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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(5月)月次掲示板
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東日本大震災から九年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
rgn1908260007-p1AI無人機で茶摘み実証実験
↑ AI 無人機で茶摘み実証実験 鹿児島

新緑の五月になりました。
新人は五月病にならないようにストレスに気をつけましょう。 旧人はのんびりと。

 手に摘みしやはらかき葉よ軒先に新茶一服いただいてゐる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・内藤明
 あけぼののいろにもみづる楓の時間しづかに熟れてゐるなり・・・・・・・・・・・・・・・・春日真木子
 亡きひとが作りし薔薇の乾燥花崩るるときのおとのかそけさ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池光
 にんげんに尾があったなら性愛はもっとさびしい 風を梳く草・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大森静佳
 きみからの手紙はいつも遠浅の海が展けてゆくようだ 夏・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小島なお
 行く春のひかりとなりて 柿稚葉。標なき終焉へ 皆、ひた向かふ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 成瀬有
 黒糖のようなる鬱がひろがりてからまる髪をほどいておりぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 野口あや子
 なまぐさく馬酔木花の匂ふころだらう生きてゐた犬は公園を駆く・・・・・・・・・・・・・・ 河野美砂子
 みづからが飛べざる高さを空と呼び夕陽のさきへ鳥もゆくのか・・・・・・・・・・・・・・・・・・光森裕樹
 うぶすなは選べざりけり水漬きつつ新芽を噴ける河川敷の木木・・・・・・・・・・・・・・・・・萩岡良博
 稲妻の夜に撃たれしわが腕は若木となりてみどりしたたる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 喜多弘樹
 生者死者いづれとも遠くへだたりてひとりの酒に動悸してをり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・真中朋久
 テレビ局の最底辺の最前線視聴者センター勤務愉しき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤原龍一郎
 詩の世界音としなりて鳴り出づる 言葉の沖に耳を澄ませば・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・櫟原 聰
 神猿に護摩餅いくつ炙らせてそのひび割れをいかに占う・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 武藤ゆかり
 ひとが死にあきたる穴に嵌めらるるひとつのピース くちをつぐみな・・・・・・・・・・・・ 久我田鶴子
 薄暮薄命このうつろさは一箱に封じて異国へペリカン便・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・阪森郁代
 急傾斜地崩壊危険蒲公英黄・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 高島茂
 掌中に乳房あるごと春雷す・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤田湘子
 死ぬときは箸置くやうに草の花・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小川軽舟
 すでに女は裸になつてゐた「つづく」・・・・・・・・・・・・・・・加藤静夫
 入れているふしぎの海のナディア像・・・・・・・・・・・・・・・川合大祐
 行春や涙をつまむ指のうら・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 八田木枯
 中指を般若の口に入れてみる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・森山文切
 あをあをと山きらきらと鮎の川・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 高田正子
 壁の染みあるいは逆立ちの蜥蜴・・・・・・・・・・・・・・・・・・芳賀博子
 雉の鳴く頃にはいくさ頭抱く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・赤野四羽
 頑なに木瘤は朽ちず昭和の日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・安西 篤
 誰か来て鏡割りゆく八十八夜・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・塩野谷仁
 万緑のいつも二階に谷がある・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・河西志帆
 青梅の地に転りて青淋し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・折勝家鴨
 ウイルスの見えなき脅威蜃楼・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・津野利行
 ハーモニカにあまたの窓や若葉風・・・・・・・・・・・・・・・・・金子 敦
 マネキンの眼はうつろ黄砂降る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・市堀玉宗
 過失美し神父の独逸訛さへ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤原月彦
 人に友猫に猫友ところてん・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・杉山久子
 泣かぬ石泣いてる石と積み上げる・・・・・・・・・・・・・・・・・月波与生
 初夏の口笛で呼ぶ言葉たち・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・生駒大祐
 かしはもち天気予報は雷雨とも・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 上田信治
 黄昏の夢
コカコーラ飲みほしぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・大中博篤
 眠りへの入口しれず春逝きぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池康生
 晩春や猫のかたちに猫の影・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤御影
 細胞の隅々にまで新茶汲む・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・栗山麻衣
 脈打つ度にゆれる♂♀(野花)よ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大迫香雪
 麦の秋海の向かうも麦の秋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・青島玄武
 陸の鳥海の鳥遭うころもがへ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・薮内小鈴
 テニス部はいつも朗らか風五月・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・杉原祐之
 朝寝して躯に裏と表あり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高勢祥子
 墜落の蝶に真白き昼ありぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・安田中彦
 存分に肥えて機を待つ牡丹かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・江口明暗
 にもつは靴だんまりのなか虻になる・・・・・・・・・・・・・・・・・青本柚紀
 牡丹やどかと置かれしランドセル・・・・・・・・・・・・・・・・・ハードエッジ
 より苦きクレソン添へる銀の皿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三嶋ちとせ
 夏みかん小さな切手に小さい人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・丸田洋海
 粉を吹いて祖父は微睡む花林檎・・・・・・・・・・・・・・・・・・・吉川千早
 雨は何色海の鳥居赤を濃くし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・渥美ふみ
 いただいたさやえんどうとりあえず塩茹で・・・・・・・・・・・・伊藤角子
 イタリアンパセリが胸毛見せている・・・・・・・・・・・・・・・・・岩根彰子
 それぞれの青を雲雀と風と牛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木牛後


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著書──
 歌集 『茶の四季』(角川書店刊)
 歌集 『嘉木』 (角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 歌集 『嬬恋』(角川書店刊)
 歌集 『昭和』(角川書店刊) 
 歌集 『無冠の馬』(KADOKAWA刊)
 歌集 『信天翁』(澪標刊) 
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 詩集 『修学院幻視』(澪標刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
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宗鑑の雨の軸かけ五月尽・・・後藤比奈夫
1218693474山崎宗鑑


     宗鑑の雨の軸かけ五月尽・・・・・・・・・・・・・・・後藤比奈夫

松尾芭蕉は、それまで流行していた「連歌」よりも、もっと短縮した「俳句」と言う形で、あらゆる事を五感で感じる儘を簡素簡潔に表現したので、
「俳句の祖」と崇められているが、その芭蕉よりも180年ほど遡って、「山崎宗鑑」と言う、これまた大小を捨てて、世捨て人となり、連歌を好み、
よって、連歌師の祖とまで言われる様になった人である。
もっとも、お断りしておくが「俳句」と言ったのは明治になってから正岡子規が唱えたもので、芭蕉自身は「発句」と言ったので、念のため。
掲出したのは彼の自刻による像と伝来するもの。
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山崎宗鑑(やまざきそうかん)について、ネット上から転載しておく。

 1465~1553(寛正6~天文22)室町時代末期の連歌師・俳人。近江佐々木氏の後裔。足利義尚に仕えた武士。本名を志那弥三郎範重ともいう。
山城国の大山崎惣中とのつながりで,洒脱な連歌・俳諧をつくったのでこの名あり。
飯尾宗祇や荒木田守武らとも親交があり,かつ柴屋軒宗長とともに山城薪の酬恩庵で俳諧の連歌を競ったりしている。
そして新文学としてのジャンルに定着した。
晩年の1540年ごろの編で『犬筑波集』と称する「俳諧連歌抄」には著名な専門連歌師の俳諧も収録されていたが,
素朴で生命力をもつ生々とした作品は,山崎宗鑑らの大山崎惣中の戦国に生きる自治的惣中の背景から即興性をもつ濶達な作風をつくっている。
座結合の文学のはしりといっていい。
讃岐国観音寺の興昌寺一夜庵で没する。旅に生きた,そして宗鑑流の書風の祖ともいわれる。
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別の記事には、こう書かれている。

山崎宗鑑句碑と霊泉連歌講跡

山崎宗鑑は室町時代の連歌師で、近江国志那(現在の草津市)の出身です。
もとは九代将軍義尚に仕える武士でしたが、その主人の突然の死に無情を感じ身分を捨てて風狂の道に入り、この大山崎にきたのが30歳のころでした。
それ以後、この地で人生の大半を過ごすことになりました。
 若い頃から連歌になじみ、反骨精神と滑稽を身につけていた宗鑑は、八幡宮社頭での月例連歌講と、
ここ舟橋川畔の観音堂にあった霊泉連歌講の二つのリーダーとなり、当時の大山崎の神人・商人の俗なエネルギーに後押しされて、
雅の道の連歌を離れ、俗の世界の俳諧を推奨するようになりました。その結果の選集が『犬筑波集』です。

 天王山登り口にある句碑の

    〈うずききてねぶとに鳴や郭公〉

という句は、「卯月が来て声太く鳴いているのはホトトギスですよ」という表の意味の他に
「根太(=腫瘍)が疼いてきて泣いているホトトギスさんよ」という裏の意味をこめた俳諧で、
親しかった伊勢の神官の荒木田守武が根太にかかっていたのを揶揄したものと言われています。
 この句碑の側の解説立札にはもう一つ宗鑑の句〈風寒し破れ障子の神無月〉が載っていますが、これは歴史資料館に展示されています。
この句も、破れ障子=紙がない=神無しと掛けた言葉遊びです。
 
所在地 大山崎町大山崎上ノ田1 JR山崎駅東の踏切北側
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掲出の句は、洛西の「光明寺」で詠まれた、とだけ判っているが、上の記事に引いた「大山崎」とは近いので、この寺に彼の「雨」の軸があるのかも知れない。
作者の後藤比奈夫は大阪の人だから、この寺の「軸」を見た、ということは可能性として大変高いと言えよう。
「五月尽」とは、五月末日のことである。

作者の後藤比奈夫は大阪の人で、父親は後藤夜半といって、親子ともに高名な俳人であった。
本名日奈夫。大正6年大阪生まれ。神戸一中・一高を経て昭和16年阪大理学部物理学科卒。
昭和27年父夜半につき俳句入門、「ホトトギス」「玉藻」にも学ぶ。同29年より「諷詠」編集兼発行人。
同36年「ホトトギス」同人。同51年父の没後「諷詠」主宰。昭和62年より俳人協会副会長など歴任。

2006年度の第40回蛇笏賞(角川文化振興財団主催)の受賞者である。彼の句集「めんない千鳥」(ふらんす堂)に与えられた。賞金は100万円。

作者の句の中で、私の好きな句を挙げる。

 齢(よはひ)にも艶といふもの寒椿・・・・・・・・・・・・・後藤比奈夫

 首ながききりんの上の春の空

 蛞蝓(なめくじ)といふ字どこやら動き出す

 十景の一景も見ず牡丹見る

 数珠玉をさはにつなぎてまだ軽し

 日本語の優しすぎたるゆすらうめ

 サングラス掛けて妻にも行くところ

 雲は行き懸大根はとどまれり

 花了へてひとしほ一人静かな

 光らねば冬の芒になり切れず

 真弓の実その他心を開くもの

 睡蓮の水に二時の日三時の日

 瀧の上に空の蒼さの蒐り来

 鶴の来るために大空あけて待つ

 東山回して鉾を回しけり

 年玉を妻に包まうかと思ふ

 白魚汲みたくさんの目を汲みにけり

 矢のごとくビヤガーテンへ昇降機

 涅槃図に赤が使はれすぎてゐし


生き堪へて身に沁むばかり藍浴衣・・・橋本多佳子
aza藍浴衣

        生き堪へて身に沁むばかり藍浴衣・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

今日5月29日は橋本多佳子の忌日である。
生まれは東京の本郷で、明治32年に杉田久女に会い、はじめて俳句を作った。
のち山口誓子に師事し「天狼」同人だった。昭和38年大阪で没する。64歳だった。
彼女の句は命に触れたものを的確な構成によって詠いあげた、情熱的で抒情性のある豊麗の句境だった。

「浴衣」と書いて「ゆかた」と訓(よ)ませるのは、この着物が本来は「入浴」の時に着たことに由来する。
風呂は「蒸し風呂」が初めだったので「湯帷子」を着て入った。
近世以降、浴槽に湯を入れて裸で入浴するようになり、そのため出てから汗のあるまま単衣を浴衣として着るようになった。
それが外出用にも着られるようになったというのである。
だから人によっては「浴衣」はあくまでも家の中のものである、と主張する人も居るらしい。

この頃では色彩もとりどりの浴衣が出てきたが、はじめは「藍」一色で染められた。
梅雨の前から気候が蒸し暑くなると、さらさらした肌さわりの浴衣が愛用される。
この頃では関西が発祥のものである「甚平」というものが、これは男性専用であるが着用されるようになってきた。
また、本来は修行僧の作業衣であった「作務衣(さむえ)」なるものを着用する人も増えてきた。

掲出の橋本多佳子の句は「藍」一色の浴衣を詠んでいるが、この句は夫に先立たれて生きてきた「女」としての情念を感じさせる名句である。

俳句にもたくさん詠まれて来たので、それを引いて終わる。

 爽やかな汗の上着る浴衣かな・・・・・・・・野村喜舟

 わきあけのいつほころびし浴衣かな・・・・・・・・久保田万太郎

 雨の日は色濃き浴衣子に着せる・・・・・・・・福島小蕾

 張りとほす女の意地や藍ゆかた・・・・・・・・杉田久女

 夕日あかあか浴衣に身透き日本人・・・・・・・・中村草田男

 かいま見し浴衣童の今逝くと・・・・・・・・中村汀女

 浴衣あたらしく夜の川漕ぎくだる・・・・・・・・大野林火

 湯上りの浴衣を着つつ夫に答ふ・・・・・・・・星野立子

 浴衣着て竹屋に竹の青さ見ゆ・・・・・・・・飯田龍太

 ゆるやかに着ても浴衣の折目かな・・・・・・・・大槻紀奴夫

 浴衣着て素肌もつとも目覚めけり・・・・・・・・古賀まり子

 浴衣裁つ紺が匂ひて夜深まる・・・・・・・・矢島寿子

 浴衣着て水得し花のごとくなり・・・・・・・・中田葉月女



山口謡司 『〈ひらがな〉の誕生』 『文豪の凄い語彙力』・・・木村草弥
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 ↑ 「ひらがなの誕生」裏表紙

──新・読書ノート──

      山口謡司 『〈ひらがな〉の誕生』・・・・・・・・・・・・木村草弥
                   ・・・・・KADOKAWA文庫2016/05/14刊・・・・・・・・

まとめて買った本を出版年月順に紹介してきたが、今日は最後の二冊を採り上げる。
この本の要約として本の裏表紙を掲げておいた。
日本人が大陸渡来の「漢字」に触れて、それを記述語として使い始めたが、中国から借りた漢字を用いた「万葉かな」で言葉を記した。
また漢字を読むために「カタカナ」を編み出した。
しかし日本人の心を書き表すためには新しい文字が必要となってきた。それが「ひらがな」である。
掲出したカバー裏に、第一章~第四章のタイトルが読み取れるだろう。

