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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM (11月)月次掲示板
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東日本大震災から八年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
aaootuwabuつわぶき
 ↑ ツワブキ

十一月になりました。
いよいよ冬に入ります。文化の香りも。

 国と国揉み合ふあはひ七十年なほ裸なり従軍慰安婦・・・・・・・・・・・・・・・・・・川野里子
 歳をいへばはやはや一期一会ぞと思へど心ふらふら遊ぶ・・・・・・・・・・・・・馬場あき子
 あれは秋の死のくるめきか澄みのぼる鳥を目守りき点となるまで・・・・・・・・・長岡千尋
 にすぎてるあなたとわたし鍋の中にくだけてゆける牡蠣のはらわた・・・・・・・薮内亮輔
 しづかなる寒きあしたをよしとして目覚めたりけりわが幸せや・・・・・・・・・・・・・宮 英子
 歩み来し最後の一歩をここに止め死せるカマキリ落ち葉の上に・・・・・・・・・・北沢郁子
 あっけなく終わるものありおとろえず残る執あり花の場合も・・・・・・・・・・・・・・小高 賢
 句の中の戦後間もなき青空よ 林檎も雁も晩秋の季語・・・・・・・・・・・・・・・佐佐木幸綱
 黄昏の底に落としてしまいたるしろがねの鍵をさがしやまずも・・・・・・・・・・・ 秋山律子
 晩秋の沼の面の水馬は微かな光の輪を踏みて立つ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三井修
 走るしかないだらうこの国道がこの世のキリトリセンとわかれば・・・・・・・・・・・山田 航
 日常の貌保ちつつ足早に歳月は去り再びあはず・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石川恭子
 からすうりの赤きが枝に二つ三つ裏山の冬の木はやわらかし・・・・・・・・・・・・ 斎藤芳生
 結論を述べる男の強張りし眉間の皺の歳月の溝・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・前川佐重郎
 晩秋の長い林道ゆくうちに獣めきたる禁漁区かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・武藤ゆかり
 夜明けには雲が山まで下りてきて仙人のごとく湯浴みすわれは・・・・・・・・・・・・・櫟原聰
 秋空にあまた群なす羊雲地平線へと列ととのへり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・多田羅 花
 路地裏にひとり老婆はあきなひす 明石のたこ焼きあつあつの十・・・・・・・・久我田鶴子
 馬もわれも髪なびかせて佇めり天動説をうべなふごとく・・・・・・・・・・・・・・・・・・阪森郁代
 十一月あつまつて濃くなつて村人・・・・・・・・・・・阿部完市
 十一月いづくともなき越天楽・・・・・・・・・・・・・・・滝沢和治
 花野にて死因問ふ人振り払ふ・・・・・・・・・・・・・ 吉川千早
 難民はムンクの叫び冬が来る・・・・・・・・・・・・山上樹実雄
 何処へゆく跫ばかり釣瓶落ち・・・・・・・・・・・・・・ 市堀玉宗
 モンゴロイド日暮れの葱を抜いている・・・・・・・・河西志帆
 桐は実に奇数は次の数を待つ・・・・・・・・・・・・・ 折勝家鴨
 しぐるるや改行の無き現代詩・・・・・・・・・・・・・・・・ 金子敦
 身を寄せて十一月の水餃子・・・・・・・・・・・・・・・ 津野利行
 黄落や一つ鏡に二人いて・・・・・・・・・・・・・・・・・ 福嶋素顔
 嫌われたらしい句点のない手紙・・・・・・・・・・・・ 月波与生
 夜歩けば朱き月影たぷたぷと・・・・・・・・・・・・・・赤野四羽
 猿を見て人を見て秋風の中・・・・・・・・・・・・・・きくちきみえ
 目礼を交はしてゆける水の秋・・・・・・・・・・・・・小林すみれ
 紅葉するさくら卵の中の街・・・・・・・・・・・・・・・・・ 福田若之
 秋の薔薇行けばどこまで同じ町・・・・・・・・・・・・・上田信治
 木星に似る喉飴を舐めて秋・・・・・・・・・・・・・・・三島ちとせ
 色町の音流れゆく秋の川・・・・・・・・・・・・・・・・・・生駒大祐
 サングラス誰そ彼の世に紛れたる・・・・・・・・・・・中塚健太
 秋雨やふるえるわかめとコンドーム・・・・・・・・・・・・榊陽子
 菊を見て菊のひかりを見て菊を・・・・・・・・・・・・・小池康生
 向き合はない道路標識秋の暮・・・・・・・・・・・・・・加藤御影
 酒蔵はピートの香り蔦紅葉・・・・・・・・・・・・・・・・・栗山麻衣
 ネクタイのキリンこぼれて秋の電車・・・・・・・・・・ わだようこ
 小鳥来る解体される給水塔・・・・・・・・・・・・・・・・・倉田有希
 逆光に町のありたる刈田道・・・・・・・・・・・・・・・・・・杉原祐之
 しぐるるや紅き表紙の「遊女考」・・・・・・・・・・・・・利普苑るな
 秋冷をただよう雲の飛行船・・・・・・・・・・・・・・・・・・工藤定治
 菊焚くや綺麗な灰もおのづから・・・・・・・・・・・・ハードエッジ
 団栗のこつんと撥ねる目を醒ます・・・・・・・・・・・・きしゆみこ
 一線に野焼の炎空濁す・・・・・・・・・・・・・・・・・・・前北かおる
 銀匙のくもり訝る秋思かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・片岡義順
 サンダルの斜めに減りし夜の秋・・・・・・・・・・・・・・・・岬光世
 銀杏のにほひたつ道キャンパスへ・・・・・・・・・すずきみのる
 道一つ違えたかしら穴惑・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・桑田佳穂
 山手線は里芋の煮転がし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 岩根彰子
 山羊の匂いの白い毛糸のような性・・・・・・・・・・・ 金原まさ子
 初雁や大曲りして天塩川・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鈴木牛後


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 歌集 『無冠の馬』(KADOKAWA刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
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恋ともちがふ紅葉の岸をともにして・・・飯島晴子
misebaya4ミセバヤ紅葉

      恋ともちがふ紅葉の岸をともにして・・・・・・・・・・・・・・・飯島晴子

今日は「紅葉」を採り上げることにする。
写真①は「みせばや」の紅葉である。ミセバヤは別名を「玉の緒」とも言う。この細かい、丸い葉が薄紅色に紅葉する様子は、あでやかなものである。
「ミセバヤ」については2009/10/06に載せたので参照されたい。

いよいよ11月も終わりになって、いろんな木や草が紅葉の季節を迎える。
写真②は「夏椿」の紅葉である。
natutubaki6夏椿紅葉

ナツツバキというのは「沙羅の木」として梅雨の頃に禅寺などの庭で「落花」を観賞する会が行われる木であるが、もみじの季節には、また美しい紅葉が見られるのである。
緑の季節には落花に儚さを感じ、紅葉の季節には、くれないの葉の散るのを見て、人の世の無常に涙する、という寸法である。
「夏椿」については2009/06/20に載せたので参照されたい。

①と②に、平常は余り見ることの少ない草と木の紅葉を出してみた。
いかがだろうか。
写真③は普通の「カエデモミジ」の紅葉である。
aaookaede01カエデモミジ

「紅葉」は、また「黄葉」「黄落」とも書く。
京都は紅葉の季節は一年中で一番入洛客の多い時期だが、今年は夏が終っても暑い日が多く、11月中に紅葉の盛りが来るかどうか心配されてきたが、
果たして染まり具合は、どうだろうか。

以下、紅葉を詠んだ句を引いて終りたい。

 山門に赫つと日浮ぶ紅葉かな・・・・・・・・飯田蛇笏

 障子しめて四方の紅葉を感じをり・・・・・・・・星野立子

 夜の紅葉沼に燃ゆると湯を落す・・・・・・・・角川源義

 紅葉に来文士は文を以て讃へ・・・・・・・・阿波野青畝

 近づけば紅葉の艶の身に移る・・・・・・・・沢木欣一

 紅葉敷く岩道火伏神のみち・・・・・・・・平畑静塔

 すさまじき真闇となりぬ紅葉山・・・・・・・・鷲谷七菜子

 やや傾ぐイエスの冠も紅葉す・・・・・・・・有馬朗人

 城あれば戦がありぬ蔦紅葉・・・・・・・・有馬朗人

 天辺に蔦行きつけず紅葉せり・・・・・・・・福田甲子雄

 黄葉はげし乏しき銭を費ひをり・・・・・・・・石田波郷

 黄葉樹林に仲間葬りて鴉鳴く・・・・・・・・・金子兜太

 へくそかづらと言はず廃園みな黄葉・・・・・・・・福田蓼汀

 黄落や或る悲しみの受話器置く・・・・・・・・平畑静塔

 黄落の真只中に逢ひえたり・・・・・・・・・小林康治

 黄落や臍美しき観世音・・・・・・・・堀古蝶

 ゆりの木は地を頌め讃へ黄落す・・・・・・・・山田みづえ

 黄落やいつも短きドイツの雨・・・・・・・・大峯あきら



妥協とは黙すことなり冬ざれのピラカンサなる朱痛々し・・・木村草弥
aaoopirakaピラカンサ本命

       妥協とは黙(もだ)すことなり冬ざれの
            ピラカンサなる朱(あけ)痛々し・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

ピラカンサはPyracantha と言うが、誤ってピラカンサスと書かれているものもあり、私も原作はピラカンサスと間違って歌集にも載せたが、
塚本邦雄氏の文章を読んで、間違いに気付き、改作した。
ピラカンサは写真②のように5月はじめ頃、このように白い花をたくさんつける。

FI2618558_2E.jpg

ピラカンサは樹高せいぜい2メートルまでの低木で、枝にはバラのように鋭いトゲがたくさんついている。
写真のように晩秋になると真っ赤な実がびっしりと生るが、野鳥たちの冬の絶好の餌となり、冬中には、すっかり食べ尽くされてしまう。
補足して書いておくと、ピラカンサ=「火+トゲ」を意味するギリシア語からの造語、と言われている。
ピラカンサはバラ科の常緑低木。中国が原産地だが、日本へは明治中期に、フランスから輸入されたという。
高さ1、2メートルで刺のある枝を密生し、葉は革質で厚い。庭木としてよく見られるが、生垣になっている場合が多い。
晩秋に球状の実が黄橙色に色づいて枝上に固まって着く。だんだん赤橙色になり、冬になっても、その色を失わない。
南天なども、そうだが、冬ざれの中の「赤」は冬の一点景とは言え、却って「痛々しい」感じが、私には、するのである。
この歌の一つ前には

  沈黙は諾(うべな)ひしにはあらざるを言ひつのる男の唇(くち)の赤さよ・・・・・・・木村草弥

という歌が載っているので、これと一体のものとして鑑賞してもらえば、ビジネスマンの人などにも、共感してもらえるのではないか。
そういう、生々しい「人事」の歌である。

いま歳時記を開いてみたが、ピラカンサの句は殆ど載っていない。
僅かに、次の一句だけが見つかったが、これも「ピラカンサス」と誤って使われている。

 界隈に言葉多さよピラカンサス・・・・・・・・・・・・森澄雄



干柿の緞帳山に対しけり・・・百合山羽公
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  干柿の緞帳山に対しけり・・・・・・・・・・・・・・・・百合山羽公

「干し柿」「吊るし柿」と言っても、さまざまな柿の形がある。写真②は丸い形の柿である。

FI2618557_2E.jpg

私の方の南山城地方の柿は「鶴の子」柿といって大振りでない砲弾形の柿である。
専門的に作る農家では竹や杭で骨組みを立ち上げ、菰などで周りを囲い、風通しは良くした素通しの「柿屋」というものに柿を吊るさずに、藁で編んだ菰や莚の上に平らに並べて干す。
柿を剥く時に、柿の「蔕」(へた)も取り去る。「古老柿」ころ柿と称している。
冷たい風が吹きすぎるようになると、順調に白い粉のふいた干し柿になるが、気候が暖かいと、よい製品が出来ないという。
自家消費の場合は量が限られているので、納屋の窓の外などに「吊るし柿」にして陽にあてることが多い。
以下、吊るし柿を詠んだ句を引いて終りにしたい。

 吊し柿すだれなしつつ窓を占む・・・・・・・・和知清

 吊し柿作りて老婆いつまで生く・・・・・・・・長井哀耳

 干柿を軒に奥美濃雪を見ず・・・・・・・・塩谷小鵜

 甘柿の粉を吹く風の北となる・・・・・・・・梅田久子

 軒端より起れる恵那や柿を干す・・・・・・・・大橋桜坡子

 干柿や同じ日向に猫がゐて・・・・・・・・榎本虎山

 夜空より外しきたりぬ吊し柿・・・・・・・・八木林之助

 


団栗の己が落葉に埋れけり・・・渡辺水巴
d0056382_20162867クヌギの実

   団栗の己が落葉に埋れけり・・・・・・・・・・・・・・・渡辺水巴

団栗ドングリは、本来は櫟クヌギの実のことを指すが、一般的には落ちる木の実を言うようである。
時には樫の実のように「常緑樹」の実も含められるが、せいぜい譲っても、クヌギと同属の落葉樹、コナラ、ミズナラ、アベマキ、カシワなどまでに留めた方がよいだろう。
掲出写真のように、クヌギの実は丸い。
P1070816-11クヌギ青実
↑ 写真①はクヌギの実の青いものである。実の周りにトゲトゲの萼で包まれている。

写真②は、そのクヌギの新芽である。
ha02クヌギ新芽

雑木林の典型的な木である。昔は、この木でタキギ薪を作った。
今では燃料としての用途はなくなり、コナラなどの木とともに椎茸栽培の「ホダ木」に使われるに過ぎない。
こういう雑木はほぼ十数年のサイクルで伐採され、伐採された株元や落ちたドングリから次の世代が芽を出して、更新して新しい雑木林が出来るという循環になっていたのである。
こういう人の手の加わった人工林を「里山」という。

mizunara582ミズナラ実
↑ 写真③はミズナラの実である。
『和漢三才図会』に「槲(くぬぎ)の木、葉は櫧子(かし)の木に似て、葉深秋に至りて黄ばみ落つ。その実、栗に似て小さく円きゆゑに、俗呼んで団栗と名づく。蔕(へた)に斗ありて、苦渋味悪く食すべからず」とある。
小林一茶の句

     団栗の寝ん寝んころりころりかな

は、その実の可愛らしさを、よくつかんでいる。

konara4コナラ青
↑ 写真④はコナラの青い実である。

いま広葉樹の森が有用でないとかの理由で伐採され、面積が減少しているので、復活させようとドングリ銀行なるものを提唱して団栗を大量に集めて、
森を作る運動がおこなわれている。
針葉樹の森は生物の生きる多様な生態系から見て、単純な森で、多様性のある生態系のためには広葉樹の森が必要であると言われている。
常緑樹である樫(かし)の木も広葉樹であり、常緑か落葉かは問わず、広葉樹には違いはないし、樫の木にもドングリは生るのである。
↓ 写真⑤はマテバシイの葉である。この木からも団栗が採れる。
ha03マテバシイ葉
mi02マテバシイ

