FC2ブログ
K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
202002<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>202004
「アルバトロス」─木村草弥『信天翁』書評・・・沢良木和生
信天翁_NEW

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■


       「アルバトロス」─木村草弥『信天翁』書評・・・・・・・・・・・・・沢良木和生(小説家)

むかし、アルバトロスという名の、第一次世界大戦当時のドイツ仮装巡洋艦の物語を、南洋一郎という作家が書いた「ルックネル艦長」という本を読んだ覚えはないか。
あの、大洋を広く遊弋しながら祖国ドイツのために闘ったロマンテイックなものがたりだ。小学校5年生ぐらいのときだったか、アルバトロスだ。
信天翁という題字を読んだとき、ふと思い出したのだ。大西洋を縦横にかけめぐる痛快無比のものがたり。
商船を改装、15サンチ砲を何門か搭載して、敵国の商船に近付き撃沈する。今ではそんなことはとてもできないが、敵の海上輸送路を断ち切るのだ。ルックネルのゲルマン的海軍士官らしい豪快、闊達、男らしさ。

2020年のこの「信天翁」 短歌を標榜しながら、短歌にして短歌にあらず、31音を基本的に綴りながら一篇の散文であり、連綿として断ち切ることができない物語の自由な構築。
いいなあ、この自由さ。はるか洋上を自由に翔けるアルバトロス。
決別した友を想う。ここに書かれた「M」は、ぼくの妹が嫁した男、昨年多臓器がんで亡くなったよ。市民運動に参加していたが、基本的に孤立していた男だった。
葬儀で60になった息子が、彼の人となりを語ってくれたが、もちろん語れるはずがない。今は、ただ一人となった友人であるぼくが弔辞を読んだ。
息子の会社パナソニックの社員たちが大勢参列しており、やつらはどう思ったか知らぬが、50年代の学生運動とそれへの想いを心を込めて語った。
友よ、安らかに眠ってはならぬ。今少しこの国の行く末を、喝破と目を見開いて憂い続け怒り続けてくれ、というたった。

「朝の儀式」と「或る夕餉」は、いいなあ。モロぼくも同じような時間。過不足なしに心に流れ込んでくるぞいな。けっこう工夫して献立を作ってる。よくやってるよ。

「街並み」 み、は必要か。
ぼく、今年の新年会の乾杯の音頭を取ったとき、会場の数十人の80歳前後の人びとに向かって、グラスを置いて聞いてくだされ。
みなさん、見知らぬ街を歩きませんか、その気になってゆっくり歩けば、見慣れた街でも、見知らぬまちが起ち上ってきます、そしてまた言った。
みなさんの長年の知識や経験が詰まっているので、重くなった頭蓋が、つい前へ垂れさがってくるのはやむを得ませんけれど、そいつを立て直して、昂然とあごを挙げて歩きませんか、顎はそのためにあるんです、と、えらそうに演説した。

「樹林」 「森の記憶」は、ぼくにはない。けれどこんなフレイズがあったなあ。「私たち人間は、聳え立つ巨木に対して、恐るべき威厳を感じる。」
ああそうか。京、比叡山中にある巨木、登山路にそびえていた、ただ一本。20mから上は雷火に打たれて失われていたが、地元から延びた巨大な幹にはびっくりした。「一本杉」と呼ばれている。むかし参謀本部の陸地測量部の地図には、この大樹、しっかりと明記されていた。驚いたのは、701年のあの大宝律令の中で、近江と山城の国別識票? になっていた、というから凄いではないか。比叡回峰の行者たちが、必ず礼拝し、その精気を得た、というのはぼくの深読みかなあ。

