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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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京都新聞社南部支社長・大橋晶子さんが定年退職される。・・・木村草弥
信天翁_NEW

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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 京都新聞社南部支社長・大橋晶子さんが定年退職される。・・・・・・・・・木村草弥
 
メール文を引いておく。 ↓

木村草弥さま。 
 コロナ渦で外出がままなりませんが、いかがお過ごしでしょうか。
せっかくの春ですのにね。
人がいない中、桜だけが静かに咲き誇る何とも不思議な光景がここかしこにあります。

 さて、お礼をお伝えするのが遅くなりましたが、「信天翁」をお送りいただき、
どうもありがとうございました。
喪失の哀しみを歌い、自由が敵視された時代を伝え・・・。
いつもながら自在でいらっしゃいますね。
最後に置かれた歌が全体を締め、また木村さんらしくもあります。

 私事のご報告ですが、家の事情もあり、今月末をもって定年扱いで退職することにしました。
第二歌集「嘉木」を通じての思いがけないお出会いから、いつの間にか21年になりました。
あっという間ですね。この間いろいろとお世話になり、感謝しております。
「嘉木」当時は、木村さんが90歳まで歌集を出し続けておられるとは想像だにしませんでしたけれど。
いつまでも変わらぬ知的好奇心が見事、と感嘆しております。
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kaboku_01.jpg

*書評*
   茶への思い 情感豊かに


(京都新聞平成11年6月18日朝刊所載)

城陽市奈島で茶問屋を営む木村草弥(本名・重夫)さん(69)がこのほど短歌集
「嘉木」(かぼく)を自費出版した。なりわいである茶への思いや、病と闘った妻へ
の愛、老い、山城の歴史や身の周りの自然など日常を情感豊かに詠んでいる。

木村さんは91年に歌を詠み始めた。自由な作風で知られる短歌会「未来」や
地元の「梅渓短歌会」の同人となり、仕事の合間に詠んだ歌を発表し続けている。
「嘉木」に収めたのは493首。
95年の第一歌集「茶の四季」以降、98年末までに発表した800首余りの中から
選んだ。
歌の題材は、変わりゆく山城や海外の暮らし、世紀末など幅広い。だが、中でも
多いのは、新茶の季節の喜びや、茶樹への愛情を詠んだ歌だ。
    明日のため見ておく初夏の夕焼は茶摘みの季の農夫の祈り
    茶どころに生れ茶作りを離れ得ず秋の深みに爪をきりゐつ
本のタイトルも陸羽の「茶経」の書き出しの「茶は南方の嘉木なり」からとり、表紙
には「製茶の図」を使った。
木村さんが日常を見つめる視線はどこかユーモラスだ。
  水馬(あめんぼう)がふんばってゐるふうでもなく水の表面張力を凹ませてゐる
長年連れ添う妻を詠んだ歌は温かい。
    病む妻に木瓜(ぼけ)の緋色は強すぎるほつほつと咲け白木瓜の花
    妻を恃(たの)むこころ深まる齢(よわい)にて白萩紅萩みだれ散るなり
第一集に比べ、老いを見つめた歌が増えた。
    嵯峨菊が手花火のごと咲く庭に老年といふ早き日の昏(く)れ
歌集の最後はこう締めくくっている。
    引退はやがて来るものリラ咲けばパリの茶房に行きて逢はなむ

(執筆者・洛南支社記者・大橋晶子)
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私の第二歌集『嘉木』(角川書店)の取材に私宅に来てくださったときのものである。私のHPで読める。
この取材の時に大橋さんと話していたら、彼女の父上が大橋保夫であることが分かり驚いた。
大橋保夫氏は私と同じ仏文科の一年先輩で、私は新制第一回だが、彼は旧制だった。
フランス語のゼミなどは一緒で、とにかく保夫氏は秀才で光っていた。
在学中にフランス政府の給費留学生に受かり、三年間パリ大学(文学部はソルボンヌ)に留学。帰国すると、すぐに京都大学で教鞭を執られた。
母上は、保夫氏と同じフランス語の後輩で大橋寿美子さんという。のちに同志社女子大学長を務められた。
1967-1968年「京都大学 大サハラ 学術探検」(総隊長・山下孝介)。
これは木村重信が企画し、講談社 創業60周年とフジテレビ 開局10周年の事業にドッキングしたもので費用はすべて民間企業の寄付によってまかなわれた。
全隊員の調査報告および記録は『大サハラ─京都大学大サハラ探検隊』(講談社)として1969年に刊行された。
フジテレビが「大サハラ」というタイトルで1969年1月~3月に13回にわたり放映。
産経新聞 が「サハラ砂漠─京大学術探検隊とともに」を1968年1月~2月に30回にわたって連載。
この時には保夫氏は「言語班長」として兄・重信と苦楽を共にした仲であり、これも奇しき因縁である。
この探検隊が帰国したとき、大阪空港(その時には、まだ関空は無い)で寿美子さんが抱いていた乳飲み子が晶子さんだという。
そういう因縁の出会いを経て、二十年余り付き合ってきたのである。
大橋晶子さんは早稲田大学を出て、京都新聞社に入社された。
その間に晶子さんは出世され、外国部、滋賀支社などを経て、現在は京都府南部を所管する南部支社長を務めておられるのである。
そんな長い付き合いを偲んで、書いてみた。ご苦労様でした。お付き合いに感謝します。


