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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(4月)月次掲示板
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東日本大震災から九年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
entry_25しだれ桜小渕沢
 ↑ 小渕沢しだれ桜

四月になりました。陽春の到来です。
新人の春です。 旧人はひっそりと暮らしましょう。

 アレツポの石鹸切れば暗緑色の出できて遠き地の香たちきぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・吉田恵子
 沖縄のかがやく碧よ、北国の蒼さ冥さよ、海めぐる国・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 森山良太
 空色の階段われと降りて来し黄蝶は水を渡りてゆけり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・森みずえ
 電球を買いにきたのに二段熟成さしみ醤油も買って帰った・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 丸山三枝子
 野仏はめはなうすれてゑむごとく小さくおはす御代田の里に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村順子
 ひたひたひた水は滲み出る凍らない塞いで塞いで世界が濡れる・・・・・・・・・・・・・・・・三枝昂之
 今年また雑草ははやく茂り来て癒えやらぬ土の傷みを覆ふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 石川恭子
 生、老、病、生きて残れる死までしばし 今朝は郭公のこゑを聞きたり・・・・・・・・・・・・志野暁子
 花の枝のどこまで撓む愛されてゐるとふ自負の肢体のごとく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 太田宣子
 どうしても生きてたいです オモイノママという名前の花があります・・・・・・・・・・・・・ かなだみな
 薬狩りのこゑをしづめて夕映ゆる隠沼ありぬわが禁野には・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 萩岡良博
 印象派の始祖としてベラスケスあり風景を外に出でて描き・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・櫟原聰
 唐破風千鳥破風におのづから序破急ありて波うついらか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 楠田立身
 朝食の卓に日は射し詩人の血わが静脈にこそ流るるを・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤原龍一郎
 日本の家族写真の真ん中は普通は子供あめりかは妻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・武藤ゆかり
 耳奥のリンパのゆらぎ朝床に人となるべくかたちひき寄す・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・久我田鶴子
 重ねあふ空あるのみに揚げ雲雀声はたちまちかき消されゆく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・阪森郁代
 春の灯や女は持たぬのどぼとけ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日野草城 
 春来る童子の群れて来る如く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・相生垣瓜人
 あけぼのや春の音とは水の音・・・・・・・・・・・・・・・・・・片山由美子
 春の月情事の後も春の月・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・マブソン青眼
 花冷や日誌に潰す虫その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・さわだかずや
 春闇に溶けてゆきたるハイソックス・・・・・・・・・・・・・・・・赤野四羽
 定まりし言葉動かず桜貝・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・生駒大祐
 霞みつつ岬はのびてあかるさよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・上田信治
 泣く子ゐてあやす子がゐてあたたかし・・・・・・・・・・・ハードエッジ
 春日傘美しければ追ひ越さず・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・牛田修嗣
 だきしめたしまはまるごとみなみかぜ・・・・・・・・・・・・・・ 豊里友行
 草餅や一人し食らひつまらなく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・市堀玉宗
 葉桜や兄の葉書に叱られる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・折勝家鴨
 春の月赤い薬包紙につつむ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・河西志帆
 猫町を彷徨つてゐる春の夢・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・金子敦
 春は酣なぜに美少女墜つる魔都・・・・・・・・・・・・・・・・・藤原月彦
 死際に手淫歴など尋ねられ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 月波与生
 花時や父の役目を為し遂げて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 津野利行 
 かげろふを通るてのひら濡れてゐる・・・・・・・・・・・・・・・柏柳明子   
 黄砂降るカメラの紐を首に掛け・・・・・・・・・・・・・・・・・・・寺沢一雄
 猫呼びに出てみづいろに春の月・・・・・・・・・・・・・・・・・・杉山久子
 心臓は小さな臓器豆の花・・・・・・・・・・・・・・・・・・クズウジュンイチ
 老々介護垣に青木の花いくつ・・・・・・・・・・・・・・・・・すずきみのる
 繰り返すいないいないばあの春の昼・・・・・・・・・・・・・・ 萱嶋晶子
  故人みな大脳にをり黄沙ふる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・安田中彦
 走っても走っても街 春終わる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大中博篤
 桜貝砂に包んで持ち帰る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池康生
 クリームのやうな寝癖や花の雨・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤御影
 逢ひたくてミモザばかりを眺めたる・・・・・・・・・・・・・・・・・栗山麻衣
 家ぢゆうの家電が喋る四月馬鹿・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 杉原祐之 
 春昼の雨落ち石と飾り石・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・倉田有希
 春泥や楽器はどれも大荷物・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・きしゆみこ
 名古屋まで北海道展は春下る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・工藤定治
 読みすすむ史書の厚みや花の雨・・・・・・・・・・・・・・・・・ 片岡義順
 足指から弛緩していく木の芽時・・・・・・・・・・・・・・・・・・・谷口鳥子
 菜の花や氏名手書きのバス定期・・・・・・・・・・・・・・・・・ 滝川直広
 春の日の金の夕べを空車(むなぐるま)・・・・・・・・・・・・・・ 高梨章
 目醒めよと呼ぶ声ありし蝶の昼・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中村清潔
 幸福の咲くとはこんな桃の花・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 中塚健太
 ふらここを下りぬ死者への鎮魂歌・・・・・・・・・・・・・・・・ 吉川千早
 太白を従へ春の月のぼる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 利普苑るな
 わたくしの春は鼻からやってくる・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩崎雪洲
 ライバルに見せてしまって足の裏・・・・・・・・・・・・・・・・・滝尻善英
 さてここで・・・(おっと台詞を忘れたよ)・・・・・・・・・・・・・・木村美映
 朝東風や青きリボンを結びたる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・下楠絵里
 春の仕掛けのピアノを壊してみた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・普川洋
 雨女しづかに死せり竹の秋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・葛城蓮士
 金魚らに国の名つけて遊びけり・・・・・・・・・・・・・・・・兼信沙也加 
 カキフライが無いなら来なかった・・・・・・・・・・・・・・・・・・又吉直樹
 花子さん桜子さんと野遊へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 黒岩徳将
 にじみながら海は七つと決められる・・・・・・・・・・・・・・・ 兵頭全郎
 春深く剖かるるさえアラベスク・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・九堂夜想
 昭和平成やがて引戸の黒ずみへ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・曽根毅
 腹筋がやっと割れたわ白木蓮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩根彰子  
 牛糞を蹴ればほこんと春の土・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鈴木牛後


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 歌集 『茶の四季』(角川書店刊)
 歌集 『嘉木』 (角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 歌集 『嬬恋』(角川書店刊)
 歌集 『昭和』(角川書店刊) 
 歌集 『無冠の馬』(KADOKAWA刊)
 歌集 『信天翁』(澪標刊) 
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
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おまえの髪はおまえの街の傾いた海/光の輪が 無数のめまいと揺れている海・・・大岡信
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   朝の少女に捧げるうた・・・・・・・・・・・・大岡信

     おまえの瞳は眼ざめかけた百合の球根
     深い夜の真綿の底から
     朝は瞳を洗いだす そして百合の球根を

     おまえの髪はおまえの街の傾いた海
     光の輪が 無数のめまいと揺れている海
     おまえの潮の匂いだって嗅げるのだ ぼくは

     おまえの腕は鉄のように露を帯びる
     おまえの脚は車軸の速さで地下道を抜ける
     おまえのからだの曲線は光の指に揉まれているが
     そのいたずらがいつもおまえを新しくする
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この大岡信の詩は、彼の青春まっただ中を歌った詩と言ってよい。
ただ、この「少女」というのが、ここに描かれる色々のものの比喩になっているのだが、「今どきの」少女というイメージとして比較するとミスマッチな面もあろうか。
今どきの少女というのは一種の「怖さ」が付きまとうから悲しい。
大岡や私のような世代が少女に抱いていたイメージというのは「新鮮な」ものだった。

大岡信の詩については、何度も引いてきたので、ここでは余り多くのことを喋るのは止めにしたい。
大岡信は2003年度文化勲章受章者である。
朝日新聞朝刊に長い間連載してきた「折々のうた」が執筆を打ち切りになって感慨ふかいものがある。
ここで大岡の別の詩の一部を引用しておく。
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 ooka大岡信

  春のために(後半の一部)・・・・・・・・・・・大岡信

    ぼくらの腕に萌え出る新芽
    ぼくらの視野の中心に
    しぶきをあげて回転する金の太陽
    ぼくら 湖であり樹木であり
    芝生の上の木洩れ日であり
    木洩れ日のおどるおまえの髪の段丘である
    ぼくら

    新しい風の中でドアが開かれ
    緑の影とぼくらとを呼ぶ夥しい手
    道は柔かい地の肌の上になまなましく
    泉の中でおまえの腕は輝いている
    そしてぼくらの睫毛の下には陽を浴びて
    静かに成熟しはじめる
    海と果実
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掲出の詩と、後に引用した詩とは、ほぼ同じような心象の詩になっていることが判るだろう。


うらうらに照れる春日にひばりあがり心かなしもひとりし思へば・・・大伴家持
Alauda_arvensis_2ヒバリ

   うらうらに照れる春日(はるひ)にひばりあがり
    心かなしもひとりし思へば・・・・・・・・・・・・・・・・・・大伴家持


雲雀(ひばり)は春の鳥である。一年中いる留鳥ではあるが春以外のシーズンには目立たない。
スズメ科ヒバリ属という鳥で写真①のように保護色になっているので草叢や地面に居ると見分けにくい。頭には短い羽冠がある。
繁殖期の子育ての時期には囀りがいかにも春らしく、中空で歌い、一直線に地に下りる。これを落ちるという。
麦畑や河原の草に巣を作るが、巣から離れたところに下り、草かげを歩いて巣に至るので、巣を見つけるのは難しい。
ひばりは空にあがる時はヘリコプタの上昇のように一直線に真上に羽をはばたいて昇る。
hibari-5ひばり急上昇

写真②は、その急上昇の一瞬を捉えたもの。子育ての時期には敵の存在を確認すべく上空から監視するのではないか。いわゆる「ホバリング」が出来る鳥なのである。
この後、文字通り羽ばたきをやめて一直線に「落ちる」。

ひばりは虫や昆虫などを餌にしている。掲出した写真も虫をくわえている。
秋などに休耕田の草刈をしていると、虫が飛び出すのを知っていて、いろいろの鳥が寄ってくるが、ヒバリも寄ってくるものである。

ヨーロッパの詩などにもヒバリは、よく詠われ、イギリスの詩人パーシー・シェリーの有名な名詩"To a skylark"がある。
「壺斎閑話」という人のサイトに翻訳文と原詩が載っているので参照されたい。

日本の詩歌にも古来よく詠われ、掲出の大伴家持の歌も有名なものである。
「うらうらに」という出だしのオノマトペも以後多くの歌人に使われているものである。
以下、歳時記に載るヒバリの句を引いて終りたい。

 雲雀より空にやすらふ峠哉・・・・・・・・松尾芭蕉

 うつくしや雲雀の鳴きし迹の空・・・・・・・・小林一茶

 くもることわすれし空のひばりかな・・・・・・・・久保田万太郎

 わが背丈以上は空や初雲雀・・・・・・・・中村草田男

 なく雲雀松風立ちて落ちにけむ・・・・・・・・水原秋桜子

 雲雀発つ世に残光のあるかぎり・・・・・・・・山口誓子

 かへりみる空のひかりは夕雲雀・・・・・・・・百合山羽公

 初ひばり胸の奥処といふ言葉・・・・・・・・細見綾子

 虚空にて生くる目ひらき揚雲雀・・・・・・・・野沢節子

 ひばり野やあはせる袖に日が落つる・・・・・・・・橋本多佳子

 雨の日は雨の雲雀のあがるなり・・・・・・・・安住敦

 雨の中雲雀ぶるぶる昇天す・・・・・・・・西東三鬼

 腸(はらわた)の先づ古び行く揚雲雀・・・・・・・・永田耕衣

 いみじくも見ゆる雲雀よ小手のうち・・・・・・・・皆吉爽雨

 雲雀野や赤子に骨のありどころ・・・・・・・・飯田龍太

 ふるさとは墓あるばかり雲雀きく・・・・・・・・高柳重信

 雲雀落ち天に金粉残りけり・・・・・・・・平井照敏

 ひばりよひばりワイングラスを毀してよ・・・・・・・・豊口陽子

 揚雲雀空のまん中ここよここよ・・・・・・・・正木ゆう子

 ひばりひばり明日は焼かるる野と思へ・・・・・・・・櫂未知子

 揚雲雀空に音符を撒き散らす・・・・・・・・石井いさお

hibarini酒井抱一

俳句を載せてからの追加のような形になるが、「雲雀に春草図」という1817年頃絹本着色という酒井抱一の絵を見つけたので載せる。
この絵には歌人・千種有功の賛(画の内容に関連する文句を詩歌などに作って記したもの)がある。賛の文句は

  はるくさのはなさくのべをわけくれば こころそらにもなくひばりかな

この絵には、たんぽぽ、つくし、すみれ、わらびの生える野辺の上を雲雀が飛ぶのどかな風景を描いている。有名な絵らしい。



「信天翁」私信と抽出歌・・・須賀まさ子
信天翁_NEW

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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       「信天翁」私信と抽出歌・・・・・・・・・・・・・須賀まさ子(「未来山脈」会員)

木村草弥さま
こんにちは、ひどい状況の世界中ですね。いかがお過ごしでいらつしゃいますか。
   ■人間は生きるために樹木を必要とするが樹木は人間を必要としない
痛いほど身に沁みる、この歌が現在のコロナウイルス禍の根本的原因もそこにあると思えてなりません。
人間の身勝手な傲慢さが、結果的に自らの生存の危機にまで及びはじめているのではないかしらと思えてなりません。
御歌集『信天翁』拝受しまして、一回目読んだ時に何とも不思議な“ホッ ! ”とした気持になりました。
「大きな力を信じ、ゆったりとした心持ちで生きよう」と仰有られたような心持になりました。
私この夏に喜寿になります。不真面目な「未来山脈」社の一員でした。
いまは封印していた演劇的行為・朗読(より演劇的に読み語る)に精進することをライフワークと捉えました。
「読み語り」の会中止、イベント中止etcがストレスになっていますがフェイスブックなどでの交信で随分緩和されています。
・・・・・明るいことが書ける日が早く来ることを祈ってペンを置きます。         須賀まさ子

   ■〈馬耳東風〉おそろしきかも十を聴き九を忘るる齢となりて
   ■「小生来年二月には九十歳となるので年賀欠礼」という
   ■M君よ それも分かるが年賀状は年に一度の「生存証明」なのだ
   ■若者よ、言葉にだまされてはいけない
   ■いつのまにか 、、死にたい気持にさせられたり
   ■物は嘘をつかない、物が語りかけるものは嘘をつかない
   ■言葉は究極の兵器。言葉は人を滅ぼす。言葉は要注意。
   ■街を一冊の本になぞらえる、と旅する人はみな読者だ
   ■歴史の古い町ほど、その本は分厚くなる
   ■草原から来た彼には木が邪魔だった
   ■一望さえぎるもののない草原に育った彼には木々の緑は目障りだった
   ■卒は終わる、終えるの意味から「卒業」の熟語がある
   ■虚弱児だったボク──九十歳まで生きるなんて思いもしなかった
   ■樹木は人間が人間として生き始める遥か十数億年も前から
   ■人間は生きるために樹木を必要とするが樹木は人間を必要としない
   ■樹が少なければ水を呼ばない。乾燥するのは樹が少ないからだ
   ■氷河時代の名残りがカールやモレーンと呼ばれる氷蝕地形だ
   ■その岩は黒部五郎岳カールの高山植物に囲まれている
   ■私たちは地球という巨大な岩石の上で暮らす
   ■誕生と死、形成と崩壊、夜と昼。時は螺旋状に過ぎてゆく
   ■二足歩行の姿勢は胸と腹という致命的な弱点を敵にさらす
   ■その不利を克服したのは「手」である。その手は強力な武器を使える
   ■「ここから先は観光の方はご遠慮ください」という立札で隔離される
   ■穏かで美しい分離は「壁」が人間にとって切実な意味だということ
   ■デカルトの研究者というだけで三木清は獄死した
   ■「自由」というだけで何でや? 今どきの若者よ、それが時代の狂気なのだ
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多くの歌を抽出して、的確に私の意図をあぶり出していただいた。
有難うございます。
FBの会員らしいので、私のサイトを見つけていただいて、そこでも交流いたしましょう。
私のFBのサイトは歌集の「略歴」のところに書いてあります。よろしく。