以下、団栗を詠んだ句を引いて終りたい。

 団栗を掃きこぼし行く箒かな・・・・・・・・高浜虚子

 雀ゐて露のどんぐりの落ちる落ちる・・・・・・・・橋本多佳子

 団栗に八専霽(は)れや山の道・・・・・・・飯田蛇笏

 樫の実の落ちて駆けよる鶏三羽・・・・・・・・村上鬼城

 団栗を混へし木々ぞ城を隠す・・・・・・・・石田波郷

 孤児の癒え近しどんぐり踏みつぶし・・・・・・・・西東三鬼

 しののめや団栗の音落ちつくす・・・・・・・・中川宋淵

 どんぐりが乗りていやがる病者の手・・・・・・・・秋元不死男

 抽斗にどんぐり転る机はこぶ・・・・・・・・田川飛旅子

 どんぐりの坂をまろべる風の中・・・・・・・・甲田鐘一路

 どんぐりの頭に落ち心かろくなる・・・・・・・・油布五線

 どんぐりの山に声澄む小家族・・・・・・・・福永耕二

 どんぐりの拾へとばかり輝けり・・・・・・・・藤野智寿子



草紅葉ひとのまなざし水に落つ・・・桂信子
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     草紅葉ひとのまなざし水に落つ・・・・・・・・・・・・桂信子

草紅葉クサモミジは野草や低木が初冬になって色鮮やかに色づくことを、こう形容する。特別に「草紅葉」という名の草や木がある訳ではない。
写真①のような鮮やかな場所は、どこにでもあるものではない。オトギリソウ、オカトラノオ、トウダイグサなどは特に美しい。

草紅葉を、古くは「草の錦」と呼んだが、『栞草』には「草木の紅葉を錦にたとへていふなり」とある。
けだし、草紅葉の要約として的確なものである。
そして、その例として

  織り出だす錦とや見ん秋の野にとりどり咲ける花の千種は

という歌を挙げている。霜が降りはじめる晩秋の、冷えびえとした空気を感じさせる季語である。

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秋芳台のように草原と露出した岩石のコントラストが見られる所の草紅葉が趣があって面白い。(写真②③)
この季語は、小さく、地味で目立たない草が紅葉することによって、集団として錦を織り成す様子を表現しているのである。
その結果として、「荒れさびた」感じや「哀れさ」を表すのである。
古来、詩歌にたくさん詠まれてきたが、ここでは明治以降の句を引いておく。

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 猫そこにゐて耳動く草紅葉・・・・・・・・高浜虚子

 くもり日の水あかるさよ草紅葉・・・・・・・・寒川鼠骨

 帰る家あるが淋しき草紅葉・・・・・・・・永井東門居

 草紅葉へくそかつらももみぢせり・・・・・・・・村上鬼城

 大綿を逐うてひとりや草紅葉・・・・・・・・渡辺水巴

 内裏野の名に草紅葉敷けるのみ・・・・・・・・水原秋桜子

 たのしさや草の錦といふ言葉・・・・・・・・星野立子

 草紅葉磐城平へ雲流れ・・・・・・・・大野林火

 絵馬焚いて灰納めたり草紅葉・・・・・・・・吉田冬葉

 白根かなしもみづる草も木もなくて・・・・・・・・村上占魚

 山芋の黄葉慰めなき世なり・・・・・・・・百合山羽公

 鷹の声青天おつる草紅葉・・・・・・・・相馬遷子

 菜洗ひの立ちてよろめく草紅葉・・・・・・・・小野塚鈴

 草もみぢ縹渺としてみるものなし・・・・・・・・杉山岳陽

 酒浴びて死すこの墓の草紅葉・・・・・・・・古館曹人

 吾が影を踏めばつめたし草紅葉・・・・・・・・角川源義

 良寛の辿りし峠草紅葉・・・・・・・・沢木欣一

 屈み寄るほどの照りなり草紅葉・・・・・・・・及川貞

 学童の会釈優しく草紅葉・・・・・・・・杉田久女

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2008年初夏に旅した「能取湖畔のサンゴ草の紅葉」 ← も有名なところなので、ここにリンクに貼っておく。

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴス「木村重信インタヴュー1」・・・木村草弥
木村重信著作集④

──雑文──

  日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴス「木村重信インタヴュー1」2010/05/29


暇にまかせてGoogleで「木村草弥」ネットサーフィンしていたら、こんな記事が載っていた。 
これがリンク → 「木村重信インタヴュー1」2010/05/29
            「木村重信インタヴュー2」2010/05/30」

京都芸術大学で一緒に教師仲間でもあった梅原猛が言っていたことだが、「学会三大おしゃべり」のピカ一が木村重信だ、と。
そんな彼の面目躍如たるのが、このインタヴューである。
とても長いが、美術に関心のある人には面白いと思うので、読んでみてください。
とにかく多弁で博識で、かつ交友関係の広さが判るだろう。

ここで蛇足だが書いておきたい。 敢えて書いておく。
私の名前「木村草弥」で検索すると万を超す記事が名寄せされてくる。これはコンピユータが草弥の名前の載る記事を瞬時に名寄せするからである。
私が「何か」の記事を「誰か」について書いたものも含まれる。その「誰か」のサイトの名寄せでも検索に引っかかるのである。
多くの方々が検索すると、それが引っかかってくる、という仕組みである。 だから私もブログに記事を書く際も「与太な」ことは書けない。
最近、私が注意していることである。
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このインタビューに応じていた兄も亡くなり、うたた感慨ふかいものがある。 ご冥福を祈りたい。



京訛やさしき村の媼らは「おしまひやす」とゆふべの礼す・・・木村草弥
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     京訛やさしき村の媼(おうな)らは
         「おしまひやす」とゆふべの礼(ゐや)す・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、自選歌にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
「媼」(おうな)というのは、男の「翁」に対応する言葉で、「老婆」という意味である。
私の歌の中では、媼とは、私の母も含めた老婆の意味で使っている。
「おしまひやす」とは、夕闇が迫ってきて、道を行き交う時にかける当地の掛け声で、この頃では若い人たちは滅多に使わない言葉だが、
「お仕舞いになさってくださいよ」という、「方言」と言えるが、私は、これを愛でて「京訛やさしき」と表現してみた。
この掛け声は、やはり今の時期──秋か初冬の夕暮にふさわしい、と思う。 
「礼」(ゐや)という見慣れないフリガナが振ってあるが、日本の古語やまとことば、にはこんな呼びかたが存在するのである。
短歌は古くは「和歌」と称したが、「漢語」の固い言葉よりも、「やまとことば」の柔かさを尊びたい。
東北地方の田舎ならば、夕方の挨拶に「お晩です」と言うのを想像してもらえば、よい。

この歌の一連を引いておきたい。抄出である。

    母の世紀・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  この世紀はじまる年に生まれ来て戦(いくさ)も三たび経し我が母は

  田舎もんは田舎が良いといふ母は九十年をこの村に棲(す)む

  鼻眼鏡ずり落ちさうにかけゐつつ母はこくりと日向ぼこする

  筒鳥の遠音きこゆる木の下に九十の母はのど飴舐むる

  ちとばかり大事な客と老い母は乾山の鉢に粽(ちまき)を盛りぬ

  仏壇に供ふる花の絶えたりと母は茶花の露けきを挿す

  しぐれつつ十二月七日明け初めて母九十一、われ六十一

  九十を越えてうれしき誕生日祝の鯛を食みをり母は

  口あけて入歯はづして眠りゐる母は世紀末の夢を見てゐむ

  かさかさと葦の音させ粽食む九十の母の機嫌よき顔

  老い母は言葉しづかに煮わらびの淡煮の青を小鉢に盛りぬ

  到来の葛餅を食む老い母の唇(くち)べの皺の機嫌よきこと
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私の母は西暦1900年の生まれであり、93歳まで生きたから、文字通り二十世紀を生きたことになる。
歌集に収録するときに、この一連の歌の項目名に「母の世紀」と付けた所以である。

掲出の写真は熊本県に伝わる「桧垣の媼」の坐像である。蓮台寺に伝わるという。
「媼」という題なのだが、それにふさわしい写真がないのでWeb上から検索して拝借した。
そのゆかりについて少し長くなるが一筆しておく。

「桧垣」とは平安時代の延喜(901年)から寛和(986年)頃までの女流歌人である。
若い頃は京都や大宰府に住み、貴族と親交を結び、その美貌と文才で名声を得ていたが、藤原純友の乱の後、肥後白川のほとり、蓮台寺付近に辿りつく。
ここにささやかな庵を構えて住んだ。
ある日、時の肥後国司が通りかかり、媼に水を求めたところ、思いがけなくも、むかし都で鳴らした桧垣の老い果てた姿であることに気づく。
桧垣は純友の乱(939年)で家も焼け、一切の財産を失い落ちぶれていたのである。国司は着ていた自分の着物を脱いで桧垣にあたえたという。
その際、桧垣が詠んだのが

 年ふればわが黒髪も白川のみづはくむまで老いにけるかも

という歌である。
この国司こそ『後撰集』の選者で「梨壺の五人」の一人として有名な清原元輔──清少納言の父親であり、時の歌壇の大御所でもあった。
以後、桧垣は国司官邸に出入りし、任期が終って元輔が都に帰るとき、惜別の歌として桧垣は

  白川の底の水ひて塵立たむ時にぞ君を思ひ忘れむ

と詠んでいる。「媼」という字からの連想と言えようか。お許しあれ。
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なお、「能楽」に謡われる桧垣について、「熊本雑学辞典」というサイトに詳しかったのだが、今では削除されたらしい。
なお伝説には、いろいろの説があるらしく、ゆかりの寺の名前なんかも異同があるので、ご了承ください。


あけびの実親指人差指で喰ふ・・・橋本美代子
akebixaアケビ裂けたもの

        あけびの実親指人差指で喰ふ・・・・・・・・橋本美代子

始めに書いておく。この人は「橋本多佳子」の娘であるから、念のため。
「あけび」は漢字では「通草」と書く。
雑木林などに生える落葉の蔓低木である。栽培のものもあるかも知れないが、野生のものであろう。
(草弥・注) この記事をご覧になった友人F氏からメールが来た。
「三つ葉、五つ葉とも栽培して観察していましたが、蔓性植物なので、傍の梅の木などに巻き付き日光を遮るなどが起こり、このままでは梅の木などを枯らす恐れがあると思い駆除しました」とある。
野生では、他の植物たちと「共生」しているのだろうが、人間が管理するようになると、キバを剥くようになるのである。安易に取り込むと大変なことになる。
このことは今「竹林」でも起こっていて人間の管理が行き届かないと大問題になっている。念のため付記する。Fさん有難うございました。

今ではアケビなんて言っても、知る人も少ないし、むかし食べたときは甘くておいしかったが、いまなら食べても美味とは思わないのではなかろうか。
写真①が熟して果皮が裂けた実である。黒い実のまわりの白い果肉を食べる。

アケビは春4月に写真②のように花を咲かせる。

akebi4aアケビの雄花と雌花4月

名前の由来は、裂けた「開け実」が転じてアケビになったと言われている。
果肉は甘くて、山の味覚として賞味されたが、果皮のことは、私は何も知らなかったが、干しアケビや塩漬けにしたりするらしい。
山形地方には春の彼岸の決まり料理として干しアケビを食べる習慣があるらしい。また秋の彼岸には、先祖がアケビの船に乗って来るという言い伝えから仏壇に供え、あとキノコ類を詰めて焼いて食べるという。

akebixcアゲビ若い実

夏に写真③のように緑色の若い実になり、秋になって熟して、果皮は紫色に熟して、果皮が縦に裂けて果肉が見えるようになる。
茎は「木通」モクツウ、果実を「肉袋子」ニクタイシと言うらしい。漢方では生薬として使われるし、蔓は籠などを編み、葉や茎は草木染の染料となる。
俳句にも詠まれているが、カラスなどが食べているのを見て、そこにアケビがあることが判明したりするらしい。
写真④は果皮が裂ける前のアケビの実である。

akebixbアケビ裂ける前

以下、俳句に詠まれる句を引いて終りたい。

 鳥飛んでそこに通草のありにけり・・・・・・・・高浜虚子

 むらさきは霜がながれし通草かな・・・・・・・・渡辺水巴

 主人より烏が知れる通草かな・・・・・・・・前田普羅

 垣通草盗られて僧の悲しめる・・・・・・・・高野素十

 通草食む烏の口の赤さかな・・・・・・・・小山白楢

 夕空の一角かつと通草熟れ・・・・・・・・飯田龍太

 滝へ行く山水迅き通草かな・・・・・・・・山口冬男

 採りたての通草を縁にぢかに置く・・・・・・・・辻田克己

 もらひ来し通草のむらさき雨となる・・・・・・・・横山由

 通草垂れ藤の棚にはあらざりし・・・・・・・・富安風生

 何の故ともなく揺るる通草かな・・・・・・・・清崎敏郎

 あけびの実軽しつぶてとして重し・・・・・・・・金子兜太

 通草熟れ消えんばかりに蔓細し・・・・・・・・橋本鶏二

 山の子に秋のはじまる青通草・・・・・・・・後藤比奈夫

 あけび熟る鳥語に山日明るくて・・・・・・・・福川ゆう子

 通草手に杣の子山の名を知らず・・・・・・・・南部憲吉

 口あけて通草のこぼす国訛・・・・・・・・角川照子

 山姥のさびしと見する通草かな・・・・・・・・川崎展宏

 のぞきたる通草の口や老ごころ・・・・・・・・石田勝彦

 八方に水の落ちゆく通草かな・・・・・・・・大嶽青児

 一つ採りあとみな高き通草かな・・・・・・・・嶋津香雪

 山の神留守のあけびを採りにけり・・・・・・・・浅井紀丈

 あけびなぞとりて遊びて長湯治・・・・・・・・阿久沢きよし


ペン胼胝の指を擦ればそのさきに言葉乞食が坐つてゐるよ・・・木村草弥
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     ペン胼胝(たこ)の指を擦(さす)ればそのさきに
           言葉乞食が坐つてゐるよ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
自選にも採っているのでWebのHPでも、ご覧いただける。

今どきの若い人のペンの持ち方は変な指使いになっているので、ペン胼胝が、指のどの辺に出来るのか、あるいは出来ないのか、私には判らない。
いちばん自然なペンの持ち方をすれば、親指と人差し指でペンをつまんで、中指に添えて握るので、ペン胼胝は中指の第一関節の前あたりに出来るのが普通である。
「事務屋」として人生の大半を過ごした人には、この「ペン胼胝」があるのが普通だろう。
もっとも、この頃では事務処理もコンピュータになったから入力も「キーボード」で、したがって指先を使うことが多い。
以前は手書き伝票などは何枚複写かになっていて、力を入れて書く必要があったから、職業病として「ペン胼胝」は、その人の証明書のようなものであった。
「ペン胼胝」のことを長々と書いたが、私の歌の本題は「言葉乞食」ということにあるのだった。

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文芸表現者の端くれとして長年やってきたが、文芸表現というものは、つまるところ斬新な「言葉」探しに尽きると言えるだろう。
それを、私は「言葉乞食」と言ってみた。言葉探しにうろうろと歩き回る乞食のような存在だということである。
聖書の言葉に「はじめに言葉ありき」というのがある。
これは、キリストの言葉(教え)が、すべてに優先する、というのが厳密な意味ではあるが、この言葉をもじって言えば、文芸表現者にとっては、何よりも「言葉」が大切であって、
いかに表現する言葉を選ぶかに腐心するかに執着するからである。
「言葉」探しは、散文よりも「詩」においては、特に大切である。
なぜなら、詩は短いから、言葉を、より的確に選ばなければならない。

