳のつけ根のほぼ中間にある、皮膚のすぐ下に骨(側頭骨)のある場所のことである。こめかみから下顎までを結ぶ側頭筋という筋肉があり、顎の動きに連動してこめかみが動く。

「こめかみ」の語は、物を噛むとこの部分が動くことから「米噛み」に由来するものである。米以外のものを噛んでも動くが、これを「米噛み」という理由として、日本の主食が米であったことや、かつては固い生米を食べており、よく噛む必要があったことなどが挙げられる。漢字の「蟀谷」は中国語の「こめかみ」を意味する語をそのまま導入したものである。「蟀」はコオロギのことであるが、この字が使われる理由は不詳である。

こめかみは骨の厚さが薄く、打撃に対して弱い。ボクシングやその他の格闘技では顎先と並んで急所としてとらえられている。こめかみに打撃をもらうと脳震盪を起こしやすい。
-------------------------------------------------------------------------
この歌は、もう二十年以上も前の作品で、作った当時の詳しい事情は忘れてしまって審(つまび)らかではないが、
どこかの歌会に出した私の歌を巡って、賛否両論のかしましい議論が起こって、何で、そんなにつまらないことで、
ギャーギャーいうのかと、作者としては、うんざりしたのが原因ではないかと思う。
それが「毀誉褒貶かしましき」という表現になっているのである。
私は、それを「こめかみのわびしき」と言ってみたのである。
このようなことは、ビジネスの世界でも、あり得るのではないか。
サラリーマンの方、いかがであろうか。人間関係のむつかしいところである。

この歌も、或る歌会に出してみた。歌会には、うるさ型の人が必ず居るもので、そこでも、さまざまに言われた記憶がある。
「こめかみのわびしい」というのは、どういうことなのか、とかいうことである。
文芸表現は「直感」「感性」の勝負である。「こめかみがわびしい」と聞いて、ピンと来ないようなら詩歌作者をやめた方がいい。
歌作りにも、こうでなければならない、というような決まりは何もないのである。
文学、文芸表現というものは、本来、自由なものであり、どんな「作り方」をしてもいいのである。
ただ、俳句とか短歌の場合、定型を選ぶならば、575とか57577とかの定型の規定だけ守ればいいのである。
中身は自由である。
それを、さも窮屈な決まり事があるかのように言う人があるから、困る。
私を短歌の世界に導いてくれた先生──安立スハルさんは、「自分の好きなように作ったらいいのだ」という人だった。

歌会というのは、よくあるスタイルは、出席者が30人くらいの会なら午後1時頃からはじまって5時くらいまでかかるのが普通である。
楽しい雰囲気で盛り上がればよいが、的はずれの「毀誉褒貶」に遭うと疲れてしまう。
愚痴になってきたので、この辺でやめよう。
-------------------------------------------------------------------------
「こめかみのツボ」は大切な場所で、このような記事があるので参照されたい。

眼精疲労に効くこめかみのツボ
読書のし過ぎ、テレビの見過ぎ、パソコンを使う時間が長いなど、目を酷使していませんか?
そんなとき、無意識にこめかみを押してしまいますよね。
事実、こめかみは目に近いので、眼精疲労によく効くツボがあります。
だからこそ間違った場所を押してしまうと、危険もあります。
しっかりツボの場所を覚えて、眼精疲労を解消しましょう。

そのツボは、目尻と髪の生え際を結んだ線の真ん中にあります。
太陽穴(たいようけつ)といいます。
そこを指先で軽く押さえ、円を描くようにゆっくり押します。
心地良い強さで、5~10回押してください。
ツボを押すと、他の場所とは違う痛みがあります。
個人差もあるので、うまく見つからない場合は、少し範囲を広げて探してみてください。
目がスッキリしたり、視界がはっきりしませんか?
しっかりツボを押せている証拠です。

ただし、あまり実感がないからといって、何十回も押したりしないでくださいね。
急に刺激を与えすぎると、頭痛の原因になってしまうこともあります。
そんなときは、無理せず休んでくださいね。

偏頭痛に効くこめかみのツボ
偏頭痛は、女性の多くがもっている悩みですよね。
頭が痛い日は何も手につかず、寝ているのもつらいと感じてしまうのではないでしょうか。
そんな偏頭痛に効くツボも、こめかみにあるのです。
それが頷厭(がんえん)です。

頷厭の場所は、こめかみから髪の生え際に沿って3cmほど上にいったところにあります。
そこを太陽穴と同じように、心地良い強さで5~10回、円を描くように指先で押してください。
その後指をはなしたとき、頭がスッキリしませんか?
これだけで偏頭痛が和らぐなんて、本当に助かりますね。

こめかみを強く押すと危ない…などという噂もありますが、絶対にそんなことはありません。
確かに強く押しすぎると良くはありませんが、それはこめかみに限らず、どこでも同じですね。
常識の範囲内、自分が心地良く感じる強さならば問題ありませんので、こめかみのツボ押しで痛みを和らげましょう。





秋の句──角川『新歳時記』第五版から・・・木村草弥
家鴨_NEW

──新・読書ノート──

      秋の句──角川『新歳時記』第五版から・・・・・・・・・・・・・木村草弥


角川『新歳時記』第五版を買い求めたので、先日来、ここに載る作品を当ブログに載せているが、今日は少しまとめて、私の目に止まる句を引いてみる。
順不同、季節の前後も問わないことにする。文字通り、アトランダムということである。
*印のあるのが、当歳時記に採句されている、ことを示す。

   *秋深し猫に波斯(ペルシャ)の血が少し・・・・・・・・・・加藤静夫
   *赤い羽根つけて電車のなか歩く・・・・・・・・・・・・・・・   〃

この作者は、こういう「諧謔」味のある句を得意とする。
秋の句ではないが、
        麦飯や昔日本に社会党    
というような作品がある。「第48回角川俳句賞」の受賞者である。「鷹」月光集の作家。
昭和28年(1953)の東京・小石川生まれ。昭和63年(1988)に「鷹」に入会し藤田湘子に師事。平成3年(1991)「鷹」新人賞、平成13年(2001)「鷹」星辰賞、平成16年(2004)「鷹」俳句賞を受賞。
平成20年(2008)年、第1句集『中肉中背』を上梓。
第二句集『中略』は、前句集以後の8年間の作品を収録。

   冬たんぽぽ本気になればすごい我
   一重瞼だからこんなに暑いのか
   水着なんだか下着なんだか平和なんだか

この句のみならず読んでいて吹き出してしまう句が多い。 「独身」だという。
加藤静夫は、この3句をみてもわかるように独自の文体をもってユーモラスに俳句をつくる。
エンターテイメント性があり読者に開かれている句集だ。

    ポインセチア( 中略) 泣いてゐる女

この句から題名が採られている。句の構成としても極めて現代俳句的な句である。
この句集の作句中に東日本大震災があり、句集の構成も「以前」と「以後」に分けるという凝ったものになっている。


   *椿の実割れてこの世に何の用・・・・・・・・・・市堀玉宗

この人も「第42回角川俳句賞」の受賞者である。遍歴の末に能登半島の寺の住職に納まっている。
この句の「この世に何の用」というところなど、何となくお坊さんを連想させる。
句集に『雪安居』があり、第3回中新田俳句大賞。 第26回 泉鏡花記念金沢市民文学賞受賞。
この句集の「帯」に載っている  ↓

◆正直 金子兜太

玉宗の青年期をおもうと、さすらい(流離)の語が出てくる。勤めを辞めてさすらい、出家したあともさすらっていた。
困った男だとおもいながら、正直な奴だともおもっていた。ようやく能登の寺に落ち着き、俳句をはじめたと聞く。
どんな句をつくるものやら。
すいせんなのかなんなのか、こんなのが本当のすいせん文かもしれないと自負。呼呼。

序・沢木欣一

FBにページを持っていて、ほぼ毎日、多くの句の習作を発表している。
ご本人から連絡があり、「枻」と「栴檀」の同人ということなので追記しておく。


    *描く撮る詠むそれぞれに秋惜しみ・・・・・・・・・・鷹羽狩行
    *妻と寝て銀漢の尾に父母います・・・・・・・・・・   〃
    *林火忌やニスの匂ひの模型船・・・・・・・・・・・   〃
    *小牡鹿の斑を引き緊めて海に立つ・・・・・・・   〃
    *天に満ちやがて地に満ち雁の声・・・・・・・・・   〃
    *全長に回りたる火の秋刀魚かな・・・・・・・・・   〃
    *白といふはじめの色や酔芙蓉・・・・・・・・・・・   〃

長らく俳人協会会長として俳壇に君臨してきた人である。結社誌「狩」を廃止し、引退した。
後継に片山由美子を指名し顧問に納まっているらしい。
この本には多くの作品が採用されている。私のブログで特集したこともある。


    *月明や門を構へず垣ゆはず・・・・・・・・・・片山由美子   
    *口に笛はこぶに作法月の雨・・・・・・・・・・   〃
    *「母」の字の点をきつちり露けしや・・・・・・   〃
    *断崖をもつて果てたる花野かな・・・・・・・・   〃
    *ぱさと落ちはらはらと降り松手入・・・・・・・   〃
    *かまどうま午前零時は真の闇・・・・・・・・・   〃
    *青松虫時雨新宿三丁目・・・・・・・・・・・・・・   〃

片山由美子の句の採用は一段と多い。そのはじめの部分から少し引いた。
2019年に俳誌「香雨」を創刊、主宰。俳人協会理事。青山学院女子短期大学国文科非常勤講師。
NHK文化センター講師。蛇笏賞選考委員。 など今や俳壇の重鎮である。


    *耳照つて白露の瓶(みか)の原にあり・・・・・・・・・・岡井省二
    *秋色や一弦琴の音の中・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   〃
    *さびしさのすでに過ぎたるぬかごめし・・・・・・・・   〃
    *銀杏の苦味の数を食みにけり・・・・・・・・・・・・・・   〃
    *まつすぐに鱸の硬き顔が来ぬ・・・・・・・・・・・・・・   〃
    *木犀やしづかに昼夜入れかはる・・・・・・・・・・・・   〃
    *大阿蘇の撫子なべて傾ぎ咲く・・・・・・・・・・・・・・   〃
    *山しめぢ買へば済みけり初瀬詣・・・・・・・・・・・・   〃

岡井省二の採句も多い。はじめの句にある瓶原というのは南山城にある地名である。現・木津川市にある。
三重県度会郡生まれ。大阪大学医学部卒業。内科医のかたわら句作をはじめ、加藤楸邨および森澄雄に師事。
1968年、「寒雷」に入会、1970年、「杉」創刊に参加。翌年、第1回杉賞を受賞。1991年、「槐」を創刊、主宰。
代表句に、宇治市・三室戸寺参道の句碑に刻まれた「あぢさゐの色をあつめて虚空とす」(句集『鯨と犀』所収)
彼については晩年の頃に三詩系─つまり「詩・歌・句」のことであるが、の集まりで一度会ったことがある。
私の知った頃ばガンを病んでいて、末期だということだった。
現世の浅ましさというか、そのことを知って彼の結社の門人の引き抜きが横行したというから凄まじい。
晩年は仏典に関心を示し、最後の句集『大日』の題にも、それらが見られる。
平井照敏と親しかったらしい。