すみれ花むらさきの香に咲き出でて吾に親しき春を挿したり・・・木村草弥
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   すみれ花むらさきの香に咲き出でて
     吾に親しき春を挿したり・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。

「菫(すみれ)」というのは、古来、掲出した写真のものを言うのである。
葉が、この写真のように細長いのと、丸い葉のものとある。日本の野草らしく、小さく可憐な花である。

菫(すみれ)科。
学名 Viola mandshurica
Viola : スミレ属
mandshurica : 満州地方産の
Viola(ビオラ)は「紫色の」という意味。
私が子供の頃から親しんできたのは、この紫色の草だが、淡色や黄色などさまざまのものがあるようだ。
花の後には実が膨らみ、そこから出た種が雨に流されて、流れ着いたところで簡単に増える。
「すみれ」と名のつく草はいくつもあるが、植物学的には、掲出したものを指すと言われている。
日のあたる野や丘、畑に自生し、春に花茎を伸ばして濃い紫の花を一つ横向きに咲かせる。
茎がなく、葉は根元から出て柄を伸ばす。
「万葉集」巻8・春雑に詠われている歌

  春の野に菫採(つ)みにと来しわれそ野をなつかしみ一夜寝にける・・・・・・・・・・・・山部赤人

俳句でも

  山路来て何やらゆかしすみれ草・・・・・・・・松尾芭蕉

  骨拾ふ人にしたしき菫かな・・・・・・・・与謝蕪村

などに詠われるように春の代表的な題材の一つだった。
野の可憐な花で、目立たぬが、心に沁みてくる、なつかしい花である。

sumire7すみれ本命

以下、歳時記に載る「すみれ」の句を引いて終りたい。

 菫程小さき人に生れたし・・・・・・・・夏目漱石

 手にありし菫の花のいつか失し・・・・・・・・松本たかし

 黒土にまぎるるばかり菫濃し・・・・・・・・山口誓子

 菫濃く雑草園と人はいふ・・・・・・・・山口青邨

 すみれ踏みしなやかに行く牛の足・・・・・・・・秋元不死男

 高館の崖のもろさよ花菫・・・・・・・・沢木欣一

 みちびかれ水は菫の野へつづく・・・・・・・・桂信子

 すみれ野に罪あるごとく来て二人・・・・・・・・鈴木真砂女

 摘みくれし菫を旅の書にはさむ・・・・・・・・上村占魚

 すみれ咲く聴けわだつみの声の碑に・・・・・・・・森田峠

 菫咲く微光剥落磨崖仏・・・・・・・・倉橋羊村

 すみれの花咲く頃の叔母杖に凭(よ)る・・・・・・・・川崎展宏

 「大和」よりヨモツヒラサカスミレサク・・・・・・・・川崎展宏

 少年に菫の咲ける秘密の場所・・・・・・・・鷹羽狩行

 どちらからともなく言ひて初菫・・・・・・・・大石悦子

 老人に日暮が来たりすみれ草・・・・・・・・橋本栄治



残生はいかに過ぐらむ老いの目に苺は朱し一つ一つが・・・木村草弥
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   残生はいかに過ぐらむ老いの目に
    苺は朱し一つ一つが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
「残生は」と書いたが、この歌を発表したときから、もう三十年も経ってしまい、卒寿も過ぎた今となっては文字通り「残生」のさなかということである。

今ではハウス栽培によって年中イチゴは出回っているが、本来は今の時期のものである。
年中出回るのには、訳がある。洋菓子の苺ショートケーキなどは一年中切らすわけにはゆかないし、年末のクリスマスの時期はデコレーションケーキの書入れ時であり、ケーキ会社ではイチゴ栽培農家と契約して供給を受けている。
今の時期は完全な露地栽培ではなくハウス栽培ではあるが、露地に近い時期で、あちこちで「いちご狩」が行なわれている。
その場で取って口に入れるので、地面にはビニールシートを敷いてある。

ph_ichigo1いちご畑

写真②は、その様子である。
苺農家にとっては、市場に出荷してもシーズンには、思わしいような値がつかないので、手間はかかるが、いちご狩をして現金収入を得る方が採算がいいのである。
この頃では品種改良されて「大粒」のイチゴが好まれる傾向にある。
私の住む近くでは、奈良県産の「アスカルビー」とかがある。
大きさと甘さが勝負のポイントで、他に「とちおとめ」「あまおう」「さがほのか」「ベリープリンセス」「女峰」「アイベリー」などがある。
一時日の出の勢いだった「とよのか」なども今では影が薄い。
「イチゴ狩」でも小粒の品種は見向きもされないというから恐ろしい。

10いちご棚作り

この頃では写真③のように「棚」作りの栽培があるらしい。
これらは「いちご狩」専用の施設だが、この方がお客さんが、屈まなくてもよいので体が楽である他に、地面に接していないので「衛生的」な印象を与えることが出来る、という利点があるらしい。
世はまさに「お客様」本位の時代である。
この写真は愛知県渥美半島での一駒である。
いちご狩は結構値段の高いもので、値段だけで比べるなら、市販のものを買って腹いっぱい食べても、その方が安いらしいが、それはそれで自然の中で食べるというプラスアルファーが付加されているのである。

ところで、掲出の私の歌のことであるが、上句の「残生はいかに過ぐらむ」というフレーズと下句の「苺は朱し一つ一つが」というフレーズには、直接の関係はない。
俳句でいう「二物衝撃」のように、この両者の間に「老いの目に」というフレーズが接着剤の役目を果たして一首のうちに「融合」させているのである。
私自身では、結構、気に入っている歌である。「老いの目に」赤いイチゴという取り合わせも成功している、と自画自賛している。いかがだろうか。

なお参考までに申し上げると「苺」「苺摘み」というのは「夏」の季語であり、今のようにビニールハウスとかが無い自然栽培の下では、もっと暑くならないと実らなかったのであった。
だから「春」の季語としては「苺の花」を指すことになっているので念のため。

e88bbae381aee88ab111苺の花
「苺の花」の句としては

 満月のゆたかに近し花いちご・・・・・・・・・・飯田龍太

 花の芯すでに苺のかたちなす・・・・・・・・・・飴山実

 惜しみなく日のふりそそぎ花苺・・・・・・・・・・水原京子

 花苺気丈な母になれず居る・・・・・・・・・・近藤美智子

「苺」の句としては

 青春の過ぎにしこころ苺喰ふ・・・・・・・・・・水原秋桜子

 怠たりそ疲れそ苺なども食べ・・・・・・・・・・中村草田男

 音もなき苺をつぶす雷の下・・・・・・・・・・石田波郷

 苺紅しめとりて時過ぎいまも過ぐ・・・・・・・・・・森澄雄

 ねむる手に苺の匂ふ子供かな・・・・・・・・・・森賀まり

 胎の子の名前あれこれ苺食ぶ・・・・・・・・・・西宮舞

などである。佳い句として挙げるようなものは多くはない。



連翹のまぶしき春のうれひかな・・・久保田万太郎
aaoorengyo2連翹①

   連翹のまぶしき春のうれひかな・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

連翹はモクセイ科の落葉低木で中国原産。古くから日本に渡来(『古今集』成立の延喜時代)したが、当時は薬用であった。
庭園木としては江戸初期からで、叢生して高さ2メートル前後にも達する。
垂れた枝は地面についた節から発根する。早春、葉に先立って葉腋に黄色の四弁花を無数につける。
公園などならよいが、個人の庭には植えるものではない。

   連翹の猖獗ぶりや黄みどろに・・・・・・・・百合山羽公

という句にもある通り、はびこって、はびこって仕方がない木である。私の方では、一度植えたが、はびこりぶりに懲りて引っこ抜いた。
連翹は早春の花の時期だけの木で、一年の後の大半は枝を伸ばしては、地面に触れると、そこから根を下ろして、はびこるばかりである。
派手に咲きさかる花なので目につきやすく、古来、多くの俳句に詠まれて来た。
後でそれらの句を紹介するが、私の個人的な感情を言うようで申訳ないが、私は好きになれない花である。

鹿児島寿蔵の歌に

   はじめより咲きさかる日をおもはする連翹千の枝かぜになびけり

と詠まれるように、わっと咲きさかる木である。
連翹には支那レンギョウ、朝鮮レンギョウなどの種類があるらしいが、ちょっと見には我々素人には区別がつかない。
連翹は学名をForsythia suspensa というが、これは18世紀のイギリスの園芸家Forsyth氏に因むが、朝鮮レンギョウは末尾がkoreana となる。

以下、レンギョウを詠んだ句を引いて終りたい。

 連翹の一枝円を描きたり・・・・・・・・高浜虚子

 連翹や真間の里びと垣を結はず・・・・・・・・水原秋桜子

 連翹の垂れたるところ下萌ゆる・・・・・・・・山口青邨

 行き過ぎて尚連翹の花明り・・・・・・・・中村汀女

 連翹や歳月我にうつつなし・・・・・・・・角川源義

 連翹の鞭しなやかにわが夜明け・・・・・・・・成田千空

 連翹に月のほのめく籬(まがき)かな・・・・・・・・日野草城

 連翹の黄のはじきゐるもの見えず・・・・・・・・後藤夜半

 燦と日が連翹の黄はなんと派手・・・・・・・・池内友次郎

 連翹に頭痛のひと日ありにけり・・・・・・・・鈴木真砂女

 目に立ちて連翹ばかり遠敷(をにふ)郡・・・・・・・・森澄雄

 いかるがの暮色連翹のみ昏れず・・・・・・・・和田悟朗

 連翹の邪魔な一枝を括りたる・・・・・・・・北沢瑞史

 子を叱るこゑつつ抜けやいたちぐさ・・・・・・・・小山陽子

 連翹の黄に触れ胎の子が動く・・・・・・・・樟 豊



若き尼御厨子に春の灯をささぐ・・・水原秋桜子
E5AF82E58589E999A201寂光院

    若き尼御厨子に春の灯をささぐ・・・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

掲出の水原秋桜子の句は、ここ寂光院で詠まれたものである。
京の洛北の寂光院も由緒ある土地である。

寂光院
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寂光院(じゃっこういん)は、京都市左京区大原にある天台宗の寺院。山号を清香山と称する。寺号は玉泉寺。本尊は地蔵菩薩、開基(創立者)は聖徳太子と伝える。
平清盛の娘・建礼門院が、平家滅亡後隠棲した所であり、『平家物語』ゆかりの寺として知られる。

起源と歴史
寂光院の草創について、明確なことはわかっていない。
寺伝では推古天皇2年(594年)、聖徳太子が父用明天皇の菩提のため開創したとされ、太子の乳母玉照姫(恵善尼)が初代住職であるという。
しかし、江戸時代の地誌には空海開基説(『都名所図会』)、11世紀末に大原に隠棲し大原声明を完成させた融通念仏の祖良忍が開いたとの説(『京羽二重』)もある。
哲学者梅原猛は、大原が小野妹子の領地であったことなどから、聖徳太子開基もありうるとしている。
現在、寂光院はそうした草創伝説よりも、『平家物語』に登場する建礼門院隠棲のゆかりの地として知られている。

建礼門院徳子(1155-1213)は平清盛の娘、高倉天皇の中宮で、安徳天皇の生母である。
寿永4年(1185年)、壇ノ浦で平家一族が滅亡した後も生き残り、侍女の阿波内侍とともに尼となって寂光院で余生を送った。
寂光院や三千院のある大原の里は、念仏行者の修行の地であり、貴人の隠棲の地であった。
平家一門と高倉・安徳両帝の冥福をひたすら祈っていた建礼門院をたずねて後白河法皇が寂光院を訪れるのは文治2年(1186年)のことで、
この故事は『平家物語』の「大原御幸」の段において語られ、物語のテーマである「諸行無常」を象徴するエピソードとして人々に愛読された。

境内
本堂は淀殿の命で片桐且元が慶長年間(1596-1615)再興したものであったが、平成12年(2000年)5月9日の不審火で焼失した。
この際、本尊の地蔵菩薩立像(重文)も焼損し、堂内にあった建礼門院と阿波内侍の張り子像(建礼門院の手紙や写経を使用して作ったものという)も焼けてしまった。
現在の本堂は平成17年(2005年)6月再建された。同時に新しく作られた本尊や建礼門院と阿波内侍の像も安置されている。

宝物殿は「松智鳳殿」という名称で、平成18年(2006年)10月に開館した。
建礼門院の陵墓はもともと境内地にあったが、明治以降は宮内省(現・宮内庁)の管理下に移り、境内から切り離されている。

文化財
地蔵菩薩立像(重文)-当寺の旧本尊である。寛喜元年(1229年)の作で、像高256センチの大作である。
像内に3,000体以上の地蔵菩薩の小像ほか、多くの納入品を納めていた。
2000年に起きた本堂の火災の際、(2007年5月9日時効成立)本体は焼損したが、像内納入品は無事で、現在も「木造地蔵菩薩立像(焼損)」の名称で、像内納入品ともども重要文化財に継続して指定されている。
現在は本堂よりも高台にある収蔵庫に安置され、特定日のみ一般に公開される。
なお、新しい本尊像は財団法人美術院国宝修理所によって3年半をかけて制作され、2005年に完成した。
ヒノキ材の寄木造で、旧本尊の新造時の姿を忠実に模している。
建礼門院と阿波内侍の像は、もともと張り子像であったが、今回木造で作り直された。
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以下、大原、寂光院を詠んだ句を少し引く。

     春雨や寂光院の傘さして・・・・・・・・・野村泊月

     五月咲きあはれやあはき大原菊・・・・・・・・水原秋桜子

     旅ここに寂光院は春の寂・・・・・・・・・飯田蛇笏

     春雨の冷ゆれば椿咲きつれば・・・・・・・・長谷川かな女

     寂光院春ゆくままの松さくら・・・・・・・・・萩原麦草

     翆黛とひもすがらある桜狩・・・・・・・・後藤夜半

     寂光院にゆきてもみたく花疲・・・・・・・・星野立子

     鮠(はや)透くや齢ひそかなる尼の肌・・・・・・・・飯田龍太

     ひそひそと女人の哀史桃の雨・・・・・・・・・山室善弘

     巣燕や寂光院前階(はし)まろし・・・・・・・・藤村多加夫

     花散りてなほ訪ふ人や若楓・・・・・・・・・高浜虚子

     廊わたる尼袖あはせ若楓・・・・・・・・・飯田蛇笏
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t_sanzen_01三千院

写真②は「三千院」である。
この寺についても、先に記事を書いたことがある。
以下、ここを詠んだ句を引いて終わる。

     このわたり魚山といへり春炬燵・・・・・・・・川崎展宏

     春惜む三千院の茶店かな・・・・・・・・野村泊月

     落つばきしてゐる上を仰ぎけり・・・・・・・・星野立子

     万作と教へて呉れし花に似る・・・・・・・・杉本零

     春雨や踏んでもみたき苔だたみ・・・・・・・・千田万秋


蒲公英のほとりから沙無限かな・・・加藤楸邨
img927ff717zikezjニホンタンポポ

     蒲公英(たんぽぽ)のほとりから沙無限かな・・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

この句は中国の西域の砂漠で詠んだ句かと思われる。
タンポポは強い草で砂地にも見られる。そのタンポポが咲いている、すぐ脇から果てしない砂漠の沙(すな)が無限に始まる。
大きな景を孕んだ句である。

加藤楸邨については今さらながら語るのは気が引けるが、水原秋桜子の「馬酔木」から出発し結社誌「寒雷」に拠って名句と数々の賞を得た。
以下、彼の句を引くが、その中には人口に膾炙した名句もある。私の好きな俳人である。
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 棉の実を摘みゐてうたふこともなし

