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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(10月)月次掲示板
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東日本大震災から九年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
c0085874_23145441ホトトギス
 ↑ ホトトギス草

十月になりました。
の季節です。味覚の秋、体育の秋です。

 そよや風われはその声知らねども百舌鳴くやうな夕暮れ来たる・・・・・・・・・・・・・・・内藤明
 ひと隅を占めて咲きいる慎ましさつゆの乾ぬまのむらさきしきぶ・・・・・・・・・・・・・三枝浩樹
 うから集ふ法要のなか父の子のわれはもつとも濃き血の嚢(ふくろ)・・・・・・・・小島ゆかり
 ほしいままに生きてきたとわれのことを言ふか さう見えるのか・・・・・・・・・・・・・・真中朋久
 歳月をひとめぐりして立ち寄ればぬすびと萩に種の実れり・・・・・・・・・・・・・・・・横山未来子
 かへらざる人を思へばこの幾日記憶の断片をてのひらに置く・・・・・・・・・・・・・・・・・外塚喬
 帰巣本能われにあるなら老耄のはてにいづくに戻りゆくならむ・・・・・・・・・・・・杜沢光一郎
 声の限り心の限り大泣きの児はあかあかと紅葉に並ぶ・・・・・・・・・・・・・・・・・・春日真木子
 晩秋の沼の面の水馬は微かな光の輪を踏みて立つ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三井修
 耳も目も衰ふる老いのただなかに春に十七になる犬がゐる・・・・・・・・・・・・・・・・・中野昭子
 年増とかいかず後家とか出戻りとか地下鉄後尾の揺れにまかせて・・・・・・・・・・・松平盟子
 こころざし忘じ果てたるしずけさか岬の端に陽のあたる見ゆ・・・・・・・・・・・・・・・・・奥田亡羊
 天心のあれは失くしたおっぱい、と虚にささめく声ある月夜・・・・・・・・・・・・・・・・・ 佐藤弓生
 追憶の彼方の恋や夕暮の空へ振るため人は手を持つ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・照屋眞理子
 萩もみぢとらへがたなきあかるさの 窓辺に充ちて、仮の世この世・・・・・・・・・・・ 中西洋子
 畑中に打ち捨てられた桐林ざらめの肌を蟻が上下す・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・武藤ゆかり
 甘栗を好み剥きゐし母の爪くらくらと今焼かれゐるなり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伝田幸子
 大欅伐り倒されて素裸の空あらはれぬ恥ぢらふごとく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 萩岡良博
 人間のほのめくごとく一房の葡萄の楽は鳴りはじめたり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 櫟原聰
 あきつしま瑞穂の国の夕つかた児らのにぎはふバーガーショップ・・・・・・・・・・・・小谷陽子
 声が来て神経叢をさやがせり無限自在のわれゐるどこか・・・・・・・・・・・・・・・・久我田鶴子 
 写されしすべては遺影となるものをハロウィンなれば南瓜を写す・・・・・・・・・・・ 阪森郁代
 メドゥーサの心にばかり気が行つてペルセウス座流星群の星見ず・・・・・・・・・・ 石川美南
 秋冷、という言葉を選ぶとき西南西に死海は碧い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 千種創一
 十月や
顳顬さやに秋刀魚食ふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・石田波郷
 十月や見上げて駅の時刻表・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・馬場公江
 石の上に秋の鬼ゐて火を焚けり・・・・・・・・・・・・・・・富沢赤黄男
 山畑に
蒟蒻育て霧に寝る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 金子兜太
 致死量の月光兄の蒼全裸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤原月彦
 独語して夜にぶつかる羊歯胞子・・・・・・・・・・・・・・・・・榎本祐子
 愚図な純情ふりほどけば花野・・・・・・・・・・・・・・・・・・・河西志帆
 あかあかと在りたき晩年烏瓜・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池弘子
 濁々と猪肉喰らふ夜の底・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・市堀玉宗
 コスモスの揺れて端役の出番待ち・・・・・・・・・・・・・・・・・金子敦
 秋の蚊を打つ音高し定食屋 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・折勝家鴨
 ランディと新大橋と秋の風・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・ 津野利行
 まんげつにだかれわたくし珊瑚礁・・・・・・・・・・・・・・・ 豊里友行
 最後の友とタイムカプセルを開ける・・・・・・・・・・・・・・ 月波与生
 紙魚走るカミュを跨ぎサルトルへ・・・・・・・・・・・・・・・・ 塩野谷仁
 街灯の暗さにありて秋の月・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・杉浦圭祐
 ハツカネズミを窺う風神雷神図・・・・・・・・・・・・・・・・・・武田伸一
 衰えてたまるか刻の尾を摑め・・・・・・・・・・・・・・・・・野間口千賀
 カーンと晴れ風の出て来し銀杏黄葉・・・・・・・・・・・・・・森田緑郎
 はたた神ひとりぼっちを見つけたぞ・・・・・・・・・・・・・・・山中葛子
 大ぶりの蜘蛛の巣いい仕事してるなあ・・・・・・・・ 佐々木香代子
 ぼーっと灯り一重瞼を閉じにけり・・・・・・・・・・・・・・・・・三井絹枝
 印度カレーとナン完食の清涼感・・・・・・・・・・・・・・・・・・相馬澄枝
 路地裏におぼろの墓ある那覇の街・・・・・・・・・・・・・・岸本マチ子
 母死後の記憶のなかに蕎麦の花・・・・・・・・・・・・・・ 鈴木八駛郎
 毛虫焼く空気一切朝なり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・矢野千代子
 晩節や恋など知らで胡麻叩く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山中伸
 直進の鬼やんまの瞳の少年・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊藤和
 齢とは今まといつく蚋払う・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・稲葉千尋
 顛末は消えてしまった蟻の列・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・榎本愛子
 殿様の馬暴れた原にソーラー発電・・・・・・・・・・・・釈迦郡ひろみ
 爽やかや語らずとも母の鼻歌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・わだようこ
 出棺の警笛野分おしあげよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・則包秀子
 水害地虫は語れど皆無言・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・米岡清四郎
 身にしむや胸に罅持つ微笑仏・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・桑野恵
 口笛の忘れし顔や赤とんぼ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佳夕能
 秋祭男の
艶めいて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石川澄枝
 曼珠沙華咲いたわループタイを出す・・・・・・・・・・・・・・ 岩根彰子
 秋晴の定位置にあるトラクター・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木牛後


