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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(12月)月次掲示板
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東日本大震災から八年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
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本年も十二月、最終となりました。
泣いても笑っても「師走」の到来です。

 葦べ行く鴨の羽がひに霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 志貴皇子
 いたぶるとなぶるを辞書に引き比ぶ甚振(いたぶ)るうつつは辞書より辛し・・・・・ 沢口芙美
 みまかりてしまへばはらからではなくてうをの牙はも魚にむらがる・・・・・・・・・・・・ 柳沢美晴
 流し樽流れいし世のゆたかなり瀬戸内海に雪降りしきる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 玉井清弘
 廊下ゆく杖の音立つ雪の日の白鳥の声刈田にきこゆ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・板宮清治
 定食を囲んで話すほんとうの笑顔でいようお醤油かけて・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・ 岩尾淳子
 朝しぐれすぎてさだまる海の色うつくしければ自転車に乗る・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三井ゆき
 冬の日は誰のものにもあらざれば一直線に日向を歩む・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 沖ななも
 萩もみぢとらへがたなきあかるさの 窓辺に充ちて、仮の世この世・・・・・・・・・・・・・ 中西洋子
 海底に塩噴く臼のあるといふ説話なかなか嬉しきものを・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 恩田英明
 国家解体おもひみるかな領土なく国語なくただに<言葉>響きあふ水の星・・・・・・水原紫苑
 頭よりヤマメ食ふとき大陸の塵も胃壁も融けつつあらむ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・黒瀬珂瀾
 しつかりと我をみつめて泣くなといふ冬の垣根のつはぶきの花・・・・・・・・・・・・・・・秋山佐和子
 ちよつとだけよろけぬるかな足もとの椿の花を踏むまいとして・・・・・・・・・・・・・・・・・・安田純生
 店先に盛られし蜜柑の一山にあつまりてゐる日暮れのひかり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・櫟原聰
 花にあらず花にあらねど全開の児手柏の冬の哄笑・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・真中朋久
 液晶の青うなばらに文字浮きてきょうの出来事伝えていたり・・・・・・・・・・・・・・・・・ 武藤ゆかり
 烏羽玉の夜を引き裂きて猪の群は藍の白露かきちらしけり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・多田羅 花
 樟にほふ乳房と腹をまろまろと彫りいだしたる船越桂・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・久我田鶴子
 咽喉にはやはらかき夢ふふむゆゑつぐみもひよもわれに親しき・・・・・・・・・・・・・・・・阪森郁代
 亡き母を知る人来たり十二月・・・・・・・・・・・・長谷川かな女
 落ちてゐるからたちの実や十二月・・・・・・・・・・吉岡禅寺洞
 武蔵野は青空がよし十二月・・・・・・・・・・・・・・・・・細見綾子
 わが生死食思にかかる十二月・・・・・・・・・・・・・・・相馬遷子
 御岳に雲の荒ぶる 十二月・・・・・・・・・・・・・ ・ 伊丹三樹彦
 凍蝶になほ大いなる凍降りぬ・・・・・・・・・・・・・・・ 藤田湘子
 星冴ゆる戌亥を守る鬼瓦・・・・・・・・・・・・・・・・・・・桑田佳穂
 家猫の小さなくしゃみ今朝の冬・・・・・・・・・・・・・・・・ 盛蓉子
 星流るすうっと走る裁ちばさみ・・・・・・・・・・・・・・ 北畠千嗣
 冬晴にジンタ天勝一座くる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 媚 庵
 実(じつ)のあるカツサンドなり冬の雲・・・・・・・・・・小川軽舟
 冬の田の二人の男一緒に帰る・・・・・・・・・・・・・・河西志帆
 星ひとつ出て凍鶴の羽搏ちかな・・・・・・・・・・・・・折勝家鴨
 うつかりとそこら辺りに帰り花・・・・・・・・・・・・・・・ 市堀玉宗
 イーハトーブの星の匂ひの冬林檎・・・・・・・・・・・・・金子敦
 ドトールの奥に居座る十二月・・・・・・・・・・・・・・・津野利行
 甘口カレーなら今夜家出する・・・・・・・・・・・・・・・ 月波与生
 河を越え伸びをり塔の影師走・・・・・・・・・・・・・・・薮内小鈴
 太ももの外側ほぐし冬の虹・・・・・・・・・・・・・・・・・ 吉川わる
 冬麗に象形文字の割り出され・・・・・・・・・・・・・加藤絵里子
 セスナ機も花野におなじ風のなか・・・・・・・・・・・・仮屋賢一
 冬枯れのサラリーマンの目を労わる・・・・・・・・・・宮崎玲奈
 脱力のセーター椅子の背もたれに・・・・・・・・すずきみのる
 古暦つまり風葬ではないか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大塚凱
 そこここに団栗ならばそこここに・・・・・・・・・・・・・・・ 高梨章
 リビングの隅の聖樹の消し忘れ・・・・・・・・・・・・・・杉原祐之
 原子炉が目覚めし町や冬の蝶・・・・・・・・・・・・・・・岡田幸彦
 また嘘をつくリアシートにはポインセチア・・・・・・・・ 奥村明
 流るるといはず揺れをる冬の川・・・・・・・・・・・・・・きしゆみこ
 水洟をすする眼の鋭さよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・葛城蓮士
 亡国の名の酒場ある風邪心地・・・・・・・・・・・・・・青木ともじ
 木枯らしはくしゃくしゃにしてポケットへ・・・・・・・・・青島玄武
 ひとの手に墨匂ひたり牡蠣の旬・・・・・・・・・・・・・・青本瑞季
 しぐるるや切絵のむすめ白眼無き・・・・・・・・・・・・・加藤御影
 澄みてなほ水は面をうしなはず・・・・・・・・・・・・・・・小池康生
 冬の川舌のごとくに夜が来る・・・・・・・・・・・・・・・・・青本柚紀
 ただの妻ただの星子の風邪癒えて・・・・・・・・・・・・和知喜八
 さんらんと冬雲のあり午後の塀・・・・・・・・・・・・・・・上田信治
 善人が黙えらぶ世の鵙日和・・・・・・・・・・・・・・・・・ 竹岡一郎
 枯野行く少し狂ひし腕時計・・・・・・・・・・・・・・・・ハードエッジ
 てのひらに硬き切符や冬ぬくし・・・・・・・・・・・・・・利普苑るな
 外套の中の寂しき手足かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 岬光世
 すつぴんでするりセーター脱ぎながら・・・・・・・・・・ 九里順子
 なにかを捨てて来た道をかえりみる・・・・・・・・・・・・天坂寝覚
 口紅が食み出している帰り花・・・・・・・・・・・・・・・・・岩根彰子
 冬が来るとイヌキが云えり枕元・・・・・・・・・・・・・・ 金原まさ子
 牛の尾を引き摺るやうに寒波来る・・・・・・・・・・・・・ 鈴木牛後


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 歌集 『無冠の馬』(KADOKAWA刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
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枯野起伏明日と云ふ語のかなしさよ・・・加藤楸邨
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    枯野起伏明日と云ふ語のかなしさよ・・・・・・・・・・・加藤楸邨

「枯野」とは、草木の枯れた、蕭条とした野っぱらのことだが、場所や配合などによっては、さまざまな趣のものとなる。
何となく、わびしい枯野の起伏を見ながら、楸邨は、ふと「明日」という言葉の持つ「かなしさ」を感じたのである。
「かなしさ」というのが、漢字でなく、ひらがなで書かれているところに句のふくらみがあるのである。
つまり、「いとしい」の意味の「かなしさ」であり、「悲しさ」と同義ではないのである。
それが「自然」と「人事」との配合ということである。
同じ楸邨の句に

   わが垂るるふぐりに枯野重畳す

というのがある。
ふぐり(睾丸)というのは、青年、壮年の時期には、キリリと股の肌に張り付いているもので、だらりと垂れるという感じはしないが、老年期になると、だらりと垂れる感じになる。
楸邨は、そういう自分の身体的な衰えと枯野が重畳と連なる様を「配合」して一句に仕立て上げたのである。

   旅に病んで夢は枯野をかけ廻る・・・・・・・・松尾芭蕉

という「辞世」の句があるが、この句こそが枯野のイメージそのものだと言われている。
いかにも一生を「漂泊」にかけた芭蕉ならではの句である。
この句などは「巨人」の句という感じで、われわれ下々の者が、あれこれ言うのは気が咎めるものである。
いずれにしろ、枯野のイメージというものは冬の季節とともに、日本人の精神性に大きな翳(かげ)を落としてきたと言えるだろう。

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以下、枯野を詠んだ句を引く。

 戸口までづいと枯れ込む野原かな・・・・・・・・小林一茶

 旅人の蜜柑くひ行く枯野かな・・・・・・・・正岡子規

 遠山に日の当りたる枯野かな・・・・・・・・高浜虚子

 吾が影の吹かれて長き枯野かな・・・・・・・・夏目漱石

 枯野はも縁の下までつづきをり・・・・・・・・久保田万太郎

 掌に枯野の低き日を愛づる・・・・・・・・山口誓子

 土堤を外れ枯野の犬となりゆけり・・・・・・・・山口誓子

 赤きもの甘きもの恋ひ枯野行く・・・・・・・・中村草田男

 また雨の枯野の音となりしかな・・・・・・・・安住敦

 大いなる枯野に堪へて画家ゐたり・・・・・・・・大野林火

 つひに吾も枯野の遠き樹となるか・・・・・・・・野見山朱鳥

 枯野ゆく人みなうしろ姿なり・・・・・・・・石井几与子

 いつ尽きし町ぞ枯野にふりかへり・・・・・・・・木下夕爾

 枯野行き橋渡りまた枯野行く・・・・・・・・富安風生
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もうすぐ、「年が改まる」。
楸邨の句ではないが、「明日」という言葉に込められた、さまざまな「かなしさ」=愛しさ、いとしさ、哀しさ、を噛みしめて来年を迎えたい。

この私のブログは毎月最終の日付は「月次掲示板」としているので、これ以外の記事を書くことはない。
更新する日付としては、今日が終わりということになる。
「喪中」の方もいらっしゃるが、無事ご越年なさるようお祈りしたい。 では来年、また。


しんしんと雪ふりし夜にその指のあな冷たよと言ひて寄りしか・・・斎藤茂吉
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──冬の愛欲5態──

     ■しんしんと雪ふりし夜にその指の
        あな冷(つめ)たよと言ひて寄りしか・・・・・・・・・・・・斎藤茂吉


斎藤茂吉の妻は輝子というが、輝子は斎藤精神病院の跡取り娘で、茂吉は養子である。
北杜夫などの子供をもうけているが、輝子の恋愛事件などがあって一時別居生活などをしていた。
これらのことは「アララギ」の弟子たちの伝記などで詳しく伝えられている。
この歌がいつ頃のものかなども同定されているが、いま私の手元にはないので詳しくは書けない。
今の時代となっては女性からの反発もあるが、昔は遊郭なども公認であるから「女買い」は男性の常識であって、男どもは独り身の場合は、そういうところで性の発散をしていたのである。
赤線廃止は昭和30何年かのことである。
茂吉が、そんな赤線地帯に入り浸っていたのも実証されていることで、茂吉は日記を克明に付けることでも有名で、彼自身の手でもいろいろ書かれているらしい。
私は茂吉を貶めるために書いているのではない。
何と言っても、彼・斎藤茂吉は「アララギ」の主宰者として、後継者の土屋文明と二人だけ短歌界では文化勲章受章の巨人であることは自明のことである。


この歌の対象が誰であるかの詮索は別にして「ああ、冷たい指をしているね」なんとか言いながら、女の指を暖め、愛撫しながら、愛欲の渦に入ってゆく、という情景が、よく詠まれている。

     ■火を産まんためいましがた触れあえる
         雌雄にて雪のなか遠ざかる・・・・・・・・・・・・・・・・・岡井隆


この歌の作者・岡井隆は、ひところ前衛歌人の一翼を塚本邦雄と共に担った人である。
が、私生活では度々離婚騒動を起こしている人で、最近では、二十数年前に妻子と別れて自分の年齢とは半分も年下の30代なかばの画家の人と結婚したことで有名である。
この歌は若い頃の歌集『土地よ、痛みを負え』(昭和36年刊)に載るものである。
いきなり読んで誰の心にもすんなり入ってくる、という歌ではない。
二人の性的接触が精神的側面と不可分のものとして捉えられているため、歌の中で「比喩」の占める比重が、ひときわ大きくなっているからである。
「火を産まんため」とは、まさに激しい性の焔を意味すると同時に、精神的な意味での、ある創造的な焔をも意味しているだろう。
しかも作者は肉体的・官能的側面に、むしろ固執しており、そこから「雌雄」という語も出てくる。
内から突き上げる官能の衝動への賛美の念が根底にあるのだ。

     ■目瞑(つむ)りてひたぶるにありきほひつつ
        憑(たの)みし汝(なれ)はすでに人の妻・・・・・・・・・・・・宮柊二


この人も北原白秋門下にあって、のち白秋亡きあと独立して短歌結社「コスモス」を興して大きな組織に育てあげた人である。
この歌も若い頃のことを詠ったものである。はじめの恋人との交流を詠っている。
その君は、今や他人の妻となってしまった、という歌である。
「ひたぶるにあり」「きほひつつ」というくだりに、若い恋人どうしのひたむきな愛欲が詠まれている。

     ■夢のなかといへども髪をふりみだし
        人を追ひゐきながく忘れず・・・・・・・・・・・・・・・大西民子


この歌も有名な歌であり、彼女の場合は、夫が彼女を捨てて他の女に走った。
彼女は彼のことが忘れられず、数々の歌を詠っているが、この歌は、その中のひとつ。
彼女は奈良女子高等師範の出身で、卒業後東京近郊で教師をしていた。
木俣修門下の重鎮として大きな結社を支えていた。
木俣修も北原白秋門下であった。白秋亡きあと結社「形成」を主宰していた。

     ■わがためにひたぶるなりし女ありき
         髪うつくしく夜にはみだれき・・・・・・・・・・・・・・岡野弘彦


この人も現代歌壇を担っているひとりである。国学院大学で釈迢空(折口信夫)の門下として晩年の彼に身近に仕えた人である。
この人には、こういう女人のことを詠った歌が多い。齢90を超えた歳になっても、若い乙女との愛欲にまつわる幻影的な歌を作っている。
「夜にはみだれき」というくだりなどは、かなり際どい表現と言えるだろう。
その岡野氏だが、角川「短歌」誌2018年一月号に載る岡野氏の文章によると三年越しに看護された令夫人を喪くされたという。合掌。

ここに挙げた人たちは、現代歌人として著名な人たちであるが、文人らしく、赤裸々とも思える表現で「愛欲」を詠んでいる。
これこそ文学の徒として必須の態度であろう。


降る雪や明治は遠くなりにけり・・・中村草田男
001冬景色本命

    降る雪や明治は遠くなりにけり・・・・・・・・・・・・・・・中村草田男

この句は草田男の数多い句の中でも、とりわけ有名な作品である。
今では作者名さえ知らずに、この句を口にしている人も多いだろう。
この句の由来は、昭和6年、草田男が20年ぶりに東京で小学校上級生当時通学した母校・青南小学校(東京、青山高樹町在住当時)を訪ね、往時を回想して作ったものという。
初案は「雪は降り」だった。
しかし、推敲された「降る雪や」の方が、ずっといい。
「雪は降り」では、雪の降る動きは示せても、下の句につながるだけで趣は出ない。
「降る雪や」と切れ字「や」と置いて、一旦ここで一拍おいたために、中7下5の叙述の印象が一段と深くなる作用をしている。
「降る雪や」という上句が「明治は遠く」という中7に、離れつつ大きく転じてゆくところに、この句の秘密というか工夫があり、有名になり過ぎたにもかかわらず、或るういういしい感慨の所在が紛れずに保たれているのも、その所為だろう。(昭和11年刊『長子』所載)