「卒の字」むかしは、しゅつ、しゅっす、と読んだのか。
何年何月、○○某しゅつ。そんな表現をだれがどこに書くのかなあ。潔いではないか。
「岩石」 地球はそれで出来ている、と詩人は言う。中国の人ほど石を愛した民族は居ない、という。
それはそうかもしれないが、「磐座」はどうだ。古代日本人の巨石信仰をどう見る? ぼくは、この国の随所にある巨石は、民衆の自然への恐れであり、おろがみたてまつる対象として最適のものではなかったか。
今も残るこの国の巨石信仰、そして石に刻む神仏の像、そして、ぼくの住む北摂のいたるところに鎮まっている、小さな石仏の群。野仏の群に心を奪われるのだ。中世の戦乱の中で、踏み荒らされた泥土の片隅にそっと据えられたのであろう小さなちいさな石仏の群。丈1尺にも満たぬ、ろくに彫りこまれてもいない石仏たち。誰が彫り、誰のために立てたのか。
「直立」 「二足歩行」。成長した頭脳を支えるには、直立するしかない。いろんな利点があったはずだ。そしてさらに脳は巨大になり容積が増え重くなった。4足歩行の小さい頭脳ではつくり出せない能力は、二足で生み出した。一方出産能力は落ち、走る力も落ち、肉体は退化した。
しかし、そこでだ、「コギト・エルゴ・スム」 デカルトさんよ、ちょっと待て。懐疑し思索すること、究極、それだけが疑うことのない真実だというか? あるいは人間の存在がある、というのか。でも、考えない鳥や獣はアカン存在だと決めつけてくれるなよ。コトバを持たぬ彼ら、動物を貶め、殺戮し、草木を焼き滅ぼした。地球をも滅ぼそうとする。この近現代。
 
もう、やめよう。一冊の信天翁に乗せられて、連想や思い出をずるずると語ってしまった。
まだまだ語りたくなってくるのだ。
教練の想い出。大空襲の時の想い出。臆面もなくこっちが忘れていたつまらぬことを、引き出してくれるのだ、この連詩集は。
難解な日頃の高みから、のびのびと降りてきてくれているからかなあ。
ずるずると一人語りをしてしまった。         (完)
----------------------------------------------------------------------
敬愛する小説家の沢良木和生氏から、優れた、独特の書評を賜った。
有難うございます。 ここに全文を披露いたします。


『信天翁』私信と抽出歌・・・大西正春
信天翁_NEW

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■


      『信天翁』私信と抽出歌・・・・・・・・・・・・・・大西正春

敬愛する歌人・木村草弥翁から「散文の短詩」集『アホウドリ』を拝受し、一夜にして拝読。
「チョコ野郎」は渡仏され、「シメオンの光」は渡蘭されたからこそ生まれた歌。

      チョコ野郎     

  秋風とともにチョコレートがおいしい季節が来た
  ショコラトリ・ロワイヤルはオルレアンで一七六〇年に創業した 
  今でもカカオ豆からチョコレートを生成している数少ない店
  マルキーズ・ド・セヴィニエは一八九二年創業
  一八九八年に「セヴィニエ侯爵夫人」をブランド・イメージとする
  ラデュレは一八六二年にロワイアル通りにオープンしたのが始まり
  「レ・マルキ・ド・ラデュレ」はチョコ専門の新ブランドとして発足
  マルキーズ侯爵夫人の横顔が描かれたボンボン・ショコラ
  よほど「侯爵夫人」がお好きらしい。競って侯爵夫人だ
  フランスはチヨコレート王国。彼らを「チョコ野郎」と呼ぶ


      シメオンの光   

  レンブラント描く《シメオンの賛歌》が眼前にある
  ルカの福音書に魂を揺さぶられて制作した《シメオンの賛歌》
  白髭を蓄え口を開けて讃美しているのがシメオン
  その腕には幼子イエスがしっかりと抱かれている
  絵の中央で跪きながら二人を見守っているのがマリア
  うす青い衣をまとい右手を鳩尾(みぞおち)、左手を胸に当てて微かに微笑む
  その傍らで髭を蓄え片膝を立てているのがヨセフ
  レンブラントの光は可視化されているようでいて形而上の光である
  目に見えない神の臨在を表すために垂直に注ぐ光を編み出した
  一枚の絵の中で物語が時間をかけて浮き沈みする


卒の略字「卆」になられた今年、益々盛んな創作欲と見受けます。

       「卆」の字    

  卒の略字「卆」は九と十。わたしは今年卆寿だという
  卒は兵卒。古代中国には兵卒に印(しるし)をつけた服を着せたから
  宮崎信義は徴兵され中国戦線で一兵卒として苦労した
  卒は終わる、終えるの意味から「卒業」の熟語がある
  卒には「遂に」「俄(にわか)に」の意味もあると辞書に
  「卒中」「卒倒」「卒然」などの熟語がある
  卆寿とは「人生を終える」齢という意味なのか
  虚弱児だったボク──九十歳まで生きるなんて思いもしなかった
  どうやら「卆」の字が私の目下のキーワードらしい
  ああ、この夕餉に牡蠣(かき)に檸檬(れもん)を絞りつつ思うことである
---------------------------------------------------------------------
敬愛する大西正春氏がFBのページ上で、私の本について書いていただいた。
有難うございます。
大西氏にはネット上での技術について幾つかのことを教えてもらった。私の今日のネット上で活躍できるのは、同氏からの教示が大きいと改めて御礼申し上げておく。