馬部隆弘『椿井文書』──日本最大級の偽文書・・・木村草弥
椿井_NEW

椿井_NEW
 ↑ 裏表紙

      馬部隆弘『椿井文書』──日本最大級の偽文書・・・・・・・・・・・木村草弥
                  ・・・・・・中公新書2020/03/25刊・・・・・・・

敬愛する浅田周宏氏が来宅され、上梓されたばかりの標記の本を下さった。
同氏は『浅田家文書』の当主として名高いが、京都府立山城郷土資料館の解説ボランティアや、城南郷土史研究会『やましろ』の会員として活動されている。
 ↑ 赤字の部分はリンクになっているのでアクセスして、お読みいただきたい。
先ず、この本の著者である馬部隆弘氏の略歴を引いておく。
馬部隆弘 略歴
1976年 兵庫県生まれ。
1999年 熊本大学文学部卒業
2007年 大阪大学大学院文学研究科 博士後期課程修了。 文学博士。
枚方市教育委員会。長岡京市教育委員会を経て
現在 大阪大谷大学文学部 准教授
著書 『由緒・偽文書と地域社会──北河内を中心に』 (勉誠出版) 2019年 など

『椿井文書』なるものについては、私は何も知らなかったが、一読して、驚いた。
この本の「要約」が、掲出した本の「裏表紙」に載っていて、極めて的確なものである。画像として読み取れるので読んでもらいたい。
『椿井文書』とは、山城国相楽郡椿井村(京都府木津川市)出身の椿井政隆(権之助 1770~1837)が、依頼者の求めに応じて偽作した文書を総称したものである。
中世の年号が記された文書を近世に写したという体裁をとることが多いため、信じ込まれてしまったようである。
しかも、近畿一円に数百点もの数が分布しているだけでなく、現代に至っても活用されているという点で他に類をみない存在だという。

郷土史などでは、文献を「引用」するという形で書き継がれるので、その資料を「鵜呑み」にして記載されてきた。
それらを一つ一つ検証して書かれている。

この本の巻頭の図版の「口絵 ⒈」に「仏法最初高麗大寺図」なるものが載っている。その説明書きには

<左上部分が椿井村にあたるが、椿井氏来住以前を想定して描かれているため、「薗辺村」という呼称が記される 京都府立山城郷土資料館寄託浅田家文書>

の記入があり、ここから浅田氏と「椿井文書」との関わりが生じたものである。
また、読み進むと浅田家と濃い婚姻関係にあった「小林凱之」家の屋敷の絵図を、横井が描いたものが載っている。
ただし、これは横井の偽文書とは関係がないので、念のため。
椿井村に隣接する小林家は大きな地主であったから、接触があったものとみられ、また有力者ゆえに彼の方から近づいて行ったものか。
なお「浅田家」は、近隣の地主とは異なり、上狛村・椿井村に及ぶ大地主であったから、小林家のような近隣の地主とは「縁戚」を結んでいたのである。
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数年前に開かれた、公開シンポジウム「近代日本の偽史言説」で発表された椿井(つばい)文書に関する発表には下記のように書かれている。 ↓

「椿井文書とは、山城国相楽郡椿井村(現京都府木津川市)出身の椿井政隆(1770~1837年)が、依頼者の求めに応じて偽作したもので、中世の年号が記された文書を江戸時代に写したという体裁をとることが多い。そのため、見た目には新しいが内容は中世のものだと信じ込まれてしまうようである。
彼の存在は研究者の間でもあまり認知されていないため、正しい中世史料として世に出回っているものも少なくない。
椿井文書は、近畿一円に数百点もの数が分布しているというだけでなく、現在進行形で活用されているという点で他に類をみない存在といえる。」
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私は素人であり、かつ郷土史などには無縁の人間なので、ここで検証することなどは無理なので、紹介するにとどまることを了承されたい。