    *牛追つて我の残りし秋夕焼・・・・・・・・・・鈴木牛後

この人は2018年度の角川俳句賞の受賞者で、今年、句集『にれかめる』を刊行し、その記事を当ブログに載せた。
まだ新人なので採句は少ない。


    *木犀や同棲二年目の畳・・・・・・・・・・高柳克弘

この人は俳句誌「鷹」の編集長をしている人である。 この人も、まだ若いので採句は多くない。


    *死ぬときは箸置くやうに草の花・・・・・・・・・・小川軽舟
    *数珠玉をあつめて色のちがふこと・・・・・・・・  〃
    *爪汚す仕事を知らず菊膾・・・・・・・・・・・・・・・  〃
    *老鹿の闘はぬ角伐られけり・・・・・・・・・・・・・  〃
    *灯を消せば二階が重しちちろ鳴く・・・・・・・・   〃
 
藤田湘子の後を受けて、結社「鷹」主宰を務める人である。
東京大学法学部卒で、政府系金融機関の幹部を務めるという経歴のエリートである。
俳人には東大法学部出のインテリが多い。
そういう経歴から自然に深く接するということが少ないので、吟行くらいしか自然に接しないので草や虫を詠んだものは少ない。
老鹿の句なんかも奈良の「角伐り」の儀式の景を詠んだものだろう。


     *苧殻買ふ象牙の色の五六本・・・・・・・・・・木田千女

つい先年亡くなったが当地の城陽市で俳句結社「天塚」を主宰していた人である。当地周辺には多くの門人が居る。
系譜としては鷹羽狩行の「狩」系ということだった。 
この句の「苧殻をがら」なんて言っても、分からない人が殆どだろう。 
おがら【麻幹・苧殻】 皮をはぎ取った麻の茎。
盂蘭盆うらぼんの迎え火・送り火にたき、また、供え物に添える箸とする。 あさがら。
こうして次第に「死語」になってゆく季語も多い。   

きりがないので、この辺で終わる。
私のブログに載せた人の分は、ここには載せていないので、ご了承を。
この本は大活字なので、収録の説明や「本意」なども無く、読み物としては物足りない感じがする。
長年、平井照敏の歳時記の精細な編集に親しんできたので、いっそう、そんな感じがするのだろう。
思い付いたら、また加筆することになる。



薮枯らしきれいな花を咲かせけり・・・後閑達雄
67404588_508608219904075_1161407087741230631_nヤブンラシ
 ↑ヤブカラシ

家鴨_NEW

──季節の一句鑑賞──

      薮枯らしきれいな花を咲かせけり・・・・・・・・・・・・・後閑達雄

「ヤブカラシ」は別名「貧乏かづら」とも呼ばれ、随所に生えるブドウ科の多年生蔓草。
他のものにからみつき、生い茂る。夏、黄赤色の小花を群がり咲かせ、秋に小さな漿果を結ぶ。
草に特異な臭気を持ち、地下茎から掘り起こしても根絶は難しい害草。

後閑氏の、この句は、角川書店『俳句歳時記』第五版「秋」に例句として採用されている。
この句のことは知らなかったのだが、FBの友人として、ご本人からお知らせいただいて、知ったので、ここに掲出しておく。
後閑氏の句集に『卵』 『母の手』があるらしい。 これらについては、また後日。


縷紅草みれば過ぎ来し半生にからむ情の傷つきやすき・・・木村草弥
rukousou0111ルコウソウ
  
     縷紅草(るこうさう)みれば過ぎ来し半生に
          からむ情(こころ)の傷つきやすき・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、
この歌の前に

      父母ありし日々にからめる縷紅草ひともと残る崩(くえ)垣の辺に

という歌が載っている。
2003年10月に開いてもらった私の出版記念会で、光本恵子氏が、この歌について喋っていただいた。
これについてはリンクにしたWeb上の『嬬恋』の「出版記念会」のところで、お読みいただける。
その時、光本さんは「ルコウソウ」が消えかかっている草、のように仰言ったが、今回、これを入力するに当ってネットを検索してみたら、
ルコウソウというのは熱帯アメリカの原産で、今ではさまざまの改良種が出て園芸店でも蔓草として人気らしい、という。
写真②も、そういう色とりどりの改良種という。

rukonsouルコウソウとりどり

ルコウソウは、ひるがお科の一年草で、日本では6月から夏から秋にかけて次々に咲きつぐ。
本来は五角形の真紅または白の筒型の花であるが、丸葉ルコウソウというのがあり、それと本来のルコウソウとの交配で「はごろもルコウソウ」という新しい品種が、
アメリカのオハイオ州で作られたという。
この花は大げさな花ではなく、また今どきの住宅事情からもフェンスにからませたりして丁度時代に合うのだろう。
写真③以下、いろいろの色のルコウソウの写真を載せておく。

rukousouルコウソウ白

marubarukousouルコウソウ

掲出した私の歌2首は、光本さんが仰言ってくださったように(消えかかっている花、というのは別にして)私の心のうちをルコウソウにからめて表現したもので、
的確に言い当てて下さったと感謝している。
以下、俳句に詠まれた作品を引いておく。

 縷紅草のびては過去にこだはらず・・・・・・・・中村秋一

 縷紅草垣にはづれて吹かれ居り・・・・・・・・津田清子

 縷紅草のくれなゐともる昼の闇・・・・・・・・小金井欽二

 軽みとは哀しみのこと縷紅草・・・・・・・・瀧春一

 垣越すと揃ふ縷紅の花の向き・・・・・・・・堀葦男

 羚羊のごとき少女や縷紅草・・・・・・・・古賀まり子

 雀らの影ちらちらと縷紅草・・・・・・・・村沢夏風

 草市のをとこの提げる縷紅草・・・・・・・・吉田鴻二

 縷紅草文(あや)目にからむ情の罠・・・・・・・・田口一穂

稲刈つて飛鳥の道のさびしさよ・・・日野草城
yun_4572.jpg

      稲刈つて飛鳥の道のさびしさよ・・・・・・・・・・・・・日野草城

この頃は米の栽培も超早場米、早場米などが出てきて8月になると、もう新米が市場に出回るようになってしまった。
九州に行くと、たとえば宮崎県などではコシヒカリの品種ものの稲刈りが8月下旬には、みな済んでしまって一面稲を刈り取った後の風景が見られる。
日本の風土には「米作り」が一番合っているようで、農家の年間の稲作従事日数は、あらゆる作物の中で最短だという。
だから出来れば、みな米を作りたいのだが、米の消費量の減退などで米余りの状態で国として「減反」政策が取られている。
おそらく、殆どの人が稲の花の咲くのは見たことがないだろうと思うので、写真②に掲出しておく。
この写真から更に完全開花の状態に進む。
sum2稲の花
「陸稲」(おかぼ)という畑で栽培する米もあるが、おいしくないので、米といえば「水稲」のことをいう。
名前の通り水管理の出来る水田で栽培する。写真にはないが水を張った田に稲の苗を「田植え」する。
今では「田植え機」でやるのが普通。
米作りには、田に水を張ったり、水を遮断して田を干上がらせたり、と水の管理が大切で、「穂水」と言って出穂期には水をたっぷり張ることが必要である。
水管理も今は地下水をポンプで汲み上げたりするので楽である。

photo-2コンバイン
地域によって農家の栽培面積に違いがあるので一概には言えないが中程度の規模になれば写真③のようなコンバインを使用する。

もちろん「手刈り」にこだわる小規模の人もあるだろう。棚田などでは手刈りしか出来ない場合もある。写真④に「棚田」の稲刈り風景を紹介しておく。
47棚田

ついでに言うと、この頃では「棚田」の「景観」としての保存を主義としてボランティアで推進してゆこうという運動があり、一定の成果を収めているようだが、
棚田は急斜面に石垣を積んで狭い田をいくつも作るという重労働であって、採算面では全く割りに合わない農法である。
そういうボランティアの人々の意思と情熱がいつまで保てるかが「棚田」の運命を決めてしまうであろう。
こういう棚田では、ボランティアも年間を通じて労働に従事できるわけではないから、田植えとか稲刈りのシーズンに顔を出すくらいで、
後の年間の管理は地元の農家にお願いし、その代りに年間なにがしかのお金を拠出して経費に当てるという方法が採られている。
写真④の棚田の場合も刈り取りには手押しの「バインダー」という刈り取り機が使われている。
写真では、まだ刈っていない稲がS状に残っているが、周囲から、ぐるぐる廻るように刈ってきて、真ん中の部分がS状に残ったもので、
人がこちら向きに立っているのが、バインダーという刈り取り機を押して、こちら向きに刈ってくるのである。
ひと束分になると、麻紐で自動的に結束して、脇にバサッと投げる。結束された束が田の全面に見えている。そういう風景である。
写真④は、畦に彼岸花が赤く咲いているのも見てとれる。

rice19稲
写真⑤には、田に生えている稲の株をご覧に入れる。
この株も田植えをしたときは1~2本に過ぎなかったのが「分蘗(ぶんけつ)」して20~30本になるのである。
この辺のところに「物つくり」の面白さがあるのだが、現代人には、言ってもムダか。

以下に俳句に詠まれたものを紹介するが大半は今では農作業として見られないものである。
腰まで浸かるような湿田での稲刈りも今では灌漑施設が整備されて水管理が自由に出来るようになり、風景としても見られない。
句を読まれる前に一言申し上げておく。

 待ちかねて雁の下りたる刈田かな・・・・・・・・小林一茶

 順礼や稲刈るわざを見て過る・・・・・・・・正岡子規

 婆ひとり稲穂に沈む鎌の音・・・・・・・・石川桂郎
 
 水浸く稲陰(ほと)まで浸し農婦刈る・・・・・・・・沢木欣一

 稲を刈る夜はしらたまの女体にて・・・・・・・・平畑静塔

 太陽に泥手あげ稲刈り進む・・・・・・・・落合水尾

 孕れば腰立て勝ちに稲を刈る・・・・・・・・福田紀伊

 田より夕日を引き剥すごと稲を刈る・・・・・・・・細谷源二

 稲刈の海に出るまで雄物川・・・・・・・・森澄雄

 疲れ来て田舟にすがる深田刈・・・・・・・・吉良蘇月

 稲架の上に乳房ならびに故郷の山・・・・・・・・富安風生

 稲架の間に灯台ともる能登の果・・・・・・・・水原秋桜子

 稲架が立つ因幡の赫き土にして・・・・・・・・辻岡紀川

 架稲も橘寺も暮れにけり・・・・・・・・日野草城
--------------------------------------------------------------------
掲出句と引用の最後の句は共に草城のもので、おそらく同じ吟行の時期の作品であろうと思われる。