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 歌集 『嬬恋』 (角川書店刊)
 歌集 『昭和』 (角川書店刊) 
 歌集 『無冠の馬』 (KADOKAWA刊)
 歌集 『信天翁』 (澪標刊) 
 詩集 『免疫系』 (角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』 (角川書店刊)
 詩集 『修学院幻視』 (澪標刊)
 詩集 『修学院夜話』 (澪標刊)
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萩の花/尾花 葛花/瞿麦(なでしこ)の花/女郎花/また 藤袴/朝貌の花・・・山上憶良
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   萩の花/尾花 葛花/瞿麦(なでしこ)の花/
       女郎花/また 藤袴/朝貌(あさがほ)の花・・・・・・・・・・・・・山上憶良


憶良は奈良時代の歌人。遣唐使として渡唐、後に筑前守(ちくぜんのかみ)となった。
人生の苦悩、社会の階級的矛盾を多く詠った歌人であったが、稀には、この歌のように、ふと目にとまった懐かしい景物をも詠った。
この歌は577、577のリズムの旋頭歌(せどうか)形式で秋の七草を採り上げている。念のために区切りを入れておいた。
尾花はススキ、藤袴はキク科の多年草で、秋、淡紫色の小さな筒状の袴を思わせる花を多数散房状に開く。
朝貌はアサガオ、ムクゲ、キキョウ、ヒルガオなどの諸説がある。
『万葉集』巻8に載る歌。

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藤袴というのが、どんな花か知らない人のために写真②にフジバカマを載せる。おおよそ、日本古来の「七草」というのは派手さのない地味な花である。
現代人は西洋や新大陸あるいは熱帯の派手な花に慣れているので、いかにも地味な感じを受けるのである。
写真③にナデシコの花を紹介しておく。
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先に山上憶良は万葉集の中ではめずらしく、社会の階級的矛盾を詠った、と書いたが、以下、憶良について書いてみたい。
その歌の典型的なものは『万葉集』巻5(歌番号892、893)に載る有名な「貧窮問答の歌」1首(長歌)と反歌のことである。
この歌を作って上官に差し出した時、聖武天皇が即位してからもう10年以上が経つ天平という年号の時代のはじめの頃のことである。
伯耆、筑前の国守の経歴を踏んだ老いた官人・憶良にして、ようやく出来た歌である。長いのではじめのところのさわりの部分と反歌を引用するにとどめる。
問うのは冬の夜の貧者、つまり作者と、それに応える極貧者の隣人という問答の形を採る。

風雑(まじ)り 雨降る夜の 雨雑(まじ)り 雪降る夜は 術もなく 寒くしあれば 堅塩を 取りつづしろひ 糟湯酒 うち啜ろひて 咳(しはぶ)かひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 鬚かき撫でて ・・・・・・寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒(こ)ゆらむ 妻子どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ この時は いかにしつつか 汝が世は渡る・・・・・・・
(反歌)
世間(よのなか)を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