奈良の「興福寺」は藤原氏の氏寺であって、今とは遥かに広大な寺領であったが、その興福寺に連なる縁戚をでっちあげて、自分を、俗な言い方をすれば「偉い」出自に仕立て上げた。
とかいうことがあったらしい。
とかく地方の有力者とかは、今でも「商店」の由来を「創作」して飾りたてることが、ままある。
それに類することが、椿井政隆の手でやられてきたのである。
この本の第五章には「南山城の事例」として、当地に隣接する今の京田辺市の「式内咋岡神社をめく゜る争い」 「井手寺の顕彰」などが載っている。
井手について言うと、ここは聖武天皇の皇后の縁戚である橘諸兄の別業地であったから、その橘諸兄に連なる縁戚のデッチあげ、などもあったようだ。
著者が勤務しておられた枚方市についても、椿井による「偽書」に基づくと指摘しても、編集をまとめる責任者の「地域おこし」のための一言で却下され、今も、その間違いが続いている、などと書かれている。
また著者の指摘に対しての「反論」をする人の多くが、「偽」の記載によって「箔が着く」立場の人である立場にある、と書かれている。京田辺市の「普賢寺」のくだり、などである。
また彼は「絵図」などを描くのが巧く、それも色どり豊かなので、見た目がよく、それらを取り込むことで文書が引き立つので愛用された、と書かれているのも納得できる。
それに彼が生きた時代を見てもらいたい。「幕末」と言える時代である。葛飾北斎が生きた時代で、明治元年が1868年だから、時代が大きく変動する頃である。
この頃には社会は大きく動いていた。人々は不安を抱いて生きていた。そういう時代なればこそ、彼のような贋作者がはびこったのだろう。


私の勝手な感想を言えば、椿井村の主宰者という彼の「設定」自体が、怪しいのではないかという気がするが、いかがだろうか。
舌足らずの紹介で申し訳ないが、「サワリ」として受け止めていただきたい。
間違いがあれば直します。ご指摘ください。よろしく。 
浅田さん、ご恵贈有難うございました。


きさらぎの空ゆく雲を指さして春ならずやと君にささやく・・・太田水穂
17392春の雲

   きさらぎの空ゆく雲を指さして
     春ならずやと君にささやく・・・・・・・・・・・・・・太田水穂


きさらぎ、は新暦の3月として今の時期に採りあげた。
この歌は相聞歌として受け取れよう。
水穂の第一歌集『つゆ草』明治35年刊に載るものだから、相聞歌と断定して、間違いなかろう。
そういう目で読むと、若者の愛の告白の歌として、みずみずしい情感に満ちた佳い歌である。

 君が手とわが手とふれしたまゆらの心ゆらぎは知らずやありけん

という歌があるが、これも同時期に作られた歌であろうか、相聞歌として受け取りたい。

太田水穂は明治9年長野県東筑摩郡生まれの人。高女の教諭や大学の教授などを務める。
大正4年短歌結社「潮音」を創刊。阿部次郎・安倍能成らと芭蕉研究会を結成し「日本的象徴」主義を主張する。「潮音」は今も大きな結社として短歌界に一定の地歩を占めている。
先の第二次大戦中は軍部の文芸界統制のお先棒をかつぎ、戦後、厳しい批判を受けることになる。

水穂の歌を少し引いてみよう。

 ほつ峯を西に見さけてみすずかる科野(しなの)のみちに吾ひとり立つ

 あけ放つ五層の楼の大広間つばめ舞ひ入りぬ青あらしの風

 さみしさに背戸のゆふべをいでて見つ河楊(かはやなぎ)白き秋風の村

 をちこちに雲雀あがりていにしへの国府趾どころ麦のびにけり

 豆の葉の露に月あり野は昼の明るさにして盆唄のこゑ

 張りかへてみぎりの石の濡るるほどあさしぐれふる障子の明り

 青き背の海魚を裂きし俎板にうつりてうごく藤若葉かな

 まかがよふ光のなかに紫陽花の玉のむらさきひややかに澄む

 すさまじくみだれて水にちる火の子鵜の執念の青き首みゆ

 命ひとつ露にまみれて野をぞゆく涯なきものを追ふごとくにも

 おおい次郎君かく呼ぶこゑも皺枯れてみちのくまでは届かざるべし──(阿部次郎氏に)

 もの忘れまたうちわすれかくしつつ生命をさへや明日は忘れむ

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引用した歌の終りの頃のものは、晩年の悲痛な響きを持っている。昭和30年没。


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