律儀にも今年も咲ける曼珠沙華一途なることふとうとましき・・・木村草弥
aaoohiganb3ヒガンバナ大判

      律儀にも今年も咲ける曼珠沙華
          一途(いちづ)なることふとうとましき・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載せたものである。ただし自選の中には採っていないので、Web上ではご覧いただけない。
この花は「ひがんばな」とも言うが、秋のお彼岸の頃に咲き出すから、この名前がある。ヒガンバナ科の多年生草本。
地下に鱗茎があって、秋に花軸を伸ばし、その上に赤い花をいくつか輪状に開く。花弁が6片で反っており、雄しべ、雌しべが突き出している。
人によっては妖艶ということもあろう。葉は花が終ったあと、初冬の頃に線状に生えて、春には枯れる。

361白花ひがんばな
写真②は白花である。東京では皇居の堀の土手に密集して咲いているのを見たことがある。

写真③は、その冬に生える葉の様子である。
030118higan01ヒガンバナ冬

根に毒を持つ有毒植物であり、墓地の辺りに咲いたりするので、忌まわしいという人もある。
「曼珠沙華」というのは「法華経」から出た言葉で赤いという意味らしい。
古来、俳句や歌謡曲などにも、よく登場する花である。
蕪村の句に

   まんじゆさげ蘭に類ひて狐啼く

というのがあるが、そういうと、この花は蘭に似ていなくはない。鋭い観察である。
以下、歳時記からヒガンバナの句を引く。

 葬人の歯あらはに哭くや曼珠沙華・・・・・・・・飯田蛇笏

 曼珠沙華消えたる茎のならびけり・・・・・・・・後藤夜半

 考へて疲るるばかり曼珠沙華・・・・・・・・星野立子

 論理消え芸いま恐はし曼珠沙華・・・・・・・・池内友次郎

 つきぬけて天上の紺曼珠沙華・・・・・・・・山口誓子

 曼珠沙華南河内の明るさよ・・・・・・・・日野草城

 曼珠沙華落暉も蘂をひろげけり・・・・・・・・中村草田男

 四十路さながら雲多き午後曼珠沙華・・・・・・・・中村草田男

 まんじゆさげ暮れてそのさきもう見えぬ・・・・・・・・大野林火

 曼珠沙華抱くほどとれど母恋し・・・・・・・・中村汀女

 彼岸花鎮守の森の昏きより・・・・・・・・中川宋淵

 寂光といふあらば見せよ曼珠沙華・・・・・・・・細見綾子

 曼珠沙華逃るるごとく野の列車・・・・・・・・角川源義

 西国の畦曼珠沙華曼珠沙華・・・・・・・・森澄雄

 曼珠沙華忘れゐるとも野に赤し・・・・・・・・野沢節子

 曼珠沙華わが去りしあと消ゆるべし・・・・・・・・大野林火

 曼珠沙華どれも腹出し秩父の子・・・・・・・・金子兜太

 五欲とも五衰とも見え曼珠沙華・・・・・・・・鷹羽狩行




妹に雨の匂いや衣被・・・折勝家鴨
家鴨_NEW

家鴨_0001_NEW

家鴨_NEW

──季節の一句鑑賞──

     妹に雨の匂いや衣被・・・・・・・・・・・・・折勝家鴨

2018年秋に出た角川書店『新歳時記』第五版「秋」に、標記の句が採用されていることを知ったのでアマゾンから取り寄せた。
活字の大きい今はやりの老人向けの版である。
この句の初出は、折勝家鴨句集『ログインパスワード』(ふらんす堂2017/04/27刊)の99ページに載っている。
歳時記に句が採用されるというのは名誉なことで、その版の本が出版される限り、ずっと衆目に触れる訳であり、喜ばしい。

「衣被」きぬかつぎ、とはサトイモの黒い皮をかぶったまま蒸したもので、旧八月十五日の「月見」に供えるものである。
これが季語である。
今日は、もう九月二十日だから、お月見の頃は過ぎてしまったがお許しをいただきたい。
「妹」という言葉は、作者が男ならば「いも」と訓んで「想い人」を意味するが、この句の作者は女だから、単純に「いもうと」と考えられる。
駆け込んできた妹の体から「雨」の匂いがする、という鋭い観察の佳い句である。

私は、ずっと平井照敏の『新歳時記』 春、夏、秋、冬、新年 河出文庫 1989-1990 を愛用してきた。
この本は、よく出来た本で、季語の本意なんかも古典に当たっていて完璧だった。
その後、角川書店の箱入りの豪華版の歳時記五冊も買ったが、昨年、蔵書整理で図書館に寄贈したので今は手元には無い。
平井の本の前には山本健吉の『最新歳時記』文春文庫版五冊組を持っていたが、これは使いにくい本で、今も書棚の片隅に残っている。
私のブログの記事の俳句を採り上げたものの説明は、みな平井本によるものである。
私は俳句は作らないが、大岡信さんにならって「詩・歌・句」という短詩系に特化したブログを編成してきたので、俳句の場合には歳時記には大変お世話になった。
本の体裁としても文庫本は取り扱いが手軽で、丁度よい。
読み物としても、暇な折に読んでみるのも、よいものである。

折勝家鴨さん。おめでとうございます。
これを契機に佳い句を作って、どんどん歳時記に採句してもらいましょう。
今日は取敢えず一句ご紹介まで。
-------------------------------------------------------------------------------
余談だが、同じページに載る鈴木真砂女の句に因む記事を私のブログに書いているのを思い出したので、読んでみてください。
→ 「今生のいまが倖せ衣被」
藤田湘子の記事を読むと銀座裏の「卯波」を愛用していたらしいから「鷹」に縁があると言えるだろう。 敢えて載せてみた。アクセスされたい。


ヴェズレー「サント・マドレーヌ聖堂」・・・木村草弥
20121206131023tpBAヴェズレーの丘と教会
 ↑ ヴェズレーの丘と教会
vezelay30ヴェズレー サント・マドレーヌ聖堂
↑ ヴェズレーの丘 サント・マドレーヌ聖堂
vezelay04サント・マドレーヌ聖堂ナルテックスの「聖霊降臨」1125年頃
 ↑ ナルテックスの「聖霊降臨」1125年頃
vezelay07柱頭彫刻①
 ↑ 柱頭彫刻①

──巡礼の旅──(19)再掲載・初出2013/09/19

     ヴェズレー「サント・マドレーヌ聖堂」・・・・・・・・・・・木村草弥

聖マドレーヌというのは「マグダラのマリア」のことである。
かつては娼婦であり、キリストの教えにより悔悛し、復活したキリストを最初に見た、という彼女の遺骨を納めているという。真偽のほどは置いておく。
人々がそれを信じたという事実が肝要なことなのである。
ここはスペイン西北端サンチアゴ・デ・コンポステーラへ続く大巡礼路の出発点のひとつであり、長い参道が修道院まで続く。
1146年には聖ベルナルドゥスが第二回十字軍を説いた場所でもある。西正面の外観は十九世紀の作なので大したものではない。

サント=マドレーヌ大聖堂 (Basilique Sainte-Madelaine) は、フランスの町ヴェズレーの中心的な丘の上にあるバシリカ式教会堂。
この教会と丘は、1979年にユネスコの世界遺産に登録された(登録名は「ヴェズレーの教会と丘」)。
サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の始点のひとつという歴史的重要性もさることながら、大聖堂のティンパヌムはロマネスク彫刻の傑作として知られている。

Wikipediaに載る記事を引いておく。 ↓
---------------------------------------------------------------------------
861年にヴェズレーの丘の上にベネディクト会士たちが建立した。
その際に、修道士の一人がマグダラのマリア(サント=マドレーヌ)の聖遺物を持ち帰るためにプロヴァンス地方のサン=マクシマンに派遣された。

878年には、この初期カロリング様式の教会は、ローマ教皇ヨハネス8世によって、現存する地下納骨堂ともどもマグダラのマリアに捧げられた。
ジョフロワ修道院長 (l'abbé Geoffroy) はマグダラのマリアの聖遺物を公開し、それが様々な奇跡を起こしたとされる。
これによって、巡礼者が押し寄せ、ひいてはサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路に組み込まれることになったのである。

こうした評価は村を都市へと発展させる原動力となった。
巡礼者たちは引きもきらず、その中にはブルゴーニュ公ユーグ2世(1084年)や、イングランド王リチャード1世(1190年に第3回十字軍遠征に先立って)、フランス王ルイ9世(1248年)なども含まれることとなる。

アルトー修道院長 (l'abbé Artaud) は、1096年から1104年に内陣も翼廊も新築した。
ただし、この新築にかかる費用の負担に反発した住民たちが暴動を起こし(1106年)、この時にアルトーは殺された。
なお、この時点では身廊はカロリング様式のままだったが、1120年7月25日に1127人の犠牲者を出した大火災に見舞われたことで、身廊も建て直された(1138年に完成)。
なお、今に残る正面扉上の美しいティンパヌムが彫られたのもこの頃のことである(1125年 - 1130年)。
1146年の復活祭の日(3月31日)に、クレルヴォーのベルナルドゥスは、丘の北斜面にて第二次十字軍を派遣すべきであると説いた。また、1166年にはカンタベリー大司教トマス・ベケットが、この教会で、イングランド王ヘンリー2世の破門を宣告した。
教会の人気は、1279年にヴェズレーへ持ち去られたはずの聖遺物と称するものがサン=マクシマンで発見されたことで、凋落の一途をたどった。
この教会は1162年にはクリュニー修道院から分離し、オータン司教からフランス王の監督下に移っていたが、1217年にはフランシスコ会に引き取られ、1537年に還俗した。
1569年にはユグノーによる略奪を受けた。その後、1790年にはフランス革命の中で小教区の一教会となった。この頃、教会参事会室だけは良好な状態で保たれた(現在も付属のチャペルとして残存している)ものの、ほかは建材調達のための石切り場と化し、自慢のティンパヌムも酷い有様だった。1819年にはサン=ミシェル塔に落雷があった。
こうした度重なる損壊に対し、プロスペル・メリメの発案に従って、ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュックに再建が委ねられた(1840年)。
この再建工事は1876年に完成し、1912年に再び巡礼の拠点となった。
----------------------------------------------------------------------------------
一連の教会群は、ヴェズレーのなだらかな丘の上に建っている。
vezelay26ホタテガイ
 ↑ だらだら坂の舗道に埋め込まれた巡礼路を示すホタテガイ

サント・マドレーヌ聖堂のもう一つの見所は、100点にもおよぶ身廊(正面から内陣へと向かう東西に細長い空間)と側廊(身廊の左右にある通路)を仕切る柱にある柱頭彫刻である。
建築と調和したロマネスク彫刻はこの時代の美術を代表するもので、各地の文化的素地の多様性、人々の想像力の豊かさ、深い宗教精神を伝えているという。
柱頭彫刻はギリシャ時代からあったが、ギリシャのものは主に植物的な文様であり、物語的な柱頭彫刻はロマネスク芸術から始まったそうである。
一、二引いて解説してみよう。
vezelay09エジプト人を殺すモーゼ
 ↑ エジプト人を殺すモーゼ
vezelay10ダビデとゴリアテ
 ↑ ダビデとゴリアテ