何度も書くので恐縮だが、ポール・ヴァレリーの言葉に

  <散文は歩行であるが、詩はダンスである>

というのがある。この言葉に初めて遇ったのは、まだ20歳くらいの頃、三好達治の文芸講演会があって、彼の口から聞いて、他のことは忘れたが、この言葉だけは、
今も鮮明に記憶の中にあるのだった。
これこそ、散文と詩との違いを過不足なく、的確に言い表したものであろう。
「詩」の用語というのは、それだけ吟味して選び抜く必要があるということである。
私の詩や歌が、果たして、それを勝ち得ているかどうかは心許ないが、その方向に努めているということだけは言えるだろう。
どうしても「日常」に堕してしまいがちなので、日常の「陳腐」な言葉に埋没してしまっては、いけない。
もっとも、日常の陳腐な言葉でも、使い方によっては「詩語」に転化できるということは、ある。
要は、それらの言葉の使い方が「斬新」であるか、どうかが問題になって来るのである。





特別展「光秀と幽斎」─山城郷土資料館・展示・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

      特別展「光秀と幽斎」─山城郷土資料館・展示・・・・・・・・・・・・木村草弥

京都府立山城郷土資料館──「ふるさとミュージアム山城」と今はやりの言い方だが、この特別展「光秀と幽斎」が目下開催中である。
この館の解説ボランティア会員の井芹能一氏から、カタログやチラシなどが贈られてきたので、ご披露しておく。
明智光秀については、来年度のNHK大河ドラマの主人公であり、かつ、その中心人物として撮影にも入っていた沢尻エリカが「麻薬」に手を染めた、と配役を剥奪される騒動になっている。
詳しくは、図版で読み取れると思うので、繰り返さない。
けだし、時宜を得た企画だろう。
私も、かつて短い期間ではあったが、ここの解説ボランティアを務めていたことがあるのである。

展示物の原資料は「京都府立・京都学 歴彩館」「京都大学付属図書館」などに寄託されているものが主となっているようである。
図版の初めのものがカタログ。カラー印刷の豪華なものである。 後の二枚が特別展のチラシの表面と裏面である。
京都府立の施設として、当館の他に、京都府北部にある「丹後郷土資料館」があるが、そこに寄託されている文書も含まれている。

お送りいただいた井芹能一氏に深く感謝する次第である。





                 
ひととせの寒暖雨晴の巡り経て茶の実熟す白露の季に・・・木村草弥
6910252953f3茶の花本命

    ひととせの寒暖雨晴の巡り経て
       茶の実(さね)熟す白露の季に・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


今が茶の花の咲き始めるシーズンである。この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)の巻頭を飾る歌である。
WebのHPでも載せているのでご覧いただける。

私は半生を「茶」と共に過ごしてきたので、これに対する思いいれは尋常なものではない。
だから、第一歌集の題名を「茶の四季」とした所以である。
茶の樹はツバキ科としてサザンカなどと同じ種類の木である。晩秋から初冬にかけて花をつける。お茶の花は主に茶樹の下の方に咲く。
茶の株の上部に花が咲くようだと、その茶園はあまり管理が良いとは言えない。植物の花や実がつく状態とは葉や茎があまり育たない状態である。
お茶は「葉」を収穫する作物だから、花や実は、むしろ好ましくない。一般に「剪定」をすると花つきは良くない。
予めお断りしておく。 歌の中に「白露」というのがあるが、これは二十四節季の一つで、すでに九月七日頃にあった。
この頃に茶の実が熟しはじめる、ということであって、今はもう十一月も下旬で「小雪」の候であるから、茶の花は咲いているが「白露」の季節ではない。誤解なきよう。


otya-m茶の実

写真②は茶の実である。これは昨年の初冬に花が咲いて、一年かけて実になったもので植物の中でも息の長いものである。
掲出の私の歌は、その様子を詠んでいる。
この実を来春に蒔けば発芽して茶の木になる。
こういうのを「実生」(みしょう)というが、他の茶樹の花粉と交雑して雑種になるので、栽培的には「挿し木」で幼木を育てるのが一般的である。
今はやりの言葉で言えば「クローン」である。写真の実の形からすると、実は4個入っている。この実の形が三角形なら実は3個ということになる。
初冬になると、外皮が割れて、中の実が地面に落ちる。
物を作るというのは生産的で、収穫の時期など心が浮き立つものである。
掲出した歌のつづきに以下のような歌がつづいているので引いてみる。

   茶の花・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

 茶畑はしづかに白花昏(く)れゆきていづくゆ鵙の一声鋭し

 酷暑とて茶園に灌(そそ)ぎやる水を飲み干すごとく土は吸ひゆく

 たはやすく茶の花咲くにあらざらめ酷暑凌ぎて金色の蘂(しべ)

 ひととせの寒暖雨晴の巡り経て茶の実(さね)熟す白露の季に

 白露してみどりの萼(がく)に包まるる茶の樹の蕾いまだ固しも

 川霧の盛りあがり来てしとどにぞ茶の樹の葉末濡れそぼちゆく

 初霜を置きたる茶の樹に朝日さす葉蔭に白き花ひかりつつ

先にも書いたように私の半生をかけた「茶」のことでもあり、また第一歌集でもあるので「茶」についての歌は非常に多い。
また季節に合わせて私の「茶」にまつわる歌を採り上げたい。


食むといふ営為はかなし今たべし蜜柑の香りををとめはまとふ・・・木村草弥
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     食(は)むといふ営為はかなし今たべし
         蜜柑の香りををとめはまとふ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


早生みかんのシーズンが終って、本格的な「蜜柑」のおいしい頃となった。
この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、体に食べたばかりの蜜柑の香りを漂わせている少女の姿から
「食むといふ営為はかなし」という想いに至った心境を述べている。
この歌集を上梓して、すぐ親しい友人から、日野草城の句に

 をとめ今たべし蜜柑の香をまとひ

というのがあると言い、これは盗作とまぎらわしく、まずいのではないか、と言われた。
調べてみると歳時記の蜜柑の項に、確かに、この句が載っている。
以前にこの句を私が見て、それが私の頭の中に「フレーズ」として存在して、たまたま、この歌を作った時に浮かびあがってきて、私の歌の中のフレーズとなるに至ったのであろう。
短詩形の場合には、こういうことはあり得ることで、私自身では、仕方のないことだと思っている。
考えてみると、古来、こういうことは多々あったと思われ、自分独自の発想と思っていることが、すでに類型として存在する、ということはあり得ることである。
私の歌の弁明は、このくらいにして「蜜柑」の話題に戻る。

私の子供の頃、近在で栽培している蜜柑というのは秋の間は酸っぱくて、それをムシロなどで囲って寒い冬のさなかになると、
甘みが出てきて、おいしくなる、というような種類のものであった。
今は、皮が薄くて剥きやすく、中の皮も薄くて皮ごと食べられるような品種の蜜柑が多くなった。その代り保存は利かず、じきに腐ったりする。
蜜柑はリンゴなどのように包丁で皮を剥く必要もなく、手で簡単に剥けるので食べやすい果物である。
それに1個あたりの値段も高くなく手ごろである。今では愛媛県、福岡県などの大産地が出てきて和歌山県の有田ミカンなどの影は薄くなった。
しかし和歌山の「新堂」ミカンなどは、多少値は張るが、やはり美味である。

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蜜柑の句を引いて終りにしたい。

 蜜柑山の雨や蜜柑が顔照らす・・・・・・・・西東三鬼

 かの夫人蜜柑むく指の繊(ほそ)かりしが・・・・・・・・安住敦

 闇ふかく蜜柑をひとつ探りえつ・・・・・・・・加藤楸邨

 蜜柑吸ふ目の恍惚をともにせり・・・・・・・・加藤楸邨

 死後も日向たのしむ墓か蜜柑山・・・・・・・・篠田悌二郎

 蜜柑山の中に村あり海もあり・・・・・・・・藤後左右

 蜜柑ちぎり相模の海のあをきにくだる・・・・・・・・川島彷徨子

 蜜柑むいてそれから眩しい灯と思ふ・・・・・・・・原田種茅

 子の嘘のみづみづしさよみかんむく・・・・・・・・赤松憲子

 蜜柑摘み昔は唄をうたひしに・・・・・・・・山口波津女

 蜜柑むくはてこんなことしてゐては・・・・・・・・星野麦丘人

 子をなさずゆくてゆくての蜜柑山・・・・・・・・永島靖子

 蜜柑むくめくるめく思い鎮むまで・・・・・・・・豊口陽子

 蜜柑島夜は漁火もて囲む・・・・・・・・三好曲

 伊予の蜜柑花のかたちに剥きたまへ・・・・・・・・森賀まり

 みかん吸ふ袋かぞえをたのしみて・・・・・・・・小川恭生

 蜜柑捥ぎ海のきららを手で包む・・・・・・・・徳田千鶴子


倖あれと友が掌に置く実むらさき・・・石田あき子
img_629514_26200550_0ムラサキシキブ実

   倖あれと友が掌に置く実むらさき・・・・・・・・・・・・石田あき子

この句に詠まれているのは「ムラサキシキブ」の実のことである。
なお、この句の作者は石田波郷の夫人である。

私の第二歌集『嘉木』(角川書店)にも、秋の花のところに次のような歌がある。

  才媛(さいゑん)になぞらへし木の実ぞ雨ふればむらさきしきぶの紫みだら・・・・・・・・・・・・木村草弥

私宅にもムラサキシキブの小さい株が一つあるが、今年は太い虫(名前不詳だが、揚羽蝶の種類の毛のない毛虫)に、油断していたら、葉がすっかり食べられて、結局、実は一つもつかなかった。
事典を読むと、俗にムラサキシキブと呼ばれているものは正しくは「コムラサキ」というのが多いそうである。白い実のものもあるそうだ。 
ネット上から、下記の文章を載せておく。
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1734450コムラサキシキブ実
↑ コムラサキの実

 ムラサキシキブとコムラサキ
朝から冷たい雨の降る休日は、先日本屋の店先で見つけた毎日新聞社発行の「東京の自然」のページを繰って過ごす一日になりました。 「コムラサキの小さな秋」と題した項には、コムラサキがムラサキシキブと呼ばれることが多く、その名前に混乱があるとあり、千代田区大手町の北の丸公園でも「ムラサキシキブ」と名札を付けられた植物が、コムラサキのようだったと紹介しています。

牧野植物図鑑に「優美な紫色の果実を才媛紫式部の名をかりて美化したものである」
と牧野博士は述べています。 コムラサキは実のつきがが良いことから最近では生け
垣用に多く植えられているようですので、こうした記事を読むと、私達がムラサキシ
キブと称し果実の美しさを愛でているものには意外にコムラサキが多いような気がし
てきました。

   ムラサキシキブ最も早く実を持てど最も早く鳥の食い去る・・・・・・・・・・・・・土屋 文明

以前に発行された「趣味の園芸」11月号(NHK)に「ムラサキシキブとコムラ
サキ」と題して、園芸店でムラサキシキブを買ってきて楽しんでいたらこれは「コ
ムラサキ」だといわれたが、どう違うのかとの問があり答えが載っています。
回答では、園芸店ではコムラサキを通りが良いのでムラサキシキブとして売っている
ようだとの前談から、日本にはムラサキシキブ属(クマツヅラ科)のものには数種が
あり、このうち園芸店では、コムラサキ、ムラサキシキブ、シロシキブ(正確には白
実のコムラサキ)の三種が良く売られていること、そしてわりにコンパクトに仕立て
られて実つきが良く見栄えがするという点でコムラサキに人気があると記してます。
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Callicarpa20japonica20f_20albibacca20m1白式部
 ↑ 「白式部」と呼ばれる白いムラサキシキブ

別の事典には、次のような記載がある。

学名:Callicarpa japonica
 別名:ミムラサキ(実紫),コメゴメ
 花期:夏

 山野に生える落葉低木です。庭などに植えられて「ムラサキシキブ」と呼ばれるのはコムラサキ(小紫)のことが多いと思います。コムラサキに比べて実のつき方がまばらで,素朴な感じです。
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murasakisikibuL3ムラサキシキブ花
 ↑ ムラサキシキブの花。6月頃に咲き始める。花言葉は「聡明」。

俳句にも多く詠まれているので引いておく。

 冷たしや式部の名持つ実のむらさき・・・・・・・・・・・・長谷川かな女

 うち綴り紫式部こぼれける・・・・・・・・・・・・後藤夜半

 渡されし紫式部淋しき実・・・・・・・・・・・・星野立子

 うしろ手に一寸(ちよつと)紫式部の実・・・・・・・・・・・・川崎展宏

 むらさきしきぶかざせば空とまぎれけり・・・・・・・・・・・・草間時彦

 地の冷えの色に出でてや実紫・・・・・・・・・・・・林 翔

 実むらさきいよいよものをいはず暮れ・・・・・・・・・・・・菊池一雄

 眼(まなこ)よりこぼれて紫式部かな・・・・・・・・・・・・鈴木鷹夫

 胸焦がすほどの詩欲し実むらさき・・・・・・・・・・・・小沢克己

 室の津の歌ひ女の哀実むらさき・・・・・・・・・・・・志摩知子

 寺に駕籠寺領にむらさきしきぶかな・・・・・・・・・・・・嶋野国夫

 月光に夜離れはじまる式部の実・・・・・・・・・・・・保坂敏子

 休日は眠るむらさき式部の実・・・・・・・・・・・・津高里永子

 ゆづり合ふ袖摺坂や実むらさき・・・・・・・・・・・・由木まり

 象牙玉小粒かたまり白式部・・・・・・・・・・・・石原栄子



尾池和夫句集『瓢鮎図』・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

      尾池和夫句集『瓢鮎図』・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・角川書店2017/10/25刊・・・・・・・

ご存知のように尾池和夫氏は先年まで京都大学総長を務められた地震学の大家である。→Wikipedia─尾池和夫
京都新聞の一面に「天眼」という大きな囲み記事があるが、そこに月に一回ほど記事を書いておられる地元では有名人である。
私は、いつも面白く、かつ有益に拝見している。
今は京都造形大学の学長をなさっている。内外の地震学会などで多忙だが、私は寡聞にして俳句を趣味としておられることは知らなかった。
科学者で俳人としては、東大学長でもあった有馬朗人が居られる。
この本は角川俳句叢書の「日本の俳人100」という企画で出版されたものである。
先ず尾池氏が俳句の世界で、どういう地位を占めておられるかを書いておく。
京都の俳句結社「氷室」─金久美智子主宰のもとで、副主宰を務めておられたが、昨年一月から主宰のポストにお付きになった。
「氷室」には1993年四月号から作品を発表され、令夫人・尾池葉子さんも同じ結社の俳人である。
この句集は、第一句集『大地』に次ぐ第二句集ということになる。
この句集の題名の「瓢鮎図 ヒョウネンズ」というのは、妙心寺の塔頭・退蔵院が所有する国宝の絵に由来する。
この絵は画僧・如拙の手になるもので、足利義持の命で「瓢箪でなまずを押さえる」という禅の「公案」を描いた、応永22年(1415年)以前の作だという。
「あとがき」の中で、作者は故郷・高知の高校に居るときにあだ名に「なまず」と呼ばれていたこと。「氷室」誌でも2009年以来「瓢鮎抄ひょうでんしょう」の欄を持っているという。
因みに、「鮎」という字はアユを指すのではなくナマズのことである。音読みは「ねん」や「でん」と訓むので、念のため。
漢字の読み方には「漢音」「呉音」「宋音」など、中国から伝来したときの「音」が複数あって、ややこしい。
昔から俗信として「地震は地下でナマズが暴れているから」だと言われているが、作者の意図として、この題名をつけたことと関連があるのは確かだろう。
掲出した画像の「帯文」でも読み取れると思うが、地震学者として作者は以前から2050年南海地震襲来を唱えて、警鐘を発しておられる。

