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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(3月)月次掲示板
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東日本大震災から九年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
kohakucyou02-1コハクチョウ飛翔

弥生三月になりました。 3.11の哀しみと鎮魂の日が巡ってきます。
寒暖を織りまぜながら春は一歩づつ深まり、白鳥の「北帰行」も始まっています。

 「ちゃんと除染していますから」お辞儀して拝観料のお釣りくれたり・・・・・・・・・・・・斎藤芳生
 ふくしまの雪が静かに地に沁みて辺野古のジュゴンの瞼を濡らす・・・・・・・・・・・・平山良明
 塚本邦雄いまさばいかに歌ひますや 苦艾は淡黄の花つけるとふ・・・・・・・・・・・・雨宮雅子
 <凍土壁>は凍らぬといふ ひそひそと血のごとく滲みうごく地下水・・・・・・・・ 米川千嘉子
 どこかには埋めねばならずどこかなるそのどこかとふ実存が要り・・・・・・・・・・・・梶原さい子
 乗りたくて後先みずにバスに乗るいづれこの世のどこかに着かむ・・・・・・・・・・ 蒔田さくら子
 米国と戦争したるを日本の若者三割知らざるといふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・秋葉四郎
 つくりだしちゃってしでかしちゃってにんげんが海に命を奪わせている・・・・・・・・・・・ 俵万智
 死はそこにあるかと思ふあかるさに菜の花咲けりその花を食ふ・・・・・・・・・・・・・・・・ 外塚喬
 われもまた雛も老けし春秋に無名指はかな紅さしの指・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・清田由井子
 いつまでも暮れない空にくたぶれて門鎖しにゆく草匂ふところ・・・・・・・・・・・・・・ 河野美砂子
 いつの間にか武器売る国となり居しか逃れなくここに塊として・・・・・・・・・・・・・・ 大河原惇行
 民主主義の数の力がつっぱしる係留杭を引き抜きながら・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・永田紅
 噛むほどに干し烏賊の滋味しみわたりやがて上書きされゆく昨日・・・・・・・・・・・ 武藤ゆかり
 ひとが死にあきたる穴に嵌めらるるひとつのピース くちをつぐみな・・・・・・・・・・ 久我田鶴子
 ツイッターなる奔流は日に夜に喜怒哀楽を流し さえずる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤原龍一郎
 法華堂にしづまりいます観音の光の楽を聴かむとぞする・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・櫟原聰
 ひきちぎるやうにしてきたすぎゆきを思へば春の雲にもあらず・・・・・・・・・・・・・・・・・真中朋久
 梅に酔ふ首都 ぬばたまの不発弾うづめてアメリカなほ君臨す・・・・・・・・・・・・・・・・萩岡良博
 斎藤史がねむる石のへ風なきにいづくからかをりをり花びら流る・・・・・・・・・・・・・・・楠田立身
 カフェ・オレ泡もろともに飲みほしていまだにわれのバロック嫌ひ・・・・・・・・・・・・・・・阪森郁代
 春の旅はげしき海に出会ひけり・・・・・・・・・・・・・ 阿部みどり女
 一燭に春寧からむ伎芸天・・・・・・・・・・・・・・・・・・・阿波野青畝
 蟇ないて唐招提寺春いづこ・・・・・・・・・・・・・・・・・・水原秋桜子
 麗しき春の七曜またはじまる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山口誓子
 夕星のいきづきすでに冬ならず・・・・・・・・・・・・・・・・・藤田湘子
 目つむれば風かすかなり花の雨・・・・・・・・・・・・・さわだかずや

 霾のグリエに春闇ジュレ添えて・・・・・・・・・・・・・・・・・赤野四羽
 春愁が呑み込むサプリメント二錠・・・・・・・・・・・・・・・・市堀玉宗
 鍵かけて寒がる金魚をおいてきた・・・・・・・・・・・・・・・河西志帆
 ものの芽や桝目の大き学習帳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・金子敦
 日に夜に枕つめたき生者われ・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤原月彦
 マスクして監視カメラの高画質・・・・・・・・・・・・・・・・・・折勝家鴨
 白梅や私心のなさを問われけり・・・・・・・・・・・・・・・・・三井淳一
 春陰や行事自粛の首都東京・・・・・・・・・・・・・・・・・・・津野利行
 あちこちが痛むあちこち春を待つ・・・・・・・・・・・・・・・ 月波与生
 行く雁やぐづぐづ曇りつづきなる・・・・・・・・・・・・・・・前北かおる
 春を唄へば浅草の筈である・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・堀下翔
 目の隅まで桜を入れてガムを噛む・・・・・・・・・・・・・・・上田信治
 山笑ふアダム・ブラボー・チャーリーは・・・・・・・・・・ハードエッジ
 抜く腸もぷりぷりとして春鰯・・・・・・・・・・・・・・・・・ すずきみのる
 陽炎や歩いてもなお遠からず・・・・・・・・・・・・・・・・・・・葛城蓮士
 啓蟄の秘仏の腹のレントゲン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池康生
 パンケーキの断面ましろ涅槃西風・・・・・・・・・・・・・・・青木ともじ
 救いなど求めず生きて私を抱いて・・・・・・・・・・・・・・・・・畠働猫
 しやぼん玉吹く子吹かれて泣きたる子・・・・・・・・・・・・杉原祐之 
 三月のひかりに壜の傷あらは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・青本瑞季
 ひかりのなかでおもいだすひかり・・・・・・・・・・・・・・・・藤井雪兎
 黄水仙色鮮やかに独りなり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 工藤定治
 草摘むや衣一枚薄くして・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 片岡義順
 海女擲てば拳のなかの桜貝・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・青山青史
 花馬酔木ほそき煙となる手紙・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 滝川直広
 ずるいなあと母のつぶやく春の山・・・・・・・・・・・・・・・・・ 高梨章
 最後通牒みたいに満開・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 松田畦道
 春草の冠電話越しに編む・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三島ちとせ
 竹叢のさうさうと鳴る涅槃の日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 岬光世
 傲岸な仔猫の如くハイヒール・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・吉川千早
 あるときは鴉を濡らし春の水・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 利普苑るな
 鶴帰るとき置いてゆきハルシオン・・・・・・・・・・・・・・・ 金原まさ子
 セーターに恋の話をしてをりぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・篠塚雅世
 終日カレーの工夫を考えのたりのたり・・・・・・・・・・・・・・白川玄斎
 後れ毛を指から逃がす春の夢・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田中惣菜
 戻り寒大鋸の刃の尖り・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・桑田佳穂
 うたた寝の夢の中へと落椿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・奥田隆夫
 春めくや五段活用したくなり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 盛蓉子
 歳月は塩大福にならはって・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 岩根彰子  
 母胎めく雪解朧に包まるる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木牛後


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★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』(角川書店刊)
 歌集 『嘉木』 (角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 歌集 『嬬恋』(角川書店刊)
 歌集 『昭和』(角川書店刊) 
 歌集 『無冠の馬』(KADOKAWA刊)
 歌集 『信天翁』(澪標刊) 
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 詩集 『修学院幻視』(澪標刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
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本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

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永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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桜草買ひ来このごろ気弱にて・・・安住敦
226さくら草満開

     桜草買ひ来このごろ気弱にて・・・・・・・・・・・・・・・・安住敦

サクラソウ科の多年草。
江戸時代、武士の内職として、サクラソウの栽培が流行し300種類もの品種があったという。その品種の一部が小石川植物園などに維持されているらしい。
サクラソウは、日本種のサクラソウと、プリムラと呼ばれる西洋サクラソウがあり、本来は違うものであるが、
今では、どちらをも桜草と一くくりにして呼ばれている。
掲出した画像は西洋サクラソウ──いわゆるプリムラのものである。

掲出した安住敦の句は、丁度この頃なんとなく気鬱で「気弱」だったのであろうか。
自分の心象を詠んでいて秀逸である。

桜草は湿地に群落をなす花で、今では野生のものは絶滅しかかっており、
「田島が原サクラソウ自生地」に自生するものが特別天然記念物として保存されており、有名である。埼玉県の郷土の花になっている。
写真②が、その「ニホンサクラソウ」である。 ただし、これが咲き揃うのは、四月中頃であるから念のため。
sakurasouニホンサクラソウ

sakurasoニホンサクラソウ

ただし、↑ この写真は軽井沢町植物園のもの。町花になっている。
葉の様子もよく判る。

 我国は草もさくらを咲きにけり・・・・・・・・小林一茶

の句があるが、山桜の花に似て、清純な可憐な美しさの花である。

桜草は亡妻が株を大切にして来たが、病気中に私の不注意で枯らしてしまい、新しい苗を買ってきて、今に至っている。私の買ってきた株は、色が少し濃い。
桜草ないしはプリムラとして多くの句が詠まれているので、下記に引いて終りたい。

 葡萄酒の色にさきけりさくら艸・・・・・・・・永井荷風

 桜草灯下に置いて夕餉かな・・・・・・・・富田木歩

 咲きみちて庭盛り上る桜草・・・・・・・・山口青邨

 そはそはとしてをりし日の桜草・・・・・・・・後藤夜半

 わがまへにわが日記且(かつ)桜草・・・・・・・・久保田万太郎

 桜草の野に東京の遥かかな・・・・・・・・富安風生

 少女の日今はた遠しさくら草・・・・・・・・富安風生

 まのあたり天降(あも)りし蝶や桜草・・・・・・・・芝不器男

 一杯のコーヒーの銭さくら草・・・・・・・・細見綾子

 プリムラやめまひのごとく昼が来て・・・・・・・・岡本眸

 カーテンと玻璃とのあひだ桜草・・・・・・・・森田峠

 桜草寿貞はそつと死ににけり・・・・・・・・平井照敏

 プリムラや母子で開く手芸店・・・・・・・・高橋悦男

 下に鍵かくして桜草の鉢・・・・・・・・木内怜子

 さくら草入門のけふ男弟子・・・・・・・・古賀まり子

 これからのこの世をいろに桜草・・・・・・・・和知喜八

 三鉢買って二鉢は子へ桜草・・・・・・・・大牧広

 卓上は文字の祭壇桜草・・・・・・・・馬場駿吉

 鉄橋を貨車ことことと桜草・・・・・・・・中丸英一

 泣くときは見する素顔や桜草・・・・・・・・平賀扶人



ムスカリの傍に置ける愛の詩集湖より吹ける風はむらさき・・・木村草弥
kyukon4musuムスカリ本命

  ムスカリの傍(かたへ)に置ける愛の詩集
           湖(うみ)より吹ける風はむらさき・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
「愛の詩集」という言葉などは、少し甘すぎるかも知れない。
ムスカリも、そうだが、総じて草花などの名前や栽培は亡妻がやっていたか、または教わったものが多い。
ムスカリは小アジアのアルメニア辺りが原産地と言われている。
学名のMuscariはギリシア語のmoschos(麝香)に由来するという。強い香りから来ているのだろうか。
このムスカリは花壇などにびっしりと密植されているのが豪華で風情がある。
球根植物の例で、暑い夏には地上部は消えてなくなってしまうが、晩秋になると芽を出してくる。
2、3年はそのまま放置して置いてよいが、数年経ったら堀り挙げて保存し、秋に植えなおすのがよい。
写真②に掲出したような「白」のムスカリもあるようである。もちろん栽培種だろう。

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私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)にも

  ムスカリは紫の彩(いろ)に咲きいでて小人の国にシャンデリア点(とも)す ・・・・・・・・木村草弥

という歌が載っている。
ムスカリは丁度シャンデリアをひっくり返したような形をしており、私は、それを「小人の国のシャンデリア」と表現してみた。
ムスカリの特徴を示すものとしては、この歌の方が合っているいるかも知れない。
ムスカリはカタカナ語であり、季語としての市民権を得て日が浅いので、詠まれている句は多くないが、少し紹介する。

  ムスカリは和蘭渡り施薬寺・・・・・・・・・・有働亨

  かたまりてムスカリ古代の色放つ・・・・・・・・・・青柳照葉

  ムスカリや石を起せば何かゐて・・・・・・・・・・永作火童

  ムスカリや川に火を焚く誰かゐて・・・・・・・・・・ながさく清江



京都新聞社南部支社長・大橋晶子さんが定年退職される。・・・木村草弥
信天翁_NEW

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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 京都新聞社南部支社長・大橋晶子さんが定年退職される。・・・・・・・・・木村草弥
 
メール文を引いておく。 ↓

木村草弥さま。 
 コロナ渦で外出がままなりませんが、いかがお過ごしでしょうか。
せっかくの春ですのにね。
人がいない中、桜だけが静かに咲き誇る何とも不思議な光景がここかしこにあります。

 さて、お礼をお伝えするのが遅くなりましたが、「信天翁」をお送りいただき、
どうもありがとうございました。
喪失の哀しみを歌い、自由が敵視された時代を伝え・・・。
いつもながら自在でいらっしゃいますね。
最後に置かれた歌が全体を締め、また木村さんらしくもあります。

 私事のご報告ですが、家の事情もあり、今月末をもって定年扱いで退職することにしました。
第二歌集「嘉木」を通じての思いがけないお出会いから、いつの間にか21年になりました。
あっという間ですね。この間いろいろとお世話になり、感謝しております。
「嘉木」当時は、木村さんが90歳まで歌集を出し続けておられるとは想像だにしませんでしたけれど。
いつまでも変わらぬ知的好奇心が見事、と感嘆しております。
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kaboku_01.jpg

*書評*
   茶への思い 情感豊かに


(京都新聞平成11年6月18日朝刊所載)

城陽市奈島で茶問屋を営む木村草弥(本名・重夫)さん(69)がこのほど短歌集
「嘉木」(かぼく)を自費出版した。なりわいである茶への思いや、病と闘った妻へ
の愛、老い、山城の歴史や身の周りの自然など日常を情感豊かに詠んでいる。

木村さんは91年に歌を詠み始めた。自由な作風で知られる短歌会「未来」や
地元の「梅渓短歌会」の同人となり、仕事の合間に詠んだ歌を発表し続けている。
「嘉木」に収めたのは493首。
95年の第一歌集「茶の四季」以降、98年末までに発表した800首余りの中から
選んだ。
歌の題材は、変わりゆく山城や海外の暮らし、世紀末など幅広い。だが、中でも
多いのは、新茶の季節の喜びや、茶樹への愛情を詠んだ歌だ。
    明日のため見ておく初夏の夕焼は茶摘みの季の農夫の祈り
    茶どころに生れ茶作りを離れ得ず秋の深みに爪をきりゐつ
本のタイトルも陸羽の「茶経」の書き出しの「茶は南方の嘉木なり」からとり、表紙
には「製茶の図」を使った。
木村さんが日常を見つめる視線はどこかユーモラスだ。
  水馬(あめんぼう)がふんばってゐるふうでもなく水の表面張力を凹ませてゐる
長年連れ添う妻を詠んだ歌は温かい。
    病む妻に木瓜(ぼけ)の緋色は強すぎるほつほつと咲け白木瓜の花
    妻を恃(たの)むこころ深まる齢(よわい)にて白萩紅萩みだれ散るなり
第一集に比べ、老いを見つめた歌が増えた。
    嵯峨菊が手花火のごと咲く庭に老年といふ早き日の昏(く)れ
歌集の最後はこう締めくくっている。
    引退はやがて来るものリラ咲けばパリの茶房に行きて逢はなむ