ダビデは植物の花弁にのっかかって切り込んでいる。これはダビデが小さい子供であることを強調している。
ダビデが少年の頃に巨人戦士ゴリアテを倒す聖書物語は、信仰の厚いダビデの勇気と、神を嘲って武力に頼る暴虐なゴリアテの決闘の結末から、
信仰の大切さを学ぶ教訓として語られる、欧米人にとってなじみの深い話だそうである。

800px-Vezelay_Tympan12サント・マドレーヌ教会ティンバヌム
↑ 「洗礼者志願室」入口上部のティンバヌム壁画
この壁画の主題は「使徒に布教の命令を伝えるキリスト」ということだが、中心にほぼ両手を広げたキリストが居て、その手の先から神の啓示である光線が出、それらを畏怖の念で受け取る使徒たちが取り巻く。
それらの使徒の下段と外側の半円には「地上」のローマ人、ユダヤ人、アラブ人、インド人、ギリシャ人、アルメニア人などが刻まれ、これらはすべて神の宇宙にある人間であり、キリスト教の「普遍性」を意味するという。
さらに、半円形壁画の外側は十二か月の仕事を具体的に描いている。
一月は農夫がパンを切り、二月は魚を食べ、三月は葡萄の木を手入れし、四月は木の芽で山羊を育てる。・・・・・
九月は麦を櫃に入れ、十月は葡萄を収穫し、十一月は豚を殺し、十二月は男が肩に老婆を背負う。
この最後は「過ぎてゆく年月」を象徴する。したがって、これらは自然の一年の円環的構造と人間との関わりを示すとされる。
この自然の時間を基底としながらも、直線的なキリスト教的時間、すなわち前世の原罪、現世の贖罪、来世の救済が展開される。

昔は字を読めない人が大半であり、しかも時代は中世であり、終末思想が強かった時代であり、キリストに救済を求める気分が支配していた。
だから信者や修道士を脅し、戒めるような主題が柱頭に並んでいる。
写真には一部しか出せなかったことも了承されたい。




野兎の耳がひらひらしてゐるね<草原の風に吹かれてるんだ>・・・木村草弥
Lepus_brachyurus.jpg
    
      野兎の耳がひらひらしてゐるね
            <草原の風に吹かれてるんだ>・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。この歌は「ドメイン」というインターネットを詠んだ一連8首の中のものである。

この一連の最初の歌が、この歌である。
この歌の続きに

  比喩のやうに宙(そら)のかなたから飛んで来る君のEメール詩句の破片が・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

というのが載っている。
これは「詩」である。
「君のEメール」というところに、インターネットで発信された詩句であることの存在証明をしていると言えるだろう。
「Eメール」という言葉を修飾するものとして「比喩のやうに宙(そら)のかなたから飛んで来る」というフレーズを、私は選択した。
「比喩」という語句を辞書で引くと①「たとえること」②「類似したものを使って印象深く説明する表現法」というようなことが書いてある。これは辞書によって文句に違いはあるが、ほぼ大同小異といえよう。
「詩」というものは、極論すると「比喩」表現に尽きる、と言える。
その「詩」が成功するかどうかは、その「比喩」がぴったりと収まって、読者に十全に受け入れられるかどうか、によって決まる。
ここに挙げた歌が成功しているかどうか、私には何とも言いようがない。いかがだろうか。

掲出した画像は「ニホンノウサギ」である。






ほつこりとはぜてめでたしふかし藷・・・富安風生
FI2618483_1E.jpg

     ほつこりとはぜてめでたしふかし藷(いも)・・・・・・・・・・・・・・・富安風生

昔、私の子供だった頃はこれからの時期のおやつというと必ず「ふかし藷」だった。
お腹をすかせて学校から帰ると、台所には、ほっかりとふかしたサツマイモが湯気を立てて待っているのだった。
私たちの辺りで栽培していた「赤いも」は皮膚は赤いが中身は白くて、甘くて、おいしい品種だった。
掲出の風生の句の風景そっくりだった。

サツマイモ──甘藷も原産地は中央アメリカだという。多年生の蔓草で、寛永年間に薩摩の前田利右衛門が琉球から持ち帰り、青木昆陽が享保年間に関東地方へ普及させた。
サツマイモというのは、渡来の順路を知らせる命名である。
蕃藷、唐藷、琉球藷、薩摩芋という各地の呼び名は、この藷の渡来の経路を知らせるもので「薩摩」では「琉球」藷と呼んでいた。
サツマイモも青木昆陽の普及により「救荒作物」として関東以西に広がり、飢饉から人々を救ったのである。
FI2618483_2E.jpg

都会人でも子供の頃に田舎に「イモ狩り」に出かけた記憶のある人があろうが、どういう栽培をするのか知らない人が大半だろう。
サツマイモは寒さに弱いので、昔は秋に収穫した種芋を地中に貯蔵して冬を越した。今は定温倉庫で20度くらいで保管する。
春になると、それを出して苗床に定植し保温しながら発芽させて育て、初夏になると伸びてきた蔓を長さ25~30センチに切り取り、畑に挿して定植する。
どんどん蔓が延びて畑一面を覆うようになり、根に新しい芋が出来る。

FI2618483_3E.jpg
写真③がサツマイモの葉である。先に言ったように、この蔓の茎を葉っぱもつけたまま、切り取って土に挿すのである。
苗は土に横たえる状態で土に植える。その挿した地中の部分から芋が生育するのである。種を蒔くというようなことはしない。
第一、本州ではサツマイモの花が咲くことは、ないのである。
植えた苗が生育すると畑一面を覆うので雑草などは余り生えないから、管理はどちらかというと楽である。
戦争中は食べるものがなくて、このサツマイモの蔓が貴重品として、よく食べられた。
写真④がサツマイモ畑の全体の様子である。
satsuma-1サツマイモ畑

サツマイモにもさまざまな品種があり、真っ赤なもの、ピンクのもの、白いものなど。
今どきはサツマイモというと「焼き芋」として一般的に知られていると思うがビタミンCなども豊富であり、
また食物繊維が多いのでダイエット食としても適しているという。
最近ではサツマイモの生産地は徳島県(鳴門金時という焼き芋専用種を開発した)、鹿児島県(昔はアルコール原料にサツマイモを広く栽培していたが、
醸造用アルコールの需要の衰退とともに減り、今は鹿児島茶産地として静岡県に次ぐ茶の大産地となった。
今は焼酎ブームとあって、芋焼酎の原料として広く栽培されている)が知られる。
1407im8白芋
↑ 写真⑤は芋焼酎の原料の「白芋」である。
白芋は昔からあったが、甘みの少ない、生食した場合には、おいしくない芋であった。
この芋焼酎原料専用の白芋も、おそらく甘みのない、澱粉質のみの品種だろう。なまじ甘みがあると製造工程で、うまくないのだろう。
澱粉だけだと酵素によって多くがアルコールに転換できるのであろうか。芋の名前も「サツマ・・・・」とついている。
今しもアルコール飲料の中で、空前の「しょうちゅう」ブームである。私の知っている人でも老齢者は皆しょうちゅうである。
年取ると糖尿病に罹る人が多く、さりとてアルコールは飲みたいということで、糖類を含んでいないから、焼酎が持て囃されるのであろう。
私は糖尿病っけは全くないので、ワイン、ビール、日本酒など「味」のある酒を少量たしなんでいるので、焼酎は旨いとは思わない。

以下、サツマイモ=甘藷を詠んだ句を挙げて終る。

 君去なば食はむ藷君に見られしや・・・・・・・・石田波郷

 藷たべてゐる子に何が好きかと問ふ・・・・・・・・京極杞陽

 甘藷穴より突き出て赤き農夫の首・・・・・・・・野沢節子

 甘藷掘りを牛はかなしき瞳もて待つ・・・・・・・・才記翔子

 八方へ逃げゆく藷を掘りあぐる・・・・・・・・神生彩史

 藷掘られ土と無縁のごと乾く・・・・・・・・津田清子

 新甘藷を一本置けり童子仏・・・・・・・・中山純子

 生きて会ひぬ彼のリュックも甘藷の形(な)り・・・・・・・・原田種茅

 甘藷穴のひとつは満ちて掃かれけり・・・・・・・・遠藤正年

 やはらかき土につまづく藷集め・・・・・・・・市村究一郎




村島典子の歌「裏庭」30首・・・木村草弥
晶_NEW

──村島典子の歌──(39)

       村島典子の歌「裏庭」30首・・・・・・・・・・・・・・木村草弥 
                ・・・・・・「晶」No.107/2019.09掲載・・・・・・ 

           裏庭          村島典子 

 わが庭の槇の葉むらに鳥ふたつ籠りゐるらし声のくぐもり
 ほーほーと誰を呼ぶらむか一つ去り一つ残りてなほも鳴くなり
 鳥の音のうらかなしけれ平成の残り三日と数へつつゐて
 忍冬の白き花枝を手折りきていく日かすぎぬ金色にすがれつ
 窓下にひよどり来たり裏庭の八つ手の黒き実を食むならむ
 八つ手の実去痰剤とぞひよどりの番の喉をうるほすべしや
 隣家にはゆかず臥所のまくらべに美しき声をきかせくれかし
 さかんなる食欲にして数日に八つ手の珠実喰ひつくしたり
 平成の代に逝きたりし幾たりを偲びつ槇の木下に
 雨の音ひたに聴きつつ夕づけばさまよふ魂もつめたからむよ
 ふた七日みなのかすぎて魂魄のふりかへりざま夏花ゆるる
 ふいに来たりしことしの夏の暑さにも事は兆せりTV騒ぎつ
 無謀なる事件なるべし然れども社会の歪は誰がつくりし
 ひと二人殺めて許さるるはずはなし首掻き切りてみづからを消す
 一首一首と数ふることの今朝は憂し一人ひとりの生たちあがり
 ポリープを切除せむとすわが夫はひたすら透明となりゆくならむ
 いちまいのパンと素うどん七分粥ひと日のメニユー切除前日
 聖ありき 粟、稗、木の実、食断ちて舌のみとなり読経せりけり
 辣韭に塩をまぶして湯にとほし酢に漬けるまでの夕べの時間
 厨ごとなさずにあらば人生のいかにさびしく過ぎてゆくらむ
 師まさば訴ふることあまたあり訣別の日の文また取りいだす
 信仰をしみらにけふは思ひをり雨宮雅子とテレーズ・デスケルー
 病院へゆく道筋の山中にわれは知りをり「水争ひ場」あるを
 このあたり川無きところ、をちこちに溜池うがち慈雨待ちをりき
 人間愛たしかにあらむ特売のレジの後尾に並みつつ思ふ
 茱萸の木のなかにもぐれる鶫の子の実をついばむを息つめて守る
 鳴き声は仲間なるべしガレージの屋根に見張りをしいゐるならむ
 三羽きてかたみに茱萸の木にもぐる鵯のこどもの涙ぐましも
 おおそんなところにゐるのか子燕の二羽たはむれて中空にあり
 六月のそら晴れわたりツバメの子鳴きかはしたり今日はいい日だ
-------------------------------------------------------------------------
お馴染みの村島さんの精細な観察の利いた一連である。
これを読んでいると、村島が鳥たちの行動を仔細に観察しておられる姿が目に浮かぶようである。
精細な観察から、優れた歌が生まれる、というものである。
「うた新聞」に執筆された押切寛子著『石川信夫の中国詠』についての「書評」のコピーも頂戴したが、ここでは紹介だけにとどめる。
ご恵贈有難うございました。           (完)