作品を引いてみよう。

     ■山門を今年へ抜けし鐘のこゑ

     ■キムチにはキムチ色して田螺かな

     ■三門に僧の彳む夕立かな

     ■巳遊喜さま龍比古まゐる懸想文

     ■プレートの出会ふ地溝の霞かな

     ■小満や富士はゆたかにマグマ持つ

     ■断層性盆地の底の熱帯夜

     ■菅公の地震の記録を初仕事

     ■君そこに花に埋もれるやうに立て

     ■西行の月あればけふ花の山

     ■鰹船南海トラフ沖にあり

     ■灼熱の鉄路は構造線に沿ひ─バンドン

     ■新たまねぎ総長室へどさと来る

     ■この鰤は氷見とひときは声を張る

     ■のれそれと出自同郷のどけしや

     ■母子草学徒出陣記録展

     ■息災や賀状二人の主治医より

     ■王様に会ふ自家用機春夕べ

     ■おんちやんのうるめぢやないといかんきに

     ■木の実割るチンパンジーを真似て割る

     ■暁闇の桶に浅蜊の騒ぎ立つ

     ■ゲルニカを前に汗拭くこと忘れ

     ■夕凪や海蝕台に星を待ち

     ■初景色火の根一つの富士箱根

     ■花冷や伊豆に単成火山群

     ■万緑や甲骨文にある地震

     ■二億年のチャートを洗ふ夏の潮

     ■地震情報ポケットに鳴り春寒し

     ■春暁やひたすら睨む日本地図

     ■わが道の先へ先へと飛蝗かな

     ■年逝くや水噴き上ぐる銅の鶴

     ■明けぬれば雪まどやかに丸の内

     ■結構と医師のひとこと夏隣

     ■風邪の妻モーツァルトの他不要

     ■蟹行やものの芽を踏む道なれば

     ■鰻筒したたらせ行く沈下橋

     ■研究者のゴリラ顔なる立夏かな

     ■おほざつぱな秤をつかひ茸売る

     ■寒月やハラルマークの串団子

     ■菰巻は津波の高さ浜離宮

多く引き過ぎたかも知れない。さすがに科学者だけあって、目の付け所が独特である。
十数年前に急性心筋梗塞に襲われ、病院に駆け込んで命拾いされたという。その頃の句をいくつか引いた。
ネット上では、その頃の詳細な闘病記が見られるが、さすが科学者でメモ・記録も精細なものである。
京大総長という地位の高い有名人なので、海外出張でも、彼にしか詠めない句が見られ、さすがである。この辺で終わる。


消えかかりし石のプレート石垣に嵌め込みたりな「ロマネ・コンティ」・・・木村草弥
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 ↑ 石垣に囲まれた「ロマネ・コンティ」の畑
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       ■消えかかりし石のプレート石垣に
              嵌め込みたりな「ロマネ・コンティ」・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

        ■グラン・クリュ街道なる葡萄畑の丘
                  「コート・ドール」ゆく、黄金の夕焼け・・・・・・・・木村草弥


これらの歌は  「ロマネ・コンティのワイン畑」という項目に載るものである。
これは2013年初秋に行った「フランスの美しき村─アルザス・ブルゴーニュの旅」の際に作った歌であり、私の第六歌集『『無冠の馬』(KADOKAWA刊)に載る歌である。

グラン・クリュ街道のぶどう畑の丘陵「コート・ドール」をドライブ。
「コート・ドール」とは、ドール=黄金の、丘の意味である。
歌の「クリュ」Cru とは「ぶどう生産地」「ワイン生産地」の意味で、「グラン・クリュ」=grand cru とは「特産地」ということになる。

途中にはワインのシャトー(醸造所)の案内標識が見られる。
移動途中なので 銘酒「ロマネ・コンティ」の畑を見に行く。
「ロマネ・コンティ」は一本数十万円もするものだから、手が出ないので、せめて「ぶどう畑」だけでも見ようというものである。
「ロマネ・コンティ」は年間6000本とか8000本しか瓶詰めしないと言い、それだけ厳選されているので超高価になるのであった。
われわれ以外にも観光バスやタクシーで畑を見にくる人が多いのには、あきれかえるばかりである。タクシーで乗り付けた中国人の数人がいた。
せめてネット上からワイン瓶の画像を出しておく。 ↓

romane1ロマネ・コンティ
DSCF1220_convert_20090223095405ロマネ・コンティ




山茶花は咲く花よりも散つてゐる・・・細見綾子
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     山茶花は咲く花よりも散つてゐる・・・・・・・・・・・・・・・細見綾子

私の家の前栽の生垣の一番西の端にあるサザンカが咲き始めた。4、5日前から咲きはじめたと思ったら、もう一斉に咲いて満開に近い。
サザンカにも遅速はあり、この木は例年一番早い。亡妻などは「あんまり早く咲きすぎる」と文句を言っていた。
というのは今なら菊などの花の彩りもあるからで、冬が深まって周りに花の色がない時に咲いてほしい、という願いである。
サザンカは「山茶花」と書くが字の通りに発音すれば「サンザカ」となるが発音し難いので、いつしかサザンカとなったという。
原産地は日本で、学名を Camellia sasanqua というが、ここでも日本の発音通りの命名になっている。
椿科というけれど椿との違いは、ツバキは花が落ちる時にはボテッと全部一緒に落ちてしまう(このことから斬首刑を連想するのか、武士は椿の花を嫌ったという)が、
サザンカは花びらが一枚一枚づつばらばらに落ちる。
サザンカは長崎の出島のオランダ商館に来ていた医師ツンベルクがヨーロッパに持ち帰り西欧で広まったという。
なお、学名の前半の Camellia は椿のことで17世紀にチェコスロバキアの宣教師 Kamell カメルさんの名に因むという。
サザンカはさまざまに改良され、もともとは5弁の茶の花に似ている花だったが今では色も花弁の枚数も多様である。

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写真には色々のものを載せてみた。
和漢三才図会』には「按ずるに、山茶花、その樹葉花実、海石榴(つばき)と同じくして小さし。その葉、茶の葉のごとく、その実円長、形、梨のごとくにして微毛あり。・・・・・およそ山茶花、冬を盛りとなし、海石榴の花は、春を盛りとなす」とある。
的確な表現である。なおサザンカは正式には「茶梅」と書いて「さざんくわ」と読むのが正しいという。
サザンカは茶に近いものであるから、この説は了解できる。

ここでネット上に載る記事を引いておく。
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サザンカ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

サザンカ

分類
界: 植物界 Plantae
門: 被子植物門 Magnoliophyta
綱: 双子葉植物綱 Magnoliopsida
目: ツバキ目 Theales
科: ツバキ科 Theaceae
属: ツバキ属 Camellia
種: サザンカ C. sasanqua

学名
Camellia sasanqua
和名
サザンカ
英名
Sasanqua

サザンカ(山茶花)は、ツバキ科の常緑広葉樹。秋の終わりから、冬にかけての寒い時期に、花を咲かせる。野生の個体の花の色は部分的に淡い桃色を交えた白であるのに対し、植栽される園芸品種の花の色は赤から白まで様々である。童謡「たきび」(作詞:巽聖歌、作曲:渡辺茂)の歌詞に登場することでもよく知られる。漢字表記の山茶花は中国語でツバキ類一般を指す山茶に由来し、サザンカの名は山茶花の本来の読みである「サンサカ」が訛ったものといわれる。

自生地
日本では野生種は山口県から九州および四国、沖縄である。なお、ツバキ科の植物は熱帯から亜熱帯に自生しており、ツバキ、サザンカ、チャは温帯に適応した珍しい種であり、日本は自生地としては北限である。

品種
園芸品種は花の時期や花形などで3つの群に分けるのが一般的。サザンカ群以外はツバキとの交雑である。

サザンカ群
サザンカ Camellia sasanqua Thunb.

カンツバキ群
カンツバキ (寒椿) は、サザンカとツバキ C. japonica との種間交雑園芸品種群である。

カンツバキ Camellia sasanqua Thunb. ’Shishigashira’(シノニムC. x hiemalis Nakai,C. sasanqua Thunb. var. fujikoana Makino)

ハルサザンカ群
ハルサザンカ Camellia x vernalis (Makino) Makino
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サザンカは古来よく詠まれて来た花で芭蕉一門の連句などにも、よく登場する。
以下、サザンカを詠んだ句を引いておく。

 霜を掃き山茶花を掃く許りかな・・・・・・・・高浜虚子

 無始無終山茶花ただに開落す・・・・・・・・寒川鼠骨

 花まれに白山茶花の月夜かな・・・・・・・・原石鼎

 山茶花やいくさに敗れたる国の・・・・・・・・日野草城

 山茶花のこぼれつぐなり夜も見ゆ・・・・・・・・加藤楸邨

 山茶花の散るにまかせて晴れ渡り・・・・・・・・永井龍男

山茶花のくれなゐひとに訪はれずに・・・・・・・・橋本多佳子

 山茶花の咲きためらへる朝かな・・・・・・・・渡辺桂子

 山茶花の咲く淋しさと気付きたる・・・・・・・・栗原米作

 白山茶花地獄絵のごと蜂群るる・・・・・・・・高木雨路

 山茶花の落花並べば 神遊び・・・・・・・伊丹三樹彦

 さざんくわにあかつき闇のありにけり・・・・・・・久保田万太郎

 さざん花の長き睫毛を蘂といふ・・・・・・・・野沢節子

 不忠不孝の人山茶花の真くれなゐ・・・・・・・・飯島晴子

 山茶花の咲きて病ひの淵に入る・・・・・・・・保坂敏子


へそまがり曲りくねつてどこへゆく抜き差しならぬ杭の位置はも・・・木村草弥
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    へそまがり曲りくねつてどこへゆく
        抜き差しならぬ杭(くひ)の位置はも・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌も具体的な「杭」というのではなく、「抜き差しならぬ杭」という表現で、人生における「ままならぬ」ことどもを「心象」として表現したものとして受け取ってもらえば有難い。
この歌も私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたものである。
自選50首にも採っているので、WebのHPでも、ご覧いただける。
私の歌では単なる「杭」だが、そんな写真はないので南紀・串本の「立杭岩」を掲出しておく。

Web上で「杭」と検索すると、圧倒的に多いのが建設業界のサイトであり、その中でも「中国語」のサイトが多いのが目につく。
こういう「杭」のような単純な加工品では労賃の安い中国の優位が目立ち、売り込みのサイトなのであろうか。

「杭」というものは、例えば牧場などの境界を区切るものとして、また農作業では支柱を立てたりするときの「杭」として必要なものである。
そのような「杭」の置かれた立場として、時として「抜き差しならぬ」という場面が出てくるもので、昔の人も、そのような立場を「抜き差しならぬ」という慣用句として確立したのである。
それは、単なる「杭」の位置を離れて、人生一般についての「譬え」として広く用いられるに到るのである。
私の歌も、そういう類の「隠喩」として捉えていただくと有難い。

今しも建物を支える「地中杭」のことが大問題になっている。私の方でも鉄筋の建物を建てたときに十数本のパイルの杭を打ったことがある。
また、 イタリアのベネチアは湿地帯に出来た街なので泥の中に太い木の杭を無数に打って建物を支えていることは、よく知られている。
このように「杭」というのは重要なものなのである。


死後は火をくぐるべき我が躯にあれば副葬の鏡に映れ冥府の秋・・・木村草弥
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    死後は火をくぐるべき我が躯(み)にあれば
          副葬の鏡に映れ冥府(よみ)の秋・・・・・・・・・・・・・木村草弥


余り明るい、楽しい歌でなくて申訳ないが、この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので自選歌のなかにも収録しているのでWebのHPでもご覧いただける。
一般受けする歌ではないが、心ある人たちからは好評であった。私自身も好きな歌である。

写真①には私の住む近くの木津川市の椿井大塚山古墳出土の「三角縁神獣鏡」を掲げてみた。
我々が死ぬと日本では通常「火葬」いわゆる「荼毘」(だび)に付される。
これはインド伝来の死体の処理方法であるが、ここで「火」というものの「神聖さ」が表れているように思う。

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写真②は「那智の火祭り」であるが、これは神事に関係する「火」の浄らかさの表現である。
これに対する火葬の「火」もまた、人間の肉体処理についての「浄化」の思想の表現である、と言われている。
インドへ行ったことのある人なら、ガンジス川の畔での火葬の光景を目にしたことがあろう。
ここでは「火葬」を巡っても身分差別、貧富による死体の扱い、火の入れ方の違いに直面することになるが、今は、それは置いておこう。
シンボル、イメージの世界では、「骨」は死後も滅びないので復活の象徴とされている。
ローマ・カトリック教会(バチカン)が今なお火葬に反対しているのは、一つにはこのためであり、また原始的な社会の殆どでは、骨に同様な象徴的な意味を認めている。

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写真③はインドのクシーナガルの釈迦の入滅の地の「荼毘塚」と呼ばれるラマバル塔である。
写真④の説明を先にしておくと、ここでは線香、花など参拝のあとがうかがえる。

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お釈迦さまの最期だが、クシーナガルに着いた釈迦は、アーナンダに、こう言う。

さあ、アーナンダよ。私のために、2本並んだサーラ樹(沙羅双樹)の間に、頭を北に向けて床を用意してくれ。アーナンダよ。私は疲れた。横になりたい。

いわゆる「北枕」で横たわるのだが、中村元先生が、インドの或る知識人から聞いたところ、頭を北にして寝るというのは、インドでは今日でも教養ある人の間では行なわれているという。
北枕で右脇を下にして西に向かって臥すというのは、インドでも最上の寝方とされるようである。
釈迦の最期の言葉は

<さあ、修行僧たちよ、お前たちに告げよう。「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させよ」

この言葉には「万物流転」という真理が簡潔に表現されている。仏教のあまたの教義は、この単純な言葉に集約されている、と言っても過言ではないと思う。

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「荼毘」に関連するものとして写真⑤に大阪市浪速区元町1丁目にある「鉄眼禅師荼毘処地」の石碑を掲げておく。
鉄眼は寛永7年(1630年)肥後の生まれ。13歳で出家。明の僧「隠元」の来日に遇い、明暦元年(1655年)その門に入り黄檗宗の熱心な布教者となった。
また「一切経」の完全な開版を志し、喜捨を求めて全国を歴訪し、10年余の苦心の末、延宝6年(1678年)に版木6万枚の完成をみるが、その間、延宝2年の大坂の洪水、天和2年の全国的な飢饉の時など、折角の喜捨を全て、その救済にあてた。天和2年過労のために53歳で没した。
なお「一切経」の版木は本山の宇治の万福寺に収蔵されている。偉い人がいるものだ。

帚木蓬生『受命』・・・木村草弥
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──新・読書ノート・・・・初出Doblog2007/11/17──

     帚木蓬生『受命』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・・・・角川書店2006年6月刊・・・・・・・・・・

今度は、集中的に読んでいる帚木の表題の小説である。
はじめにWebKADOKAWAに載る同社の紹介記事をそのまま転載しておく。
作者へのインタビューも載っている。
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日系ブラジル人医師、津村リカルド民男は、北京の国際学会で平壌産院の許日好(ホ・イルホ)と知り合い、北朝鮮に知識と技術を伝え、指導して欲しいと熱心に勧誘される。返事を保留した津村は、その後、旧友のいる延吉(イェンチー)を訪れる。そこは、中国東北部、豆満江(トマンガン)を境に北朝鮮と隣り合う朝鮮族自治州。旧友の車世奉(チャ・セボン)は脱北者を支援するNGO活動を行っていた。津村は、車世奉にガイドされ、川向こうの国を眺めているうちに、招聘医師として北朝鮮に行く決意を固める。北園舞子は、在日朝鮮人の平山会長が経営するスーパーの庶務課で働いていた。北朝鮮との強いパイプがある会長の目にとまった舞子は、万景峰(マンギョンボン)号に乗船して会長とともに元山(ウオンサン)に向かう。ツアー・コンダクターの寛順(カンスン)は、亡くなった恋人の弟・東源(ドン・ウオン)とともに、中国国境から北朝鮮への潜入を敢行する。三者三様の北朝鮮入国。だが、彼らの運命が交錯するとき、現代史を塗り替える事件が勃発する。国際サスペンス書き下ろし1000枚。
1947年、福岡県生まれ。東大仏文卒後、TBS勤務の後、九大医学部卒。現在、精神科医。93年「三たびの海峡」で吉川英治文学新人賞、95年「閉鎖病棟」で山本周五郎賞、97年「逃亡」で柴田錬三郎賞受賞。他に「受精」「国銅」「薔薇窓」「エンブリオ」「千日紅の恋人」などがある。