第四章の最後のところに「日本語の1000年」という項目がある。そこには、こう書かれている。

<言葉は時代を反映する。 万葉仮名が使われていた時代には、中国を中心とした漢字文化圏の中で成長していこうとする逞しい精神が『万葉集』の歌の中に色濃く映る。
 しかし、唐という強大な求心力を持った王朝が滅ぶと同時に、繊細で女性的な世界が出現する。
 漢字では書き表すことが出来ない、それこそが〈ひらがな〉が支えた時代であった。
 ・・・・・『万葉集』の時代にあっては、柿本人麻呂、山上億良、大伴家持などは、漢字を駆使して、漢詩では表せない日本の心を歌い上げようとした。
 そして、万葉の時代の最後の幕引きをしたのが、菅原道真だった。
・・・・・道真が亡くなり、漢字漢学の世界が薄れていくことによって、和歌の世界の紀貫之などの男性歌人に続いて、小野小町などの女性歌人の時代に移っていく。
 紫式部の『源氏物語』、清少納言の『枕草子』などの登場も女性作家によるものだった。
・・・・・道真が生きていた頃から、それから1000年後のことというと、1900年前後、明治時代に当たる。日本語にとっても、その変化は、現代日本語の基礎となったときであった。・・・・・>

極めて不十分ながら、この本の紹介とする。

       
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 ↑ 『文豪の凄い語彙力』 裏表紙

       『文豪の凄い語彙力』・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・さくら舎刊2018/04/07初版2018/09/08九刷・・・・・・

いよいよ最後の本である。
上にも書いたように、この本は良く売れたもので、私が買ったのは九刷である。半年ほどの間に増刷されたのである。
この本は、今までのように専門的なことを、びっしり詰め込んだものではなく、「語彙」と「作家」ごとに四ベージに短くまとめて記述されている。
だから、とても読みやすい。「文献学」らしくなく、取っつきやすい、のである。
図版にも出したが、一例として「正岡子規」の項をみてみよう。

   薫風くんぷう  薫風とつづけて風の名となす  正岡子規

ただ夏の風というくらいの意に用いるものなれば「薫風」とつづけて一種の風の名となすにしかず。
けだし蕪村の炯眼は早くこれに注意したるものなるべし。    正岡子規『俳人蕪村』

これらの文章に続いて、二ページ目には「爽やかな初夏の風」として、白居易の『長恨歌』や菅原道真の「東風こち」のエピソードなどが書かれている。
三ページ目には「季節をあらわす風の言葉いろいろ」が紹介され、四ページ目には正岡子規の略歴が載っているという具合である。  
ここに、さりげなく与謝蕪村のことが書かれているが、中世から近世にかけて、和歌というなら「古今和歌集」、俳人と言えば「松尾芭蕉」が称揚された。
そういう風潮を打破して、歌ならば「万葉集」俳人ならば「蕪村」を採り上げたのが正岡子規の功績なのである。
因みに「俳句」と名付けたのも子規である。子規は伝来したばかりのベースボールに熱中し「野球」と名付けたのも彼である。

こんな風に63項目の「語彙」と「作家」が載っている。もう一つ「漱石」を採り上げてみよう。

   出立 しゅったつ   出立の日   夏目漱石

出立の日には朝から来て、色々世話をやいた。
来る途中小間物屋で買って来た歯磨と楊子と手拭をズックの革鞄に入れて呉れた。
                                       夏目漱石『坊ちゃん』

読み方次第でさまざまな意味に
「しゅったつ」 「いでたち」などの読みの違いなどに触れて、明治二十年、文部省は、尋常小学校の「読本」に「しゅつたつ」という読み方を定めた、という。

極めて雑駁な不十分の紹介ながら、このり辺で終りにする。
後日、何か書き加えることがあるかも知れない。



葉桜の翳る座敷に滴りの思ひをこらし利茶をふふむ・・・木村草弥
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   葉桜の翳(かげ)る座敷に滴りの
     思ひをこらし利茶(ききちゃ)をふふむ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


一昨日、新茶の審査のことを書いたので、その関連として、今日は「利茶」のことを書いてみる。
掲出の歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店刊)に載る歌である。
Web上のHPに収録した自選50首にも入っているので、アクセスしてもらえば、見ていただける。
「ふふむ」は「含む」の古い形の言葉である。

「利茶」とは、茶の審査と同じ意味だが、「ききちゃ」という言葉は古くから茶業界では使われて来たものである。
動詞にすると「茶を利(き)く」と言う。「利茶」の適当な写真がないので古い抹茶碗を出しておく。

茶の購入─仕入れに当っては神経を使うことは、一昨日書いた。
普通、茶の審査には事務所の一角に「拝見場」というものがあり、ここは幅3、4メートルぐらいで、前後左右みな黒色に塗った場所で、採光は天窓式になった天上のガラス窓からの一方的なものになっている。
審査対象の茶その他を載せる広い台も真っ黒で、見やすいように、腰をまっすぐに伸ばしてみる適当な高さになっている。
これは審査対象の茶を見誤らないように、余計な乱反射光を避けるための知恵である。
昨日も言ったが、こういうやり方は、イギリスの紅茶審査の「拝見場」と同じ構造になっているので、日本が近代になって、かの地の進んだやり方を取り入れたものと思われる。ガスこんろがあり、大薬缶に、しゅんしゅんと沸騰する湯をたぎらせ、精妙なグラム数を計れる秤で茶を計り、審査対象の茶10点20点を横に並べて、磁器の真っ白い審査茶碗に茶を入れ、熱湯を注いで、すぐに小さな網杓子で湯にひたる茶の葉を嗅ぎ、茶碗の中の「水色」を見、匙で掬って滲出液を口に含んで「味」をみる。熱湯で滲出したものだから、熱い。啜るようにして、バケツに吐き出す。何でも「比較」しなければ品質の優劣などは判らないから、必ず、複数の茶を審査する。この場合に「格見本」と言って、審査の基準になる茶が必要である。その「格見本」の茶と比較して、この茶は渋いとか、水色が悪いとか、製造段階での欠点(茶の芽の保管が悪くて「むれ香」がするとか、燃料の重油や薪の煙などが混入する「煙臭」がするとか)も、この「嗅ぐ」ことで瞬時に判定する。茶の製造時期は季語でいう「青嵐」の時で、風のために煙突からの逆流で作業場に煙が紛れ込むことがあるのである。茶は湿気や匂いを極めて吸収しやすい難しい商品である。
茶農家あるいは茶仲買業者が持ち込む見本を、こうしてシーズンには毎日、審査する。
会社によって、仕入れの審査日を限定しておくこともある。
この「仕入れ」関係の仕事を身につけるのに、最低10年はかかる。
売る方は原価がわかっていれば、一定の「口銭」を上乗せするだけだから、そんなに難しくないがーー。

掲出の歌の場面だが、通常、座敷で茶の審査をすることはないが、父が体調を崩して隠居所で長く静養していたので、その座敷で朝食までに鉄瓶一杯の湯を空っぽにしてしまうほど、茶好きだった。
父のように茶商としてたたき上げてきた人にとっては拝見場であろうと、座敷であろうと、茶の利茶を誤ることはなかった。
そんなことで、この歌の情景描写が生まれたと考えてもらっても、よい。情景的に、何となく絵になっているではないか。
同じ『茶の四季』から「野点」(のだて)と題する歌を引いておく。

      野点・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  芝点(しばだて)の茶事の華やぎ思ひをり梅咲き初むる如月の丘

  毛氈に揃ふ双膝(もろひざ)肉づきて目に眩しかり春の野点は

  野遊びの緋の毛氈にかいま見し脛(はぎ)の白さよ無明のうつつ

  香に立ちて黒楽の碗に満ちてゐる蒼き茶の彩(いろ)わが腑を洗へ




山口謡司 『てんてん』 『日本語を作った男 上田万年とその時代』・・・木村草弥
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 ↑ 「てんてん」裏表紙

──新・読書ノート──

    山口謡司 『てんてん』 ・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・角川選書2012/01/25刊・・・・・・・

今回、山口謡司関連の本として四冊の本を古本で買い求めた。いずれも新本同様だが安価なものである。
私は読書の習慣として、何か読みたいと思ったら、集中して読んで解明したい主義である。
こういうやり方をすると身につきやすいと思うからである。
しかし学問的、体系的なことは、素人の人間にはなかなか難しい。
ましてや「日本語」の成り立ちについてということになると、表記する文字の無かった上古から始まるからである。
もう二十年近く前から「日本語倶楽部」として、何とか迫ろうと努力してきた人間として「蟷螂の斧」であるかも知れないし、周囲をぐるぐる回るだけかも知れないが、お許しを。

先ず、「大東文化学院」というのは、どういう学校なのかということである。Wikipediaには詳しく載っている。  ↓

大東文化大学は、大正期における日本の政治・経済・社会・文化の近代化の過程で見られた西洋偏重の傾向を是正し、漢学を中心とする東洋文化の振興を図ろうとする木下成太郎による「漢学振興運動」を発端として、1923年(大正12年)の帝国議会衆議院本会議において可決した「漢学振興ニ関スル建議案」に基づき設立された大東文化学院にはじまる。
漢学(特に儒教)を中心として東洋の文化を教授・研究することを通じて、その振興を図ると共に儒教に基づく道義の確立を期し、更に東洋の文化を基盤として西洋の文化を摂取吸収し、東西文化を融合して「新しい文化の創造」を目指す、と定められている。1985年(昭和60年)に制定された。
そして、2008年(平成20年)9月には、創立百周年に向けた基本計画「中期経営計画(CROSSING2023)」を策定。この中で、これからの21世紀における時代のあるべき姿を提言し、建学の精神を「多文化共生を目指す新しい価値の不断の創造」と現代的に読み替え、掲げている。
初代総長は平沼騏一郎であった。

私の言いたいのは、そういう大学だからこそ、山口謡司が専門的に取り組んでいる「書誌学」「文献学」の研究は処を得ていると思うのである。
彼の勤務先の大東文化大学文学部中国文学科を検索すると、学生たちと談笑する山口の写真が使われている。人気がある彼だから宣伝効果もあるのであろう。

この本は単純にというか、乱暴に言うと「てんてん」すなわち「濁点」が、いつから文字の上で表記されるようになったか、を解明したものである。
この本の「おわりに」で
<言語の歴史は、人間の歴史であると教えてくださったのは我が師・亀井孝である。そして、日本語における濁音ならびに濁点について、大胆な発想と大きな言語学的な視野で臨んだのも亀井師であった。
師の論文「かなはなぜ濁音専用の字体をもたなかったのか──をめぐってかたる」が書かれてからすでに四十年がたつ。
二十五年前、この論文に出会い、助言をいただく機会を得てから、幾度となく読み返した。以来、日本語における濁点の意味と「てんてん」という記号の不思議さが脳裏から離れることはなかった>書かれている。

亀井孝 ← とは、こういう人である。アクセスされたてい。
「共編著」の項目に「日本語の歴史 全7巻別巻」があるが、私はこれを買って読んだことがあるが、専門的で難しい本だった。
このWikipediaの記事に「弟子」として山口の名前が載っているのに留意されよ。

万年_NEW

      『日本語を作った男 上田万年とその時代』・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・集英社インターナショナル2016/02/29刊・・・・・・・・・

この本が採り上げる上田万年 ← というのは、こういう人である。

この本は、いかにも書誌学者、文献学者らしい索引や出典に詳しいもので、厚さ五センチもある辞典のようなものである。
この本のカバー折り返し裏に、こう書かれている。

<明治維新を迎え「江戸」が「東京」となった後も、それを「とうきやう」とか「とうけい」と様々に呼ぶ人がいた。
 明治にはまだ「日本語」はなかったのである。
 「日本語」(標準語)を作ることこそが国(国家という意識)を作ることである──
 近代言語学を初めて日本に導入すると同時に、標準語の制定や仮名遣いの統一などを通じて「近代日本語」の成立にきわめて大きな役割を果たした国語学者・上田万年とその時代を描く。 >

この本の要約として極めて的確な文章である。 
因みに、この本で第29回和辻哲郎文化賞を受賞している。この賞は学術的な著作に贈られるもので、ふさわしいものと言えよう。

井上ひさしのシナリオに『國語元年』(こくごがんねん)というのがある。 ↓
1985年の6月8日から7月6日までNHK総合テレビの「ドラマ人間模様」枠で放送されたテレビドラマ。シナリオは中公文庫から『國語元年』として刊行されている。
1986年にこまつ座制作で上演された演劇。紀伊國屋ホールにて初演。戯曲は新潮文庫から『國語元年』として刊行されている。
いずれも井上ひさしによる脚本・戯曲で、明治初期にお国の土台、軍隊言葉に混乱がないようにと「全国統一話し言葉」作成を命じられたとある文部省官吏の苦闘を描いた作品である。

これなどは、上田万年の苦闘の「現実版」と言えるだろうか。

この本は、先に書いたように極めて文献的で難しいものだから、この本の章名を書き抜いておこう。

  第一章  明治初期の日本語事情
  第二章  万年の同世代人と教育制度
  第三章  日本語をどう書くか
  第四章  万年、学びのとき
  第五章  本を、あまねく全国へ
  第六章  言語が国を作る
  第七章  落語と言文一致
  第八章  日本語改良への第一歩
  第九章  国語会議
  第十章  文人たちの大論争
  第十一章 言文一致への道
  第十二章 教科書国定の困難
  第十三章 徴兵と日本語
  第十四章 緑雨の死と漱石の新しい文学
  第十五章 万年万歳 万年消沈
  第十六章 唱歌の誕生
  第十七章 万年のその後

先に書いた井上ひさしのシナリオのことは、この本の第一章と第十三章に引かれている。
とにかく著者の引用は「こまめ」であり、遺漏がない。
ネットを検索すると某氏が、この本には間違いが数十か所もあるから撤収せよ、とか「和辻哲郎賞」を辞退せよ、とか書かれているが、仮に間違いがあるとしても、再販などのときに訂正されるのが普通である。
ここには新村出の『広辞苑』が引き合いに出されているが、編集方針に異論の出るのは当たり前で、編集部はいちいち採り上げることはないのである。
私の友人の国語教師も異論を申しあげたと言っていたが、必要なものは後の版で修正されるのが普通である。
私の同級生で国語学者の玉村文郎は、いま「新村出記念財団」の代表理事を務めている。ここは広辞苑などから入る著作権料などを管理している。
その資金で公募で研究者に補助をしている。玉村君の前任は堀井令以知だった。堀井は私の住む村の出身である。それらのことは前にブログに書いた。
堀井の前任は金田一春彦だった。