 麦を踏む子の悲しみを父は知らず

 蟇誰かものいへ声かぎり

 長き長き春暁の貨車なつかしき

 耕牛やどこかかならず日本海

 雉子の眸(め)のかうかうとして売られけり

 死ねば野分生きてゐしかば争へり

 冷し馬の目がほのぼのと人を見る

 鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる

 ゆく雁や焦土が負へる日本の名

 雪ふりふる最後の一片たりえんと

 原爆図中口あくわれも口あく寒

 馬が目をひらいてゐたり雪夜にて

 山椒魚詩に逃げられし顔でのぞく

 無数蟻ゆく一つぐらゐは遁走せよ

 蝶踏んで身の匂はずや不破の関

 花を拾へばはなびらとなり沙羅双樹

 玫瑰が沈む湖底へ青の層

 驢馬の耳ひたひた動く生きて灼けて

 蟻の顔に口ありて声充満す

 梨食ふと目鼻片づけこの乙女

 繭に似て妻にいま詩がくるところ

 くすぐつたいぞ円空仏に子猫の手

 糞ころがしに砂漠の太陽顔を持つ

 バビロンに生きて糞ころがしは押す

 糸遊(かげろふ)のひとりあそびぬ壺の口

 たつた一つの朝顔にメンデリズム存す

 猫が子を咥へてあるく豪雨かな

 天の川わたるお多福豆一列

 百代の過客しんがりに猫の子も
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ネット上から下記を転載しておく。

加藤楸邨
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

加藤楸邨(かとう しゅうそん、1905年(明治38年)5月26日 ~ 1993年(平成5年)7月3日)は日本の俳人、国文学者。本名は加藤健雄。妻は俳人の加藤知世子。

略歴
東京市北千束(現・東京都大田区北千束)に生まれる。父が鉄道官吏であり出生直後に転勤となったため出生届は山梨県大月市で出された。父の転勤に伴い少年時代は関東、東北、北陸を転居した。1921年(大正10年)父の定年退職に伴い、母の郷里である石川県金沢市に転居、石川県立金沢第一中学校(現・石川県立金沢泉丘高等学校)へ転校。1923年(大正12年)金沢一中を卒業する。この頃はアララギ派や石川啄木など和歌に興味を抱いていた。1925年(大正14年)父の病死を期に一家揃って上京。1926年(大正15年)東京高等師範学校(現・筑波大学)に併設の東京高師第一臨時教員養成所国語漢文科に入学。

1929年(昭和4年)養成所を卒業し、埼玉県立粕壁中学校(現・埼玉県立春日部高等学校)の教員となる。同年、矢野チヨセ(後の俳人・加藤知世子)と結婚。 1931年(昭和6年)粕壁中学の同僚の勧めで俳句を始める。水原秋桜子の主宰する『馬酔木』に投句、秋桜子に師事する。1935年(昭和10年)馬酔木の同人となる。

1937年(昭和12年)中学を辞め家族を連れ東京に移住。秋桜子の勧めで『馬酔木』発行所に勤務しながら、東京文理科大学(現・筑波大学)国文科に進学。1940年(昭和15年)大学を卒業し、東京府立第八中学校(現・東京都立小山台高等学校)の教諭となる。俳誌『寒雷』を創刊し主宰となる。1942年(昭和17年)馬酔木を離脱。1944年(昭和19年)歌人の土屋文明らと中国に渡り戦地俳句を詠む。1946年(昭和21年)8月、休刊していた『寒雷』を1年8ヶ月ぶりに復刊。戦地俳句を詠んだことで大本営への協力を疑われ批判された。 1954年(昭和29年)青山学院女子短期大学の教授となり、1974年(昭和49年)まで務める。

1968年(昭和43年)句集『まぼろしの鹿』で第二回蛇笏賞を受賞。1986年(昭和61年)には妻のチヨセが死去。太平洋戦争中より始めた松尾芭蕉の研究などの功績により紫綬褒章、勲三等瑞宝章を叙勲した。1993年(平成5年)初頭に病を得て入院。7月3日永眠、享年88。死後の8月2日、従四位を追贈される。

楸邨は「真実感合」を唱え、人の内面心理を詠むことを追求し、中村草田男、石田波郷らと共に人間探求派と呼ばれた。

楸邨山脈
『寒雷』からは金子兜太、森澄雄、藤村多加夫、平井照敏、古沢太穂など多様な俳人が育った。
その多さと多様さとから、これを「楸邨山脈」という。
「寒雷」の後継者は、次男の嫁の加藤瑠璃子であるが、運営主体は同人の組織の暖響会であり、加藤瑠璃子は主宰でなく「選者」となっている。

作品

句集
寒雷(1940年)
穂高(1940年)
雪後の天(1943年)
火の記憶(1948年)
野哭(1948年)
起伏(1949年)
山脈(1950年)
まぼろしの鹿(1967年)
怒濤(1986年)

著書・作品集
芭蕉講座(1951年)
一茶秀句(1964年)
芭蕉全句(1969年)
奥の細道吟行(1974年)
芭蕉の山河(1980年)
加藤楸邨全集(1982年)
加藤楸邨初期評論集成(1992年)
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ネット上の「埼玉の文学─現代篇─」を引用する。

古利根川に培った俳句精神

加藤楸邨(かとうしゅうそん)は昭和初期から平成5年6月88歳で亡くなるまで、60年あまりにわたって活躍した現代俳句界の巨匠である。水原秋櫻子の「馬酔木」から出発したが、第1句集 『寒雷』を刊行した翌年の昭和15年に、みずからも俳誌「寒雷」を創刊主宰し、平成5年7月号で通巻600号を数えた。中村草田男、そして同じ秋櫻子門の石田波郷らとともに 「人間探求(究)派」と称され、新しい現代俳句の潮流を形成した。この楸邨門からは、現俳壇で活躍している田川飛旅子、森澄雄、金子兜太、安藤次男、沢木欣一、原子公平、平井照敏、川崎展宏氏ら、枚挙に暇がないほどの作家を輩出している。楸邨亡きあと、「寒雷」は主宰をおかない形態で現在も発行されている。
加藤楸邨が生前に出した句集は12冊。敗戦までに4冊を出し、戦後は『火の記憶』、『野哭』、『まぼろしの鹿』(昭和42、第2回飯田蛇笏賞)、『怒濤』(昭和61・第12句集・第2回詩歌文学館賞)など8句集を出した。没後、最晩年の作品は遺句集『望岳』(角川書店)として平成8年にまとめられた。昭和49年まで青山女子短大の教授をつとめる。

 鰯雲人に告ぐべきことならず
 隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな
 火の奥に牡丹崩るるさまを見つ
 雉子の眸のかうかうとして売られけり
 鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる
 死ねば野分生きてゐしかば争へり
 落葉松はいつめざめても雪降りをり
 おぼろ夜のかたまりとしてものおもふ
 百代の過客しんがりに猫の子も
 ふくろふに真紅の手毬つかれをり
 
これらは、楸邨の代表作としてよく引かれる句である。いずれも作られた時代を背景において考えると、よく伝わってくるように思われる。1句目は戦争の足音が次第に高くなってきた頃の作である。2句目は後鳥羽院をモチーフに詠んだ200句近い連作「隠岐紀行」の1句。この連作は楸邨の句の世界を画した。3句目は20年の空襲の実景を詠んだもの。4、5句には敗戦直後の闇市の雰囲気が漂っている。6句目は大本営報道部嘱託として土屋文明らとともに大陸に渡り、多くの句( 『沙漠の鶴』)を詠んで、戦争責任を草田男や俳壇内外から問われた頃の作。7句目は病後の旅の作。こうしてみていくと、楸邨は社会的な存在としての自己をつよく認識して、真に表現せねばならない事を詠んできた作家と言える。楸邨は自身のこうした作句の態度を「真実感合」と称した。
句作のほか、戦中から始まった楸邨の芭蕉への傾倒は、『芭蕉講座』『芭蕉全句』『芭蕉の山河』などに結実し、芭蕉句の解釈に新機軸を打ち出した。その仕事は『加藤楸邨全集』(講談社・全14巻、昭和57年完結)、『加藤楸邨初期評論集成』(邑書林、全5巻、平成4年完結)などにまとめられている。また、その業績に対して紫綬褒章、勲三等瑞宝章、第1回現代俳句大賞、朝日賞などが与えられている。没後従四位に叙せられた。
加藤楸邨と埼玉との関わりは、その初期にさかのぼる。昭和4年から12年までの8年間、年齢では24歳から32歳頃に相当するが、楸邨は粕壁中学校(現県立春日部高校)で国語、漢文の教鞭をとっていたのである。そして、その俳句の原点もこの春日部時代にある。
楸邨は明治38年に東京で生まれた。父が国鉄に勤務していた関係で各地を転々とした。関東大震災の年に金沢一中を卒業したが、父病臥のため進学を断念し、石川県の松任小学校の代用教員の職に就く。父の没後生活は困窮したが、読書に没頭し東西の書物にふれる。あわせて歌作に励むようになり、アララギ派や石川啄木、万葉集の歌に親しんだ。その後、昭和4年3月に東京高等師範学校併設の第一臨時教員養成所の国語漢文科を卒業、4月に粕壁中学に赴任した。この年チヨセ(後の知世子、『寒雷』同人)と結婚した。この春日部時代について、楸邨は句集『寒雷』後記やエッセイ「新興俳句の出発」、「俳句との出合い」などで書いている。また水原秋櫻子が『寒雷』に寄せた序文も、この時期の楸邨と両者の出会いを知る上で貴重な資料である。

 私が俳句を始めたのは昭和6年で(『初期評論集成』の新年譜によると、5年の「馬酔
 木」にすでに楸邨の投句が確認できるとある。… …筆者注)、丁度水原先生が ホトト 
 ギスを離れ、新風を樹立しようとせられた時代である。私は学校を終へたばかりで、粕 
 壁中学校に職を奉じてゐた。中学の先生には小島十牛・飯塚両村先生、菊地 烏江・
 石井白村両君等がゐて、皆私より前から俳句を作つてゐた。菊地烏江の「俳句をやら
 ないとつきあはんぞ」といつたなつかしい言葉は今も耳にある。 (『寒雷』後記)

こうして楸邨は俳句の道へ入ったが、当初は短歌への未練がつよく身が入らなかった。しかし、職場の句会の作品を村上鬼城に送って選をしてもらっていた関係で鬼城の句集を読み、楸邨は俳句表現につよく惹かれるようになる。現在の春日部高校の記念館には、楸邨ゆかりの品を展示した一室がある。鬼城の句のほか、春日部での秋櫻子との出会いは、楸邨俳句にとって決定的なものとなった。

 その中に春日部の安孫子病院に、水原秋櫻子先生が医術の方の応援に来ているらし
 いという噂を聞いた。そこで私を俳句に引きこんだ菊地烏江や後に万葉集の英訳をやっ
 た石井白村等と医院の前で先生の見えられるのを待ち受けたのであった。
(「俳句との出合い」)

これが楸邨と秋櫻子との出会いである。文中の安孫子医院は、現在も春日部駅東口の同じ場所で開業している。以後、句会を持ったり、古利根川、元荒川、関宿、宝珠花、船戸の運河などを共に歩いたりして、秋櫻子を囲む場が春日部に形成されていく。この頃のことを秋櫻子も『寒雷』の序文で「……それからといふものは、私の粕壁行は医用のためか俳句用のためかわからなくなつてしまつた」と述べている。折しも、昭和6年は秋櫻子が「『自然の真』と『文芸上の真』」を書いて、虚子の「ホトトギス」から離脱するという、いわば近代俳句史上の事件の年であった。楸邨は、その時の俳句革新に賭ける秋櫻子の意気込みや苦悩を春日部の地で共有したのである。句集『寒雷』は「古利根抄」「愛林抄」「都塵抄」の3章で構成されているが、「古利根抄」の作について楸邨は「……新しく動かうとしてゐた動向に接した私の心が、その美しき世界に、ひたすら歩み入らうとした頃のものである」と言い、「私はどうかすると、先生の目を通して物を見てゐたのではないかとさへ思ふ」(『寒雷』後記)と語っている。
楸邨と秋櫻子が幾度も並んで眺めたであろう古利根川は、梅雨晴れの空の下に変わることなく豊かに流れていた。川のほとりを歩きながら、楸邨の句碑の一つもないのが惜しまれた。

「古利根抄」の作品から任意に引いてみる。括弧内には詠んだ地を示した。

 棉の実を摘みゐてうたふこともなし
 渡舟守いとまのあれや麦ふみに
 下ろす音ひそかなり霧の夜は
 山茶花のこぼれつぐなり夜も見ゆ (以上、古利根)
 隅田川あかるき落穂沈めけり (古隅田川)
 降る雪にさめて羽ばたく鴨のあり 
 畦凍てて洲にかへるなり小田の鴨 (元荒川)
 行きゆきて深雪の利根の船に逢ふ
 暗き帆の垂れて雪つむみなとかな (船戸)
 関の址いまは蓮の枯るるのみ
 径のべに螢こぼれぬ早稲の風 (関宿)

 のちの生活や内面を詠んだ句風と違い、「古利根抄」は自然観照に徹した詠みぶりが歴然としている。短歌的詠法と秋櫻子の抒情への傾倒が色濃い作品群である。
このほか 『寒雷』には、岩槻城址、武蔵嵐山、埼玉沼、川越の喜多院での作もみられる。また、第3句集『穂高』にも、「古利根河畔吟」と題した同時期の作が多数収められている。
楸邨は昭和12年に上京することになるが、こよなく愛した春日部の自然を背景として、その初期の世界がきずかれた。



春から初夏の蝶たち・・・木村草弥
110406kityou065吸水するキタキチョウ
 ↑ 吸水するキタキチョウ
kityou4黄蝶
 ↑ 羽を広げた黄蝶
2017_5_30kityouuootyouキチョウ幼虫
↑ キチョウ幼虫

──エッセイ──

      春から初夏の蝶たち・・・・・・・・・・・・木村草弥

田舎暮しの私の身近には、さまざまな「虫」たちが見られる。
冬を越えて春になると可憐な蝶たちが見られる季節になる。
先ず「黄蝶キチョウ」を挙げておこう。
林縁や草原で普通に見られる黄色いチョウ。翅の表面の縁には黒色帯がある。
モンシロチョウやモンキチョウよりはひとまわり小さい。
いつもせわしなく飛び、いろいろな花で吸蜜したり、地面で吸水する。
成虫のまま越冬し、早春から飛びはじめるので、3月頃に見かける黄色いチョウはこの種類であることが多い。
幼虫の食草は、ネムノキ、ハギ類など。
今までは大雑把にキチョウと呼ばれてきたが、最近では本州に居るものは「キタキチョウ」と呼ばれるようになった。
この蝶については

     春潮のあらぶるきけば丘こゆる蝶のつばさもまだつよからず ・・・・・・・・・・坪野哲久

の歌を挙げて記事を載せたことがある。

monsirotyo0805284133モンシロチョウ
↑ モンシロチョウ
11cccb9e9e4f0017607da3a011265778モンシロチョウ展翅
↑ モンシロチョウ展翅

モンシロチョウの前翅の長さは3cmほど。翅は白いが、前翅と後翅の前縁が灰黒色で、さらに前翅の中央には灰黒色の斑点が2つある。
和名はこの斑点を紋に見立てたもの。また、春に発生する成虫は夏に発生する成虫よりも白っぽい。
オスとメスを比較すると、オスは前翅の黒い部分が小さく、全体的に黄色っぽい。メスは前翅の黒い部分が多く、前翅のつけ根が灰色をしている。
なお、翅に紫外線を当てるとメスの翅が白く、オスの翅が黒く見えるため、オスメスの区別がよりはっきりする。
紫外線は人間には見えないが、モンシロチョウには見えると考えられていて、モンシロチョウはこの色の違いでオスメスの判別をしているとみられる。
全世界の温帯、亜寒帯に広く分布する。
広い分布域の中でいくつかの亜種に分かれており、そのうち日本に分布するのは亜種 P. r. crucivora とされている。
幼虫の食草はキャベツ、アブラナ、ブロッコリーなどのアブラナ科植物なので、害虫であるともされ、モンシロチョウはそれらの農作物の栽培に伴って分布を広げてきた。
日本のモンシロチョウは奈良時代に大根の栽培と共に移入されたと考えられている。
成虫は3月頃から10月頃まで長い期間にわたって見られ、年に4-5回ほど発生するが、発生する時期や回数は地域によって異なる。
北海道の一部のように寒冷な地域では年に2回ほどしか発生しないが、温暖な地域では年に7回発生することもある。蛹で越冬する。
ふ化した時は自分の卵の殻を、脱皮した時はその皮を食べる。