(執筆者・洛南支社記者・大橋晶子)
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私の第二歌集『嘉木』(角川書店)の取材に私宅に来てくださったときのものである。私のHPで読める。
この取材の時に大橋さんと話していたら、彼女の父上が大橋保夫であることが分かり驚いた。
大橋保夫氏は私と同じ仏文科の一年先輩で、私は新制第一回だが、彼は旧制だった。
フランス語のゼミなどは一緒で、とにかく保夫氏は秀才で光っていた。
在学中にフランス政府の給費留学生に受かり、三年間パリ大学(文学部はソルボンヌ)に留学。帰国すると、すぐに京都大学で教鞭を執られた。
母上は、保夫氏と同じフランス語の後輩で大橋寿美子さんという。のちに同志社女子大学長を務められた。
1967-1968年「京都大学 大サハラ 学術探検」(総隊長・山下孝介)。
これは木村重信が企画し、講談社 創業60周年とフジテレビ 開局10周年の事業にドッキングしたもので費用はすべて民間企業の寄付によってまかなわれた。
全隊員の調査報告および記録は『大サハラ─京都大学大サハラ探検隊』(講談社)として1969年に刊行された。
フジテレビが「大サハラ」というタイトルで1969年1月~3月に13回にわたり放映。
産経新聞 が「サハラ砂漠─京大学術探検隊とともに」を1968年1月~2月に30回にわたって連載。
この時には保夫氏は「言語班長」として兄・重信と苦楽を共にした仲であり、これも奇しき因縁である。
この探検隊が帰国したとき、大阪空港(その時には、まだ関空は無い)で寿美子さんが抱いていた乳飲み子が晶子さんだという。
そういう因縁の出会いを経て、二十年余り付き合ってきたのである。
大橋晶子さんは早稲田大学を出て、京都新聞社に入社された。
その間に晶子さんは出世され、外国部、滋賀支社などを経て、現在は京都府南部を所管する南部支社長を務めておられるのである。
そんな長い付き合いを偲んで、書いてみた。ご苦労様でした。お付き合いに感謝します。


馬部隆弘『椿井文書』──日本最大級の偽文書・・・木村草弥
椿井_NEW

椿井_NEW
 ↑ 裏表紙

      馬部隆弘『椿井文書』──日本最大級の偽文書・・・・・・・・・・・木村草弥
                  ・・・・・・中公新書2020/03/25刊・・・・・・・

敬愛する浅田周宏氏が来宅され、上梓されたばかりの標記の本を下さった。
同氏は『浅田家文書』の当主として名高いが、京都府立山城郷土資料館の解説ボランティアや、城南郷土史研究会『やましろ』の会員として活動されている。
 ↑ 赤字の部分はリンクになっているのでアクセスして、お読みいただきたい。
先ず、この本の著者である馬部隆弘氏の略歴を引いておく。
馬部隆弘 略歴
1976年 兵庫県生まれ。
1999年 熊本大学文学部卒業
2007年 大阪大学大学院文学研究科 博士後期課程修了。 文学博士。
枚方市教育委員会。長岡京市教育委員会を経て
現在 大阪大谷大学文学部 准教授
著書 『由緒・偽文書と地域社会──北河内を中心に』 (勉誠出版) 2019年 など

『椿井文書』なるものについては、私は何も知らなかったが、一読して、驚いた。
この本の「要約」が、掲出した本の「裏表紙」に載っていて、極めて的確なものである。画像として読み取れるので読んでもらいたい。
『椿井文書』とは、山城国相楽郡椿井村(京都府木津川市)出身の椿井政隆(権之助 1770~1837)が、依頼者の求めに応じて偽作した文書を総称したものである。
中世の年号が記された文書を近世に写したという体裁をとることが多いため、信じ込まれてしまったようである。
しかも、近畿一円に数百点もの数が分布しているだけでなく、現代に至っても活用されているという点で他に類をみない存在だという。

郷土史などでは、文献を「引用」するという形で書き継がれるので、その資料を「鵜呑み」にして記載されてきた。
それらを一つ一つ検証して書かれている。

この本の巻頭の図版の「口絵 ⒈」に「仏法最初高麗大寺図」なるものが載っている。その説明書きには

<左上部分が椿井村にあたるが、椿井氏来住以前を想定して描かれているため、「薗辺村」という呼称が記される 京都府立山城郷土資料館寄託浅田家文書>

の記入があり、ここから浅田氏と「椿井文書」との関わりが生じたものである。
また、読み進むと浅田家と濃い婚姻関係にあった「小林凱之」家の屋敷の絵図を、横井が描いたものが載っている。
ただし、これは横井の偽文書とは関係がないので、念のため。
椿井村に隣接する小林家は大きな地主であったから、接触があったものとみられ、また有力者ゆえに彼の方から近づいて行ったものか。
なお「浅田家」は、近隣の地主とは異なり、上狛村・椿井村に及ぶ大地主であったから、小林家のような近隣の地主とは「縁戚」を結んでいたのである。
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数年前に開かれた、公開シンポジウム「近代日本の偽史言説」で発表された椿井(つばい)文書に関する発表には下記のように書かれている。 ↓

「椿井文書とは、山城国相楽郡椿井村(現京都府木津川市)出身の椿井政隆(1770~1837年)が、依頼者の求めに応じて偽作したもので、中世の年号が記された文書を江戸時代に写したという体裁をとることが多い。そのため、見た目には新しいが内容は中世のものだと信じ込まれてしまうようである。
彼の存在は研究者の間でもあまり認知されていないため、正しい中世史料として世に出回っているものも少なくない。
椿井文書は、近畿一円に数百点もの数が分布しているというだけでなく、現在進行形で活用されているという点で他に類をみない存在といえる。」
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私は素人であり、かつ郷土史などには無縁の人間なので、ここで検証することなどは無理なので、紹介するにとどまることを了承されたい。

奈良の「興福寺」は藤原氏の氏寺であって、今とは遥かに広大な寺領であったが、その興福寺に連なる縁戚をでっちあげて、自分を、俗な言い方をすれば「偉い」出自に仕立て上げた。
とかいうことがあったらしい。
とかく地方の有力者とかは、今でも「商店」の由来を「創作」して飾りたてることが、ままある。
それに類することが、椿井政隆の手でやられてきたのである。
この本の第五章には「南山城の事例」として、当地に隣接する今の京田辺市の「式内咋岡神社をめく゜る争い」 「井手寺の顕彰」などが載っている。
井手について言うと、ここは聖武天皇の皇后の縁戚である橘諸兄の別業地であったから、その橘諸兄に連なる縁戚のデッチあげ、などもあったようだ。
著者が勤務しておられた枚方市についても、椿井による「偽書」に基づくと指摘しても、編集をまとめる責任者の「地域おこし」のための一言で却下され、今も、その間違いが続いている、などと書かれている。
また著者の指摘に対しての「反論」をする人の多くが、「偽」の記載によって「箔が着く」立場の人である立場にある、と書かれている。京田辺市の「普賢寺」のくだり、などである。
また彼は「絵図」などを描くのが巧く、それも色どり豊かなので、見た目がよく、それらを取り込むことで文書が引き立つので愛用された、と書かれているのも納得できる。
それに彼が生きた時代を見てもらいたい。「幕末」と言える時代である。葛飾北斎が生きた時代で、明治元年が1868年だから、時代が大きく変動する頃である。
この頃には社会は大きく動いていた。人々は不安を抱いて生きていた。そういう時代なればこそ、彼のような贋作者がはびこったのだろう。


私の勝手な感想を言えば、椿井村の主宰者という彼の「設定」自体が、怪しいのではないかという気がするが、いかがだろうか。
舌足らずの紹介で申し訳ないが、「サワリ」として受け止めていただきたい。
間違いがあれば直します。ご指摘ください。よろしく。 
浅田さん、ご恵贈有難うございました。


きさらぎの空ゆく雲を指さして春ならずやと君にささやく・・・太田水穂
17392春の雲

   きさらぎの空ゆく雲を指さして
     春ならずやと君にささやく・・・・・・・・・・・・・・太田水穂


きさらぎ、は新暦の3月として今の時期に採りあげた。
この歌は相聞歌として受け取れよう。
水穂の第一歌集『つゆ草』明治35年刊に載るものだから、相聞歌と断定して、間違いなかろう。
そういう目で読むと、若者の愛の告白の歌として、みずみずしい情感に満ちた佳い歌である。

 君が手とわが手とふれしたまゆらの心ゆらぎは知らずやありけん

という歌があるが、これも同時期に作られた歌であろうか、相聞歌として受け取りたい。

太田水穂は明治9年長野県東筑摩郡生まれの人。高女の教諭や大学の教授などを務める。
大正4年短歌結社「潮音」を創刊。阿部次郎・安倍能成らと芭蕉研究会を結成し「日本的象徴」主義を主張する。「潮音」は今も大きな結社として短歌界に一定の地歩を占めている。
先の第二次大戦中は軍部の文芸界統制のお先棒をかつぎ、戦後、厳しい批判を受けることになる。

水穂の歌を少し引いてみよう。

 ほつ峯を西に見さけてみすずかる科野(しなの)のみちに吾ひとり立つ

 あけ放つ五層の楼の大広間つばめ舞ひ入りぬ青あらしの風

 さみしさに背戸のゆふべをいでて見つ河楊(かはやなぎ)白き秋風の村

 をちこちに雲雀あがりていにしへの国府趾どころ麦のびにけり

 豆の葉の露に月あり野は昼の明るさにして盆唄のこゑ

 張りかへてみぎりの石の濡るるほどあさしぐれふる障子の明り

 青き背の海魚を裂きし俎板にうつりてうごく藤若葉かな

 まかがよふ光のなかに紫陽花の玉のむらさきひややかに澄む

 すさまじくみだれて水にちる火の子鵜の執念の青き首みゆ

 命ひとつ露にまみれて野をぞゆく涯なきものを追ふごとくにも

 おおい次郎君かく呼ぶこゑも皺枯れてみちのくまでは届かざるべし──(阿部次郎氏に)

 もの忘れまたうちわすれかくしつつ生命をさへや明日は忘れむ

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引用した歌の終りの頃のものは、晩年の悲痛な響きを持っている。昭和30年没。


かもめ来よ天金の書をひらくたび・・・三橋敏雄
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   かもめ来よ天金の書をひらくたび・・・・・・・・・・・・・・三橋敏雄

このところ前衛俳句を採り上げている気がするが、今日も、そういう系統の作者にする。
三橋敏雄である。
昭和10年当時の新興俳句運動に共鳴して作句開始。渡辺白泉、西東三鬼に師事し、当初より「無季俳句」を推進する。「風」を経て「京大俳句」に参加、弾圧に遭う。昭和42年現代俳句協会賞。平成元年第23回蛇笏賞受賞。

先日採りあげた富沢赤黄男と同じような俳句革新派であるが、赤黄男とは20年以上の年代差がある。
私は文芸への接近を、現代詩からはじめたので、おとなしい句もいいが、時には、こういう革新派というか、前衛的というか、の俳句も面白いと思うのである。

PICT0913-thumb飛ぶカモメ

この句は昭和16年刊の第1句集『太古』に載るもので、彼自身の自選句でもある。
俳句詩の制作を意識した句であることは、間違いない。
「天金の書」を開くたびに「かもめよ来い」という句づくりは現代詩のものである。この句につづいて

  少年ありピカソの青のなかに病む

という句が並んでいる。この句もピカソの「青の時代」と称される絵を見ての作品であるが、とても面白い。
これも句集『太古』に載るもの。

以下、少し句を引いて終りにする。

  新聞紙すつくと立ちて飛ぶ場末

  海山に線香そびえ夏の盛り

  共に泳ぐ幻の鱶僕のやうに

  昭和衰へ馬の音する夕かな

  鉄を食ふ鉄バクテリア鉄の中

  日にいちど入る日は沈み信天翁

  母を捨て犢鼻褌(たふさぎ)つよくやはらかき

  夕景や降ろす気球のあたま一つ

  絶滅のかの狼を連れ歩く

  天地や揚羽に乗つていま荒男

  晩春の肉は舌よりはじまるか

  くび垂れて飲む水広し夏ゆふべ

  緋縮緬噛み出す箪笥とはの秋

  夏百夜はだけて白き母の恩

  裏富士は鴎を知らず魂まつり

  ぢかに触る髪膚儚し天の川

  汽車よりも汽船長生き春の沖

  戦争にたかる無数の蝿しづか

  あやまちはくりかへします秋の暮

  沈みたる艦船の数海燕

  いづこへも行かぬ竹の子藪の中
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Web上に載る下記の記事を引用しておく。

 永遠なる戦争俳句――★三橋敏雄句集『弾道』に学ぶ 宮二健

 平成13年12月1日、俳人・三橋敏雄が他界した。大正9年11月8日生まれの82歳だった。敏雄がハイティーンの頃に、関わった「戦火想望俳句」の周辺に注目してみたい。戦争は、理由いかんと規模を問わず、世界のどこかで繰り返され続けており人類永遠の蛮行と言わざるをえない。比喩的な戦争を含めれば、世は正に戦時下にある。時代遅れな戦争俳句を持ち出したのは、常に時期なのが戦争だからだ。敏雄の訃報以前の9月11日、アメリカで同時多発テロ事件が起こった。それに端を発した対テロ戦争、以前からのソマリアの内乱やイスラエル対パレスチナの戦争などと、私達は背中合わせに生存している。戦争との共存は時空の遠近関係では計れないほど深刻で身近な問題だ。
 しかるに昭和10年頃台頭した超結社的新興俳句運動に、17歳で新興俳句無季派として頭角を表した敏雄の存在が気になる。14歳で「句と評論」所属の渡辺保夫に俳句の洗礼を受け兄事し、次に師としての渡辺白泉と西東三鬼に恵まれた。戦時下という社会背景の許に最前線の俳句環境と敏雄自身の才と志の三拍子が揃っていた。初期作品篇句集『青の中』(コーベブックス・昭和52年3月刊)は、昭和10年の15歳から20歳迄の作品集であり、同時期の戦火想望俳句集『弾道』(深夜叢書社・昭和52年7月刊)は、昭和13年に「風」と「広場」に発表した93句からなる。また、15歳から44歳迄の作品集の第一句集『まぼろしの鱶』(俳句評論社・昭和41年4月刊)と『弾道』は13句が重複する。当時新進の俳句表現で満17歳の若者が持てる知識と想像を巡らして戦争の有様が詠まれた。まず『弾道』の後記を参照して概要をつかみたい。
 昭和11年に二・二六事件が起き、12年7月7日に日中戦争の発端となる盧溝橋事件が起きた。その頃、新興(革新)俳句運動は停滞の兆しが見えていた。おりしも、その前期の新表現様式の張本人で有季固守の山口誓子が「俳句研究」12年10月号の誌上で、銃後よりも前線で「本来の面目を発揮するがよかろう。刮目してそれを待とう。もし新興無季俳句が、こんどの戦争をとりあげ得なかったら、それはついに神から見放されるときだ」と挑発し、西東三鬼は「京大俳句」12月号の誌上で「青年が無季派が戦争俳句を作らずして、誰が一体作るのだ? この強烈な現実こそは無季俳句本来の面白を輝かせるに絶好の機会だ」と檄を飛ばしけしかけた。敏雄はそれらの揚言に「鼓舞扇動された」と自ら記している。そして、戦争に向き合う新興無季俳句表現への志向は三鬼に、表現の外形は誓子の構成手法に拠った。
 『弾道』の20章中1章~12章の全57句は、渡辺白泉と小沢青柚子共同編集の「風」昭和13年4月第7号に「戦争」と題して発表した連作だ。後に戦火想望俳句と呼ばれた。その内の数句について「サンデー毎日」6月26日号で、誓子が「私は主義として無季俳句を作らないけれど、もしかりに無季作品を作るとすればこういう方向のものを作るのではないかという気がする」と、自己矛盾めく弱腰な評言を放った。そのことは激賞したと言われている。若い敏雄に与えた誓子の高評は終生の勉励意欲に多大な影響を与えたことだろう。敏雄の逸材を見抜いた誓子が賛意を表した句を、「俳句研究」昭和35年12月号より引用しておこう。