周囲をぐるぐる回るばかりで本文に触れることは部分的にしか出来なかった。お許しを。
緻密な、ぶ厚い本を前にして、半ば茫然という心境である。


揉みあがる新茶の温み掌にとれば溢るる想ひ思慕のごとしも・・・木村草弥
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   揉みあがる新茶の温み掌(て)にとれば
     溢るる想ひ思慕のごとしも・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
半生を茶とともに過ごしてきた者として、今やたけなわの「新茶」シーズンを黙過することは出来ないので、今日は新茶のことを採り上げる。
写真①は製茶機から揉みあがって来たばかりの新茶である。
これは単なる植物の新芽というのではなく、飲料にする「茶」の元であるから、ここまで来るのに肥料をやったり害虫防除のために苦心したりと一年間の苦労が、
この新芽に凝縮しているのである。だから、掲出した歌のような「想い」になるわけである。
私の方の茶園は「玉露」「碾茶(抹茶原料の茶)」という高級な茶製造に特化してやってきたので、茶のうちで大半を占める「煎茶」製造とは違っているが、
製茶の過程そのものは一緒である。

watch-4茶の芽

写真②の上の方に黒い帯状のものが見えるが、これは「覆下園」といって高級茶を製造するために日光を遮断するものであり、
昔は「葦簾」の上に「菰」を敷き、稲藁をばら撒いていたが、今では化学繊維のクレモナという布を敷くように変っている。
この「日光遮断」というのは経験的な知恵として昔からやられてきたことなのだが、近年の研究で、こうすることによって茶の旨みである「テアニン」というアミノ酸系の化合物の含有が上がることが判ってきたのである。
こういう労働集約的な茶栽培は手間がかかる上に「玉露」というようなものは、世の中がせちがらくなって飲まれなくなり、今や茶の消費の主流は「煎茶」それも中級品以下のものに集中してしまった。その上にペットボトルに入った「緑茶ドリンク」の時代になってしまった。

watch-3茶園

写真③は大規模な煎茶園である。茶園の中に電柱のように立っているのは晩霜を防ぐための「防霜扇」というものである。
これは新茶時期に襲う晩霜を防ぐもので、その原理は冷気は地上の低いところにたまるが、地上5メートルくらいのところの空気は暖かいので、
その空気を地表に吹き付けて霜を防ごう、というものである。
詳しくはWikipedia─防霜ファンを参照されたい。

この頃では茶園栽培も機械化によって人手を省き、栽培面積を広げてコストを下げようとする規模拡大が進んでいる。
写真④のように茶園を跨ぐような「乗用型摘採機」が取り入れられてきた。

kabuse11乗用型摘採機

写真⑤に示すように、もっと大型の乗用型摘採機も導入されてきた。

p1_001_05乗用摘採機

世界的に茶というと「紅茶」のことだが、ロシアも紅茶を生産するが、ここはソ連の時代から茶栽培も大型の摘採機械を使ってきた。
(注・ロシア本体は寒帯なので茶の木は育たない。茶園のあるのはコーカサスと言われる地域─今のジョージアなどである。)
そのような趨勢が、日本でも緑茶生産に取り入れられてきたと言える。
いわゆる「トラクター」と称するものの一種である。
このくらいの機械になると乗用車などよりも遥かに高価なものだが、農作物の中では茶の価格は比較的に安定しているので、十分にペイすると思われる。

茶専門店にとって、先に書いたペットボトルの茶の普及が一番のガンなのである。
このペットボトルなどの「緑茶ドリンク」の流通は、茶専門店とは完全に別の販売ルートになっており、
自販機やスーパー、コンビニにメーカーから直接に流れるので、これが普及すればするほど茶専門店は苦境に陥る。
「緑茶ドリンク」が出回りはじめて、もう二十数年になるが、私は同じ歌集『嘉木』の中で「緑茶ドリンク」の題で詠んでおいたのでWebのHPでご覧いただける。

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       緑茶ドリンク・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  「おーい、お茶」缶ドリンクがごろりんと自販機の穴から出づる便利さ

  温めても冷たくしてもおいしおす緑茶ドリンクは春夏秋冬

  茶流彩々・爽健美茶・十六茶お茶専門店はあがつたりどす

  ビタミンC添加したれば酸化防止できると知りて茶ドリンク奔流

  ビタミンC添加の清涼感ありて若者は好む緑茶ドリンク

  勝敗は自動販売機の数で決まるルートセールスの車疾駆す

  流通の様変りして「茶葉」ならぬ「液体の茶」に苦しめられつ


のような歌を詠んでおいた。
この趨勢は年とともに強まり、今や緑茶ドリンクは日本茶流通の半分近くを占めるに至っている。
原料は、いずれも同じ茶葉であり、生産段階でドリンクパッカーが原料を多量に買い付けしようとするので、原料の奪い合いになり、ここでも専門店側は不利である。
茶業界にも、いろいろ悩みはあるのである。


やまぐちヨウジ『妻はパリジェンヌ』・・・木村草弥
パリジェンヌ_NEW

──新・読書ノート──

       やまぐちヨウジ『妻はパリジェンヌ』・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・文芸春秋社2005/06/25刊・・・・・・・・

先日来、山口謡司先生の本を二冊、再掲載したりして来た。
先生がFBに居られることを知り、サイトを読んでみた。とても面白いと思ったので「友だち」申請をしてみた。
すぐに承認の返信が来て、私が先生の本を十数年前に採り上げたことなどを知らせた。
なにぶん先生の「友だち」というのは2700余の人が登録されていて、私も、そういう「その他大勢」の一人であることは承知している。
Wikipediaの記事を見て面白そうな本を数冊アマゾンの古本で買い求めた。
その中の一冊、この本を先ず採り上げる。

先生のFBのタイトルバックに「i OG i US」と書いてある。何だろうと気になっていたが、この疑問は、この本を開いて、すぐ解決した。
⒈画廊での出会い のところで先生が今の夫人ラファエロと出会うことになったいきさつのところである。
彼は絵描きでもある。パリ七区のボンマルシェというデパートの裏手にある画廊での話。
そこに並べられていた彼の絵を気に入ったラファエロが話しかけたきたことが、愛の発端。
その絵のサインが「i OG i US」─YOJI をラテン語で書くと、こうなる、ということ。愛称「ラフィー」と呼ぶようになる。
こういうストーリーを語りながら、どうしてイギリスのケンブリッジ大学の共同研究員になったのか、どうしてパリに来たのか、などがさりげなく書かれている。
彼の専門は「書誌学」「文献学」だが、これは林望の専門で、その林の知遇を得てロンドン、バリに居るのだった。
人生には、こういう他人との「出会い」が大きな意味を持つ。
私も一頃二十数年前に林望の本『イギリスはおいしい』 『イギリスは愉快だ』などの珠玉のエッセイの本を読んだ。
その林望の弟子が彼なのであった。
ラフィーは二十二歳で弁護士になったという頭のいい人。
そんな人が三年の同棲生活の後、日本の大学での職が確保されて帰国することになったときに、弁護士の職を棄てて彼について来日することになる。
これこそ「愛」の力の齎すものでなくて何だろう。
そして子供を作る決心をして妊娠するが七か月で早産して860グラムしかない息子ガブリエル─愛称ガビーを帝王切開で産み、数か月ICUで過ごす。
いろいろあって、何とかガビーは順調に育った。
この本が出たのは2005年だから、それから十五年経っているガピーも成人に達しているのではないか。
ガビーが果たして日本の高等教育を受けているのか、それとも帰国してフランスで学んでいるのか。
それらについてのプライバシーは判らないが、山口謡司の凄い著作のスピードなどを勘案すると、前妻と子供への養育費の必要があったが故ではないのか、など考えてしまう。
この本は気軽なエッセイだが、後で採り上げることになる研究書では極めて詳しい、いかにも書誌学者らしい索引などがびつしりと書かれている。

いま彼のFBのサイトでは「諺」「言い回し」などがYouTubeを駆使して講義が連日語られているが、これらは遠からず編集し直して一冊の本になるだろう。

そんな彼の顔つきなどの日本人離れした容姿を見ていると、私がもう七十年も前にラテン語の授業を受けた野上素一先生の容姿とそっくりだと思う。
今でもそうだと思うが、私の居た大学では西欧語を専攻すると「ラテン語」か「古代ギリシア語」が必修だった。
私はラテン語を選択し野上先生から一年間教わった。
先生は野上豊一郎と野上弥生子の長男で、ローマ大学に留学し、そこで出会ったイタリア人の夫人を日本に連れて帰られた。
後にイタリア文学科の主任教授を務められた。私たちは「イタ文」と呼んでいた。同級だった小松左京の出た学科である。
奥さんが向こうの人だと食生活の関係か、肌艶や容姿が西洋人ぽくなるのか。
そんな、とりとめもないことを考えた。 以上、余談である。  とても面白い一冊で、あっという間に読み切ってしまった。



しぼり出すみどりつめたき新茶かな・・・鈴鹿野風呂
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        しぼり出すみどりつめたき新茶かな・・・・・・・・・・・・・・・・鈴鹿野風呂

新茶の季節である。
もっとも私は引退した身であるから今の茶況などについては疎いが少し一般的なことを書いてみよう。
茶業にたずさわるものにとって、今が茶の仕入れ時期として一番いそがしく、かつ、その年の豊作、不作、製品の出来栄え、などを勘案し、仕入れ金額に頭を悩ます時である。
「利は元にあり」というのが商売の鉄則であり、品質の悪い茶や高値掴みをすると、その一年、利益どころか、損をすることになる。

茶の審査というのは、茶の葉っぱを熱湯で滲出して、真っ白い磁器の審査茶碗と称する器で行う。
いま適当な「審査茶碗」の写真がないのでお許しを乞う。
審査に使う一件あたりの茶の量も厳密に計る。
これはイギリスなどでの「紅茶」の審査でも同じ方法を採る。
現在の緑茶の審査方法も、あるいは、このイギリス式の紅茶審査法を近代になって見習ったものかも知れない。
熱湯と言っても、文字通り沸騰した湯を使う。こうしないと、欠点のある茶を見分けることが出来ない。
このようにして、毎日、多くの茶を審査するので、全部飲み込むわけではないが、胃を悪くしてアロエの葉の摺り汁などの厄介になることもある。

掲出の句は「みどりつめたき」と言っているのは、新茶の青い色を表現したもので、今どき夏に流行る「水出し」のことを言ったものではない。
この「みどりつめたき」という表現が作者の発見であって、これで、この句が生きた。
鈴鹿野風呂は京都の俳人で、この人の息のかかった俳人は、この辺りには多い。
ネット上から紹介記事を引いておく。 ↓
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鈴鹿野風呂(すずかのぶろ)は明治20(1867)4月5日、京都市左京区田中大路八に生まれる。本名登。
生家は吉田神社の神官を継承している家柄。幼い頃に母親を亡くしたため、京都を離れ中学は斐太中学に学ぶ。後京都一中に戻り卒業、鹿児島の七高、京都大学の国文科に入学。
大正5年、京都大学国文科を卒業後、鹿児島の川内中学校に勤務。後に京都の武道専門学校、西山専門学校で教鞭をとる。戦後は京都文科専門学校長を勤めた。
俳句は中学時代に小説に興味を持ち「ホトトギス」を購入。大学時代に古今集を卒論とし、また俳諧を藤井乙男(紫影)に学んだ事より句作。鹿児島の川内中学校に勤務時代、同僚の佐藤放也と「ホトトギス」に投句。高浜虚子に師事し、大正9年「散紅葉かさりこそりと枝を伝うふ」で初入選。当時、無味乾燥的な瑣末主義に陥っていたホトトギスの中にあって、叙情的で清新な野風呂の作風は、当時若くして名を成していた日野草城と並んで「草城・野風呂」時代と謳われた。
武道専門学校教授時代に日野草城、五十嵐播水らと「京大三高俳句会」を発足。
大正9年11月、日野草城、岩田紫雲郎、田中王城らとともに、俳誌「京鹿子」を創刊した。
「京鹿子」は「京大三高俳句会」を母体とし、後に山口誓子、五十嵐播水らも加わって、関西ホトトギスの中心をなしていく。
後に「京鹿子」に対し池内たけしが提唱し、水原秋桜子、高野素十、山口誓子、富安風生、山口青邨らの東大出身者を中心とした「東大俳句会」が発足し、この二つの流れが、ホトトギスの二大系統となっていく。
やがて「京鹿子」は草城、播水が京都を離れたことより、野風呂の主宰となり関西の「ホトトギス」の中軸となって発展していく。
野風呂は多作で知られ「連射放」と呼ばれた。それによってやがて平淡な事実諷詠の句が野風呂の特徴となる。
昭和46年3月10日没。

  内裏雛冠を正しまゐらする
  ついと来てついとかかりぬ小鳥網
  水洟や一念写す古俳諧
  鯨割く尼も遊女も見てゐたり
  秋海棠嵐のあとの花盛り

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いま手元に鈴鹿野風呂の作品が他に見当たらないので、歳時記に載る新茶の句をひいておく。

 生きて居るしるしに新茶おくるとか・・・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 雷おこしなつかし新茶澄みてあり・・・・・・・・・・・・・土方花酔

 夜も更けて新茶ありしをおもひいづ・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 新茶汲むや終りの雫汲みわけて・・・・・・・・・・・・・杉田久女

 新茶淹れ父はおはしきその遠さ・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 天竜の切りたつ岸の新茶どき・・・・・・・・・・・・・・皆吉爽雨

 無事にまさるよろこびはなき新茶かな・・・・・・・・・・・川上梨屋

 筒ふれば古茶さんさんと応へけり・・・・・・・・・・・・赤松蕙子

 新茶汲む母と一生を異にして・・・・・・・・・・・・・野沢節子

 新茶濃し山河のみどりあざやかに・・・・・・・・・・・・橋本鶏二

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新茶が出回ると、前年の茶は「古茶」となるわけで「陳(ひね)茶」という。「陳腐」の陳の意味である。
むしろ古茶を好む人もある。ここに挙げた終りから三つ目の句は、それを詠んでいる。 
こんな古茶の句もある。

 女夫(めをと)仲いつしか淡し古茶いるる・・・・・・・・・・・・松本たかし

 古茶好む農俳人ら来たりけり・・・・・・・・・・・・麦草



みづからを思ひいださむ朝涼しかたつむり暗き緑に泳ぐ・・・山中智恵子
403otomおとめまいまい

   みづからを思ひいださむ朝涼し
        かたつむり暗き緑に泳ぐ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山中智恵子


