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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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筒井早苗歌集『椿は咲きて』・・・木村草弥
筒井_NEW

──新・読書ノート──

      筒井早苗歌集『椿は咲きて』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・青磁社2019/09/26刊・・・・・・・

この本は筒井早苗さんの第七歌集ということになる。他に叢書としてアンソロジーがあるらしい。
ここで、この本の巻末に載る筒井さんの略歴を引いておく。

1933年生
1954年 新月入会
1064年 新月賞受賞
1982年 歌集『遠光る海』
1990年 歌集『日のある時間』 現代歌人集会賞受賞
      現代歌人叢書『筒井早苗歌集』
1995年 歌集『鳥は還らず』 
2002年 歌集『藤の領域』
2010年 歌集『霜月祭』
2012年 歌集『混沌』

筒井さんとは、近隣に住むものとして年賀状のやりとりなどはしてきたが、詳しい付き合いは無い。
短歌結社「新月」の代表として、かつ有名歌人の一角として、また地域の大会の指導者としても活躍して来られた。
私は昨年、終活として詩歌関係などの蔵書を日本現代詩歌文学館などの図書館にまとめて寄贈したので書架は空っぽになった。
だから、筒井さんからの贈呈本があったかどうかも確認できない。
私のブログの過去記事も検索してみたが、筒井さんの本については出て来なかった。
ブログは2004年二月からなので、それ以前に贈呈を受けているかもしれないが、蔵書整理をしたので確認できなかった。ご了承を得たい。

「あとがき」によると昨年末で主宰された「新月」を終刊にされたらしい。
どこの結社も会員の老齢化や若い人の参加者が無いなどの問題に直面しているらしい。
「塔」などは若い会員が増えているというが、これは指導者が意識して努力していることの証左だろう。
前書きが長くなったので、筒井さんの歌を見てみよう。

この本には「椿」の歌が多い。
筒井さんは椿の花が好きなのだろうか。
椿の花の好きな人として豊臣秀吉、俳人の石田波郷などが知られる。

この本の Ⅱの章の中に「椿は咲きて」という項目がある。そこに載る歌

   *覚悟などあるもあらぬも天命の尽くる日は来む椿は咲きて

「帯」裏の自選五首の中にも、この歌が引かれているから、この歌から題名が採られたと言ってもいいだろう。
椿を詠んだ歌を少し引いてみよう。

   *とりどりの椿の花に見詰められ見つめ返して日盛り歩む
   *いづれ解る否わかるまい八重一重色それぞれに椿は咲きて
   *つらつらと思ひ出さる共に見し巨勢の春野のつらつら椿
   *五色椿の咲くころほひか枝移りさへづるかの日の鳥はいづこぞ
   *白毫寺の五色の椿を見定めて巡る椿の囲む境内
   *五色椿の五色まなこに収めきて仄めく胸や夜ふけてなほ

「椿」の花に寄せる心象が詠まれている。
六番目に引いた歌の「仄めく胸」という何とも言えない色気の表現が秀逸である。

   *人恋ふる心忘れて久しきよ人恋ふはよし山上の虹
   *短歌なくて何が残らむ不器用で整理下手なるこのわたくしに
   *生かされて加速してゆく一年の良きも悪しきもすでに茫茫
   *「香虎」シャンフウに口腹満ちてそれぞれの方へと別れのてのひらを振る
   *八十歳を越えたる命の使ひ道あるやあらずや春の日暮るる
   *海外クルーズ楽しみをりし時代など霞む一日一日の密度

「短歌なくて何が残らむ」というところに、歌に執着して半生を生きてきた筒井さんの「矜持」が見られる。
また、ひところ「海外クルーズ」に興じられていた歌を読んだことがある。
それらの、こもごもが、ここには詠まれている。

愛する娘さんが急逝されたという歌が見える。「生きたかりけむ」という一節である。

   *娘の歌声しづかに流れ祭壇にほほゑむ遺影が胸をゆさぶる
   *うつすらと死化粧され目を閉づる柩の中の子よ美しき
   *老いてなほ涸るることなき涙とて喪失感が身をめぐりゆく
   *ひとつ咲きうかがふやうに二つ咲く紅椿なりあしたも咲けよ