このように春早くに見られる蝶はキチョウとかモンシロチョウであるが、キチョウは成虫で越冬するのに対して、モンシロチョウは蛹で越冬して脱皮して蝶になるところが違う。

モンシロチョウは小さくて可愛いが、キャベツなどの野菜を食べる害虫として農民には嫌われているのである。

他にアゲハチョウ類の蝶が居るが、それらについては夏の頃に載せてみよう。





池水に影さへ見えて咲きにほふ馬酔木の花を袖に扱入れな・・・大伴家持
asebi3あせび

   池水に影さへ見えて咲きにほふ
    馬酔木の花を袖に扱(こき)入れな・・・・・・・・・・・・大伴家持


馬酔木の花は4月から5月にかけて咲きはじめる。山地に自生するツツジ科の常緑低木で、日本原産の木。
学名をPieris japonica という。私の推測だが、シーボルトが標本を持ち帰り命名したのではないか。
馬酔木は古典植物で、「万葉集」には10首見える。
掲出したのは、そのうちの一つで巻20の歌番号4512に見える大伴家持の歌。
もともと「巻20」は万葉集の一番終りで、大伴家持の歌が多い。
そこから万葉集は家持の編集になるのではないか、という説があるのである。

馬酔木(あしび)の木は有毒のもので、枝葉にアセボトキシンという有毒成分があるのである。
野生の鹿などは、よく知っているので食べないという。花は香りが強い。

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色は白が普通だが、写真②のようなピンクのものがある。木の姿もよく、昔から好んで「庭木」として植えられたので、栽培による改良種だと言われる。
先に馬酔木は古典植物だと書いたが、歌に「馬酔木なす栄えし君」と詠まれるように、古代には「賀」の植物であり、栄えの枕詞であった。

俳句にも古来たくさん詠まれてきた。それを引いて終りたい。

 花馬酔木春日の巫女の袖ふれぬ・・・・・・・・高浜虚子

 春日野や夕づけるみな花馬酔木・・・・・・・・日野草城

 馬酔木より低き門なり浄瑠璃寺・・・・・・・・水原秋桜子

 月よりもくらきともしび花馬酔木・・・・・・・・山口青邨

 染めあげて紺うつくしや夕馬酔木・・・・・・・・原コウ子

 花あしび朝の薬に命継ぐ・・・・・・・・角川源義

 花あしびかづきて鹿の子くぐり出づ・・・・・・・・阿波野青畝

 指さぐる馬酔木の花の鈴の音・・・・・・・・沢木欣一

 馬酔木咲き金魚売り発つ風の村・・・・・・・・金子兜太

 こころみに足袋ぬぎし日や花あしび・・・・・・・・林翔

 宵長き馬酔木の花の月を得し・・・・・・・・野沢節子

 邪馬台の春とととのへり花あしび・・・・・・・・小原青々子

 囀に馬酔木は鈴をふりにけり・・・・・・・・下村梅子

 父母に便り怠り馬酔木咲く・・・・・・・・加倉井秋を

 時流れ風流れをり花馬酔木・・・・・・・・村沢夏風



春がすみいよよ濃くなる春昼間のなにも見えねば大和と思へ・・・前川佐美雄
20120223-150655前川佐美雄

     春がすみいよよ濃くなる春昼間の
        なにも見えねば大和と思へ・・・・・・・・・・・・・・・・・前川佐美雄


前川佐美雄は明治36年奈良県北葛城郡の裕福な地主の家に生れる。
昭和5年第一歌集『植物祭』でモダニズム短歌の旗手として華々しく登場する。
昭和9年「日本歌人」を創刊、日本浪漫派の人々と親交を結ぶ。
敗戦により農地解放で小作地をみな失う。これらの経験が彼独特のコンプレックスとして歌の上にも影響する。
塚本邦雄、前登志夫、山中智恵子など多くの異色の歌人を育てた。晩年は鎌倉に居住。
平成2年没。

掲出の歌は歌集『大和』に載るもので、彼の代表作として有名。
彼の歌は、すっと読み下せる発想になっていないので、「ねじれ」があったり、「韜晦」があったりして難解とされるが、特徴を知って臨めば理解できよう。
以下、歌を引いてみる。
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春の夜のしづかに更けてわれのゆく道濡れてあれば虔みぞする

床の間に祭られてあるわが首をうつつならねば泣いて見てゐし

なにゆゑに室(へや)は四角でならぬかときちがひのやうに室を見まはす

春になり魚がいよいよなまぐさくなるをおもへば生きかねにけり

ぞろぞろと鳥けだものをひきつれて秋晴の街にあそび行きたし

遠い空が何んといふ白い午後なればヒヤシンスの鉢を窓に持ち出す

あたたかい日ざしを浴びて見てをれば何んといふ重い春の植物

ひじやうなる白痴の僕は自転車屋にかうもり傘を修繕にやる

園丁が噴水のねぢをまはすとき朝はしづかな公園となる

ひんがしに満月朱きころなれば爬虫類も野に腹かへしゐむ

悪事さへ身に染みつかぬ悲しさを曼珠沙華咲きて雨に打たるる

春の夜にわが思ふなり若き日のからくれなゐや悲しかりける

無為にして今日をあはれと思へども麦稈(むぎわら)焚けば音立ちにける

がらくたを寄せあつめてはなにくれと妻いとなめり春のをはりを

草花と子は漢字もて書きをれり草がんむりの文字ふたつよき

ま向ひの屋根ゆく猫が見下してまだ寝をるかといふ顔したり

われ死なばかくの如くにはづしおく眼鏡一つ棚に光りをるべし

走り出ていくたびも五体投地すも己(し)が煩悩を救はむがため
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【前川佐美雄略歴】
1903年2月5日、奈良県忍海村(現葛城市)に生まれる。
前川家は、代々林業を営む地主であった。佐美雄は父佐兵衛と母久菊の長男として生まれ、幼い頃から絵画や短歌に親しんでいた。
1922年に東洋大学東洋文学科に入学、在学中に佐々木信綱に師事し、「心の花」に入会する。その後、新井洸、木下利玄らの「曙会」にも参加する。
昭和に入って(1925年)新興短歌運動がおこると、その先頭に立ち、1930年、第一歌集『植物祭』を刊行、現代的で斬新なものを主張するモダニズムの代表的歌人として、歌壇に登場する。
しかし、1933年、父の急逝により奈良に帰郷する。
その翌年の1934年に『日本歌人』を創刊する。以後、『大和』『天平雲』『白鳳』『積日』『大和六百歌』などを刊行する。
戦前、戦中、戦後を通して歌壇の旗手として活躍し、新芸術派運動の積極的な推進者として、歌壇に浪漫主義に基づく新風を送り、優美で詩的直感の鋭い、独自の歌風を樹立した。
また、長年にわたり後進の指導育成にも尽力し、塚本邦雄、前登志夫、山中智恵子等の幾多の歌人を世におくった。
1954~88年まで、朝日歌壇の選者、1972年には『白木黒木』で第六回釈迢空賞を受賞、1986年に(旧)新庄町名誉町民、1989年には日本芸術院会員となった。
1990年に永眠。
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前川佐美雄歌集

■佐美雄の残した歌集を、制作年順に紹介。

歌集出版年 佐美雄の年齢 歌集名
昭和 5年(1930年) 27歳 処女歌集『植物祭』素人社
昭和15年(1940年) 37歳 第二歌集『大和』甲鳥書林
昭和16年(1941年) 38歳 第三歌集『白鳳』ぐろりあ・そさえて
昭和17年(1942年) 39歳 第四歌集『天平雲』天理時報社
昭和18年(1943年) 40歳 第五歌集『春の日』臼井書房
第六歌集『日本し美し』青木書店
昭和20年(1945年) 42歳 第七歌集『金剛』人文書院
昭和21年(1946年) 43歳 第八歌集『紅梅』臼井書房
昭和22年(1947年) 44歳 第九歌集『寒夢抄』京都印書館
第十『積日』札幌青磁社
昭和25年(1950年) 47歳 第十一歌集『鳥取抄』山陰観光旅行普及会
昭和39年(1964年) 61歳 第十二歌集『捜神』昭森社
昭和46年(1971年) 68歳 第十三歌集『白木黒木』角川書店
平成 2年(1990年) 87歳没
平成 4年(1992年) 第十四歌集『松杉』短歌新聞社
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■処女歌集『植物祭(しょくぶつさい)』 四季出版 昭和5年7月刊行

収録期間:大正15年9月~昭和3年10月(575首)
大胆かつ鮮烈な歌い方と、ダダイズム・シュールレアリスム運動の影響を大きく受けているのが特徴。新たな昭和の時代の始まりを告げる、画期的な歌集。
後記より・・・・「短歌をやつて革新を思はぬ程ならばよした方がいいと思ふのだ。」
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■第二歌集『大和』 甲鳥書林 昭和15年8月刊行

収録期間:昭和11年~昭和14年夏(550首)
後記より・・・・「正直言つて僕はこの歌集を編集しながらどうにもをさまりのつかない気持ちを味はつた。色々考へてゐると何とも言ひようのない憂鬱さに襲われる、結局は自分の作品に対する不満以外の何物でもないが・・・この歌集はさうした破れかぶれの気持ちのうちに編集を終へた。」
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■第三歌集『白鳳(はくほう)』 ぐろりあ・そさえて 昭和16年7月刊行

収録期間:昭和5年春~昭和10年(410首)
前半は東京時代の歌。後半は奈良に帰住してからのもの。
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■第四歌集『天平雲(てんぴょううん)』 天理時報社 昭和17年3月刊行

収録期間:昭和14年8月~16年7月(710首)
後記より・・・・「この歌集の『天平雲』といふのは、絵画の方でしばしば用ひられる言葉で火雲の謂である。天平の絵画や彫刻に盛んにあらはれるものだが、私はこの雲を愛すると同時に天平の文化をこよなく愛してゐる。」
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■第五歌集『春の日』 臼井書房 昭和18年1月刊行

収録期間:大正10年~昭和2年3月(755首)
「春の日以前」の章(57首含)。大正10年18歳で「心の花」に入会し、本格的に作歌活動を始めた佐美雄の初期の作品。写実的作風。
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■第六歌集『日本し美し』 青木書店 昭和18年刊行

収録期間:昭和16年秋~約8ヶ月間
戦争歌集(戦争賛歌)。象徴技法の歌。
歌集構成の特色は、制作年代順で戦況の進行にしたがって作品が並べられている。
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■第七歌集『金剛』 人文書院 昭和20年1月刊行

収録期間:昭和17年夏~昭和18年秋(650首)
戦時歌集。歌集全体を「公」・「私」で区別。
前半は「公」、後半は「私」が中心となっている。
後記より・・・・「それが如何なる効果をもたらすかは分からないが、この方が私には快適な気がする。」
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■第八歌集『紅梅』 臼井書房 昭和21年7月刊行

収録期間:昭和21年2・3月(245首)
「甘藷の歌」は、昭和20年秋の作にもかかわらず『紅梅』に収録されている。
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■第九歌集『寒夢抄』 京都印書館 昭和22年10月刊行

『日本し美し』や『金剛』の作品を自選または改作して、戦後に改めて出版したものである。戦争協力歌とみなされそうなものは、ことごとく削除している。
後記より・・・・「この歌集は、戦時中に出した『日本し美し』『金剛』のなかに入れないで、やむなく割愛した歌の中から五首十首と取り併せ一冊にした歌集であって、『天平雲』に続く自分の歌の本筋は、やや不明瞭としてもここにある。」
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■第十歌集『積日』 札幌青磁社 昭和22年11月刊行

収録期間:昭和20年4月~昭和21年1月(500首)
『積日』は、「朝木集」と「残滴集」に分かれている。
「朝木集」・・・家族の鳥取疎開時代の歌(昭和20年4月~昭和21年1月)
「残滴集」・・・奈良に帰郷後の歌(昭和21年4月~11月)
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■第十一歌集『鳥取抄』 山陰観光旅行普及会 昭和25年1月刊行

『鳥取抄』は『積日』に収容したものをも含めて鳥取疎開中の作品(上巻)と、この歌集のため昭和22年大山に登った大山行一連の作品(下巻)併せて630首からなる。(上巻)は、疎開中と敗戦直後の作品であるだけに限りない哀愁が巻全体から漂っている。(下巻)は、大山紀行を中心とする旅行詠である。
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■第十二歌集『捜神』 昭森社 昭和39年8月刊行

収録期間:昭和22年暮れ~昭和30年(1074首)
「飛簷」は、昭和28年以降の作、「野極」は、昭和27年以前の作。二部構成で配列が逆となっている。
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■第十四歌集『白木黒木』 角川書店 昭和46年2月刊行

収録期間:昭和41年~昭和45年(648首)
後記より・・・・「私は奈良から茅ヶ崎に移り住んだ。奈良とちがつてここには亡霊や怨霊がゐない。私は憑かれない。これを機会だと思つた。奈良を去るまでの最近数年間の作だけでも先にまとめようと思つた。」
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■第十三歌集『松杉』 短歌新聞社 平成4年7月刊行

収録期間:昭和31年~昭和40年(558首)と昭和20年代の補遺作品43首を収める。
『白木黒木』の後記より・・・・「三十一年から四十年まで、まる十年間の作は残つてゐる。出版の順は逆になつたが、これらのものもおひおひと集にまとめたいと思つてゐる。さうでないとやはり具合悪いのである。」

その他の作品集

『カメレオン』同人39名を率いて『日本歌人』創刊

保田與重郎企画の浪曼叢書の第一冊として選集『くれなゐ』を出版
合同歌集『新風十人』に作品35首収録

肉筆歌集『奈良早春』を大八洲出版より出版
評論集『短歌随感』を臼井書房より出版
歌集『植物祭』の増補改訂版を靖文社より出版
選集『一茎一花』を目黒書店より出版
自選『一千歌集』を養徳社より出版
歌集『饗宴』を三興出版より出版

角川文庫『前川佐美雄歌集』を出版

『秀歌十二月』を筑摩書房より出版
『日本の名歌 古典の四季』を社会思想社より出版
『大和六百歌』を短歌新聞社より出版

『前川佐美雄歌集』を五月書房より出版
『大和まほろばの記』を角川書店より出版
永眠
『前川佐美雄全集第一巻』小沢書房より出版
『前川佐美雄全集第一巻短歌Ⅰ』砂子書房より出版

《参考文献》『短歌現代』1990年5月号(短歌新聞社)・『日本歌人』1991年7月号(日本歌人発行所)・『鑑賞現代短歌-前川佐美雄』伊藤一彦(本阿弥書店)
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ネット上に載る別の記事を下記に転載しておく。上の新庄図書館が公のものであるので、表現を抑制しているのに対して、この記事は赤裸々に書いてあるからである。
佐美雄を語るときに「没落地主」という、彼のコンプレックスを抜きにしては語れないと思うからである。

新庄町で生まれた歌人 前川佐美雄

前川佐美雄は明治36年、現在の忍海(おしみ)小学校の辺りの代々続いている大地主である家の長男として生まれました。
現在でも佐美雄のことを記念して忍海(おしみ)小学校では、佐美雄作の校歌を歌っています。

大正7年、15歳で下淵(しもふち)農林学校(現在の吉野高等学校)に入学した佐美雄は、油絵を描いたり、文学史を読んだりして、この間に芸術的な才能や視野などを大いに養ったようです。
在学中の大正9年12月、朝日新聞大和版の大和歌壇で

「秋更けぬ 竹林院のさ庭べに つめたくさける白菊の花」の処女作を発表

大正10年下淵(しもふち)農林学校を卒業、歌人 佐々木信綱の主催する「ちくはくかい」に入会し、薬師寺で一ヶ月間の合宿を行(おこな)っています。
また、この年の12月、隣家の出火の延焼で、家屋を半焼する不幸に見舞われました。

大正11年、東洋大学に入学し、歌人仲間と親交を深めながら、大正14年卒業後、自分の生き方に疑問を持ちながら小学校の代用教員として勤務していました。
大正15年、親族4家が相次いで没落し、その借財の連帯保証人に佐美雄の父がなっていたことで家運が傾き、母の実家に移り住むこととなりました。
この頃、歌壇の風潮に疑念を抱いていた佐美雄は、古賀春江に注目しはじめていました。

昭和5年7月、前衛的作風の洋画家 古賀春江の装丁(そうてい) 佐々木信綱の序で、処女歌集、植物祭を発行、昭和9年6月カメレオンの同人39名を率いて日本歌人を創刊しました。
昭和45年12月神奈川県 茅ヶ崎市に移り住み、翌46年に新庄町の前川家の菩提寺である極楽寺に歌碑を建立しました。
その同じ年に、歌集「しろきくろき」を発行。