「明治は遠く」に関していうと、句が作られたのが昭和6年ということは、大正15年プラス5年(大正15年と昭和元年は重なる)で、合計20年である。
「一昔」という年月の区切りはほぼ10年と言われているから、まさに「二昔」(ふたむかし)と言えるだろう。
今年、「令和元年」は、平成の年号が終ってほぼ三昔強になるので、この頃では「昭和は遠くなりにけり」などと言われるようになってきた。歳月の経つのは早いものである。

雪の降り方には、北と南では、全くちがうのである。
北国では西からの低気圧と寒気によって降雪が起こるのに対して、太平洋岸に雪が降るのは、俗に「台湾坊主」という低気圧が南岸を東進するときに、北から寒気が進入して雪を降らせるのである。
雪片も大きく、水分をたっぷり含んだ重い雪でベタ雪であって送電線などの倒壊などの被害をもたらす。
そんな時期は真冬というより晩冬、春先に多い。2.26事件の日の大雪などが、そうである。

日本の古来の美意識では「雪・月・花」と言って、文芸における三大季題となっている。
言うまでもないが「花」=「桜」であることを指摘しておきたい。
そんな訳で「雪」を詠んだ句も多い。

 馬をさへながむる雪の朝かな・・・・・・・・芭蕉

 市人よ此の笠売らう雪の傘・・・・・・・・芭蕉

 撓みては雪待つ竹のけしきかな・・・・・・・・芭蕉

 箱根越す人も有るらし今朝の雪・・・・・・・・芭蕉

 我がものとおもへばかろし笠の上・・・・・・・・其角

 下京や雪つむ上の夜の雨・・・・・・・・凡兆

 心からしなのの雪に降られけり・・・・・・・・一茶

 むまさうな雪がふうはりふはりかな・・・・・・・・一茶

 是がまあつひの栖か雪五尺・・・・・・・・一茶

 雪ちらりちらり見事な月夜かな・・・・・・・・一茶

などの名句がある。明治以後の句は、また後日。


雪の日の浴身一指一趾愛し・・・橋本多佳子
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↑ オーギュスト・ルノワール「横たわる浴女」(1904年)

──冬の浴女三題──

     ■雪の日の浴身一指一趾愛(いと)し・・・・・・・・・・橋本多佳子

橋本多佳子は東京生まれだが、九州出身の橋本豊次郎と結婚して小倉に住んだ。
早くに夫と死別して、晩年は奈良に住まいした。
昭和38年に死去したが、晩年の多佳子をよく知る近藤英男先生によると、きれいな人であったという。
平井照敏の書くところによると多佳子は「命に触れたものを的確な構成によって詠いあげ、独自の句境に至っている」という。
「指」は手の指のこと、「趾」とは足の指、のことである。
この句は、女の「ナルシスム」とも言うべき艶やかなリリシスムに満ちている。
こういう表現は、それまでの女流俳句にも無かった句境であった。女の「命」の美しさ、はかなさ、いとほしさ、などをみづみづしく詠いあげた絶唱と言える。
この句は晩年の句集『命終』(昭和40年刊)所収。


   ■雪はげし抱かれて息のつまりしこと・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

この句も、有名な句で多佳子の代表作として、よく引用されるものである。
この句も、死別した夫との愛欲の日を思い出して作られた句だと言われている。
多佳子の句は、このように愛欲に満ちた日々を回想しながらも、赤裸々な表現ではなく、控えめな、抑制された句作りであるから、読者にほのぼのとした読後感を与えて、すがすがしい。
この句は『紅糸』(昭和26年刊)の作で、この頃、すでに夫は死去している。同じ句集に

   ■雄鹿の前吾もあらあらしき息す

という句があり、この句なども「いのち」「生命」「エロチスム」というものを読後感として感得することが出来る。
こういう句作りこそ、多佳子の真骨頂だった。


  ■窓の雪女体にて湯をあふれしむ・・・・・・・・・・・・・・・・桂信子

桂信子は大阪の人。
この人も早くに夫を亡くしている。多佳子とは違った面からだが、女体の「艶やかさ」を詠い上げた人であった。つい先年お亡くなりになった。
この句は句集『女身』(昭和30年刊)に載るもので、橋本多佳子辺りが先鞭をつけた「女の命」を詠う軌跡に則した流れというべきか。

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 ↑ ルノワール「岩の上に座る浴女」(1882年)

桂信子の、この頃の句に

 ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ

 ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜

 やはらかき身を月光のなかに容れ

 ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき


などの句があり、いずれも女の命のリリシスムを詠いあげている。


夜の書庫にユトリロ返す雪明り・・・安住敦
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     夜の書庫にユトリロ返す雪明り・・・・・・・・・・・・・・・・安住敦

モーリス・ユトリロMaurice Utrilloは1883年12月26日にパリのモンマルトルに生まれた。母はスザーヌ・ヴァラドン、父のボァシヨーはアル中患者で、モーリスを認知しなかった。
1891年、スペインの美術評論家ミゲル・ユトリロの養子となった。
その後、母の住んでいたモンマニーで学校教育を受け、ロラン・カレッジに学んだ。
17、8歳の頃から飲酒癖が始まり、1901年にはアル中症状を起こして医療を受けた。
母は、その治療目的で彼に絵を描くことを教えた。初めは母の画風の影響を受け、その後ピサロのあとを追って印象画派に入った。
1907年に彼のいわゆる「白の時代」が始まることになる。
サロン・ドートンヌに出品したのは1909年が最初である。
年譜を見ると、その後、アルコール中毒症状で精神に錯乱をきたしたりして、精神病院に入れられたりして、その都度、母ヴァラドンは苦労したらしい。
51歳のとき、リュシーという年上の裕福な未亡人と結婚したが、これも母の肝いりであるが、ユトリロは年上の妻を母のように慕い、酒に溺れることもなく、ひたすら絵を描いて、しかも絵は高い値で売れたので、心身ともに安定した。
レジオン・ドヌール勲章という最高の栄誉まで貰って1955年に亡くなったが、72歳という、若い頃や中年のアル中の時期には考えられないような歳まで生きたのだった。
ユトリロの絵は、今でも結構人気があるらしい。

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 ↑ 母親シュザンヌ・ヴァラドンによるモーリスの肖像画(1921年)

私はユトリロには詳しくないので、掲出した絵がどこの風景なのか判らないが、見えているのは、モンマルトルの「サクレクール」寺院ではなかろうか。とすれば、モンマルトル風景ということになる。
安住敦の句は、おそらく「ユトリロ画集」かなんかだろう、見ていた画集を書庫に仕舞いにゆく景だろう。
今日が彼・モーリス・ユトリロの誕生日ということなので、日付に合わせて載せてみた。

明治以後の「雪」を詠んだ句を引いて終わりたい。

 舞ふ雪や一痕の星残しつつ・・・・・・・・藤森成吉

 降る雪や玉のごとくにランプ拭く・・・・・・・・飯田蛇笏

 外套の裏は緋なりき明治の雪・・・・・・・・山口青邨

 雪に来て美事な鳥のだまりゐる・・・・・・・・原石鼎

 落葉松はいつめざめても雪降りをり・・・・・・・・加藤楸邨

 みづからを問ひつめゐしが牡丹雪・・・・・・・・上田五千石

 馬の眼に遠き馬ゐて雪降れり・・・・・・・・中条明

 雪の水車ごつとんことりもう止むか・・・・・・・・大野林火

 牡丹雪その夜の妻のにほふかな・・・・・・・・石田波郷

 病む夫にはげしき雪を見せんとす・・・・・・・・山口波津女

 深雪に入る犬の垂れ乳紅きかな・・・・・・・・原子公平

 狂へるは世かはたわれか雪無限・・・・・・・・目迫秩父

 雪あかり胸にわきくるロシヤ文字・・・・・・・・古沢太穂

 雪国に子を生んでこの深まなざし・・・・・・・・森澄雄

 雪明りゆらりとむかし近づきぬ・・・・・・・・堤白雨

 雪片と耶蘇名ルカとを身に着けし・・・・・・・・平畑静塔




黄落を振り返り見る野のたひら野はゆく年の影曳くばかり・・・木村草弥
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     黄落を振り返り見る野のたひら
        野はゆく年の影曳くばかり・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
本年も師走終盤に突入して、はや旬の半ばを越えた。
辺りを見回してみると、落葉樹の木々はあらかた葉を落とし、先日までは赤や黄の「紅葉」をつけて照り映えていたのが、足もとにたっぷりと落葉の絨緞を敷き詰めたようになっている。
おかげで、野末は見晴らしがよくなって木々の根元まで陽が射すようになった。
「冬至」も先日22日に済んで、一年中で一番昼が短く、夜が長い頃である。

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「紅葉散る」というのが「冬」の季語である。
紅葉し、かつ散り始める晩秋から、紅葉散るの冬へ、季節は確実に動いてゆく。美しく散り敷くこともあり、土まみれになって貼りついていることもあり、
紅葉の在りようも、人生に似て、さまざまである。
写真は「散り敷く」紅葉である。これらはネット上で、piita3氏のページから拝借したものであり、場所は京都郊外の「勧修寺」である。
ここに名を記して御礼申し上げる。

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『夫木和歌抄』に

  秋暮れし紅葉の色に重ねても衣かへうき今日の空かな

という歌があるが、これは初冬の紅葉を詠ったものである。秋用の衣から、冬用の着物に「衣替え」するのも、憂いことである、と詠まれている。
昔の人は、こういう「痛ましい」感じのもの、「あわれ」の思いの強いものに拘ったのであった。
『古今集』に

  山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり・・・・・・凡河内 躬恒

という歌があるが、落葉となる紅葉のはかなさが中心のイメージと言える。

 夕映に何の水輪や冬紅葉・・・・・・・・渡辺水巴

 冬紅葉冬のひかりをあつめけり・・・・・・・久保田万太郎

 美しく老ゆるも死ぬも冬紅葉・・・・・・・松井草一路

などの句は「冬紅葉」という季語の名句といえるだろう。
以下、「紅葉散る」「木の葉」などの句を引いて終る。

 紅葉散るや筧の中を水は行き・・・・・・・・尾崎迷堂

 尽大地燃ゆるがごとき散紅葉・・・・・・・・赤星水竹居

 紅葉散るしづけさに耳塞がれつ・・・・・・・・岡田貞峰

 今日ありてかたみに紅葉ちるを踏む・・・・・・・・藤野基一

 木の葉ふりやまずいそぐなよいそぐなよ・・・・・・・・加藤楸邨

 木の葉散るわれ生涯に何為せし・・・・・・・・相馬遷子


ひともとの八つ手の花の咲きいでて霊媒の家に灯りつき初む・・・木村草弥
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    ひともとの八つ手の花の咲きいでて
        霊媒(れいばい)の家に灯りつき初む・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、この歌の続きには

  霊(たま)よせの家のひそけきたまゆらを呼びいださるる幼な子の頃・・・・・・・・木村草弥

という歌が載っているが、この「霊媒」とか「霊よせ」ということについては、少し説明が必要だろう。
今では青森県の下北半島の「恐山」のイタコなどに、その名残りをとどめるに過ぎないが、昔と言えば昭和初年の頃までは、
こういう「霊媒」「霊よせ」というのが、まだ伝統的に各地に残っていたのである。
大都市では、いざ知らず、私の生れたのは純農村であったから、「あの家は霊媒の家だ」という風に職業としてやっている人がいたのである。
もっとも当時は「神さん」とか「お稲荷さん」とかいう名で呼ばれていた。「コックリさん」という呼び名もあった。
科学的な解明というよりも、神がかりな「加持、祈祷」が幅を利かせていた時代である。

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「八つ手」の木というのは家の裏の日蔭の「鬼門」とかに、ひそやかに植えられているもので、八つ手の花はちょうど今頃12月頃に咲くのである。
そういう冬のさむざむとした風景の中に咲く八つ手の花と「霊よせ」の家というのが合うのではないかと思って、これらの歌が出来上がった、ということである。

八つ手の葉は文字通り八つ前後に裂けていて「天狗のうちわ」という別名もある。
八つ手の花を詠んだ句を引いて終りにしたい。八ツ手の花言葉は「分別」

 たんねんに八手の花を虻舐めて・・・・・・・・山口青邨

 八ッ手咲け若き妻ある愉しさに・・・・・・・・中村草田男

 一ト時代八つ手の花に了りけり・・・・・・・・久保田万太郎

 遺書未だ寸伸ばしきて花八つ手・・・・・・・・石田波郷

 八ッ手散る楽譜の音符散るごとく・・・・・・・・竹下しづの女

 花八つ手貧しさおなじなれば安し・・・・・・・・大野林火

 踏みこんでもはやもどれず花八ツ手・・・・・・・・加藤楸邨

 花八つ手日蔭は空の藍浸みて・・・・・・・・馬場移公子

 寒くなる八ッ手の花のうすみどり・・・・・・・・甲田鐘一路

 すり硝子に女は翳のみ花八つ手・・・・・・・・中村石秋

 かなり倖せかなり不幸に花八ツ手・・・・・・・・相馬遷子

 みづからの光りをたのみ八ツ手咲く・・・・・・・・飯田龍太

 花八つ手生き残りしはみな老いて・・・・・・・・草間時彦

 花八ッ手さみしき礼を深くせり・・・・・・・・簱こと

 どの路地のどこ曲つても花八ッ手・・・・・・・・菖蒲あや

 人に和すことの淋しさ花八つ手・・・・・・・・大木あまり


村島典子の歌「スズムシ」30首・・・木村草弥
晶_NEW

──村島典子の歌──(40)

      村島典子の歌「スズムシ」30首・・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・「晶」108号2019/12掲載・・・・・・・・

