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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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やまぐちヨウジ『妻はパリジェンヌ』・・・木村草弥
パリジェンヌ_NEW

──新・読書ノート──

       やまぐちヨウジ『妻はパリジェンヌ』・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・文芸春秋社2005/06/25刊・・・・・・・・

先日来、山口謡司先生の本を二冊、再掲載したりして来た。
先生がFBに居られることを知り、サイトを読んでみた。とても面白いと思ったので「友だち」申請をしてみた。
すぐに承認の返信が来て、私が先生の本を十数年前に採り上げたことなどを知らせた。
なにぶん先生の「友だち」というのは2700余の人が登録されていて、私も、そういう「その他大勢」の一人であることは承知している。
Wikipediaの記事を見て面白そうな本を数冊アマゾンの古本で買い求めた。
その中の一冊、この本を先ず採り上げる。

先生のFBのタイトルバックに「i OG i US」と書いてある。何だろうと気になっていたが、この疑問は、この本を開いて、すぐ解決した。
⒈画廊での出会い のところで先生が今の夫人ラファエロと出会うことになったいきさつのところである。
彼は絵描きでもある。パリ七区のボンマルシェというデパートの裏手にある画廊での話。
そこに並べられていた彼の絵を気に入ったラファエロが話しかけたきたことが、愛の発端。
その絵のサインが「i OG i US」─YOJI をラテン語で書くと、こうなる、ということ。愛称「ラフィー」と呼ぶようになる。
こういうストーリーを語りながら、どうしてイギリスのケンブリッジ大学の共同研究員になったのか、どうしてパリに来たのか、などがさりげなく書かれている。
彼の専門は「書誌学」「文献学」だが、これは林望の専門で、その林の知遇を得てロンドン、バリに居るのだった。
人生には、こういう他人との「出会い」が大きな意味を持つ。
私も一頃二十数年前に林望の本『イギリスはおいしい』 『イギリスは愉快だ』などの珠玉のエッセイの本を読んだ。
その林望の弟子が彼なのであった。
ラフィーは二十二歳で弁護士になったという頭のいい人。
そんな人が三年の同棲生活の後、日本の大学での職が確保されて帰国することになったときに、弁護士の職を棄てて彼について来日することになる。
これこそ「愛」の力の齎すものでなくて何だろう。
そして子供を作る決心をして妊娠するが七か月で早産して860グラムしかない息子ガブリエル─愛称ガビーを帝王切開で産み、数か月ICUで過ごす。
いろいろあって、何とかガビーは順調に育った。
この本が出たのは2005年だから、それから十五年経っているガピーも成人に達しているのではないか。
ガビーが果たして日本の高等教育を受けているのか、それとも帰国してフランスで学んでいるのか。
それらについてのプライバシーは判らないが、山口謡司の凄い著作のスピードなどを勘案すると、前妻と子供への養育費の必要があったが故ではないのか、など考えてしまう。
この本は気軽なエッセイだが、後で採り上げることになる研究書では極めて詳しい、いかにも書誌学者らしい索引などがびつしりと書かれている。

いま彼のFBのサイトでは「諺」「言い回し」などがYouTubeを駆使して講義が連日語られているが、これらは遠からず編集し直して一冊の本になるだろう。

そんな彼の顔つきなどの日本人離れした容姿を見ていると、私がもう七十年も前にラテン語の授業を受けた野上素一先生の容姿とそっくりだと思う。
今でもそうだと思うが、私の居た大学では西欧語を専攻すると「ラテン語」か「古代ギリシア語」が必修だった。
私はラテン語を選択し野上先生から一年間教わった。
先生は野上豊一郎と野上弥生子の長男で、ローマ大学に留学し、そこで出会ったイタリア人の夫人を日本に連れて帰られた。
後にイタリア文学科の主任教授を務められた。私たちは「イタ文」と呼んでいた。同級だった小松左京の出た学科である。
奥さんが向こうの人だと食生活の関係か、肌艶や容姿が西洋人ぽくなるのか。
そんな、とりとめもないことを考えた。 以上、余談である。  とても面白い一冊で、あっという間に読み切ってしまった。



しぼり出すみどりつめたき新茶かな・・・鈴鹿野風呂
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        しぼり出すみどりつめたき新茶かな・・・・・・・・・・・・・・・・鈴鹿野風呂

新茶の季節である。
もっとも私は引退した身であるから今の茶況などについては疎いが少し一般的なことを書いてみよう。
茶業にたずさわるものにとって、今が茶の仕入れ時期として一番いそがしく、かつ、その年の豊作、不作、製品の出来栄え、などを勘案し、仕入れ金額に頭を悩ます時である。
「利は元にあり」というのが商売の鉄則であり、品質の悪い茶や高値掴みをすると、その一年、利益どころか、損をすることになる。