その後記に「私は奈良から茅ヶ崎に移り住んだ。ここには亡霊や怨霊がいない。私はつかれない、これを奇怪だと思った。」
と語っています。

学生時代に芽生えた歌人としての生命。その革新的精神とともにシュールレアリズムに深く傾倒し、奈良から離れた茅ヶ崎の地でやまと歌人として、逃れられない自分の運命に改めて気づいたのではないでしょうか・・。


京都新聞「京都文芸」欄「詩歌の本棚・新刊歌集」真中朋久執筆『信天翁』評
真中_NEW

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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       京都新聞「京都文芸」欄「詩歌の本棚・新刊歌集」真中朋久執筆『信天翁』評
                  ・・・・・・・「京都新聞」2020/04/20朝刊掲載・・・・・・・・・

木村草弥『信天翁』 (澪標) は、卒寿を迎えるという作者の第七歌集。
・一病を持ちては永きたそがれか野の豌豆の花の白さや
・〈信天翁〉描ける青きコースターまなかひに白き砂浜ありぬ
・わたくしのいつもながらの朝の儀式これから始まる春夏秋冬
・「自由」というだけで何でや ? 今どきの若者よ、それが時代の狂気なのだ
表題作は亡き人ゆかりの品を題材とした挽歌だが、歌集全体にのびのびと、自由に詠う。
近年は口語自由律の立場のようだが、多行詩のような連作では、一首としての訴求力がいくらか弱いようにも思う。
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畏敬する真中朋久氏 (「塔」選者) から、私の意図を的確に突いた批評をいただき心から感謝申し上げる。
本の「あとがき」に書いたように、この本の欠陥のところも、ご指摘の通りであり、完全に受容する。
有難うございました。
この新聞の当該記事は左右に長いので私のキャノンのスキャナはA4まで゜しか取れないので、真ん中を「端折った」のでお許しを。




ほろほろと桜ちれども玉葱はむつつりとしてもの言はずけり・・・岡本かの子
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      ほろほろと桜ちれども玉葱は
         むつつりとしてもの言はずけり・・・・・・・・・・・・・・・・・岡本かの子


岡本かの子は画家・岡本一平の妻。岡本太郎は長男である。跡見女学校在学中に与謝野鉄幹、晶子と知り合い、「明星」「スバル」などに投稿。
一平、太郎と共にヨーロッパへ渡り、以後、小説家として活躍する。
昭和14年没。

掲出の歌は、玉葱を擬人化して「むっつりとして物言わず」という表現が面白い。
歌集としては『かろきねたみ』『浴身』など。
以下、少し歌を引いてみる。
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ともすればかろきねたみのきざし来る日かなかなしくものなど縫はむ

あきらめて蚕を飼ふほどの優しさを誰が恋故に覚えたまへる

春の風やや気色ばみ出でて行く人の後姿(うしろで)ゆるやかに吹く

桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命(いのち)をかけてわが眺めたり

林檎むく幅広ないふまさやけく咲き満てる桜花(はな)の影うつしたり

おのづからなる生命のいろに花さけりわが咲く色をわれは知らぬに

金の蜂ひとつとまりて紅のかんなの色はいやふかきかも

鶏頭はあまりに赤しよわが狂ふきざしにもあるかあまりに赤しよ

はてしなきおもひよりほつと起きあがり栗まんじゆうをひとつ喰(たう)べぬ

美しき亡命客のさみえるに薄茶たてつつ外は春の雨

春雪は降りかかる直ち汽鑵車の黒赫の鉄に溶けてしたたる

かなしみをふかく保ちてよく笑ふをんなとわれはなりにけるかも

梅はまだはつはつなれや丹頂の鶴の素立ちの足さむげなり

こうこうと鶴の啼くこそかなしけれいづべの空や恋ひ渡るらん

春はやく生れし虫のをさなきを籠(こ)にいたはりて死なしめにけり

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ネット上に載る記事を転載しておく。

岡本かの子 【おかもと・かのこ】
小説家、歌人、仏教研究家。本名、岡本(旧姓、大貫)カノ。明治22年3月1日~昭和14年2月18日。
東京赤坂青山南町の大貫家の別荘に生まれる。大貫家は神奈川県の三百年来の大地主。
明治39年、与謝野晶子に師事し、雑誌「明星」などに短歌を発表しはじめる。
明治43年、岡本一平と結婚。翌年、後に芸術家として大成する太郎を出産。
結婚生活は波乱の連続であったが、二人は危機を乗り越えるため宗教遍歴をし、大乗仏教にたどり着く。
かの子は歌人としての名を上げるが、昭和4年から7年にかけての渡欧を機に小説家へ転進。
昭和12年の「母子叙情」により文壇的地位を確立。その後も精力的に文学活動を続け、大器晩成型の才能を開花させる。
創作以外にも、仏教に関するエッセイを多数発表している。昭和14年2月18日、脳溢血により死去。享年49歳。
代表作は「母子叙情」、「老妓抄」、「東海道五十三次」、「家霊」、「雛妓」など。

回想録
 かの子女史はある時女ばかりの会合の席で――その席には、長谷川時雨、平林たい子、森田たま、板垣直子、その他四五人の顔があつた――相変らずゆるゆるした口のきゝ方で一平氏の自分に対する敬愛をこんな風に語つた。
「私がね、少し帰りに晩かつたりすると、顔をみると拝むのよ。ほんたうに拝むの。有難いんですつて……それはねえ、私が器量がいゝとか、才能があるとかいふためではないのよ。」
 そのあとをかの子女史がどう説明したかは忘れてゐる。たゞその「拝むのよ」といふ言葉が臆(お)めずにゆる/\と語られた雰囲気だけが記憶にこびりついてゐる。
 その時にもう一つ、異様に見えることを言つた。かの子女史がらんらんとした眼でゆつくり一座を見まはして
「私、この中に好きな人がたつた一人ゐるのよ。」
 と言つたのだ。かの子女史に愛され度いと思つてゐる人は恐らく一人もゐなかつたが、何だか籤(くぢ)を引かされたやうな気分にさせられたことは事実である。
 それから数日して、森田たま女史にあつた時、森田さんは顔をしかめて、
「岡本さんて気味がわるいわ。あの日の帰り道にそつと私の傍によつて来て、さつきこの中に好きな人が一人ゐるといつたのあなたのことよつて凝つと私の顔をみるの。」
 といつた。なるほどと私は思つて、その次平林さんにあつた時そのことを話した。(読者よ、私のチヨコマカしたおしやべり癖のいやらしさには私自身もうんざりしてこれを書いてゐるのです)平林さんは怒つたやうな顔できいてゐたが、ふうむと深い息をついて、
「さうですか……実は、私もあの帰りに岡本さんに同じことを言はれたのよ。」
 といつた。さうして大きな声で笑出した。私も笑つた。化かされた当人より色の浅い笑ひ方だつたが、あとはひどく索漠とした。事をかまへて強ひて他人の心を自分にひきつけようとする岡本かの子その人の孤独の深さが身に食入つて来た。かの子女史の死後追悼会の席で、一平氏がかの子女史の写真の前で落涙滂沱と頬を伝ふのを現に私はみたが、涙を流しても拝んでも、一平氏によつてかの子の孤独は救はれなかつたのである。

円地文子「かの子変相」
昭和30年7月
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 かの子は妻と片付けられる女ではなかつた。
 僕にとつて母と娘と子供と、それから師匠でもあり友だちでもあつた。
 日常生活で一ばん濃厚なお互ひの感じは、子供同志といふ感じであらう。ひたむきな性格で、如才なくとか、いはゆる要領よくとか、いふ事が出来なさうに見ゆるかの女を、僕は憐んだ。かの女はまた僕の粗笨で、時にはどうでもいゝやと投げてしまひさうな性格を、危いものに思つた。しかしその実、僕の方には多少、世故に慣れた狸のところもあるのだが、かの女は自分のひたむきな性格の鏡に写して、その方面は見えないから、たゞ危ないものに思つて一生懸命、庇ふやうにした。相手が自分の好意に従はないと互に怒つた「なんだ子供の癖に」「なんです子供の癖に」
 かの子のひたむきで思ひ入る性格の現れた例を一つ想ひ起す。かの女は嘗てある雑誌から桜百首を一週間の期限で頼まれた。昼夜兼行で桜のあらゆる姿態を胸裏に描いて詠んだ。それが出来上つたので雑誌社へ渡し、ちやうど季節も桜が咲いたので、上野の山へ実物の桜を見に行つた。足は清水堂の辺にかゝつて、そこの崖にちらほら咲き始めた桜が眼に入ると、急にかの女は胸を悪るくし実際に嘔吐した。空想でも桜の姿をかの女はすでに満喫し、もうそれ以上、事実の桜の如きは嗜慾に受容れるに堪へなかつたのだ。かの女のひたむきな性格が精神と肉体を分たず自由に馳せ廻つたかういふ例はいくらもある。

岡本一平「妻を懐ふ」
昭和14年4月
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岡本 僕は、僕の母親には、いわゆる母性というものはなかったと思うよ。
有吉 わたくしもそう思うんですよ。作品読んでも、ぜんぜん母性というものを感じないもの。金切り声をあげて「母性、母性」と叫び続けているんだけれども、まるで実体がないんですよ。わたくしは、大変失礼な言い方をしてごめんなさい、岡本太郎は、はたして彼女の子かという疑問を持つくらいなんです。つまり、産んでいるのかしら、と思うときがあるんですよ。というのは、あんなに母性母性というのなら、やはり、産むときの苦しみとか、身ごもつているときの母親の感慨とかが当然、出てこなければならないと思うんだけれども。(中略)
岡本 産んだことは事実だろうけれど、岡本かの子の場合は、そんなこと関係ないんだな。そこが彼女の凄いところ、素晴しいところですよ。僕はしよっちゅういっていることだけれども、岡本かの子の場合は、母性というものがないんですよ。もしあるとすれば、大母性だな。大母性と母性とは違うと思うんだ。そういった意味で、かの子は大母性だったと思う。ということは、いわゆる母性というものにぜんぜんこだわらない。
 一番、僕としてかの子に困っちゃったのは、まあ、母親ぶってはいたけれども、僕が中学生になったら、甘えちゃってねえ。ときどき母親的権力的な態度をとることが、たまにはあったが。こちらの妹みたいなふうになっちゃって、どうも、こっちから見れば、おばあちゃんともいえないけど、えらい年上で、お母さんなのに、甘えられると困っちやうんだねえ。これ、どうも始末に悪い。甘えて甘えて、妹みたいになって、うっかりすると、こっちがお父さんになったような錯覚を起こすくらいにね。非常に困ったよ。ときには嫌気を覚えたね。だけども大きく考えると正しかったと思うんだ。ということは、人間というのは同時に母親であり、娘である。

岡本太郎・有吉佐和子「“母”なるかの子」
昭和49年3月


第二詩集『愛の寓意』所載・詩「アダージェット」・・・木村草弥
愛の寓意_NEW

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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       アダージェット・・・・・・・・・・木村草弥
             吾が爪の変形しゆく夕まぐれ『マーラー五番アダージョ』黄の部屋に盈つ・・・・・・山口紀子

ルキーノ・ヴィスコンティの映画『ヴェニスに死す』というのが あった。
その主題曲として
マーラーのシンフォニー五番、第四楽章アダージェットが挿入され、
多くの人の耳に馴染み深い、忘れられない音楽となった。
ヴェニスを舞台に展開する屈折した同性愛のエロスとは無縁であることは言うまでもないが、
この曲はマーラーがアルマ・シントラーに贈った愛の曲である。

マーラーは一九〇一年十一月に知り合い、一ヵ月後に婚約し、 四ヵ月後に結婚した。

マーラーと親しかったオランダの指揮者メンゲルベルクは自分のスコアの第四楽章のアダージェット部分に、
こんなメモを書き残している。

────────────────────────────────────────────
このアダージェットはグスタフ・マーラーが アルマに宛てた愛の告白である!
彼は手紙の代りにこの自筆譜を彼女に贈り、言葉を一切添えなかった。
だが彼女はそれを理解し、「来てください!!!」と返事を書いた。
これは二人が私に話してくれたことである! W.M
──────────────────────────────── ────────────

また、スコアの左端には、冒頭のヴァイオリンに よる旋律にぴったり当てはまる七行の詩が書き込まれている。

  どれほど君を愛しているか
  私の太陽よ
  言葉では言い尽くせない
  ただ君に憧れ
  君を愛しているとだけ
  訴えることしかできない
  君は我が至福の喜び!


シンフォニックなラヴレターと呼べるアダージェッ トは「言葉なき歌曲」だが、言葉がついているに等しいと言える。

前登志夫の弟子に石坂幸子という歌人が居て、山口紀子と二人で
「たらえふ通信」というハガキによる歌語りを交換していた。
石坂幸子がC型肝炎で逝って「たらえふ通信」と歌友・山口紀子が残された。

    残されて生きる心にほんのりと芙蓉のような明るさありて・・・・・・・山口紀子

その残された山口紀子と木村草弥は、一年弱「えふえむ通信」なる ハガキ通信をしていた。
山口紀子は第三子出産後、厳しい腎臓障害に陥り、週三回の透析を必要とするような生活に苦しんでいた。

   吾が爪の変形しゆく夕まぐれ『マーラー五番アダージョ』黄の部屋に盈つ

という冒頭の歌は、「爪の変形しゆく」と詠って悲痛である。
「えふえむ通信」は、そんな紀子の体調を慮って、つい遠慮する私に紀子が苛立ち、
いつしか通信に齟齬を来たすようになって解消した。
あれから、もう十数年が経つが紀子はどうしているだろうか。

    マーラー死後その妻アルマ波乱なす華やかな恋あまたしたりき・・・・・・・木村草弥



げんげ田にまろべば空にしぶき降る架かれる虹を渡るは馬齢・・・木村草弥
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   げんげ田にまろべば空にしぶき降る
     架かれる虹を渡るは馬齢・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(((角川書店)に載るもので、沓冠(くつかぶり)という昔からの歌遊びの形式による連作「秘めごとめく吾」の巻頭の歌。

この一連については2004/05/22のTB■<沓冠>という遊び歌について──草弥の<秘めごとめく吾>に則して──という「エッセイ」に全文と解説を載せたが、
下記に再録しておくので、ご覧いただきたい。
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──初出Doblog・2004/05/22のBlog
  <沓冠>という遊び歌について・・・・・・・・・・木村草弥

──エッセイ──

<沓冠>(くつかぶり)という遊び歌について──

 ───木村草弥の作品<秘めごとめく吾(わ)>の場合── 

或る人との交信の中で「沓冠」(くつかぶり)という、中世から和歌の世界でやられてきた「遊び歌」について触れたところ、どういう仕組みかという質問があった。
そこで私の作品を例にあげて説明してみたい。

これは「秘めごとめく吾(わ)」という題名の沓冠15首であるが、雑誌『未来』誌1996年9月号に、特集・異風への挑戦③で「課題・沓冠」が編集部から指名で課されてきたものに応じて発表したものである。
「くつかぶり」は漢字で書くと「沓」と「冠」とになる。
<冠>とは一首の歌の頭の音(おん)を①~⑮へ。
<沓>は歌の末尾の音を⑮~①へと辿ると
「現代短歌に未来はあるか
 そんなことは誰にもわからない」 となる。
この文をよく覚えておいてほしい。
これが「くつかぶり」という歌の遊びであるが、15首の歌の頭と末尾が、事前に決っているので、それに基づいて歌を作り、連ねて行かなければならない、
という難しさがある。
この、沓冠に宛てる「文」は作者の自由に決めてよい。
なお沓冠には二種類あり、私は一首の頭と末尾に沓冠をあてはめたが、
もう一種類は、各歌の5、7、5、7、7の各フレーズの区切りに、沓冠に選んだ字(音=おん)を当てはめてゆく、というもの。

では、実際に、私の作品を見てみよう。なお歌の頭に便宜的に①~⑮の数字を付けておいた。
実際の作品にはついていない。

 秘めごとめく吾(わ)──沓冠15首・・・・・・・・・・・・・・・・木村 草弥

①げんげ田にまろべば空にしぶき降る 架かれる虹を渡るは馬齢

②ん、といふ五十音図のおしまひの大変な音(おん)が出て来ちやつたな

③だいぢやうぶ、忘八といふ大仰な題名つけた人がゐるから

④生きものはみな先ず朝を祝福せむ、徹夜してまで作るな短歌

⑤たまさかの独り居の夜のつれづれに十指を洗ふ秘めごとめく吾(わ)

