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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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病を癒す奇跡の泉「聖地ルルド」への旅・・・木村草弥
Cathedral_in_Lourdes_Summerルルド大聖堂

  ──巡礼の旅──(5)再掲載・初出2013/09/10

      病を癒す奇跡の泉「聖地ルルド」への旅・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

先に2013/07/28付で聖女ベルナデッタゆかりのサン・ジルダール修道院教会の記事を載せたので、その彼関連として、再掲載だが、この記事を出しておく。

夜、蝋燭を手にした人々がルルドの「無原罪のお宿り聖堂」の周りに集まって来る。
その蝋燭の揺らめきとライトアップされた聖堂によって聖地に不思議な雰囲気が漂う。
ここに集う人々の中には、看護師に付き添われた車椅子の人、ベッドに寝たままの人も居る。
さまざまの国の、さまざまな人々が静かに時間の来るのを待つ。そして二十一時をまわる頃、神父がミサの始まりを告げる。
人々はアヴェマリアを唱えながら「無原罪のお宿り聖堂」の前までやって来る。
冬の寒い一定の時期を除き、多少の雨の中でも行われる蝋燭ミサ。参加する人の数は数十人のときもあれば数百人のこともある。
闇夜にひびく参列者のアヴェマリアの歌声を耳にすると、キリスト教徒か否かは問わず、心に沁みるものがある。

ルルド(Lourdes) は、フランスとスペインの国境になっているピレネー山脈のふもと、フランスの南西部のオート=ピレネー県の人口15000人ほどの小さな町。
聖母マリアの出現と「ルルドの泉」で知られ、カトリック教会の巡礼地ともなっている。

150px-Bernadette_Soubirousベルナデッタ・スビルー
1858年2月11日、村の14歳の少女ベルナデッタ・スビルーが郊外のマッサビエルの洞窟のそばで薪拾いをしているとき、初めて聖母マリアが出現したといわれている。
ベルナデッタは当初、自分の前に現れた若い婦人を「あれ」と呼び、聖母とは思っていなかった。
しかし出現の噂が広まるにつれ、その姿かたちから聖母であると囁かれ始める。
ベルナデッタ・スビルー聖母出現の噂は、当然ながら教会関係者はじめ多くの人々から疑いの目を持って見られていた。
ベルナデッタが「あれ」がここに聖堂を建てるよう望んでいると伝えると、神父はその女性の名前を聞いて来るように命じる。
神父の望み通り、何度も名前を尋ねるベルナデッタに、ついに「あれ」は自分を「無原罪の御宿り」であると、ルルドの方言で告げた。
それは「ケ・ソイ・エラ・インマクラダ・クンセプシウ」(Que soy era Immaculada Councepciou=私は無原罪のやどりである(フランス語:Je suis l'Immaculée-Conception.))
という言葉であった。
これによって神父も周囲の人々も聖母の出現を信じるようになった。
「無原罪の御宿り」がカトリックの教義として公認されたのは聖母出現の4年前の1854年だが、家が貧しくて学校に通えず、読み書きも満足にできない田舎の少女が知り得るはずもない言葉だったからである。
以後、聖母がこの少女の前に18回にもわたって姿を現したといわれ評判になった。
1864年には聖母があらわれたという場所に聖母像が建てられた。
この話はすぐにヨーロッパ中に広まったため、はじめに建てられていた小さな聖堂はやがて巡礼者でにぎわう大聖堂になった。

ベルナデッタ自身は聖母の出現について積極的に語ることを好まず、1866年にヌヴェール愛徳修道会の修道院に入ってシスター・マリー・ベルナールとなり、外界から遮断された静かな一生を送った。
ベルナデッタは自分の見たものが聖母マリアであったことをはっきりと認めていた。
例えば1858年7月16日の最後の出現の後のコメントでも「私は、聖母マリア様を見るだけでした」とはっきり述べている。
1879年、肺結核により35歳で帰天(病没)し、1933年ベルナデットは教皇ピオ11世から聖人に列聖された。
彼女の遺体は腐敗を免れ、修道女の服装のまま眠るようにヌヴェールに安置されている。

lourdesiルルドの洞窟
ルルドの泉 ベルナデッタが見た「聖母」は、ルルドの泉に関して次のような発言をしている。
「聖母」はまずベルナデッタに「泉に行って水を飲んで顔を洗いなさい」と言った。
近くに水は無かったため、彼女は近くの川へ行こうとしたが、「聖母」が「洞窟の岩の下の方へ行くように指差した」ところ、泥水が少し湧いてきており、
次第にそれは清水になって飲めるようになった。これがルルドの泉の始まりである。