 射ち来たる弾道見えずとも低し
 嶽々(やまやま)の立ち向ふ嶽(やま)を射ちまくる
 嶽を撃ち砲音を谿に奔らする
 砲撃てり見えざるものを木々を撃つ
 そらを撃ち野砲砲身あとずさる
 戦車ゆきがりがりと地を掻きすすむ
 あを海へ煉瓦の壁が撃ち抜かれ
 夜目に燃え商館の内撃たれたり

 三橋敏雄句集『眞・鷓鴣』(邑書林句集文庫 平成8年刊)の解説で澤好摩が「射ち来たる」「そらを撃ち」「あを海へ」「夜目に燃え」の句を抄出して、次のように評している。
 「全て無季であるという事実によって、〈戦争〉が異化した現実として存在するという側面を、よりいっそう鮮明に提示している」「『季』という日常性を切り離すことで、〈戦争〉は俳句にとってリアルな対象となりうることを、いち早く少年・三橋敏雄は察したのである」「少年の曇りなき眼がとらえた〈戦闘〉場面であるというにとどまらず、新興俳句運動のなかから導き出された無季俳句提唱に対する、見事な実践であり、大きな成果をもたらした」「少年らしい清潔な抒情の表出と、無季俳句の実践によって新たな表現領域を見出した」
 俳句で当然とされている有季に拠らないで、無季という異様さを呈し、その疎々しさをもって戦争俳句の真実味を獲得したという事だろう。異化とは鋭い指摘だ。俳句表現でも異化効果の斬新さなくして革新性は望めない。銃後でありながら、純真な眼差しが捉えた戦場の景は、天下泰平の証しでもあるような季語信奉に与しないで描かれた。当時のモダンでクールな誓子俳句に傾倒した事とあいまって独創的な連作となった。若輩の敏雄が無季俳句の実践によって成した新たな表現領域は、平成に至っての澤好摩の別角度からの適評によって再度決定付けられた。この成果は今後の俳句表現活動へも引き継がれなくてはならない。その新領域を生かし押し進める実践者の一人として私も名乗りを上げよう。

 かりかりと蟷螂蜂の皃(かお)を食む 誓子 (昭和7) 32歳
 夏草に機関車の車輪来て止まる (昭和8)
 夏の河赤き鉄鎖(てっさ)のはし浸(ひた)る (昭和12)
 水枕ガバリと寒い海がある 三鬼 (昭和11) 36歳
 兵隊がゆくまつ黒い汽車に乗り (昭和12)
 機関銃眉間ニ赤キ花ガ咲ク (昭和14)

 当時の誓子と三鬼の名句である。これらの俳句は、物と動きが冷静に捉えられており、虚子の花鳥諷詠下の客観写生、つまり制縛的抒情とは一線を異にしている。句に投影されたドラマの一齣は、あたかも現実から切り取られた物証の提示のようだ。敏雄の「戦車ゆきがりがりと地を掻きすすむ」の、まるで巨大な昆虫のような戦車の句は、誓子の第一句「かりかりと…」での擬音語の生々しい迫力に感化されたのではあるまいか。また「…掻きすすむ」の動詞の連続は、誓子の第二句「夏草に…」の動きを畳み掛けるようにして、ドラマの終結に持っていく切れの鋭さと通底する。無粋だが「がりがりと戦車が蜂に来て止まる」と想望し、切り貼りすると3句が混在した景の作品となり面白い。それだけ句柄が異質ではなかった。もう一例、敏雄の「あを海へ煉瓦の壁が撃ち抜かれ」は、三鬼の第二句「兵隊が…」と同様、無季の戦争俳句だが、ドラマの進行に終止符を打たない不安感のよそよそしさが、何ともやりきれない戦時下の実感がある。澤好摩言うところの「〈戦争〉が異化した現実として存在する」そのものだ。
 最後に敏雄のもう一人の師・渡辺白泉は、どんな句を作っていたであろうか。

 三宅坂黄套わが背より降車 白泉 (昭和11) 34歳
 遠き遠き近き近き遠き遠き車輪 (昭和13)
 銃後と言ふ不思議な町を丘で見た (昭和13)
 憲兵の前で滑つて転んぢやつた (昭和14)
 戦争が廊下の奥に立つてゐた (昭和14)
 玉音を理解せし者前に出よ (昭和20)
 新しき猿股ほしや百日紅 (昭和20)

 一句目の「黄套」とは陸軍将校のカーキ色の外套のことだそうだ。軍服が「背より」現れ、身近に戦争という異なものを感じる。重厚に不安なリズムを刻む車輪の動き。通常の町を不思議と惚ける諧謔。悪ふざけな口調で深刻と滑稽を同居させる。社会事象を冷徹に擬人化し、遠近法と過去形の空間に立たせる。終戦を兵隊口調で皮肉り、卑近な日常を切実に訴える。それらの事の可笑しい痛痒さを、白泉は誰よりも心得ていて俳人その人だった。

 敏雄の戦火想望俳句は、白泉のような俳味は希薄だ。実直さは誓子に、ニヒリズムは三鬼に似たのだろう。俳句はとりあえず景を捉え、あまねく表現をものにしたい文芸なのだろうが、いかんせん生真面目に深刻になり過ぎて、川柳の専有理念ではない風刺や滑稽・諧謔という俳句本来の要因を忘れがちである。そこのところを直截でなくも警鐘を鳴らし、自覚させてくれたのが、若かりし頃、革新の道を選択した一途な三橋敏雄とその作品であった。

※文字遣は、漢字は常用漢字、俳句以外の仮名は現代仮名遣とした。

【参考文献】『三橋敏雄全句集』(立風書房・昭和57)、『西東三鬼集』(朝日文庫・昭和59)、『富澤赤黄男 高屋窓秋 渡邉白泉集』(朝日文庫・昭和60)、「アサヒグラフ-増刊7・20俳句入門」(朝日新聞社・昭和63)、三橋敏雄句集『眞・鷓鴣』(邑書林句集文庫・平成8)、「追想-師弟対談/西東三鬼・三橋敏雄―俳句よもやま」(三橋敏雄を偲ぶ会・沖積舎・平成14)他。

※当稿は、豈・記念冊子「黄金海岸」篇(35号)(2002.10.1発行)の物故作家・三橋敏雄小論(38~40頁)として掲載されたものである。
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前衛俳句と一口に言っても、ずいぶん幅があり、また、その後の俳人の伝統回帰などもあるので、一概には言えない。三橋はリズムに関しては575の音数律をほぼ守った人である。
上に引用した宮崎の評論は、アンソロジーでは判らない、特に戦争中の彼の在り方を知らせてくれる。



春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出でたつ少女・・・大伴家持
aaoomomo00桃の花
  
  春の苑(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花
    下照る道に出でたつ少女(をとめ)・・・・・・・・・・・・・大伴家持


大伴家持は天平18年から5年間、推定だが、29歳から34歳までの壮年期に、現在の富山県から能登半島を含む北国一帯の長官たる越中守として赴任していた。
この歌は34歳の年の三月一日、春の苑の桃と李(すもも)を眺めて詠った二首のうちの、桃の花の歌である。
「万葉集」巻19の巻頭を飾る歌である。
「にほふ」は本来、色が美しく照り映える意味。「下照る」の「した」は下の意とも、また赤く色づく意ともいう。
花の咲いている木の下が花の美しい色で照っていること。
と同時に下の句の木の下に立つ乙女の輝かしさをも暗示する効果がある。
満開の桃の花の下の乙女は、家持が呼び出した夢の精のようにも感じられる。

因みに、この歌につづく歌を、ここに挙げてみよう。

  わが園の李の花か庭に落(ち)るはだれの未だ遺りたるかも・・・・・・・・・・大伴家持

大伴家持は「万葉集」の編纂者ではないか、と推定されている程、歌の数が多い。
大伴一族は古代からの武門として有名な一族である。
父は大伴旅人(たびと)、叔母に大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)が居る。
「万葉集」巻6に、この二人の歌が二首並べて載っている。

    月立ちてただ三日月の眉根掻き日(け)長く恋ひし君に逢へるかも・・・・・・坂上郎女

    ふりさけて若月見れば一目見し人の眉引思ほゆるかも・・・・・・・・・・大伴家持

この時、家持16歳だったと言われている。どうやら、この頃は叔母に作歌の手ほどきを受けていたらしいと言われている。

後に成人してからは、都に在る時は、天皇の傍に侍る宮廷歌人としての役割を務めているが、時の権力をめぐって藤原一族と皇族派との紛争に巻き込まれて、時に左遷人事とも思えるような仕打ちを受けたらしい。
参考として、私が書いた「恭仁京と大伴家持」というエッセイの文章もお読み頂きたい。(注・「山城町」は合併して現在は「木津川市・山城町」となっている)
もう一人の柿本人麻呂と共に「万葉集」を支える大歌人であろう。
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以下、Web上に載る記事を転載しておく。

大伴家持
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大伴 家持(おおとも の やかもち、養老2年(718年)頃 ~ 延暦4年8月28日(785年10月5日))は奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。祖父は大伴安麻呂。父は大伴旅人。弟に大伴書持がいる。叔母には大伴坂上郎女がいる。鑑真を日本に密航させた大伴古麻呂は、大叔父である可能性がある。

『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。

天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。天平17年(745年)に従五位下となる。

天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。天平勝宝3年(751年)までに赴任。この間に220余首の歌を詠んだ。少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。

橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺を計画に立案した。事件は未遂に終わり、良継一人が責任を負ったため罪には問われなかったが、天平宝字8年薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。宝亀7年伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。宝亀11年(780年)、参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。

没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。子の永主も隠岐国に流された。大同3年(806年)に従三位に復された。

歌人としての家持
長歌・短歌などあわせて473首が『万葉集』に収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。このことから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。『万葉集』卷十七~二十は、私家集の観もある。『万葉集』の最後は、天平宝字3年(759年)正月の「新しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重け吉事(よごと)」(卷二十-4516)である。時に、従五位上因幡守大伴家持は42歳。正五位下になるのは、11年後のことである。『百人一首』の歌(かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける)は、『万葉集』には載っていない。



東野翠れん『イスラエルに揺れる』・・・木村草弥
東野

──新・読書ノート──再掲載

     東野翠れん『イスラエルに揺れる』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・・㈱リトルモア2011/11/09刊・・・・・・・・・・

この本は東野翠れんのエッセイ集・写真集である。彼女は、写真家、ファッションモデル。日本人の父とイスラエル人の母を持つ。
私も2000年にイスラエルに行ったことがあるので親近感を持って、この本を買ってみた。
彼女の父や母、祖母など近親や友人たちを巡って、かの地の風土や習俗などを描いている。
写真家だけあって挿入写真も多い。
イスラエルの野に咲く花の写真が本のカバーの表裏にカラーで載せてある。
この本の表題の「イスラエルに揺れる」というのは、どういう意味なのだろうか。
この本の「はじめに」に、こんな個所がある。

<今わたしは日本にいます。2011年3月11日を経験してから、新しい目を、鼻を、耳を必要としている、そんな感覚があります。
それはもしかしたら、イスラエルを歩くときに必要とする、目や鼻や耳に、どことなく似ているかもしれない・・・・・と感じている。
イスラエルも、日本も、故郷という言葉のもつ輝きそのもののなかで揺れている。>

この彼女の繊細な感覚は鋭い。
東日本大震災の被災者に接するときに、大ざっぱな、横柄な、ぶしつけな態度が許されない、のと同じ意味で、イスラエルの民の辿ってきた道は尊重されねばならない。
もっとも、イスラエルも、何千年来の「怨念」ばかりに縋らないないで、周辺のアラブの国と「共存」する道を選んでほしいというのが私たちの願望なのだが。

この本のはじめにイスラエルの地図が載っている。
この本に登場する人たちは
「私」 日本人の父、イスラエル人の母のもと東京で生まれ育つ。幼少期に二年間イスラエルで暮らし、その後もたびたび訪れている。妹がいる。
「母」 私の母。イスラエル人。ポーランド出身の父と、イギリス出身の母のもとエルサレムで生まれる。ギブアタイム育ち。いまは東京に暮らす。
「サフタ」 私の祖母。サフタはヘブライ語でおばあちゃんという意味。名はグローリア。1949年にイスラエルへ渡った。国連で勤務したこともある。
「サバ」 私の祖父。サバはヘブライ語でおじいちゃんという意味。いまは二番目の奥さんとイスラエルに暮らす。
「タミ」 母の妹。イスラエルのテルアビブで暮している。空港まで私たちをいつも迎えに来てくれる。
「モシェ」 その夫。
「ガル」 その息子。ガルはヘブライ語で波という意味。
「ツィビ」 その犬るあわい茶色のたくましい犬。
「プレマ」 母の古い友人で、ハイファ近郊のマフラという小さな村に住む。ドイツ人。美しい機を織る。
「ニツァン」 その夫。イスラエル人。太極拳を教えている。
「ヨナタン」 その長男。
「ラファエロ」 その次男。サーフィンが好きでいつも海にいる。
「イタマール」 その三男。ラファエロと同じくらいサーフィンが好き。私の妹と年が近い。
「ローズ」 母のいちばん年上の友人。母が徴兵を終え放浪の途中ギリシャ行きの船で出会った。ロスアンジェルスに住む。
「イングリッド」 母の古い友人。紅海沿岸、ドルフィンリーフのあるエイラットに住む。
「ピナ」 サフタの古い友人。いまはテルアビブのはずれにある老人ホームに暮らす。私にイデッッシュ語の話をしてくれた。
「ツィガレ」 ゴラン高原でワイナリーを営む。よく働く三人の息子がいる。

長々と「この本に登場するおもな人びと」を書き写したが、皆さんにはわかり難いかも知れないが、かの地に行ったことのある私には大切なことである。
イスラエルでは男も女も平等に18歳になれば三年間の徴兵の義務があるのである。
休暇で家に帰るときも彼らは、いつも制服で「銃」を携行している。
その間、紛争、戦争が起これば命を落すこともある。だから、ここに書かれているように、徴兵が終った後は、彼らは世界中に「放浪」に出る。
その後に大学に入ったりする。
詳しくは、私のHPの「ダビデの星─イスラエル紀行」を参照されたい。 

以下、彼女の概略をWikipediaから引いておく。

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東野翠れん
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

東野 翠れん(ひがしの すいれん 1983年8月25日 - )は、日本の写真家、ファッションモデル。日本人の父とイスラエル人の母を持つ。

14歳から写真を撮りはじめ、ミュージシャンのポートレートなどを撮影するようになる。現在は、雑誌連載や写真集の出版などの活動を行っている。友人である湯川潮音の音楽CDのジャケット写真は彼女が撮影している。

同時に雑誌のモデルをつとめたり、CMにも出演するなどした。

著作
写真集など
Lumi`ere (2005年2月 扶桑社) - 最初の写真集。詩集。
lopen (2005年6月29日) - 8mmフィルムで撮影されたオランダでのプライヴェート・フィルム & サウンドトラック。(CD + DVD)
縷縷日記 (2006年3月17日 リトルモア) - 市川実和子、eriとの交換日記。
風花空心 (2006年7月26日 リトルモア) - J-WAVEで湯川潮音とともに公開していたblogを書籍化。
光の滝-Cascads Of Lights-(2008年5月) CowBooksのリトルプレスフェア用に10部製作(販売は6部)
ひかりをあびて うかびあがる かがやく きらきらと やわらかく-(2011年9月) CowBooksのリトルプレスフェア用に25部製作(販売は15部)
イスラエルに揺れる (2011年10月27日 リトルモア) - エッセイ。
季刊誌「真夜中」の連載「イスラエルに揺れるペーラッフ」を改題し、加筆修正・書き下ろしを加え書籍化。