⑥ん、ならね 人の世の運などといふ不確かなるに縋りてをるも

⑦革ジャンに素乳房を秘めハーレーに跨る少女、血を怖れずに

⑧にちげつを重ねて揃ふ茶のみどり摘むゆびさきは陽光(ひかり)に刺され

⑨みどりなす陽ざしに透ける茶摘女の肌うるはしき茶ばたけの段(きだ)

⑩ライラックそのむらさきの髪ふさの舞姫ソフィゆめに顕(た)てるは

⑪いなづまのびりりと裂きし樹の闇を殻もゆらさず蝸牛ゆく音

⑫花火果てて元のうつろな河となり晩夏の水を眺むるをとこ

⑬アポトーシス自然死なるにあくがれて華甲も六とせ越えし吾かな

⑭るいるいと海松(みる)の朽ち藻に身をまかせ記憶の森にトラウマ尋(と)めん

⑮愛(かな)しさは遠浅なして満ちくるをもくれんの花は昼もだすとぞ

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お判り頂けただろうか。見ていただけば判るように、かなりの習練と、当意即妙な自由さ、が必要である。
私などは、かなり遊びの要素の多い人間で、こういう遊びは大好きであり、もう20数年も前のことだが、これを制作中は、嬉々として楽しく作品作りに当った。
実際の制作期間は2日ほどである。
先ず、当てはめる<冠>と<沓>になる「文」を作り、それを歌の頭と、歌の末尾に配置してから、歌の制作にかかる。
作ったあとには、大きな達成感があるのである。
並べる歌の数は15とは限らない。10でもよいし、30でも、よい。
ただし、30となると、かなり難しさが増すだろう。どんな数にするかは、課題を出す編集者の裁量である。
この一連は第二歌集『嘉木』に収録してあるが、自選50首には載せていないので、Web上では、ご覧いただけない。
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「げんげ」はレンゲ草というのが一般的な呼び方であるが、文芸の世界では「げんげ」と呼んで「非日常的」な演出をするのである。
レンゲ草は休耕田などに秋に種を蒔いて田一面にレンゲを生やし、春先に田植えのための田こなしの前にコンバインなどで土に鋤き込む。
「緑肥」というものである。
レンゲは根に「根瘤バクテリア」というのが着いて空気中の窒素を固定化する作用をする。
昔から、このことは経験的に農民には知られていて、冬の季節に広く栽培されたのである。
しかし現在、栽培されているレンゲは西洋レンゲといって、茎も葉も花も大型のもので、昔の在来種のニホンレンゲとは、比べ物にならないお化けのような大きさである。
この方が緑肥としての効率は、いいのだそうである。
ご参考までに申し上げると「根瘤バクテリア」を利用する植物としては「大豆」がある。
これも根に根瘤バクテリアがつくので、後作に土の中に窒素分が多く含まれることになるのである。
耕作すると作物が土中の栄養素を吸ってしまい、地味が痩せるのが普通で、したがって肥料を補充しなければならないが、
こういう根瘤バクテリアのつく植物は、そのような肥料の補充が助かるというものである。
もっとも、肥料には窒素、燐酸、加里という肥料の三要素が均衡していることが必要であることは言うまでもない。

掲出した私の歌については、先に書いた「エッセイ」をみて鑑賞してもらうとして、別に書き添えることもないが、
「馬齢」というのは、いたずらに年齢を重ねることを言い、私のことを指している。

「げんげ」「げんげん」「紫雲英」などと書くが、それらの句を引いて終わる。

 野道行けばげんげんの束のすててある・・・・・・・・・・正岡子規

 桜島いまし雲ぬぎ紫雲英の上・・・・・・・・・・山口青邨

 げんげ田の鋤かるる匂ひ遠くまで・・・・・・・・・・阿部みどり女

 げんげ田はまろし地球のまろければ・・・・・・・・・・三橋鷹女

 頭悪き日やげんげ田に牛暴れ・・・・・・・・・・西東三鬼

 切岸へ出ねば紫雲英の大地かな・・・・・・・・・・中村草田男

 おほらかに山臥す紫雲英田の牛も・・・・・・・・・・石田波郷

 青天の何に倦みてはげんげ摘む・・・・・・・・・・鈴木六林男

 紫雲英野の道たかまりて川跨ぐ・・・・・・・・・・清崎敏郎

 睡る子の手より紫雲英の束離す・・・・・・・・・・橋本美代子

 げんげ田が囲む明日香の后陵・・・・・・・・・・石井いさお

 死ぬ真似をして紫雲英田に倒れけり・・・・・・・・・・山崎一生

 げんげ田に寝転ぶ妻を許し置く・・・・・・・・・・三好曲

 子山羊にも掛けて蓮華の首飾・・・・・・・・・・沢 聡

 紫雲英野を発つくれなゐの熱気球・・・・・・・・・・塩出佐代子

 畦ひとつとんで咲きたる紫雲英かな・・・・・・・・・・中山世一



老いらくの肩にぞ触るる枝先のしだれてこの世の花と咲くなり・・・木村草弥
entry_25しだれ桜小渕沢

   老いらくの肩にぞ触るる枝先の
    しだれてこの世の花と咲くなり・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』((角川書店)に載るものである。
この歌の前後に

   樹の洞に千年の闇いだくらむ三春の桜は滝の飛沫に

   一もとの桜の老木植ゑられてここが墓処(はかど)と花吹雪せる

   やすやすと齢加ふるにもあらず釈迦十弟子に桜しだれて
・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌が載っている。
いずれも桜の「明」の部分ではなく、「暗」の部分を詠んでいる。
7冊も歌集を出すと、「桜」を詠った歌もかなりあるものである。

歌集を紐解いて、先日来、集中して桜にまつわる歌を載せてみたが、まだまだあるけれども、一応このくらいで打ち切りにしたい。
というのは、桜も、ほぼ散り尽くしてしまったからである。

桜が終ると世間では、フレッシュマンたちの入社式、入学式のシーズンも終る頃である。
若人たちには頑張ってもらいたい。老い人からのエールである。
私の初めての女孫も大学を出て、某社に就職していたが、先年結婚して家を出たが、昨年出産し、私に三人目の曾孫が出来た。

終るにあたって、「花」=「さくら」を詠んだ句を引いておく。

 花万朶さゆらぎもなく蔵すもの・・・・・・・・山口青邨

 チチポポと鼓打たうよ花月夜・・・・・・・・松本たかし

 丹波山城ふた国わかつ花の塚・・・・・・・・角川源義

 椀に浮く花びら柚子も花の頃・・・・・・・・後藤比奈夫

 花の山ふもとに八十八の母・・・・・・・・沢木欣一

 花万朶をみなごもこゑひそめをり・・・・・・・・森澄雄

 永劫の途中に生きて花を見る・・・・・・・・和田悟朗

 吹き上げて谷の花くる吉野建・・・・・・・・飴山実

 京の塚近江の塚や花行脚・・・・・・・・角川照子

 白粥は花明りとぞ啜りけり・・・・・・・・山上樹実雄

 花の木や只木に戻る諸木中・・・・・・・・高橋睦郎

 獄を出て花の吉野をこころざす・・・・・・・・角川春樹

 桃山も伏見も匂へ花明り・・・・・・・・筑紫磐井

 鍵ひとつ掛けて余生の花の旅・・・・・・・・徳留末雄

 帯ひくく結びて花に遊びけり・・・・・・・・塚原岬

 母ひとりいかにいかにと花万朶・・・・・・・・佐藤宣子


ながらみ書房「短歌往来」2020/五月号掲載『信天翁』書評
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 ↑「短歌往来」2020年五月号 掲載 『信天翁』書評

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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      ながらみ書房「短歌往来」2020/五月号掲載『信天翁』書評
             ・・・・・「短歌往来」─今月のスポット欄・・・・・・・・

▼木村草弥歌集『信天翁』(澪標・2000円 * )
齢九十を超えた歌人の矍鑠たる自由律短歌の世界。世の中に対する、とりわけ理不尽な権力に対する叛骨心はいささかの衰えもない。
集中末尾の一連の連作に、この歌人の面目躍如たるものがある。
・ユリシーズの時代には肉体が見事だというたげで英雄になれた
・今では貧弱な肉体の持ち主がコンピュータを操って巨万の冨をかせぐ
・むかし「若者よ体を鍛えておけ」という歌が流行った
・作者は獄中十数年という経歴の持ち主の詩人だった
・「美しい心が逞しい体に支えられる日がいつかは来る」
・と、その人は言った。ひろし・ぬやまという詩人だった
・その昔「自由律」というだけで刑務所にぶち込まれた俳人が居る
・デカルトは「cogito, ergo sum」(われ考える、ゆえに 我あり)と言った
・デカルトの研究者というだけで三木清は獄死した
・北原白秋に「時局」を諭され前田夕暮は定型へ復帰した
・香川進大尉は「自由律歌人」だからと陸士出の将校に殴打された
・「自由」というだけで何でや ? 今どきの若者よ、それが時代の狂気なのだ
一首ずつというのではなく、連作としてまとめて読むと、あたかも散文詩のような趣がある。
ある時期、「自由」は抵抗の象徴であり、反権力の砦であり、そのために軍国化する社会から官憲に目をつけられた。
著者の歌は淡々と事実を並べたのみだが、、かえって迫真力がある。怒りや悲しみ悔しみなどは読者に委ねられている。
しかし、歌集冒頭の一連の歌は文語旧仮名の作品で厳粛ですらあり、歌集タイトルともなった作品に思い入れも深かったのだろう。
・一病を持ちては永きたそがれか野の豌豆の花の白さや
・〈信天翁〉描ける青きコースターまなかひに白き砂浜ありぬ
・まどろみのみどりまみれぞ松園の春画に見つる繁き陰毛は
・吉凶のいづれか朱き実のこぼれ母系父系のただうす暗し
二首目は著者の妻亡きあとをケアマネージャーとして十年間支えてくれた稲田京子さんへの、四首目は美術史家であった次兄の重信への挽歌。
「これからの日々、わたしのしたいようにさせてもらいたい」」(あとがき)、それもいいだろう。
この世の中の矛盾や不条理を渾身の気概でもって歌い、告発してもらうのが自由律歌人の存在証明であると信じる。
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本誌が発行されたので、表紙の画像などをアップしておく。
名前を出してもいいと思うが、この記事の執筆者は、「ヤママユ」の喜多弘樹氏である。版元の澪標の松村信人氏とは若き日の詩人仲間の友人とのことである。
私の意図を的確に汲んで頂いた評で、有難く頂戴する。







夜ざくらは己が白さに耐へかねてほろほろ散りぬ 死を覚えゐよ・・・木村草弥
entry_24しだれ桜円山公園

   夜ざくらは己(おの)が白さに耐へかねて
     ほろほろ散りぬ 死を覚えゐよ(メメント・モリ)・・・・・・・・木村草弥


この歌の結句「死を覚えゐよ」のところには、「メメント・モーリ」という有名なラテン語の「警句」が「ふりがな」として付ってある。
この警句はヨーロッパの教会へゆくと壁画などとともに掲げてある。

メメント・モリのラテン語表記は memento mori であって、メメントとは、記憶する、覚えるという単語の命令形である。私は、それを覚えゐよ、と書いてみた。モリないしはモーリは「死」のことである。
この警句はヨーロッパ中世の頃にキリスト教会に掲げられるようになった。
この頃はペストその他の伝染病で多くの人が死んだ頃で「死」が日常的だった。
だから教会は人々に「死」ということに自覚的であるように求めた──つまり人間がいかに弱い、つまらない存在であるかを知れ、と言ったのである。

この警句は、藤原新也の写真文集の題名にも使われ、この本はよく売れた。

この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載せたものである。
自選にも採っているのでWebのHPでも、ご覧いただける。



浴槽に花の筏がただよふよ春のゆふべの花いちもんめ・・・木村草弥
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   浴槽に花の筏(いかだ)がただよふよ
    春のゆふべの花いちもんめ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

「花筏」というのは散った桜の花が池や川の水面に散り敷いて、さながら「筏」のように連なる様をいう。

この歌を発表したとき、私の友人が「浴槽に桜のはなびらが入って来る、なんていうことは考えられない」と発言した。
なるほど、今どきの現代風の密閉した「浴室」ならば、そういうことは不可能だろう。
だが、そこが「想像力」の問題なのである。
私の歌は「現在形」で詠まれているが、それは必ずしも、現在のこととは限らない。
昔の古い家の窓を大きく開け放った「風呂」桶に、家の近くに生える桜の大樹から、おびただしい落花が舞い込んで来るのである。
「過去」のことを「過去形」で詠んでは、味気ない「回想」あるいは「思い出」に堕してしまう。
そういう時に「現在形」で詠むことによって歌にリアリティを与えるのである。それが歌作りの、ひとつのヒントである。
要は「想像力」の問題である。
この歌の下句で「花いちもんめ」と詠んである。
これは日本の古い童謡からフレーズを借用してきたもので、これによって子供の「メルヘン」を描くのに成功した、と思っている。

ここで注意しなければならないのは、植物の中に「ハナイカダ」と言う名のものがあることである。

hana310_hanaikadaハナイカダの花

写真②は、その「ハナイカダ」という植物である。
写真をよく見ていただくと判るように、この木の花は葉っぱの真ん中に付いている、極めて特異な形をしている。
丁度「筏」に花が乗っているようなので、「ハナイカダ」の名前を頂戴したらしい。
歳時記には、このことに注意するようにと明記されている。
このハナイカダが、如何なる種に属する植物なのか、寡聞にして私には判らない。花言葉は「移り気」「嫁の涙」「ままっこ」。
参考までに事典には、こう載っている。

ハナイカダ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

学名 Helwingia japonica
和名 ハナイカダ(花筏)
ハナイカダ(花筏、Helwingia japonica)はミズキ科の落葉低木で、北海道南部以南の森林に自生する。葉の上に花が咲くのが特徴である。雌雄異株。花は淡緑色で、子房下位、花弁は3-4枚。春に葉の中央に1-2個(雌花)または数個(雄花)の花が咲く。果実は黒い液果で種子を2-4個含む。この液果は甘味があり食べられる。進化的には葉腋から出た花序の軸が葉の主脈と癒合したと考えられる。

分類
亜種として南西諸島にリュウキュウハナイカダvar. liukiuensis、台湾にタイワンハナイカダvar. formosanaが分布する。同属にはH. chinensis、H. himalaicaがあり、中国南部、ヒマラヤに分布する。

ハナイカダ科
ハナイカダ属は従来ミズキ科に入れられていたが、APG植物分類体系ではモチノキ目の中の独立のハナイカダ科としている。



福岡伸一『動的平衡』・・・木村草弥
福岡②

──新・読書ノート──再掲載・初出2012/11/21

     福岡伸一『動的平衡』・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・・木楽舎刊2009初版2012/05/01第14刷・・・・・・・・・・