     
几帳面な玉蜀黍だと思はないか・・・櫂未知子
031deb50トウモロコシ畑

     几帳面な玉蜀黍だと思はないか・・・・・・・・・・・・・・・櫂未知子

トウモロコシは高さ2メートル程に伸び、夏の終りに茎の上に芒の穂のような雄花を咲かせ、葉腋に雌花穂をつける。
雌しべに花粉がつくと稔って、雌しべ穂は茶褐色の毛のように苞の先端に残る。
『和漢三才図会』には「蛮舶将来す。よつて南蛮黍と称す。その形状、上に説くところははなはだ詳らかなり。ただし、苞の上に鬚を出だす。赤黒色にして長さ四五寸、刻煙草に似たり。その子(み)、八月黄熟す」と記述しており、特徴をよく捉えている。
夏の終りの時期の北海道の名物で、実を焼いて露店などで売る秋の味覚の風物詩である。
写真①は畑の状態である。原産地はアメリカ大陸である。インカの民は、これを主要な食料源としている。
FI2618482_2E.jpg

写真③は畑の状態だが、実の鬚が上端からはみ出ているのが見られるだろう。
FI2618482_1E.jpg

この頃では実を採取するのが目的でなく、茎と葉を家畜の飼料として刈り込む品種のものもあるようだ。これを「デントコーン」という。
北海道に行くと、よく見られる。
家畜を養うには莫大な量の飼料が必要で、トウモロコシのほかに麦なども配合飼料として使われる。
日本は家畜用の配合飼料の完全な輸入国で、殆どをアメリカに依存している。
考えてみるとアメリカ大陸由来の植物が多い。ジャガイモ、トマトなどもアメリカ原産である。
昔はヨーロッパでは冷害による飢饉に瀕していたが、救荒作物としてのジャガイモの到来によって救われた、という。

掲出の櫂未知子の句は、きっちりと並んだ実の粒の様子を見事に捉えていて秀逸である。
以下、トウモロコシを詠んだ句を引いて終わりにする。

 もろこしを焼くひたすらになりてゐし・・・・・・・・中村汀女

 唐黍の影を横たふ舟路かな・・・・・・・・水原秋桜子

 唐黍の葉も横雲も吹き流れ・・・・・・・・富安風生

 唐黍やほどろと枯るる日のにほひ・・・・・・・・芥川龍之介

 もろこしを焼いて女房等おめえ、おら・・・・・・・・富安風生

 貧農の軒たうもろこし石の硬さ・・・・・・・・西東三鬼

 唐黍焼く母子わが亡き後の如し・・・・・・・・石田波郷

 海峡を焦がしとうもろこしを焼く・・・・・・・・三谷昭

 唐もろこし焼く火をあふり祭の夜・・・・・・・・菖蒲あや

 充実せる玉蜀黍を切に焼く・・・・・・・・本田青棗

 中腰の唐黍焼きに昔あり・・・・・・・・石川桂郎

 雷の遠く去りたる唐黍をもぐ・・・・・・・・横山丁々

 唐黍と学生帽と一つ釘・・・・・・・・上野鴻城

 


「インド文学散歩」・・・木村草弥
aKs1a.jpg
↑ カジュラホ──ミトゥーナ交合図群像

──エッセイ──初出・同人誌「鬼市」10号1999年6月掲載──
    
     「インド文学散歩」・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

1999年の正月休みを利用して北インドを9日間旅した。もちろん短期間のことであり、
テーマのある旅ではなく単なるツーリストに過ぎないものであるが、以前から書物を通じ
て知っていたことを自分の目で確かめられてよかったと思っている。
少しインド文学について書いてみたい。
1913年にノーベル文学賞を受けた、ベンガル(東インド)の詩人タゴールの定型詩集『ギ
ータンジャリ』(歌の捧げ物、の意)の冒頭の詩は

わが頭(かうべ) 垂れさせたまへ 君がみ足の 塵のもと (渡辺照宏訳)

で始まる。この「君」と親しみと敬意をこめて呼びかけられるのは他ならぬ神である。
この神とは、古代インドの神秘的な教説ウパニシャット、中世インドのヴィシュヌ神信仰
に根ざす、と言われている。
この詩は、叙事詩ではない。分類すれば抒情詩と言うべきだろう。タゴールは神の姿を描
くのに、そのような伝統の継承にとどまらない。
彼は「このバアラタ(インドのこと。インドという命名は西欧人がつけたもので対外的に
はリパブリック・オブ・インディアのように使用されているが、今でもインドの正式名称
は、このバーラタとされる)
の人多(さわ)の海の岸辺へアアリア人もアナアリア人もドラ
ビタ人も------一つとなりぬ」(渡辺訳)と、インドの諸民族の融合のさまを確かめながら、
人はすなわち神だ、としている。そしてまた、インドを呪縛している身分制度のさまを
「痛ましわが国 人が人を侮るゆゑに汝侮らるべし 衆人(もろびと)とともに人並の扱ひ
を人々に拒み」と見据えて、近代インドの現実に強い批判を加えている。
だが現代のインドの現実は、身分カーストの上に職業カーストが二重に存在して、がんじ
がらめとなっている。このカーストの下には更に、アンタッチャブルと呼称される不可触
賎民も存在するのである。貧富の差は大きく、75%の人が住む農村は貧しい。農村と言
わず都市と言わず巷には人口9億と称する人間があふれている。
筆が脱線したが、タゴールの故郷シャーンティ・ニケータンはカルカッタの西へ列車で
4時間の地だが、この地名は「静寂の地」「平和郷」という意味らしい。インド人は宗教的
なめでたい時に「シャンティヒ」を三度唱えるという。この地はタゴールの父デーヴェン
ドラナートが1863年に、真理探究のためにアーシュラム(道場)を開設したのがはじまりで、
タゴールが小さな学校を作り、ノ-ベル賞の賞金で学校を拡充させた。この学校は1921年
にヴィシュヴァ・バーラティ大学に昇格、41年にはインドの五つの国立大学の一つに
なった。
すべての存在の中に神を認めるというタゴールの「汎神論」は自然愛、人類愛の思想と
一体であるとされる。日印の文化交流に貢献した岡倉天心とタゴールとの親交はよく
知られている。
また岡倉天心(覚三)と詩人プリヤンバダ・デーヴィー女史との「愛の手紙」は『宝石の声
なる人に』(大岡信訳)という本になっている。これはタゴールとの交遊の派生によるもの
だが、この「宝石の声なる人に」という呼びかけは1913年8月21日付の覚三の手紙のは
じめのイントロである。そして、この手紙が最後のものである。
この本が出版されたのは1982年10月平凡社刊であり、フランス装であるために本の
ページをペーパーナイフで切りながら読んだのを思い出す。
詩の一節は

いつ私に初めて関心を持ったのですか。カルカッタを出発した後、
それとも---------             (デーヴィー)
私は終日、浜辺に坐し、逆巻く海を見つめています-------------------
いつの日か、海霧の中から、あなたが立ち上がるかも知れないと
思いながら。                 (覚三)

タゴールの「汎神論」というのは何も彼一人のものではないことを、インドを旅すると、
実感させられる。
例えば、ヴィシュヌプールという町がある。これは先にも触れたヴィシュヌ神の住む町と
いう意味である。「プール」と語尾につくのはヒンズー教に由来する地名である。ほかに
「バード」と語尾につく地名はイスラム教に由来することを示す。(例えばハイデラバード
など)このことは旅の全行程を共にしたインド人ガイドのメーラ君に聞いた。
ヒンズー教は本質的に多神教である。神様の数は枚挙にいとまがないが、シヴァとヴィシ
ュヌとブラフマーが古来より三大神とされる。
シヴァ神は荒ぶる神である。しかし、恵み深い神でもあり、また踊りの名手で「ナタ・ラ
ージャ」と呼ばれ舞踊を志す人々は、この踊るシヴァ神を信仰する。
ヴィシュヌは太陽の光を神格化したものとされ、十あるいは二十四の化身を表すに至る。
仏教の開祖ゴーダマ・ブッダもその一つとされる。ヴィシュヌ信仰がインド全体に普及し
たのは、この化身の思想による。
ヒンズー教のバイブル『パガヴァット・ギーター』には、「道徳が衰え不道徳が栄えるた
びに余は自身を創出する」と説かれる。この考えによりヴィシュヌはさまざまな姿をとっ
て世の人々を救うのである。
インドを旅するとヒンズー教寺院の薄暗がりに、ぬっくと立つリンガに出会う。さらに目
をこらせば、リンガを包む丸いヨーニがある。
「リンガ」(またはリンガム)も「ヨーニ」(またはヨニ)も共にサンスクリット語でそ
れぞれ「男根」「女陰」を意味する。リンガはシヴァ神をシンボライズしたものであり、
すべての生きとし生くるものは男性原理と女性原理の合一によって万物の生成を見るから
である。
因みに私は、サンスクリット語というのは中世の言語で、現在は死語だと思っていたが、
西インドのプーナ大学で博士号を得られた阿部慈園氏の本を読むと、インド全土でサンス
クリット語を自由に会話、読み書き出来る人が五千人はいるという。1990年代の現在
の話である。だから同大学のサンスクリット学科では集会や行事はすべてサンスクリット
語で挙行されるという。ヨーロッパで公式行事の時、例えばイギリス議会の開会式でエリ
ザベス女王がラテン語で一席語るというよりも更に一歩実用性は深いというべきである。
この文章はインド文学を語るがテーマだから、ここで昨年亡くなった「地中海」代表の香
川進の歌集『印度の門』に収録の歌に触れる。

*革命は観念ならねばまだかれら貧し軒ばを蛍飛びゆく
*乾糞(ふん)の火があぐるけむりを透過して月萌ゆ氷の冷たさもちて
*しかばねは物質、川にうち沈むる時いたるべく祭らるるしじま
*この国に乞食なき日の必ず来ん聖ガンジーも死にて久しき