子に先立たれるという逆縁の哀しみの歌である。老いると、さまざまなことに出会うことになる。そして、ここにも「椿」である。
このようして、この一巻は「椿」が縦糸のように通貫していると言うべきだろう。

拙い鑑賞を、そろそろ終わりたい。巻末のところに

   *六十五年詠み続け得し恩寵を思へよ沈む夕日が赫い
   *変化する水の流れを越えきたる命なりけり令和のひかり

の歌が見られる。 けだし一巻を締めくくる歌として結構なものであろう。
これにて、この本の鑑賞を終わる。雑駁な鑑賞に終始したことをお詫びする。 ご恵贈有難うございました。
これからも佳い歌を残していただきたい。        (完)




書評─木村草弥詩集『修学院幻視』・・・冨上芳秀
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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──冨上芳秀の詩──(4)

     書評─木村草弥詩集『修学院幻視』・・・・・・・・・・・・・冨上芳秀
              ・・・・・・「詩的現代」30号2019/09掲載・・・・・・・・

敬愛する冨上芳秀氏が標記の記事を執筆されたので、当該部分を抄出しておく。読みやすいように私の独断で改行した。
全文は、別項の記事を参照されたい。 → 「ジジイの覗き眼鏡」⑤

▼木村草弥詩集『修学院幻視』(二〇一八年十一月十五日刊、澪標)
詩というものは色々な可能性があるものだなと改めて思い知らされた。改行はされているが、私などが考える詩として改行の必然性があるというのではない。
むしろ散文脈で、エッセイのような感じで内容を伝えることに主眼があるように思われる。
その圧倒的な教養と読書量、ユニークな発想とユーモア、また、歌人でもある木村草弥の短歌はすぐれたものである。
その詩の末尾に添えられて長歌に添えられた反歌のように何とも言えない情緒を湛えている。
この詩集は「Ⅰ 春の修羅」「Ⅱ 修学院幻視」の二部に分かれている。
もちろん、後者が詩集のタイトルにもなっているほど、作者の思い入れがどれだけのものかを感じさせられる。
先ず、この章の冒頭に「序詩 後水尾天皇とは?」とあって、後水尾院の年譜が書かれている。
〈後陽成天皇の第三皇子。名は政仁(ただひと。即位後、ことひと、に改める)。/慶長十六年(一六一一)、一六歳で即位。/後陽成院は弟・八条宮智仁親王への譲位を望み、父子の間は不和が続いた。―中略―延宝八年(一六八〇〉、老衰により崩御。八十五歳。/泉湧寺において葬礼が行われ、月輪陵に葬られた。〉というような記述が続くのである。
こうした記述を詩というのは、全く抵抗がないと言えばウソになるが、詩というものは自由なものであってどのようなスタイルでも可能であるという考え方に立てば、詩の枠を広げる積極的な評価を与えるべきではないかと思うのである。
内容は私にとって非常に興味深い。さて、この没年で終わる年譜的記述に次いで、後水尾院の功績や興味深い女性関係について書いている。〈和歌約二千首を収める『後水尾院御集』(鴎巣集ともいう)がある。/二十一代集以下の諸歌集から一万二千余首を類題に排列した『類題和歌集』三十一巻、/御土御門天皇以後の歌人の歌を集めた『千首和歌集』などを編集した。/叔父智仁親王から古今伝授を受けている。/和歌のほかにも立花・茶の湯・書道・古典研究など諸道に秀で、寛永文化の主宰者ともいうべき存在であった。/『玉露藁』『当時年中行事』『和歌作法』など著作も多い。/洛北に修学院離宮を造営したことは名高い。〉という記述は後水尾院が和歌についての多大な情熱と様々な文化的な研究を行ったことを記述している。
それに続く同様の情熱を傾けた女性関係についての記述は、この詩集のもっとも重要なテーマの概略予告のようなものである。
〈女性関係は派手で、男女あわせて三十七人の子を産ませている。/禁中法度を無視して宮中に遊女を招き入れたり、遊郭にまでお忍びで出かけた、と言われている。/退位して「上皇」になったからも中宮・和子以外の女性に三十人余の子を産ませ、五十六歳で出家して法皇になった後でも直らず、五十八歳で後の霊元天皇を産ませた。〉
この「序詩 後水尾天皇とは?」は、硬軟合わせた後水尾院の活躍を描いて、詩集の内容全体をを巧みに紹介している。
その活躍の時期について造詣の深い木村草弥は和歌などについての知識を示しながら、下品にならないように学問的レトリックを駆使しながら、結構奥深い女性関係の深い所まで踏み込んでいる。
非常に散文的な要素を持ちながら、この特異な志向が、この詩集のユニークなポエジーと評価すべき点なのかもしれない。