●日曜作家の平日
─このたび、新刊『受命』が刊行されました。昨年八月に『千日紅の恋人』を出されてから十カ月。平日は夕方まで精神科医としてのお仕事もありますし、また、一千枚強の枚数を考慮しますと、非常に速いペースではないかと思いますが、いかがでしょうか。
帚木 いえいえ。だいたい年に一作ですからね。枚数も一日四枚程度。例年一千枚ぐらいは書きますから、普通のペースではないでしょうか。

─ 一日の生活のリズムは、どんな感じでしょうか。
帚木 四時に起床して五時まで執筆して、その後、お風呂に入ったり、朝食をとったり、ジョギングしたりして、それから出勤するまでに、また一時間くらい執筆することが多いです。二時間ありますから、四枚は書けますね。

─クリニックを退勤した後、夕方から夜にかけてはいかがですか。
帚木 クリニックは五時に終わりますから、帰宅して夕食をとり、執筆はせいぜい一時間くらいです。疲れているときは、三十分くらいで、八時には寝るようにしています。本職はやっぱり精神科医ですから、まあ、日曜作家のように書いているというところでしょうか。

─この作品の構想から脱稿までは、どんな流れだったのでしょうか。
帚木 九二年に『三たびの海峡』で朝鮮半島のことを書いていましたし、いつかまた書かなければいけないという気持ちは、以前からありました。ただ、北朝鮮の傍若無人というか、言語道断で理不尽な国をきちんと取り上げる必要があるなという気持ちを持ったのは、もっと後のことでしたが。五年くらい前から資料集めを始めて、これなら行けるという感触があったのが三年くらい前でしょうか。また、『受命』は角川書店から刊行された『受精』のシリーズ作品ですから、シリーズとしての制約もあります。それと組み合わせてできるようになったのが二年前くらいです。執筆には、去年丸々一年間かけました。

●北朝鮮の取材旅行
─平壌の街の様子や田舎の自然描写など、読みながら眼前に映像が浮かんでくるようでしたが、北朝鮮に取材旅行はされたのでしょうか。
帚木 昨年、執筆している間は行けなかったのですが、北朝鮮には、この四年の間に三度行っています。もちろん作品に出てきたところ全部は歩けなかったですけど、平壌、元山、開城と見て回りましたので、行けなかったところも、だいたいこんな感じかなというイメージをつかむことはできました。

─北朝鮮には、どのようにして入られたのですか。
帚木 旅行会社のツアーに普通に申し込んで、北京から飛行機で入りました。その旅行会社に応募すれば、犯罪とか怪しい組織に加わってなければ行けるんじゃないんでしょうか(笑)。何も問題はなかったですから。しかし『受命』刊行後は、要注意人物となって入国できないでしょう。

─北朝鮮ツアーの印象はいかがでしたか。
帚木 一言で言うと、お仕着せの旅行ですね。観光バスに乗って、主体思想塔や革命博物館などお決まりの見せなければならないコースを回らせられるという感じです。街には看板が一切ないし、スケジュールが途中で変更されます。ツアーで実際に回るコースを最後まで観光客に知らせないというのも向こうの手ですね。そのため、こちらはずっとついていくしかない。写真を撮るのもダメです。ツアーガイドがどこへでも必ずついてきて、単独行動はできないですね。このあたりのことは『受命』に書いてある通りです。

●変化する日朝関係
─『受精』の刊行が一九九八年になります。それから八年の間、日朝関係が随分変わりましたが。
帚木 そうですよね。八年前は北朝鮮のことは、それほど頭にはなかったです。拉致が判明したのが四年前ですが、やっぱりあのあたりからですね。これはとんでもない国だということが分かってきた。そのうえ核査察も拒絶していた。さらに、だんだん脱北者が増えてきて、あの国が見え出してきたということもありますね。それでこれはもう放っておけない、これを題材にしなくては、作家としていけないんじゃないかという気がしました。それは前に『三たびの海峡』を書いているからではなくて、世界にとって北朝鮮の現状は最も憂慮すべき問題ですから。これが本当の意味での動機です。ただ、角川書店での発行ですし、前作『受精』との結びつきは、課題としてどこか頭の隅にはありました。ようやく結びつくと思ったのが二、三年前ですね。取材もそれで本格化してきました。

─拉致問題が明るみに出たのが二〇〇二年九月。このとき、小泉首相が訪朝し、北朝鮮の指導者が正式に認め、謝罪したわけですが。
帚木 そうですね。でも、拉致問題は昔から囁かれてはいましたよね。それを日本政府は否定してきた。被害者の家族たちの訴えはずっとあったのです。これは日本の暗部でもあるのです。この問題が出てはっきりしたことは、北朝鮮という国は、絶対に見過ごしてはいけない国だということです。ところが、韓国は北朝鮮のほうを見ないようにして生活していますし、中国は北朝鮮に存在してほしいという腹があります。それから、米国も強硬な態度を見せてはいますが、この地球上から北朝鮮がなくなっては困るというところもあるのではないでしょうか。そのへんの力学みたいなものも、小説の中でちゃんと整理したいという気持ちがありました。

─ここへきて、韓国政府もようやく動き出した様子です。横田めぐみさんの夫が韓国人拉致被害者かどうか、DNA鑑定を行い、きわめて可能性が高いと認めました。
帚木 韓国の拉致被害者は、五百人はいるといわれていますが、それがやっぱりうやむやにされてきました。いうなれば北朝鮮というライオンを前にして立ちすくんでいるネズミかなにかの状態が、韓国ではないでしょうか。強いことが言えないですしね。金大中前大統領の「太陽政策」もその表れで、聞こえはいいですが、要するにご機嫌取りだったということではないでしょうか。

●多角度からの視点
─さて、作品の内容にふれていただきますが、北京での国際医学会で津村が北朝鮮の平壌産院にスカウトされる冒頭のシーンに続いて、津村が延吉に赴きます。
帚木 北朝鮮と国境を接している中国のあのあたりは、延辺朝鮮族自治州といって六市二県から成っています。

─中国の東北部に日本の九州より大きな朝鮮族自治州があること自体、驚きでした。
帚木 中国には朝鮮族が二百万人いますが、そのうち半数近くがこの地域に集中しています。昔は国境もなかったに等しいわけで、脱北者が出始めて監視が厳しくなるまでは、自由に行き来していたのではないでしょうか。今はもう寸断されている形ですが。

─実際にご覧になられたのですか。
帚木 延吉には一度行きました。国を隔てる川の幅が狭いから、向こう側の建物も見えるぐらいです。

─作中でも津村が川の向こうにある北朝鮮を眺める場面がありました。
帚木 表向き、張りぼてを並べて、本当に劇場国家みたいです。ショーウィンドウだけを見てるという印象でした。

─津村は延吉に赴いて、脱北者を支援するNGO活動を行っている車世奉に案内されるのですが、この車世奉という人物は中国に対してものすごく批判的ですね。
帚木 作中にも書いてますが、中国と北朝鮮を隔てるあの壁さえなくせば、北朝鮮は間違いなく崩壊します。自由にあそこから出入りができるようになれば、かつての東欧がそうであったように、どんどんそこから人々が流出しますからね。ところが、中国はそうさせない。そして、難民を難民として認めていない。まったくとんでもない話ですが、そんな国が国連の安全保障理事会の常任理事国をやっているのです。それから、今年、北朝鮮の指導者が特別列車に乗って広東あたりまで行ったのを、中国は手厚くもてなしている。旧正月前の民衆が最も忙しい時期に、極悪非道の指導者をあんなふうに手厚くもてなすなんて、もう本当に狂気の沙汰だと思います。それぐらい、中国としては北朝鮮に、現体制のまま存続してほしいということではないでしょうか。

─脱北者を北朝鮮に引き渡す、その一点に中国の本質があると車世奉に言わせています。とても印象に残りました。
帚木 絶対にそうです。この一点をもって推して知るべしです。やっぱり真実というのは、そんなに複雑なことではない。一つのことが分かれば、あとは全体が見えてくるのではないでしょうか。韓国の立場もそうだし、中国の立場もそうだし、アメリカの立場もそうです。たとえば、北朝鮮がなくなれば、日本も韓国も脅威を感じなくなり、アメリカ軍は不要になってしまう。そうさせたくないのがアメリカの立場ではないでしょうか。そういう意味では、この小説を執筆しながら配慮したのは、いろんな視点から北朝鮮を見つめるということでした。一つは、今お話に出た車世奉。これは中国側からの視点。また東源と寛順は韓国側からの視点。朝鮮総連に尽くした平山会長は在日朝鮮人としての視点です。ブラジル国籍を持つ主人公の津村は、より第三者的な目で北朝鮮を観察しますし、平凡な日本人女性の舞子もそうです。

●地に落ちた理想主義
─北朝鮮の外部からもそうですが、内部からも観察者の目が光っていました。たとえば姜将軍は、生き証人のようにこの国の歴史を見続けてきました。
帚木 姜将軍は七十代で、やっぱり建国時の朝鮮のよさを知っている世代ですからね。新しい国が戦いの後に生まれるという期待を抱いて、エリートの軍人になっていったはずですけど、途中で変質してしまった。当初の理念はこんなふうではなかったという思いは強い。そして、だんだん世代を重ねるにつれて貧しくなってゆくのを感じ出した世代ですね。そのうえ知性もあるし、理性もあったから、このままではいけないということは、肌で感じていたはずです。

─建国時の朝鮮のよさという言葉が出てきましたが、作中では先代の指導者が政権の座に就いたときから、民衆を欺く虚偽があったと書かれておりましたが。
帚木 たしかにそうですが、そのこと自体はみんな最初は知らない。それに先代の指導者には、やはり初代なりの理想主義があったのではないでしょうかね。やっぱり初代ですから物笑いにはされたくない。そう思って必死にやってきた面はあるのではないでしょうか。ところが、二代目になると、それがもう上辺だけの、劇場だけの、少数生き残りの政策に、まさしく変質してしまったということですよね。

─食料の配給を止めたというのが象徴的です。
帚木 九〇年代に入った頃から、配給が止まり出したのではないでしょうか。二代目は現実的には八〇年代に実権を握っていましたから。もちろんそういう情報は父親には隠蔽していた。やはりこうなってしまったのは、失政が原因でしょうね。農業政策を後回しにして、工業一辺倒になりましたし、上辺の数字だけを合わせればいいような政策ですからね。配給をストップして自給しろと言われても工場の機械を売るしかない。売れば工場では何もできないですしね。

─北朝鮮に潜入した東源と寛順を誘導する康春花は、身分の低い一庶民の視点から北朝鮮の国情をつぶさに語っていますね。
帚木 生理用品もない、口紅もない、化粧品はイワシの臭いがするとかですね。女性が美しくありたいのに、スカーフもろくに手に入らない。靴だって。

─こんなのは国じゃないと、康春花に言わせています。
帚木 そのように多角的に、外側からも内側からも見て、やっぱり辻褄が合ってしまうということですね。その辻褄というのは、非道なことが行われている国だということです。それも一人の指導者によって。一般国民は自由を奪われ、何もできないようにされている国。これを書かずにはおられないですよ。やっぱり作家として。

─ともすると敬遠してしまいがちなテーマですが、まさに帚木さんならではのお仕事と感じました。
帚木 まあ、そんなことはないですが。ただ、家族とか恋愛とか、そういうものも大切ですが、私にとっては、このテーマを放置して、他のテーマというのはないですね。アメリカ人の作家には書けないし、ましてや韓国人の作家には書けない。また中国人の作家にもそこまでの資料調べはできないでしょうしね。そういう意味では日本人の作家が一番いい位置にありますしね。

●日本と韓国のヒロイン
─ところで、前作『受精』に登場したヒロイン、舞子と寛順が『受命』でも再登場します。彼女たちは恋人を失った後、ブラジルのサルバドールの病院に行って、非常に辛い思いをして帰国するという共通の過去を背負っています。舞子は、その後、在日朝鮮人の平山会長が経営するスーパーチェーン店の庶務課で働き、たまたま路上でうずくまっている会長を救護したことが縁で、万景峰号に乗船することになります。『受精』からの読者には待ちに待った舞子の登場という感がありますが。
帚木 私はいつも続編を書くときは、数年の間隔を経て書くわけですけど、前作の登場人物にまた会えたなという嬉しさはありますね。続編ですから、たしかに制約はありますけど。ただ、登場人物が、生きてたんだね、懐かしいねという感じで筆が進んでいく続編のよさというものを感じます。

─舞子は会長から一緒に北朝鮮に行かないかと誘われますが、一旦は迷います。彼女の背中を押したのは何だったのでしょうか。
帚木 やはり津村が平壌の病院にいるというのが大きかったですね。津村は『受精』でも助けてくれた恩人だし、恋人を失った傷はそう簡単には癒えないわけで、それがようやく四、五年経過して癒えてきて、二人が互いに接近してゆく素地が揃ってきたということでしょうね。

─寛順の場合は、いかがですか。
帚木 亡くなった恋人の弟が北朝鮮に潜入すると聞いて、寛順としては心が動かないわけはなかったでしょうね。恋人の面影を残してますし、自分の弟のように思って面倒を見てやりたいという気持ちがあった。東源と寛順は、いわば東振(東源の兄)という太い絆で結ばれています。

─今後、津村と舞子、寛順と東源の関係がどう進展していくか非常に興味深いです。
帚木 そうですね。ですが、今は全力投球を終えたところで、その先を思いやる元気はありません(笑)。また数年すると、力が湧いてくるかもしれません。
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私の下手な要約や解説よりも、作者じきじきの、この文章の方が、はるかに判りやすい。
ただ、この紹介記事には、読者に「結末」をさらけ出すことは避けているので、結末は判らない。
少しだけ書いておくと「将軍様」一家はボツリヌス菌を醤油に入れられて絶命する。
このプロットが、現実には、今後どう展開するか。小説と現実の政治の世界とは違うから誰にもわからないと思う。小説だから、サブの登場人物は、みな死んでしまった。
これが創作という「虚構」のいいところである。
ほぼ一日かけて読了したが、いつもながらお見事な文章力とプロットである。
ぜひ、ご一読を。


帚木蓬生『臓器農場』 ・・・木村草弥
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──新・読書ノート──初出・Doblog2007/11/16