いま二行に分けて書いてみたが、もちろん原歌は、ひと連なりの歌であるが、二行に分けて書いてみると、その感じが一層強くするのが判った。
この歌の上の句と下の句は、まるで連句の付け合いのような呼吸をもって結びついている。
事実、作者は一時期、連句、連歌に凝っていた時期がある。
この歌の両者は微妙なずれ、あるいは疎遠さを保って結びついているので、却って、結びつきが新鮮なのである。
この歌は字句を追って解釈してみても、それだけでは理解したことにはならないだろう。
叙述の飛躍そのものの中に詩美があるからである。
みずからを思い出すという表現は、それだけで充分瞑想的な世界を暗示するので、下の句が一層なまなましい生命を感じさせる。
大正14年名古屋市生まれの、独自の歌境を持つ、もと前衛歌人であったが平成18年3月9日に亡くなられた。
この歌は昭和38年刊『紡錘』所載。

以下、山中智恵子の歌を少し引く。
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道の辺に人はささめき立春の朝目しづかに炎えやすくゐる

わが戦後花眼を隔てみるときのいかにおぼろに痛めるものか

ああ船首 人は美し霜月のすばるすまろう夜半めぐるらう

さやさやと竹の葉の鳴る星肆(くら)にきみいまさねば誰に告げむか

淡き酒ふくみてあれば夕夕(ゆあべゆふべ)の沐浴ありときみしらざらむ

この世にぞ駅てふありてひとふたりあひにしものをみずかありなむ

未然より未亡にいたるかなしみの骨にひびきてひとはなきかな

秋はざくろの割れる音して神の棲む遊星といふ地球いとしき

こととへば秋の日は濃きことばにてわれより若きガルシア・マルケス

こもりくの名張小波多の宇流布志弥(うるぶしね) 黒尉ひとり出でて舞ふとぞ

ああ愛弟(いろせ)鶺鴒のなくきりぎしに水をゆあみていくよ経ぬらむ

ながらへて詩歌の終みむことのなにぞさびしき夕茜鳥

意思よりも遠く歩める筆墨のあそびを思ひめざめがたしも

きみとわれいかなる雲の末ならむ夢の切口春吹きとぢよ

その前夜組みし活字を弾丸とせし革命よわが日本になきか

くれなゐの火を焚く男ありにける怪士(あやかし)の顔ふりむけよいざ

ポケットに<魅惑>(シャルム)秋の夕風よ高原に棲む白きくちなは



洗礼名マリアなる墓多ければ燭ともす聖母の花アマリリス・・・木村草弥
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 ↑ イタリアの墓地

    洗礼名マリアなる墓多ければ
         燭ともす聖母の花アマリリス・・・・・・・・・・・・木村草弥


私は 、第四歌集『嬬恋』(角川書店刊)で、このような歌を載せた。
「花」という小見出しのところに収録したが、ヨーロッパの墓地を尋ねた時の印象を、このような歌にしてみたのである。

アマリリスは初夏の花である。
5月後半になって、ようやく私の家のプランターのアマリリスも一斉に開花し始めた。
大柄な華やかな花で、花壇が一気に賑やかになる。
アマリリスは中米、南米原産のヒガンバナ科の球根植物だという。
わが国へは嘉永年間に渡来し、その頃はジャガタラズイセンと呼ばれたという。
花の時期は短くて、一年の後の季節は葉を茂らせ、球根を太らせるためにある。
強いもので球根はどんどん子球根が増えて始末に終えないほどである。
うちの球根も、あちこちに貰われて行ったり、菜園の隅に定植されたりして繁茂している。

以下、アマリリスの句を少し抜き出してみる。

 燭さはに聖母の花のアマリリス・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 病室の隅の未明やアマリリス・・・・・・・・・・・・石田波郷

 ウエートレス昼間はねむしアマリリス・・・・・・・・・・・・日野草城

 温室ぬくし女王の如きアマリリス・・・・・・・・・・・・杉田久女

 アマリリス跣の童女はだしの音・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

 太陽に烏が棲めりアマリリス・・・・・・・・・・・・福田蓼汀

 アマリリス過去が静かにつみかさなる・・・・・・・・・・・・横山白虹

 原爆の地に直立のアマリリス・・・・・・・・・・・・横山白虹

 アマリリス泣き出す声の節つけて・・・・・・・・・・・・山本詩翠

 アマリリス貧しい話もう止そう・・・・・・・・・・・・川島南穂

 アマリリス眠りを知らずただ真紅・・・・・・・・・・・・堀口星眼

 アマリリス心の窓を一つ開け・・・・・・・・・・・・倉田紘文

 あまりりす妬みごころは男にも・・・・・・・・・・・・樋笠 文

 アマリリス描く老画家の師はマチス・・・・・・・・・・・・皆吉司

 アマリリス耶蘇名マリアの墓多き・・・・・・・・・・・・古賀まり子


万緑の中や吾子の歯生えそむる・・・中村草田男
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   万緑の中や吾子(わこ)の歯生えそむる・・・・・・・・・・・・・・中村草田男

「万緑」(ばんりょく)は夏の見渡すかぎりの緑を言う。
元来は季語ではなかった。
草田男は、中国の古詩、王安石の詩の一節 <万緑叢中紅一点> 
から「万緑」の語を得て、これを季語として用い、現代俳句の中に定着させた点で、記念碑的な作品である。
一面の緑の中で、生え初めた我子の赤ん坊の歯の白さが健気に自己を主張している。
生まれ出るもの、育ちゆくものへの讃歌が「万緑」の語に託されている。

満目の緑と小さな白い歯、この対比が鮮やかで、俳句的に生きたので、たちまち俳句界に共感を呼ぶ季語となった。
しかし、季語として流行することは、また安易な決まり文句に堕する危険をも含んでいて、この万緑の句も例外ではない。
昭和14年刊『火の鳥』に載る。
ちなみに、高浜虚子は死ぬまで、この万緑を季語としては認めなかった、というのも有名な話である。

   葉桜の中の無数の空さわぐ・・・・・・・・・・・・・・篠原梵

初夏、花の去った後の葉桜が、風にゆれつつ透かして見せる様々な形の空の断片を「無数の空」と表現した。
それを「さわぐ」という動態でとらえたところに、この句の発見がある。
掲出の写真を取り込みながら、草田男の句に添えて、この句を載せたいという気になった。
写真のイメージが、この句にぴったりだと思ったからである。
誰でもが見る、ありふれた光景を的確な言葉で新鮮にとらえ直すという、詩作の基本的な作業を行なって成功した句である。
篠原は明治43年愛媛県生まれ。昭和50年没。「中央公論」編集長を経て、役員を務めた。
昭和6年臼田亜浪に師事して以来、斬新な感覚を持って句誌「石楠」に新風を起こした。俳句の論客としても活躍。
--------------------------------------------------------------------
ここで「万緑」「新緑」の句を少し引く。

 万緑やわが掌に釘の痕もなし・・・・・・・・・・・・山口誓子

 万緑やおどろきやすき仔鹿ゐて・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

 万緑や血の色奔る家兎の耳・・・・・・・・・・・・河合凱夫

 万緑に蒼ざめてをる鏡かな・・・・・・・・・・・・上野泰

 万緑や死は一弾を以て足る・・・・・・・・・・・・上田五千石

 動くもの皆緑なり風わたる・・・・・・・・・・・・五百木瓢亭

 恐ろしき緑の中に入りて染まらん・・・・・・・・・・・・星野立子

 水筒の茶がのど通る深みどり・・・・・・・・・・・・辻田克巳

 まぶたみどりに乳吸ふ力満ち眠る・・・・・・・・・・・・沖田佐久子

 新緑やうつくしかりしひとの老い・・・・・・・・・・・・・日野草城

 新緑に紛れず杉の林立す・・・・・・・・・・・・山口波津子

 新緑の山径をゆく死の報せ・・・・・・・・・・・・飯田龍太



鼻の穴涼しく睡る女かな・・・日野草城
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   鼻の穴涼しく睡る女かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日野草城

草城は中学5年(今の高二)の時から「ホトトギス」に投句し、21歳で巻頭掲載をかちとった程の早熟の才だったという。
この句も初期作品だが、対象把握の即物的かつ感覚的間合いの良さは抜群である。夏の昼寝であろう。
女の健康な寝息まで聞こえて来そうな午後の静けさ。
一見、簡単に詠んでいるようだが、こういう端的に爽やかな印象の句は意外なほど少ない。昭和7年刊『青芝』所収。

掲出の絵はピカソの「夢─赤い椅子に眠る女」である。

夏は暑くて体力を消耗するので、午後のしばらくを昼寝して元気を回復させる。 
三尺寝という言葉があるが、これは日影が三尺移るぐらいの時間を眠るので、こういう。
植木屋や大工などの職人は、いたるところで場所をみつけて昼寝する。これも生活の知恵である。
ラテン・ヨーロッパや南方ではシエスタと称して店も役所も閉める習慣がある。

以下、昼寝または午睡の句を挙げてみよう。
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 ひやひやと壁をふまへて昼寝哉・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

 我生の今日の昼寝も一大事・・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 うつぶせにねるくせつきし昼寝かな・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

 稍固き昼寝枕や逗留す・・・・・・・・・・・・松本たかし

 一片舟昼寝の足裏涛のむた・・・・・・・・・・・・中村草田男

 浮浪児昼寝す「なんでもいいやい知らねいやい」・・・・・・・・・・・・中村草田男

 昼寝覚凹凸おなじ顔洗う・・・・・・・・・・・・西東三鬼

 父の齢しみじみ高き昼寝かな・・・・・・・・・・・・阿波野青畝

 昼寝覚うつしみの空あをあをと・・・・・・・・・・・・川端茅舎

 昼寝ざめ剃刀研ぎの通りけり・・・・・・・・・・・・西島麦南

 よき昼寝なりし毛布をかけありし・・・・・・・・・・・・堺梅子

 やまひなきひとの昼寝を羨しめり・・・・・・・・・・・・山口波津子

 光陰の流るる音に昼寝覚・・・・・・・・・・・・野見山朱鳥

 さみしさの昼寝の腕の置きどころ・・・・・・・・・・・・上村占魚

 麦の青樹の青赫と昼寝さむ・・・・・・・・・・・・野沢節子

 午睡たのしげ乳ぽつちりと釦はづし・・・・・・・・・・・・中山純子

 いづくより手足しびれて昼寝覚・・・・・・・・・・・・森澄雄



石楠花に渓流音をなせりけり・・・清崎敏郎
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    石楠花(しゃくなげ)に渓流音をなせりけり・・・・・・・・・・・・・・・清崎敏郎

石楠花シャクナゲはツツジ科の常緑低木だが、別にシャクナゲ科を立てて分類する学者も居る。
高山性の花木で、日本では亜高山帯と周辺に自生する。
はじめに書いておくと「石楠花」の字は漢名を誤用したもので、中国でいう石楠花は全く別の植物である。
シャクナゲは葉が厚く、革質で光沢があり、花とあいまって美しい。淡紅色を主として白花や黄花もあり、日本列島にはおおよそ10種類あるという。
シャクナゲはヒマラヤ地方、中国、北アメリカ、ヨーロッパにも分布するが、ヨーロッパでは早くから品種改良に取り組み、日本へも西洋シャクナゲの名で来ている。
一般家庭のシャクナゲはほとんどが西洋シャクナゲだという。

050520_001シャクナゲ②

050520_003シャクナゲ③

家庭で鑑賞するシャクナゲもよいが、写真②③で見るように広大なシャクナゲ園や山の自然環境の中で群生するシャクナゲを見るのは、また格別の風情があるものである。
今では全国各地に競って「石楠花園」が開設されている。

以下、歳時記に載るシャクナゲの句を引いて終わる。

 石楠花に手を触れしめず霧通ふ・・・・・・・・臼田亜浪

 石楠花や山深く来て雲の雨・・・・・・・・吉田冬葉

 白石楠花夜になり夜の白さなる・・・・・・・・加藤知世子

 しやくなげは天台ぼたん雲に咲く・・・・・・・・百合山羽公

 石楠花の摘花浮かべし庫裏の水・・・・・・・・右城暮石

 石楠花の花一巒気(らんき)一巒気・・・・・・・・後藤比奈夫

 石楠花の一花残りて籠堂・・・・・・・・村越化石

 石楠花や鳥語瞭(あきら)か人語密(ひそ)か・・・・・・・・滝春一

 石楠花や水櫛あてて髪しなふ・・・・・・・・野沢節子

 石楠花の咲く寂けさに女人講・・・・・・・・角川春樹

 石楠花や那智大神に子は抱かれ・・・・・・・・斎藤夏風

 石楠花にかくれ二の滝三の滝・・・・・・・・宮下翠舟

 薬湯をたてて石楠花ざかりかな・・・・・・・・吉本伊智朗
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「シャクナゲ」については、このWikipediaに詳しい。参照されたし。



古田鏡三歌集『せせらぎ』・・・木村草弥
せせらぎ_NEW

──新・読書ノート──

       古田鏡三歌集『せせらぎ』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・ながらみ書房2020/05/30刊・・・・・・・・・

この本が恵贈されてきた。「未来山脈」の会員だが、私には未知の人である。
巻末に載る略歴を引いておく。

古田鏡三
1947年 長野県木曽郡大桑村 生まれ
1962年 石川島汎用機械木曽事業所に就職
20歳代より自由詩、作詞を始める。各種の講座、同人誌に入会
1992年 「未来山脈」入会。光本恵子に師事

この略歴の、すぐ後に
<詩、短歌の魔力にとりつかれ、70歳代の今、口語自由律の世界をゆっくり歩いています。> と書いてある。
この本はソフトカバーの「帯」もない清楚な本づくりであり、著者の思いが籠っているようで好感が持てる。
この本には巻頭に「序文」として光本恵子が6ページにわたって詳しく書いていて、本の要約が尽くされているので、私が付け加えることは何もないのだが、少し書いてみる。

この本は一ページに四首の歌を組んであり、ページ数も176ページあるので相当な歌の数だろう。
巻末には若い頃に没頭した「歌謡」詩が16篇収録されている。この頃、古田氏は「作詞家」になりたかったのだろう。
いずれも整った佳い作詞である。いずれも三番まである長いものなので、ここに引くのは見送る。

光本恵子は序文でも「木曽馬のような頑固で優しい男」と書く。
私には未知の人だが、「木曽の工場で働き、木曽の田畑を耕し、牛を飼って育て、それ木曽牛として売って」生きてきたのだろう。
古田氏と光本とのふれあいは、光本がラジオ信越放送の「口語短歌入門」をやっていた頃で1990年代のことだという。
古田は、その番組の常連だった、という。それから三十年。長い付き合いである。

光本の序文に続いて、木曽御嶽山の雪を被ったカラー写真と
   「きそ」の語源を 尋ね歩く 瀬音にまざり 此こだよ 石ころの声
の歌を刷ったページがある。これも作者のこだわりだろうか。 佳い歌である。

巻頭の一連は「夕焼とんび」という名前で
   ■母ちゃんは米を肩に おらは提灯を手に水車小屋へ沢づたいの夜道
   ■川向こうの山を軽便が行く 材木をいっぱい背にしてひとり静かに
   ■子牛と競り市 手綱にひびく最後のひと声に牛がうなずく
   