たつぷりと/春は/小さな川々まで/ あふれてゐる/ あふれてゐる・・・山村暮鳥
413ilw6RRrL__SS500_.jpg

     春の河・・・・・・・・・・・・・・・・・・山村暮鳥

       たつぷりと

       春は

       小さな川々まで

       あふれてゐる

       あふれてゐる
---------------------------------------------------------------------
7-13_9879山村暮鳥

この詩は『雲』という大正14年刊行の詩集のはじめの「春の河」三篇のうちのものである。

山村暮鳥(1884-1924)は『三人の処女』『聖三稜玻璃』などで有名な人であるが、私の旧制中学4年の時の国語の先生から山村暮鳥の詩集を借りて、ひところむさぼるように読んだことがある。
山村調を気取って短詩を作ったりした。
詩集の題名でも明らかなように、暮鳥は宗教的ヒューマニストとしてキリスト者の人間的真実を追究するところに独自の詩風を展開した。
詩風は、かなり時期により異なり、ドストエフスキーの研究、翻訳に当っていた頃は、当然その影響を受けている。
いわゆる「白樺派」の影響を受けた第二期があり、詩集『風は草木にささやいた』(1920)などはヒューマニズムの時期である。
1924年に亡くなるが、萩原朔太郎が評しているように「虚淡時代」という第三期の東洋的な汎神論的世界に晩年はひたり込んだ。
静かに牧歌的な自然を観照し、その中に帰一し、明るい人生観が見られる時期である。
大正14年というと、もう晩年に近い頃で、掲出の詩は、そういう牧歌的な雰囲気のものである。

余談だが、彼の略歴(下記)を見ると「東京聖三一神学校」を出た、とあるが、別の記事を読むと、この神学校は「立教大学」の前身であるという。

1126505962-2山村暮鳥詩碑

写真③は彼の詩「風景 純銀もざいく」を刻んだ詩碑である。
この詩碑の建つ場所や写真などを ↑ のリンクで見られるので、アクセスしてみてください。

その詩句を下記に引いておく。

  風   景  
    純銀もざいく
・・・・・・・・・・・・山村暮鳥   詩集『聖三稜玻璃』(にんぎょ詩社、大正4年12月10日発行)所収

     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     かすかなるむぎぶえ
     いちめんのなのはな

     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     ひばりのおしやべり
     いちめんのなのはな

     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     やめるはひるのつき
     いちめんのなのはな。

同じ詩句を連ねた中に8行目にだけ異なった詩句を嵌めるというシンプルな構成になっている。

-----------------------------------------------------------------------
ここで同じ詩集『雲』に載る短詩をひとつ紹介する。

   雲・・・・・・・・・・・・・・・山村暮鳥

      おうい雲よ
      ゆうゆうと
      馬鹿にのんきさうぢやないか
      どこまでゆくんだ
      ずつと磐城平の方までゆくんか
----------------------------------------------------------------------
また『月夜の牡丹』という詩集の作品──

      ある時・・・・・・・・・・・・・・山村暮鳥

      娘よ
      うんと力をいれて
      何がそんなにはづかしいのよ
      ほら、ぬけた
      なんといふ
      太いまつ白い大根だらう
-------------------------------------------------------------------------
ネット上に載る「文車」というサイトの記事を下記に貼り付けておく。
この記事が一番よく書けていると思うからである。

山村暮鳥

[文車目次] 