また、スタンデンというイギリス人が、町中の人々が情熱を持って話している洞窟での治癒の奇跡についてベルナデッタに話したが、
彼女が奇跡に関して無関心であったことに考えさせられたという記録がある。
行きすぎたことの嫌いな彼女は話を簡単にしてしまい、はじめ「この類の話に、本当のことは何一つありません」と言うのであった。
この後にも、ある訪問者に奇跡について聞かれた際、彼女は無関心な態度を示して次のように言ったとされる。「そういう話は聞かされたけど、私は知りません。」驚いた訪問者が真意を正すと、彼女はこう答えた。
「私はじかに見ていないので、知らないと言ったんです。」
泉に関連した治癒は当初から何件も報告され、医者がその奇跡性を認めざるを得ないケースもいくつもあったが、ベルナデッタはこれに関与していなかった。
しかし彼女がそれを信じていない、あるいは否定したという発言も残っていない。
彼女自身は、気管支喘息の持病があったが一度もルルドの泉に行くことはなく、より遠方の湯治場へ通っていた。

なお、ベルナデッタの遺体は1909年、1919年、1925年の3回にわたって公式に調査され、特別な防腐処理がなされていないにもかかわらず腐敗が見られないと言われている。
これは「目視では明確な腐敗の兆候が見られなかった」と言うことである(実際には腐敗が始まっていたという報告もある)。
遺体が腐敗しないことは列聖のための有力な材料となるが、それ自体は奇跡的な出来事ではない。通常死体は地上で温下では数ヶ月で崩壊、白骨化する。
1925年の調査では、ローマとルルドの修道院に送るため聖遺物(右側肋骨2本、両膝の皮膚組織、肝臓の一部)が摘出された。
また、過去の調査の際の洗浄の影響によって皮膚の黒ずみと黴・異物の沈着、ミイラ化したために鼻梁と眼窩が落ち窪むなど容姿が若干変異していたため、
顔と両手の精巧な蝋製マスクが作られ、かぶせられた。これは見る者に不快感を与えないために、遺物に関してフランスではよく行われる処理。

現在では、ルルドの聖母の大聖堂が建っており、気候のよい春から秋にかけてヨーロッパのみならず世界中から多くの巡礼者がおとずれる。
マッサビエルの洞窟から聖母マリアの言葉どおり湧き出したといわれる泉には治癒効果があると信じられている。
「奇跡的治癒」の報告は多いが、中にはカトリック教会の調査によっても公式に認められた「科学的・医学的に説明できない治癒」の記録さえ数例ある。
カトリック教会が「奇跡的治癒」を認めることは稀であり、認定までに厳密な調査と医学者たちの科学的証明を求めている。

泉の評判が広まってから現代まで1億人以上がこの泉を訪れたとされているが、そのうちカトリック教会に奇跡の申請をしたのは7,000人ほどである。
そのうちカトリック教会が認めた奇跡はわずか67件で、直近の40年に限れば10年に1件の割合でしかない。
20世紀前半に奇跡と認められたもののうち、いくつかは具体的な症状の記録が残されており、その中には奇跡とは呼べないものも含まれている。
これはカトリック教会が求める科学的証明の水準が当時は現代よりも低かったためと考えられる。
「奇跡」のうち、ほとんどは結核、眼炎、気管支炎など自然治癒あるいは近代医療で回復するもので、損傷した脊椎の回復など、重篤な障害、病気が治癒したという事実はない。
ルルドには医療局が存在し、ある治癒をカトリック教会が奇跡と認定するための基準は大変厳しい。
「医療不可能な難病であること、治療なしで突然に完全に治ること、再発しないこと、医学による説明が不可能であること」という科学的、医学的基準のほか、
さらに患者が教会において模範的な信仰者であることの人格が査定される。
このため、これまで2,500件が「説明不可能な治癒」とされ(つまり、奇跡的な治癒だが公式な「奇跡」とは認定されないケース。患者に離婚歴があるというだけでこれに相当する)、
医療局にカルテが保存されているにもかかわらず、奇跡と公式に認定される症例は大変少数(67件)となっている。
特に信仰の世俗化が危惧されている現代において、これらの基準を満たすことが大変難しくなっていることは想像に難くない。



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