昨日、『生命と記憶のパラドクス』を載せたのだが、この本は余りにもエッセイ的であり過ぎたので、ここに『動的平衡』のエッセンス部分を引いておく。

可変的でありながらサスティナブル
カレティジアンに対する新しいカウン夕ー・フォースとして、私は今、二つの可能性を
考えている。一つは生命が本来持っている動的な平衡、つまりイクイリプリアムの考え方
を、生命と自然を捉える基本とすることである。
生命とは何か?
この永遠の問いに対して、過去さまざまな回答が試みられてきた。DNAの世紀だった
二十世紀的な見方を採用すれば「生命とは自己複製可能なシステムである」との答えが得
られる。確かに、これはとてもシンプルで機能的な定義であった。
しかし、この定義には、生命が持つもう一つの極めて重要な特性がうまく反映されてい
ない。それは、生命が「可変的でありながらサスティナブル(永続的)なシステムである」
という古くて新しい視点である。
二十一世紀、環境の世紀を迎えた今、生命と環境をめぐる思考の中にあって、この視点
に再び光を当てることは、私たちに様々なヒントをもたらしてくれる。
生命力分子レベルにおいても(というよりもミクロなレベルではなおさら)、盾環的でサス
ティナブルなシステムであることを、最初に「見た」のはルドルフ・シェーンハイマーだ
つた。DNAの発見に先だつこと一〇年以上前(一九三〇年代後半から一九四〇年にかけて)
のことだった。この、生命観のコペルニクス的転回は、今ではすつかり忘れ去られた研究
成果である。
日本が太平洋戦争にまさに突入せんとしていた頃、ユダヤ人科学者シェーンハイマ—は
ナチス・ドイツから逃れて米国に亡命した。英語はあまり得意ではなかったが、どうにか
二ューヨークのコ口ンビア大学に研究者としての職を得た。
彼は、当時ちょうど手に入れることができたアイソトーブ(同位体)を使って、アミノ
酸に標識をつけた。そして、これをマウスに三日間、食べさせてみた。アイソトープ標識
は分子の行方をトレ—スするのに好都合な目印となるのである。
アミノ酸はマウスの体内で燃やされてエネルギーとなり、燃えカスは呼気や尿となって
速やかに排泄されるだろうと彼は予想した。結果は予想を鮮やかに裏切っていた。
標識アミノ酸は瞬く間にマウスの全身に散らばり、その半分以上が、脳、筋肉、消化
管、肝臓、膵臓、脾臓、血液などありとあらゆる臓器や組織を構成するタンパク質の一部
となっていたのである。そして、三日の間、マウスの体重は増えていなかった。
これはいったい何を意味しているのか。マウスの身体を構成していたタンパク質は、三
日間のうちに、食事由来のアミノ酸に置き換えられ、その分、身体を構成していたタンパ
ク質は捨てられたということである。
標識アミノ酸は、ちょうどインクを川に垂らしたように、「流れ」の存在とその速さを
目に見えるものにしてくれたのである。つまり、私たちの生命を構成している分子は、プ
ラモデルのような静的なパーツではなく、例外なく絶え間ない分解と再構成のダイナミズ
ムの中にあるという画期的な大発見がこの時なされたのだった。
まったく比喩ではなく、生命は行く川のごとく流れの中にあり、私たちが食べ続けなけ
ればならない理由は、この流れを止めないためだったのだ。そして、さらに重要なのは、
この分子の流れが、流れながらも全体として秩序を維持するため、相互に関係性を保って
いるということだった。
個体は、感覚としては外界と隔てられた実体として存在するように思える。しかし、ミ
クロのレベルでは、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない
のである。

「動的平衡」とは何か
生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換
えられている。身体のあらゆる組繳や細胞の中身はこうして常に作り変えられ、更新され
続けているのである。
だから、私たちの身体は分子的な実体としては、数力月前の自分とはまったく別物にな
っている。分子は環境からやってきて、一時、淀みとしての私たちを作り出し、次の瞬間
にはまた環境へと解き放たれていく。
つまり、環境は常に私たちの身体の中を通り抜けている。いや「通り抜ける」という表
現も正確ではない。なぜなら、そこには分子が「通り過ぎる」べき容れ物があったわけで
はなく、ここで容れ物と呼んでいる私たちの身体自体も「通り過ぎつつある」分子が、一
時的に形作っているにすぎないからである。
つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で、私たちの身体は
変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が「生きている」という
ことなのである。シェーンハイマーは、この生命の特異的なありようをダイナミック・ス
テイト(動的な状態)と呼んだ。私はこの概念をさらに拡張し、生命の均衡の重要性をよ
り強調するため「動的平衡」と訳したい。英語で記せばdynamic equilibrium (equi =等し
い、librium =天枰)となる。
ここで私たちは改めて「生命とは何か?」という問いに答えることができる。「生命と
は動的平衡にあるシステムである」という回答である。
そして、ここにはもう一つの重要な啓示がある。それは可変的でサスティナブルを特徴
とする生命というシステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存して
いるのではなく、その流れがもたらす「効果」であるということだ。生命現象とは構造で
はなく「効果」なのである。
サスティサブルであることを考えるとき、これは多くのことを示唆してくれる。サスティ
ナブルなものは常に勛いている。その動きは「流れ」、もしくは環境との大循環の輪の
中にある。サスティナブルは流れながらも環境との間に一定の動的平衡状態を保っている。
一輪車に乗ってバランスを保つときのように、むしろ小刻みに動いているからこそ、平
衡を維持できるのだ。サスティナブルは、動きながら常に分解と再生を繰り返し、自分を
作り替えている。それゆえに環境の変化に適応でき、また自分の傷を癒すことができる。
このように考えると、サスティナブルであることとは、何かを物質的•制度的に保存し
たり、死守したりすることではないのがおのずと知れる。
サスティナフルなものは、一見、不変のように見えて、実は常に動きながら平衡を保
ち、かつわずかながら変化し続けている。その軌跡と運動のあり方を、ずっと後になって
「進化」と呼べることに、私たちは気づくのだ。

多くの失敗は何を意味するか
シェーンハイマーは、それまでのデカルト的な機械論的生命観に対して、還元論的な分
子レベルの解像度を保ちながら、コペルニクス的転回をもたらした。その業績はある意味
で二十世紀最大の科学的発見と呼ぶことができると私は思う。
しかし、皮肉にも、このとき同じニューヨークにいた、ロックフェラー大のエイプリー
によって遺伝物質としての核酸が発見された。そして、それが複製メカニズムを内包する
二重らせんをとっていることが明らかにされ、分子生物学時代の幕が切つて落とされる。
生命と生命観に関して偉大な業績を上げたにもかかわらず、シェーンハイマーの名は次
第に歴史の澱に沈んでいった。
それと軌をーにして、再び、生命はミクロな分子パーツからなる精巧なプラモデルとし
て捉えられ、それを操作対象として扱いうるという考え方がドミナントになっていく。必
然として、流れながらも関係性を保つ動的な平衡系としての生命観は捨象されていった。
ひるがえって今日、外的世界としての環境と、内的世界としての生命とを操作しつづけ
る科学・技術のあり方をめぐって、私たちは重大な岐路に立たされている。
シェーンハイマ—の動的平衡論に立ち返って、これらの諸問題を今一度、見直してみる
ことは、閉塞しがちな私たちの生命観・環境観に古くて新しいヒントを与えてくれるので
はないだろうか。
なぜなら、彼の理論を拡張すれば、環境にあるすベての分子は、私たち生命体の中を通
り抜け、また環境へと戻る大循環の流れの中にあり、どの局面をとっても、そこには動的
平衡を保ったネットワークが存在していると考えられるからである。
動的平衡にあるネットワークの一部分を切り取って他の部分と入れ換えたり、局所的な
加速を行うことは、一見、効率を髙めているかのように見えて、結局は動的平衡に負荷を
あたえ、流れを乱すことに帰結する。
実質的に同等に見える部分部分は、それぞれが置かれている動的平衡の中でのみ、その
意味と機能をもち、機能単位と見える部分にもその実、境界線はない。
遣伝子組み換え技術は期待されたほど農産物の増収につながらず、臓器移植はいまだ決
定的に有効と言えるほどの延命医療とはなっていない。ES細胞の分化機構は未知で、増
殖を制御できず、奇跡的に作出されたクロ ーン羊ドリーは早死にしてしまった。
こうした数々の事例は、バイオテクノロジーの過渡期性を意味しているのではなく、動
的平衡としての生命を機械論的に操作するという営為の不可能性を証明しているように、
私には思えてならない。
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この本は啓蒙書でありながら、結構手ごわいものなので、こんな形で「切り取り」するのは危険だとはわかっているが、一応、引いてみた。
この本は2009年に出されているし、その後ES細胞やiPS細胞の分野で画期的な研究の進展があったので、これらの成果は、すぐに取り入れられるだろう。

いずれにしても生命現象を「動的平衡」と捉えたことは、彼の理論の根幹であるから、これからの理論的発展を注視したい。
敢えて、昨日に続いて採り上げる所以である。
『生命と記憶のパラドックス』
『ルリボシカミキリの青』
『動的平衡 2 』
などを読んでみてもらいたい。
先生はエッセイの名手であり、読んでいて快い。「読書人」として至福を得られるから、読んでみてもらいたい。
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先日、今回のコロナウイルスの跳梁に関連して、FBで福岡伸一先生の本のことに触れたので、随分前に読んだ本だが「再掲載」しておく。
「リンク」にした文章も読んでみてもらいたい。




沈丁の香にひたりゐて過去は過去・・・上村占魚
aaoojincyo1沈丁花

   沈丁の香にひたりゐて過去は過去・・・・・・・・・・・・・上村占魚

ジンチョウゲは寒さに強い木で寒中から花芽をつけている。
花が写真のように咲き開くのは三月になってからだが、極めて強い香りが特徴である。だから屋内に置くのは無理である。
私の方の庭にもジンチョウゲがあったが木の芯のところに芯虫が入りやすく、その株は枯れてしまったので、引き抜き、
土を木酢液で充分に消毒してから、鉢植にしてあったジンチョウゲを跡の土に下ろした。
数年順調に大きくなって花をつけていたが、結局また枯れてしまった。だから今は無い。

jinchoge沈丁花
写真②は垣根状になった大きな株である。
図鑑によると、花びらのように見えるものは萼片(がくへん)で、ジンチョウゲには花びらはない、という。
ジンチョウゲは中国原産の常緑低木で、高さは1メートルくらい。枝が多く、卵形の厚い葉が密生して、全体として丸く玉のように茂る。
沈香と丁子の香りを合わせ持ったような香気があるという意味で沈丁花の名がある。
わが国へは江戸時代に中国から渡来し、生垣や庭先に植えられることが多い。

jinchouge0974沈丁花

私の歌にもジンチョウゲを詠ったものがあったと思って、さんざん探してみたが、見つからないので、俳句を掲出することにする。
この花の咲く頃には冴え返るような「寒の戻り」の寒い日がある。
白い花のジンチョウゲがあると聞いてネット上から探し出したので、
写真④に載せる。

jincyo9白ジンチョウゲ

以下、歳時記に載る句を引いて終りたい。

 沈丁の香の石階に佇みぬ・・・・・・・・高浜虚子

 隣から吾子呼んでをり沈丁花・・・・・・・・臼田亞浪

 冴返る二三日あり沈丁花(ぢんちやうげ)・・・・・・・・高野素十

 ぬかあめにぬるる丁字の香なりけり・・・・・・・・久保田万太郎

 靴脱に女草履や沈丁花・・・・・・・・水原秋桜子

 沈丁の四五花はじけてひらきけり・・・・・・・・中村草田男

沈丁の香の強ければ雨やらん・・・・・・・・松本たかし

 沈丁に雨は音なし加賀言葉・・・・・・・・細見綾子

 沈丁に水そそぎをり憂鬱日・・・・・・・・三橋鷹女

 沈丁も乱るる花のたぐひかな・・・・・・・・永田耕衣

 沈丁花多産を恥じる犬の瞳よ・・・・・・・・永野孫柳

 沈丁の花をじろりと見て過ぐる・・・・・・・・波多野爽波

 授乳の目とぢて日向の沈丁花・・・・・・・・福田甲子雄

沈丁の恣(ほしいまま)なる透し垣・・・・・・・・石塚友二

 沈丁の香のくらがりに呪詛一語・・・・・・・・細川加賀

 鎌倉の月まんまるし沈丁花・・・・・・・・高野素十

c0128628_1181097ジンチョウゲ実
写真⑤はジンチョウゲの実。
雌雄異株で、実は雌株にしかできない。
日本には雌株は非常に少ないとのことで、実を見かけることは少ない。
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今日、4月15日は、亡妻・弥生の祥月命日である。 先年十三回忌の法要を、菩提寺の真蔵院で私と子供だけの、ささやかな法事を催した。
それから二年で、もう満十四年が経ったのかと感慨ふかいものがある。一人暮らしもようやく身についてきた昨今である。
札幌に住む妹さんから生花のバスケットが届いた。いつもながら、お心遣いに感謝したい。
ここに記して、冥福を祈りたい。



はねず色のうつろひやすき花にして点鬼簿に降る真昼なりけり・・・木村草弥
img002弘川寺

  はねず色のうつろひやすき花にして
    点鬼簿に降る真昼なりけり・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでも、ご覧いただける。

この歌については上にリンクとして示したWebのHPの後半部に載っているが、短歌時評として前衛短歌作家として著名な塚本邦雄氏が読売新聞平成11年6月28日夕刊に、この歌を引用して、次のように批評していただいた。

  <いずれも心・詞伯仲した好著であり、これだけ熟読すると現代短歌の、ある断面が眼前に出現し、はたと考えこみ、また二十一世紀に望みを託したくなる。>

そういう意味でも私にとって「記念碑」的な、思い出ふかい歌である。詳しくは、WebのHPを覗いてみてもらいたい。

「はねず色」というのは、日本古来の色見本として掲げられている色で「うすべに色」のことである。
また「点鬼簿」(てんきぼ)というのは、仏壇に納められている先祖さまの戒名や祥月命日を書いてある「過去帖」の別名である。
人間は死ぬと「鬼籍」に入る、などというように、死んだら「鬼」になるのである。だから別名を「点鬼簿」という。
詩歌では、こういう風に「過去帖」という日常的な表現を、わざと避けて、「点鬼簿」という非日常的な表現を採るのである。
詩歌というのは、日常を非日常化したものである。

この歌も、花の盛りを詠んだ華やかなものではなく、「死」の匂いに満ちた哀感の歌と言えるだろう。
私は、いつも「死」の隣にいるのである。



老桜は残さず花を散らしけりかにかくに見るはるかなる宙・・・木村草弥
thumb5長谷寺落花

   老桜は残さず花を散らしけり
     かにかくに見るはるかなる宙(そら)・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

私の歌の場合、華やかに咲き満ちている満開の桜の最盛期を詠むということは、まあ、ない。
散り際とか、老い樹であるとか、滅びるような様子を詠うのが多い。
一般的に詩歌の場合は、そうである。何事にも「滅び」の時期にこそ、自然の、あるいは人生の哀歓があるからである。
「盛り」のときに勢いがあり、美しくて、華やかであるのは当然のことであり、何の不思議もないからである。
適当な散りつくした桜の写真がないので、こんな写真で代用する。長谷寺の桜落花である。

この歌には何も難しいところは、ない。上に書いたような私の心象が詠われている。
そして、花の散った桜の樹の間からは、果てしない宙(そら)が拡がっているなぁ、という感慨である。
落花を詠んだ句に

    空青しなほも落花を含みゐて・・・・・・・天野莫秋子

というのがあるが、この句は私の歌に一脈相通じる雰囲気がある。
こんな句はいかがだろうか。

    めんどりよりをんどりかなしちるさくら・・・・・・・・三橋鷹女

余談として書いておくと、私の歌に使っている「かにかくに」というのは「あちこちに」とか「いろいろに」という意味の「副詞」である。
これを使った文学作品として有名なのが

     かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる    吉井勇

という歌である。 念のために書き添えておく。






     
自が生地選べぬままに老い古りぬ桜の一樹わが生もまた・・・木村草弥
entry_25しだれ桜小渕沢

   自(し)が生地選べぬままに老い古りぬ
     桜の一樹わが生もまた・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでも、ご覧いただける。

掲出した写真は小渕沢のしだれ桜である。写真を見ただけでも、かなりの年数を経た桜の木であることが判る。
このように老いた桜の木を見ていると、この木が、どういう長い歳月を生きて来たのかが気にかかる。
しかも、その地に根づくにあたっても、桜の自由意志で、そこに生えているのではない。自然播種ということは、桜の場合あり得ないからである。
つい最近読んだ本によると、吉野山の桜も自然に生えたものではなく、人の手によってずっと昔に手植えされたものだという。
何千本という山桜の木を手植えした古代の人々の並々ならぬ情熱を思い知らされるのである。
だから、私は「自分の生地も選べぬままに」と感慨を抱くに到ったのである。それが四句までの私の歌の描写になっている。
そういう桜の老い樹を見ていて、さて私自身はどうなのか、と振り返ってみたら、私の「生」も、この桜と同じく、私の自由意志でここに生きているのではなく、天地の「巡り合わせ」で、ここに「生かされている」のではないか、という感慨に辿りついた、ということである。
詩歌の場合、こういう自然物という具象を見て、人間としての「生きざま」に思いをいたす、ということが、よくある。
俳句の場合は字数が少ないので、そういう詠嘆を詠みこむということが難しいかも知れない。
皆さんは、どう思われるだろうか。