雑誌連載
PS - monthly best shot
リンカラン - suicology
季刊 真夜中 - イスラエルに揺れるペーラッフ

出演・掲載
写真集
きもののたび (2003年9月 / 白尾零二 吉場正和 工藤真衣子 渡邊安治 ほか / ワイレア出版)
アンティーク着物のスタイリングブック。他、蒼井優など9人。
豆千代の着物モダン (2003年11月 / 豆千代 / マーブルブックス)
豆千代による着物コーディネートなど。
アムール 翠れん (2005年1月 / ホンマタカシ / プチグラパブリッシング)
ホンマタカシによる東野翠れんの写真集。アムール川の旅行記。
a girl like you 君になりたい (2005年7月 / 渋谷直角 佐内正史 / マガジンハウス)
relax連載の未使用カットをまとめた普段着感覚の写真集。他、宮崎あおいなど40人。
青の時間―THROUGH THE LOOKING‐GIRL(2006年8月 / 永瀬沙世 / プチグラパブリッシング)
写真家・永瀬沙世による写真集。他、清水ゆみなど。

雑誌
Spoon.
relax
mini
Olive
SEDA
CUTiE

PV
フジファブリック (2005年) 「桜の季節」

CM
エプソン (2002年)
マシェリ (2003年) 「オシャレゴルフ篇」
カゴメデリ (2003年) 「うわさのお店 リゾット篇/ペンネ篇」
カルビー (2003年) 「さつまりこ」
ボーダフォン (2003年) 「メーターと女の子篇」
親和銀行 (2003年) 「うれしいニュース篇/散歩しながら篇」
日産自動車 (2006年10月5日~)「マーチ 私らしくRED篇」
ユニクロ(2011年)「暖パン 東野翠れん篇」

ラジオ
土曜の夜はケータイ短歌 (NHK)
ap bank radio! THE LAST WAVE (TOKYO-FM) - MCとして出演
その他
100万人のキャンドルナイト (2005summer)
外部リンク
テレビCMギャラリー(親和銀行)

anemone2.jpg
 ↑ イスラエルの野に咲く「アネモネ属」の花。 アネモネはイスラエルの「国花」になっている。
この写真は私のブログのページに載っている。


次に落つる椿がわかる一童女・・・和田耕三郎
t-akebono曙(関西)
  
  次に落つる椿がわかる一童女・・・・・・・・・・・・・和田耕三郎

この句は面白い。ある童女が「次は、あの椿が落ちるよ」と言えば、不思議に、その花が落ちる、という句であろうか。
この作者のことは何も判らない。
森澄雄編集の「花の大歳時記」という大部の本に載っているもの。
昨日も「椿」を採りあげたが、今日も続いて椿を載せる。
特定の作家ということではなく、出来るだけ多くの作家の句を採りあげて鑑賞する。

 腸(はらわた)のよろこんでゐる落椿・・・・・・・・・・・・飯島晴子

 あけぼのや陸(くが)の水泡の白椿・・・・・・・・・・・・林翔

 椿散るああなまぬるき昼の火事・・・・・・・・・・・・・富沢赤黄男

 掃くは惜し掃かぬは憂しや落椿・・・・・・・・・・・・阿波野青畝

 落椿ふむ外はなき径かな・・・・・・・・・・・・・富安風生

 椿咲く出雲八重垣神の婚・・・・・・・・・・・・角川源義

 釘づけにさる神隠てふ椿見・・・・・・・・・・・・石川桂郎

 白椿老僧みずみずしく遊ぶ・・・・・・・・・・・・金子兜太

 濡れてゐし雨の椿をいま憶ふ・・・・・・・・・・・・橋本鶏二

 落椿くだく音して仔馬来ぬ・・・・・・・・・・・・石原八束

 椿落つ脈絡何もなかりけり・・・・・・・・・・・・岡本眸

 白椿みていて身の裡昏れはじむ・・・・・・・・・・・・杉本雷造

 橋すぎて椿ばかりの照りの中・・・・・・・・・・・・平井照敏

 牛角力の花道うづめ落椿・・・・・・・・・・・・下田稔

 一園の椿五衰に入りにけり・・・・・・・・・・・・石田勝彦

 はたと膝打ちたるごとく椿落つ・・・・・・・・・・・・須磨直俊

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飯島晴子、富沢赤黄男の句は前衛的な句で、人によっては好き嫌いがあろうが、面白い句である。
金子兜太の句は前衛的作家でありながら、それとはちょっと違って、諧謔性のある句と言えようか。
橋本鶏二の句は、さっき見た雨に濡れていた椿を、後になって思い出して感慨にふける、という内省的な佳い句である。
あとは皆さん、それぞれに鑑賞して頂きたい。


木村草弥歌集「信天翁」を読む・・・光本恵子
光本_NEW

信天翁_NEW

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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     木村草弥歌集「信天翁」を読む・・・・・・・・・・光本恵子(「未来山脈」主宰)
             ・・・・・・長野日報2020/03/21「ポエムのある部屋」389掲載・・・・・・・

私が二年余り前から身を寄せている、口語自由律の結社「未来山脈」主宰者である光本恵子先生が、頭書のような書評を執筆してくださった。
画像で読み取れると思うので、ここに打ち直すことはしないが、私のキャノンの「スキャナ」はA4までしか撮れないので81%まで縮小した。
その過程で何字か消えているところがあるがお許しいただきたい。
私のブログに歌集の全文が出ているので欠けているところは補って読んでください。
このページは光本先生が長野日報に定期的に書かれる専用のページで、ここに載せられた二十年間の記事から『口語自由律短歌の人々』(鶫書房2019/03/29刊)という労作が誕生した。
ついでに書いておくが、この記事の初めの辺りに書かれている私の第三歌集『樹々の記憶』の解説を宮崎信義が、「帯」文を光本恵子先生が書いてくださった。
← 文中の赤字になっている部分は「リンク」になっているので、クリックして読んでみてください。
そのことを申しあげて、改めて御礼申し上げます。 有難うございました。


村島典子の歌「花を売る老婆」33首・・・木村草弥
晶_NEW

──村島典子の歌──(41)

     「花を売る老婆」33首・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・「晶」109号所載・・・・・・・・

          花を売る老婆      村島典子

                   吟行より六日をへだててふたたび西教寺を訪ふ
   ひとり来てふたたびを来て西教寺に思ひをふかむ湖の見えをり
   鉦の音のけふもきこえく本堂に欄間の羅漢のみな笑みまさむ
   真盛上人の木像写真の片されて本堂すそけし淋しくなりぬ
   六日前のわれらと思ふ向かうから来る集団のありすれ違ひたり
   風景は溶けまじるなり紅葉と眼下の湖と坂本のまち
   一人なればひとりの時間門前町にふぞろひの柚子売られてありて
   坂本の門前町に迷ひいり柚子一盛りを百円に買ふ
                      夜々奇怪なる夢多し、  六首
   なにゆゑかかく鮮やかな夢を見つ勤めゐたりし二十歳のころの
   上司なる甚兵衛さんが能楽堂に仕舞をまへる摺り足に去る
   昨夜みしは舅しうとめ台所にチーズとらむと背伸びするところ
   白障子めぐらされゐる高層の家うち点りて巨塔のごとし
   障子ひらき鳥いつせいに翔びたつは夢の夜のそら神さぶるかも
   なよなよとなんだか頼りなき歌と評されそれより醒めて眠れず
   土に還ることのたふとさ叢にましろきビニール袋よあはれ
   ものとして転がりてある現実を霜月の雨が猛烈に打つ
   雨脚の物に触るると彼は言ひきしみじみとして雨を聴きをり
   「残夢童女」ダムの底よりあらはれしとふ文明を問ひき石牟礼道子
   ダムの底に時間は鎖され村落も墓石もとはに水漬きたりけり
   風景はかつて背景でありしこと、宗教画からリアリズムへと
   ただ湖はそこにありけりそれのみに今朝は元気にわれ在りにたり
   情感(サンサシオン)いづこからくる湖の面に小さき舟のとどまるが見ゆ
   「ねぢられた家」訳者が田村隆一であることのなぜにかくも嬉しき
                                 アガサ・クリスティー著
   味覚検査すべて辛しと応へをへ血液採らる犯罪者のごと
   実在は非在となるやたうとつにヒヨドリおまへ柿を持ち去る
   七十五歳をばあさんと呼びますか 「呼びますよ」独り笑ひしながら
   夕暮のわたしのまなこ花と死を取り違へたり「死を売る老婆」
   行きしことなけれどフィレンツェの街角の花売る老婆を思ひ描けり
   「ユリノキの大木なのか」「枯花を見よ、わたくしはユリノキである」
   情念を灯し思念を宿す木とユリノキ詠みし橋本喜典
   北沢郁子逝きたまひしとしみじみと書評のひとつ読みたりわれは
   非常なる内気のわれを知る人のはや無くなりて淋しかりけり
   月熟すと言ひし人はも鬼灯をかかげかの世の岸に待つらむ
   盥水もて山のひかりを見たまひて逝きましし師を今朝は思へり
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「私は、いま、どんどん近代短歌の方へ傾いています」という村島さんである。 
この一連が、その近代短歌に到達し得ているか、どうか。
益々のご健詠を。 有難うございました。



       
赤い椿白い椿と落ちにけり・・・河東碧梧桐
t-kurowabi黒詫助(関西)

   赤い椿白い椿と落ちにけり・・・・・・・・・・・・・河東碧梧桐

碧梧桐は明治6年松山市生まれ。
中学生の頃から同郷の先輩正岡子規の影響で俳句をはじめ、高浜虚子とは当時から親友であり、かつ好敵手だった。

この句は明治29年の作と言われ、印象明瞭な新世代の秀作だと子規が絶賛、有名になったという、初期の代表作。
この句は、読みようによっては、まず赤い椿が落ち、ついで白い椿が落ちる、というようにも読めるが、作者自身は、紅白二本の椿の下に赤い花、白い花それぞれが散っている情景に感興を得たようである。

t-konoesiro近衛白(関西)

碧梧桐は虚子と競って句や文章に活躍したが、次第に虚子との確執が抜き差しならないものになり、その後、「新傾向」と言われる運動に突き進むことになる。
この面では、毀誉褒貶あい半ばする、というのが本当だろう。

ここでは、碧梧桐を論ずるのが本筋ではなく、季節の花として「椿」を語ることにする。
椿は「山茶」と書くのが正式らしく、その字の感覚からも、さざんか(山茶花と書く)や茶の木と同種である。
木扁に春と書くように、日本の春の代表的な花である。豊臣秀吉の椿好きがよく知られ、俳人では石田波郷がこの花を好んだ、と書いてある。
「玉椿」は椿の美称。「つらつら椿」は連なり生えた椿で、万葉集に出てくる。落ち椿の印象が、よく詠われる。
以下、歳時記にも載る代表的な椿の句を挙げておきたい。

 水入れて鉢に受けたる椿かな・・・・・・・・・・・・鬼貫

 落ちなむを葉にかかへたる椿かな・・・・・・・・・・・・召波

 落椿投げて暖炉の火の上に・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 落椿かかる地上に菓子のごとし・・・・・・・・・・・・西東三鬼

 御嶽の雲に真つ赤なおそ椿・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 人仰ぐ我家の椿仰ぎけり・・・・・・・・・・・・高野素十

 椿見て一日雨の加賀言葉・・・・・・・・・・・・森澄雄

 雪解けの底鳴り水に落椿・・・・・・・・・・・・石原八束



「信天翁」私信と抽出歌・・・佐田公子。山下雅子。
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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      「信天翁」私信と抽出歌・・・・・・・・佐田公子。山下雅子。

     「信天翁」私信と抽出歌・・・・・・・・・・・・・・佐田公子(「覇王樹」主宰)

桜が開花しはじめましたが、コロナ騒動で落ち着きません。
この度は第七歌集『信天翁』をご恵贈いただき誠にありがとうございました。
御礼が遅くなり申し訳ございません。
「未来山脈」にお入りになったこと、自由律にご挑戦、光本様も心強いと思います。
   ■一病を持ちては永きたそがれか野の豌豆の花の白さや
   ■原始、地上は森に覆われ、海には生命の胎動があった
   ■入り口に「プライベート」と書かれてしまえばおしまいである
定型に拘わらない自由さが、嬉しくなりました。

コロナウイルスの難関を乗り切りたいです。
どうぞ、ご自愛下さいませ。   かしこ
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      「信天翁」私信と抽出歌・・・・・・・・・・・・・・山下雅子(「地中海」会員)

この度御歌集『信天翁』を賜り、久々にお会いした思いになつかしく御祝、御礼を申し上げます。
「地中海」以来ごぶさたしましたが、折々歌壇その他でお名前を拝見し、ご活躍にエールを送っておりました。
この度の「あとがき」から、私と同年昭和五年生まれであり、突然の大病を機に、定型から口語自由律へ、現在があり、前向きに新しい立場にひたすらなお姿。
その気概に圧倒される思いで元気をいただきます。
木村さんの能力には足元にも及びませんが、下手の横好きの短歌一筋たのしんでおります。

   ■言葉は究極の武器。言葉は人を滅ぼす。言葉は要注意。
   ■卒寿とは「人生を終える」齢という意味なのか
   ■哺乳類の奇形として出発した「二足歩行」の未来は
   ■北原白秋に「時局」を諭され前田夕暮は自由律から定型へ復帰した
   ■香川進大尉は「自由律歌人」だからと陸士出の将校に殴打された

口語なればこその、すぱりと言い切る味合いかと。
光本恵子先生の「未来山脈」を拝見し、「地中海」でも口語の方がおられ、私は口語表現を歓迎し、あるいはいつか私も・・・。

ところで私事ですが、一年前、転倒し左骨盤のひびで半年以上入院。
現在、杖歩行でそれなり安定しておりますが、今日は足のリハビリのため、リハビリ介護施設におり(月に十日ほど)、ここで手紙を書いております。
それで、このような失礼なレター、乱筆、乱文をお許し下さいませ。
木村様も大病からのご生還、大変でいらっしゃいましたね。再びの命、大切にされますよう。
お互いに午年の身、自愛いたします。  



「信天翁」私信と抽出歌・・・小谷陽子
信天翁_NEW

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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       「信天翁」私信と抽出歌・・・・・・・・・・・・小谷陽子(「ヤママユ」会員)

新型コロナ・ウイルス出現で不穏ながら、空は明るい春の色です。
御歌集『信天翁』を賜り、大変うれしく御礼申し上げます。
なにより九十歳とは、にわかに信じられない程のみずみずとした若々しい感性と、深い教養、幅広い知識と経験に支えられた知性の織りなす「詩」を堪能いたしました。
私個人としては定型か否かというより、よりこちらに響いてくるものに惹かれました。
<桜><言葉><「卆」の字><森の記憶②><岩の造形>は、特に一連が、ひとつの思想を鮮やかに最終行に向かって収斂させていく魅力があり、共感いたします。
また一行から、ほっと呼び覚まされる言葉が多くありました。
  <村の見慣れた風景に眠ってゐる寓話をゆつくり呼びさましたらどうか>
  <レンブラントの光は可視化されているようでいて形而上の光である>
  <物は嘘をつかない、物が語りかけるものは嘘をつかない>
  <死と同じ重さの生 生と同じ軽さの死>
  <人間は生きるために樹木を必要とするが樹木は人間を必要としない>
  <人間を作る以前から樹木の細胞と長い付き合いがある>
  <もとあったところから流転して今の場所へ。そして留まる>
もちろん前後の言葉があって、よりひびくものと思いますが、一つ一つ、その背後にあるものは、深く広い、そして純粋な直観の力かと存じます。
<朝の儀式>には、少々驚きました。生命力の源のひとつはやはり「食」にあるのですね。それは「生」の美しい儀式なのですね。
<どうやら「卆」の字が私の目下のキーワードらしい>の次に<ああ、この夕餉に牡蠣に檸檬を絞りつつ思うことである>と結んでおられるのも、豊かな生命力を感じます。
拙い感想を述べました。
拝読できて幸いに存じました。   三月十八日        小谷陽子
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敬慕する小谷さんから、私の作歌意図を鋭く突いた書評をいただき、作者冥利に尽きるというものです。
有難うございました。心から深く感謝いたします。 