思潮社 「山村暮鳥詩集」(1993年9月15日 初版第二刷)より
  『聖三稜玻璃』
彌生書房 「山村暮鳥全詩集」(1973年7月10日 第五版)より
『風は草木にささやいた』
筑摩書房 「現代日本文學大系41」(1973年12月20日 第一刷)より
『雲』
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
ひとりごと
 山村暮鳥の詩をはじめて読んだのは、実はマンガの中でのことでした。多分、小学校の高学年か中学の1年生ぐらいだったと思うのですが、作家もストーリーも忘れてしまいましたが、一番最後のコマに「いちめんのなのはな」の繰り返しがあって、島村暮鳥《風景》というのが小さく書いてありました。とにかく、その繰り返しにもの凄くインパクトを感じて、曖昧な記憶の中で、次の日には紀ノ国屋書店に《風景》の詩を確認しに行った、ということだけは鮮明に覚えています。
 その後、暮鳥の詩で代表的のものは高校まででほぼ読み終えましたが、《風景》の収められた『聖三稜玻璃』の3年後に出版された『風は草木にささやいた』は、とても同じ人が書いているとは思えないぐらい穏やかな詩が並んでいて、かなり戸惑ったものでした。『聖三稜玻璃』が世に認められず悪評の中で一度壊れた暮鳥が、苦しみの中から自分を組み立て直して作り出したのだろう、力強いながらも平明な詩や、『雲』の中の穏やかな詩を読んでいると、時々泣きたくなるような気がしてくることがあります。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
山村暮鳥について
1884年(明治17年)~1924年(大正13年)。詩人。本名、土田八九十(つちだ・はつくじゅう)
群馬県生れ。貧しい家庭に育つ。1903年(20歳)東京聖三一神学校に入学。在学中は文学に傾倒し、詩や短歌の創作にふける。神学校卒業後、キリスト教日本聖公会伝道師として各地で布教活動を行いつつ、1913年(30歳)に詩集『三人の処女』を出して世に認められる。同年、萩原朔太郎、室生犀星らと人魚詩社を興す。このころから鋭角的で斬新な詩風の作品を書き、それらは『聖三稜玻璃』(1915)に結晶して朔太郎らに大きな影響を与えた。しかし自身は人道主義的作風に転じ、『風は草木にささやいた』(1918)『雲』(1925:死後一年後に出版)をまとめた。1924年、茨城県大洗町で結核により永眠。享年41歳。
明治大正期の新詩体から口語自由詩への変革期の中で、革新的な作風から人道主義的な作風まで、これほど短期間の間で己の詩質と詩風を何度も変容させた詩人はまれであり、日本近代史に類例のない軌跡を描いている
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
『聖三稜玻璃(せいさんりょうはり)』について

1915(大正4)年、人魚詩社刊。
大正3年5月から4年6月までの1年余りの間に発表された詩35篇と序詩1篇からなる第2詩集。2年後に出版された萩原朔太郎の《月に吠える》が好評のうちに迎えられたのとは対照的に、当時の詩壇からは悪評を買うのみで、広く世に認められることがありませんでした。けれど、言葉をその意味から離して、詩人の鋭い感覚のみで自由に結合させた幻想的な詩法は、極めて実験的で独創的な世界を作り出しています。これらの詩は、萩原朔太郎や室生犀星などに大きな影響を与えましたが、暮鳥自身はこの形式を放棄し、以後は平明な詩法へと転換して行くことになります。

『風は草木にささやいた』について

1918(大正7)年、白日社刊。
大正6年1月から大正7年12月までに制作、発表された作品を集めた第3詩集。大正5年11月に雑誌『感情』第5号に、暮鳥が「無韻小詩」という題で発表した14篇の散文詩の翻訳は、山崎晴治の「不遜の言-暮鳥氏訳『無韻小詩』に就て-3」と題した文章によって、誤訳であると批判されます。『風は草木にささやいた』は、山崎晴治の批判文を読んで《卒倒》した暮鳥が、結核に冒されつつも旺盛な創作活動を続けた結果の、自然と人間への賛歌を歌いあげた人道主義的な作風の詩が納められています。

『雲』について

1925(大正14)年、イデア書院刊。
暮鳥の死の翌年に刊行された第6詩集。暮鳥自らが病床で編集したもので、大正13年7月に入稿し、11月に校了となったが、翌月の8日に暮鳥は永眠しました。その序文で「だんだんと詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない。」と書かれた『雲』に納められた詩には、平淡な自在さを持った宗教的、あるいは東洋的な哲学めいたおもむきを感じさせるものが多いような気がします。

copyright © 2020 Powered By FC2ブログ allrights reserved.