         スズムシ      村島典子

   しづかなる怒りをひそめ歩きゐる幾人かがあり投票所まで
   あいまいな人と見ゆるか見られつつ投票終へぬ変はらざるとも
   増水を危ぶみて草は刈られたり赤裸になれば川たよりなし
   平らかに水は流れて小さき魚群れおよぐさへ今朝はかなしき
   ことしまたスズムシ来たり朝夕べ友としなさむ食卓の上に
   そよろそよろとをさなき髭のひたすらを見つつし酷暑を耐へむとすべし
   高値なるきうり茄子は鳴きそめしスズムシのために購ひて来つ
   スズムシの八匹がゐるわが家はたのしきところみじかき夏の
   これの世にをのこご一人生みしことけふは不思議のひとつと思ふ
   はやわれの老いにけらしな帰り際なんともいへぬ表情を見す
   運転席より右腕あげて去りゆくに角まがるときもう一度上ぐ
   酒飲めば中学時代に戻るらし姉との差を言ふ四十六歳
   夫には思ひ及ばぬ子と母のほんのひととき夏の優越
   美味きもの食べさせ食べ家族らは寄りきてこの世のきづな確かむ
   瞠きて大竹しのぶの熱唱す「とうちやんのためならエンヤコラ」
   テレビ消ししのち目閉づればきこゆなりヨイトマケの歌いまもきこゆる
   子ら去りて山のやうなる濯ぎもの抱へてあるにスマホ見せに来ぬ
   両腕に濯ぎしタオルケット掲げいま忙しいとわれは告げたり
   わかりをると夫は言ひ言ひ孫からのラインをちらちらわれに示せり
   短夜をあはれみたらむスズムシははがねの翅を擦り合はせ鳴く
   四ひきの雌四ひきの雄みるみるにゴキブリ大とならむ勢ひ
   二ひきづつ組となるらしかつをぶしを入れしボトルの蓋に乗りゐて
   スズムシの話ばかりに明け暮れてことしの夏も後半に入る
   『富士日記』読みて笑ひて日に幾どしみじみとして一人をおもふ
   ゲイシャネズミと武田百合子の言ふねずみ芸者のやうな手を持つならむ
   ただ過ぎにすぎゆくものと言ひしこと百合子の如く夏も去ぬめり
   一歳ちがひの友とむきあひ笑ひあふ朝のプールに足上げながら
   いづれ逝くところにてまた笑ひませう犬つれて虹の麓にあはむ
   無花果のたかき梢はくれなゐに実の熟したり採るひとなしに
   剪られずにぐんぐん伸びてゆくものよ天をこそめざせ無花果の木よ
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いつもながらの村島さんの精細な観察の行き届いた一連である。
ご家族の日常が彷彿とするように思えて、微笑ましい。
ご恵贈ありがとうございました。
どうぞ、お健やかな越年ください。





中野先生憶いて歩む加茂街道もみじ散りきてコートに止まる・・・内田晶子
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 ↑ 短歌新聞社1997/08刊
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 ↑ 本阿弥書店1997/07刊

──エッセイ──

      中野先生憶いて歩む加茂街道
            もみじ散りきてコートに止まる・・・・・・・・・・・・・内田晶子


今日の「京都新聞」朝刊の「京都文芸」欄の「歌壇」吉川宏志選の巻頭に、この歌が載っている。
吉川の「評」には
<京都新聞歌壇の選者を長年務められた中野照子さんが、十一月に亡くなった。
美しい下の句にしみじみとした哀感がこもる。中野さんには『賀茂街道』などの歌集がある。>
と書かれている。
中野照子さんについては、私にも思い出がある。
私は短歌を作る気持ちは全くなかったのだが、もう四十年も前になるか、台湾に旅したとき台湾最南端のガランピ岬に立ったとき、こんな歌が自然に生まれた。

      この海はバシー海峡かの先はフィリピンよと君は言ふなり・・・・・・木村草弥

この歌を投稿したら、中野照子さんが佳作に採っていただいた。
私は「こんなものでも短歌になるのか」と思って、短歌に関心を抱くようになったのである。
私が短歌を作るきっかけを中野さんが与えてくれたものと言えるだろう。
そんな意味で、中野さんは、私を短歌の道に導いてくれた恩人の一人だと言えるだろうか。
この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載せた。

中野照子さんの歌集などは昨年、蔵書整理で日本現代詩歌文学館などに寄贈したので今は手元にはない。
画像だけ掲げておいた。
中野照子さんは「好日」の幹部であられたが、晩年は歌の作品の発表もなく亡くなられた。  合掌。
内田晶子さんの歌では「加茂街道」となっているが、中野さんの歌集の題名の通り「賀茂」が正しい。
京都の北の出入り口にあるのが賀茂街道であり、中野さんは京都市北区の「賀茂」なんとか町に住んでおられた。

内田晶子さんは、この文芸欄の常連で、いつもお名前を拝見する人で、隣接する「宇治田原町」に住む人である。

今朝読んだ京都新聞の記事に因んで書いてみた。



冬薔薇を剪るためらひは何事ぞ貴きものを奪ふここちす・・・木村草弥
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    冬薔薇を剪(き)るためらひは何事ぞ
       貴きものを奪ふここちす・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので小項目名「薔薇」というところに、バラを詠った歌をまとめてあるものの一つである。

バラは何と言っても「花の女王」であることは間違いない。
在来種の野バラから、さまざまな改良が加えられて、今ではハイブリッドや遺伝子レベルの技術を駆使して新品種が産出されている。

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写真②も「レッドヒロシマ」というハイブリッドによる品種物である。
バラには痛い棘(とげ)があるのが難点だが、今ではトゲのない品種もあるのではないか。
バラの中でも、人それぞれ好みがあろうが、私は写真②のような「真紅」のバラが好きである。豪華なレディーという印象である。
バラについては、つい先日にも記事を載せたのだが、掲出歌を変えて書いてみる。
妻の入院中にはあちこちからバラの花束をいただいたことがある。妻の大学の時の友人の某大学教授N女史から、お見舞いの花のアレンジが贈られてきたことがある。
また私からも病床にある妻にオランダ直輸入のバラを贈ったこともあった。
その他、前にもさまざまの記事を載せたこともある、思い出のある花なのである。

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写真③もハイブリッドものの新品種である。なんとも色合いが華麗である。ついでに、写真④にもハイブリッドもののバラを掲出しておく。

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これも色合いが鮮やかな花である。
このバラには「ジーナ・ロロブリジーダ」の名がついている。そう言えばロロブリジーダの雰囲気が出ているバラである。
書き遅れたが写真③のバラの名は「マダム・ビオーレ」とある。N女史などは、まさに、そういう雰囲気にふさわしいとも言える。
そのN女史だが、先年、急性の脳梗塞に罹り半身不随で闘病の末、いまは車椅子の生活を余儀なくされている。

長年、歌作りをやっているとバラを詠み込んで、あちこちに歌を発表しているもので、歌集にする場合には、それらを「薔薇」という項目にまとめる、というようなことをする。
以下、ここにまとめた「バラ」の歌一連を引いておきたい。
掲出した歌の主旨は「冬薔薇」を剪る時には、万物の命の休止している冬の季節に、せっかく咲いた花を切り取るということに、極端にいうと「生き物の命」を奪うような気が一瞬した、ということである。

     薔 薇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  キーボード打てるをみなの傍(かた)へにはコップに挿せる紅薔薇にほふ

  老いびとにも狂気のやうな恋あれと黒薔薇みつつ思ふさびしさ

  飲みあけしミニチュア瓶に薔薇挿せばそこより漂ふスコッチの香り

  鬱屈のなきにもあらず夕つかた何もなきごとく薔薇に水やる

  喪に服し静もる館は薔薇垣を結界として何をか拒む

  冬薔薇を剪るためらひは何事ぞ貴きものを奪ふここちす

  冬薔薇を剪る妻の手に創(きず)ありぬ薔薇のいのちの棘の逆襲

  ほのぼのとくれなゐ淡き冬薔薇にそそのかさるる恋よあれかし

  薔薇図鑑見つつし思ふ園生には緋の花責めの少女ゐたりき

  たまさかに鋏を持てばことごとく刺す意あらはに薔薇は棘見す

  言へばわが心さびしもしろたへに薔薇咲き初めて冬に入りたり


以下、「冬薔薇」を詠んだ句を引いて終る。薔薇は「さうび」(そうび)とも発音する。
先日引用したものと一部重複するかも知れない。お許しを。

 尼僧は剪る冬のさうびをただ一輪・・・・・・・・・・・・山口青邨

 冬薔薇(さうび)石の天使に石の羽根・・・・・・・・・・・・中村草田男

 冬の薔薇すさまじきまで向うむき・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 冬ばら抱き男ざかりを棺に寝て・・・・・・・・・・・・中尾寿美子

 冬さうび咲くに力の限りあり・・・・・・・・・・・・上野章子

 冬薔薇や賞与劣りし一詩人・・・・・・・・・・・・草間時彦

 ぎりぎりの省略冬薔薇蕾残す・・・・・・・・・・・・津田清子

 夫とゐて冬薔薇に唇つけし罪・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 孤高とはくれなゐ深き冬の薔薇・・・・・・・・・・・・金久美智子

 冬薔薇や聖書に多き科の文字・・・・・・・・・・・・原田青児

 リルケ死にし日なりき冬の薔薇の辺に・・・・・・・・・・・・脇村禎徳

 ふと笑ふ君の寝顔や冬の薔薇・・・・・・・・・・・・マブソン青眼


ひととせを描ける艶の花画集ポインセチアで終りとなりぬ・・・木村草弥
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    ひととせを描ける艶(ゑん)の花画集
       ポインセチアで終りとなりぬ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
この歌のつづきには

  ポインセチアの一鉢に似て口紅を濃くひく妻は外出もせず

  あかあかと机辺を光(て)らすポインセチア冬の夜長を緋に疲れをり


という歌が載っている。
ポインセチアは学名をEuphorbia pulcherrima というが、原産地は中央アメリカ──メキシコである。赤い花の部分は正確には苞(ほう)である。

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品種改良がすすみ、多くの花があるが写真②は2003年に産出されたばかりの「アヴァンギャルド」という新品種。
あと二つほど色違いをお見せするが、私などにはポインセチアと言えば、やはり「真紅」のものが好ましい。
すっかりクリスマスのシンボルのように扱われているポインセチアだが、その歴史は、こんな経緯である。

むかし、メキシコにアズテク族というインディアンが住んでいて、生活の中で、この植物を上手に利用していた。苞から赤紫色の色素を採り、切った時に出る白い樹液からは解熱作用のある調剤が作られた。現在のタスコ(Taxco)付近の地域を起源地とするポインセチアはインディアンにCuetlaxochitlと呼ばれて、その輝くような花は「純粋性のシンボル」とされていた。
17世紀に入り、フランシスコ修道会の僧たちが、この辺りに住み着き、その花の色と咲く時期から「赤はピュアなキリストの血」「緑は農作物の生長」を表していると祭に使われるようになった。
1825年、メキシコ駐在のアメリカ大使Joel Robert Poinsett氏(1779-1851)は優れた植物学者でもあったため、アメリカの自宅の温室から植物園などへポインセチアが配られた。「ボインセチア」の名はポインセット氏の名前に由来する。
1900年代はじめから、ドイツ系の育種家アルバート・エッケ氏などの尽力で、市場向けの生産などがはじまった。
ポインセチアは「短日性」の植物で、1日のうちで夜のように暗い状態が13時間以上になると開花する。
写真③④はマーブルとピンクの改良種である。

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歳時記に載る句を少し引いて終りにしたい。

 小書斎もポインセチアを得て聖夜・・・・・・・・富安風生

 ポインセチア教へ子の来て愛質(ただ)され・・・・・・・・星野麦丘子

 時計鳴り猩々木の緋が静か・・・・・・・・阿部筲人

 ポインセチア愉しき日のみ夫婦和す・・・・・・・・草間時彦

 ポインセチアの色溢れゐる夜の花舗・・・・・・・・宮南幸恵

 ポインセチアや聖書は黒き表紙かな・・・・・・・・三宅絹子

 ポインセチア愛の一語の虚実かな・・・・・・・・角川源義

 ポインセチア独りになれ過ぎてはならず・・・・・・・・鈴木栄子

 ポインセチアその名を思ひ出せずゐる・・・・・・・・辻田克己

 ポインセチアどの窓からも港の灯・・・・・・・・古賀まり子

 星の座の定まりポインセチアかな・・・・・・・・奥坂まや

 ポインセチア画中に暗き聖家族・・・・・・・・上田日差子

 寝化粧の鏡にポインセチア燃ゆ・・・・・・・・小路智寿子

 休日をポインセチアの緋と暮るる・・・・・・・・遠藤恵美子

 ポインセチア抱いて真赤なハイヒール・・・・・・・・西坂三穂子


安部壽子詩集『むかしはなび』・・・木村草弥
安部_NEW

──新・読書ノート──

       安部壽子詩集『むかしはなび』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・空とぶキリン社2019/12/20刊・・・・・・・・

安部さんの詩集は、このブログで第九詩集『葉脈の中の家』を採り上げたことがある。 ← リンクになっているのでお読みいただきたい。
だから、この本は安部さんの第十詩集ということになる。
この詩集の要点は、画像で読み取れるようにカバーに高階杞一氏が書いていることに尽きるだろう。
全部で24篇の作品が載っているが、題名の採られた詩を引いてみよう。

       むかしはなび       安部壽子 
            ──富田キヌさんに捧ぐ──

   負われていたのは かな江さんの背中です
   母の背を わたしたちは知りません

          ・・・・・・・・・

   かな江さんの背中は よく眠れる丸い背で
   松弥さんの移り香は 合歓の花でありました

   わたしの家「秋津や」は未明の火事で全焼と
          ・・・・・・・・・
   明治大正昭和を生き 時代の
   お相伴にあずかった「秋津や」は
   その遊興の終わりの
   刻印を押されます 類焼のかたちで

          ・・・・・・・・・

   平成です 「秋津や」はこども達の手で打ち止めに
   日日と暮らせば 人の生は 仕掛け花火の心地です

           ・・・・・・・・

   平成の雨空を 音の響きで終わりました
   あれは昭和生まれの ひたすらな 昔はなびです

          ・・・・・・・・・

   かな江さんの背で 子どもは丸く眠りへと
--------------------------------------------------------------------
長い詩なので途中を端折ったので、お許しを。
この詩に、この本の要約が籠っていると言えるだろう。
幼い頃への郷愁と、昭和、平成、令和へと続く時代が象徴されているだろう。

ここで巻末に載る作品を引いておきたい。

        禁猟区     安部壽子

   平成の始まりの夏
   縄文の地を訪れた女は 杉の大木が連なる
   ひとつの道に惹かれる
    
        ・・・・・・・・

   平成の終わりの夏
   二百年を経る杉老木は 一本残らず切り
   倒される

         ・・・・・・・・

   そうして 倒れた大杉は 一本の高さを
   忘れるだろう

       ・・・・・・・・・

   出入り口をふさがれ女は年輪をこそげる
   あらがいがたい事象と共に 迂回はない
   デンデンとした日盛りを 手庇をかざし
   坂を下る 虫捕り網を手に 少年が坂を
   上って来る

         ・・・・・・・・・

------------------------------------------------------------------------
選び抜かれた詩句が的確である。
いざわ直子さんの表紙絵も、快い。
本年の年末を締めくくる詩集として有難く頂戴したことを記して終わります。
ご恵贈ありがとうございました。              (完)






               
平凡も非凡もあらず青木の実・・・青柳志解樹
image04アオキの実

   平凡も非凡もあらず青木の実・・・・・・・・・・・・・・・・青柳志解樹

「青木」という木も裏庭などの片隅にひっそりと植えられている感じの低木である。
八ツ手の木と同様である。ようやく、その木の存在に気づくのが、赤い実が映える冬の季節になってからである。