などである。彼は旅行者ではなく商社の駐在員であつたが、一首目三首目などは実景をと
らえて心象に迫っている。四首目の歌は楽観的過ぎるしガンジー死後五十年を経ても事態
は基本的に変わっていない。
また「近代化」というのがどういう意味を持つのか。「発展」ということが良いのか悪い
のか、などインドの現実は様々のことを突き付ける。
私の歌の中に出てくる「ミトゥーナ」というのは直訳すると「性交する人」という意味で
ある。それは先に書いたようにヒンズー教に由来するが、そんな、すべてを飲み込んだ教義
と芸術作品と現実生活との、まさに「混沌」と表現すべきものがインドの現実であることを
実感させられるのである。そこにはキリスト教にいうような「原罪」というようなものは
存在しない。
書店や高級ホテルのショップでは英文のカラー刷りの『カーマ・スートラ』や、インド古
来の表現様式である「細密画」のうちで日本の浮世絵の「春画」にあたる画集の美しい本
が売られている。性風俗の表現についてもインドには「禁忌」(タブー)は存在しないよ
うだ。これらも東アジアの、特に漢文化の「儒教」思想に侵されていない、したたかな文
化の「雑草」性をかいま見させてくれる。 (完)

この本の別項に私の歌が 載っているので下記に引いておく。
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
     国原-----インド・日本、冬から春へ-----・・・・・・・・・・木村草弥

天霧らひ山たたなはる峡(かひ)村は畳々とつらねて冬の棚田の                      

ふたたびは逢はぬ人かも胞衣(えな)塚は石重ねたり 和讃こごゑせよ                   

叙事抒情これを創りしものを讃(ほ)むマハーバーラタ、ギーダ・ゴーヴィンダ
                              
男根(リンガム)に花輪を捧げ燭を供ふるサリーの女よ<道順は彼女に訊く>
                             
AD(アノ・ドミニ) その時代区分などしゃらくせぇBC二千年モエンジョ・ダーロだ
                              
人はみな自が守り神を持つと言ひ運転手はバスに香を焚きをり

象神(ガネーシャ )は富をもたらす神となる父シヴァ神に首すげ替へられて
                           
インド洋プレート押し来る亜大陸その地溝帯をガンガー流る

ガンガー地溝に堆積する土砂二千メートル平均勾配一キロメートル当り十四センチ

恒河(ガンガー)に死を待つ人が石階ゆ喜捨を待つなり乞食(こつじき )と紛ひ
                 
しづけさのひかりとどめて天竺葵(ゼラニウム )咲き男は不意に遺されゐたり
                          
薺(なづな)咲く道は土橋へ続きけりパールヴァティは花を抱へて
                         
コーダル川の畔にカジュラホー村ありぬ天女(アプサラ )ミトゥナの愛欲や濃き
                              
手放しにのろけてもみよマハーデーヴァ寺院の壁の女神の陰(ヨニ )は
                                 
数学は難解クローバーの園に編めるも愛(かな)しかの日のレイは
                             
ミトゥナのアクメのさまを彫りけるはシャクティ原理のタントラの道

背位ありクリニングスあり壁面に説かれてゐたるカーマ・スートラ

桜草(プリムラ)や男弟子けふ入門すそしらぬ顔の女弟子たち
                     
ガンジーの屍を焚ける火葬場(ガート)ゆこの国に暗殺(アサシン )多きは如何に
                
驢馬駱駝徒歩ゆき自転車のろきバスゆき警笛かしまし

<警笛をどうぞ>(ホーン・プリーズ)遅速緩速さまざまの人馬ゆき交ふ時速十五キロメートル
                        
-----------------------------------------------------------------------------------------
たまきはる命をここに節分会の真白き紙の人形(ひとがた)を截る
                     
白毫寺みち遠けれどこれやこの題辞(エピグラフ)に何をエピステーメー
                         
このあたりもと宇治郡(こほり )しろがねの衾(ふすま)の岡辺はこべ萌え出づ
                   
土筆(つくし)生ふ畝火雄々しも果たせざる男の夢は蘇我物部の
                          
あり無しの時の過ぎゆく老い人にも村の掟ぞ 土筆闌けゆく

野火止の焦げしはたてに生を祝(ほ)ぐ脚長うして土筆の出でし
                            
夜の卓に土筆の吐ける胞子とび我死なば土葬となせとは言へず

淋しさのあるとき惨め酸葉(すかんぽ )を噛めばことごとく指弾されゐて
                           
当麻道すかんぽを抜き噛みにつつ童女の眸(まみ )も春風のなか
                              
*固有名詞の解説*
『マハーバーラタ』はもう一つの『マーラーヤナ』と双璧をなすヴィーヤーサ仙の
作とされるBC数世紀からAD4世紀までに編まれたインドの叙事詩。
『ギータゴーヴィンダ』(牛飼いの歌)は最高神ヴィシュヌの十の化身の一つクリシュナと
牛飼い女ラーダーとの恋物語を書いた12世紀の詩人ジャデーヴァの抒情詩。
<道順は彼女に訊く>は片岡義男の長編ミステリーの題名から借用した。




新涼のいのちしづかに蝶交む・・・松村蒼石
SAVE0018キアゲハ交尾

     新涼のいのちしづかに蝶交(つる)む・・・・・・・・・・・・・松村蒼石

秋になって感ずる涼しさのことを「新涼」という。
「涼しさ」だけでは夏の暑さの中で味わう涼しさで、新涼とは別のもの。
本意としては「秋になりて涼しき心をいふなり」と『改正月令博物筌』にある。

  秋来ぬと思ひもあへず朝けより初めて涼し蝉の羽衣・・・・・・・・新拾遺集

の歌が知られている。また

  秋涼し手毎にむけや瓜茄子・・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

の句が「新涼」「秋涼」「爽涼」「初涼」「涼新た」などの類語の季語の本意とされている。
心地よい涼しさの中に一抹の「寂しさ」「心細さ」をも伴う感覚である。
掲出の蒼石の句は、その「新涼」の季節の中で、ひそかな「生命力」の凄さを一句の中に凝縮した、みごとなものである。

以下、これらの類語の句を引いて終る。

 新涼の月こそかかれ槇柱・・・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 爽涼と焼岳あらふ雲の渦・・・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 新涼や白きてのひらあしのうら・・・・・・・・・・・・・・川端茅舎

 新涼の身にそふ灯かげありにけり・・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

 新涼の咽喉透き通り水下る・・・・・・・・・・・・・・西東三鬼

 新涼やたしなまねでも洋酒の香・・・・・・・・・・・・・・中村汀女

 新涼の水の浮べしあひるかな・・・・・・・・・・・・・・安住敦

 新涼の剃刀触るる頬たかく・・・・・・・・・・・・・・西島麦南

 新涼の画を見る女画の女・・・・・・・・・・・・・・福田蓼汀

 新涼や尾にも塩ふる焼肴・・・・・・・・・・・・・・鈴木真砂女

 新涼や白粥を煮る塩加減・・・・・・・・・・・・・・久米はじめ

 新涼や相見て妻の首ながし・・・・・・・・・・・・・・細川加賀

 新涼や素肌といふは花瓶にも・・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 新涼の母国に時計合せけり・・・・・・・・・・・・・・有馬朗人

 新涼の山に対へる木椅子かな・・・・・・・・・・・・・・水田清子

 新涼や掌のくぼにある化粧水・・・・・・・・・・・・・・高山夕美

 新涼の道の集まる凱旋門・・・・・・・・・・・・・・村上喜代子

 新涼の豆腐を崩す木のスプーン・・・・・・・・・・・・・・浜田のぶ子

 新涼の水にこつんと鬼やんま・・・・・・・・・・・・・・中拓夫

 新涼の香ともハーブを刻みけり・・・・・・・・・・・・・・鈴木喜美恵

 灯を入れずおく新涼の青畳・・・・・・・・・・・・・・貝瀬久代


丈高く咲いて風よぶ紫苑には身をよぢるごとき追憶がある・・・木村草弥
FI2618478_1E.jpg

     丈高く咲いて風よぶ紫苑(しをん)には
         身をよぢるごとき追憶がある・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「紫苑」の花言葉には追憶とか身をよじる思慕、とかがある。
この歌は第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたものだが、ひところ花言葉を読み込んだ歌に集中していた時期があり、この歌は、その一つである。

紫苑はキク科の多年草で、日本の原産とある。紫色の頭状花をつける。風にも強い。
『古今集』に

  ふりはへていざ古里の花見むとこしを匂ぞうつろひにける

という歌があるが歌の中に「しをに」と紫苑を読み込んである。

私の方の菜園にも一群の紫苑が咲きかけてきたところである。

以下、紫苑を詠んだ句を引いておく。

 栖(すみか)より四五寸高きしをにかな・・・・・・・・小林一茶

 紫をん咲き静かなる日の過ぎやすし・・・・・・・・水原秋桜子

 野分して紫苑の蝶々けふはゐず・・・・・・・・星野立子

 この雨や紫苑の秋となりし雨・・・・・・・・加藤楸邨

 紫苑にはいつも風あり遠く見て・・・・・・・・山口青邨

 台風の紫苑もつともあはれなり・・・・・・・・石塚友二

 紫苑といふ花の古風を愛すかな・・・・・・・・富安風生

 頂きに蟷螂のをる紫苑かな・・・・・・・・上野泰

 山晴れが紫苑切るにもひびくほど・・・・・・・・細見綾子

 古妻も唄ふことあり紫苑咲き・・・・・・・・橋本花風

 露地の空優しくなりて紫苑咲く・・・・・・・・古賀まり子

 丈高きことが淋しく花紫苑・・・・・・・・遠藤梧逸


オータン「サン・ラザール大聖堂」・・・木村草弥
Autun_Panoramic_Photoオータン・パノラマ
↑ オータンの街の俯瞰
img_1245225_39606459_1オータン サンラザール大聖堂
 ↑ オータン サンラザール大聖堂
103597188_624サンラザール大聖堂タンパン
 ↑ 西正面扉口のタンパン「最後の審判」1135年頃
m_bIMG_2724E79CA0E3828BE3839EE382AEE381B8E381AEE3818AE5918AE38192サンラザール大聖堂・展示室にある「眠るマギヘのお告げ」
 ↑ サンラザール大聖堂・展示室にある「眠るマギヘのお告げ」
10064864806今はロラン美術館にある「エヴァ」1120~1135年頃
 ↑ ロラン美術館にある「エヴァ」1120~1135年頃

──巡礼の旅──(18)再掲載・初出2013/09/12

     オータン「サン・ラザール大聖堂」・・・・・・・・・・・・・木村草弥

オータン(仏: Autun)はブルゴーニュ地域圏ソーヌ=エ=ロワール県にある都市。オータンの住民はオーチュノワ(仏: Autunois)と呼ばれる。

オータンは歴史ある都市で、紀元前1世紀ごろにローマ帝国の初代皇帝、アウグストゥスの勅許によって建設された。
当時の名称はアウグストドゥヌム(Augustodunum, アウグストゥスの砦、の意)であり、現在の市名はこれが転訛したものである。
ナポレオン・ボナパルトと兄ジョゼフはこの地のリセの出身である(そのリセは現存する)。
1788年-1790年にかけては、シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールがこの都市の司教であった。
2002年の2月にはユルスリーヌ国際文化センターが開設されている。