これらの歌が載っている。作者の「原風景」なのであろう。

   ■メロンは妻へ花は仏壇へ温泉帰りの買物 今日は母の日
   ■君は我れを惑わす古い頭を押しのけて「未来山脈」がやってくる
   ■夕飯を食べつつ将来のショウの字を家族に聞く これが幸せ
   ■わが母を看取り妻は子を背負い同じ鍬をもつ

ここで、作者の「癖」について指摘しておきたい。
「此」 「我」などの送り仮名のことである。
アンダーラインを入れておいた。
これらは、もちろん間違いではない。ただ「此処」 「我」でいい筈である。それが嫌ならカナ書きでもいいのである。

   ■どうなるのか我が家 安政三年が平成の大修理に入った
   ■ぽつぽつと生きざまを語る職人の手は休むことを知らない
   ■土台が有って屋根がある 人と木材で生き返ろうとする
   ■首都圏に積雪のニュースが今日も 一メートルの雪つづきの町

作者の故郷も、わが家も古いらしい。それらの哀歓を淡々と歌にしていて秀逸である。

   ■剥製の第三春山号に寄りそう飼い主の姿開田高原の時は流れて
   ■調教の女性に従い木曽馬は不運の歴史を背負い今日も歩む
   ■「きんこ」とは繭玉のこと絹糸から布になる 蚕さんがつくるのだ
   ■稲が藁になり縄になる手を加えれば草鞋になる さあ歩こう

作者は故郷を詠う。木曽馬を詠う。信州で盛んだった養蚕のことを偲ぶ。よいことである。

「歌謡詩をうたう」という項目があって、短歌を始める前に熱中したことを詠う。
   ■体験が声に唄の味に染みついたそんな歌い手様に逢いたい
   ■短歌ならば作詞ならばと始めたけれど詞は没でレコード化ならず
   ■聞いて書いて読んで詩と詞 歌に唄 さわやかな風だ

無数の作詞をめざす人たちが居て、作詞家の世界も果てしない。ありきたりの才能では、芽が出ない。
そんな挫折が、歌の原動力になるのである。木曽人がんばれ。

「旅へ」という旅行の歌がつづく一連がある。
   ■倉敷を歩く瀬戸大橋わたる島もある 古さ新しさ味わいつつ
   ■小豆島の桟橋で独りたたずむ女 船から降りてきた男と去った
   ■セントレアを後に野間灯台へちょうど引潮 岩場は緑の海草だ
   ■あでやかに素朴なおどり黒の帯 由来は歴史の上に立って

旅の哀歓が、さりげなく詠われている。

   ■のろまで下手でそっぽ向かれそれでも歌謡詩風に生きてみようか
   ■人のこころを自然のながれを文字にして口語短歌と語らう夕べ
   ■一枚の白い紙に何を描く 絵か文字かそれとも白のまま

思いは果てしなく、さまざまに巡る。

   ■土が草が叫ぶ とにかく働けや機械化して尚はたらくのだ
   ■耕耘機に飛び出た蛙まだ眠ってたのか さあ眼を覚ませ百姓だ
   ■御嶽海のポスター壁に貼り今日も野良仕事の行き帰りに立ちどまる
   ■助手席にいつも地図を乗せ少年の日の夢をさがしつづける

「農」に生きる男の一生の「あれこれ」である。   
   
この本の巻末にある歌
   ■今日もせせらぎが聞こえてくる 誰かがささやいている

この歌から、この本の題名が採られている。
簡潔であって、かつ清楚な佳い歌である。
作者の歌は冗長なところがなく、よく推敲されている。
「未来山脈」の最近号に載る歌も、よく整っている。

巻末に近い「桧の木」という項目の歌
   ■人間ドックの精密検査四通 やはりそうか覚悟して空を
   ■おれの誕生日と日記に書く あと三年とは書けなかった
   ■仕事に酒に世の風によくぞ耐えぬいた 胃袋さん

これらの歌が意味するものは何なのか、何の説明もないので分からないが、私の思い過ごしであることを祈っておく。

とりとめのない雑駁な鑑賞に終始したことをお詫びする。
これからも佳い歌を詠っていただくようお祈りして抄出を終わる。
ご恵贈有難うございました。           (完)




ががんぼの五体揃ひてゐし朝・・・平山邦子
gaganbo2ガガンボ

     ががんぼの五体揃ひてゐし朝・・・・・・・・・・・・・・・平山邦子

「ががんぼ」は極めて弱い虫で、ちょっと触れるだけで、すぐ足がもげてしまう。
この句は、そういう様子を巧く句にまとめている。

私の歌にも、こんなものがある。

    ががんぼを栞となせる農日記閉ざして妻は菜園に出づ・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
ガガンボというのは「蚊とんぼ」という場合もあるが、蚊の姥(うば)からなまったもので、「かがんぼ」が正しいとも言われている。
蚊を大きくしたような虫で、細くて長い足を持ち、その足もすぐにもげる。人には害は与えない。

この歌に詠っているのは、まだ妻が元気で菜園に出ていた頃の作品で、農日記と称する手帳をつけていて、たまたま、
そのページにガガンボが止まったまま閉じたので、栞のようにガガンボが挟まれている、という情景である。
妻は都会育ちの人で農作業に関しては全くの素人であるが、農村育ちの私の母などから教えられて、農作業を覚えていった。
素人だから、何ごともメモしておく習慣がつき、ひところは狭いながら菜園を作っていた。
同じ歌集に

   母よりも姑(はは)と暮らすが長しと言ひ妻は庭べの山椒をもぐ

という歌が載っている。
このようにして農作業に従事してゆくうちに、ものを「育てる」「収穫する」という喜びを体験して、だんだん農作業が面白くなってきて、
ナスやキュウリ、トマトなどを育ててきたのである。
いっぱし農作業に精通しているかのように、私に手伝いの指示を出したりするようになった。
農作業についての妻を詠ったものは、まだたくさんあるので、またの機会に書きたい。
それらのことも妻が死んだ今となっては、懐かしい思い出である。
花や植物の名前などは、私は妻に教えられたものが多いのである。

ガガンボを詠んだ句を引いて終わる。

 ががんぼの脚の一つが悲しけれ・・・・・・・・高浜虚子

 ががんぼのかなしかなしと夜の障子・・・・・・・・本田あふひ

 蚊とんぼの必死に交む一夜きり・・・・・・・・山口誓子

 ががんぼのタップダンスの足折れて・・・・・・・・京極杞陽

 ががんぼに熱の手をのべ埒もなし・・・・・・・・石橋秀野

 ががんぼの悲しき踊り始まりぬ・・・・・・・・伊藤いうし

 ががんぼにいつもぶつかる壁ありけり・・・・・・・・安住敦

 ががんぼの音のなかなる信濃かな・・・・・・・・飯田龍太

 蚊の姥の竹生島から来りしか・・・・・・・・星野麦丘人

 ががんぼの一肢かんがへ壁叩く・・・・・・・・矢野渚男

 ががんぼの脚を乱して外の闇へ・・・・・・・・星野恒彦

 ががんぼを恐るる夜あり婚約す・・・・・・・・正木ゆう子

 ががんぼの溺るるごとく飛びにけり・・・・・・・・棚山波郎

 



山口謡司 『 ん 日本語最後の謎に挑む』・・・木村草弥
「ん」

──新・読書ノート──初出2010/03/09──(再掲載)

      山口謡司 『 ん 日本語最後の謎に挑む』・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・・・・・・・・・新潮新書2010/02/20刊・・・・・・・・・・・・・・

つい昨日、『日本語の奇跡』<アイウエオ>と<いろは>の発明 という本を採り上げた。
この本は同じ著者による、その本の続編である。
ついでに、この本の「帯」裏の写真を出しておく。ここには、この本の項目が出ているからである。

「ん」裏

この本については、新潮社「波」三月号に著者自身による紹介記事が載っているので全文を貼り付けておく。

   「ん」をめぐるミステリー・・・・・・・・山口謠司

 トンボ鉛筆といえば、「Tombow」というローマ字を思い浮かべる方が多いだろう。しかし、虫の名前なら「Tonbo」と書かれるべきではないだろうか。
また東京メトロの駅名「日本橋」には、「Nihombashi」と書かれている。これも、なぜ「日本」の「n」が「m」と書かれているのだろうか。
このように「ん」と書かれる日本語が、ローマ字では「m」と書かれている例は他にも多数みられる。これは本書執筆へのひとつの契機になった。
 日本語表記の歴史を精査してみると、我が国には平安時代初期まで「あいうえお」から始まる平仮名や片仮名はなく、すべて漢字を利用した万葉仮名で書かれていた。
万葉仮名で書かれた奈良時代の文献『古事記』『日本書紀』『万葉集』などには、実はただの一文字も「ん」という字は使われていないのである。
 また、平安時代初期に著されたとされる『伊勢物語』には「掾」が「えに」と書かれており、『土佐日記』にも本来「あらざんなり」と書くところを「あらざなり」と「ん」を抜いて書いてある。
鎌倉初期の鴨長明『無名抄』には、「和歌を書くときには、〈ン〉と撥ねる音は、書かないのが決まりである」と記されているのである。
また、江戸時代でも、井原西鶴の『好色一代男』には「ふんどし」を「ふどし」と書いてある。
「ん」は無くてもよい日本語だったのだろうか?
 江戸時代の国学者、本居宣長は、この点について次のように述べている。「我が国の五十音図は、整然と縦横に並ぶものとして作られているが、この『ン』という音は、いずれにも当てはまらない。これは、日本語の音としては認められないものである。だからこそ古代の日本語には『ン』という音がないのである」(『漢字三音考』より拙訳)
 しかし、「書かない」のではなく「書けない」というのが平安時代の実状だった。
なぜなら平仮名の「ん」、片仮名の「ン」、また、それを書き表すためのもととなる漢字も存在しなかったからである。そして、その影響は江戸時代まで続いていた。
 江戸時代には、「しりとり」遊びもなかったし、「んー」と返したり、「うん!」と相槌を打つ言葉もなかった。現代の日本語からは、かつて「ん(ン)」がなかったなどとは考えられないだろう。
 では、この「ん」を、いつ、誰が創り出したのか。また、どうして現代日本語の五十音図の最後に取り入れられたのか。
 日本語の脇役的な存在「ん」を主役にして、とくとその舞台裏までお見せしたい一心で、四年間をかけ、私は本書を書いた。
前著『日本語の奇跡―〈アイウエオ〉と〈いろは〉の発明―』(新潮新書)と共にお読み頂ければ、「あいうえお」から「ん」までの音と文字の歴史、隠された機能と壮大な思想から日本文化の奥深さを知って頂けると思う。
 日本語は実に面白く、ミステリーに満ちている。  (やまぐち・ようじ 大東文化大学文学部准教授。)

的確な要約と言えるので、↑ 先ずこれを読んでもらいたい。

ところで、この「帯」の冒頭に書かれているローマ字の「n」「m」のことだが、執筆動機となったものだが、このことについて彼の奥さんがフランス人であり、そのネイティヴな日本人ではない、いわゆるネイティヴ外人の日本語についてのローマ字表記についてのエピソードから、この本は始まる。
地下鉄の駅名が、日本橋にほんばし=nihobashiと筆記されることからの疑問である。
彼の妻がローマ字で書いたメモを持って買い物に行くときに「あんぱん」→ampan、「がんもどき」→gammodoki と書くそうである。「帯」に載る nihombashi の場合と同じである。
結論を急ぐために説明してしまえば、英語やフランス語、ドイツ語などヨーロッパ諸言語の辞書をひもといてみると、「n」と「m」の表記には厳然たる書き分けがあることが判る。
つまり、次に来る子音が「m」「b」「p」である場合は、普通「n」がその直前に現れることはなく、「m」が書かれるという原則である。
これらのことは、多少、西欧語教育に触れたことのある人なら経験があり、周知のことかも知れない。
口に出して発音してみれば「m」「b」「p」の場合は、唇が触れる「接唇音」であることが判るだろう。このことは彼の本には書かれていないが、私は読んで、すぐ、そのことに気付いた。

他にエピソード的に紹介すると<西洋人は「んー」が大嫌い>というのは、彼の奥さんは、日本人なら誰しもよく発する、喉の奥の方から鼻に抜けるような「んー」という声が大嫌いなのだそうだ。これは西洋人一般がそうらしい。
こういう場合に、フランスも含めて欧米の漫画や小説を見ると、我々日本人が「んー」という音を出す場面では「mmm」「hmmm」と書いてある。
日本語に直せば「ムムム」や「フムムム」だという。試しに妻に向かって「んー」の代りに「ムムム」と答えてみると嫌な顔をしないという。

この本には「空海」や「サンスクリット語」のことなど、日本語の発展、新展開に関する重要な話も書いてあるので、先に紹介した『日本語の奇跡』<アイウエオ>と<いろは>の発明 の本とともに読んでもらいたい。




すぎし時もきたる日も/わすれたる昼の夢なれや/ただ今宵/君とともにあるこそ 真実なれ・・・竹久夢二
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    すぎし時もきたる日も
   わすれたる昼の夢なれや
   ただ今宵
   君とともにあるこそ 真実(まこと)なれ・・・・・・・・・・・・竹久夢二


夢二は、いつも満たされぬ心を抱き、郷愁を抱いてさまよいつづけた「永遠の旅びと」である、と言われている。
茂(も)次郎という泥くさい名前が本名であるが、この名前を嫌い「夢二」というペンネームに替え、名前の通り、常に夢を追いつづけたと言える。

この詩は夢二の夢の通い路を詠んでいるが、しかし「真実」もまた、瞬時ののちには、虚しい夢となってしまうことを、一番よく知っていたのも、夢二自身であったろう。
どの時代においても、恋も人生もすべては夢、そう知りながら、やはり人は、恋をし、人生をひたすら歩いてゆかなければならないようである。

この詩を引用している私の心中にも、亡妻とともに過ごして来た日々を振り返って、それらの日々が、ああ夢のように過ぎ去ったのか、という深い感慨に満たされるのである。
太閤秀吉は死に際して「夢のまた夢」と呟いたというが、私の心中にも深く共感するものがある、と告白せざるを得ないだろう。

夢二の詩の終連の

     <君とともにあるこそ 真実(まこと)なれ>

という表白を忘れないように心に刻みたい、と念じて・・・・・。


山口謡司『日本語の奇跡』<アイウエオ>と<いろは>の発明・・・木村草弥
日本語の奇跡

──新・読書ノート・初出Doblog2008/03/03──(再掲載)

  山口謡司『日本語の奇跡』<アイウエオ>と<いろは>の発明・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・・・・・・・・・・新潮新書2007年12月刊 ・・・・・・・