作者の青柳志解樹(1929~)は 信州育ちよろしく野草に詳しく「週刊朝日」に俳句の歳時記として連載ものを書いていた。その一節を紹介しよう。

 <山村に生まれ育ったおかげで、子どものころから、さまざまの植物と交わりを重ねた。
小学校への道筋の野原には、春になるとオキナグサのビロードの花があっちにもこっちにも咲いた。
野の花らしからぬ上品さに目を奪われたものだ。
また、山菜採りのころ、山の草原にはフグリバナと呼んでいたアツモリソウが、フグリのようにふくれた花をくらべ合っているようでおもしろかったが、
いまはオキナグサもアツモリソウも全く姿を消してしまった。 トキソウもその一つだ。
山田の畦草に交じって、ほんのり紅を染めた幼顔を、はずかしそうに覗かせていたのを思いだす。
ちょうど梅雨の時季で、雨に打たれる花はいじらしく、捨てがたい風情があった。
同じ畦のホタルブクロはよく目立ったが、トキソウは隠れ花のようだった。
田の中に巣を作っているクイナがときどきキョロロロロロロロと奇妙な声で鳴きたてたこともなつかしく思いだされてくる。>
(青柳志解樹『歳時記の花たち』朝日新聞社,1999) 
青柳には句集『四望』 (角川書店)などがあるが、いつか紹介したい。
他に『木の花草の花』『俳句の花』(上・下)『花の大歳時記』などの著作があり、「花」を調べるときには便利である。
亡妻が持っていた本によって私は啓蒙されたものである。
青柳の略歴などを下記に引いておく。
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青柳志解樹(あおやぎ しげき)
 昭和4年(1929) 長野県生れ。 
旧制東京農業大学専門部修了。1957年東急グループの「五島ローズガーデン」に入社し、バラ栽培に従事する。
1963年に独立し、造園業の「東京緑地」を設立するが、1983年に廃業し、文筆に専念する。
「山暦」創刊主宰。 
 原コウ子に師事。「鹿火屋」に投句。同人を経て昭和54年「山暦」創刊。鹿火屋賞・第32回俳人協会賞受賞。

 句集:『耕牛』『杉山』『山暦』『楢山』『山霊樹魂』『松は松』『麗江』『花顔』『四望』『里山』

 年惜しむ手紙の束を火に投じ

 たんぽぽの絮ふるさとを出奔す

 月光へ目覚めて繭の中にあり

 やすらかに割りたる冬の卵かな

 月の夜の山煌々と枯るるなり
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以下、ネット上に載る「アオキの実」に関する記事を転載しておこう。
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<青木の実>
 青木の実って御存じですか?ミズキ科の常緑潅木です。庭木として植えられて いる他、関東地方以西では比較的日当たりの悪い山地でも自生しています。実を 鳥が啄(ついば)んで増えるとのこと。そういえば、我が家の裏山にもひょっこり 生えていたりしていました。

冬でも葉を落とさない緑豊かな植物です。青木の名は 若い枝が葉と同じ薄黄緑色であることからつけられました。葉は細めの小判型で、縁が等間隔の鋸葉(のこぎりば)になっています。鋸葉といっても、柊のようにきんきんに尖っているわけではありません。どちらかという と、ゆるやかに波打っているようなやさしい葉です。

 普通、冬も葉を落とさない ものは大抵表面が固かったり、松や杉のように細く尖っていたりするものですが、 青木はそのどちらにも属さない、観葉植物めいた艶味のある美しい葉を持っています。枝の先は新しい葉、元や下に行くほど大きくなり、それらの葉が天辺から 地面ギリギリまで四方に伸びています。多分、冬の弱い陽射しでも充分吸収できる ような上手い作りになっているのでしょうね。

 大きい葉は成人男性の掌を覆って余りあるくらいにもなります。年を経たであろう大きな葉は筋張って厚みが出てきますが、若い葉はしなやかに柔らかく、なんとも形容しがたいような感触を伝えます。冬なのに水分を多く含むせいか、植物なのに人の手に馴染むしっとりした感じがあるんです。一見、ぺろんとした 頼り無い感ですし特にどうということのない植物ですが、その葉は快い手触りの ひとつなのです。 

aoki5アオキ雌株─雌花
 ↑ アオキ雌株─雌花

 青木は雌雄異株です。銀杏のように、実の生るものとならないものとあるのです。花の時期は四月はじめの頃です。
↓ アオキ雄株─雄花 
aoki4アオキ雄株─雄花

 葉について長々とお話してしまいましたが、今回のメインは実の方でした。 青木、というとまずはその紅い実が思い出される方が多いと思います。季語でも 冬期の「青木の実」は大抵の歳時記に掲載されていますが、春に位置する「青木の花」はいまひとつ通 りに欠けています。 

 実はドングリくらいの大きさで、葉が出る付け根に数個固まって色付きます。 先にお話したように、葉は冬も緑濃い状態ですから実は自然と葉の裏にひっそり 隠れるような感じになります。葉隠れに、房になって紅い実がなっています。 

 子供の頃はその葉をかき分けて実を探すことが面白く、むやみやたらに摘み取っていました。紅い衣を剥がすと、真白のスポンジ状の果 肉が表れます。林檎に 少し似ていますが、それよりもずっとぱさついた感じですね。芯の部分には蝋の ような柔らかい種があったような記憶があります。 

 じつは一度、青木の実を食べてみたことがあります。紅さに誘われ鳥が好んで啄むと言いますが、当時の自分は鳥並だったのでしょう(笑)。味はなく、青臭い、青木の葉と同じ匂いがしたような気がします。そういえば、ドウダンツツジの花やお茶の実(これは相当苦渋かった)も食べたことがありましたね。ゆっくり思い出せば、きっともっと色んなものを食べていたと思います。イマドキのお母さんが見たら仰天しそうですが、当時は結構おおらかというか、絶対食べてはいけないもの(青梅など)以外は特に駄 目だといわれていなかったような気がします。この 時も「青木食べたけどまずかったよ」と報告しても「ばっかだねぇ」と笑われる だけでしたから(笑)。

 青木の実は同時期に実をつける千両万両に比べると、どうしても一段格落ちと いう感がしないでもありません。それは、名の富貴さで既に負けているという ことがまず挙げられるでしょうし、小粒の千両万両の実の映え具合が活けるのに 手ごろであるに比べ、青木はどうしても取り入れ辛いということもありましょう。 青木はやはり屋外で眺めるのが一番です。葉が幽かに揺れる時、たまさかに紅を 見るところに冬の喜びがあるのでしょう。 

 漢名は桃葉珊瑚(とうようさんご)。あまり知られていませんが、名は体を表す 顕著な例でしょう。
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アオキ (植物)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

学名 Aucuba japonica
和名 アオキ(青木)
英名 Japanese Aucuba
アオキ(青木)はミズキ科に属する日本特産の常緑低木で、北海道南部~沖縄までのの森林に自生する。また日陰にもよく育ち、庭園や公園の植え込みに植栽され、外国でも栽培される。常緑で枝も青いため、この名がある。属名「アウクバ」は方言名「アオキバ」による(ツンベルクの命名)。

高さは2mほど。花は3~5月に咲く。褐色または緑色で花弁を4枚有し子房下位、単性花で雌雄異株。果実は卵形の液果で種子を1個含み、秋頃から赤く(種類によっては白、黄色に)熟し、美しい。楕円形で大きさは2cmほど、11月~翌年5月頃まで付いている。葉は苦味健胃作用があり、有名な陀羅尼助(だらにすけ)に配合されている。

日本海側産の小型の亜種ヒメアオキvar. borealisのほか、果実の色、斑入りなど園芸品種も多い。同属にはA. chinensis、A. himalaicaなど3種ほどがあり、ヒマラヤ、中国南部から日本(照葉樹林帯)に分布する。

また、アオキ属は従来ミズキ科に入れられていたが、APG植物分類体系ではガリア科に近いとされ、ガリア目のガリア科または独立のアオキ科Aucubaceaeとしている。
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 ネット検索で、「アオキ」という名称の語源を調べていたら、「ヒバは昔アオキ(青木)といわれており、その大森林にちなんで青森という名称はつけられたという」との一文を見つけた( 「緑の雇用」総合ウェブサイ」)。
アオキの語源は分からずじまいだが、ま、青森という名称の所以が分かったことで、慰めとしておきたい。
但し、青森という地名(名称)の所以には他にも説があるかもしれない。

以下、青木の実を詠んだ句を引いて終わる。

 かぞへ日となりし日ざしや青木の実・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

 長病のすぐれぬ日あり青木の実・・・・・・・・・・・・富安風生

 雪降りし日も幾度よ青木の実・・・・・・・・・・・・中村汀女

 青木の実こぼれて土に還るのみ・・・・・・・・・・・・滝春一

 赤き実の三つかたまりし青木かな・・・・・・・・・・・・三笠宮若杉

 停年やみなくれなゐの青木の実・・・・・・・・・・・・秋元不死男

 夕凍のにはかに迫る青木の実・・・・・・・・・・・・飯田龍太

 素早さは栗鼠の身上青木の実・・・・・・・・・・・・田中水桜

 青木の実赤しみかどの終焉地・・・・・・・・・・・・滝佳杖

 青木の実濃き口紅を拭ひさり・・・・・・・・・・・・山口昭男

 手の届くところ素直に青木の実・・・・・・・・・・・・久保保徳

 坂の上の青空が好き青木の実・・・・・・・・・・・・村山さとし

 のけぞりて鵯がこぼしぬ青木の実・・・・・・・・・・・・増田卯月

 青木の実雨の降りしも宵の口・・・・・・・・・・・・村井雄花

 青木の実学者の妻の墓小さし・・・・・・・・・・・・安立恭彦

 青木の実ころころ赤し襁褓縫ふ・・・・・・・・・・・・石沢清子

アオキの赤い実と濃い緑の葉という、その鮮やかな色彩のコントラストが、瑞々しい一年を締めくくる歳末の
一日の点景として、年越しを演出するかのようである。



老いざまのかなしき日なり実千両・・・草間時彦
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    老いざまのかなしき日なり実千両・・・・・・・・・・・・・・草間時彦

「千両」「万両」は初冬に赤や黄の実を見せる。極めて日本的な景物である。
同じような実だが、少しづつ微妙に違う。 掲出写真は「千両」の実である。
白い実のものもある。
manryo29白千両の実

同じようなものに「南天」がある。

私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)にも、こんな歌の一連がある。

    妻病めばわれも衰ふる心地して南天の朱を眩しみをりぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

    冬の午後を病後の妻と南天の朱美を見つつただよふごとし

    古稀となる妻を見てゐる千両と万両の朱美はなやぐべしや

妻亡き今は哀切な気分になる旧作である。
南天という木はどこにでも生える強い木で、赤い実は野鳥の冬の絶好の餌で、みんな啄ばまれてしまうが、
その未消化の糞の中の種が、あちこちにばら撒かれて繁茂するのである。
南天の赤色はさむざむとした冬景色の中に点る「一点景」ではあるが、病む身を養う妻を抱えての、
私の愁いは、まことに深いものがあったのである。そんな心象を歌にしたのが、この歌である。
「千両」「万両」の実も、同様の扱いをしてもよいものである。

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以下、歳時記に載る南天、千両、万両の句を引いておく。

 実南天二段に垂れて真赤かな・・・・・・・・富安風生

 あるかなし南天の紅竹垣に・・・・・・・・滝井孝作

 南天軒を抽(ぬ)けり詩人となりにけり・・・・・・・・中村草田男

 南天の実に惨たりし日を憶ふ・・・・・・・・沢木欣一

 いくたび病みいくたび癒えき実千両・・・・・・・・石田波郷

 千両の実だけが紅し日照雨過ぎ・・・・・・・・細田寿郎

 かけ足で死がちかづくか実千両・・・・・・・・石田貞良

 千両や筧の雫落ちやまず・・・・・・・・水谷浴子

 万両や癒えむためより生きむため・・・・・・・・石田波郷

 実万両女がひそむ喪服妻・・・・・・・・高萩篠生

 雪染めて万両の紅あらはるる・・・・・・・・鈴木宗石

 いにしへを知る石ひとつ実千両・・・・・・・・伊藤敬子

 清貧は夫の信条実千両・・・・・・・・有保喜久子

 授乳といふ刻かがやけり実千両・・・・・・・・猪俣サチ

 万両を埋めつつある落葉かな・・・・・・・・山本梅史

 万両の実にくれなゐのはいりけり・・・・・・・・千葉皓史

 千両より万両赤し東慶寺・・・・・・・・中村勢津子

 抱くたびに子の言葉増え実万両・・・・・・・・野田禎男
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こうして見てくると、南天、千両、万両ともに、明るいイメージの句は少なくて、むしろ「沈潜」した句が多いことに気付く。
それは、私の歌のイメージとも重なることに驚くとともに、共感するのである。



啼くこゑの力あるこゑさざんくわのあたりより来るよき朝なり・・・福沢敦子
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    啼くこゑの力あるこゑさざんくわの
       あたりより来るよき朝(あした)なり・・・・・・・・・・・・・・・福沢敦子


この歌を含む一連を引いておく。

        雀ご・・・・・・・・・・・・・・・・・福沢敦子

     水木より黄楊の木へ土へわらわらと雀ごは来ぬ窓近くまで

     月の気配うしろにありて道にいでしわれはゆつくり呼ばれてをりぬ

     かがやきて瞬く間に過ぎし者ありとして昨日けふ思ふべく

     水にもどし手にあまるなり中国の長白山の黒木耳なる

作者は昭和16年生まれの「夏至」という歌誌に拠る歌人である。
伝統的な、しっとりとした歌作りをする人で、佳い歌に仕上がっている。描写が精細である。

 *原発もしかり地球上の核のごみの無害となるまでの歳月おそろし   福沢敦子

という鋭利な時代を詠んだ歌も他のところにあるが、角川「短歌年鑑」令和二年版には、この方の名前がない。
どうされたのだろうか。気になるということを書き留めておく。

田舎でも、スズメの数が、ずいぶん減ったという印象である。
スズメは人間と共に棲息する鳥で、人家に巣を作るのだが、巣を作りにくい構造の家が増えたためではないか、と言われている。
上に引いた一連は必ずしもスズメを全部詠んではいないが、以下は「寒雀」 「ふくら雀」を詠んだ句である。

    石舞台踊るふりして寒雀・・・・・・・渡辺伝三

    とび降りてすぐには飛べず寒雀・・・・・・・山口美琴

    寒雀祈願絵馬より翔ちにけり・・・・・・・飯岡良一

    酒蔵の庇をこぼれ寒雀・・・・・・・堀口まゆみ

    日だまりの庇に並ぶ寒雀・・・・・・・津田喜美

    一羽来て仲間呼び寄す寒すずめ・・・・・・・長澤勇

    厨事終へてふと聞く寒雀・・・・・・・南部静季

    日溜りはふくら雀の安座かな・・・・・・・野田ゆたか

    軒先にふくら雀のみじろがず・・・・・・・河村文香

    相寄りてふくら雀や寒の軒・・・・・・・山口丘刀



詩「りっしんべん」・・・山下佳恵
images 心

──新・読書ノート──

       詩「りっしんべん」・・・・・・・・・・・・・山下佳恵

     心が
     左に立てば
     りっしんべん

     心に空を思えば悾
     心に星を思えば惺


     心に青が寄り添えば情
     心に白が寄り添えば怕

     心を亡くすと忙しく
     心が無いと憮 いつくしむ

     心に妻が寄り添えば悽
     妻はかなしいものなのか
     いたましいものなのか
     心に鬼は愧 はじる

     心が生まれたら性
     感情と意志をあらわす
     人生は楽しいことや喜びよりも
     おそれることや
     いたむこと うらむことが多いのか

     心が
     下にあれば
     したごころ

     くれぐれも
     下心ある人には ご用心
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この作品は「詩と思想」2019年12月号に載るものである。
「言葉あそび」のようなもので、深い思想を書いたものではないが、面白いので、紹介しておく。 
この人には詩集として『海の熟語』 潮流出版社 2013/10
        『四つ葉のクローバー』 潮流出版社 2011/09
があるようであるが、私には詳しいことは判らないが、ご紹介しておく。
引用有難うございました。



