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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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夏の月裸婦像は唇閉ぢきらず・・・横井来季
002056snpv41pesinkzp6k裸婦像
 ↑ ルーヴル美術館蔵 ギリシア彫刻 イメージ

──「俳句甲子園」2019から──

      夏の月裸婦像は唇(くち)閉ぢきらず・・・・・・・・・・・・・横井来季

テレビで、たまたま見た番組の中に、この句があった。
入選句でもない句だが、印象に残ったのでメモしておいた。
作者は名古屋高校Bチームに所属する生徒だということである。
「横井」という姓は名古屋地域に多い、特有の姓である。
この回の兼題は七つほどあったが、その中の「夏の月」の題によるものである。
この作者には「金魚」という題で

     恋人も金魚も新しい夜だ・・・・・・・横井来季

という句も発表され、選者の殆どが褒めていた。
はじめにお断りしておく。私は俳句の実作者でもない一介の愛好者に過ぎないから、私の好みに任せた極めて恣意的なものである。
私は、こういう「俳句甲子園」のような、ディベート形式の会は余り好きではない。デイベートに終始する雰囲気が嫌なのである。

今回の最優秀賞は

    中腰の世界に玉葱の匂ふ・・・・・・・・・重田渉(開成高校)

ということだが、同じ兼題で、こういう句がある。

    生くること難し玉葱吊るしたる・・・・・・・・・・徳丸琴乃(星野高校)

私は、この句の方が好きである。「二物衝撃」の句だが、まあ好き好きだろうが。

以下、ネットで調べた作品から私の好きな句を引く。

     *毛虫より毛虫の出づるごとく糞・・・・・・・(作者名を記録忘れ)
     *サルビアやハグする前に目を合はす・・・・・・・中野葵
     *瀑布より戻りて新しき鼓膜・・・・・・・垂水文弥
     *虫籠の置き捨てられて城の森・・・・・・・成山京哉
     *虫籠を睨めば睨み返される・・・・・・・横谷真未
     *土だけの虫籠一つある日陰・・・・・・・奥山凛
     *霧深しブラキヨザウルスの骨格・・・・・・・斎藤仕人
     *山霧や羊に鈴のひとつずつ・・・・・・・・・難波朔美
     *サルビアや気球のそれぞれに焔・・・・・・  〃
     *電柱に砂の手触り霧深し・・・・・・・横井来季
     *校章の十字架眩し緋衣草・・・・・・・  〃
     *サルビアや二度目の生理報告す・・・・・・・野城知里
     *サルビアや叱られている目のやり場・・・・・・・西野結子
     *サルビアや鍵なき島の診療所・・・・・・・山内那南

こうしてネットを検索していると歴代の「最優秀賞」受賞者の中に、神野紗希佐藤文香、青本柚紀、山口優夢など、今も俳壇で活躍する人の名が見られる。
神野紗希fは高柳克弘の夫人としても知られている。 ← 赤字のところは「リンク」になっていることを示す。アクセスされたし。
どうも俳句甲子園の出場校は、進学校が多いので、途中で俳句を作るのを辞めてしまう人が多いらしい中で、こういう人たちは貴重であろう。



北天の雄「アテルイ、モレ」伝説・・・木村草弥
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 ↑ 京都・東山 清水寺境内、音羽の滝近くに建つ顕彰碑
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 ↑ 同顕彰碑の裏面の銘文

       北天の雄「アテルイ、モレ」伝説・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

アテルイ(生年不詳 ~ 延暦21年8月13日(802年9月17日)歿)は、平安時代初期の蝦夷の軍事指導者である。
789年(延暦8年)に日高見国胆沢(現在の岩手県奥州市)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて降伏し、処刑された。
いま表題に「伝説」と書いたが、没年も史実に残るレッキとした実在の人物である。詳しい資料もないので伝説としたものである。

史料には「阿弖流爲」「阿弖利爲」とあり、それぞれ「あてるい」「あてりい」と読まれる。いずれが正しいか不明だが、現代には通常アテルイと呼ばれる。
坂上田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイだとする説もある。フルネームは大墓公阿弖利爲(たものきみあてりい)。
アテルイと共に処刑された母礼(モレ)についても史書に記載する。
以下、Wikipediaに載る記事の当該部分のみを引用しておく。  ↓
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史料にみるアテルイ
アテルイは、史料で2回現れる。一つは、衣川から巣伏にかけての戦い(巣伏の戦い)についての紀古佐美の詳細な報告で『続日本紀』にある。
もう1つはアテルイの降伏に関する記述で、『日本紀略』にある。