一篇が長いので全文引用は不可能なのでちょっとそのさわりを抜き出してみよう。
〈お夏は市井の遊女である/お上が遊里に遊ばれたときに 見つけて来られた/「床上手」として知られていた//お上は上皇として 直接には禁裏の公式行事にも縛られず/学問と言っても いつもあるものでなし/連歌の会も センスのある者が揃わないと面白くない/と仰せられて ますます 色道に精を出された/禁裏に詰める女は 氏素性を明らかにする者ばかりで/色事には慣れておらず お上は専ら 自分の精を放つのみであった/――略――/口を吸われ 乳首を愛撫されて お夏は喘いだ/さらに 花芯ーー豆へのお上の攻めはつづいた/(この後、引用行には何字か下げたものもあるが、煩雑と考え、空間は詰めたー冨上注)因みに 豆とはクリトリスのことをいう(閑話休題)//早乙女の股ぐらを/鳩がにらんだとな/にらんだも道理かや/股に豆を挟んだと、ナヨナ/という民謡があったらしい、と//当時流行り始めていた「笠句」の本に書かれている。お分かりかナ。//お上の舌が 容赦なく 花芯の先端を舐めつづけるので/お夏は 恥ずかしげもなく 嬌声を上げた――略――/遂に 二人は果てたのだ/お上は 甘美な射精感と/お夏は 至福の受容感と に満たされて/遂に 二人は果てたのだ/まさに 二人は合体の極致に達したのだった/激しい息遣いと けだるい倦怠のうちに/二人は布団に横たわり 高まった息遣いを 静めて/けだるい眠りに落ちた//のちに後水尾院は詠まれた//常夏のはかなき露に嵐吹く秋をうらみの袖やひがたき/「常夏の花」は撫子の異名である〉(「花芯」)省略した部分にはもっと詳しい性愛描写がある。
ただあまりにも露骨な微に入り細に渡る描写は、読者の隠微な想像力を阻害し、逆にエロチシズムを失うように思われる。
おそらく木村草弥のもっとも描きたかったのは後水尾院のあくなき性愛追及の実態であったのではないか。
作品としてのエロチシズムを結実させるには、全てを露骨に表現するのではなく、読者の想像力を刺激することによって目的を遂げるようにした方がよかったのではないだろうか。
成功したかどうかは別にして、このようにポルノグラフィであると誤解されるかもしれない危険性をも顧みず、果敢な実験的な作品を書いた八八歳の詩人、木村草弥を私は高く評価したい。
「Ⅱ 修学院幻視」は作品が長く、できるだけ全文引用をしたいと思っている私もこのように部分引用をせざるを得なかったのである(あまりにも刺激的な部分を出したくなかったという心理が働いたのかもしれないが)が、木村草弥の詩の特徴として、構造的の魅力がある。
「Ⅰ 春の修羅」の部分にその特徴を備えている「水馬」という短いすぐれた作品があるのでそれを紹介しておきたい。
〈――ナルシスの鏡を磨く水馬――宮下恵美子//水馬――あめんぼう は小さな、体重の軽い水生昆虫だから、/細く長い脚の先で、巧みに水の表面張力を利用して、/六本の脚で立って、ひょいひょいと水面を移動する。/少年は、内向的な性格で、こんな虫や蟻などの生態を、/じっと眺めているのが好きだった。/と言って「昆虫少年」というのでもなかった。//歳時記を見てみると「みずすまし」という名前が、間違って、/この「あめんぼう」のこととして呼ばれていたらしい。/「みずすまし」というのは全然別の虫であって、/1センチほどの紡錘形の黒い虫である。「まいまい」という名前がある通り、/水面をくるくると輪をかいて廻っている。/水中に潜るときは、空気の玉を尻につけている。/『和漢三才図会』には《常に旋遊し、周二三尺輪の形をなす。/正黒色、蛍に似たり》と書かれている。/「あめんぼう」(水馬)については《長き脚あって、身は水につかず、水上を駆くること馬のごとし。よりて水馬と名づく》/と書かれていて、なるほどと納得する。/「あめんぼう」という命名は、飴のような臭いがするので、この名があるという。/水馬がふんばってゐるふうでもなく/水の表面張力を凹ませてゐる 木村草弥〉
この詩は宮下恵美子の俳句に始まり、木村草弥自身の短歌で結ばれる。木村氏は六冊の歌集を持つ歌人でもある。
作品の随所に収められた短歌はなかなかのものである。
歳時記、『和漢三才図会』の引用などを駆使して自説を展開するというのはある意味、散文的ではあるが、それを和歌の抒情によって詩としてまとめ上げる構造的でユニークな詩なのである。
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長い引用になったが、部分的に引いては何だか分からないので、当該部分の全文を引いた。
冨上芳秀さん、有難うございました。