                
                           

                           
「恭仁京と大伴家持」・・・木村草弥
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↑ 山城国分寺(恭仁京)復元模型。築地に囲まれているのが金堂(大極殿)。右が七重塔。 京都府立山城郷土資料館

──エッセイ──再掲載・初出「未来」誌2001年8月号所載ほか

        「恭仁京と大伴家持」・・・・・・・・・・・・・木村草弥
            ・・・・・・・・・・「未来」連載特集・万葉集──この場所、この一首(8)・・・・・・・

        ──今つくる恭仁(くに)の都は山川の清(さや)けき見ればうべ知らすらし──大伴家持(万葉集・巻六・1037)

私は昨年秋から恭仁京の発掘品の収蔵の必要から建設され、後に今の形となった京都府立山城郷土資料館でボランティアをする。
館の前庭脇に空外という地元の書家の筆跡による、漢字ばかりの原文の歌二首を刻んだ石碑が立っている。

     ・娘子(おとめ)らが績麻(うみを)かくといふ鹿背(かせ)の山時しゆければ京師(みやこ)となりぬ
     ・狛山(こまやま)に鳴くほととぎす泉川渡りを遠みここに通はず
                              田辺福麻呂(たのべのさきまろ) (「万葉集」巻六・1056、1058)

この資料館の建つ場所は京都府相楽郡山城町上狛千両岩を地番としている。
三重奈良県境の名張あたりを源流とする木津川が西流して来て平城京の資材の揚陸地であった木津にさしかかる一里ばかり手前の現在の加茂町に恭仁京は在った。
引用した二首の歌を含めて出てくる地名だが、西流する木津川の南岸に「鹿背山」があり、北岸に相対する位置にある丘が「狛山」ということになる。
現在も木津町鹿背山という地番は実在するが、山城町上狛という地番はあるけれども狛山という名の山はない。
狛の辺りにある山──資料館のある丘がそれだろうと同定されるに至っている。
二首目の歌は狛山を対岸に望んで南岸から詠われていることになるが、川幅が広かったことが偲ばれる。
鹿背山は相楽郡木津町の東北部にあり海抜204メートルの低い丘。恭仁京の条里で言えば加茂町側の左京と、木津町側の右京とを隔てる自然物の景観でもあった。
因みに『和名抄』によれば山背(やましろ)の国とは乙訓(おとくに)・葛野(かどの)・愛宕(おたぎ)・紀伊(き)・宇治・久世(くぜ)・綴喜(つづき)・相楽(さがらか)の諸郡を含み、今日の京都市南部以南の土地を指すことになる。恭仁京は、そのうちの相楽郡にある。
なお「山城」と書くようになるのは延暦13年(七九四年)の11月以後のことである。引用した歌に戻ろう。
この田辺福麻呂の歌は巻六の巻末にまとめて二十一首が載っているものである。
福麻呂は橘諸兄(たちばなもろえ)に近い人で天平20年には諸兄の使者として越中に下り当時越中国守であった家持を訪ねることになる。
天平12年(七四0年)に九州で起された藤原広嗣の謀反は、聖武天皇をはじめ朝廷首脳部に衝撃を与えた大事件であった。
年表風に記すと─こんな風になる。
天平12年9月、藤原広嗣謀反。10月23日、広嗣逮捕。同29日、天皇関東に行くと告げて離京。大伴家持も供奉同行(巻六・1029の歌作る)。12月15日、恭仁京到着。
翌13年閏3月、五位以上の官人の平城京居住を禁ずる。11月、天皇宮号を「大養徳恭仁大宮(おおやまとくにのおおみや)」と定める。
14年8月、天皇紫香楽宮(しがらきのみや)に行幸し、その後も行幸頻り。15年5月、橘諸兄従一位左大臣となる。
8月16日、家持、恭仁京讃歌(掲出歌)を作る。
12月、恭仁京造営を中止。天平16年閏正月11日、難波宮に行幸。同13日、直系皇子の安積親王急逝。
2月、百官と庶民に首都の選択を計る。恭仁京から駅鈴や天皇印、高御座などを取り寄せる。翌17年5月、官人に首都の選択を計った結果、平城に決定。
市人平城に大移動、天皇平城に帰京。
ざっと、こんな様子であった。
このように短年月(五年)の間に都の所在がめまぐるしく変わるという背景には、天皇を取り巻く権力中枢部での激しい争いがあるのだが、もともと恭仁京のある山背の国は葛城(かつらぎ)王=橘諸兄(聖武天皇妃の光明皇后の異父・兄妹であり、かつ、光明皇后の妹・多比能を妻とする)の班田の土地であり、遷都については諸兄の意向が強く働いたものと言われている。
掲出歌が8月16日に詠まれているが、その12月には、もはや造営が中止されるというあわただしさである。
北山茂夫は『続日本紀』の記述を引いて「七四五年(天平17年)の危機」という把握をした上で、その年の四月以降雨が降らず、各地で地震が起こり、特に美濃では三日三晩揺れて被害甚大となり、天災は悪政によるという風説や放火が広がり、そういう状況を巧みに利用した民部卿藤原仲麻呂一派による、諸兄らの皇親派追い落としの策略を活写する。
年は明けて天平18年、家持はほぼ一年半の歌の記録の空白の後にふたたび筆を執った。そこには彼の喜悦が溢れる。
巻十七の太上天皇(元正)の御在所での掃雪(ゆきはぎ)に供(つか)へ奉(まつ)りき、という(3926)の歌、

  大宮の内にも外(と)にも光るまで降れる白雪見れど飽かぬかも

この席には橘諸兄、藤原仲麻呂の名も見える王臣あげての盛大な宴である。雪は豊作の吉兆として喜ばれていた。その白雪に託して寿歌を上皇に奏上したのである。
その年の3月に仲麻呂は式部卿になり、家持は内舎人から宮内少輔の地位についた。
紙数にゆとりがないので橘諸兄については省略せざるを得ないが、私は第二歌集『嘉木』の中で「玉つ岡」の一連21首の歌に、その一端を詠んでおいた。
大伴家持は、その後も何度も権力騒動に巻き込まれ、中でも征東将軍として多賀城で死んだ後になっても藤原種継暗殺に荷担したとの冤罪で一切の私有財産を没収され古代の名門武門大伴一族が没落することになるのは後のことである。

私は北山茂夫の歴史家としての記述に多くの示唆を得て来た。
新潮社が本につけた帯文は「日を追い、月を追い、熾烈に燃える藤原仲麻呂の野望。名門大伴の家名を双肩に負い、大歌集編纂の大志を胸に抱き、怒濤の時代を辛くもしのぐ家持の苦衷」。
北山氏はこの『萬葉集とその世紀』の脱稿、推敲を果たした直後に昭和59年1月30日に急逝された。
私事だが、妻が大学生で京都市左京区浄土寺真如町に下宿していた家の庭を隔てた向い家に北山先生がお住いで執筆に疲れたのか、よく二階から外を眺めておられた、という。昭和20年代の奇しき因縁である。

・参考文献
1)佐竹昭広・木下正俊・小島憲之共著『萬葉集本文篇』(塙書房平成10年刊)
2)校訂及び執筆者1)に同じ『日本の古典・萬葉集(二)』(小学館昭和59年刊)
3)北山茂夫『萬葉集とその世紀』上中下(新潮社昭和59・60年)
4)『京都府地名大辞典』上下(角川書店昭和57年)

・歌番号は1)による(国歌大観による、と注記あり)

この記事は発表当時のままだから、当該地域は行政的には、現在は「木津川市」となっているので念のため。

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──エッセイ──「未来」誌2001年11月号所載

     補訂・山本空外先生のこと・・・・・・・・・・・木村草弥

本誌八月号に掲載された「万葉集─この場所、この一首(8)」の私の文章「恭仁京と大伴家持」を書いたのは三月のことだ。
その中で万葉歌碑について「地元の書家・空外」の筆跡と言ったが、その後に知るところによると、この人・山本空外(本名・幹夫)先生は哲学者、浄土宗僧侶、書家として有名であることが判った。
先生は、1902年生れ。東京大学文学部哲学科卒。1929年広島文理科大学助教授で欧米に留学。二年半のヨーロッパ留学中にフッサール、ハイデッガー、ヤスパース等西洋哲学権威と親交。1935年弱冠三十二歳にして東京大学で『哲学大系構成の二途──プロティノス解釈試論』により文学博士号を受ける。
1936年から広島文理科大学教授を勤めるが原爆に遭い、その秋出家、僧籍に入り1953年京都府山城町法蓮寺住職となる。
その間1966年定年まで広島大学教授。島根県加茂町隆法寺住職も兼任し同地に財団法人空外記念館を1989年に開設。この8月7日九九歳で遷化された。
私が「地元の書家」と書いたのは自坊の法蓮寺で亡くなられたことからも間違いではないが、上記のように補訂しておく。

空外先生は日本よりも外国で有名な人のようであり日本では世俗的な名誉は望まれなかった。記念館には国内外の国宝級の書画を所蔵するという。
ここで先生の弟子である巨榧山人こと品川高文師の本『空外先生外伝』から面白いエピソードを一つ。

東京サミットの際の話。
時の中曽根首相はレーガン大統領からの土産品の要望に「空外の作品を所望」とあったのに、誰に聞いても知る人がないので困惑していた。
空外記念館のある関係から蔵相の竹下登が知っていることが偶然わかり、何とかツテを頼って空外先生の「歓喜光」の三字の書を揮毫してもらい面目を保ったという。
品川師の本にはオッペンハイマーや湯川秀樹、小林秀雄、魯山人、柳宗悦などが畏敬して教えを受けたというエピソードが面白く物語られているが、それは、また後日。

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      山城郷土資料館・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                    ・・・・・・・・(角川書店「短歌」平成13年5月号所載)・・・・・・・


            ──今つくる恭仁の都は山川の清けき見ればうべ知らすらし──大伴家持

     朝霧にしとど濡れつつ佇めば木津川の波は悲傷を流す

     霧の空に太陽しろくうかびたり幻の騎馬に家持出(い)でばや
                   
     山川の清(さや)けきところ恭仁(くに)の宮は三とせ経ずしてうち棄てられき
              
     年々に花は咲けども恭仁京の大宮人は立ち去りにけり

     恭仁京の発掘品の収蔵を急(せ)かされて竣(な)る山城資料館
        
      銭司(ぜづ)といふ字(あざ)名を今に伝ふるは「和同開珎」鋳造せしところ
                  
     ボランティアのわれは郷土資料館に来たりし百人余りを案内(あない)す
                      
     「古い暮らしの民具展」企画は小学校学習課程に合はせたり

     小学校三年生が昔を学ぶと「くらしの道具」展示に群がる

     三年生はやんちゃ盛り騒(ざわ)めきて引率の教師大声を挙ぐ
               
     学研都市精北小学校の学童はバス三台にて百二十人

     笠置町教育委員会のバス着きて降り立つ子らは十二人のみ

     「へっつい」とは懐かしき竈(かまど)かつて家々の厨にありしものを展示す
                         
     竈神祀(まつ)る慣ひも廃(すた)れたり大き写真のパネルを掲ぐ
          


冬海へ落ちもせざりし千枚田・・・津久井進子
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 ↑ 冬の白米千枚田

     冬海へ落ちもせざりし千枚田・・・・・・・・・・・・・・・津久井進子

掲出した句に合わせて「千枚田」の写真を載せる。これは石川県能登の輪島市にある「白米千枚田」のものである。

ここで「白米千枚田」の紹介をしておきたい。ここは輪島市内から東へ車で15分のところ。
104枚の田があるそうである。海原へ向かう斜面に、これだけの田が広がると圧巻である。

wajima_senmaida003水張田の白米千枚田
 ↑ 田植え前の水張田の白米千枚田

imgf97469aazik5zj稔りの白米千枚田
 ↑ 稔りの白米千枚田

千枚田、棚田というのは全国各地にあり、なかでも三重県紀和町の「丸山千枚田」は丸山地区の斜面に2200枚余の田を数える日本でも最大規模の棚田だが、
残念ながら、ここは山に囲まれた山地で海に面していないから、掲出した句には合わないので見送った。

棚田は、土地の有効利用として、斜面に石垣を築いて狭い面積の田を層状に積み上げた、ものすごい手間の要るものである。
米余りの時代になって、かつ農耕の担い手がなくなり、棚田は荒廃する一方であり、今ではボランティアを募って棚田のオーナーになってもらい、
その資金で地元の農家が維持管理するという苦肉の策で運営されているというのが実情である。
棚田協議会のようなものが組織されて、全国的な連携を図ってやられている。

今日は、たまたま千枚田を詠んだ句を引いたので、千枚田のことを先に書いたが、本来は「冬の海」「冬の波」あるいは「寒潮」のことを書くのが主旨であるので、
以下、冬の海のことと、それを詠んだ句を引きたい。
「冬の海」と言えば、暗く、荒涼として、時化ていることが多い。これは主として北国の海のことで、南国の海は冬でも明るく、凪いでいることも多い。
しかし、冬の海と言えば、語感からして、やはり北国の海を連想することが多いだろう。

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↑ 写真は瀬戸内の牛窓の冬の海である。OCEAN2氏の撮られたものである。
借用した御礼を申し上げておきたい。
暗いが凪いだ瀬戸内の冬景色が、よく表れている。
以下、冬の海、冬の波、寒潮を詠んだ句を引いて終る。

 灯台のまたたき長し冬の海・・・・・・・・富安風生

 冬浜に老婆ちぢまりゆきて消ゆ・・・・・・・・西東三鬼

 鷺とんで白を彩とす冬の海・・・・・・・・山口誓子

 冬浜に人現れて消えにけり・・・・・・・・池内たけし

 一望の冬海金粉打ちたしや・・・・・・・・中村草田男

 喪の家に冬海月をあげにけり・・・・・・・・大野林火

 ひとり帰すうしろに夜の冬の海・・・・・・・・篠田悌二郎

 冬の海てらりとあそぶ死も逃げて・・・・・・・・飯田龍太

 一瞬の紅刷き冬の海昏るる・・・・・・・・逸見嘉子

 立ちあがる浪の後の冬の海・・・・・・・・平野吉美

冬波の百千万の皆起伏・・・・・・・・高野素十

 玄海の冬浪を大と見て寝ねき・・・・・・・・山口誓子

 冬の涛あらがふものを怒り搏つ・・・・・・・・富安風生

 冬波をおそれに来しか見に来しか・・・・・・・・谷野予志

 天垂れて冬浪これをもてあそぶ・・・・・・・・木下夕爾

 胸先に冬涛ひかり暮れゆけり・・・・・・・・角川源義

 立ち上りくる冬涛を闇に見し・・・・・・・・清崎敏郎

 冬浪のひかり鴎となりてたつ・・・・・・・・桑原志朗

 寒潮の涛の水玉まろびけり・・・・・・・・飯田蛇笏

 寒潮に少女の赤き櫛が沈む・・・・・・・・秋元不死男

 流人墓地寒潮の日のたかかりき・・・・・・・・石原八束

 冬潮といへどもぬくし岬の果て・・・・・・・・鈴木真砂女

 ただ寒潮灯台チヨークほどに立つ・・・・・・・・保坂春苺


ほのぼのとくれなゐ淡き冬薔薇にそそのかさるる恋よあれかし・・・木村草弥
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    ほのぼのとくれなゐ淡き冬薔薇に
       そそのかさるる恋よあれかし・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
この歌の前後に