「日本語」にこだわるものとして、漢字カナまじり文という世界でも特異な表記法を築き上げた先人たちの叡智と努力を、こうして判りやすく体系的に一冊にまとめた、最近でのヒット作として、先ず喜んでおきたい。
カタカナやひらがな、漢字を巧みに組み合わせることで、素晴らしい言葉の世界を創り上げてきた日本人。
先師先達のさまざまな労苦の積み重ねをわかりやすく紹介しつつ、これまでにない視野から日本語誕生の物語を描く。
著者の山口謠司は1963年長崎県生まれ。大東文化大学大学院、フランス国立高等研究院人文科学研究所大学院に学ぶ。ケンブリッジ大学東洋学部共同研究員などを経て、大東文化大学文学部准教授。 現在、教授。

ここでネット書店BK-1 の、この本の紹介に載る「オリオン」という人の書評を貼り付けておきたい。
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 『堤中納言物語』に、ある貴人からの贈り物への返礼として、カタカナで和歌を書き送った(虫めづる)姫君の話が出てくる。
 本居宣長の門人伴信友は、この一篇に寄せて、「さて其片仮名を習ふには五十音をぞ書いたりけむ。いろは歌を片仮名に書べきにあらず」と記した(『仮名本末』)。
和歌をカタカナで書いてはいけない。草仮名すなわちひらがなで書かなければならないというのだ。
 ここに、この本で書きたかったことの淵源がある。著者は、あとがきでそう述べている。
 伴信友がカタカナを五十音図に、ひらがなをいろは歌に対応させたことを敷衍して、著者は本書で、日本語を培ってきた二つの世界を腑分けしてみせた。
すなわち、〈アイウエオ〉という「システム」(日本語の音韻体系)を支える世界と、〈いろは〉という「情緒」(言葉に書きあらわすことが出来ない余韻)を支える世界。
 それは同時に、日本という国家を支えてきた二つの要素に対応している。
外来の普遍的な思想(たとえば儒教、仏教)や統治制度(たとえば律令制)と、「国語」としての日本語でしか伝えられない「実体」とでもいうべきもの(たとえば民族性、もののあはれ)。
 著者は「システム」と「情緒」を、空海の業績に託して、「情報」と「実」とも言いかえている。
《空海が持ち帰ってきたものは、情報より「実」とでもいうべき意識ではなかったか。言ってみれば、借り物ではない世界を実現する力である。
 むろん、それまでの日本に「実」というものがなかったわけではない。
しかし、「世界」とは中国であり、「普遍の伝達」とは中国の模倣とイコールであった。「実」という意識はまだ薄かったであろう。(略)
 「実」という意識は、あるいは、芸術家が模倣を繰り返す修行時代を抜けだし独創の境地に立った地点と似ているとでも言えようか。
模倣は本来、「実」を必要とはしない。模倣によってあらゆる技術を身につけようとするときの条件は、いかにして「実」を捨てられるかである。
しかし、捨てようと思えば思うほど、目の前の壁となって「実」は大きく姿をあらわしてくる。
そして、いかにして「実」を捨てられるかともがき続ける修行のなかで、最後の最後に幻のように残った「実」こそが、まさしく独創の足場となるのではなかろうか。
 折りしも日本では、本当の意味での独創が始まろうとしていた。日本語において、それは〈カタカナ〉と〈ひらがな〉へとつながってゆくのである。》
 こうして著者は、漢字伝来から(鳩摩羅什による仏典漢訳の方法に倣った)万葉仮名の創造を経て、漢字の簡略化によるカタカナの、また、そのデフォルメ(草書体)を利用したひらがなの発明へ、そして、十世紀前半と目されるいろは歌の誕生(作者不詳)へと説き及んでいく。
 また、空海によるサンスクリット語の伝来に端を発し、十一世紀後半を生きた天台僧明覚による(子音と母音を組み合わせた)日本語の音韻体系の解明から本居宣長へ、そして「情緒よりシステムの構築を必要とした」明治時代、大槻文彦による五十音配列の『言海』と至る五十音図誕生の物語を語っていく。
《〈いろは〉と〈アイウエオ〉の両輪によって情緒と論理の言語的バランスを取ることができるこのような仕組みの言語は、日本語以外にはないだろう。あらゆる文化を吸収して新たな世界を創成するという点で、それは曼荼羅のようなものだと言えるかもしれない。 我々はそうした素晴らしい日本語の世界に生きているのである。》
 この末尾に記された言葉がどこまで真実のものでありうるのか。それは、千年をはるかに超える日本語探求の歴史の重みを踏まえた、これからの言語活動の質にかかっている。
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ここに紹介した「オリオン」氏の書評だけからは、少し判りにくいかも知れない。
この本の「帯」には

<日本人が創り上げた たぐい稀な言葉の世界!
 かつてない視野から描く日本語誕生の壮大な物語。>

とある。そして「帯」の裏面には

 ○淵源としてのサンスクリット語
 ○万葉仮名の独創性
 ○空海が唐で学んできたこと
 ○<いろは>の誕生
 ○妙覚、加賀で五十音図を発明す
 ○藤原定家と仮名遣い
 ○さすが、宣長!

が挙げられているが、これらは「目次」に書かれているものである。
私が部分的に知っていることが、この本によって体系的に知らせてもらって有難かった。
私たちが「表意文字」「表音文字」などと、簡単に言い過ぎてしまっていることも、この本では「表意記号」「表音記号」と書かれていて、その方が的確な言い方である。
これに関連していうと、第二章「淵源としてのサンスクリット語」に、このことが書かれている。

<ひらがな><カタカナ>と我々が何げなく使っている「言い方」だが、第七章「仮名はいかにして生まれたのか」に詳しく書かれている。
なぜ「仮名」なのか。ここには、こう書かれている。

<どうして「仮」という言葉がついているのか。当時、「仮名」は別に「借字」(しゃくじ)という呼称もあったが、これは「漢字を借りる」という意味である。
「仮」の意味が分かれば、「借」という字がつけられた意味も理解できるだろう。
漢字は、奈良時代以来、別名で「真名」(まな)と呼ばれていた。
「真」とは「中身がいっぱいに詰まっている」という意味を本来持つ漢字であり、「仮」とは「中身のない見せかけの」の意味である。>
中国伝来の漢字を使って「日本語」の表記を、どうしてゆくか、を考えて、漢字の「音」(おん)を利用するだけではなくて、「漢字を簡略化する」「漢字の一部を利用する」などして<カタカナ>が考案され、全体をデフォルメした草書体(当時は「草仮名」と呼ばれていた)を利用して<ひらがな>が、新しい我が国独自の文字となっていったのである。因みに<ひらがな>という呼称が起こったのは江戸時代になってからである。
漢字の意味や発音を捨て去った「見せかけ」の部分を使うからこそ、我が国独自の文字は「仮名」という名称で呼ばれることになったのである。

著者も「あとがき」で<書き足りない・・・・・。稿を終えての思いはそれに尽きる。>と書くように、「新書」というページ数の制約もあるので仕方がないのだが、この本に肉付けした内容豊富な一冊を、著者には、ぜひお願いしたいものである。
日本語にこだわる人には必読の一冊である。よく売れていて12/20の初版から、すぐに1/15には2刷が出ている。私の買ったのは2刷のものである。
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この本の「続編」に当たる本も出ていて、私も採り上げているので、後日アップすることにする。






「ら」抜き言葉のこと・・・木村草弥
(再掲載) 初出・2007/06/02のDoblog

──★日本語倶楽部★──(2)
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        「ら」抜き言葉のこと・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

日本語が乱れていると言って、よく例にあげられるのが「ら」抜き言葉である。
もう二十年以上も前になるが、或る短歌結社の全国大会の班別歌会で、地方ではかなり威張っている人が、この「ら」抜き言葉に触れて、何かの機会に国語学者の金田一春彦氏に、そのことを言ったら金田一さんは、たいして取り合わなかった、と憤慨して話した。
私は、そのとき司会者をしていたが、「金田一さんは寛容ですからね」と言ったら、私まで攻撃の対象にされてしまったことがある。

言語、あるいは言葉というものは揺れ動くものである。 今ある言語あるいは言葉あるいは表記というものは、時代とともに変化する。そういう点で専門の学者の方が寛容である。
見出しに挙げた「ら」抜き言葉も、何の原則もなしに「ら」抜きにされているわけではないのだ。
長野県─信州方言では「ら」抜きが一般的らしいが、たとえば「見ることが出来る」という可能動詞では「見れる」となる。
一方、誰かに「見つめられる」という意味の「受身動詞」では「ら」抜きではなく「見られる」となる。
このように規則性は、ちゃんとあるのである。

いま私は信州方言と言ったが、私は信州人でもなく、また信州と言っても木曾谷、佐久平、伊那谷その他縦に走る山脈によって隔てられた信州には一律にはゆかない違いがあるかと思う(間違いは指摘して下さい)が、これは信州出身のかなり影響力のある文化人の発言であるから当らずとも遠からずだと思う。
信州人は東京には多くの人が進出しており、文化人も多い。
だからというわけではないが、「ら」抜き言葉は、遠からず「許容」されて一般的になると、私は見ている。

辞書などを見てみると上古以来、日本語の使い方は、ものすごく変化して来た。
「ことわざ」「格言」的な言葉など本来の意味と違う意味に現在は使われているものが、たくさんある。
これについても「日本語倶楽部」のアンケートの対象にしても面白いので、ここで実例を挙げることは控えておく。
これらを、よく知るためには国語辞典ではなく「古語辞典」を紐解いてみると面白い。暇な何もすることがない時など、辞書は最高の友人になり得る。
よく言われることだが、文化人とか詩人とか歌人、俳人と呼ばれる人の机の脇には辞書が、でんと置かれて、ちょっとした疑問や物忘れなどの折に触れて彼らは辞書を引く。
素人に限って、そういう努力をしない。これが才能が開花するかしないかの分かれ道である、と。
その通りで恐れ入るが、いずれにせよ辞書には何千年の日本人の「日本語」に関する叡智が詰め込まれているのである。

私自身は駄目な男だが、私の同級生には仏文の教授や国語学の専門家や外国人に対する日本語教育のパイオニアなど、錚々たる友人がたくさん居るので、著書などを戴く機会も多いので勉強させてもらっている。

いずれにしても言葉は揺れ動くものだということを言っておきたい。その変化は先ず「発音」から始まる。
それが「表記」と矛盾してくる時に、例えば「新かなづかい」のような大掛かりな国語表記についての大変動が起きるのである。
これは何も日本語だけの問題ではなく外国などでもしょっちゅう起っていることである

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5/19.17:00追記
いま届いた「読売新聞(大阪)」夕刊を開いてみたら、金田一春彦先生が91歳で今日なくなられたという。文化功労者。
解説には、私が先に書いた通りの事が書いてある。すなわち「言葉は時代とともに絶えず変化する」が持論で、若者の「ら」抜き言葉などにも理解を示した、など。
早く書いておいてよかった。ご冥福をお祈りしたい。
5/20.追記
京都新聞は今朝の記事で大きく伝えた。先生は八ヶ岳の別荘に滞在中に倒れ、意識不明のまま甲府市の病院で、蜘蛛膜下出血のため死去された。
今日の記事には玉村文郎同志社大学名誉教授の話として、次のように書かれている。
<今春、東山七条の智積院に真言声明の研究に訪れられ、同席させて頂いた時にも、お元気だったので、突然の訃報に驚き、また残念でならない。新村出先生と春彦先生の父、京助先生は先輩後輩の関係で、新村出記念財団発足では春彦先生に陰に陽に助言いただき、発起人にもなって頂いた。同じ国語学の研究者として北京で一緒に滞在したこともあるが、幅広い方で、難しい専門の歴史的なアクセントの研究も一般の人に実に面白く上手に話された。>
見出しは「難しい話を面白く」とある。これこそ達人の真髄である。
この玉村文郎君は私の同級生で国語学と外国人留学生に対する日本語教育のパイオニアである。国語学の著書の他に『日本語学を学ぶ人のために』
『新しい日本語研究を学ぶ人のために』などの本がある。
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「日本語倶楽部」のことについて書いておく。前に所属していた「Doblog」は2007年にホストコンピュータが障害を起こして、結局、廃止された。
そこに居るときに同好の人たちと立ち上げたのが、この倶楽部である。私の書いた記事の第二回が、これである。
「日本語倶楽部」のキャプションも会員の誰かが作ってくれたものである。
今では記念碑的な、なつかしい記事である。
ここに再録しておくので読んでみてもらいたい。
私の書いた記事は全部で十回ほどあるが、機会をみて再録してみたい。



石畳 こぼれてうつる実桜を/ 拾ふがごとし!/思ひ出づるは・・・土岐善麿
さくらんぼ

     石畳 こぼれてうつる実桜を
    拾ふがごとし!
    思ひ出づるは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・土岐善麿


これは土岐善麿のローマ字三行書きの歌集の巻頭の作で、原文はローマ字。
明治43年刊『NAKIWARAI』に載るもの。
短歌三行書きは親友・石川啄木、また「アララギ」派から出た釈迢空らに影響を与えた。

「実桜」はサクランボのこと。
思い出すことの内容は描写せず、ただそれが石畳に散る実桜を拾う感じだと、直截な気分の感触だけを記述する。
きびきびした語の動きは感傷をも律動感に溶かし込んでいる。
2行目の末尾に感嘆符!を打つなど新機軸を打ち出そうとしたことは、明らかだった。
土岐善麿は新聞記者としての経歴も長く、その幅ひろい視野に立って、戦後になっても国文学者として、漢学者として、またエスペランティストとして活躍した。能の新作も試みた。
青年時代の号は「哀果」で、この詩を作った頃は哀果だった。昭和55年没。

三行書きの詩(歌というべきか)を少し書き抜く。

    指をもて遠く辿れば、水いろの
    ヴォルガの河の
    なつかしきかな。

    おほかたの、わかきむすこのするごとき
    不孝をしつつ、
    父にわかれぬ。

    手の白き労働者こそ哀しけれ。
    国禁の書を
    涙して読めり。

    焼跡の煉瓦のうへに、
    小便をすれば、しみじみ、
    秋の気がする。

    りんてん機今こそ響け。
    うれしくも、
    東京版に雪のふりいづ。
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大正末期から昭和ひと桁、10年代にかけての「自由律」短歌運動にも深くかかわった。その頃の歌

   上舵、上舵、上舵ばかりとつてゐるぞ、あふむけに無限の空へ

   いきなり窓へ太陽が飛び込む、銀翼の左から下から右から

   あなたをこの時代に生かしたいばかりなのだ、あなたを痛々しく攻めてゐるのは

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敗戦後の歌に作者の歌として有名なものがある。それを少し引く。