生きる途中土筆を摘んでゐる途中・・・鳥居真理子
tukusikinokawa土筆

     生きる途中土筆を摘んでゐる途中・・・・・・・・・・鳥居真理子
 
掲出したこの句は「土筆を摘んでゐる途中」の描写の中に「生きる途中」という心象を盛って秀逸である。

私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものに、こんな歌がある。
 
    夜の卓に土筆(つくし)の吐ける胞子とび我死なば土葬となせとは言へず・・・・・・・・・・木村草弥

川の堤防の土手などに「つくし」が頭を出す時期になってきた。
採ってきた「つくし」をテーブルの上などに置いておくと、未熟なものでは駄目だが、生長した茎が入っていると、
私の歌にあるように「胞子」が白く下に溜まってばら撒かれることがある。

この頃では季節の野草としてスーパーなどで「つくし」が売られるような時代になってきたが、本来は春の野にでて「摘草」を楽しむものであろう。
「つくし」は「スギナ」の若い芽(正しくは胞子茎)で、学名をEquisetum arvense という。
スギナは嫌われものの野草で深い根を持ち、畑などに侵入すると始末に負えないものである。
食料として「つくし」を見ると、子供には、苦くて、旨くなくて、なじめない野草だった。大人の、それも男の大人の酒の肴というところであろうか。

昔の人は、土の中から、あたかも「筆」先のような形で出てくるので、これを「土筆」(つくし)と呼んだのである。

tukusi土筆

私の歌は「国原」という長い一連の中のもので、この歌の前に

    土筆(つくし)生(お)ふ畝火山雄々し果せざる男の夢は蘇我物部の

    あり無しの時の過ぎゆく老い人にも村の掟ぞ 土筆闌(た)けゆく


という歌が載っている。
こうして一首あるいは二首を抜き出すと判りにくいかも知れない。一連の歌の中で、或る雰囲気を出そうとしたものだからである。
掲出した歌も上の句と下の句とが、ちょうど俳句の場合の「二物衝撃」のような歌作りになっていて、
この両者に直接的なつながりはなく、それを一首の中に融合させようとしたものである。
敗戦後しばらくまでは、私の地方では、伝統的に「土葬」だった。
私なども町内の手伝いとして何度も、土葬のために墓の穴掘りに出たものである。すでに埋葬された人の人骨などが出てくることもあった。
キリスト教では基本的に土葬であり、土葬が野蛮とか遅れているとかいうことは出来ない。風習の問題である。
「火葬」は仏教に特異な遺体の処理法であると知るべきである。今では、当地も、すっかり火葬一色になってしまった。
墓が石碑で固めた墓地になってしまったので、私だけ「土葬」にしてくれ、といっても出来ない相談である。

二番目の歌について少し解説しておくと「蘇我物部」(そが・もののべ)というのは、蘇我氏、物部氏とも滅びた氏族である。
ご存じのように蘇我氏は渡来人系であり、物部氏は日本古来の氏族であったが蘇我氏などとの抗争で滅ぼされた。
だから私の歌では、それを「果せざる男の夢」と表現してみたのである。

墓地にはスギナが、よく「はびこる」ものである。
私の歌の一連は、そういう墓地とスギナとの結びつきからの連想も歌作りに影響している、とも言えようか。
「つくし」を詠んだ句は大変多いので、少し引いておく。
写真③が土筆が生長した「スギナ」である。まだ遅生えの土筆も見える。

sugina-apスギナ

 土筆野やよろこぶ母に摘みあます・・・・・・・・・・長谷川かな女

 病子規の摘みたかりけむ土筆摘む・・・・・・・・・・相生垣瓜人

 つくづくし筆一本の遅筆の父・・・・・・・・・・中村草田男

 土筆見て巡査かんがへ引返す・・・・・・・・・・加藤楸邨

 まま事の飯もおさいも土筆かな・・・・・・・・・・星野立子

 土をでしばかりの土筆鍋に煮る・・・・・・・・・・百合山羽公

 土筆折る音たまりける体かな・・・・・・・・・・飯島晴子

 生を祝ぐ脚長うしてつくしんぼ・・・・・・・・・・村越化石

 土筆の袴とりつつ話すほどのこと・・・・・・・・・・大橋敦子

 惜命や夜のつくしの胞子吐く・・・・・・・・・・神蔵器

 一行土筆を置けば隠れけり・・・・・・・・・・小桧山繁子

 土筆など摘むや本来無一物・・・・・・・・・・矢島渚男

 週刊新潮けふ発売の土筆かな・・・・・・・・・・中原道夫

 着ると暑く脱ぐと寒くてつくしんぼ・・・・・・・・・・池田澄子

 「はい」と言ふ「土筆摘んでるの」と聞くと・・・・・・・・・・小沢実

 生き死にの話に及び土筆和え・・・・・・・・・・増田斗志

 末黒野の中の無傷のつくづくし・・・・・・・・・・村上喜代子

 摘み溜めて母の遠さよつくづくし・・・・・・・・・・田部谷紫

 土筆たのし巨木のやうに児は描く・・・・・・・・・・国分章司



日高敏隆『春の数えかた』・・・木村草弥
春

──新・読書ノート──再掲載

       日高敏隆『春の数えかた』・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
           ・・・・・・・・・新潮文庫・ 2005/02/01初版、2012/2/20十刷・・・・・・・・・・・

       著名な動物行動学者の、発見に充ちたエッセイ集。
       春が来れば虫が動く――
       でもどうやって彼らは春を知るのでしょう? 
       第50回日本エッセイスト・クラブ賞受賞。

    春が来れば花が咲き虫が集う──当たり前? でもどうやって彼らは春を知るのでしょう?
    鳥も植物も虫も、生き物たちは皆それぞれの方法で三寒四温を積算し、季節を計っています。
    そして植物は毎年ほぼ同じ高さに花をつけ、虫は時期を合わせて目を覚まし、それを見つけます。
    自然界の不思議には驚くばかりです。
    日本を代表する動物行動学者による、発見に充ちたエッセイ集。

日高敏隆/ヒダカ・トシタカ

(1930-2009)東京生れ。東京大学理学部動物学科卒業。東京農工大学教授、京都大学教授、滋賀県立大学学長、総合地球環境学研究所所長などを歴任。京都大学名誉教授。動物行動学をいち早く日本に紹介し、日本動物行動学会を設立、初代会長。主な著書に『チョウはなぜ飛ぶか』『人間は遺伝か環境か?』『ネコはどうしてわがままか』『動物と人間の世界認識』『生きものの流儀』など。訳書に『利己的な遺伝子』『ソロモンの指環』『ファーブル植物記』などがある。2001(平成13)年『春の数えかた』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。

目次

春を探しに
赤の女王
動物行動学(エソロジー)としてのファッション ボディーガードを呼ぶ植物
カタクリとギフチョウ
ホタル
夏のコオロギ
植物と虫の闘い
八月のモンゴルにて
シャワー
スリッパ再論
街のハヤブサ
冬の花
鳥たちの合意
効率と忍耐
チョウの数
諫早で思ったこと
灯にくる虫
動物の予知能力
洞窟昆虫はどこから来たか
秋の蛾の朝
モンシロチョウの一年の計
幻想の標語
人里とエコトーン
暖冬と飛行機
わけのわからぬ昼の蛾たち
緑なら自然か?
チョウたちの夏
セミは誰がつくったか
おいわあねっか屋久島
ヴァヌアツでの数日
ハスの季節
ペンギンの泳ぎ
二月の思い
ヒキガエルの季節
春の数えかた
 あとがき
 文庫化にあたってのあとがき
  解説 椎名誠
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『春の数えかた』から、一番はじめのエッセイを引いておく。

春を探しに

 新年のことを新春というが、このことばは、子どものころのぼくにはどうしてもしっくりこなかった。
 その理由はじつに単純であった。こんなに寒いのに何が春なんだ? ということである。
 ぼくが子どものころといえば、第二次大戦のまっ最中。もともと隙間だらけで火鉢しかない日本家屋で、すべての物資が不足している状態では、正月は寒い。寒々とした飾りつけの正月用の部屋は、なおさらわびしい感じがする。けれどそこに置いてある新聞には、「新春を壽ぐ」などと大きな活字で書いてある。うそばっかり! 大人ってどうしてこんなうそを平気で信じられるんだろう? 子ども心にはそう思わざるを得なかった。
 ぼくにとって春といえば、せめて三月。暖かくなって、庭に植えたチューリップの芽が出る。外へ出れば、明るい日射しの中を、小さな虫がキラキラ光りながら飛んでいる。捕えてみると、冬を越してきたマグソコガネだ。小さなチョウチョがちらりと姿をあらわす。ルリシジミだ。そんなのを見てはじめて、ぼくは春だと思えるのだった。
 戦争が終わって、ぼくらの世界は広がった。クリスマス・カードなどというものも復活した。いや復活したというより、話にしか聞いていなかったクリスマスが現実のものとなり、ぼくらはそれに惹きつけられた。
 今から見ればずいぶん地味なものであったけれど、クリスマス・カードは色とりどりで華やかであった。筆で「新春」などと書かれた年賀状より、はるかに楽しかった。
 クリスマス・カードには二つのタイプがある。キリストの生まれたときの様子を描いたものと、現実の場でのものとである。
 ぼくは後者に興味をもった。ヨーロッパ風のものは、雪が積もっていたり、ヒイラギの赤い実が描いてあったりして、現実の冬を映している。そんなものがあまりポピュラーでないアメリカのは、赤いポインセチアが主流である。ポインセチアなどという植物をキリスト様が知っていたはずは絶対にないのだから、これはこっけいにも思えたが、とにかくその人々が現実に見ている世界を描いた、素直なものだと思った。「新春」とはまるでちがうなと思った。
 日本にはどうしてこんなにうそや約束ごとが多いのだろうと、いささかうんざりして、ぼくは現実の春を探して歩くようになった。
 それは意外に近いところにあった。
 正月には無理だが、それでも道ばたの枯れ草の根本をちょっとはぐってみると、何とそこには新しい芽が生えてきているではないか。二月ごろ、寒さにふるえながら、郊外の池のほとりを歩いてみると、ハンノキの花があの独特な風情でたくさん枝から下がっている。
 植物だけではなくて、虫もいた。
 そのころは東京でも、ちょっと郊外へいけば、あちこちに雑木林が残っていた。林の中を歩きまわっているうちに、ふと枯れ木にカワラタケがたくさん生えているのに気づく。サルノコシカケをうんと小さく扁たくしたような、乾いたキノコである。キノコの表面には上から落ちてきた粉のようなものがたくさんついている。もしやと思って目をこらすと、いる、いる、キノコムシと呼ばれる小さな甲虫が二、三匹、キノコの裏を歩いている。
 林の中に、一羽の小鳥が死んでいた。近づいてみると、またべつの小さな甲虫が十匹ほど、ぼくの気配に気づいたのか、小鳥の体の上をチョコチョコ走って逃げだした。チビシデムシだった。その日はどんより曇った寒い日であったが、この小さな虫たちの元気なこと! 彼らにはもう春だったのだろう。
 けれど、寒さをこらえながら春を感じるのはやっぱりむずかしい。ときには少し汗ばむくらい暖かくて、風も快く、心底から春だなあと思えるのはやはり四月になってからだ。
 四月下旬の山すそは本当に楽しい。花はそこにもここにも惜しげもなく咲いている。種によって思い思いの形と色をしたそれらの花たちには、それぞれにお目当ての虫がいるのだろう。
 歩いていくうちに、道は林の中へ入っていき、両側が崖になったほの暗い場所になる。そのほの暗い地上に、突如として明るい点々が広がる。ネコノメソウの密生だ。
 高さ一○センチほどの小さな草であるネコノメソウは、少し暗くて水のしたたっているような崖の下に好んで生える。いちばんてっぺんの対生の葉は、緑ではなく明るい黄色である。一つの平面の中で向きあった明るい色の二枚の葉の間にはさまれて、暗色の小さな花がある。これを上から見ると、いかにもネコの目ということばがぴったりだ。
 このネコの目はもちろん、何も見ていない。けれどそこにしばらく佇んで、地上に広がるたくさんのネコの目を見ていると、そのネコたちの目もぼくをじっとみつめているような気がしてくる。
 それはふしぎな感覚だった。ごく最近、植物に電極を差しこんで植物体の電流を記録していると、植物が人間のことばに反応して、電流の強さがいろいろに変わるというテレビを見た。そんなことがあるのかどうか、ぼくは知らない。ネコノメソウのネコの目がぼくを見ているなどということは、あくまでぼくの幻想にすぎない。けれど、動物も植物も、それぞれがそれぞれの論理で生きているということ、ネコノメソウがネコの目のような葉をつけることにも、ネコノメソウなりの理由があるのだということに、ぼくがおぼろげながら気づいたのは、このときであったような気がする。
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日高敏隆先生は、惜しくも先年亡くなられたが、私の敬愛するエッセイの書き手だった。
このブログでも採り上げたし、詩集『愛の寓意』でも散文詩に仕立てた。
このエッセイ集が再刊されたので、読んでみた。


連翹の花にとどろくむなぞこに浄く不断のわが泉あり・・・山田あき
H11-PCD1116-014m山田あき

  連翹の花にとどろくむなぞこに
    浄(きよ)く不断のわが泉あり・・・・・・・・・・・・・・・・・山田あき


昨日、坪野哲久の歌を採りあげたので、その夫人である山田あきの歌をここで挙げてみたい。
いま気づいたのだが、哲久とあきは、あきの方が六つ年上である。
哲久、あき共に先年亡くなった。
二人は同じ文学的志を共有した夫婦で、終生かわることがなかった。
掲出の歌も連翹の花に言寄せながら、胸底に「浄く」湧き上がる「不断の」わが泉がある、という揚言である。
こういう勁い意思表示の出来る歌人は、そう居ない。

掲出した写真は、この歌を自筆した彼女の色紙である。彼女自身も、この歌が好きであったことが判る。

少し彼女の歌を引用してみよう。いずれも生前「自選アンソロジー」に収録されたものである。

 戦に子を死なしめてめざめたる母の命を否定してみよ

 すがすがと秋の古巣を落し去る蜂の集団われにまされり
 
 寒の鮒笊にみじろぎ光発(た)つかくしも冴ゆる命あるものよ

 みずからの選択重し貧病苦弾圧苦などわが財として

 縛されてきみ若かりし指先に茫々とあそぶ今日の煙草火

 古史伏せて声哭くものをきかんとすみじめに過ぎき人類の母

 新しき世紀をよぶは誰ならん拈華(ねんげ)微笑(みしょう)のアジアびとあり

 夜を徹し規(ただ)しあいたる若き日の一途は過ぎぬ黒き渦朱き渦

 原初くらく文字無き国の裔(すえ)われら漢字一字のめぐみ忘れず

 捨身飼虎この語のひびき聴くのみに魂ふるえつつ終らむおそれ

 一握の塩を出し合う誠あらばこの世明るくまた進むべし

 大いなる歴史を見よやうつくしく興るものあり滅び去るあり

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夫・坪野哲久とともに夫人の山田あきも「述志」の歌人と言えよう。最近は、こういう述志の歌人は、ほとんど居なくなった。
ここに引用した歌を見れば判るように、終始一貫して、戦前は侵略戦争に、戦後は原爆反対や、戦前の中国をはじめとするアジア人への残虐な日本の仕打ちへの謝罪など、首尾一貫した生を生きた夫婦である。