今の時期は、桜が満開か、あるいは散り始める所もあるかも知れないので、今月に入ってから、集中的に「桜」を詠んだ作品を載せることにしている。後いくつかは載せるつもりである。



紫大根の花が咲いていた /待たれることなく /咲き出すのだ・・・高田敏子
imgb8a5adc6zik8zjムラサキダイコン

──高田敏子の詩鑑賞──(3)──再掲載・初出2007/04/11 Doblog──

      雑草の花・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高田敏子

   紫大根の花が咲いていた
   半日の外出から帰った夕ぐれの
   家の戸口の傍らに

   いつの間に
   そこに芽をのばしていたのでしょう
   少しも気づかずにいて
   いま目にする花の紫

   昨年もそこに咲いていたと
   それさえ忘れていた私に
   花は静かな微笑の姿を見せている

   そう!
   こうした雑草は
   待たれることなく
   咲き出すのだ
   人目についても つかなくても
   花を咲かせて
   咲くことの出来た自分自身に
   静かな微笑をおくっているのだ
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この詩は高田敏子の詩集『こぶしの花』1981年花神社刊に載るもの。
高田敏子の詩は、難解な言葉は何もない。難しい暗喩もない、平易な表現である。それでいて、詩全体から漂う雰囲気に読者は虜になってしまう。
ただ、この詩の題「雑草の花」というのには引っかかるが、それは「雑草」というものはなく、どんな草にも、みんな名前があると思うからである。
事実、作者も詩本文の中では「紫大根」という名前を書いているのだから、題名もそれにしてもらいたかった。
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高田敏子の詩集には1954年の『雪花石膏』1955年の『人体聖堂』にはじまって20冊近くが刊行されている。
ここで、同じ詩集に載る短い詩を一つ紹介する。
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kobusi16.jpg

      こぶしの花・・・・・・・・・・・・・・・・・高田敏子

      あなたの好きな
      こぶしの花が咲きました
      ご健勝にお過ごしのご様子
      およろこびしています

   四行の文字
   四行のことば
   誰に見られても困らない
   一枚のはがき

   長い年月のむこうに咲く
   こぶしの花
   見上げる花枝の上に
   形よい雲のひとひらが浮いていた

   ありがとう
   文字にはしないことばを
   ひとこと送って
   文箱に納める
   こぶしの花

   ひとひらの雲はそのまま消えずにあって
   肩のあたりがふわっと
   あたためられている



ある日/ポロリと歯が抜けて /御飯の中におちた。 /てのひらに転がしながら・・・天野忠
天野
20101128_1403708桃の花

        桃の花・・・・・・・・・・・・・・・・・・・天野忠

   ある日
   ポロリと歯が抜けて
   御飯の中におちた。
   御飯の中からつまみ出し
   てのひらに転がしながら
    「長いことつれ添うてもろうて
    御苦労さん・・・・・」
   と頭を下げたら
   フフフ・・・・・と
   横で 古女房が笑った。
   眼尻にいっぱい黒い皺をよせて。

   桃の花が咲いた
   その朝。
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この詩は京都の誇る詩人・天野忠さんの詩である。
この詩は多くの詩集の中から夫婦を詠んだものを集めて『夫婦の肖像』1983年編集工房ノア刊に載るもので、
初出は1974年刊の「天野忠詩集」に収録されていたものである。
天野忠さんは先年亡くなったが、現代詩特有の難解な暗喩を使うこともなく、日常使うような平易な言葉を使って作詩した。
『私有地』という詩集で昭和56年度・第33回「読売文学賞」を受賞された。他の詩集には『掌の上の灰』『讃め歌抄』などがある。

この詩集の「帯」で富士正晴が、次のように書いている。
<詩を完結させる見事さは、そこに一つのアイマイさも、鈍重さも、ごまかしもなく、冴えかえったエスプリとでもいったものがあり、詩人はまことにつつましやかに見えるが、微塵ゆらがぬ賢者のおもむきがあり、しかも老いのユーモアと、いたずらの精神による寛容なサービスも忘れていない。
「夫婦の肖像」とあるのにたがわず、多くの詩に夫婦共演の趣があって、そのおもむきはこれを読む老男、老女のこころをなごませ、一時の解放感、ゆとりのある感動によって、自分が老人であることの滑稽さと同時に安定した気分を抱かせるのにちがいないようだ。>

少し長い引用になったが、天野さんは若い頃は、もう少し肌ざわりの違う詩を書いていたが、
老年になって洒脱な、人を食ったような飄逸な詩世界を表現するようになった。
この詩には、特別に解説を要するようなものは、何も要らない。そのまま、素直に鑑賞したい。
天野さんの詩を選ぶ時も、現代詩というものは、「季節」を詠うものではないので、苦労した。
京都では、医師であって、物書きであった松田道雄氏などとの交友があったようだ。

ここで、『私有地』から短い詩をひとつ紹介しておく。
天野②

         花・・・・・・・・・・・・・・・天野忠

    山桜のふとい枝が一本
    ごろりんと
    道ばたにころがっている。
    土をいっぱい載せたダンプカーのお尻に
    何べんとなくこすられ
    とうとう辛抱しきれずに
    道ばたに倒れてしまったのである。
    それでも春だから
    ぼろぼろの胴体にくっついた
    小枝の花は
    まだチラホラと咲いている。
    風が吹くと
    チラリホラリとこぼれる。

    それが非常に綺麗で困る。
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天野忠はビッグな詩人ではなかったので、本人の写真も記事もなかなか見つからない。この辺で終る。また見つかれば後から追加する。


雪柳ふぶくごとくに今や咲く・・・石田波郷
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      雪柳ふぶくごとくに今や咲く・・・・・・・・・・・・・・・石田波郷

雪柳は私の住む地方では桜と一緒に咲いていることが多いから、今の時期にぴったりだと思う。
四月頃、葉に先立って雪のように白い小さな花をつける。
ヤナギのように細くしなやかに伸びた枝に、小さな五弁花がひしめきあって、さながら雪が降り積もったように咲き満ちるのは美しい。
ユキヤナギとは言い得てぴったりの名である。
中国名を「噴雪花」というのも、そのような情景にもとづく命名であろう。
もともとは岩山のようなところに自生していたというが、今では鑑賞花木として庭や公園などに植えられる。
叢だつ茎や枝はヤナギのように垂れるが、花の後に萌え出る葉もヤナギに似ている。
ユキヤナギの名は、枝ぶりとともに、この葉に由来するという。
雨が降ると地面にはらはら落ち、花どきは短い。

以下、歳時記に載る句を引いて終る。

 雪柳一ト朝露を綴りけり・・・・・・・・松本たかし

 ゆふづつや風のはつかに雪柳・・・・・・・・石川桂郎

 札所にて白曼陀羅の雪やなぎ・・・・・・・・百合山羽公

 鉄橋のとどろきてやむ雪柳・・・・・・・・山口誓子

 こぼれねば花とはなれず雪やなぎ・・・・・・・・加藤楸邨

 雪柳花みちて影やはらかき・・・・・・・・沢木欣一

 雪やなぎ雪のかろさに咲き充てり・・・・・・・・上村占魚

 雪柳花のうしろを明るうす・・・・・・・・丘本風彦

 長身に似合ふ和服や雪やなぎ・・・・・・・・大島民郎



百枚の浴衣を干すも花の中・・・高野素十
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       百枚の浴衣を干すも花の中・・・・・・・・・・・・・・・・高野素十

素十は東大医学部在学中に、同学の水原秋桜子に誘われて俳句をはじめ、大正12年以降、虚子に師事して頭角を現した。
「東に秋素の二Sあり、西に青誓の二Sあり」と山口青邨が言ったように、いわゆる「ホトトギス」の四S(秋桜子、素十、青畝、誓子)時代を築いた虚子門の逸材である。
虚子の唱えた客観写生、花鳥諷詠を最も忠実に継承し、日常の事象を確かな切り口で鮮やかな句に仕立て上げている。
落花を詠んだ歌や句は多いが、この句は無駄のない明確さで、花吹雪の軽やかさ、華麗さを見事に捉えている。
花吹雪を詠もうとする人は、意識せざるを得ない句であろう。昭和28年刊『野花集』に載る。
以下、素十の句を少し引いてみる。

 春水や蛇籠(じゃかご)の目より源五郎

 ひざまづき蓬の中に摘みにけり

 迎火を女ばかりに焚きにけり

 秋風やくわらんと鳴りし幡(はた)の鈴

 弘法寺の坂下り来れば鶏合

 蟻地獄松風を聞くばかりなり

 方丈の大庇より春の蝶

 まつすぐの道に出でけり秋の暮

 揚羽蝶おいらん草にぶら下る

 生涯にまはり灯籠の句一つ

 翅わつててんとう虫の飛びいづる

 羅にほそぼそと身をつつみたる

 歩み来し人麦踏をはじめけり

 親馬は梳(くしけづ)らるる仔馬跳び

 くもの糸一すぢよぎる百合の前

 食べてゐる牛の口より蓼の花

 三日月の沈む弥彦の裏は海

 百姓の驚くほどの朝月夜

 雪明り一切経を蔵したる

 一行を書きそれを消し梅雨長し

 はじめての町はじめての春夕べ
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ネット上に載る記事を引いておく。

高野素十
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高野素十(たかの すじゅう、1893年(明治26年)3月3日 ~ 1976年(昭和51年)10月4日)は、日本の俳人、医学博士。山口誓子、阿波野青畝、水原秋桜子とともに名前の頭文字を取って『ホトトギス』の四Sと称された。本名は高野与巳(よしみ)。

生涯
1893年(明治26年)茨城県北相馬郡山王村(現・取手市神住)に生まれる。新潟県長岡市の長岡中学校(現・新潟県立長岡高等学校)、東京の第一高等学校を経て、東京帝国大学医学部に入学。法医学を学び血清化学教室に所属していた。同じ教室の先輩に秋桜子がおり、医学部教室毎の野球対抗戦では素十が投手をつとめ秋桜子が捕手というバッテリーの関係にあった。

1918年(大正7年)東京帝大を卒業。大学時代に秋桜子の手引きで俳句を始める。1923年(大正12年)『ホトトギス』に参加し、高浜虚子に師事する。血清学を学ぶためにドイツに留学。帰国後の1935年(昭和10年)新潟医科大学(現・新潟大学医学部)法医学教授に就任し、その後、学長となる。1953年(昭和28年)60歳で退官。同年、俳誌『芹』を創刊し主宰する。退官後は奈良県立医科大学法医学教授を1960年(昭和35年)まで勤める。

1976年(昭和51年)没、享年83。千葉県君津市の神野寺に葬られた。

素十の作風は虚子の唱えた「客観写生」に忠実であり、自然を徹底して客観的・即物的に描写し「純写生派」と呼ばれた。特に近景の描写に優れていた。秋桜子は同窓の後輩であった素十をライバル視し、お互いの師であった虚子は素十に対し肯定的であった。このため秋桜子は、素十の句を批判的に評していた。


作品集
初鴉(1947年)
雪片(1952年)
野花集(1953年)
素十全集(1970年)


木村安夜子歌集『言がたり』・・・木村草弥
木村_NEW

──新・読書ノート──

     木村安夜子歌集『言がたり』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・フジ456 j 舎2019/07/15刊・・・・・・・

この本は、いささか特異な形で上梓された。
第一に「クラウド・ファンディング」で一般から資金を募り、募金に応じた人に配本された。
私も案内を受けたが、いくらだしたらいいのか分からないので応じなかった。
今回は私の本を贈呈したお返しとして頂いた。
いま奥付を見ていて思ったのだが、発行者・木村義博とある。
もしや、これは作者のご主人の会社なのではないか。ご主人が六十五歳にして会社を起業されたということからの私の判断である。
間違っていたらゴメンなさい。
第二に本作りが凝られている。ドイツ装のように固い表紙で、かつ背は「和綴じ」で製本してある。
どちらも機械製本では無理で、手作業のものである。したがって製作費も高くつくだろう。
本づくりは一生に一度の思い出だから、ということも判るが、他人を巻き込んだ大層な出版には、私には違和感がある。
「自費出版」というのは、本来、「読んでもらう」ために出すのであって、そういう意味から私は賛成しかねる。
余計なお喋りになった。お詫びする。

作者は青森の人らしい。ご主人と二人で故郷を離れ、東京ほかを経て、今は大阪に落ち着かれた。
二人の子供を育てあげ、ケアマネージャーという難関の国家資格も得られて、今がある。
この本には主宰・光本恵子氏の4ページにわたる詳細な「序」文があり、そこに一代記から詳しく書かれていて、私がいまさら書き加えることはないが、少し書いてみる。
作者は宮崎信義の「新短歌」誌に所属十年、それ以後「未来山脈」ということである。
大阪では、井口文子さんの指導する「七花会」で歌を詠んで来られた。それらの経緯は「あとがき」に詳しい。
私も宮崎信義や井口文子さんとは、いささか縁があるし、書きたい私事もあるが今は遠慮しておく。その井口さんも、つい最近亡くなられた。 合掌。

作者は「定型」から短歌の世界に入られたらしい。
この本の初めの部分に「氾濫待つこころ」として18首の作品が載っている。
   ■わが内を少女のように躍らせて未知なる土地に銅鑼鳴らしゆく
   ■抱かれたくて飛び込みゆけば生駒山はるむらさきに霞んでばかり
   ■三十二年目のはかなごとケーキの前に君と子がいる
   ■遠景は宮崎信義 憤怒の時は金子きみ バイブルのようにまためくる歌集
これらの歌が、いつ作られたかは分からないが、「口語」の使い方が見事である。
あとは「1981~1999年 揺さぶってみるこころ」
    「2000~2007年 ずんずん景色が変わる」
    「2008~2013年 透明な声」
    「2014年から 覚悟が楽しい」
など、「見出し語」の付け方が独特で、作者の特異な才能をかいま見ることが出来る。

   ■死ぬなら五月がいいと言った寺山修司 澄み透る空見ている
   ■たらふく食べた胃を抱えながらソマリアの惨劇うつすテレビ視ている
   ■大阪から青森へ三十七才の手紙を投函赤いポストの向こうに故里
   ■点と線が上手く描けない 子供のはざまで仁王立ちになる
   ■二〇〇〇年のスタートに駆けだす 介護保険法に札束ぶらさがる
   ■もうすぐ四十八歳 何してるのと問う日の組合活動
   ■私の解雇は不成立 一九九九年八月六日裁判勝訴
   ■医師より夫の告知を受ける いきなり暗い小部屋
   ■無声の人となり筆談の夫 ことばの森を分け入るような
作者は、物事をはっきり言う人らしい。「介護保険」「組合活動」「夫の発病」など激動の様に息を呑む。

   ■二十歳の娘 十五歳の息子 ずんずん景色が変わるおいてけぼりの
   ■老後はビートルズと吉田拓郎がいいね 友と愉快なおしゃべり
   ■二〇〇〇年の言葉 介護保険 リストラ あなたの再起
   ■青虫二匹を水責めにした日 殺人事件の報道が賑やかだ
   ■A4の看板が軒下にゆれる『燕の夫婦子育て奮闘中』
   ■今日も六時から六時の勤務時間 長かったのか短かったのか
   ■PLの花火にバンザイする三歳の自閉児 おおきくなあれ
   ■生まれたばかりの児を見に行く日 宮崎信義遺歌集『いのち』が届く
   ■きっぱりと井口文子「一行詩です」その背に宮崎先生が見えた
   ■来年の約束をして朝顔のタネがころがる 手のひらにひんやり
   ■はやぶさみたいな白い雲が秋空に浮く あそこに憲法九条を描こう
   ■認知症の人を怒るな 難聴の人に舌うちするな 貴方もその一人です
   ■声を失くした夫と十五年 次は髄膜炎と病名もらう
   ■さみどりの葉を喰べつくす幼虫の澄んだ瞳 初夏の風ふく
   ■脳こうそくに倒れた集中治療室の井口文子 いつもの微笑みと短歌ひとすじ
   ■「俺はロックンロール」悪い奴じゃなかった 樹木希林の澄んだ瞳

雑駁な鑑賞なしの抽出になったが、お許しいただきたい。何分、何十年ぶりの本の批評は出来ない。
批評は光本恵子の「序」にお任せする。
ご恵贈有難うございました。ご夫婦ともども、ご自愛を。           (完)




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