   ふるき日本の自壊自滅しゆくすがたを眼の前にして生けるしるしあり

   鉄かぶと鍋に鋳直したく粥のふつふつ湧ける朝のしづけさ

   あなたは勝つものとおもつてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ
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xhwa00101善麿ほか

写真②は、銀座カフェ・ヨオロッパにて、大正3年4月。
前列右より若山牧水、土岐善麿
後列右より古泉千樫、前田夕暮、斎藤茂吉、中村憲吉。

土岐善麿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

土岐 善麿(とき ぜんまろ1885年6月8日 ~ 1980年4月15日)は、日本の歌人・国語学者。

略歴・人物
東京・浅草の真宗大谷派の寺院の息子に生まれる。府立一中を経て、早稲田大学英文科に進み、島村抱月に師事。窪田空穂の第一歌集『まひる野』に感銘をうけ、同級の若山牧水とともに作歌に励んだ。

卒業の後、読売新聞記者となった1910年に第一歌集『NAKIWARAI』を「哀果」の号で出版、この歌集はローマ字綴りの一首三行書きという異色のものであり、当時東京朝日新聞にいた石川啄木が批評を書いている。同年啄木も第一歌集『一握の砂』を出し、文芸評論家の楠山正雄が啄木と善麿を歌壇の新しいホープとして読売紙上で取り上げた。これを切っ掛けとして善麿は啄木と知り合うようになり、雑誌『樹木と果実』の創刊を計画するなど親交を深めたものの翌年啄木が死去。その死後も、善麿は遺族を助け、『啄木遺稿』『啄木全集』の編纂・刊行に尽力するなど、啄木を世に出すことに努めた。

その後も読売に勤務しながらも歌作を続け、社会部長にあった1917年に東京遷都50年の記念博覧会協賛事業として東京~京都間のリレー競走「東海道駅伝」を企画し大成功を収めた(これが今日の駅伝の起こりとなっている)。翌1918年に朝日新聞に転じるが自由主義者として非難され、1940年に退社し戦時下を隠遁生活で過ごしながら、田安宗武の研究に取り組む。

戦後再び歌作に励み、1946年には新憲法施行記念国民歌『われらの日本』を作詞する(作曲・信時潔)。翌年には『田安宗武』によって学士院賞を受賞した。同年に窪田の後任として早大教授となり、上代文学を講じた他、杜甫の研究や能・長唄の新作をものにするなど多彩な業績をあげた。他に紫綬褒章受賞。

第一歌集でローマ字で書いた歌集を発表したことから、ローマ字運動やエスペラントの普及にも深く関わった。また国語審議会会長を歴任し、現代国語・国字の基礎の確立に尽くした。



はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は をゆび の うれ に ほの しらす らし・・・会津八一
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   はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は
     をゆび の うれ に ほの しらす らし・・・・・・・・・・・・・・・・・会津八一


会津八一の歌は「ひらがな」書きで、しかも単語と助詞などを間隔を空ける独特の表記の仕方に特色のある歌である。
初夏の風になってきたなぁ、と、み仏は「をゆび」=小指の「うれ」=末端=先で、ほのかにお感じになったようだ。
という意味の歌であり、み仏と一体になるような感じで、作者がいわば言葉によって、ひたと寄り添おうとしている仏の温容、その慈悲に満ちたたたずまいが、おのずと浮びあがってくるようである。

八一については前回に少し書いたので、ここでは繰り返さない。大正13年刊の『南京新唱』に載るもの。
南京とは、北の京都に対して奈良を指して言ったもの。

DSC_8803-A-600八一色紙
 ↑ 会津八一 色紙

会津八一の歌を二、三ひいておく。

あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき この さびしさ を きみ は ほほゑむ

あまごもる やど の ひさし に ひとり きて てまり つく こゑ の さやけさ 

かすがの の しか ふす くさ の かたより に わが こふ らく は とほ つ よ の ひと

このごろ は もの いひ さして なにごと か きうくわんてう の たかわらひ す も

さをしか の みみ の わたげ に きこえ こぬ かね を ひさしみ こひ つつ か あらむ

いちじろく ひとき の つぼみ さしのべて あす を ぼたん の さかむ と する も



つちふるや日輪たしかに黄に変じ・・・山口素逝
dscf7230黄砂
 
  つちふるや日輪たしかに黄に変じ・・・・・・・・・・・・・山口素逝

「つちふる」を漢字で書けば「霾」となる。なんて難しい字だが、今でいう「黄砂」のことである。
昔は「黄沙」と書いたが、常用漢字では「砂」を採用している。
黄砂については今さら言うまでもないが、中国北部やモンゴルの砂塵が偏西風によって日本まで運ばれてくるもの。
朝鮮半島では、距離的に近いので、その被害もひどいらしい。学校が休校になったりするらしい。
「霾」の字は雨かんむりに狸という字がくっついているが、昔は古代中国ではタヌキが悪さをして、こんな変な天気になると信じられていたのであろう。
とにかく「黄砂」「霾る」というのが春の季語になっている。
例年、黄砂の襲来は五月になるとひどくなる。日によっては激しく降る日がある。黄砂アレルギーの人も出る始末である。
ところが今では、PM2.5というような微細な化学物質が降ってくるから始末が悪い。
中国では何でも金になることなら何でもするという風潮で、しかも地方政府や共産党の幹部が、そういう企業の幹部を兼ねているから公害として追及するのも妨害される。
マッチポンプのような形だから、日本でやられるように、裁判を起こして追及するというのも効果が無いことになる。
日本の公害のことを「反面教師」にして前に進んでほしいのだが、どっこい、こういう事情で期待薄ということになりかねない。

黄砂の句は多くはないが、少し引いておく。

 青麦にオイルスタンド霾る中・・・・・・・・・・・・富安風生

 真円き夕日霾なかに落つ・・・・・・・・・・・・中村汀女

 つちふりしきのふのけふを吹雪くなり・・・・・・・・・・大橋桜坡子

 幻の黒き人馬に霾降れり・・・・・・・・・・・・小松崎爽青

 驢馬の市つちふるままに立ちにけり・・・・・・・・・・三篠羽村

 霾ぐもり大鉄橋は中空に・・・・・・・・・・・・山崎星童

 黄塵のくらき空より鳩の列・・・・・・・・・・・・鈴木元

 鉢の蘭黄塵ひと日窓を占む・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 黄沙濃し日冰輪(ひょうりん)となりて去る・・・・・・・しづの女

 喪の列や娶りの列や霾る街・・・・・・・・大橋越央子



松延羽津美歌集『水の神さま』・・・木村草弥
水_NEW

──新・読書ノート──

      松延羽津美歌集『水の神さま』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・ながらみ書房2020/04/30刊・・・・・・・・・

この本が恵贈されてきた。私には未知の人である。
巻末の略歴を引いてみよう。

松延羽津美
1949年 福岡県八女郡立花町生まれ
2001年 NHK学園通信講座にて作歌開始
2002年~2006年3月まで 教養講座「万葉集」受講
2013年 久留米毎日文化教室(恒成美代子講師) 受講 今に至る
2017年 「未来」短歌会(中川佐和子選歌欄) 入会 現在に至る

私も「未来」に十数年居たし、恒成美代子氏とも交遊しているので、この本が贈られてきたものと思う。
恒成さんのなれそめについては、この記事 → 「恒成美代子歌集」を見てもらいたい。

前置きが長くなった。
この本には「跋」として8ページにわたる詳しい解説を恒成美代子氏が書いておられる。
そこには松延氏の人となり、ご夫君の仕事のこと、など詳しく書かれていて、私が付け加えることは何もないのだが、苦言、忠告も含めて少し書いてみる。

ご夫君は「水利」に関する仕事を生業としておられたようで、歌集の題名は、それに因んでいるらしい。
この本は「編年体」でまとめられているという。

   ■新しき年の始めの蛇口よりほとばしりたり水の神さま

この歌から本の題名が採られている。ご夫君の仕事に関係するものとして極めて的確な選択だろう。
しかも「水の神さま」という項目が巻頭を飾っているのも納得される。

   ■ゴックンと咽喉をならす一杯がはじける夕餉キラリ麦秋
   ■ひさかたの雨のめぐみにたつ早苗われは米とぐ玻璃戸の内に
   ■ほとばしる玉来川の水源の流れるを汲む葦の根元に
   ■ストレリチア、キングプロテア、孔雀草、講話に咲けるは腸内フローラ
   ■花水木の木陰に寄りてプルトップ開けて話すも埒のなきこと
   ■ベランダに五月の風は吹き渡り浅葱努(ゆめ)みし ねぎ坊主立つ

「水」に関する歌などを引いてみた。
六首目の歌には「あさきゆめみし」という「いろは歌」が、さりげなく引かれていて古典を学ばれた片鱗が見える。
「ゴックン」とか「キラリ」とかの言葉がカタカナで書かれているのも作者の特徴だが、それが効果的かどうか、は疑問のあるところ。

   ■珊瑚礁の海に仲間と繰り出して海水浴せしあの夏の燦
   ■沖縄に住みし一年九ケ月を思ひおこせばただ若かりき
   ■夏雲のわきたつ下に葵ちやんとサンシャインプールで一日遊ぶ
   ■別れ際を改札口でハグすれば咲子の身長吾を越えてをり
   ■仕事終へ日暮れに帰る足取りの重き夫なり おつかれさまです
   ■〈百聞は一見に如かず〉スカイプにひとり住まひの息子と語る
   ■頻繁に夫のメールに着信のあれば目覚むる真夜一時半
   ■熊本の激しき地震に怯えたる子らの避難をわが預かりぬ
   ■くつきりと甦る日々の折折を顕徳町の官舎に見たり
   ■夫の背を四十五年見送れば朝な朝なの体調の見ゆ
   ■橋梁は夫の仕事の一つゆゑ「ハイヤ大橋」如何に見ますや

夫の「たつき」子や孫に触れた歌を、まとめて引いてみた。
そろそろ、「まとめ」に入りたいが、苦言になると思うが読んでみてほしい。
この本を頂いたときに「栞ひも」が挟まれていたページがあった。そこには、この歌があった。

   ■「二次災害になりませんやうに」と見守る救助ヘリのホバリング

この「なりませんやうに」の「やうに」は誤用である。
文語なら「よー」は何でも「やう」だと思ったら大間違いである。
要点だけ指摘しておく。この「なりませんように」は助動詞特活という用法で「「推量」「意志」「勧誘」の意味を表す語である。
だから「旧かな」でも「ように」が正解なのである。この使用法は、よく間違われるもので注意したい。

巻末の一つ前の項目に「秋の午後」の一連があって

   ■はるかなるドリー羊の誕生がフラッシユバックす『私を離さないで』
   ■「『鉄の蜜蜂』つて何なんだ」と夫の言ふ「医療かな」と漠然と答ふ
   ■『水神』のページをめくる秋の午後 眼下の稲穂刈られてゐたり

『』の中は本の題名だろうが、二番目に引いた歌の夫の問いについて「医療かな」と漠然と答ふ、というのはトンチンカンも甚だしい。
この岡井隆の歌は、これである。

   <今日もまたぱらぱらつと終局は来む鉄の蜜蜂にとり囲まれて    岡井隆>

この歌から『鉄の蜜蜂』という題名が採られているのである。
さて「鉄の蜜蜂」とは、何の象徴だろうか?
ネット上にも、いろいろの評が出ているが、真正面から切り込んだものは見当たらない。
この「鉄の蜜蜂」という「比喩」が難解だからである。
毒針は持ってはいるが、潰せば弱いミツバチである。それが「鉄」だというのである。
こういう比喩を彼は好んで使う。彼は詩人でもあり、詩の世界では「詩は解釈するものではなく、感じるものだ」ということになっている。
彼は、それに従っているのであり、だから、ただ感じればいいのである。

ただ、松延氏の本に載る「医療かな」と漠然と答ふ、というのは頂けない。

岡井隆の、この歌集には、それは例えば、

   <行きたくない。だが、ねばならぬ会合に大岡詩集読みながら行く>

   <一輪の傘が咲くとき 不思議だなあ 雨の方から降ってくるんだ>

   <旧友の吉田はむかし農村の工作隊へ行つたときいた(何をいまさら)>

などの「ただごと歌」が載っている。これらの歌は高尚なことを詠っているのではないのである。
私も「未来」に暫くいたことがあるので「ああこれが岡井隆翁の肉声なのだ」、と、妙に納得したり安心したりさせられるのである。ただし私が意見を異にいている、彼の皇室と原発に関する歌などには私は同意しない。

今回特に印象に残ったのは、巻末に置かれた「父 三十首」である。 ここには

    <紀元前十四世紀のむかしより父と子はつねに妬み合いしか>

    <キリスト者として戦中を耐へし父。苦しき転向を重ねたるわれ。>

    <「マスコミにたてつくことは止めよ、隆。」いたき体験が言はせた至言>

のような著者の親子の愛と相克を巡る力作が並んでいるが、本書で、著者もまたおなじ目に遭った、という告白に接して刮目せざるを得なかった。

    <十代にていぢめに会ひぬ「隆、それは耐へる外ないぜ」よ言ってくれたが>

    <学校側の知人にひそかに手をまはしをりたりとはるかのちに知りたり>

私は漸くにして衰微の影が搖蕩しないでもない、著者第三十四番目の歌集を閉じながら、もしもその父親の恩寵の手なかりせば、この偉大な歌人の運命はいかばかりであったろう、と余計な思案をせずにはいられなかった。

私が、岡井の本を読んで感じたことに拘りすぎたかも知れないが、この岡井の本を読んだのなら、せめて、これに類することを感じて欲しかった、と思った故である。
岡井隆は「未来」の創刊同人であり、今も「編集者」に名前を留めてはいるが体調不良で歌の発表もない。
岡井隆を「雲上人」のように扱うのは止めにしたい。

文語文法にしろ、短歌の世界は、たやすくはないことを肝に銘じていただきたい。
そのことを申しあげて鑑賞を終わりたい。ご恵贈有難うございました。        (完)



舞へ舞へかたつぶり、/舞はぬものならば、/踏みわらせてん、/まことに美しく舞うたらば、/花の園まで遊ばせん・・・『梁塵秘抄』
sizen266カタツムリ

    舞へ舞へかたつぶり、
   舞はぬものならば、
   馬の子や牛の子に蹴させてん、
   踏みわらせてん、
   まことに美しく舞うたらば、
   花の園まで遊ばせん・・・・・・・・・・・・・・・・ 『梁塵秘抄』