     帚木蓬生『臓器農場』 ・・・・・・・・・・・・木村草弥
            ・・・・・・・・新潮文庫(初版1993年)・・・・・・・・・・

先日来、この著者の本を集中的に読んでいるので、今回は、これを採り上げる。
著者は、東大仏文科からTBS勤務ののち、九大医学部に転身し、精神科の医者のかたわら、医療を通して現代に生きるということを問う一連の小説を執筆している。
『臓器農場』は、九州のとある総合病院を舞台とした、臓器移植をめぐっての医者や看護婦、患者の葛藤を描き、医療の暗部を剔りだしたサスペンス小説である。無脳症の胎児から臓器を移植し、難病の子どもたちを救う。誰もが反論できないような人助けの医療行為。しかし、そこでは無脳症の胎児の「いのち」はまったく顧みられることはなかった。 この小説が書かれたのち、脳死は人の死という法案が国会を通過した。
私たちにとって親密な人の死を、国家によって、あるいは専門家によって一方的に線引きされることに、多くの人は違和感を覚えるだろう。この小説は、医学の専門家である著者の知見を生かしながら、人を救う努力が人を排除することにつながる現代の医療のアポリアを見事に描いている。

ここでネット上に載る或る読後記事を引いておく。
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主人公規子が、初めて勤めだした病院では、子供への臓器移植が盛んな病院。
その臓器が、どうしてこの病院に沢山集まってくるのか。
一方で、病院近くのレストランで、無脳症児を出産しようとしている女の声を聞く。
無脳症児、読んで字のごとく、先天的に脳を持たないという障害を持ち、出生後100%死ぬ運命。そんな子供を産もうとしている事と、臓器移植の臓器提供元に疑問を持った規子は、同僚の看護婦と、親しくなった医師と共に、調べ始める。
サスペンス長編と、裏表紙には書いているが、サスペンスな部分よりも、人として何処までいのちというものを、扱っていいのか。生きていないと、生きられないの差は何なのか。
考えても答えはあるのか。色々考えてしまう作品。
***
めちゃめちゃ簡単に説明すると、その病院では、胎児を無脳症児にする方法を発見したんで、無脳症児を産んでもいいっていう女の人を探してきては、妊娠させて、その無脳症児を買い取っていたんよね。でもって各臓器を、移植する家族に、寄付金という形で高値で売りつけ、儲けてたわけだ。
その真相を知った、同僚の看護婦と、親しくなった医師は、事故や自殺に見せかけて殺されてしまう。警察もどうもぐるになっているらしい中、規子は殺されそうになりながらも、真実を暴いていく。
結局最後には、2人の死を怪しんでいた刑事によって、めでたしめでたし。
(かなり簡単しすぎかも。だってこれ文庫本600ページ。厚さにして15ミリほどのかなりの長編。)
***
この臓器農場に関わっていた人の中で、ただ金儲けのための経営者たち、自分の研究のためだけの医師、純粋に子供のいのちを1つでも助けたいという気持ちの看護婦が出てくる。
(間島)看護婦は言う。
「無脳症児は神様の贈り物。それによって先天性の奇形を持った赤ん坊が全部救われる。」
赤ん坊だけではなく、無脳症児を身ごもった母親も、無意味な妊娠いやそれよりも天罰の妊娠(と、妊婦が思いこむ)から、重要な妊娠へとなり、救われることになる、という意志の元、臓器農場に取り組む。
ただ規子は、無脳症児を人工的に作り出すことや、それで私腹を肥やしていたことにではなく、無脳症児の臓器を移植に使うこと自体に疑問を抱く。脳死からの臓器移植だと本人の意思によって行われるが、無脳症児の場合本人の意思は無視される。いや無視しようにも最初から意志なんて存在しない。
もし私が、先天性の奇形を持った赤ん坊の母親、無脳症児を身ごもった母親、双方どちらの立場になったとしても、きっと疑問を持たずに移植を進めるだろう。もし持ったとしても、その後にあるいのちを取るに違いない。
上の看護婦の台詞に規子は言う。
「頭が無くても、心臓や手足が動いていれば、そこにいのちが宿っている気がします。いのちは脳にあるのではなく、全体にあるのです。考えることや感じることはできなくても、いのちはあります。」
じゃあ、いのちはいつから存在するのだろう。胎児にももちろん動く手足がある。でも、無脳症児の場合、無脳症と分かった時点で、人工流産させる。人工流産は許されて、臓器移植が許されないのは何故なのか。どちらもいのちを1つ消すということに、代わりはない。
本の最初の方で、臓器移植をしてまで生きたくない、と言った母親にある医師が反論する。
「あなたのお子さんがそうだったらどうしますか?」
「人間を冒涜するとか、天命に逆らう行為だとか言って非難する人は、自分がその渦中に身を置いていないからだ」と。
この台詞にさらに反論することは、私には、どうしてもできない。
***
えらい堅くなってしまったよう。うーん、でもこれは簡単に話をまとめられる内容じゃない。多分、読む人の立場や、生き方によって、どれが正しいのか別れる、もしくは、考えるほどに分かんなくなる小説。読み終わってから思ったことは
「ブラックジャックなら、どうするだろう?」だった。(笑)
「ふたり死ぬのがひとりになった。文句があるか?」
と一喝して去っていきそうなんやけど。どう思います?
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1995年10月に米国から、次いで同年12月には日本の厚生省から、女性が妊娠中にビタミンAを過剰に摂取すると「奇形児」を産むリスクが高くなるという警告が発表された。さかのぼって1980年代半ばには、やはり米国で、皮膚病治療の目的でビタミンAを大量に服用した婦人から「無脳症児」が生れて大きな社会問題になったという。ビタミンAは生命活動に必須の物質であるが、妊娠初期に大量に摂取すると胎児に奇形が誘発されるという事実は動物実験によって確認されている。ビタミンAは、生体にとって正に「両刃の剣」と言えるのである。
この小説は、この科学的事実をプロットとして取り込み、医学の今日的課題である臓器移植と巧みにリンクさせた。おまけに、この作品では「無脳症児」を人工的に妊娠中に作りだし、出産させ、病院の「隠し施設」で、移植可能時期まで「飼育」するというプロットを描き出してみせる。これが、この作品の一番の迫真部分である。
これが「犯罪」として小説の大きな筋書きとなるのだが、レシピエント(被移植患者)の家族から1500万円とか2000万円とかの大金が秘密裏に徴収され、そのうち三分の二くらいが「無脳症児」を分娩した女の家族に支払われる、という空恐ろしいことが描かれる。

「脳死」ないしは「脳死患者からの臓器摘出」にも異論を唱える人が居るが、私は、それには異議はない。
意識を失い、呼吸が停止すれば心臓もやがて止まる。それが「死」だった。
「脳死」という概念が出てくるのは「人工呼吸器」という過剰な「生命維持装置」が発明されてからのことなのである。生きている人の治療に「人工心肺」装置が操作されるのには誰も異論はなかろうが、もはや打つ手がない時期にさしかかってもなお、生命維持装置の作動が必要かどうか。いわゆる「尊厳死」の問題である。
私の母は93歳で亡くなったが、生前、その問題に触れて過剰な「生命維持」は不要という意思表示をしていたので、意識不明に陥ったとき私も妻も、医師と相談して過剰な処置はとらなかった。私の妻も死ぬときはあっけなかったが、常日頃、意識や呼吸のなくなったときの「人工呼吸器」などの処置は不要と言っていた。医師にも、それは伝えられていた。
お釈迦様は飢えた虎に自らの肉体を差し出して食べさせる、というエピソードがある(これを捨身と言う)ように、霊魂と肉体とを緊密不可分のものと考える意見を私は採っていないが、人工的に、しかも金銭的に、しかもそれによって利益を得て「命」を操作することには反対である。
主人公の看護婦・規子の言うように、無脳症児にも「命」はあるのである。
この小説も、いろいろ考えさせるが、ぜひ一読をお勧めする一冊である。
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      帚木蓬生『三たびの海峡』・・・・・・・・・・・木村草弥

この小説にひきつづいて私は同じ著者の『三たびの海峡』(新潮文庫・初版平成4年刊)を読んだ。
これは第二次世界大戦末期に日本体制側が朝鮮半島から人々を労働者として「徴用」してきて、過酷な労働やリンチによって死なせたことを生々しく描いたものである。
作者の筆致は誠実なもので、今の韓日関係を想起して、私は感銘を受けた。
これこそ「日韓史」の深部を誠実に描くものと言える。
なお、この本は平成5年に「吉川英治文学新人賞」を得ている。
「あらすじ」を辿るためにネット上から記事を引いておく。
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■ 内 容
一代で財を成し、釜山のスーパーマーケット・チェーンの会長となっていた河時根(ハー・シグン)は、昔の仲間で今も日本にいる徐鎮徹(ソ・ジンチョル)から山本三次がN市の市長になっており、再選のための公約として、いまだ手付かずのボタ山を取り払い商工業地に変えようとしているとの手紙をもらった。河時根は三たび海峡を渡る決意をする。1度目は病弱の父に代わり、山本三次に連行された強制労働者として、2度目は祖国解放後、父母の待つ故郷を目指して、そして3度目は・・・。長年、音信不通にしていた日本人妻との間に出来た息子・時郎との再会も目的の一つであったが、彼は他にも、大きな決意を抱いて海峡を渡る。海峡をフェリーで渡る彼の心に、50年前に地獄のような苦しみを味わいながら海峡を渡った日の想いが蘇る・・・。

■ 人間の本質について考えさせられる
河時根や同胞たちが落とされた境遇はあまりにも悲惨です。これはフィクションですが、同じ様な事が行われていただろう事は推察出来ます。
人間はこうも残酷になれるのか・・・現代の河時根は、「彼らも戦争と言う非常時が作り出した被害者だ。」との考えに至るのですが、そんな小心翼々たる小市民ばかりでない事は、河時根はちゃんと知っているのです。彼の恨みがそうでない者たちに向けられるのは当然です。
この事からは人間の本質ついて考えさせられます。
非常時だからこそ、人それぞれの本質が露呈するのでしょう。同じ境遇にいても、人間性を失う者と失わない者、屈しない強さを持つ者と屈してしまう者。この作品の中にも、その両者が描かれています。それは朝鮮人日本人に拘りません。民族の違いなど関係なく、人間の本質の違いなのだと作者は言いたかったのでは、と思います。

■ 執筆動機は
しかし、この作品を著者に書かせた一番の動機は、過去の日本の行状に対する現代の私たちの無理解、無関心に対する憤りだったのではないでしょうか。
私自身、強制連行問題、従軍慰安婦問題など、TV・新聞などで見聞きして、朝鮮の方たちに同情もし、当時の日本の悪辣さや今の政府の反応の悪さに怒りを覚えたりもしていましたが、朝鮮の方たちの怒りを実感として感じてはいなかったと思います。過去の国の過ち・・・と、どこか傍観し、知識として知っているだけという感じでした。しかし、当事者の方たちには今もなお続いている・・・いえ、死んでも忘れられない屈辱の体験で、怒り覚めやらぬのも無理のない事。また、政府を始めとした私たち戦後の日本人の問題に対する鈍感さに、その怒りは更に強くなったのではないかと感じました。

■ 結末について

<以下は重要な内容に触れています。構わない方のみ下の*をクリックしてお読みください。>
<*>

一度として侵略された事の無い国・日本に住み、また、民族問題に直面した事も無いから言えるのだ、と思いますし、だから説得力が無いのはわかっていますが・・・。
今起こっている民族紛争は、見え隠れしながらも昔から脈々と続いている恨みの連鎖の結果だと思います。報復が報復を呼び、果てしなく殺し合い、傷付け合っているように見えます。その悪しき連鎖を断ち切り、理性を持って事に当たらなければ、民族紛争は永遠に続くように思えます。

ですから、河時根には殺人と言う手段でだけは決着をつけてほしくありませんでした。
自分の所業に苦しみもせず、悔いてもいない者には、それなりの末路が用意されています。勧善懲悪的な結末ですが、納得は行きます。寧ろ、罰が与えられなければ、読んでいる方もスッキリしませんし、彼らの所業はそれに値するものだと思います。同胞でありながら彼らに最も残酷な仕打ちをし、祖国に対する愛着も誇りも持たない康元範(カン・ウォンボム)が、全く心の痛みも無く、いまだに山本とツルみ、甘い汁を吸いながら大きな顔をしているのですから、報いを受けるのは当然でしょう。殺す以外には晴らせないと思うほどに深く恨みを抱くのも無理のない事だとも思います。そして、河時根の決着の付け方を潔い、見事だ、と<他の小説だったら>感じると思います。
しかし、同胞同士とは言え、民族問題の絡む作品の主人公に暴力的な報復をさせるのは、どうでしょう。あれだけの恨みなら仕方が無い? 殺人と気付かれないから、自らも死ぬのだから良い? 他の作品ではご自分の理想に忠実な作者が、あの結末を書いたのは何故だろうかと不思議に感じます。心情を重視したという事なのでしょうか。河時根の心情は非常に良くわかりはするのですが・・・。

日本人の身でこの作品を書くには大変な勇気が要ったと思います。国のため、天皇のための美名の下、日本がどんな卑劣で残忍な事をして来たかを、日本人として反芻するのは辛い事です。また、このような内容を日本人が書く事に対する朝鮮の方たちの反応も気になったのではないでしょうか。しかし、日本人によって書かれた事がこの作品の重みを一層増していると思います。
(2004.7.28)
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      帚木蓬生『受精』・・・・・・・・・・・・木村草弥

ひきつづいて『受精』(角川文庫4版・初版1998年刊)を読んだ。
ここで、ストーリーを辿るために、ネット上に載る記事を引いておく。
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「受精」 帚木蓬生
 2001.9.25 角川文庫 1998.6単行本初版「受精-Conception」

 文庫本で723Pと分厚い本。

 読み始めて50Pほど進んだところで、あれっ、と気づいた。登場人物の名前をどこかで見たような。そうだ、昨年読んだ「受命ーCalling」と同じではないのか。そうか、この本は、「受命」の前編となる本だったんだ、と。

 舞子と寛順、2人がそろったところで気づき、あとで、DR.ツムラが登場して確信した。

 読んでいるうちに、何か引っかかるものがあり、212Pあたりで確信に変わった。

 舞子は、愛する明生を結婚を決めた矢先に交通事故で失う。自ら死を決意して、昔、明生といったあるお寺を訪れる。そこで、外人の僧に声をかけられ、不思議な体験(明生と出会う)をする。そして、明生の子供を産めると言われ、ブラジルへと旅立つ。

 ソウルで合流した寛順も、結婚前日に、東振がこれも交通事故で死亡、お寺で僧に声をかけられ、東振の子を産むため、ブラジルへと向かう途中だった。

 ブラジルの病院であったユゲットも、フランスの協会で同じような経験をし、ブラジルに来ていた。

 3人とも、お寺や教会に、以前に恋人と訪れている。そして、病院には、彼女たちの食べ物の好みから、家族構成まで、あらゆるデータが揃っているという。

 あまりにも共通したシチュエイション、何か仕組まれているのではないか?本はあと500Pもある。陰謀の匂いがしてくる。

 病院で、同じように入院していた女性バーバラが殺害される。たまたま、舞子と寛順は、殺害直後の彼女の死体を見てしまう。ところが、病院は、飛び降り自殺として処理してしまう。

 舞子の担当主治医で、殺された女性の主治医でもあった、日系3世のDR.ツムラも彼女の死に不審を抱き始める。

 バーバラの叔父に会いに行く舞子、寛順、ユゲット。死の直前の彼女の様子を聞き、自殺するような人間ではないこと、叔父に何かを告げたがっていたこと、などを知る。
叔父もバーバラの死に不審を抱き、患者として病院に入院する。