春潮のあらぶるきけば丘こゆる蝶のつばさもまだつよからず ・・・坪野哲久
kityou4黄蝶

  春潮のあらぶるきけば丘こゆる
    蝶のつばさもまだつよからず ・・・・・・・・・・・・・・坪野哲久


この歌は敗戦翌年の春の歌。
かよわい蝶の翼と、荒らぶる春潮との対比の中には、単に自然界の描写にとどまらず、当時のきびしい時代相の、おのずからなる心象風景も含まれるように思われる。
「丘こゆる」という簡潔な描写が、この歌では、よく生きている。
重圧に耐えつつ、挑む生まれたばかりの小さな生命が、この飛びゆくものの描写の中に、可憐に、しかも雄々しく表現し尽されている。
能登生まれの作者は孤高詰屈の調べを持っているが、その中にも孤愁がにじみ、浪漫的な郷愁が流露するところに、独特の魅力がある。

知らない読者のために、坪野哲久の経歴を少し書いてみよう。

「アララギ」から出発し、「ポトナム」などで戦前活躍した人だが、昭和初年、新興歌人連盟に参加、プロレタリア短歌運動で活躍したが、第一歌集『九月一日』が発禁処分を受ける。
獄中生活など苦難を体験。夫人は、その頃知り合った山田あき、である。この夫人も名のある歌人。
こういう経歴の持ち主と知れば、さまざまな「くびき」から解放された作者の心象が、掲出した歌には、十全に表出されている、と知ることが出来よう。

坪野哲久の歌を少し引用してみよう。

  憂ふれば春の夜ぐもの流らふるたどたどとしてわれきらめかず

  春さむきかぜ一陣の花びらがわが頬をうち凝然と佇つ

  春のみづくぼめて落ちし遺響ありおもく静かに水は往きにき

  たんぽぽのはびこる青に犬は跳びきりきりと排糞の輪をかきはじむ

  にんげんのわれを朋とし犬の愛きわまるときにわが腓(こむら)噛む

  百姓の子に生れたるいちぶんを徹すねがいぞ論理にあらず

  ほら聞けよぶんぶん山から風がきて裏の蕪がただ太るぞえ

  残り生が一年刻みとなりしこと妻とわらえりあとさきいずれ

  死ぬるときああ爺ったんと呼びくれよわれの堕地獄いさぎよからん

  つまどいの猫のさわぎも生きもののうつくしさにて春ならんとす

  無名者の無念を継ぎて詠うこと詩のまことにて人なれば負う

  老人のぼくだけですね雨のなか生ごみという物を運ぶは



春さればしだり柳のとををにも妹は心に乗りにけるかも・・・柿本人麻呂
2009022F252F462Fc0108146_234431887柳新芽

   春さればしだり柳のとををにも
     妹(いも)は心に乗りにけるかも・・・・・・・・・・・・・柿本人麻呂


この歌の意味は、春になると、しだれ柳がたわたわとしなう。そのように私の心もしなう。そのしなった私の心の上に、恋人よ、おまえは乗ってしまった。
「春されば」のサルは「移る」の意で、春が来ると、の意味。
「とをを」は「撓(とをを)」で、タワワの母音が変化した形、たわみしなうさま。
「妹は心に乗りにけるかも」という、現代でも新鮮な具象的映像による表現は、当時の古代人にも大変好まれたようで、『万葉集』には同工異曲の歌が散見される。
『万葉集』巻十所載。

『柿本人麻呂歌集』には、人麻呂自身の作と、当時民間で歌われた民謡を人麻呂が採集記録したものとが含まれていると考えられるが、広義には記録者としての人麻呂の作と考えてよいだろう、と言われている。

柿本人麻呂の忌日は陰暦3月18日とされている。新暦だが、その日に因んで載せる。

人麻呂は『万葉集』の代表歌人、歌聖と言われた。
彼の伝記はほとんど不明で、生没年も判らないが、『正徹物語』の説によって、この日を忌日とする。
3月18日は、小野小町や和泉式部の忌日でもあり、この日は民俗的に大切な日であったらしい。
人麻呂忌を詠った句を引いて終りにしたい。

 土佐が画の人丸兀(は)げし忌日かな・・・・・・・・正岡子規

 山の辺の赤人が好き人丸忌・・・・・・・・高浜虚子

 人丸忌わが俳諧をもて修す・・・・・・・・富安風生

 二三人薄月の夜や人丸忌・・・・・・・・飯田蛇笏

 いはみのくにいまも遠しや人丸忌・・・・・・・・山口青邨

 人麿忌野に立つ我もかぎろふか・・・・・・・・大庭雄三

 人麿とつたへし像をまつりけり・・・・・・・・水原秋桜子

 人丸忌歌を詠むにはあらねども・・・・・・・・大橋越央子

 顔知らぬ人々寄りぬ人麿忌・・・・・・・・阿部みどり女

 山国の川美しや人麿忌・・・・・・・・西本一都

 歌やめて太りし妻や人麿忌・・・・・・・・肥田埜勝美

 人麻呂忌砂にひろごる波の末・・・・・・・・長尾俊彦

 人麿忌旅の枕を返しけり・・・・・・・・細貝幸次郎

 謎の歌石見に残る人麻呂忌・・・・・・・・水津八重子



鮭ぶち切って菫ただようわが夕餉・・・赤尾兜子
e0083820_12144715兜子色紙

     鮭ぶち切って菫ただようわが夕餉・・・・・・・・・・・・・・・赤尾兜子

今日3月17日は俳人・赤尾兜子(あかお・とうし)の忌日である。
彼は大正14年姫路市生まれ。京大文学部卒。毎日新聞に勤めた。俳句は大阪外語のときに始めた。
「太陽系」「薔薇」「俳句評論」などにかかわった。
昭和35年「渦」を創刊、主宰。昭和36年、現代俳句協会賞を受賞するが、選考をめぐり、協会の分裂をひきおこし「俳人協会」が発足することになった。
新興俳句系の俳人だったが、のち伝統俳句への回帰に進んだ。昭和56年歿。

以下はネット上に載る「zenmz」という人のサイトに載るものである。全文を引用する。
これを読めば、彼の「鬱」に陥っていたということなども、よく氷解して理解出来るのである。
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【6082】 赤尾兜子を偲ぶ
★ 去る者は日々に疎し、と言いますが、鬼籍に逝った親友はいつまでも我が心の中にあって、生きています。いつも3月になると、その人を想い起こすのは赤尾俊郎さん。その人の名を知る人は、もう少なくなりましたが、和歌、俳句等、短詩型文学に親しまれている方なら直ぐおわかりになる「兜子」(とうし)の俳号を持つ俳人でした。

★ エッ? あなたが俳人と交遊を??? 驚かないで下さい。赤尾さんと私は、毎日新聞記者時代の先輩・後輩の関係にあり、赤尾さんが5年先輩。晩年は共に新聞記者の第一線から離れ、大阪本社出版局で、赤尾さんは編集課長、「サンデー毎日」の大阪在勤次長職にあり、私は「点字毎日」編集長をし、文字通りに共に机を並べて仕事をしました。親交はその時に始まりました。

★ 当時、大阪・千里ニュータウンにあった我が家にもしょっちゅ遊びに来て,我が家族共々、お付き合いさせていただきました。達筆の人で、最初に夕食を共にした時、色紙に書いてくださったのがこの一句です。
多分、兜子句集2000句の中にも含まれているだろうと思います。

 鮭ぶち切って菫ただようわが夕餉 (掲出の写真①)
★ 当時、マイホーム主義を揶揄する風潮がありました。ある日、訪れて来た赤尾さんに、私は「マイホーム至上主義」をぶちまくりました。それを受けての一句。私たち家族にとってのみ特別の深みを味わえる句だと思って宝にしています。

★ ここでちょと、赤尾兜子の紹介をしておきます。今から半世紀以上も前、終戦直後の京大学生時代に伝統を打ち破る斬新な俳句を次々と発表して”前衛俳句”の新ジャンルを築いた鬼才です。
 代表作 音楽漂う岸侵してゆく蛇の飢
が打ち出す強烈なイメージでその作風をご想像下さい。

★ 大阪外語専門学校(旧制)時代の同級生に司馬遼太郎さん、陳舜臣さんなど著名作家がおり、赤尾兜子さんと合わせて「外語3鬼才」は大阪文壇の3重鎮として並び称せられていました。京大卒業と同時に毎日新聞記者になりましたが、前衛俳句運動は自ら創刊した俳句誌「渦」の結社を中心に展開されました。

★ 赤尾さんは大柄の人で、その外貌はいわゆる「厳(いか)つい」顔。ちょっと近寄りがたい雰囲気をいつも漂わせていました。妥協嫌いのまっしぐら。気むずかしい人と言われていました。が、私とは妙に気が合って親密なお付き合いをさせていただきました。

★ 多分、全くの門外漢であったことが良かったのでしょう。いつか一度、結社を覗かせてもらいましたが、門下生を前にその風格は絶対的な権威を思わせるものがありました。「あんなん、シンドイでしょう」と言うと、「それや、どうにもならん」と笑っていました。

★ しかし、つきあってみると、外見とは大違い。実は、繊細で細やかな心配りの人で、その立ち居振る舞いは実に雅やかでした。気品あるその雅やかな風格は、やはり彼の出自にあったように想います。隠れた才能・・・お茶のお点前などビックリしたことがあります。

★ 生家は兵庫県網干の旧家、何代か続いた材木問屋です。八人兄弟の次男。長兄の龍治氏は、著名な郷土史研究家で、『盤珪禅師全集』 を刊行して姫路市文化功労賞を受け、 次いで 『徳道上人』 を刊行して兵庫県文化功労賞を受けておられます。(因みに兜子も兄に続いて後に兵庫県文化功労賞を受けています)

★ 親交が深まるにつれ、私は、自分が編集長をしている週刊新聞「点字毎日」の俳句欄”点毎俳壇”の選者をお願いしました。盲人俳句を育てていただけないか? 恐る恐るお願いしたら即座に引き受けて下さいました。「極限から生を見つめる。スゴイ作品がいっぱいある」 初めての月の選評で、今も、心に残る選者・兜子の総評です。

★ そういう次第で、定年で新聞社を去った後も、毎月、”点毎俳壇”の選句をしていただくために新聞社に迎えていました。そんなある日、赤尾さんはいつにない真剣な表情で私を凝視しました。「オレ、芭蕉を超えられん」 咄嗟に私は理解しました。それまでの会話で赤尾さんは大きな苦悩を抱え込んでいる様子を察知していました。

★ 一言で言ってしまえば、それは彼の短詩型文学の行き詰まりだった、と想います。素人の私には分からない世界ですが、前衛俳句運動で俳壇を震撼させた鬼才も晩年には、伝統俳句への回帰を指摘されるようになっていました。他人には窺い知ることの出来ない大きな葛藤が兜子の内で始まっていたのです。

★ 折りも折り、兵庫県文化功労賞を受賞しました。当然、マスコミは長兄・龍治氏に続く「兄弟ダブル受賞」を称えました。傍目には大きな慶事、網干の名門一族にとっても喜ぶべき朗報のはずですが、ご本人にとっては逆だったようです。

★ 自らもその作風が伝統回帰を目指していることの意味を問い続け、悶々とそのナゾを密かに問いつめていた兜子にとっては大きなプレッシャーになりました。「これから芭蕉に挑戦や。えらいこっちゃ」 当時、喜びに訪れた私に赤尾さんはニコリともせず、そう語ったものでした。

★ それをずっと引っ張ってきていたのですね。「芭蕉を超えられん」とは、あまりに生真面目すぎます。そこで・・・「あんな、赤尾さん、芭蕉、芭蕉、言うけど、ボクなんか、俗人に言わせてもらえば乞食としか想えへんで。芭蕉超える、言うけど、赤尾さん、乞食にならんと・・・乞食の次元の話とチャウ?」 

★ 眉を顰めて私の前にいた赤尾さんは、突然、「ワッハッハー」 大声で笑い始めました。 「乞食か。そうやな、乞食。コジキや」 本当にこの時、私たちは、悪ガキに戻ってのはしゃぎぶりでした。赤尾さんは、来たときとは全く異なる明るい顔で帰って行きました。

★ それから間もなく。昭和56年(1981)3月17日のこと。「赤尾さんが交通事故で亡くなられました」 人事部から急ぎの連絡がありました。とりもなおさず阪急岡本の自宅に駆けつけました。

★ 奥様のお話では、「今朝、起きがけにタバコを買うと言うて出て行ったが踏切で電車にはねられて即死だった」とか。ただ集まった多くの人々は、「ひどい鬱状態だったからね・・・」と、咄嗟に自殺と見たようでした。

★ 当時、兜子は重度の鬱状態にあったのはたしかです。でも・・・私は、今なお、赤尾さんは自殺という積極的な自己否定に出るはずはなかった、それはきっと、鬱による事故だった、と信じています。赤尾家は急坂の中程にあります。下を走る阪急電車。だらだら坂を下る途中に踏切があります。物思いに深けていた赤尾さんが迷い込んだとしか想いようがありません。

★ 何故、そう断定するか。赤尾さんが残した一つの句があります。
    父として生きたし風花舞う日にも 
 赤尾さんにはたった一人の男の子がいました。その頃、高校に入ったばかり。「息子もこれで片付いた」と私にその喜びを語りました。その子を想う歌です。 赤尾兜子の記録を見ると、多くの解説はその偉大な功績を顕彰した後、昭和56年56歳で自殺、としています。だがこんな歌を残して自殺する人がいるでしょうか?

★ 兜子の現代俳句誌「渦」は妻の恵以さんが引き継ぎ、神戸に兜子館カルチャーサロンを運営して居られる、と仄聞します。是非、一度、訪れたいと思います。ご子息も40代になっておられるはず。出来れば、共々、亡友追善の語らいの機会を得たい、と願っています。
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uzuhyousi渦表紙

写真②は彼の結社「渦」誌の表紙である。
その「渦」誌だが、奥さんの恵以さんが亡くなったのか2017年に廃刊になったようである。 一時代が終わったという感慨である。