サン・ラザールとは、「マグダラのマリア」の兄弟で、キリストが蘇生させたラザロのことである。
ここは、そのラザロの遺骨を祀っている。
この遺骨はアヴァロンにある同名の聖堂から盗まれたもので、当時はよくあったことだと言われている。
オータンにはかつて古代ローマの都市があり、遺跡も多い。
大聖堂の建築も古代ローマの遺跡を参考にしたと言われている。
ここでは建物よりも「彫刻」に注目したい。 
主なものは冒頭に、続けて画像を出しておいた。

二番目に出した、西正面扉口のタンパン「最後の審判」1135年頃の彫刻だが、その中央に置かれる大きなキリストの足元に「ジルベルトゥスがこれを作った」という言葉が彫られている。
これは建築家であり彫刻家でもあった人物の署名と考えられている。
この世界の終わりにキリストが再び天から降臨し、すべての死者が蘇って裁きを受ける場面で、向かって左に天国、右に地獄が配される。
キリストのすぐ右では大きな天秤で死者の魂が計量され、天使と悪魔が「魂」を鑑定する。
賢明な読者であれば勘付かれると思うが、この「秤」というのは古代エジプト起源であり、それは十字架のイメージとともにキリスト教の中に入り込んできたものである。
また、それらの計量をめぐって聖ミカエルが悪魔と対峙しているが、後者の足首には蛇がまきついているのは「堕落の誘惑」を象徴する。

三番目に出した「眠るマギへのお告げ」では、クレープのような布団に包まれ一緒に裸で眠る東方からやってきた博士たちの一人の手に、天使が指先でそっと触れて、ヘロデ王のもとに帰らず別の道で帰るようにお告げをする。一人目覚めたマギの目は何を見ているのだろうか。

四番目の「エヴァ」の像は、かつて大聖堂の北扉口にあった浮彫の断片である。
左手で智恵の木の実をつかみ、右手を口に当て、今は失われたアダムに囁きかけている。智恵の木の枝には、これも失われた悪魔の爪が残る。
よく知られた『原罪』の場面である。エヴァの泳ぐような体勢は、横長の枠に彫られたというせいでもあるが、罪を犯した彼女が示す「悔い改め」の身振りでもある。
----------------------------------------------------------------------------------
私の短歌の作品の連作に「エッサイの樹」という一連があるが、これは、この教会の見聞を元にしている。
参照されたい。


桔梗の紫さける夕べにておもかげさだかに母の顕ちくる・・・木村草弥
yun_448桔梗本命

     桔梗(きちかう)の紫さける夕べにて
        おもかげさだかに母の顕(た)ちくる・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


キキョウも秋の七草のひとつで、古来から詩歌によく詠まれてきた。
派手さはないが清楚な花である。もっとも秋の七草に数えられる草は、みな地味なものである。
『万葉集』にいう「あさがお」は、キキョウのこととされる。
この花は漢字の音読みをして「キチコウ」と呼ばれることも多い。
私の歌もキチコウと読んでいる。
小林一茶の句に

    きりきりしやんとしてさく桔梗かな

というのがあるが、キキョウの特色を見事に捉えている。
きっぱりと、すがすがしい感じの花である。
写真②は白いキキョウである。
kikyou4キキョウ白

掲出した私の歌は第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので、母への思いを詠んでいる。
この歌のつづきに

   乳ごもる肉(いきみ)の背(せな)に吾(あ)は負はれ三十路の母はまだ若かりき

という歌が載っている。私は母の30歳のときの子である。そんな感慨を歌に込めてあるのである。

この頃では品種改良で、色々のキキョウがあるが、やはりキキョウは在来種のものが、よい。
以下、キキョウを詠んだ句を引いて終わりたい。

 桔梗の紫さめし思ひかな・・・・・・・・高浜虚子

 仏性は白き桔梗にこそあらめ・・・・・・・・夏目漱石

 かたまりて咲きし桔梗のさびしさよ・・・・・・・久保田万太郎

 桔梗や男も汚れてはならず・・・・・・・・石田波郷

 桔梗やおのれ惜しめといふことぞ・・・・・・・・森澄雄

 桔梗挿す壺の暗さをのぞいてから・・・・・・・・桂信子

 我が身いとしむ日の桔梗水換へる・・・・・・・・富田木歩

 桔梗の露きびきびとありにけり・・・・・・・・川端茅舎

 姨捨の畦の一本桔梗かな・・・・・・・・西本一都

 桔梗や信こそ人の絆なれ・・・・・・・・野見山朱鳥

 桔梗やいつより過去となりにけむ・・・・・・・・油布五線





病を癒す奇跡の泉「聖地ルルド」への旅・・・木村草弥
Cathedral_in_Lourdes_Summerルルド大聖堂

  ──巡礼の旅──(5)再掲載・初出2013/09/10

      病を癒す奇跡の泉「聖地ルルド」への旅・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

先に2013/07/28付で聖女ベルナデッタゆかりのサン・ジルダール修道院教会の記事を載せたので、その彼関連として、再掲載だが、この記事を出しておく。

夜、蝋燭を手にした人々がルルドの「無原罪のお宿り聖堂」の周りに集まって来る。
その蝋燭の揺らめきとライトアップされた聖堂によって聖地に不思議な雰囲気が漂う。
ここに集う人々の中には、看護師に付き添われた車椅子の人、ベッドに寝たままの人も居る。
さまざまの国の、さまざまな人々が静かに時間の来るのを待つ。そして二十一時をまわる頃、神父がミサの始まりを告げる。
人々はアヴェマリアを唱えながら「無原罪のお宿り聖堂」の前までやって来る。
冬の寒い一定の時期を除き、多少の雨の中でも行われる蝋燭ミサ。参加する人の数は数十人のときもあれば数百人のこともある。
闇夜にひびく参列者のアヴェマリアの歌声を耳にすると、キリスト教徒か否かは問わず、心に沁みるものがある。

ルルド(Lourdes) は、フランスとスペインの国境になっているピレネー山脈のふもと、フランスの南西部のオート=ピレネー県の人口15000人ほどの小さな町。
聖母マリアの出現と「ルルドの泉」で知られ、カトリック教会の巡礼地ともなっている。

150px-Bernadette_Soubirousベルナデッタ・スビルー
1858年2月11日、村の14歳の少女ベルナデッタ・スビルーが郊外のマッサビエルの洞窟のそばで薪拾いをしているとき、初めて聖母マリアが出現したといわれている。
ベルナデッタは当初、自分の前に現れた若い婦人を「あれ」と呼び、聖母とは思っていなかった。
しかし出現の噂が広まるにつれ、その姿かたちから聖母であると囁かれ始める。
ベルナデッタ・スビルー聖母出現の噂は、当然ながら教会関係者はじめ多くの人々から疑いの目を持って見られていた。
ベルナデッタが「あれ」がここに聖堂を建てるよう望んでいると伝えると、神父はその女性の名前を聞いて来るように命じる。
神父の望み通り、何度も名前を尋ねるベルナデッタに、ついに「あれ」は自分を「無原罪の御宿り」であると、ルルドの方言で告げた。
それは「ケ・ソイ・エラ・インマクラダ・クンセプシウ」(Que soy era Immaculada Councepciou=私は無原罪のやどりである(フランス語:Je suis l'Immaculée-Conception.))
という言葉であった。
これによって神父も周囲の人々も聖母の出現を信じるようになった。
「無原罪の御宿り」がカトリックの教義として公認されたのは聖母出現の4年前の1854年だが、家が貧しくて学校に通えず、読み書きも満足にできない田舎の少女が知り得るはずもない言葉だったからである。
以後、聖母がこの少女の前に18回にもわたって姿を現したといわれ評判になった。
1864年には聖母があらわれたという場所に聖母像が建てられた。
この話はすぐにヨーロッパ中に広まったため、はじめに建てられていた小さな聖堂はやがて巡礼者でにぎわう大聖堂になった。

ベルナデッタ自身は聖母の出現について積極的に語ることを好まず、1866年にヌヴェール愛徳修道会の修道院に入ってシスター・マリー・ベルナールとなり、外界から遮断された静かな一生を送った。
ベルナデッタは自分の見たものが聖母マリアであったことをはっきりと認めていた。
例えば1858年7月16日の最後の出現の後のコメントでも「私は、聖母マリア様を見るだけでした」とはっきり述べている。
1879年、肺結核により35歳で帰天(病没)し、1933年ベルナデットは教皇ピオ11世から聖人に列聖された。
彼女の遺体は腐敗を免れ、修道女の服装のまま眠るようにヌヴェールに安置されている。

lourdesiルルドの洞窟
ルルドの泉 ベルナデッタが見た「聖母」は、ルルドの泉に関して次のような発言をしている。
「聖母」はまずベルナデッタに「泉に行って水を飲んで顔を洗いなさい」と言った。
近くに水は無かったため、彼女は近くの川へ行こうとしたが、「聖母」が「洞窟の岩の下の方へ行くように指差した」ところ、泥水が少し湧いてきており、
次第にそれは清水になって飲めるようになった。これがルルドの泉の始まりである。

また、スタンデンというイギリス人が、町中の人々が情熱を持って話している洞窟での治癒の奇跡についてベルナデッタに話したが、
彼女が奇跡に関して無関心であったことに考えさせられたという記録がある。
行きすぎたことの嫌いな彼女は話を簡単にしてしまい、はじめ「この類の話に、本当のことは何一つありません」と言うのであった。
この後にも、ある訪問者に奇跡について聞かれた際、彼女は無関心な態度を示して次のように言ったとされる。「そういう話は聞かされたけど、私は知りません。」驚いた訪問者が真意を正すと、彼女はこう答えた。
「私はじかに見ていないので、知らないと言ったんです。」
泉に関連した治癒は当初から何件も報告され、医者がその奇跡性を認めざるを得ないケースもいくつもあったが、ベルナデッタはこれに関与していなかった。
しかし彼女がそれを信じていない、あるいは否定したという発言も残っていない。
彼女自身は、気管支喘息の持病があったが一度もルルドの泉に行くことはなく、より遠方の湯治場へ通っていた。

なお、ベルナデッタの遺体は1909年、1919年、1925年の3回にわたって公式に調査され、特別な防腐処理がなされていないにもかかわらず腐敗が見られないと言われている。
これは「目視では明確な腐敗の兆候が見られなかった」と言うことである(実際には腐敗が始まっていたという報告もある)。
遺体が腐敗しないことは列聖のための有力な材料となるが、それ自体は奇跡的な出来事ではない。通常死体は地上で温下では数ヶ月で崩壊、白骨化する。
1925年の調査では、ローマとルルドの修道院に送るため聖遺物(右側肋骨2本、両膝の皮膚組織、肝臓の一部)が摘出された。
また、過去の調査の際の洗浄の影響によって皮膚の黒ずみと黴・異物の沈着、ミイラ化したために鼻梁と眼窩が落ち窪むなど容姿が若干変異していたため、
顔と両手の精巧な蝋製マスクが作られ、かぶせられた。これは見る者に不快感を与えないために、遺物に関してフランスではよく行われる処理。