 徐々に、巨大な悪の組織の存在が明らかになって行く。

 著者は、精神科医であり、心理学的な要素、そして、1998年当時の遺伝子研究の到達点を元に、この物語を形作っている。その知識は、賞賛ものである。またご紹介しようと思うが、次作「受命」の発想と構成力には驚かされたが、どちらの物語も、ある種、現代への問題提起ではないかと感じる。
 また、海亀の産卵シーンや、豊かなブラジルの自然も、鮮やかに描き出している。分厚い本ではあったが。一気に読み通してしまった。
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この記事では結末を載せていないが、彼らは「ナチス・ドイツ」の生き残りの組織であり、この小説の中では「逆まんじ」と書かれているが「ハーケンクロイツ」というナチスのシンボルマークが「伏線」として小説の初期から出てくる。サスペンスたる所以である。
彼らの組織はドイツ民族の純血を守るために「ヒトラー総統」の「精液」を冷凍保存しておいたものを、これと目星をつけた女の子宮に注入して妊娠させ、その血統を後世に残す活動をしていたのだった。

私は『受命』という本を、まだ読んでいないが、上に引いた記事には、これは『受精』の前編にあたると書いてあるので、乞う、ご期待である。



藤原光顕の歌「ここまで来れば二〇首」・・・木村草弥
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──藤原光顕の歌──(44)

       藤原光顕の歌「ここまで来れば二〇首」・・・・・・・・・・・・木村草弥
                   ・・・・・・「芸術と自由」誌No.317/2019/10/01掲載・・・・・・・・

          ここまで来れば       藤原光顕

   あの人も逝ってしまって夜が来て「ポツンと一軒家」なんぞ観ている
   それだけで今年も納得してしまう成らない柿の若葉陽に照る
   大丈夫歩いて帰ろう 七月の影くっきりと従いてくるから
   さっき言った動物の名前を言ってください 今日はラクダで来るか
   そこでゆっくり眼鏡を拭く たぶんなんとか越えられたはず
   水着姿のあの人もいてあの夏のひたすら眩しかった須磨沖
   四年経ての学習ひとつキッチンを磨いておればうすれる不安
   狭い居間に限界がきて袋などの類いが壁を登りはじめる
   いっそ自分が出ていこうかと思う日があって廃品回収車来る
   リハビリと思えば歩く薮の中 石ころの坂ひたすら歩く
   まるで自分のようなじいさんとすれ違う振り向かないで躓かないで
   痛みまでいかないままに存在を主張してくる胃は三日ほど
   何某氏(85}老衰死と訃報欄に載る 名無し何某氏は焼酎啜る
   あのおばさんがSNSにはまっていると聞けばなんだかおだやかでない
   もう少し生きてみようか (AIが神の不在を証明するかも)
                 〇
   ひたすら改憲に突っ走る男 「国難」を好機と思っている たぶん
   「国難」だって? うまくいけばボクちゃん戦争ができるかもよ・・・
   なんとなく戦争もええかこの辺で そんなところで喋っているのか
   平和のための戦力という理屈 そのうちそんな気になってくる
   権力を握ってごらんよ誰だって戦争のひとつもやってみたいよ
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いつもながらの光顕ぶし、である。
「あのおばさんがSNSにはまっていると聞けばなんだかおだやかでない」というところなど、気力が充満しているようで嬉しい。
ただ、末尾の歌の「権力を握ってごらんよ誰だって戦争のひとつもやってみたいよ」という「皮肉」が、今のご時勢に、すんなり受けとめてもらえるか、どうか。
今どきは、もっと、直接的に、ハッキリ言わないと、ねじまげて受け取られる恐れがある、と言っておきたい。
とにかくアベは、祖父の岸信介に似て「陰険な策士」であるから、ご注意を。

「リハビリと思えば歩く薮の中 石ころの坂ひたすら歩く」 歩ける間が貴重なのですよ、光顕さん。
歩けなくなる時期が来る、のが怖いのです。どんどん歩いてください。




      

          
菊の香のうごくと見えて白猫の音なくよぎる夕月夜なる・・・木村草弥
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    菊の香のうごくと見えて白猫(はくべう)の
       音なくよぎる夕月夜(ゆふづくよ)なる・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたものである。
今や「菊」真っ盛りのシーズンだが、あちこちで「菊花展」が盛んであるが、菊という花は、どことなく、うら淋しい気分がするものである。
私は第一歌集『茶の四季』(角川書店)に

   一の峯二の峯越えて詣づれば秋の奢りの菊花百鉢・・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌を載せたが、これなども心底からの明るい歌とは言い難い。それは「秋」という季節の持つ性格から来るものであろう。
掲出の歌の前後の歌を引いておきたい。

         残 菊・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  身めぐりに祝ふべきこと何もなし水引草の花あかけれど

  ひようろりと残んの菊と成り果てて庭のかたへに括られてゐつ

  菊の香はたまゆら乳の香に似ると言ひし人はも母ぞ恋しき

  菊の香のうごくと見えて白猫(はくべう)の音なくよぎる夕月夜なる

  白菊に対ひてをればわが心しづかなりけり夕茜して

  嵯峨菊が手花火のごと咲く庭に老年といふ早き日の昏(く)れ


「菊」というのは、春の桜と並びたつ秋の花とされる。中国から渡ってきたもので日本でさまざまに改良されてきた。
私は菊作りは、しない。春の挿し芽にはじまり、朝夕の水遣り、それも天候、降雨を勘案して、やらなければならないし、葉を虫に食われたり、欠いたりしてはならない。
茎立ちの寸法も重要な審査項目となる。
これでは、私のような旅行好きとは両立しない。以前は多い時には年間50日くらいは海外に出かけていたが、今では国内旅行が主で、こまぎれの旅をするばかりである。
そんな旅行も、今では「不如意」の現状である、ああ !

十月末に近所に住む菊作りの友人が、見事な三本たちの菊二鉢を持ってきてくれた。
玄関に飾ってあるが、花も、もうそろそろ終りである。 有難いことである。

菊を詠んだ句を少し引いて終りたい。

 黄菊白菊其の外の名はなくもがな・・・・・・・・服部嵐雪

 有る程の菊なげ入れよ棺の中・・・・・・・・夏目漱石

 かにかくに明治は恋し菊膾・・・・・・・・富安風生

 国原や到るところの菊日和・・・・・・・・日野草城

 菊白く死の髪豊かなるかなし・・・・・・・・橋本多佳子

 白菊とわれ月光の底に冴ゆ・・・・・・・・桂信子

 白菊や暗闇にても帯むすぶ・・・・・・・・加藤知世子

 菊の棺とともに焼かれしわが句集・・・・・・・・平井照敏


アールヌーヴォーの美術館のようなナンシー・・・木村草弥
700px-Panorama_place_stanislas_nancy_2005-06-15スタニスラス広場
 ↑ ナンシー・スタニスラス広場のパノラマ
Nancy-place-stanislas-suedスタニスラス広場
 ↑ スタニスラス広場
o0480064010690730321世紀末のステンドグラス
 ↑ 世紀末のステンドグラス
無題ナンシー・世紀末のステンドグラス
 ↑ 世紀末のステンドグラス

     アールヌーヴォーの美術館のようなナンシー・・・・・・・・・・・木村草弥
     
朝8時出発だから辛い。強行軍である。ホテルを出て約185㎞を二時間かけて、街全体がアールヌーヴォーの美術館のような古都ナンシーへ。

Wikpediaによると、ナンシーとは、こんなところである。 ↓

ナンシー(フランス語: Nancy、ドイツ語: Nanzig ナンツィヒ)はフランス北部、ロレーヌ地域圏の都市である。ムルト=エ=モゼル県の県庁所在地。近隣の都市としては、約45キロ北にメスが位置する。鉄鋼業で有名。

ナンシーのスタニスラス広場
896年、ナンシーの名はラテン語化されたNanceiacumとして記された。これはケルト語の人名をラテン語化したものとみなされている。
1073年、トゥール司教ピボンの特許状台帳においては、「ナンシーに捧げられたオルリー」(ラテン語でOdelrici advocati de Nanceio)と記されている。

歴史
ナンシーの誕生は、11世紀のロレーヌ公ゲラルト1世が建てた封建時代の城に関連する。その後彼の子孫によってロレーヌ公国の首都となり栄えた。シャンパーニュ伯継承戦争中の1218年、ロレーヌ公テオバルト1世に支配された。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世によって町は放火され徹底的に破壊された。その後再建され、新しい城によって拡張、防衛されるようになった。

18世紀、ロレーヌ公の地位にあったポーランド王スタニスワフ1世(スタニスラス)のもとで、街の景観が整えられた。現在も、広場の名前としてスタニスラスの名が残されている。スタニスラスが1766年に死去すると、ロレーヌ公国はフランス王国に併合された。

オーストリアの「女帝」マリア・テレジアの夫で、共同統治者 (Corregens) であった神聖ローマ皇帝フランツ1世・シュテファンはこの地の出身であり、スタニスワフ1世に譲位するまではロレーヌ公であった(ロレーヌ公国を放棄する代わりにトスカーナ大公となった) 。
普仏戦争後の1871年、フランクフルト条約によってストラスブール、メスとともにアルザスとモゼル県はドイツに併合された。ドイツ市民となることを拒んだアルザス人およびモゼル人の実業家や知識人たちが大勢ナンシーに移住してきた。ナンシーは新たな繁栄期と新たな文化の黄金時代を迎えた。15世紀頃から、ガラス工芸が盛んであったが、19世紀後半になると鉄鋼業が盛んとなり、新興の中産階級が台頭した。
1870年代から1900年代までの急激な人口増加で、ナンシーの都市化が無秩序に進行した。1894年に創設されたロレーヌ工芸会社はのちのナンシー派の集団で、エミール・ガレ、アントナン・ドーム、ルイ・マジョルール、ヴィクトル・プルーヴェ、ウジェーヌ・ヴァランたちがいた。

ナンシーはフランス第5の金融都市である。国内主要銀行の地方拠点がある。ナンシーにはムルト=エ=モゼル県商工会議所が置かれている。ナンシーはフランス北東部第一の医療都市で、大学付属病院が設置されている。ナンシー市内および都市圏内には多くの私立クリニックがある。

ヴァンドゥーヴル=レ=ナンシーとの間の平野にあるナンシー=ブラボワ・テクノポールは、国内有数の規模を誇る。

ナンシー
 ↑ 日本語版のナンシーのガイド・パンフレット二種 (左は地図、拡げると新聞紙大になる)

n12ナンシーのトラム
ナンシーのトラム

02ナンシー派美術館
↑ ナンシー派美術館
ナンシー派美術館
 ナンシー派美術館のパンフレット

ナンシー派美術館(Musée de l'École de Nancy)は、フランスのナンシーにある美術館である。アール・ヌーヴォーの芸術家たちの作品で知られている。

エミール・ガレのパトロンであったウジェーヌ・コルバンの私邸を改装した美術館で1964年に開館。ナンシー派の芸術家たちの作品を多く所蔵している。庭園も整備されている。

コレクション
エミール・ガレのデザインしたベッドやランプ、ジャック・グリュベールのステンドグラス、ルイ・マジョレル、ウジェーヌ・ヴァランの家具などを所蔵。作品を展示しているというより、工芸品、陶器、ガラス製品、織物等が日常の生活空間の中に作品が配置されている。
01エミール・ガレ
 ↑ エミール・ガレ
04ナンシー派美術館内部②
05ナンシー派美術館内部
 ↑ ナンシー派美術館内部の展示
10美術館の広い庭にある唐傘のような屋根の水族館
↑ 美術館の広い庭にある唐傘のような屋根の水族館


「未来山脈」70周年記念号「視点」特集・・・木村草弥
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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──「未来山脈」掲載作品──(特集)

      「未来山脈」70周年記念号「視点」特集・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・2019/11/08刊・・・・・・・

この特集号には、過去に「未来山脈」誌の「視点」欄に載せられた文章が、まとめて掲載されている。
私が2000年10月号に執筆したものも収録されている。 ↓

       口語短歌の未来──「短歌現代」新人賞をめぐって──木村草弥

「短歌現代」八月号に第十五回「新人賞」の発表があった。
全部で184篇の応募のうち最終選考に残った二十名の中に、「未来山脈」所属の藤森あゆ美、岩下敦史の両君が含まれており
「佳作」として作品の十首が抄出されて載っている。(編集*本文32・33頁参照) 
選考委員は来嶋靖生、杜沢光一郎、秋葉四郎、石黒清介の四人で、いずれも文語定型の歌人である。詳細は当該誌をお読みいただきたい。
この機会に口語短歌の未来について、我々が留意すべきことを、光本恵子『宮崎信義のうた百首』に即して少し書いてみたい。
宮崎信義は、つねづね、短歌は日本の民族詩として、これからも長く流れ続けていくだろう、と言っている。
宮崎信義は口語自由律短歌の運動を文字通り孤立無援でやってきた人である。
その方法に学ぶことは極めて大切なことである。
〇くり返していう これでよいのかほかに方法はもうないか   (第八歌集『太陽はいま』)
 この宮崎信義71歳の作品について光本は次のように書く。
 ある単語を引き出すのに「漢字か、ひらがなか、カタカナか」の選択は当然、次にその言葉は「常套的か作者自身の生み出した言葉か」 「長さはよいか、長すぎないか」 「意味を変えないでもっと短い語彙がないか」 「俗語であっても、言葉の品位を失ってはいないか」 「リズムはどうか」など考えられる角度から推敲と検討を加える。
下句の「これでよいか、ほかに方法はもうないか」の宮崎の思いと言葉の重さを、いつも念頭において短歌を作っていかねばならない。・・・・・・・
さらに宮崎の作品を見てみよう。
〇地に長く光を集め地に長く闇をとどめて人は生きる   (第九歌集『地に長く』)
〇嫁くか よかろう それがよい 短いやりとりのあとの親子の沈黙   (第五歌集『和風土』)
 これらの短歌は音数律で区切ると五七五七六、三四五九三八、のように分析できる。
自由律と言っても、宮崎は日本古来の五音七音のような日本語のリズムを大切にする。
これは私が宮崎自身から聞き出したことである。宮崎の歌の無駄のないリズムというのは、こうして作られる。
 今日、定型短歌が限りなく口語で、しかも定型に捉われることなく展開して来たのは誰の目にも明らかである。
その一方で、われわれ自由律の作家が、口語の持つ散漫さを克服して、いかにリズミカルな歌を創造するか、という努力が求められているのである。
いまでも「文語定型」にこだわる歌人が多い一方で、若い人は極めて自在に詠う。
例えば、「短歌研究」新人賞に輝いた千葉聡のような (歌集『微熱体』短歌研究社刊) 完全な「口語定型」の若い歌人も順調に育っている。
 この本で光本が書くように、これからは「口語短歌だとか、文語短歌とかではなくただの短歌として、二十一世紀を迎えたい」という時代が来ることは確かだと言えるだろう。
新人賞の話題を機に、光本をはじめ、広く口語歌集を学んで視野を広めたいものである。
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もう二十年も前のことで、この記事を書いたのも忘れてしまっていた。
石黒清介も亡くなり、「短歌現代」誌も無くなってしまい、感慨あらたなるものがある。
改めて、この特集で再録してもらって有難い。
光本恵子・主宰の息の長い営為に対して、心からの敬意を表するものである。






甘谷の水は菊水『菊慈童』の七百歳のいのちこそ憶へ・・・木村草弥
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    甘谷の水は菊水『菊慈童』の
        七百歳のいのちこそ憶(おも)へ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので「菊」の一連の中にある。

いま菊の花の真っ盛りであるので、菊の花に因んで書いてみる。
「菊慈童」については解説が必要だろう。
写真①は彦根の井伊家に伝わる能楽に使われる菊慈童の「能面」である。
写真②は菊慈童の能楽の一場面。
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「菊慈童」というのは中国の古典を題材にした能楽の作品。
お話は、こうである。