茶の審査というのは、茶の葉っぱを熱湯で滲出して、真っ白い磁器の審査茶碗と称する器で行う。
いま適当な「審査茶碗」の写真がないのでお許しを乞う。
審査に使う一件あたりの茶の量も厳密に計る。
これはイギリスなどでの「紅茶」の審査でも同じ方法を採る。
現在の緑茶の審査方法も、あるいは、このイギリス式の紅茶審査法を近代になって見習ったものかも知れない。
熱湯と言っても、文字通り沸騰した湯を使う。こうしないと、欠点のある茶を見分けることが出来ない。
このようにして、毎日、多くの茶を審査するので、全部飲み込むわけではないが、胃を悪くしてアロエの葉の摺り汁などの厄介になることもある。

掲出の句は「みどりつめたき」と言っているのは、新茶の青い色を表現したもので、今どき夏に流行る「水出し」のことを言ったものではない。
この「みどりつめたき」という表現が作者の発見であって、これで、この句が生きた。
鈴鹿野風呂は京都の俳人で、この人の息のかかった俳人は、この辺りには多い。
ネット上から紹介記事を引いておく。 ↓
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鈴鹿野風呂(すずかのぶろ)は明治20(1867)4月5日、京都市左京区田中大路八に生まれる。本名登。
生家は吉田神社の神官を継承している家柄。幼い頃に母親を亡くしたため、京都を離れ中学は斐太中学に学ぶ。後京都一中に戻り卒業、鹿児島の七高、京都大学の国文科に入学。
大正5年、京都大学国文科を卒業後、鹿児島の川内中学校に勤務。後に京都の武道専門学校、西山専門学校で教鞭をとる。戦後は京都文科専門学校長を勤めた。
俳句は中学時代に小説に興味を持ち「ホトトギス」を購入。大学時代に古今集を卒論とし、また俳諧を藤井乙男(紫影)に学んだ事より句作。鹿児島の川内中学校に勤務時代、同僚の佐藤放也と「ホトトギス」に投句。高浜虚子に師事し、大正9年「散紅葉かさりこそりと枝を伝うふ」で初入選。当時、無味乾燥的な瑣末主義に陥っていたホトトギスの中にあって、叙情的で清新な野風呂の作風は、当時若くして名を成していた日野草城と並んで「草城・野風呂」時代と謳われた。
武道専門学校教授時代に日野草城、五十嵐播水らと「京大三高俳句会」を発足。
大正9年11月、日野草城、岩田紫雲郎、田中王城らとともに、俳誌「京鹿子」を創刊した。
「京鹿子」は「京大三高俳句会」を母体とし、後に山口誓子、五十嵐播水らも加わって、関西ホトトギスの中心をなしていく。
後に「京鹿子」に対し池内たけしが提唱し、水原秋桜子、高野素十、山口誓子、富安風生、山口青邨らの東大出身者を中心とした「東大俳句会」が発足し、この二つの流れが、ホトトギスの二大系統となっていく。
やがて「京鹿子」は草城、播水が京都を離れたことより、野風呂の主宰となり関西の「ホトトギス」の中軸となって発展していく。
野風呂は多作で知られ「連射放」と呼ばれた。それによってやがて平淡な事実諷詠の句が野風呂の特徴となる。
昭和46年3月10日没。

  内裏雛冠を正しまゐらする
  ついと来てついとかかりぬ小鳥網
  水洟や一念写す古俳諧
  鯨割く尼も遊女も見てゐたり
  秋海棠嵐のあとの花盛り

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いま手元に鈴鹿野風呂の作品が他に見当たらないので、歳時記に載る新茶の句をひいておく。

 生きて居るしるしに新茶おくるとか・・・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 雷おこしなつかし新茶澄みてあり・・・・・・・・・・・・・土方花酔

 夜も更けて新茶ありしをおもひいづ・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 新茶汲むや終りの雫汲みわけて・・・・・・・・・・・・・杉田久女

 新茶淹れ父はおはしきその遠さ・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 天竜の切りたつ岸の新茶どき・・・・・・・・・・・・・・皆吉爽雨

 無事にまさるよろこびはなき新茶かな・・・・・・・・・・・川上梨屋

 筒ふれば古茶さんさんと応へけり・・・・・・・・・・・・赤松蕙子

 新茶汲む母と一生を異にして・・・・・・・・・・・・・野沢節子

 新茶濃し山河のみどりあざやかに・・・・・・・・・・・・橋本鶏二

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新茶が出回ると、前年の茶は「古茶」となるわけで「陳(ひね)茶」という。「陳腐」の陳の意味である。
むしろ古茶を好む人もある。ここに挙げた終りから三つ目の句は、それを詠んでいる。 
こんな古茶の句もある。

 女夫(めをと)仲いつしか淡し古茶いるる・・・・・・・・・・・・松本たかし

 古茶好む農俳人ら来たりけり・・・・・・・・・・・・麦草



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