以下は、彼の代表作とされる句である。ここには、伝統俳句に回帰した時期の句は、余り引かれていない。

こおろぎに黒い汁ためるばかりの細民
ささくれだつ消しゴムの夜で死にゆく鳥
たのむ洋傘に無数の泡溜め笑う盲人
ちびた鐘のまわり跳ねては骨となる魚
ねむれねば頭中に数ふ冬の滝
まなこ澄む男ひとりやいわし雲
ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう
ガソリンくさき屋上で眠る病身の鴎
マッチ擦る短い橋を蟹の怒り
唖(おし)ボタン殖える石の家ぬくい犬の受胎
愛する時獣皮のような苔の埴輪
悪地もなやむなまこのごとき火の鉄片
暗い河から渦巻く蛇と軽い墓
烏賊の甲羅鉛のごと澄む女眼の岸
嬰児泣く雪中の鉄橋白く塗られ
屋上照らす電光の雪記者も睡り
音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢
蛾がむしりあう駅の空椅子かたまる夜
海の空罐細り細りて疎(まば)らな葦
柿の木はみがかれすぎて山の国
乾ききる鳩舎寝顔の燃ゆるころ
巻舌よりパン光りおつ医大の傍(そば)
機関車の底まで月明か 馬盥
帰り花鶴折るうちに折り殺す
記者の朝ちぎれ靴噴く一刷(はけ)の血
記者ら突込む鉄傘朝の林檎満ち
空地で刺さる媚薬壜掘る墓掘人夫
空鬱々さくらは白く走るかな
広場に裂けた木 塩のまわりに塩軋み
硬く黒い島へわめく群集核(たね)を吐き
子の鼻血プールに交じり水となる
少女の足が研ぐ鯨のような繊維街
赤茶けたハムへ叫ぶ老人が寒い極点
葬の渦とはぐれた神父死鼠の発光
多毛の廃兵遠くで激しくつまづく驢馬
苔くさい雨に唇泳ぐ挽肉器
大雷雨鬱王と合ふあさの夢
朝発つ牝牛に異音流れる霰の丘
鉄階にいる蜘蛛智恵をかがやかす
独裁のけむりまきつく腰帯の発端黴び
破船に植えた血胤のいちぢく継ぐ
俳句思へば泪わき出づ朝の李花
白い唾で濯ぐ石斧の養老院
白い体操の折目正しく弱るキリン
白い牝牛の數藁を擦る薄明の門
薄皮の蝸牛白い営みを濯ぐ老婆
髪の毛ほどのスリ消え赤い蛭(ひる)かたまる
番人へ菌絶える溝のなかからの声
麻薬街の内部撫で了る鼠の孤児
未知の発音尖る陸橋の白い茸(たけ)
密漁地区抜け出た船長に鏡の広間
眠れぬ馬に釘打つ老いた霧の密室
名なき背に混みあう空家の青い石
夜は溜る鳩声惨劇するする刷られ
油でくびれた石白く笑いだす鉄道員
揺れる象のような海聾女の新聞ちぢむ
煉瓦の肉厚き月明疲れる記者
埃から埠頭吸い馬の眼馬の眼を怒る
煌々と渇き渚・渚をずりゆく艾(もぐさ)
膠(にかわ)のごとく雪呑み乾く髪の老人
鴉の咳ごとに嬰児の首洗う
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昨日付けで書いた「飴山実」もそうだが、京都大学出身の俳人は多い。
「京大俳句会」という会があって、戦前から俳句界革新のために活動してきたが、第二次大戦中の昭和十年代には「自由」とか「革新」ということが徹底的に弾圧されて、多くの俳人たちが獄に繋がれた。今日の赤尾兜子は、そういう戦前からの「俳句革新」の運動を戦後になって継承したと言えるだろう。現役で作品を発表していた俳人で言えば「伊丹三樹彦」なんかはその系統に属するとも言える。その彼も2019年に亡くなった。 合掌。
戦後になって「前衛俳句」として華々しく開花した運動にも、戦前からの、そういう伝統というか、「伏線」があるのである。
京都大学というのは、官僚養成を主目的として発足した東京大学とは違って、また対抗意識を抱いたものとして、時たま、こういう自由な運動が発生するのであった。
「京都」という土地が、そういう「自由」な雰囲気を湛えているとも言える。
京都は千年の間、「みやこ」のあった王城の地であったが、明治になって日本の首都が東京に移って、一時は寂れかけたが、西欧文明の取り込みにも先端を切り、文明開化に先んじた、自由なプライドを「京都人」は持っている。
そんなこんなの諸々が京都には底づいているのである。



「信天翁」私信と抽出歌・・・萩岡良博
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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       「信天翁」私信と抽出歌・・・・・・・・・・・・・萩岡良博(「ヤママユ」代表)

新型コロナウイルスが蔓延し外出もままなりません。お変わりございませんか。
三月に予定していた歌会も、飲み会もすべて中止となりました。ただ桜の蕾が日々ふくらんでいくのが楽しみです。
御歌集『信天翁』ご恵贈賜りありがとうございました。
実は角川「短歌」誌に発表された「cogito, ergo sum」を拝読したときに、木村さんの意図がわからず違和感を覚えましたが、
本歌集を拝読して、その違和感は氷解しました。あれは自由律の連作短歌あるいはソネット風の短詩だったのだと。
しかし小生はやはり巻頭の「信天翁」一連が安心して拝読することができます。
   ・まみどりのみどりまみれぞ松園の春画に見つる繁き陰毛は
   ・もゆらもゆら夏の玉の緒ひぐらしの啼く夕ぐれはまうらがなしも
上句はいずれも下句のエロスやかなしみを呼びおこす序詞的なしらべを湛えています。
一首目はまた「松柏美術館」へと展開され、小生も何度か訪れたことがありますが、その美術館の歴史には蒙を啓かれました。
また一首目のエロスは「桜」にも漂い出て、前詩集『修学院幻視』の濃密なエロス的詩的空間を思い出しました。
「生存証明」としていただいた今年の木村さんの年賀状には、角川「短歌」十二月号に載せましたエロスを詠みこんだ拙歌に対して嬉しい励ましの一筆がありました。
木村さんの詩精神の源に尽きることのないエロスの泉が滾々と湧き出てことを羨(とも)しく思います。
そんな若々しい木村さんですが、年齢のことなど考えたことはありませんでしたが、九十歳になられたことに驚きました。
「卆の字」には、卒寿の卒をめぐる詩的考察がありますが、この尽きせぬ知的好奇心も木村さんの詩の源泉に数えることができるでしょう。
「シオンの光」の「一枚の絵の中で物語が時間をかけて浮き沈みする」という一行。
「絵手紙」のカボチャについての随想。
そして「オダガン・モド」(巫女の木)や「聖樹セイバ」などの樹木をめぐる考察など、小生の知らぬことばかりで、詩の広野に連れ出していただくような思いで拝読いたしました。
「森」と「岩石」をめぐる詩篇は、地球について、そこに住む私たちについて、根源的な思索を迫るものでした。
そして「壁」。定型の「壁」を意識している限り、木村さんの詩精神は、ついに理解できないのかも知れないとも。
雑感が長くなりました。「信天翁」の一連には
    ・また地上に出でくるときは七年先まみえむ日まで命やしなはむ
と「つくつくぼふし」を詠んでおられますが、時節柄ご自愛下さり、命ながくやしなわれんことを。
     三月十四日                       萩岡良博

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畏敬する萩岡良博氏から、私の作歌の意図を的確に突いた批評を賜り、作家冥利に尽きます。
有難うございました。 嬉しいです。





「信天翁」私信と抽出歌・・・北神照美
信天翁_NEW

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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      「信天翁」私信と抽出歌・・・・・・・・・・・・北神照美(「塔」会員)

春というのに出かけることを控えておりますが、ごく近所へ買物に行きましても、桜の蕾がふくらみ、たんぽぽが咲き、からすのえんどうが花をつけていました。
このたびは、まだきちんとお礼も書いておりませんうちに、私の歌集『ひかる水』書評をブログに載せていただき恐縮しております。
木村様は、とても多才な方で、歌集、詩集、歌文集など溢れるように出版されており、その情熱を羨ましく思うばかりです。
お目にかかったのは『昭和』の批評会でした。その時も若々しい方だと思っておりました。
それからも貪欲な知的創造をすごいことだと思っておりましたが、いまは「未来山脈」に属しておられるのですね。
この前の東京での記念大会には私も出席させていただきました。
また「詩歌句協会」の大会にも出席して詩集に触れたりいたしましたので、私も以前より、口語短歌や詩に親しんでおります。
それでも、まだ、やはり「信天翁」の一連が、しっくりとくるように思いますが、「散文の短詩」として読んでもよい、という「あとがき」に納得して他の作品を読みました。
定型の口語短歌ではないので、「石の物語」「森の記憶」「森の記憶②」など面白いと思いました。
私は昭和二十三年生まれなので、市の薬剤師会で活動したり、仕事をしたりしていたことも昨年で一応終わりました。
木村様が九十歳で、こんなにも旺盛な活躍をされているのですから、私も頑張っていこうと思っております。
以下は共感する一連です。

         森の記憶②
   私たち人間は聳え立つ巨木に対して畏るべき威厳を感じる
   深い森や木立に対して不気味な懐かしい気配を感じる
   樹木は人間が人間として生き始める遥か十数億年も前から
   地球環境に適応する術を編み出して生き続けてきた
   人間は生きるために樹木を必要とするが樹木は人間を必要としない
   人間の身体を構成する六〇兆の細胞のひとつは
   人間を作る以前から樹木の細胞と長い付き合いがある
   かつてスペイン人は樹木を大切にしなかった
   世界の海を制覇したスペイン人の活力は森の衰退と共に失せた
   樹が少なければ水を呼ばない。乾燥するのは樹が少ないからだ



「信天翁」私信と抽出歌・・・山本孟
信天翁_NEW

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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     「信天翁」私信と抽出歌・・・・・・・・・・・・・山本孟(「地中海」会員)

お送りいただいた歌集『信天翁』を読ませていただきました。
いつまでも天空を舞う鳥のように、天に逝かれた方々の追悼歌を巻頭にして、心境の深い所まで届く歌群が並べられ、読み応えがありました。
「桜」は例によってエロティシズムをちょっぴり、時実新子の川柳で締めくくる器用さに敬服しました。
「シメオンの光」は濃密な知識と言葉による絵模様がみごとです。
「キティちゃん」と「言葉」は豊富な言語知識で、「言葉」を箴言風に書いて締め括っています。
続く「カボチャ」では語源からつながる野菜の用途まで興味深く書いています。
次のⅡ章は、自分の一日をまるまる紹介する「朝の儀式」「或る夕餉」「チョコ野郎」など、話の辞典の感じ。
行間を彩る虹の橋のような掛り具合が快く感じました。
「卆の字」では「私の目下のキーワードらしい」が、私にもぐさりと剣で刺された気がしました。(私も今年八十八歳)
「聖樹セイバ」は知らない木ですが、地球を意味するものとして、最終行は重く受け止めました。
Ⅲ章に至って、世界を旅し地球を知り尽くしたからこそ、現代批判が具体的な物に語らせる手法で時代を示され、その狂気を描いたところは秀れていると思います。
読み終えて「あとがき」の「起居不能」に大層驚き心配いたしました。
しかし、その後、無事生還され、心よりお慶び申し上げます。
それぞれの章の、詩を書く意図が明確で、人間の知恵が壊しつつある地球全体・人間の自然体を深いところから追求し、蘇らせるお考えを、この一冊で示されたことに深く敬意を表します。

長々と読後感を書かせていただきました。
どうか最期まで詩の大河のとぎれぬようにお祈り申し上げます。   敬具。
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山本孟氏は国語学の専門家で、「地中海」大阪歌会などで親しく交わらせていただいた。
国文学徒ではない私にとって、国語学に近づく先生としての存在だった。
この分厚い封書には、ご令室さまの闘病を詠んだ歌がずっしり含まれているのだが、今は、それには触れない。
ご令室さま、ご養生専一になされますようお願いいたします。有難うございました。




花の芯すでに苺のかたちなす・・・飴山実
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   花の芯すでに苺のかたちなす・・・・・・・・・・・・・・・・飴山実

今日3月16日は俳人・飴山実の忌日である。

飴山実は俳人としても有名な人であるが、科学者としても高名な人である。
「日本農芸化学会功績賞」というのがあり、昭和63年 1988年 、 山口大学農学部教授のときに「 酢酸菌の生化学的研究 」という論文で、この賞を得ている。
昭和元年、石川県小松市生まれ。旧制四高の勤労動員中に芭蕉や蕪村の七部集を読んで作句。
家業が醤油醸造業だったので、昭和22年京都大学農学部に入学し、発酵醸造学を専攻した。
昭和25年卒業して、大阪府立大学農学部助手に就職。その後、静岡大学、山口大学教授を歴任し、応用微生物学研究の礎を築く。
先に書いたような学会の最高賞を得た。酢の研究では世界的権威。

俳句では、金沢大学教授で、かつ俳人の沢木欣一が戦後創刊した「風」に参加。
自らも「楕円律」を創刊し、戦後の俳壇で活躍したが、のち無所属となり、結社も持たず公平な俳句評論に定評があった。
安東次男の人と書に親しむ。
平成12年(2000年)3月16日、東京での選句会を翌日に控え、腎不全のために急逝した。
句集に『おりいぶ』『少長集』『辛酉小雪』『次の花』など。
現代俳壇の中堅として活躍する長谷川櫂も一時彼に師事した。

以下、彼の句を引いて終る。

 てのひらに葭切の卵のせてきぬ

 熱のからだはどこも脈うつ青林檎

 花林檎貧しき旅の教師たち

 授乳後の胸拭きてをり麦青し

img5efff1b0zikdzj飴山実色紙

 うつくしきあぎととあへり能登時雨

 柚子風呂に妻をりて音小止みなし

 春浅き海へおとすや風呂の水

 蚊を打つ我鬼忌の厠ひびきけり

 土堤刈つてより二日目の曼珠沙華

 奥能登や打てばとびちる新大豆

 手にのせて火だねのごとし一位の実

 比良ばかり雪をのせたり初諸子(もろこ)

 鮒二つ日たけて釣れし丈草忌

 花杏汽車を山から吐きにけり

 法隆寺白雨やみたる雫かな

 あをあをとこの世の雨のははきぐさ

 茄子の花こぼれて蜘蛛をおどろかす

 田雲雀の十(とを)も来てゐる夕日かな

 年酒して獅子身中の虫酔はす

 この峡の水を醸して桃の花

 酒唎(き)いてやや目のほてる初桜

 光琳忌きららかに紙魚(しみ)走りけり

 大雨のあと浜木綿に次の花

 花筏やぶつて鳰の顔のぞく

 山ふたつむかふから熊の肉とどく

 青竹に空ゆすらるる大暑かな

 かなかなのどこかで地獄草紙かな



「信天翁」私信と抽出歌・・・神田鈴子
信天翁_NEW

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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       「信天翁」私信と抽出歌・・・・・・・・・・・・神田鈴子(「地中海」会員) 

世はまさにコロナウイルスに冒されて、すべての動きが止まったような日々が続いておりますが、お元気でいらっしゃいますか。
この度は第七歌集『信天翁』を出版なされ、おめでとうございます。
今年で九十歳を迎えられた木村様の老いを感じられない意欲に何より感動させられました。
巻頭の「信天翁」から順に心ひかれたお歌をいくつか引かせて頂きます。
その後の短詩も重みがあり、いつまでも頭の冴えと若さをお持ちの木村様に心から敬服いたしました。

心ばかりのケーキを焼かせて頂きました。
どうぞ、これからも意欲的に作歌を続けてくださいますよう、そしてお体お大切にお過ごしください。

      「信天翁」より十首

☆〈信天翁〉描ける青きコースターまなかひに白き砂浜ありぬ
☆もゆらもゆら夏の玉の緒ひぐらしの啼く夕ぐれはまうらがなしも
☆〈馬耳東風〉おそろしきかも十を聴き九を忘るる齢となりて
☆夕暮れた街 束の間切り裂いて 光と影が格子縞に象形する
☆時の移ろいに身をゆだねて ほっと息を吐き出す 誰か
☆レンブラントの光は可視化されているようでいて形而上の光である
☆一枚の絵の中で物語が時間をかけて浮き沈みする
☆言葉は究極の兵器。言葉は人を滅ぼす。言葉は要注意。
☆街を一冊の本になぞらえると、旅する人はみな読者だ
☆どうやら「卆」の字が私の目下のキーワードらしい
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神田さんから、お手紙と的確な抽出をいただいた。
また神田さんはケーキ作りの名手で、ケーキ教室を持っておられる。
私は本を出す度に、おいしいケーキを賜って賞味させてもらっている。有難うございました。
今度も、感謝を込めて即席の一首
     君つくるレモンケーキのロール一本切りて食(たう)べつ紅茶呑みつつ    草弥


内田正美詩集『野の棺』・・・木村草弥
野_NEW

──新・読書ノート──

     内田正美詩集『野の棺』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・澪標2020/03/10刊・・・・・・・・・

内田正美 略歴
1956年 兵庫県生まれ
1978年 香川大学農学部卒 
2011年 詩集『光降る街』 澪標
2015年 かなざわ現代詩賞 最優秀賞
「ア・テンポ」 「時刻表」 「風の音」 同人

内田氏は私には未知の人である。
版元である澪標の松村信人氏から送られてきた。

「帯」に たかとう匡子が書いている。
それによると内田氏は「牛飼いの牧場主」だという。
この「帯」文は多分にたかとう氏のセンチメントで書かれていると思うが、ここでは触れない。