中国・魏の文帝は、山に薬の水が湧くと聞き、臣下に霊水の源を探れとの命令を下した。
臣下が秘境の奥深く入ってゆくと、菊の乱れ咲く里があり、慈童という仙人が薬小屋に住んでいた。
尋ねると、慈童は700年も昔、周の穆王に仕えていたが、ある日、王の枕をまたいだ罪で、この山に流されたという。
700年前ということを信じない臣下に対して、慈童は、流罪されるにあたり王は憐れみ、枕に法華経の偈を書いて与えた。
その経文を菊の葉に書くと葉の露が不老不死の霊薬となり、以来それを飲みつづけて齢を取らなくなった、と述べた。
そして慈童は勅使に菊の葉の酒を勧め、自分も飲むと喜びの舞楽を舞い、法華経の功徳と枕に感謝し、700年の長寿を文帝に捧げて祝福し、仙家の中に消えてゆく。
能楽では観世流のみが「菊慈童」という演名で演じるが、他流派は「枕慈童」という演目である。
能楽だけでなく、日本画にも度々描かれ、菱田春草のものなど有名である。
↓ 写真③が春草の絵の部分。(絵の全体は大きなもので、この部分は下の方に描かれている)
mir815-2菱田春草「菊慈童」
ご参考までに写真④に横山大観の同名の絵を出しておく。↓
皆さんは、どちらを選ばれるだろうか。
mir545-2横山大観「菊慈童」

また小説にも採り上げられ円地文子の作品などがある。芥川龍之介も書いている。

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写真⑤は熊本県八代市の「宮之町」の菊慈童の笠鉾である。立派なものである。。
京都の祇園祭に「菊水鉾」という大きな鉾があるが、この鉾も「菊慈童」から着想されたと言われている。写真⑥⑦に菊水鉾を載せる。
写真⑥は菊水鉾の全景である。とにかく背の高い鉾で全景となると絵が小さくなるのは、お許しいただきたい。写真⑦は「胴掛け」の部分である。
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すっかり「菊慈童」の話題だけになってしまったが仕方がない。
ここで歌集に載る前後の歌を抄出して、終りにしたい。他にも「菊」の歌があるので、それは次回にしたい。

     窯 元・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

   しがらみの多き世の中たはやすく暮らすにあらね菊うつろひて

  はきだめといふ名の菊のありと聞く波郷一葉忌を隣りとし

  甘谷の水は菊水『菊慈童』の七百歳のいのちこそ憶(おも)へ

  をみなへしあまた剪りきて瓶に挿す蕪村ゆかりの商家の床の間

  <秋草をごつたにつかね供へけり>結びし紐を解くは悲しも

     *久保田万太郎

  秋草にまろべば空も海に似て泊り重ねし波止の宿おもふ

  秋草の波止場の旅籠(はたご)に蛸壺のセールスマンと泊りあはせし



返り咲く暴を老木も敢てせり・・・相生垣瓜人
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      返り咲く暴を老木も敢てせり・・・・・・・・・・・・・・相生垣瓜人

「返り花」とは、小春日和に誘われて、春に咲く草木が季節はずれの花をつけることを言う。
主にサクラについて言うが、ツツジやヤマブキ、タンポポなどにも見られる。
掲出した写真は「シャクナゲ」の返り花である。
花がほとんど無い季節だけに、自然からの授かり物のように思える。
和歌、連歌の題にはないが、俳諧では盛んに詠まれたという。
この瓜人(くわじん)の句は「老木」の癖に「返り咲く」というような無謀(暴)なことをしたものだ、という意味だが、
この句を見つけたとき、わが身にひきつけて思わずドキリとした。
「返り花」は、はかないものであるが、それがまた文人たちに愛されたのだった。

私の敬愛する松本氏のサイト「硯水亭歳時記Ⅱ」2009/11/05付けに「冬の桜~妙見大悲は北の北」という記事が載っている。
この記事は「返り花」のことに直接言及しているものではないが、「冬桜」と「返り花」が混同されて誤解されている場合もあるようなので、ご参考までにアクセスされたし。

なお松本氏は桜に詳しいが、それは或る財団の理事長をしておられる故である。
日本中に、山櫻を植え廻ろうというNPOである。
ちょうど各地の櫻の名所では「補植」の時季になっている関係上、各地の行政庁中心に需要が来ているようである。
よく知られる財団法人日本さくらの会は半分以上は公的機関であるのに対して、「僕たちは故人である前理事長の残した資産だけで、すべて民間で管理運営しております。櫻山を造ることも夢の一つです。」とおっしゃっている。
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相生垣瓜人は1898年兵庫県高砂市生れ。本名は貫二。東京美術学校製版科を卒業。浜松工業学校教師となる。俳句は水原秋桜子に師事。
角川書店の第10回「蛇笏賞」を昭和51年に『明治草』他で受賞。百合山羽公と俳誌「海坂」を発行する。1985/02/07に死去している。

ネット上を見ていたら下記のようなcogito,ergo sumという面白いサイトを発見したので貼り付けておく。 ↓
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藤沢周平と海坂(うなさか)
「三屋清左衛門残日録」を読んで藤沢周平作品の虜になり、「蝉時雨」「暗殺の年輪」等々、10数編を次々と読んだ。
今から既に十年以上前のこと。時代小説作品の裏に潜む人間性がたまらなく好きだった。

その藤沢周平の作品の舞台になっているのが出羽の国海坂(うなさか)藩。海坂藩は勿論架空の藩ではあるが、周平の生地に当たる山形県庄内地方を領してきた庄内藩を母型として作られた名前で、周平自身が「海辺に立って一望の海を眺めると水平線は緩やかな弧を描く。そのあるかなきかのゆるやかな傾斜弧を海坂と呼ぶと聞いた記憶がある。うつくしい言葉である」と述べている。

しかし彼が海坂藩と名づけた由来はもっと単純で、その昔彼が会員の一人として投句していた俳句雑誌の誌名「海坂」からとってきていると言うのが本当の所である。

俳誌「海坂」は、水原秋桜子主宰の俳誌「馬酔木(あしび)」の同人で俳句界最高の賞と言われる蛇笏賞を共に受賞した、百合山羽公(うこう)、相生垣瓜人(あいおいがき かじん)が中心となって発行された俳誌で、その伝統が今も生き続け今年の6月号で通巻710号を数える。

藤沢周平の、「海坂」会員として活躍していた時代の作品の一つに、

 天の藍流して秋の川鳴れり

があり、きりりとして美しい作品だと思う。
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以下、「返り花」「帰り花」「返り咲き」「忘花」「狂花」「狂咲き」などの句を引いて終わる。

 凩に匂ひつけしや帰花・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

 かへり花暁の月にちりつくす・・・・・・・・・・・・与謝蕪村

 あたら日のついと入りけり帰り花・・・・・・・・・・・・小林一茶

 真青な葉も二三枚返り花・・・・・・・・・・・・高野素十

 返り花三年教へし書にはさむ・・・・・・・・・・・・中村草田男

 返り花日輪さむく呆けたり・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 死神のへつらい笑う帰り花・・・・・・・・・・・・橋間石

 帰り花身は荒草(いらくさ)の花ながら・・・・・・・・・・・・中村苑子

 返り花咲けば小さな山のこゑ・・・・・・・・・・・・飯田龍太

 返り咲く花はさかりもなく散りぬ・・・・・・・・・・・・下村梅子

 いのちには終りあるべし帰り花・・・・・・・・・・・・加藤三七子

 帰り花空は風音もて応ふ・・・・・・・・・・・・広瀬直人

 一度しか死ねぬとこそ知れ返り花・・・・・・・・・・・・折笠美秋

 返り花知己のひとりは国の外・・・・・・・・・・・・友岡子郷

 約束のごとくに二つ返り花・・・・・・・・・・・・倉田紘文

 返り花そは一輪がよかりけり・・・・・・・・・・・・渡辺恭子

 雑言のなかの金言返り花・・・・・・・・・・・・木内彰志

 眉墨で書き留む一句帰り花・・・・・・・・・・・・宮下みさえ


秋暮れて歯冠の中に疼くもの我がなせざりし宿題ひとつ・・・木村草弥
gmikaduki三日月

     秋暮れて歯冠の中に疼くもの
        我がなせざりし宿題ひとつ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、自選にも入れているのでWebのHPでもご覧いただける。
この歌は、今からだと、もう二十数年前の作品になるが、私の経て来た人生を溯ると、数々のやり残したこと、果たせなかったこと、などのもろもろが浮かんで来て、
それを「宿題」という言葉で表現したもので、作った頃から私自身の気に入った作品だった。
具象だけを詠う人には、判りにくいなどの批判も受けたが、歌というものは目につく具体だけを詠んだらいい、というものでもない。
この歌は以前から、ぜひ記事にしたいと思っていたが「秋暮れて」という季節の言葉が入っているので、今日まで時季を待っていたのである。
気がつくと、もう時雨の降る11月になってしまったので、この時期を外すわけにはいかないので、今日づけで載せることにする。
この歌は「原風景」と題する章名のところに入っているもの。この歌の前後の歌を引いておく。

     寧楽(なら)山・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  突き抜けるやうな青空秋ふかみ世渡り下手で六十路すぎゆく

  ねこじゃらし風の言葉にうなづきて白雲ひとつ遊ぶ秋の野

  淋しうて西へ歩けばいとほしきものの一つよ野菊咲きゐる

  老鹿がふぐりを垂れて歩みゐる寧楽山あたり秋澄みわたる

  秋暮れて歯冠の中に疼くもの我がなせざりし宿題ひとつ

  茶祭を終へ来て辿る琴坂の萩の白さよ秋も闌(た)けゆく

  私が死んでもやはり陽はのぼり地球の朝がきらきらはじまる

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私の歌だけでは芸がないので、もうすぐ立冬だが「秋の暮れ」を詠んだ句を引いておく。

 誰彼もあらず一天自尊の秋・・・・・・・・飯田蛇笏

 彼の女今日も来て泣く堂の秋・・・・・・・・河野静雲

 鯉も老いこの寺も古り幾秋ぞ・・・・・・・・高浜年尾

 驚けば秋の鳥なる烏骨鶏・・・・・・・・加藤楸邨

 天を仰げば身の錆おつる秋なりけり・・・・・・・・高柳重信

 しとしては水足す秋のからだかな・・・・・・・・矢島渚男

 白樺や秋は風からかと思ふ・・・・・・・・高田風人子

 しみじみと共に老醜寺の秋・・・・・・・・石川風女

 星はみな女性名詞や羅馬の秋・・・・・・・・マブソン青眼

 ヴィクトリア駅より秋の終列車・・・・・・・・友田喜美子

 蛇の縞まで美しく見せて秋・・・・・・・・山下しげ人

 朝は鳥夕べはけもの啼きて秋・・・・・・・・和田耕三郎

 愉しまず晩秋黒き富士立つを・・・・・・・・山口誓子

 帰るのはそこ晩秋の大きな木・・・・・・・・坪内稔典

 残り時間気にしています晩秋です・・・・・・・・湯山珠子


三角形のキッシュ出でたり素朴なるアルザス・ロレーヌの郷土料理ぞ・・・木村草弥
img06dc8114zikezjキッシュ
1328967116ロレーヌ名物キッシュ
 ↑ キッシュ

──アルザス・ロレーヌ料理いろいろ──

       三角形のキッシュ出でたり素朴なる
            アルザス・ロレーヌの郷土料理ぞ・・・・・・・・・・・木村草弥


「キッシュ」はアルザス・ロレーヌ地方の郷土料理で、練りパイ生地にベーコン、野菜、クリームを入れチーズを振りかけて焼き上げる。
当地では日常料理として、しょっちゅう家庭のテーブルに出るという。
キッシュ(仏: Quiche)は、卵とクリームを使って作るフランス、アルザス・ロレーヌ地方の郷土料理。

パイ生地・タルト生地で作った器の中に、卵、生クリーム、ひき肉やアスパラガスなど野菜を加えて熟成したグリュイエールチーズなどをたっぷりのせオーブンで焼き上げる。
ロレーヌ風キッシュ(キッシュ・ロレーヌ)では、クリームとベーコンを加える。ナッツ類を加える場合もある。生地ごと三角形に切って皿に出す。
地中海沿岸の地域でも一般的な料理である。語源はドイツ語のKuchen(クーヘン)である。

c0067421_7163832タルト・フランベ(アルザス風ピザ)
 ↑ 昼食に出たタルト・フランベ(アルザス風ピザ)

「キッシュ」 「タルト・フランベ」 「ベッコフ」というような料理は、中に入れる具などが違うが、基本的には同種の料理である。

5550003687_803f13fc9b_zベッコフという郷土料理
 ↑ 「ベッコフ」という郷土料理   ↓ その由来の物語
かつてアルザスの主婦たちは毎週月曜日は洗濯の日と決まっていたそうな。
そして手仕事の洗濯は、やっぱり一日掛りの大変な仕事であったそうな。
朝から夕方まで一日洗濯から手の離せない主婦たちは、前日の日曜の夜に牛や豚や羊やらの肉の切れ端を土地の白ワインと一緒にベッコフ鍋に漬け込んでおいて、翌朝に野菜をその鍋に何でも入れて洗濯に向かう途中、なじみのパン屋へ預けていったそうな。
パン屋は朝早くからパンを焼き始め昼過ぎには仕事は終わっていたのだろう。預かったベッコフ鍋にあまり生地で隙間を押さえまだまだ十分に熱い仕事の終わった石窯に入れておいてあげる。

imgecc20dfazik0zjクグロフ
 ↑ クグロフ
DSC03407クグロフ
 ↑ 昔ながらの菓子クグロフや塩っからいプレッツェルなども並んでいる。これらはドイツ支配の名残りを思わせるドイツ菓子である。

5328047526_0474f9d286_z酸っぱいキャベツの漬物シュークルート(サワークラウト)
 ↑ 酸っぱいキャベツの漬物シュークルート(サワークラウト)。これもドイツ語圏ではおなじみのおかず。

page_escargo6_1エスカルゴ・ブルゴーニュ風
 ↑ ボーヌでの日の昼食に「エスカルゴ・ブルゴーニュ風」が出る。 美味しかった。
かつてはブドウの葉につく害虫だったが、食べたら美味なので飼って当地名産の食材としたのである。ガーリックとバターで味付け。 

ボーヌの夕食はブルゴーニュ名物の「ブフ・ブルギニョン」─牛肉の赤ワイン煮。「ブフ」とはフランス語で牛肉の意味である。 ↓
ff5603fdブフ・ブルギニョン

f0140365_21502833リヨン風サラダ
 ↑ リヨンでの昼食に出た「リヨン風サラダ」 野菜の上に半熟タマゴが乗るものを称するらしい。




「未来山脈」掲載作品・2019/11 「石の物語」・・・木村草弥
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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──「未来山脈」掲載作品──(23)

     「石の物語」・・・・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・・2019/11掲載・・・・・・・

     石の物語    木 村 草 弥

   「洪水」神の禹は、もと龍形の神であった

   天下の洪水を治め歩いて塗山に至り妻を娶った

   禹は水を治めるとき熊の姿となった

   女はその姿を見て恐れ、恐怖の余り石となった

   禹はその石に向って「わが子を返せ」と叫ぶと、

   石は二つに裂けて子の啓が生まれた

   啓とは開明の意味ならば、石は暗黒の世界だったか

   中国の人ほど石を愛した民族は居ない

   巌はどの地でも神の宿るところであった

   白川静の学識と独創性の説くところである
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古代・夏の王「禹」については、このWikipediaに詳しい。治水に励んだ名君だったらしい。
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800px-Yu_the_Great_mausoleum_stele_in_Shaoxing,_Zhejiang,_China
↑ 紹興市の会稽山にある大禹陵






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