現在では、ルルドの聖母の大聖堂が建っており、気候のよい春から秋にかけてヨーロッパのみならず世界中から多くの巡礼者がおとずれる。
マッサビエルの洞窟から聖母マリアの言葉どおり湧き出したといわれる泉には治癒効果があると信じられている。
「奇跡的治癒」の報告は多いが、中にはカトリック教会の調査によっても公式に認められた「科学的・医学的に説明できない治癒」の記録さえ数例ある。
カトリック教会が「奇跡的治癒」を認めることは稀であり、認定までに厳密な調査と医学者たちの科学的証明を求めている。

泉の評判が広まってから現代まで1億人以上がこの泉を訪れたとされているが、そのうちカトリック教会に奇跡の申請をしたのは7,000人ほどである。
そのうちカトリック教会が認めた奇跡はわずか67件で、直近の40年に限れば10年に1件の割合でしかない。
20世紀前半に奇跡と認められたもののうち、いくつかは具体的な症状の記録が残されており、その中には奇跡とは呼べないものも含まれている。
これはカトリック教会が求める科学的証明の水準が当時は現代よりも低かったためと考えられる。
「奇跡」のうち、ほとんどは結核、眼炎、気管支炎など自然治癒あるいは近代医療で回復するもので、損傷した脊椎の回復など、重篤な障害、病気が治癒したという事実はない。
ルルドには医療局が存在し、ある治癒をカトリック教会が奇跡と認定するための基準は大変厳しい。
「医療不可能な難病であること、治療なしで突然に完全に治ること、再発しないこと、医学による説明が不可能であること」という科学的、医学的基準のほか、
さらに患者が教会において模範的な信仰者であることの人格が査定される。
このため、これまで2,500件が「説明不可能な治癒」とされ(つまり、奇跡的な治癒だが公式な「奇跡」とは認定されないケース。患者に離婚歴があるというだけでこれに相当する)、
医療局にカルテが保存されているにもかかわらず、奇跡と公式に認定される症例は大変少数(67件)となっている。
特に信仰の世俗化が危惧されている現代において、これらの基準を満たすことが大変難しくなっていることは想像に難くない。



赤まんま幼のあそぶままごとの赤飯なれどだあれも来ない・・・木村草弥
img548赤まんま本命

     赤まんま幼のあそぶままごとの
        赤飯なれどだあれも来ない・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので、この歌のつづきに

   老いぬれば無性に親しき赤まんま路傍にひそと咲いてゐるゆゑ

という歌が載っている。この歌も愛着のある歌で、放しがたい。
「赤まんま」または「赤のまま」などと呼ばれるが、それは赤い実の形からきている。
植物名としては「イヌタデ」という蓼の仲間である。タデ科の一年草。いたるところに自生する。
花は夏から秋にかけて咲くが、どちらかというと秋の花と言った方がよい。紅紫色の穂になって咲くが、花びらが無く、萼だけである。
役にたたない蓼ということでイヌタデと名づけられたというが、赤飯のような花なので赤まんまという。
子供のままごとに使われるというので、それが俗称の名前になった。ややメルヘンチックな印象の花である。
子供のままごとと言っても、おおよそは女の子のすることで、お招待でままごとに呼ばれることはあっても、
お義理であって男の子は、もっと乱暴な、活発な遊びがあった。しかし、赤まんまが赤飯の代りであることは知っていた。
先に書いたように、この草は、どこにでもある、ありふれた草だった。
だから、二番目に掲出した歌のように「老いぬれば」こそ、この草の平凡さ、目立たなさ、に心が引かれてゆくのである。
『万葉集』に

  我が宿の穂蓼古韓(ふるから)摘みはやし実になるまでに君をし待たむ

という歌があるが、実になるまで待つと言って少女への恋の実りを待つに重ねて詠っている。
以下、赤まんまを詠んだ句を引いておく。

 日ねもすの埃のままの赤のまま・・・・・・・・高浜虚子

 手にしたる赤のまんまを手向草・・・・・・・・富安風生

 勝ち誇る子をみな逃げぬ赤のまま・・・・・・・・中村草田男

 赤のまま妻逝きて今日は何日目・・・・・・・・小川千賀

 山羊の貌朝日うけをり赤のまま・・・・・・・・坪野文子

 赤のまま此処を墳墓の地とせむか・・・・・・・・吉田週歩

 ここになほ昔のこれり赤のまま・・・・・・・・桜木俊晃

 出土土器散らばり乾き赤のまま・・・・・・・・水田三嬢

 縄汽車のぶつかり歩く赤のまま・・・・・・・・奥田可児

 犬蓼にある明るさよ野草園・・・・・・・・青柳志解樹


妻を恃むこころ深まる齢にて白萩紅萩みだれ散るなり・・・木村草弥
aaoohagi001萩大判

     妻を恃(たの)むこころ深まる齢(よはひ)にて
        白萩紅萩みだれ散るなり・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので「牧神の午後」という項目の中の一つである。自選50首にも入っているのでWeb上でもご覧いただける。
萩にもいろいろの色があり、栽培種として品種改良されている。
昔は、一番美しいのは「みやぎのはぎ」ということで、紅紫色か白で、庭などに植えられた。
hagi_M2萩白

秋の七草の筆頭になる花で、字で書くと草かんむりに秋と書くように、秋を代表する花とされた。
古来、芭蕉の句に

    一家に遊女も寝たり萩と月

    しをらしき名や小松吹く萩すすき

    白露もこぼさぬ萩のうねりかな


などの名句もあり、また曽良の句の

    行き行きてたふれ伏すとも萩の原

なども有名である。

私の歌は、齢を取ってくると妻を恃む気持ちが、だんだんと強くなってくる心情を詠んでいる。若い時の愛情とは、また変った心境が生れるからである。
また、妻の病気が進行して介護の日々が殆どとなり、支えてやらなければならないという気持ちと、裏腹になったような微妙な気分をも含んでいる。
私たちは、そんな風にして、お互いを支えあって生きてきたのである。
妻亡き今となっては、懐かしい追憶の歌となってしまった。
今は、私は一人で生きてゆかなければならない。
同じ歌集に

  萩に蝶の風たつとしもなきものをこぼして急ぐいのちなりけり・・・・・・・・・・木村草弥

という歌も、すぐ後に載っている。
蝶が来るだけで、はらはらと花を散らす萩の姿を見て、そこに、はかない「いのち」を見たのである。
以下、歳時記から萩の句を引いて終わりにしたい。

 三日月やこの頃萩の咲きこぼれ・・・・・・・・河東碧梧桐

 日の暮は鶏とあそびつ萩の花・・・・・・・・福井艸公

 萩の花何か急かるる何ならむ・・・・・・・・水原秋桜子

 低く垂れその上に垂れ萩の花・・・・・・・・高野素十

 もつれ沿ふ萩の心をたづねけり・・・・・・・・阿波野青畝

 雨粒のひとつひとつが萩こぼす・・・・・・・・山口青邨

 せはしなき萩の雫となりにけり・・・・・・・・五十嵐播水

 ある日ひとり萩括ることしてをりぬ・・・・・・・・安住敦

 手に負へぬ萩の乱れとなりしかな・・・・・・・・安住敦

 萩の風一文字せせり総立ちに・・・・・・・・田村木国

 降り止めばすぐ美しき萩の風・・・・・・・・深川正一郎

 みごもりしか萩むらさわぎさわぐ中・・・・・・・・渡部ゆき子

 白萩のやさしき影を踏みゆけり・・・・・・・・山内きま女




はたはたのつるみてぬぎしもののなし・・・秋元不死男
002.jpg

    はたはたのつるみてぬぎしもののなし・・・・・・・・・・・・・・秋元不死男

私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)にも

  小さき雄が背中に乗りてオンブバッタ交尾の様も秋空の下・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

というのがある。

バッタ類の雄はみな雌よりも格段に体が小さい。交尾のために雄が雌の背中に乗っていると、まるで子供がおんぶしているように見える。
この虫はおんぶしている場面をよく見られるので、名前までオンブバッタとつけられてしまった。
この虫は畑といわず野っぱらにも、やたらにいる虫で、葉っぱを食べる害虫である。

FI2618461_2E.jpg

バッタの仲間には40種類くらいのものがいるらしいが、写真②は「いなご」の雌雄である。
これも雄は小さい。漢字では、蝗と書くが、これは稲につく害虫である。
掲出の歌のオンブバッタは別名「きちきち」ともいう。飛んで逃げるとき、きちきちという羽音をたてて飛ぶからである。
これも「聞きなし」のものである。また地方によっては「はたはた」と呼ぶらしい。これも飛ぶ音からの命名だろう。
私の地域ではオンブバッタのことを「おんめ」と呼ぶ。
これは交尾のオンブの姿勢でみられることが多いので「雄雌」がつづまって「おんめ」となつたと思われる。
この虫は後ろ足を持つと体を揺するので「機織バッタ」とも呼ぶ。私の住む地域では子供が「おんめ、機(はた)織れ」とはやして後ろ足を持ったりする。

この私の歌の収録されている一連の歌を引いておく。

  草 刈・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

田の平に立ちて眺むるふるさとは秋のさ中の青谷百町歩

わが盆地幅三里ほど南北長し右は生駒山系ひだりは笠置山系

草を刈るあとを追ひ来る鳥のむれ生きゆく知恵ぞ虫を啄む

めざとくも雲雀来たりて虫を食(は)む警戒しつつ鴉もくるよ

人が草を刈れば虫が食へるといふ生き物の知恵いぢらしきかも

小さき雄が背中に乗りてオンブバッタ交尾の様も秋空の下

草刈機の振動の余韻とどまりて腕(かひな)と指の揺るるを覚ゆ

湯浴みして洗ひたれども我の身に草の匂ひの残る宵なり
---------------------------------------------------------------------
歳時記から「おんぶばった」「いなご」の句を少し引いて終りにする。

 きちきちといはねばとべぬあはれなり・・・・・・・・富安風生

 はたはた飛ぶ地を離るるは愉しからむ・・・・・・・・橋本多佳子

 はたはたのゆくてのくらくなるばかり・・・・・・・・谷野予志

 はたはたのおろかな貌がとんで来る・・・・・・・・西本一都

 はたはたの脚美しく止りたる・・・・・・・・後藤比奈夫

 はたはたの空に機織りつづけつつ・・・・・・・・平井照敏

 ふみ外す蝗の顔の見ゆるかな・・・・・・・・高浜虚子

 一字(あざ)や蝗のとべる音ばかり・・・・・・・・水原秋桜子

 豊の稲をいだきて蝗人を怖づ・・・・・・・・山口青邨

 蝗の貌ほのぼのとして摑まるる・・・・・・・・原田種茅

 蝗とび蝗とび天どこまでも・・・・・・・・平井照敏




copyright © 2019 Powered By FC2ブログ allrights reserved.