  冬薔薇を剪(き)るためらひは何事ぞ貴きものを奪ふここちす

  言へばわが心さびしもしろたへに薔薇咲き初めて冬に入りたり


などの歌が載っているが、いずれも、四季咲きの薔薇のうち、初冬に咲く薔薇の命の貴重さを詠っている。

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近代バラの代表格である大輪四季咲きは、暖地では12月まで咲きつづく。
この冬バラは比較的寒さには強く、霜いたみすることもないが、剪ればもう咲いてくれない、という儚さがある。
露にしっとりと濡れた冬バラを切るときは、この地上の最も貴いものを奪うという思いのためらいがあるのである。
これらの歌は、そういう気分を表現している。
もちろん、この露地栽培のものに拘らず、温室栽培のものは季節を問わず出荷されていて、それも冬バラには相違はないが、冬薔薇(そうび)の持つ風情には及ばない。

バラと言えば思い出すのは、オランダの花の取り扱い会社「東インド会社」だが、二十数年前にオランダ、ベルギー、ルクセンブルクの、いわゆるベネルックス三ケ国を歴遊した際に、この会社からオランダ直送の「カサブランカ」という百合を家に留守する妻と、妻と私との共通の女の友に送ってもらった。黙っていたので、妻も友人も驚いていたが、いい花で喜んでもらった。
その後、何回かバラを直送してもらってプレゼントしたことがあった。
妻亡き今となっては、いい思い出になってしまった。

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以下、冬薔薇を詠んだ句を引いて終る。薔薇は「そうび」と音読することもあるので一言。

 尼僧は剪る冬のさうびをただ一輪・・・・・・・・山口青邨

 冬ばらの蕾の日数重ねをり・・・・・・・・星野立子

 ケロイド無く聖母美し冬薔薇・・・・・・・・阿波野青畝

 しろたへに鵜匠の門の冬薔薇・・・・・・・・石原八束

 冬薔薇日の金色を分ちくるる・・・・・・・・細見綾子

 冬薔薇やわが掌が握るわが生涯・・・・・・・・野沢節子

 冬薔薇の花弁の渇き神学校・・・・・・・・上田五千石

 山国のわづかにひらく霜の薔薇・・・・・・・・福田甲子雄

 四季咲きの薔薇の小さき冬の色・・・・・・・・今井千鶴子

 冬薔薇咲きためらひて十日ほど・・・・・・・・木村有恒

 冬薔薇一輪にしてまくれなゐ・・・・・・・・吉田悠紀

 火の色に冬薔薇凍てし爆心地・・・・・・・・山田春生






初炬燵開く亡き妻在るごとく・・・沢木欣一
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        初炬燵開く亡き妻在るごとく・・・・・・・・・・・・・・・沢木欣一

もう、この時季になれば、どこの家でも「炬燵」(こたつ)を出しただろう。
もっとも、この頃では全くの洋風暮らしをしている家もあるので、一概には言えない。
炬燵には「置き炬燵」と「掘り炬燵」の二種類があるが、床板をくりぬいた「掘り炬燵」の方が、絶対に足が楽だ。
この頃では和風料理屋などでも年中、掘り炬燵式のものにテーブルを置いてあるのが増えてきた。
正座をしたり、アグラをかくのに苦手な外人などにも好評である。
わが家でも二十数年前に家を建て替えた時に、座敷に「掘り炬燵」を設置した。
夏も天板を、そのまま座卓にして、足は下に垂らせるようにした。天板も和風に合うように、落ち着いた、少し立派なものにした。
冬には下半身を暖めると全身が、ほっこりする。
「書斎」にも、三面が天井までとどく万冊に及ぶ本に囲まれていたが、冬になると真ん中に「置き炬燵」を据えて、そこからテレビを見たりする。
書斎は椅子式の部屋だが、出入りの大工さんに頼んで椅子から足を伸ばせる台を特注で作ってもらい、
その板の上に「置き炬燵」を乗せるので、一人かけのソファーから足が伸ばせるのである。

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写真②は昔の浮世絵の炬燵の図である。鈴木春信画とか書いてあるが真偽のほどは判らない。
うら若い娘が仲良く炬燵を囲んで、「あやとり」をしながら語らっているという構図である。

江戸の日常暦によると、神無月の行事として、上亥、中亥、下亥とある亥の日のうち、武家では上亥の日に、商家では二の亥(中亥)の日に「炬燵開き」をした、という。
コタツには蜜柑が、よく似合う。これは何と言っても季節の風物詩である。

掲出の沢木欣一の句は、妻を亡くした感慨が盛られた句なので、私の今の心情に近いものとしていただいた。

    腰ぬけの妻うつくしき炬燵かな・・・・・・・・・・・・与謝蕪村

というのがあるが、これは炬燵で温まった細君が腰抜けのようなしどけない状態になってしまった、という光景であろうか。以下、コタツを詠んだ句を引いて終りにしたい。

 淀舟やこたつの下の水の音・・・・・・・・炭太祇

 思ふ人の側に割り込む炬燵かな・・・・・・・・小林一茶

 句を玉と暖めてをる炬燵か・・・・・・・・高浜虚子

 炬燵の間母中心に父もあり・・・・・・・・星野立子

 横顔を炬燵にのせて日本の母・・・・・・・・中村草田男

 淋しくもなにもなけれど昼炬燵・・・・・・・・永井龍男

 編み飽いて炬燵の猫をつつき出す・・・・・・・・原田種茅

 炬燵出づればすつくと老爺峰に向ふ・・・・・・・・加藤知世子

 切炬燵夜も八方に雪嶺立つ・・・・・・・・森澄雄

 炬燵嫌ひながら夫倚る時は倚る・・・・・・・・及川貞

 熱き炬燵抱かれしころの祖母の匂ひ・・・・・・・・野沢節子

 どつぷりとつかりてこその炬燵かな・・・・・・・・中嶋秀子

 炬燵して向ひに誰も居らぬ母・・・・・・・・千葉浩史

 調法に散らかしてある炬燵の間・・・・・・・・小畑けい

 活断層の真上に住みて炬燵かな・・・・・・・・安達光宏



垢じみたこころ洗ひたし 冴えわたる極月の夜に月の利鎌だ・・・木村草弥
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      垢じみたこころ洗ひたし 冴えわたる
          極月の夜に月の利鎌(とがま)だ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
ご存知のように「月」にはほぼ29日周期で満ち欠けがあるが、写真のような「利鎌」の形をするのは月齢の中で2回ある。
写真①のような新月から満ちはじめ上弦の月から満月に至る途中の利鎌と、次に出す写真②のような満月から欠けが更に進んだ利鎌、である。この二つの場合には「弧」の向きが逆になる。

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詳しくは「下弦の月」というのをご覧いただきたい。

今年は十二月十二日が「満月」=望である。だから今日は「望」の月から一日目である。だから今日は十六夜(いざよい)である。
十六夜とは、およそ満月の翌日、新月から16日目の夜または月を指す、月の呼び名の一つ。しかし、十六夜が満月となることも。
今年が、まさに、それで、昨日が満月=十六夜、であった。念のため。

「上弦」とか「下弦」という表現については逆の説明がなされる場合があるので、ご注意を。
詳しくは、ネット上の国立天文台の「こよみの計算」にアクセスすれば簡単に知ることができる。

「利鎌」の説明をしていて、つい月の話になったが、本来、話題にすべきは「垢じみた心」を洗いたい、ということであろうか。
私のように長い年月を生きて来ると、体も心も、すっかり「垢」じみたものになってしまっている。
「冴えわたる」極月(12月の異称)の夜の月の「利鎌」を見ていると、それで自分の心の垢を削ぎ落したい、という想いに捕われるというのである。
これらは「比喩」表現であるから、言葉のあれこれの詮索は無用である。

俳句には「寒月」「冬の月」「月冴ゆる」「月氷る」「寒三日月」などの季語が見られる。
さむざむとした青白い月で、毎月見られる月ではあるが、この時期に見ると、厳冬を思わせる月の凄まじさがある。
透徹した空気のため、研ぎ澄まされたような、刺すような寒さが感じられて、美しい。
「寒月」と言えば、特に冷厳な凍りついたような月を言い、氷輪というようで、人を離れて寂として輝いている。
「冬三日月」は仰向きはじめた形で、ひえびえと利鎌のように鋭くかかる。
『枕草子』には「すさまじきもの、おうなのけさう、しはすの月」と書かれている。
『源氏物語』朝顔の巻では「花紅葉の盛りよりも、冬の夜の澄める月に、雪の光りあひたる空こそ、あやしう、色なきものの、身にしみて、この世のほかのことまで思ひ流され、おもしろさもあはれさも、残らぬ折りなれ。すさまじきためしに言ひ置きけむ人の、心浅さよ」とある。

 寒月や僧に行き合ふ橋の上・・・・・・・・与謝蕪村

の句は、そういう雰囲気を、よく表現し尽している。

以下、冬の月を詠んだ句を引いて終る。

 我影の崖に落ちけり冬の月・・・・・・・・柳原極堂

 冬の月をみなの髪の匂ひかな・・・・・・・・野村喜舟

 吹雪やみ木の葉の如き月あがる・・・・・・・・前田普羅

 冬三日月羽毛の如く粧ひ出づ・・・・・・・・原ヨウ子

 寝ぬる子が青しといひし冬の月・・・・・・・・中村汀女

 あたたかき冬月幸を賜はるや・・・・・・・・石田波郷

 寒月に大いに怒る轍あり・・・・・・・・秋元不死男

 人穴を掘れば寒月穴の上・・・・・・・・富沢赤黄男

 寒月や耳光らせて僧の群・・・・・・・・中川宋淵

 降りし汽車また寒月に発ちゆけり・・・・・・・・百合山羽公

 煙突と冬三日月と相寄りし・・・・・・・・岸風三楼

 寒の月酒にもまろみありとせり・・・・・・・・相生垣瓜人

 寒三日月不敵な翳を抱きすすむ・・・・・・・・野沢節子

 寒月光いつか一人となるこの家・・・・・・・・古賀まり子

 寒月の作れる陰につまづける・・・・・・・・高木貞子

 寒月にまぶたを青く鶏ねむる・・・・・・・・田中祐三郎


冬山の青岸渡寺の庭にいでて風にかたむく那智の滝みゆ・・・佐藤佐太郎
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   冬山の青岸渡寺(せいがんとぢ)の庭にいでて
       風にかたむく那智の滝みゆ・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤佐太郎


佐藤佐太郎は斎藤茂吉に師事し、茂吉に関する著書も多い。
西国三十三所第一番の札所青岸渡寺から那智の滝を遠望すると、ちょうど夢の中ででも見るような感じで、一筋の白い滝が崖から流れ落ちる。
作者は折からの冬景色の中で、滝が風を受けて、ふっと傾くのを見たのである。
「庭にいでて」とあれば文法的には、結句は「那智の滝(を)みる」となるのが自然だと思われるが、佐太郎が、
それを「みゆ」とした時、滝は言わば見る者と、見られる物という対比を超えて、ごく自然に見る者の中に入りこんで来たのである。
昭和45年刊『形影』所載。

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佐太郎の歌に描かれた風景を写真に表すならば、写真②のようになる。手前の三重の塔が青岸渡寺のものである。
遠景に那智の滝が白く見える。この滝そのものが那智大社の御神体である。
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↑ 熊野那智大社

もともとは神仏混交であって那智大社も寺も一体のものであったが、明治初期の神仏分離によって分けられたものである。今日、寺は天台宗に属する。
開基は仁徳天皇(313-399)の御代にインドから裸形上人が(釈尊入滅後882年頃)一行6人と共に熊野灘に漂着し、熊野の各地を巡歴した。
上人は今の那智大滝のところにおいて観世音を感得し、今の御堂の地に庵を作り、その後、推古天皇(593-629)の時に、大和より生き仏と言われる聖(ひじり)が来て、玉椿の大木に如意輪観世音を彫り、前の観世音を胸に納めたと寺伝されている。
 ↓ 写真④は青岸渡寺である。
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この寺は西国三十三所観音霊場の第一番札所である。巡礼は、先ず、この寺から巡礼をはじめ、笈(おいづる)や集印帖ないしは御詠歌の本に寺の朱印を押してもらうのである。
この第一番札所の御詠歌は

    ふだらくや岸うつ波は三熊野の那智のお山にひびく滝つせ

と詠われているが、作者は花山法皇と言われている。西国三十三所のほとんどの歌が花山法皇の歌である。
今や「熊野古道」は世界歴史遺産としての指定を受けるに至り、日本中の注目を集めることになった。



大西昭彦詩集『狂った庭』・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

       大西昭彦詩集『狂った庭』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・・澪標2019/09/20刊・・・・・・・・

作者はWikipediaによると、こういう人である。 ↓
1961年生まれ。 同志社大学経済学部卒業、神戸大学大学院博士課程前期修了。
神戸新聞マーケティングセンター等を経て、1991年独立。
ユーゴスラビア内戦、阪神・淡路大震災をはじめ舞踏団「白虎社」中南米公演などを取材。
共著に小説『相談師』(2009年)、『借金で死なないための短編小説集』(2012年)、ルポ『神戸・都市経営の崩壊』(2001年)など。
2013年ドキュメント番組『鳥人の旅〜コウノトリ舞う空へ〜』、2015年公開の映画『劇場版 神戸在住』を企画プロデュース。
 神戸山手大学非常勤講師。
2007年「第18回日本海文学大賞(詩部門)」受賞。同年「第16回詩と思想新人賞」入選。2009年詩集『太陽と砂』出版。

この本には題名の「狂った庭」という作品は無い。 これは題名のために付けられたものである。
カバーや中に挿入された絵は本人が描いたものらしい。多芸の人である。
先に引用した記事のように、世界を旅された、というか「放浪」されたようである。
その成果が、この詩集の、特に Ⅰ に稔ったと言える。

その中から少し引いてみよう。

          感覚の発見     大西昭彦

    象は祖先の骨を牙にのせて、長い旅をする。その匂いをたえず感じながら、記憶
   の奥深くにしみこませて、歩み続ける。  ところがあるとき、その骨をぽいっと無造
   作にすて去ってしまう。 観察者はいう。あれは道標なのだと。いつかふたたびその
   匂いに遭遇したとき、彼らは水辺が近いことを知る。

    サハラ砂漠にある小さな集落に、しばらく滞在したことがある。・・・・・      ぼく
   は砂の流れる音を聞き、夜の闇のなかで方位を感知できるようになった。砂漠の民
   トゥアレグは、砂の味でみずからの居場所を知るという。・・・・・・
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この詩は巻頭に置かれるだけあって、作者にも愛着のあるものだろう。
このエピソードは、どこか他でも読んだ記憶があるが、特異なものである。