史書は蝦夷の動向をごく簡略にしか記さないので、アテルイがいかなる人物か詳らかではない。
802年(延暦21年)の降伏時の記事で、『日本紀略』はアテルイを「大墓公」と呼ぶ。
「大墓」は地名である可能性が高いが、場所がどこなのかは不明で、読みも定まらない。
「公」は尊称であり、朝廷が過去にアテルイに与えた地位だと解する人もいるが、推測の域を出ない。
確かなのは、彼が蝦夷の軍事指導者であったという事だけである。

征東大使の藤原小黒麻呂は、781年(天応元年)5月24日の奏状で、一をもって千にあたる賊中の首として「伊佐西古」「諸絞」「八十島」「乙代」を挙げている。
しかしここにアテルイの名はない。

巣伏の戦い
この頃、朝廷軍は幾度も蝦夷と交戦し、侵攻を試みては撃退されていた。
アテルイについては、789年(延暦8年)、征東将軍紀古佐美遠征の際に初めて言及される。
この時、胆沢に進軍した朝廷軍が通過した地が「賊帥夷、阿弖流爲居」であった。
紀古佐美はこの進軍まで、胆沢の入り口にあたる衣川に軍を駐屯させて日を重ねていたが、5月末に桓武天皇の叱責を受けて行動を起こした。
北上川の西に3箇所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうち、中軍と後軍の4000が川を渡って東岸を進んだ。
この主力軍は、アテルイの居のあたりで前方に蝦夷軍約300を見て交戦した。初めは朝廷軍が優勢で、蝦夷軍を追って巣伏村に至った。
そこで前軍と合流しようと考えたが、前軍は蝦夷軍に阻まれて渡河できなかった。
その時、蝦夷側に約800が加わって反撃に転じ、更に東山から蝦夷軍約400が現れて後方を塞いだ。
朝廷軍は壊走し、別将の丈部善理ら戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損害を出した。
この敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わった。
5月末か6月初めに起こったこの戦いは、寡兵をもって大兵を破ること著しいもので、これほど鮮やかな例は日本古代史に類を見ない。

朝廷軍の侵攻とアテルイの降伏
その後に編成された大伴弟麻呂と坂上田村麻呂の遠征軍との交戦については詳細が伝わらないが、結果として蝦夷勢力は敗れ、胆沢と志波(後の胆沢郡、紫波郡の周辺)の地から一掃されたらしい。田村麻呂は、802年(延暦21年)に、胆沢の地に胆沢城を築いた。

『日本紀略』は、同年の4月15日の報告として、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したことを記す。
2人は田村麻呂に従って7月10日に平安京に入った。田村麻呂は、願いに任せて2人を返し、仲間を降伏させるようと提言した。
しかし、平安京の貴族は「野性獣心、反復して定まりなし」と反対し、処刑を決めた。アテルイとモレは、8月13日に河内国で処刑された。
処刑された地は、この記述のある日本紀略の写本によって「植山」「椙山」「杜山」の3通りの記述があるが、どの地名も現在の旧河内国内には存在しない。
「植山」について、枚方市宇山が江戸時代初期に「上山」から改称したものであり、比定地とみなす説があった。
しかし発掘調査の結果、宇山にあったマウンドは古墳であったことが判明し、「植山」=宇山説はなくなった。

現代のアテルイ像
評価 坂上田村麻呂が偉大な将軍として古代から中世にかけて様々な伝説を残したのに対し、アテルイはその後の文献に名を残さない。
明治以降の歴史学の見地からは、アテルイは朝廷に反逆した賊徒であり、日本の統一の障害であり、歴史の本流から排除されるべき存在であった。

再評価されるようになったのは、1980年代後半以降である。
学界で日本周辺の歴史を積極的に見直し始めたことと、一般社会において地方の自立が肯定的に評価されるようになったことが、背景にある。
アテルイは古代東北の抵抗の英雄として、一躍歴史上の重要人物に伍することとなった。

これに伴って、アテルイ伝説を探索あるいは創出する試みも出てきた。田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイと目する説があり、賛否両論がある。

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↑ 「伝 阿弖流為・母禮之塚」碑(枚方市・片埜神社)

石碑、顕彰碑
上述の枚方市宇山にかつて存在した塚と、その近くの片埜神社の旧社地(現在は牧野公園内)に存在する塚を、それぞれアテルイとモレの胴塚・首塚とする説があり、
1995年(平成7年)頃から毎年、岩手県県人会などの主催でアテルイの慰霊祭が行われ、片埜神社がその祭祀をしている。
但しこのうち「胴塚」については発掘の結果、アテルイの時代よりも200年近く古いものであることが判明している。
また枚方市藤阪にある王仁博士のものとされている墓は、元は「オニ墓」と呼ばれていたものであり、実はアテルイの墓であるとする説もある。

田村麻呂が創建したと伝えられる京都の清水寺境内には、平安遷都1200年を記念して、1994年(平成6年)11月に「アテルイ・モレ顕彰碑」が建立されている。
牧野公園内の首塚にも、2007年(平成19年)3月に「伝 阿弖流為・母禮之塚」の石碑が建立された。