蝸牛かたつむりは陸産の巻貝で、でんでんむし、まいまい、とも言われる。
関東地方の森や野に多いのはミスジマイマイで殻の直径が3.5センチ、2センチほどの高さで黒っぽい三本の帯斑がある。
暖かくなると活動をはじめ、農家にとっては農作物を害するので困り者である。
いろいろの種類があり、ヒダリマキマイマイは貝殻を前から見て口が左にあり、黒い帯は一本である。
他にクチベニマイマイ、セトウチマイマイ、ツクシマイマイなどがよく見られる種類だという。
大きいのはアワマイマイで四国の山地に居る。
雌雄同体だが、交尾は別の個体とする。

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写真②はオトメマイマイという名前らしい。かわいい小さい種類である。
童謡に歌われる「角」というのは「目」である。突くとひょいと引っ込める。

芭蕉の句に

 かたつぶり角ふりわけよ須磨明石

というのがあるが、この角というのも、もちろん目であり、古来、角──争う、という連想から詠われたものが多い。どこか遊び心の湧く季語だったようである。
古句を引くと

 蝸牛の住はてし宿やうつせ貝・・・・・・・与謝蕪村

 蝸牛見よ見よおのが影法師・・・・・・・・小林一茶

などがある。明治以後の句を引いて終わりたい。

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 蝸牛(ででむし)の頭もたげしにも似たり・・・・・・・・正岡子規

 雨の森恐ろし蝸牛早く動く・・・・・・・・高浜虚子

 蝸牛や降りしらみては降り冥み・・・・・・・阿波野青畝

 やさしさは殻透くばかり蝸牛・・・・・・・・山口誓子

 あかるさや蝸牛かたくかたくねむる・・・・・・・中村草田男

 蝸牛喪の暦日は過ぎ易し・・・・・・・・安住敦

 蝸牛いつか哀歓を子はかくす・・・・・・・・加藤楸邨

 蝸牛遊ぶ背に殻負ひしまま・・・・・・・・山口波津女

 蝸牛や岐れ合ふ枝もわかわかし・・・・・・・石田波郷

 かたつむり日月遠くねむりたる・・・・・・・・木下夕爾

 悲しみがこもるよ空(から)の蝸牛・・・・・・・・鷹羽狩行

 かたつむりつるめば肉の食ひ入るや・・・・・・・・永田耕衣

 かたつむり甲斐も信濃も雨の中・・・・・・・・飯田龍太

 妻の疲れ蝸牛はみな葉の裏に・・・・・・・・沢木欣一



柿若葉愛静かなる日を照るも・・・岩崎富美子
kaki006柿の花

   柿若葉愛静かなる日を照るも・・・・・・・・・・・・岩崎富美子

今しも「柿若葉」のうす緑が美しい季節である。
私の地方では、柿の若葉が茂りはじめて来て、枝に止まるスズメなどの小鳥の姿が隠れるようになると、お茶摘みが出来る頃になると言われている。
「柿若葉」の適当な写真がないので、もう少し先になるが、柿の花の写真を掲げておく。
それにしても、この句のように「愛静かなる」などと言われると、この作者は、この句を詠んだとき「静かな愛」に包まれていたのだなぁと思う。
なかなか、こういう句や歌は詠めないものであり、羨ましい。

昔は「柿」の木は民家の敷地には必ず一本くらいはあったものだが、この頃では見かけなくなった。今は昔ほど「柿」の実を食べなくなった。
他に、いくらでも「食べるもの」が豊富にあって、第一、ナイフで皮を剥いて、小分けにして、種を出して食べなければならない、というのが面倒らしい。
その点、指だけで剥いて食べられる「みかん」や「バナナ」などには衰えない人気があるのと好対照である。

初夏に「柿の若葉」は、つややかに光る萌黄色をしていて、さわやかで新鮮である。
みずみずしくデリケートに、のびのびした「命」そのもののような若葉であり、初夏の心にひびく眺めのひとつであるのは、確かであろう。
以下、「柿若葉」の句は多くはないので、「柿の花」の句も引いて終わる。

 柿若葉雨後の濡富士雲間より・・・・・・・・・・渡辺水巴

 柿若葉重なりもして透くみどり・・・・・・・・・・富安風生

 節目多き棺板厚し柿若葉・・・・・・・・・・中村草田男

 まだ柿のほか月かへす若葉なし・・・・・・・・・・篠原梵

 柿若葉嬰児明るき方のみ見る・・・・・・・・・・鎌田容克

 父の代の風が吹きをり柿若葉・・・・・・・・・・高橋沐石

 柿若葉すこし晴れ間を見せしのみ・・・・・・・・・・川口益広

 こぼるるもくだつも久し柿の花・・・・・・・・・・富安風生

 柿の花農婦戸口に入る背見ゆ・・・・・・・・・・大野林火

 柿の花あまたこぼれて家郷たり・・・・・・・・・・岸風三楼

 飲食に腋下汗ばむ柿の花・・・・・・・・・・岡本眸

 葬式に従兄弟集まる柿の花・・・・・・・・・・広瀬直人

 総領は甚六でよし柿の花・・・・・・・・・・高橋悦男

 ふるさとへ戻れば無官柿の花・・・・・・・・・・高橋沐石

 行宮跡ひそかに守りて柿の花・・・・・・・・・・築部待丘



詩と連句「おたくさ」Ⅲ─4・・・鈴木漠
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──鈴木漠の詩──(14)

      詩と連句「おたくさ」Ⅲ─4・・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木漠
                 ・・・・・・おたくさの会2020/04/30刊・・・・・・・・

「後記」によると、鈴木漠氏は、昨年十月半ばに脳梗塞を発症して、今年の三月末まで、およそ五か月半のリハビリテーション入院をされた、という。
年末年始も病院のベッド暮らしだったという。
しかし、こうして機関誌が出せたのだから、幸運というべきだろう。おめでとう、と申し上げる。
これは「凶」の方だが、「吉」の方は回顧展を昨年の二月から五月にかけて兵庫県公館で、十二月から今年の二月まで徳島県立文学書道館で催された。
「その間、世間では新型コロナウイルスの猛威が始まっていたらしい」と書かれている。
そんなことで、今回の冊子はページ数も少なく薄っぺらい。ご自愛専一にお願いしたい。

画像でも読み取れると思うが、表紙には「短詩」が載っている。

      詩・在間 洋子     ありんこのわたしに


   飛べという

   そんなに地面を這っていないで
   こんなに広い大空を

   羽をください その羽に
   シャボン玉色のこころをのせて
   舞い上がる

   ふわふわふわふわ 高く高く
   風の向こうの あの向こう

   目覚めるとやっぱりありんこ
   空から見えない菓子の屑
   在るとも知らない小石の欠けら
   それがなんとも大問題


      賜餐 笈    梅村光明 捌き

     お遍路の笈にサルトル、サザエさん    土井 幸夫 (春)
      桜吹雪の実存を問ひ            鈴木   漠   (春)
     もてなしを粋に感じる花の宴         梅村 光明 (花)

ウ     酒肴愛でつつ句帳開かず         在間 洋子 (雑)
     湯上りのの縁に薮蚊の付きまとふ     森本 多衣 (夏)
       はだけた浴衣うるむ黒髪         辻  久々 (夏恋)

ナオ  ままならぬ恋の闇路に迷ひつつ       三神あすか (恋)
      駐在の窓初紅葉せり             藤田 郁子 (秋)
     につこりと笑まふ眉月ネオン街        赤坂 恒子 (月)

ナウ   鎌をざつくりいれて豊作            安田 幸子 (秋)
    炊きたての白米碗に命延ぶ           中林ちゑ子 (雑)
      暦の果ての跡残すのみ            東条 士郎 (冬)

   2020年3月  満尾 ファクシミリ  おたくさ連句塾


     現代詩歌の冒険  徳島の詩人・歌人・俳人たち
        ・・・・・徳島県立文学書道館   さあ、言葉の海へ   2019./12/14~2020/2/29・・・・・・・

     飢渇は屡々 魂を星に似せる     鈴木 漠

     晩冬の東海道は薄明りして海に添ひをらむ かへらな   紀野 恵

     何もかも散らかして発つ夏の旅    大高 翔

     背骨を愛されたことのない女は
     水を飲むときののけぞりかたが下手だ     清水恵子  


     桃色の炭酸水を頭からかぶって死んだような初恋     田丸まひる

     わたくしの瞳になりたがつてゐる葡萄    野口る理

---------------------------------------------------------------------------
最後に掲出した、表紙裏に載る企画は、とても面白い。
それぞれ徳島を代表する詩歌人たちである。
紀野恵氏は短歌結社「未来」の選者。大高翔氏は若手の高名な俳人。野口る理氏は期待される詩人。
そしてベテランの詩人・連句作歌の鈴木漠氏である。

鈴木漠氏も、病を超えて活躍されることを期待して、今号の紹介を終える。 有難うございました。



藤目俊郎氏撮影「芥川クサフジ」・・・木村草弥
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       藤目俊郎氏撮影「芥川クサフジ」・・・・・・・・・・・・・木村草弥

高槻市に住む友人・藤目俊郎氏から美しい画像を送って来られたので披露する。
大きな画像なのだが取り込めないので縮小した。
メールには、こう書かれている。  ↓

<私の散歩コース、芥川の堤防の一段内側に降りた草地では、毎年今頃この景色が見られます。
10m以上にわたって二か月くらい咲き続けます。
しかも鶯が住んでいて、歩くとさえずりを聞かせてくれます。
このところ急に暑くなりシャツを濡らして歩いているのですが、ホット気が休まります。>

有難うございました。


享けつぎて濃く蘇るモンゴル系ゐさらひの辺に青くとどめて・・・木村草弥
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   享けつぎて濃く蘇るモンゴル系
     ゐさらひの辺に青くとどめて・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。

よく知られていることだが、いわゆる「モンゴリアン」という人種のお尻には尾骶骨の上の方に、特有の「蒙古斑」という青い「あざ」の模様が幼少期には見られる。
大きくなると、それは薄れて見えなくなる。
ハンガリー人なども源流はモンゴリアンと言われているが、その後白人との混血も進んでいるのだが、今でも「蒙古斑」は見られるのだろうか。
現在の南北アメリカ大陸に渡ったネイティヴ・アメリカンは、ずっと昔にベーリング海峡を渡って辿り着いたモンゴリアンだと言われているが、そう言われているからには、
この「蒙古斑」が彼らにも認められるということなのだろうか。

念のために申し添えると「ゐさらひ」というのは「尻」のことを指す「やまとことば」古語である。
お尻というところを「いさらい」と言えば、何となく非日常化して来るではないか。
これは「おむつ」というところを「むつき」と言い換えるのと同様のことである。いわば「雅語」化するのである。
これらは詩歌の世界においては常套的な手段である。

ずっと昔に、うちの事務所にいた子育て中の事務員さんと雑談していて、話がたまたま「蒙古斑」のことになったところ、
その人は真顔になって「うちの子には、そんなアザはない」と反論して来たことがある。
われわれ日本人はモンゴリアンといって必ず「蒙古斑」があるのだと説明したことである。もちろん人によってアザの濃淡はあるから気づかなくても不思議ではない。

この辺で、終わりにする。



からころも/着つつなれにし/妻しあれば/はるばる来ぬる/旅をしぞおもふ・・・在原業平
IMG_0208_1カキツバタ

   からころも/着つつなれにし/妻しあれば
        はるばる来ぬる/旅をしぞおもふ・・・・・・・・・・・・在原業平


先ず掲出した歌のことを書く。
この歌は当代一の色男であった在原業平が三河──今の愛知県の「八橋」というカキツバタの名所で詠ったもので有名なもの。
今は八橋ゆかりの「無量寿寺」の中で継承されている。

原文には「/」のようなものは無いが、この歌の成り立ちを説明するために、敢えて区切りを入れてみた。
この歌には趣向がこらされていて、5、7、5、7、7の各フレーズの頭に「かきつばた」の字を置いて作ったもので「冠」作りという歌遊びになっている。
「折り句」と言われることもある。
詳しくは、↑ リンクになっているWikipediaの記事を参照されたい。

「からころも」というのは「着る」にかかる「枕詞」であるが、この「からころも」という言葉自体にも「衣」としての意味がある。
衣を身にまとうように馴れ親しんできた妻だが、思えばはるばると旅をつづけてきたものだなあ、いとしい妻が思われてならぬ、という意味である。

ところで写真①は「かきつばた」であるが、「いずれがアヤメ、カキツバタ」という文句があるように、この二つはとてもよく似ていて、区別が難しい。
img_shoubuden菖蒲田本命

参考までに、写真②は花菖蒲あやめである。
カキツバタとアヤメの見分け方は、先ずカキツバタは葉の幅が3センチほどあるのにアヤメは幅が1センチほどしかない、ということ。
またカキツバタは4月末から5月中旬、下旬にかけて咲くが、アヤメは露天では6月にならないと咲かない。というところであろうか。
菖蒲というと五月五日の端午の節句に合せて花菖蒲を飾るが、これはビニールハウスで保温して促成栽培したものであり、
私の住む地域で盛んに栽培されている。

kakitu10かきつばた

写真③はカキツバタの田の様子である。
学名によると両方ともアイリスの種類で、属が異なるだけである。
菖蒲は Iris ensata というが、杜若は laevigata と属名が異なる。
菖蒲の属名は「剣形の」の意味であり、杜若は「無毛の、平滑な」の意味である。
因みに言うと「アイリス」とはギリシア語で「虹」の意味である。鮮やかな紫色をしているからだろう。
この頃では西洋品種の「アイリス」という花が一般に栽培されるようになった。紫色が一段と濃い花である。
他にもジャーマンアイリスとか何とか、とりどりの色と柄の品種がある。
カキツバタは、明後日5月13日の「誕生花」であり、花言葉は「幸運」「雄弁」である。

はじめに書いた三河の八橋は杜若の名所で、今でも4月下旬から5月下旬まで、カキツバタにまつわるイベントが開催されている。
なお愛知県の県花はカキツバタになっている。

カキツバタの花の姿が飛燕の紫を思わせるので燕子花とも書く。
杜若を詠んだ句を引いて終わる。

 杜若語るも旅のひとつかな・・・・・・・・松尾芭蕉

 赤犬の欠伸の先やかきつばた・・・・・・・・小林一茶

 杜若切ればしたたる水や空・・・・・・・・高浜虚子

 よりそひて静かなるかなかきつばた・・・・・・・高浜虚子

 垣そとを川波ゆけり杜若・・・・・・・・水原秋桜子

 燕子花咲くや桂の宮寂びて・・・・・・・・水原秋桜子

 降り出して明るくなりぬ杜若・・・・・・・・山口青邨

 杜若けふふる雨に莟見ゆ・・・・・・・・山口青邨

 地図になき沼に霧湧く杜若・・・・・・・・児玉小秋

 妻の脛妖しき日ありかきつばた・・・・・・・・佐藤いさむ

 ベレー帽おしやれ被りに杜若・・・・・・・・遠藤梧逸

 声とほく水のくもれる杜若・・・・・・・・桂信子



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