        ドビュッシーの庭       大西昭彦

    マルセイユの安ホテルの窓から
    小さな裏庭が見えた
    手入れがされないまま植物が繁茂し
    雨に打たれていた
    庭のむこうにある建物の二階
    フランス窓が開いている
    部屋の薄暗がりのなかにベッドがあって
    女の白い乳房が見えていた
    やがて裸の男があらわれ
    窓辺に歩み寄って 庭に目をやる
    若い男で 体毛が薄く
    縮れた栗色の頭髪と陰毛をもっていた
    その下に死んだ蛇のように垂れた白い陰茎があった

    ピアノ曲集「版画」の第三曲「雨の庭」
    この曲を聴くと
    あの裏庭の雨が浮かびあがってくる
    ドビュッシーは1903年にこの曲を完成させた
    その年 レジオン・ドヌール五等勲章を受章
    翌年 最初の妻リリーが自殺未遂を起こした
    鍵盤を連打するような
    あの庭が ぼくのなかにも棲んでいて
    静かに狂って
    夏の雨に打たれている
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ここに「狂った庭」が出てきて、詩集全体の題名と合体するのであった。

       茉莉の夏      大西昭彦

    激しい雨のあとだったから
    船のデッキにはだれもいない
    時化の海は灰色だ
    茉莉と口にしてみた だれもこたえはしない
    船が大きく傾いて足がすべった

    むずかしい字だなというと
    もともとはサンスクリット語よと教えられた
    シャスミンのことだと もうずいぶん前だな
    ある国は国花に定め ある人は死の
    アナロジーだという 甘く冷たい香りの花だ

           ・・・・・・・・・・

    茉莉花茶はベースとなる緑茶の葉に
    ジャスミンの蕾をまぜこむ
    それが夜になると開花して香りをはなつ

           ・・・・・・・・・・

    八百屋の店先で発情する西瓜
    葉蔭にひそむ蜥蜴のぬめり
    夏が 激しく盛っている
---------------------------------------------------------------------------
これは Ⅱ の項目に載るものである。

       島へ

    その島に着いたのは日暮れだった
    勤務を終えた工場長の舟に乗って
    日没まえの黄金色に輝く海を走り
    流し釣りで太刀魚を釣ると
    釣果を土産に瀬戸内の小さな島の
    海辺にある民宿のまえで
    舟をおりたのだ

         ・・・・・・・・・・

   あれから十五年がすぎて
   あの小さな島を訪れることがあった
   民宿を見て あぁあのときの島か
   と気づくまでは
   
       ・・・・・・・・・

   夏の海に突きだすように設けられた
   打ちっぱなしのコンクリートの
   釣り小屋にしてはあまりにそっけなく
   それどころか異様な雰囲気をもった建物があって
   まるで小さな要塞か監獄のようだった
   そこはかつて若者たちが
   死の練習をした場所だ
   片道だけの燃料を積んで
   たったひとりで魚雷艇を操り
   敵艦に突撃するために
   暗い海の底を進んだ場所だ
   出撃の日
   手をふる人によって見送られたのか
   帰ってこない人にむけて激しくふられる手に

         ・・・・・・・・・
-----------------------------------------------------------------------------
最後の詩は、もはや多くの人には未知の、忘れられた物語かもしれない。
敢えて、書き綴った詩人の志を多としたい。
今どきの訳の分からない作品よりも、私の心に、ずっしりと届いたことを書いて終わりたい。    (完)   
   
    

山茶花のくれなゐひとに訪はれずに・・・橋本多佳子
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    山茶花のくれなゐひとに訪はれずに・・・・・・・・・・・橋本多佳子

山茶花さざんかはツバキ科の常緑の小高木で、葉に光沢があり、初冬に椿に似た、一回り小型の五弁の花を開く。
この花の咲く期間は長くて11月から咲きはじめて、次々に咲きつぎ、12月中旬の今もなお咲いている。
この木にも早咲き、仲咲き、遅咲きなどの種類がある。
木の下にはハラハラと落ちた花びらが一杯散り敷いている。
色には白、淡紅のほか、しぼりなどさまざまな品種改良されたものがある。
原産地は日本だが、園芸品種として改良され、庭に植えたり、盆栽にしたりする。正しくは「茶梅」というらしい。
山茶花を音読みするとサンザカとなるが、言いにくいので語順が入れ替わって「サザンカ」となったものである。
サザンカについては先にも書いたが、掲出の橋本多佳子の句が引きたくて、出してみた。

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写真②は昔、肥後熊本城主・細川家で改良された「肥後山茶花」である。
「肥後六花」のうちの一つ。

掲出した橋本多佳子の句は、「サザンカが紅ふかく咲いたが、訪う人もなく淋しい」という意味の、老いの寂寥感のただよう作品である。
若くして夫に先立たれ、晩年は奈良で暮らした多佳子の佳品である。
図版③に多佳子の写真を出しておく。

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以下、山茶花を詠んだ句を引いて終る。

 山茶花のここを書斎と定めたり・・・・・・・・正岡子規

 霜を掃き山茶花を掃くばかりかな・・・・・・・・高浜虚子

 無始無終山茶花ただに開落す・・・・・・・・寒川鼠骨

 山茶花のみだれやうすき天の川・・・・・・・・渡辺水巴

さざんくわにあかつき闇のありにけり・・・・・・・・久保田万太郎

 山茶花の散りゆきすでに月夜なる・・・・・・・・水原秋桜子

 山茶花の長き盛りのはじまりぬ・・・・・・・・富安風生

 山茶花の貝の如くに散りにけり・・・・・・・・山口青邨

 山茶花の散るにまかせて晴れ渡り・・・・・・・・永井龍男

 花まれに白山茶花の月夜かな・・・・・・・・原石鼎

 山茶花やいくさに敗れたる国の・・・・・・・・日野草城

 山茶花のこぼれつぐなり夜も見ゆ・・・・・・・・加藤楸邨

 山茶花の日和に翳のあるごとく・・・・・・・・西島麦南

 山茶花の咲きためらへる朝かな・・・・・・・・渡辺桂子

 山茶花の散り重なり土濡れぬ・・・・・・・・原田種茅

 山茶花の咲く淋しさと気付きたる・・・・・・・・栗原米作

 山茶花にたまさかさせる日なりけり・・・・・・・・望月健

 白山茶花地獄絵のごと蜂群るる・・・・・・・・高木雨路


寒い夜にちっぽけな寓話を書いて/重い砲声がまた駱駝の喉を揺らす・・・柴田三吉
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     寒い夜にちっぽけな寓話を書いて、
     淋しさの底に落ちる。・・・・・・・・・
     重い砲声がまた駱駝の喉を揺らす・・・・・・・・・柴田三吉


この詩は「詩と思想」2017年11月号巻頭特集に載るものである。

        寓話      柴田三吉

        (前略)

   寒い夜にちっぽけな寓話を書いて、淋しさの
   底に落ちる。いまでは天も地も淋しいものた
   ちの寄せ集めだ。重い砲声がまた駱駝の喉を
   揺らす。
        (中略)

   存在と非在のあいだに愛と無縁の夜があり、
   肋がうずく夜があったとしても、この世に生
   じたものは耐えなければならない。

   なにかを失ったわたしたちは、深い亀裂を満
   たすなにかを思い出すほかないのだ。かつて
   抱擁と契りを重ねた天地。そのはじまりの歓
   びを、ひどく寒いこの夜のうちに。

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この詩は、いま中東で起こっている事象の暗喩であることは確かだろう。
<重い砲声がまた駱駝の喉を揺らす>という詩句など、秀逸である。
そして終連の四行が、この作品を締めくくる。

この柴田三吉という人のことは、私は何も知らないが、今年を締めくくる作品として、敢えて引いておく。
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柴田 三吉 (しばた さんきち)

略暦
1952年 東京生まれ。
季刊詩誌「Junction」を草野信子と発行。
詩集『さかさの木』 『わたしを調律する』 『遅刻する時間』 『非、あるいは』ほか。
日本詩人クラブ新人賞、壺井繁治賞を受賞。
『角度』(2014年)で第48回日本詩人クラブ賞を受賞。






      
ひひらぎの秘かにこぼす白花は鋭き鋸歯の蔭なるゆふべ・・・木村草弥
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    ひひらぎの秘かにこぼす白花は
      鋭き鋸歯(きょし)の蔭なるゆふべ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

柊(ひいらぎ)は、悪魔を祓うとかいう言い伝えで、家の玄関脇に植えられていたりする地味な木だが、鋭いノコギリ状の葉を持っている。
この木は初冬に、その鋸歯の葉の蔭に小さな白花をつける。季節が寒い冬であり、しかも皆いそがしい12月だから、この花に気づく人も少ないだろう。
今この花の花盛りで11月下旬から咲きはじめた。、傍を通ると、すずやかな佳い香りがする。人によってはスズランに似た香りだという。花言葉は「用心」「歓迎」

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結構かわいらしい清楚な花である。図鑑を見るとモクセイ科の常緑小高木と書いてある。
柊という名前の由来は疼(ひいらぐ)で「痛む」という意味である。
疒(やまいだれ)に旁(つくり)に冬と書く。
熟語に「疼痛」(とうつう)があるのをご存じだろう。
葉の棘に触れると疼痛を起こすことから言う。「いら」とは「苛」で棘を意味する。
本来、この木は関西以西の山地に自生する暖地性の木らしい。
この頃に咲く花としては「枇杷」の花などもある。さざんか、茶の花などは、よく知られているものである。この頃に咲く花は初夏の頃に実をつける習性がある。
年が代って節分になると、この木の小枝に鰯の頭を刺して魔除けの縁起かつぎをする木として、一般に知られているが、この頃では家が小さくなって、この木が植えられる家が見られなくなって、この風習も廃れる一方であろう。
以下、この花を詠んだ句を引いて終る。

 柊の花一本の香かな・・・・・・・・・・・・・高野素十

 柊の花と思へど夕まぐれ・・・・・・・・・・・・・富安風生

 柊の花多ければ喜びぬ・・・・・・・・・・・・・中村草田男

 柊の花のともしき深みどり・・・・・・・・・・・・・松本たかし

 粥すくふ匙の眩しく柊咲く・・・・・・・・・・・・・長谷川かな女

 花柊母の伝言短くて・・・・・・・・・・・・・小西敬次郎

 柊の香がする夜昼田がねむり・・・・・・・・・・・・・森澄雄

 柊の花を見し日や眼帯す・・・・・・・・・・・・・細見綾子

 父とありし日の短さよ花柊・・・・・・・・・・・・・野沢節子

 柊の花音もなく海は夜に・・・・・・・・・・・・・村田脩

 花柊袖通すものひやひやと・・・・・・・・・・・・・永方裕子

 弥陀の扉を花柊の香へひらく・・・・・・・・・・・・・吉野義子

 花柊一つぶ髪に真野間来て・・・・・・・・・・・・・中村明子


詩「邂逅」<通し給え蚊蝿の如き僧一人>1792年一茶三十歳・・・宮沢肇
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↑ 小林一茶像

     詩「邂逅」<通し給え蚊蝿の如き僧一人>1792年一茶三十歳・・・・・・・・・宮沢肇

この詩は「詩と思想」2017年11月号に載るものである。
見事なメルヘンの一篇となっているので、ご紹介しよう。

      「邂逅」       宮沢肇

     <通し給え蚊蝿の如き僧一人>
     1792年一茶三十歳
     関西から九州・四国を巡る西国への旅立ちの
     通行手形の一句であった
            ・・・・・・・・・・
    
     2000年のとある日の早朝
     ウィーンのミッテを出発した国境越えのバスは
     検問のため国境の町Bhonhofで停まった
            ・・・・・・・・・・・

     ひとりの僧服の男が
     検問所に隣接した木戸を開けて
     出てきた

     なんと 日本を出るとき眺めた
     ひとりの肖像画の田舎業俳ではないか

           ・・・・・・・・・・

     ぼくは車窓から思わず声をあげた
     あの一句はこんな処にまで神通力を発揮していたのだ
              
           ・・・・・・・・・

     車窓のぼくと眼を合わせたかれはいきなり
     何か弾けるような言葉を発した
     「ヤポンスキー・ヤタロウ」と
     ぼくの耳には
     たしかにそう聞こえた
         *「寛政句帳」より。
          「ヤタロウ」(弥太郎)は一茶の幼名

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宮沢肇氏のことは何も知らなかったが、多くの詩集をお出しになっておられる。「詩人住所録」によると長野県上田市の方である。

『雄鶏』(1959年) 『青春寓話』(1964年) 『仮定法の鳥』(1982年) 『鳥の半分』(1991年) 『帽子の中』(1996年) 『宮沢肇詩集』(1997年) 『朝の鳥』(2000年) 『分け入っても』(2003年) 『舟の行方』(2009年) 『海と散髪』(2015年) など。
ここに記して敬意を表しておく。






第三語根弱動詞なるアラビア語文法用語も遥けくなりぬ・・・三井修
h_arbあべ しんぞう
 ↑ アラビア語の表記の一例 「あべ しんぞう」

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↑ 三井修 第七歌集『薔薇図譜』
三井修
 ↑ 第五歌集『軌跡』
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 ↑ 第八歌集『海図』
汽水域_NEW
↑ 第九歌集『汽水域』
三井_NEW
↑ 第十歌集『海泡石』


        第三語根弱動詞なるアラビア語
            文法用語も遥けくなりぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三井修


三井修氏には、2012年に出した第五歌集『昭和』の帯文を書いてもらった他、同年夏に東京で開いてもらった「読む会」開催のお世話をしていただいた。
また2010年に上梓した私の第二詩集『愛の寓意』(角川書店)の「栞」文を書いていただいた。
三井修氏は昭和23年石川県能登生まれというから、まさに団塊世代のど真ん中の人だ。
三井氏の略歴はWeb上で見ると、下記の通りである。

略歴
1972年 東京外国語大学アラビア語学科卒業
 同年 三井物産株式会社入社
2000年 三井物産株式会社退社
2004年 財団法人中東経済研究所上級研究員
2005年 (財)日本エネルギー経済研究所 中東研究センター 研究主幹

主な論文・著書
「イラクの現状と経済復興の動向」『中東動向分析』Vol.3,No.8(中東経済研究所、2004)
『中東諸国の政府機構と人脈等に関する調査(イラク)』(同上、2004)
『発展途上国国別援助調査(エジプト)』(国際協力推進協会、2001)

講演歴
「戦後イラク市場と日本企業の対応」(中東経済研究所・創立30周年記念シンポジウム、2004.10.13)

三井物産ではアラビア語の専門家として中東駐在の事務所長などを長く勤められた。

mitsui三井修
また、今をときめく短歌結社「塔」に所属する歌人でもあり、現在「選者」を勤められている。
歌集としては『砂の詩学』 『洪水伝説』 『アステカの王』 『風紋の島』に続いて、2006年3月に第五歌集『軌跡』を上梓された。掲出歌は、その中に載るものである。
その後、平成20年『砂幸彦』平成22年『薔薇図譜』その後『海図』 『汽水域』 『海泡石』を刊行されている。
私との縁については、私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)の出版記念会で批評していただいた。その件の詳しい内容はWebのHPでご覧いただける。

ここで「アラビア語」に関する記事を引用しておく。
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4560000999.09アラビア語辞典
アラビア語
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