2005年(平成17年)には、アテルイの忌日に当たる9月17日に合わせ、岩手県奥州市水沢区羽田町の羽黒山に阿弖流爲・母礼慰霊碑が建立された。
同慰霊碑は、アテルイやモレの魂を分霊の形で移し、故郷の土の中で安らかに眠ってもらうことを願い、地元での慰霊、顕彰の場として建立実行委員会によって、
一般からの寄付により作られた。尚、慰霊碑には、浄財寄付者の名簿などと共に、2004年(平成16年)秋に枚方の牧野公園内首塚での慰霊祭の際に、奥州市水沢区の「アテルイを顕彰する会」によって採取された首塚の土が埋葬されている。

又、JR東日本は、東北本線の水沢駅 - 盛岡駅間で運行している朝間の快速列車1本に、彼の名前を与えている。

創作
1990年代からは、アテルイを題材とした様々な創作活動が起こった。
2000年(平成12年)吉川英治文学賞を受賞した高橋克彦著「火怨」や、これを原作としたミュージカル「アテルイ」(わらび座)などである。
後者は2004年(平成16年)『月刊ミュージカル』誌の作品部門で10位にランクイン。タキナ役の丸山有子は小田島雄志賞を受賞している。
他に高橋克彦原作による漫画「阿弖流為II世」(「火怨」とは無関係)や2002年(平成14年)新橋演舞場で公演された市川染五郎主演「アテルイ」(松竹株式会社)が有名である。
2002年(平成14年)には没後1200年を機に、長編アニメーション「アテルイ」が制作された。

モレ
モレ(母礼)(生年不詳 - 延暦21年旧8月13日(802年9月17日))とは、上記のアテルイと同時期、同地方に伝えられている蝦夷の指導者の一人と見られている(『日本後紀』、『日本紀略』では磐具公母礼)。アテルイと共に、河内国で処刑されたことが記されている。フルネームは磐具公母礼(いわぐのきみもれ)。

参考文献
青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注『続日本紀』五(新日本古典文学大系 10)、岩波書店、1998年。ISBN 4-00-240016-6
黒板勝美『新訂増補国史体系[普及版] 日本紀略』(第二)、吉川弘文館、1979年。ISBN 4-642-00062-3
大塚初重・岡田茂弘・工藤雅樹・佐原眞・新野直吉・豊田有恒『みちのく古代 蝦夷の世界』、山川出版社、1991年。ISBN 4-634-60260-1
新野直吉『古代東北の兵乱』、吉川弘文館、1989年。ISBN 4-642-06627-6
新野直吉『田村麻呂と阿弖流為』、吉川弘文館、1994年。ISBN 4-642-07425-2
細井計・伊藤博幸・菅野文夫・鈴木宏『岩手県の歴史』(県史3)、山川出版社、1999年。ISBN 4-634-32030-4
岡田桃子『神社若奥日記』、祥伝社、2003年。ISBN 4-396-31339-X
馬部隆弘「蝦夷の首長アテルイと枚方市」『史敏』2006春号、史敏刊行会、2006年。ISSN 1881-2066
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今までは一部の識者だけに知られていた蝦夷地──東北の地だが、今回の大震災・大津波などによって脚光を浴びることになり、
この地と人物についても見直されるようになってきた。
『続日本紀』と同様の古代の史書である『日本三代実録』に載る「貞観大津波」については先に触れた。
なぜ大和朝廷政権は、多大な人的損害を蒙りながら辺境の地である蝦夷地を攻めたのか。それには、かの地で「砂金」が採取されたからと言われている。
後の藤原氏三代の栄華も、この砂金の掌握によっていると、今では言われている。これについてはネット上にも記事があろうかと思うので検索されたい。

蝦夷地は「大和朝廷」政権に長らく反抗し、平定された後も、例えば明治維新の「戊辰戦争」の際には会津は抗戦し多大の損害を蒙った。
その記憶は「恨」となって、今も「東京」への反感となっているようである。特に福島では原発の爆発事故による放射能撒き散らしなど被害意識は物凄いものがある。
角川書店月刊誌「短歌」2011年十月号に載る、吉川宏志「何も見えない」30首の歌によると、こんな歌がある。

    とめどなく東京を怨む声を聞く干し魚のふくろを手に取りながら

    こだなことになったらわしらを差別して・・・・・・東京から来たのか 否と逃れつ


当然のことだろう。管轄する電力会社も違う土地にまで「越境」してきて「原発安全神話」を、さんざ撒き散らした挙句の、この大事故である。
因みに、この歌の作者・吉川宏志は京都在住の壮年の歌人で、今をときめく短歌結社「塔」の代表を務める人である。

今日は、吉川の歌から「北天の雄・アテルイ、モレ」のことを書いてみた。


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