この雑誌には冨上芳秀氏の「詩」作品──「白骨化した探偵」 「長屋の人情」 「女の栽培」 「まだらな記憶」などの四篇が載っている。
いずれも冨上芳秀詩独特の面白いものだが、今回は引用を見送らせていただく。悪しからず、ご了承を。



玉の緒の花の珠ぼうと浮きいづるいで湯の朝をたれにみせばや・・・木村草弥
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       玉の緒の花の珠ぼうと浮きいづる
           いで湯の朝をたれにみせばや・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌のつづきに

   草むらにみせばやふかく生(お)ひにけり大きい月ののぼるゆふぐれ

という歌が載っている。私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に収録したものである。
「みせばや」=玉の緒は、原産地は「紫式部」と同様に、日本、朝鮮半島、など東アジアとモンゴルなどに産する。
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写真②は開花前の「みせばや」である。多肉植物である。ムラサキベンケイ草属の耐寒性の多年草。
学名は、学者によって分類が異なるが、今はHylotelephium sieboldii ということになっている。
日本では、小豆島の寒霞渓にしか自生しないと言われているが、栽培種としては一般家庭でも広く栽培されている。
写真③は紅葉したミセバヤである。
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ところで「玉の緒」という名前はともかく、「みせばや」という名前は何に由来するのだろうか。
これは言葉の「綾」からきたものである。
「みせばや」という古い表現は「誰かに見せたいな」という意味であり、私の歌も、その隠された意味を踏まえて作ってある。
掲出した私の歌に立ち戻ってもらえれば、よく判っていただけるものと思う。
私の歌は一時、花の歌を作るのに、まとめて凝っていた頃があり、その頃の歌の一連である。
温泉の朝湯に豊かな肢体をさらす女体に成り代わって詠んでいる。
女性のナルシスムである。
俳句にも詠われており、それらのいくつかを引いておきたい。

 たまのをの花を消したる湖のいろ・・・・・・・・森澄雄

 みせばやのありえぬ色を日にもらふ・・・・・・・・花谷和子

 みせばやの花を点在イスラム寺・・・・・・・・伊藤敬子

 みせばやの花のをさなき与謝郡・・・・・・・・鈴木太郎

 みせばやの洗ひ場に干す五升釜・・・・・・・・福沢登美子

 みせばやが大きな月を呼び出しぬ・・・・・・・・鈴木昌平

 老母のたまのをの花さかりなる・・・・・・・・西尾一

 みせばやの半ばこぼれて垣の裾・・・・・・・・沢村昭代

 みせばやに凝る千万の霧雫・・・・・・・・富安風生

 みせばやの珠なす花を机上にす・・・・・・・・和知清

 みせばやを愛でつつ貧の日々なりき・・・・・・・斎木百合子

 みせばやを咲かせて村の床屋かな・・・・・・・・古川芋蔓
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いま「みせばや」の学名を見ていて思いついたのだが、学名の中の sieboldii というのは、かのシーボルトが命名したか、あるいは標本を持ち帰ったかの、いずれかではないか、ということである。
語尾の ii を除いた名前はシーボルトの綴りではないのか。植物の学名に詳しい方のコメントを待ちたい。


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