話される国 アルジェリア、バーレーン、エジプト、ガザ地区、イラク、イスラエル、ヨルダン、クウェート、レバノン、リビア、モーリタニア、モロッコ、オマーン、カタール、サウジアラビア、スーダン、シリア、チュニジア、アラブ首長国連邦、ヨルダン川西岸地区、イエメン
地域 中東
話者数 2億2500万

言語系統 アフロ・アジア語族

セム語派
中央セム語
アラビア語

公的地位
公用語 アルジェリア、バーレーン、コモロ、チャド、ジブチ、エジプト、エリトリア、イラク、イスラエル、ヨルダン、クウェート、レバノン、リビア、モーリタニア、モロッコ、オマーン、パレスチナ自治政府、カタール、サウジアラビア、シリア、チュニジア、アラブ首長国連邦、イエメン
国際機関: 国際連合、アラブ連盟、イスラム諸国会議機構、アフリカ連合
統制機関 エジプト:Academy of the Arabic Language

アラビア語版のウィキペディアがあります。アラビア語( ;Al-lughat ul-Arabīya,アッ=ルガトゥ=ル=アラビーヤ)とは、おもに西アジア(中東)・北アフリカのアラブ諸国で用いられ、世界の言語の中でも大変広い地域で話されている言語の一つ。また、国連の公用語においては現在、後から追加された唯一の言語である。アフロ・アジア語族セム語派の一種である。ISO 639による言語コードは、2字がar, 3字がaraで表される。

もともとはアラビア半島で話されていたいくつかの言語(例えば南アラビア語)を意味するが、現代では次の二つをさす。

文語:フスハー (fus|ha) (正則アラビア語、古典北アラビア語ともいう)
口語:アーンミーヤ

フスハーはアラブ諸国の共通語で、アラビア文字で書かれる。起源は西暦4世紀ごろのアラビア半島にさかのぼるといわれ、イスラーム文明の出現と拡大にともなって北アフリカにまで使用地域が広がり、現在まで言語として大きく変わらずに使われている。

イスラームの聖典であるクルアーン(コーラン)はアラビア語で下されたが、クライシュ族のアラビア語に近かったため、当時のアラビア半島に見られた諸方言のうち、クライシュ族方言が標準語フスハーとしての地位を獲得するに至った。イスラームを伝えるために神が選んだのがアラビア語だったことから、ムスリム(イスラム教徒)はこれを聖なる「神の言葉」としてとらえている。

『マカーマート』のような古典に見られるフスハーは一時期衰退し、アーンミーヤが専ら用いられるようになったが、フスハーは近代になってより簡単なものとして練り直され、書籍・雑誌・新聞などの文章はもちろん、公的な場での会話やテレビニュースなどでも使われるようになった。

一方、アーンミーヤは国・地域によって大きく異なる方言で、これには正字法が無い。アラブ人どうしの日常会話はアーンミーヤで話されることが多いが、私信などではこれを文字化して表現する。

アラビア半島方言、イラク方言、シリア・レバノン方言、エジプト方言、スーダン方言、マグリブ方言などに大別され、それぞれの地域のなかでも違いがある。地域によっては、宗派ごとに話されるアラビア語に差異があるなどする。

アラビア語の特徴
多くの語の語根は三つの子音からなり、母音を変化させ、語彙を派生する。言語学的には、形態論の考えから屈折語に属する。

文字
文字一覧はアラビア文字の項を参照。それぞれの独立形が左右の文字と繋がっていく(ただし例外が6文字ある)ため、蛇のように見える。
文語(フスハー)はもっぱらアラビア文字で表される。アラビア文字のアルファベットは29文字(学説によっては28文字、27文字とすることもある)からなり、大文字・小文字やブロック体・筆記体の区別はない。
口語(アーンミーヤ)には正書法がない。外国人向けの教科書などではラテン文字で表記されることが多い。

発音
子音には喉の奥のほうでhやgなどを発音するような独特の発音があるが、母音は a, i, u の3つと長母音、2重母音 (/ai/,/au/) しか弁別しない。
つづり字法は一部を除き子音字のみを用いるため、意味に応じて母音をつけて発音しなければならない。クルアーンや子供向けの読み物には、短母音記号などの発音記号が付記されているが、大人向けの詩や小説であっても、自分の作品に母音記号を付記する作家もいる。

文法
詳細はアラビア語の文法を参照。

定冠詞、前置詞が存在し、名詞と形容詞(アラビア語では名詞に分類される)は格(主格・属格・対格)・性(男性・女性)・数(単数・双数・複数)によって変化する。
女性形、男性・女性複数形には基本となる規則形があるもののそれ以外にもとりうる形が無数に存在するため、個別に記憶しなければならないものが多い。例: (mudarris、先生)の複数形は規則形であり、語尾に -ūna を付けて、 (mudarrisūna) になるが、(sadīq、友人)の複数は不規則形であるため、 (sadīqūna) とはならず、 ('asdiqā'u) になる。
動詞は3人称男性単数完了形を原形とし、語根順配列の辞典では、その形で引くことになる。原形を基本形、第一形ともいう。これに加えて、第二形から第十五形までの派生形が存在するが、第十一形以降は色の変化などといった限られた場合にしか用いられない。多くの辞書は語根順に語が配列されているため、派生形の動詞を辞書で参照するには、動詞からその語根すなわち原形を抽出しなければならず、これが、初学者にとっての辞書引きを困難にしている。

アラビア語を起源とする語彙
トタン、如雨露(じょうろ)、コーヒー、ラケット、シロップ、アルコール、アルカリ、ソーダ、シャーベット、ソファ、モンスーン、アベレージ(平均値)、ジャケット、 ゼロ(零)、タリフ(関税率) アルゴリズムなど。
星の名前
アルタイル(「飛ぶ鷲」という熟語の「飛ぶ」という部分)
アルデバラン(従うもの、後に続くもの。プレアデス星団に続いて地平線より昇ることから)
アルゴル(人を食べるという魔物の一種)
アルビレオ(「雌鳥のくちばし」の意味の語が西洋人の誤訳と誤解を経て)
ヴェガ(「降り立つ鷲」という熟語の「降り立つ」という部分)
デネブ(「鶏の尾」という熟語の「尾」という部分)
フォーマルハウト(大魚の口)
ベテルギウス(巨人の腋の下)
リゲル(脚)
「アル」で始まる言葉が多いのは、al- がアラビア語の定冠詞だからである。

アラビア語を公用語とする国
アラブ首長国連邦 - アルジェリア民主人民共和国 - イエメン共和国 - イスラエル国 - イラク共和国 - エジプト・アラブ共和国 - エリトリア国 - オマーン国 - カタール国 - クウェート国 - サウジアラビア王国 - ジブチ共和国 - シリア・アラブ共和国 - スーダン共和国 - ソマリア - チャド共和国 - チュニジア共和国 - バーレーン王国 - パレスチナ自治区 - モーリタニア・イスラム共和国 - モロッコ王国 - ヨルダン・ハシミテ王国 - 社会主義人民リビア・アラブ国 - レバノン共和国

なお、マルタ共和国のマルタ語もアラビア語の方言であるが、地理的にヨーロッパのためラテン文字で綴られる。

他にもペルシア語、トルコ語、スペイン語、ヒンドゥスターニー語などの言語にはアラビア語からの借用語が多い。これらの言語は皆現在アラビア文字で書かれているか、過去の一時期にアラビア文字で書かれていた歴史を持つ。
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もとより私はアラビア語には全く無知の人間であるが、大阪外語の大先輩の田中四郎氏の著書『やわらかなアラブ学』 『駱駝のちどりあし』(いずれも新潮社刊)などを読んだことがある。
曲りなりにも若い日々に「西欧語」を学んだことのある私としては、分からぬままに「右横書き」という、ミミズの這ったような「アラビア語」なるものに関心はあるのである。
その上、この人の歌には知識人としての教養を刺激される何物かが多分にある。

掲出した歌について触れると、アラビア語には「第三語根」とか「弱動詞」とか、めったに聞き慣れない文法があるようである。

以下、三井修氏の歌集から歌を引いて終わりたい。

にこやかにわれを手招く男あり金属探知ゲートの向こうに

通り過ぐる戸の内赤し羊脳の煮らるる炉の火の揺らぎなるべし

この砂の彼方男等が弾倉にルージュのごとき銃弾填める

ポスト・フセイン その一点に集中し錐揉むごとし我等の議論

異邦人われを怪しみ去りゆかぬアラブの男の子羊を従え

取り返しつかざることなど幾つでもしてきたぞなあ 軒の燕よ

断念を幾つ重ねて来し生か 桜吹雪に身を撲たせおり

銀粉をまなぶたに塗る少女等が午後の街ゆく 遠きチグリス

 しかし、中東とはいまだに縁がきれない
文献をあまた調べて作りゆく朽ち葉のごときフセインの家系図

すべて妄想、多分そう、さりながら昨日の戦況を分析しており

上代特殊仮名遣いなる「毛」と「母」の違いほどなり我等の齟齬は

滅びゆくもの野の風に響きあう 遺棄自転車、蝶の骸、死者の魂

謀らるることの愉悦よこの坂を寒夕焼けに灼かれつつゆく

家族をば歌わぬ奴と蔑まれ木枯し二号の街を帰り来

母音調和崩れゆくにも似たるかな かの日より君と我の心は

人生の起承転結 転の部を生きているらし白髪増しぬ

エルサレム石畳の路に出会いたるもみ上げ長きユダヤ教ラビ

ヒッタイト遺跡残滓の鉄成分調べて一代を男老いゆく

自らの軌跡を見つつ航くことの淋しもよ夏のボートの青年

歌はもっと自由でいいんだ秋空を雲がほどけて流れるように

エクリチュール、痕跡、差延、テクストを我に教えてデリダ逝きたり

飛行機の時間迫れどパスポート忘れて泣きたり 泣いて目覚めぬ

第三語根弱動詞なるアラビア語文法用語も遥けくなりぬ


がんがんと鉄筋のびる師走かな・・・高柳重信
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──師走の句態──

  ■がんがんと鉄筋のびる師走かな・・・・・・・・・・・・高柳重信

師走も一週間を過ぎて、いよいよ歳末のあわただしさが本格的になってきた。
今日は「師走」に因む句を採り上げる。

この句は、いかにも前衛俳句の作者としての面目躍如という句であるが、しばらく前は首都圏などでは建築ラッシュで、たとえば東京駅周辺などは様変わりしてきた。
まさに重信の詠んだような光景そのものである。
高柳重信が、この句を詠んだ頃は高度成長期だったが、今しもアベノミクスとかで、。。。。ああ、オリンピック目当ての建築もあるからね。
もっとも今では「高層建築」は「鉄筋コンクリート」ではなく「鉄骨」作りである。鉄骨を組み上げて外側に外壁パネルを組み付ける工法である。
何階から高層建築というか、など私は知らない。

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  ■極月の三日月寒し葱畑・・・・・・・・・・・・・・大谷句仏

大谷句佛(1875~1943) 明治~昭和期の真宗大谷派僧、東本願寺23世、京都生、法名・彰如、諱・光演、号・愚峰、俳号・句佛、現如上人の次男、地方各地を巡錫、門徒を督励し親鸞650回忌を勤修、画を竹内栖鳳に学び、俳句を子規・虚子らに私淑、書画・俳句に通じる風流人としても知られた。昭和18年歿67才。

十二月の呼び方としては「師走」のほかに、ここに出した「極月」「臘月」など、いろいろあるが、いずれも一年の終りとしての月の意味を孕んでいる。

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  ■極月の人々人々道にあり・・・・・・・・・・・・・・・山口青邨

写真は渋谷のスクランブル交差点である。
この青邨の句は単純でありながら、せせこましい師走の情景を捉えて過不足がない。

  ■師走もつともスクランブル交叉点・・・・・・・・・岩岡中正

という、そのものずばりの句もある。
通行人の懐がぬくいのか、金欠か、さまざまの人々が往来する。
アベノミクスに便乗して株で儲けた人も居れば、損をした人も居よう。世の中は、さまざまである。悲喜こもごもである。

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  ■法善寺横丁一軒づつ師走・・・・・・・・・・・・稲畑汀子

ここらで関西の師走の句も採り上げないと不公平だろう。

法善寺横丁
石畳が続く古い路地で、織田作之助の小説「夫婦善哉」の舞台としても有名。商売繁盛や恋愛成就を祈願した人がかけた水で、全身が苔むした水掛け不動がある。
写真④に見える「正弁丹吾亭」は大阪の文化人の溜り場で、今でも歌人の前登志夫や私の兄事する米満英男氏なども屯していたところである。
その前氏も亡くなって、もう数年が経った。米満英男氏も亡くなった。年月流転である。
織田作之助生誕百年とかで、『夫婦善哉』などがテレビドラマ化されたりしたが、ここは彼にもゆかりのあるところである。

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  ■臘月や錦市場に鯛の粗(あら)・・・・・・・・・・・・・・岡井省二

京の台所といえば、ここ錦市場である。今では外国人の観光客で、とても混んでいる。

錦市場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

錦市場(にしき いちば)は、京都市街ほぼ中央に位置する錦小路通のうち「寺町通 - 高倉通」間の商店街で、魚・京野菜などの生鮮食材や、乾物・漬物・おばんざい(京都言葉で日常の惣菜)などの加工食品を商う老舗・専門店が集まる市場。京都独特の食材は、ほぼここで揃う。

鮮魚店400年の歴史を持ち、京都市民からは「にしき」という愛称で呼び親しまれ、「京の台所」として地元の市民はもとより、新京極商店街や寺町京極商店街とともに、観光客や修学旅行生も訪れる観光名所として活気のある市場として賑わう。

スーパーマーケットや百貨店と違い、ここでは新鮮な旬の食材の品質のよさや豊富な品揃えが支持されて市民生活と密着しているところが最大の特徴となっている。そのため価格を高めに設定する店もあるが、高品質や豊富さから「ほんまもん」(本物)を扱っていると信頼し、納得する市民は少なくない。他地域で「錦市場」を銘打つ店が増え、品質を維持するためにも京都府内の商店街で初めて「錦市場」の商標登録を取得している。一方、臨時に「にしき」と銘打った食品コーナーを設ける百貨店も登場している。
京都の目抜き通り四条通の一本北の錦小路通に位置し、赤緑黄の色鮮やかなアーケードにおおわれた石畳の道の距離は、東西390メートル。商店街振興組合に所属する店は約130店舗、道幅は3.2 - 5メートル、道に迫り出して商品や商品棚を並べる店舗が少なくなく実際はもっと狭い。東の端は、新京極と交差し、その先に錦天満宮がある。

ここで業務用の食材を仕入れる割烹、料亭、旅館なども多く、一般向けには京都名物の鱧など鮮魚を扱う店が20店舗以上と一番多い。そのほか伝統野菜とも呼ばれる京野菜、京漬物・豆腐や湯葉・麩・鰻・佃煮・蒲鉾・干物・乾物などから茶・菓子・パン・寿司まで京料理の食材はほとんどここで揃うといっても過言ではない。

年の暮れには正月用の食材を求める客であふれ、上野のアメ横同様の混雑となる。店舗の営業時間は、店にもよるが、おおむね午前九時から午後五時までが目安となっている。水曜日と日曜日に休業する店が多い。


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