題名になっている詩の一連を引いてみよう。

     野の棺     打田正美

   光のくる一点にわたしのこころは向かうが
   わたしの体は闇へはげしく曳かれている
   丘の上
   林の中に古墳がある
   木々の中に黒々とした岩肌が露出する
   その下に岩を組んだ石室と巨岩の棺の蓋
   地への深い刻印は
   富める者の権力のあかし
   冷たい岩肌に囲まれた 息苦しく狭い空間に
   埋められて長い時を眠った
   朽ち行く骸 さみしい魂
   勾玉 剣と馬具はすでに赤さびて
   時の風にさらされている
   死はいつだって心さみしい
   そこにいる nobody
   風化し続けるこころの叫び
   それはわたしの虚構
   わたしの先祖の消えていった闇
   魂は考古学者のゆめと入れかわり
   安らかな眠りにつく
   まだ見ぬ何者かによって
   蒼く蒼い空深く埋められて

   (生者は・・・        聖者 )
   古墳の林を下りると
   畑と住宅が広がっている
   かすかに聞こえる 建設の槌音
   チロチロと水の流れは住宅地へ下る
   風の中にも子供達の声がする
   水は小川となり流れ
   生まれくるいのちと
   死するいのちの
   あわくまじわる地の上で
   はてしない神々の無音の祝祭

   夜 窓辺に灯がともる
   天に輝く星座が移動をはじめる
   音もなく開いたパソコンがたちあがり
   カチ カチャ
   キーボードが鳴りはじめる
   (こんにちは
    わたしのことばたち・・・  )
   花として 種子として 棺にのせて
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多分に「予定調和」的な詩作りが見られるが、古墳のある風景は描写できているだろう。
現代の「牛飼い」というのは、苦しいもので、決して牧歌的なものではない。
農業にも言えることである。

この詩集には全部で二十五篇の作品が収録されている。
その中から作者の「身すぎ世すぎ」が、かいま見られる一篇を抄出する。

       詩の余白に墜ちる    打田正美

   秋は美しい季節
     ・・・(中略)・・・
   時だってとまる
     (永遠てあるの  )
   牧舎のすみ 野鼠が死んでいる
   餌の中の麦とトウモロコシに混ざって牛の臼歯が
   落ちている
   汚れた牛がいったりきたり
   畑ではキャベツの苗が植えられ大根の種が播かれる
   雀が死んでいる
   子芋が掘られる 稲刈りがはじまる
   いなご死んで干からびでいる
   蝉声はとうに聞こえない
   おびただしい生の残滓
   おびただしい死のにおいをはこびさる風
   ながれいく粒子 不変なんてどこにもない
   生れてすぐに死ぬ はたらくと言うつまらない宝物
      (そうかな)
   私たちが獲得した不思議ないのちの不本意な死
   種をまく いずれ収穫
   平凡な日常のためらいのない刃
   生きる為に殺し 殺されることで生きる
      ・・・(中略)・・・
   チラチラとこもれ日あびて 小さな体をよこたえている
   意識はうすれる
   力なく青い空をみている
   カラスが気づいた ぼくをみている
     ・・・(中略)・・・

   地に帰って行った仲間
   行方しれずの家族のこと
   土のにおい
   ざわめく生も遠ざかる
   蒼い空が下りてくる
   それからひとり
   だれもみることのない
   夢をみる
------------------------------------------------------------------
全篇を通じて「死」という言葉が使われるが、使い方としては的確だろう。
決して明るい詩ではないが、われわれの「生」なんて、そんなもんである。
その点では、私も納得する。
まだまだ引きたい作品があるが、この辺で終わりたい。
受賞の栄誉に輝いた作者の今後に栄光あれ。     (完)




      
深海魚光に遠く住むものはつひにまなこも失ふとあり・・・堀口大学
2-5堀口大学

     深海魚光に遠く住むものは
        つひにまなこも失ふとあり・・・・・・・・・・・・・・・堀口大学


今日3月15日は詩人・堀口大学の忌日である。
先ず、彼のことをネット上から引いておく。
掲出歌に関しては、この引用記事の終りの方に書いてある。

堀口大學
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

堀口 大學(ほりぐち だいがく、1892年(明治25年)1月8日 ~ 1981年(昭和56年)3月15日)は、日本の詩人、フランス文学者。

略歴
1892年、東大生堀口九萬一(のち外交官となる)の長男として、東京・本郷に生まれる。大學という名前は、出生当時に父が大学生だったことと、出生地が東大の近所であることに由来する。幼児期から少年期にかけては、新潟県長岡で過ごす。旧制長岡中学校を卒業し、上京。

17歳のとき、吉井勇の短歌『夏のおもひで』に感動して新詩社に入門。歌人として出発する。

1910年、慶應義塾大学文学部予科に入学。この頃から、『スバル』『三田文学』などに詩歌の発表を始める。

19歳の夏に、父の任地メキシコに赴くため、慶大を中退。メキシコでフランス語を学んでいた時、メキシコ革命に遭遇。メキシコ大統領フランシスコ・マデロの姪と恋愛を経験。

この頃、肺結核を患う。以後も父の任地に従い、ベルギー、スペイン、スイス、ブラジル、ルーマニアと、青春期を日本と海外の間を往復して過ごす。

1919年、処女詩集『月光とピエロ』、処女歌集『パンの笛』を刊行。以後も多数の出版を手がける。その仕事は作詩、作歌にとどまらず、評論、エッセイ、随筆、研究、翻訳と多方面に及び、生涯に刊行された著訳書は、300点を超える。彼の斬新な訳文は当時の文学青年に多大な影響を与えた。三島由紀夫もまた、堀口の訳文から大きな影響を受けた一人である。

1957年に芸術院会員となり、1979年に文化勲章を受章。1981年、歿。享年89。

娘の堀口すみれ子も詩人でエッセイスト。

1967年、歌会始で(お題は「魚」)、「深海魚光に遠く住むものはつひにまなこも失ふとあり」と詠んだ。
生物学者である昭和天皇はたいそう喜んだというが、一部には天皇に対する、本人を目の前にしての批判であると解する向きもまたある。

著訳書
月光とピエロ(1919年)
パンの笛(1919年)
訳書・夜ひらく(1924年)
訳詩集・月下の一群(1925年)
砂の枕(1926年)
人間の歌(1947年)
夕の虹(1957年)
月かげの虹(1971年)
沖に立つ虹(1974年)
ルパン傑作集(翻訳年はかなり以前で近年再版されている。)
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はじめに、昭和25年、住んでいた高田を去るときに彼が詠った詩が詩碑として残っている写真をかかげておく。

hori2大学詩碑

高田に残す(堀口大学詩碑)

ひかるゝおもひうしろがみ
のこるこヽろの なぞ無けん
すめば都と いふさへや
高田よさらばさきくあれ
おほりのはすよ 清う咲け
雪とこしへに白妙に

堀口大学は父親が外交官であったために、家族として同行して海外生活が長かった。
外国語に堪能であったので、西欧詩の翻訳家として出発した。
引用したところにも書いてあるように「ミラボー橋の下セーヌは流れる」というのが有名だが、近年、詩の翻訳としては、その適否について、とやかく言われている。

人間よ

知らうとするな、自分が、

幸か不幸だか、

問題は今そこにはない。

在、不在、

これが焦眉の間題だ、

灼きつくやうな緊念事。

生きて在る、死なずに在る、

感謝し給ヘ、今日も一日、

調和ある宇宙の一點、

生きものとして在つたこと。

神にでもよい、自然にでもよい、

君の信じ得るそのものに。

知らうとするな、

知るにはまだ時が早い、

人聞よ、

墜落途上の隕石よ。

(人間の歌・隕石)の詩より。(詩集『人間の歌』昭和22年宝文館刊)

この堀口大学の詩は、人の世の愁色感と一種の軽快さ漂わせ、多くの人の青春を流れていった。
先に逝った詩兄弟・佐藤春夫に胸の張れる詩が出来たといった、辞世の詩

「水に浮んだ月かげです つかの間うかぶ魚影です 言葉の網でおいすがる 万に一つのチャンスです」

というのが知られている。

昭和56年、堀口大学は永い詩人生の最期を、春一番の風雨が去ったこの日正午、急性肺炎により葉山の自宅で妻の手を握りながら静かに迎えた。
89歳という長寿であったが、今は鎌倉霊園に眠っている。写真③が、その墓碑。

horigutidaigaku大学墓碑

以下は、この記事を書いた人のコメントである。

<ミラボー橋の下をセエヌ河が流れ われ等の戀が流れる わたしは思い出す 悩みのあとに楽みが来ると>アポリネール・ミラボー橋のこのあとにつづく、<日が暮れて鐘が鳴る 月日は流れわたしは残る>の一節は今になっても私の耳元に小波をうって渡ってくる。この高台の芝垣で囲まれた墓碑のある塋域には、広い谷から吹き上がってきた梅雨の風が抜けきれず、どことなく空しさを携えて残っていた。



「信天翁」私信ほか・・・花岡カヲル
信天翁_NEW

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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      「信天翁」私信ほか・・・・・・・・・・・・・花岡カヲル(「未来山脈」会員)

信天翁なんて美しい鳥でしょう。
特別天然記念物。日本の鳥島と尖閣諸島の二か所に。絶滅危惧種心配ですね。
柔らかく美しい胸毛を求めた人間に攻め立てられた信天翁の哀れを思います。
この本は事象へ切り込むタッチが巧みで面白いです。
いろいろのことを広く深く極められており、何か叡智の玉手箱をお持ちですね。
生活のこと、食のこと、対人関係のこと、ヨーロッパや世界を旅されて芸術に触れ、素晴らしい眼力で、感性で、表現されています。
一気に読ませていただきました。
またゆっくり時間をかけて学ばせていただきます。
私の歌集『枯葉のみやげ』では、いろいろお導きいただき有難うございました。
どうぞ今後ともよろしくお導きくださいませ。


花冷や箪笥の底の男帯・・・鈴木真砂女
本山可久子

   花冷や箪笥の底の男帯・・・・・・・・・・・・・・・鈴木真砂女

今日3月14日は俳人・鈴木真砂女の忌日である。
彼女の長女で新劇俳優である本山可久子の本 『今生のいまが倖せ・・・・・・母、鈴木真砂女』(2005年講談社刊)というのをネット書店で買った。

unami12卯波
写真②は銀座にあった彼女の小料理屋「卯波」である。
彼女の孫・宗男(可久子の長男)が経営していた。

unami14.jpg
写真③が「卯波」の厨房の様子で、左側に居るのが宗男らしい。
この店も再開発とかで2008/01に立ち退いた。寂しい限りである。元の店の写真など載せておく。

(追記)
俳句界に詳しいところからの情報によると

<卯波、再開です!(嬉)
以前の店のとなりのビルの地下になるけど、住所は前とおんなじ。オープンは、二月を予定しているらしい。
一家離散していた家族が、またおうちができて集まるような、そんな心境です。
いやー、本当にいいニュースやった 。>

という記事が載っていた。
その後の報道によると、2010年に「新・卯波」が開店したらしい。アクセスして見てもらいたい。

彼女の経歴については、可久子の「本」をはじめWeb上でも詳しく載っているので読んでもらいたいが、ここで簡単に載せておこう。

鈴木真砂女は明治39年11月24日に千葉県鴨川市の老舗旅館・吉田屋に生れる。
夫の出奔や再婚、自身の愛の出奔など波乱に富んだ人生を送ったあと、昭和32年銀座の路地奥に小料理屋「卯波」を開く。
句作は昭和10年からはじめたという。
その間、久保田万太郎に師事するなど文学者に愛され、石田波郷の定席が決まっていたなどの話がある。
写真④が「卯波」のくれたマッチに刷られた真砂女の句である。
unami16.jpg

昭和38年久保田万太郎の急逝のあとは「春燈」の後継者・安住敦に師事。
句集は七冊出しているが、第四句集『夕蛍』で俳人協会賞を受賞。
第六句集『都鳥』で読売文学賞を受賞。
第七句集『紫木蓮』で蛇笏賞を受賞する。
平成15年3月14日死去。享年96歳。

可久子の本には瀬戸内寂聴が帯文を書いているが、彼女自身も愛の遍歴で家庭を捨てた人であるから、面白い。
この本は、真砂女の生涯を簡潔に、かつ娘として知る「本当の」話を描いていて情趣ふかい。

写真⑤は静岡県にある冨士霊園の彼女の墓。
suzukimasajyo墓
以下はWeb上に載る或る人の記事である。借用にお礼を申したい。
引かれている句も味わいがある。
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 羅(うすもの)や細腰にして不逞なり (卯浪)

 罪障のふかき寒紅濃かりけり (生簀籠)

 あはれ野火の草あるかぎり狂ひけり (夏帯)

 柚味噌練つて忽然と来る死なるべし (居待月)

 恋を得て蛍は草に沈みけり (都鳥)

 戒名は真砂女でよろし紫木蓮

 恋のこと語りつくして明易き (紫木蓮)

丙午うまれとはいえ恋の女は気性も激しい。2度結婚して2度離婚。51歳で不倫の恋を貫くため、鴨川の実家、「吉田屋旅館」の女将の座を捨て、女手一つで銀座に小料理屋「卯波」を開店するなどという離れ業をやってのける。以後の40年、「卯波」は立ち位置となり、句は「卯波」となった。「老いてますます華やいだ」生涯現役の俳人、腰痛のため療養生活を強いられてなお4年余り、96歳の春、強靱な生命力を持ち続けたさすがの真砂女も平成15年3月14日夕刻、東京・江戸川区の老人保健施設で老衰のため逝く。

 あるときは船より高き卯浪かな

紡ぎ綿を敷きつめたような空、梅雨の中休みにしてもとにかく暑い。何回目かの訪問で慣れているとはいえ、幹線道路のような広く長い坂道をのぼりきると汗がどっと噴き出てくる。眼下に大パノラマを展開する霊園の背後から、遙か前方の山稜に霞ゆく高圧鉄塔のつながりを何となく眺めながら、ふと、そういえばいつもはあのあたりには確信に満ちた冨士の顔が見えていたはずだがと、ぼんやり思い出していた。ゆるゆると深呼吸した足許に、湿気を含んで黒ずんだ火山灰土に据え置かれた碑

 芽木の空浮雲一つゆるしけり

亡くなる20年前、喜寿の年に建立した真砂女の墓。句碑ともいえる矩形の石塊に閉じこめられたのは、美しい思い出ばかりであろうはずもない。
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他人の引用ばかりでは芸がないので、私の選んだ句を少し引く。重複するのは除く。

 人のそしり知つての春の愁ひかな

 女三界に家なき雪のつもりけり

 男憎しされども恋し柳散る

 夏帯や運切りひらき切りひらき

 暖炉燃ゆわれにかへらぬものいくつ

 人もわれもその夜さびしきビールかな

 掌にぬくめやがて捨てたる木の実かな

 裏切るか裏切らるるか鵙高音

 亀鳴くや夢に通へと枕打ち

 風鈴や目覚めてけふのくらしあり

 ふぶく音を海鳴りとききねむらんか

 かくれ喪にあやめは花を落しけり

 老いまじや夏足袋指に食い込ませ

 限りあるいのちよわれよ降る雪よ

 住みつけば路地こそしたし夜の秋

 とほのくは愛のみならず夕蛍

 鴨引くや人生うしろふりむくな

 忌七たび七たび踏みぬ桜蘂

 水もさびし空もさびしと通し鴨

 隠しごと親子にもあり桜餅

 死なうかと囁かれしは蛍の夜

 怖いもの知らずに生きて冷汁

 今生のいまが倖せ衣被

 生国も育ちも上総冬鴉

 ふるさとは遂に他国か波の華

 かのことは夢まぼろしか秋の蝶

 捨てきれぬものにふるさと曼珠沙華

 人を泣かせ己も泣いて曼珠沙華

 如月や身を切る風に身を切らせ

 ふるさとの冬の渚が夢に出て

 白南風や漕ぎ馴れてきし車椅子
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彼女の眠る冨士霊園には、彼女と親しかった中村苑子、秋元不死男、三谷昭、高柳重信などの俳人が葬られているという。
本山可久子の関係では杉村春子などの墓も建っているという。



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