山上(山於)の家については、よくわからない。
憶良の名前が『続日本紀』に登場するのは701年(大宝1年)のことで、そこには「無位山於憶良」と書かれている。
没年から逆算すると、この時42歳。この頃は、臣(おみ)という姓(かばね)も有していなかったのではないかと言われている。
701年に文武天皇の政府は唐との通交を再開することを決め、粟田真人以下の遣唐使を任命した。
その随員の末席に「無位山於憶良」の名が見え、その役目は「少録」つまり書記であった。
随分おそすぎるとは言え「少録」に抜擢されたことは42歳にしてつかんだ幸運と言える。
彼は翌702年に渡航し、704年(慶雲1年)に帰朝したようである。研究者によると、これらにまつわる記述もあるが省略する。
帰朝後、彼は、せいぜい六位くらいになって、中央官庁の下っぱ官人の地位を得た筈である。
714年(和銅7年)1月に正六位下から従五位下に昇進し、ようやく716年(霊亀2年)4月に伯耆国守に任ぜられ山陰の地に赴いた。
こういう地方長官としての経験が「貧窮問答の歌」というような画期的な歌の制作の前提になっていると言えよう。
721年(養老5年)に呼び戻されて、東宮(のちの聖武天皇)に近侍するようになり、中国の学問などについて進講したようである。
東宮は724年(神亀1年)に即位して聖武天皇になる。
これらの間に長屋王や大伴旅人をはじめ当代の碩学たちとの交流によって、その学識を深めたと思われる。
彼には『類聚歌林』という編著があって、『万葉集』には同著からの引用があることで、そのことが判るが万葉集の編者が、それを活用したと言える。
726年(神亀3年)に筑前国守に任命されたが、もはや老年で栄転とも言えないが、かの地では上官として赴任してきた大伴旅人などと交流している。
彼の「沈痾自哀の文」という長い漢文の文章や、万葉集巻6の天平5年(733年)のところに配列されている「彼、口述」という次の歌(歌番号978)

        ・・・・・・・・・・山上臣憶良の沈(おも)き病の時の歌1首
     士(をのこ)やも空しかるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして

の歌は辞世の歌として悲哀に満ちた響きを持っている。同年没の様子である。



この美しさを/「食べる?」/私はそれにあたいするかしら/花のまえに はじらうばかり・・・高田敏子
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──高田敏子の詩──(18)再掲載・初出Doblog2005/10/25

        菊の花・・・・・・・・・・高田敏子

     菊の花の
     紅をふくんだうす紫が
     箱にいっぱい

     ──さっとゆがいて召し上がって──
     友のことばがそえられて

     こんなにたくさん
     菊畑がそのまま
     送られて来たような
     花のまぶしさ
     花の香り

     この美しさを
     「食べる?」
     私はそれにあたいするかしら
     花のまえに はじらうばかり

     お盆に盛って
     棚においでの観音様に
     まずお供えして
     ご近所にもおすそわけしましょう

(詩集『こぶしの花』1981年花神社刊より)
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掲出した画像は、食用菊「もってのほか」である。
普通の菊よりも苦味が少ない。 他にも、いろいろの品種があるようである。
この詩にも書かれているように、さっと茹でて「おひたし」のように食べるらしい。
「らしい」と言ったが、私は食べたことがない。




露の世は露の世ながらさりながら・・・小林一茶
030811朝露本命②

     露の世は露の世ながらさりながら・・・・・・・・・・・・・小林一茶

江戸後期の代表的俳諧師の一茶は、信州柏原から15歳の時に江戸に出て、奉公生活にも俳諧修業にも辛酸をなめた。
異母弟との13年にも及ぶ遺産争いが解決し、51歳で帰郷、妻帯した。三男一女を得たが、長男、長女、それに次男と次々に幼くて死に、妻をも失った。
この句は溺愛していた長女・さと が、1歳余で天然痘のため死んだ時のもの。
この世ははかない露の世という。そんなことはよく知っている。よく知ってはいるが、知っていることが何になろう。
くりかえし、くりかえし、私は悲しくてたまらないよ。 ということであろうか。
『おらが春』所載だが、「露の世」というフレーズの繰り返しが秀逸であり、かつ痛切である。
「露」の句としては代表的な秀句として、よく知られている。
以下、「露」を詠んだ句を引いておく。

 露とくとく試みに浮世すすがばや・・・・・・・・松尾芭蕉

 甘からむ露を分かてよ草の虫・・・・・・・・石川桂郎

 白露や死んでゆく日も帯締めて・・・・・・・・三橋鷹女

 露なめて白猫いよよ白くなる・・・・・・・・能村登四郎

 われもまた露けきもののひとつにて・・・・・・・・森澄雄 

  露今宵生るるものと死ぬものと・・・・・・・・岡本松浜

 芋の露連山影を正うす・・・・・・・・・飯田蛇笏

 蔓踏んで一山の露動きけり・・・・・・・・原石鼎

 露の道高野の僧と共に行く・・・・・・・・池内たけし

 露けさの弥撒のをはりはひざまづく・・・・・・・・水原秋桜子

 落ちかかる葉先の露の大いさよ・・・・・・・・星野立子

 金剛の露ひとつぶや石の上・・・・・・・・川端茅舎

 露燦々胸に手組めり祈るごと・・・・・・・・石田波郷

 露の中つむじ二つを子が戴く・・・・・・・・橋本多佳子

 露の夜の一つのことば待たれけり・・・・・・・・柴田白葉女

 露の戸を敲く風あり草木染・・・・・・・・桂信子

 草の露繁し柩を下ろすべく・・・・・・・・高橋睦郎

 「母」の字の点をきつちり露けしや・・・・・・・・片山由美子

 まるきものに乳房心根露の玉・・・・・・・・鳥居真里子


私の頭の中には、いつの頃からか、/薄命さうなピエロがひとり棲んでゐて、/月光を浴びてゐるのでした。・・・中原中也
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         幻 影・・・・・・・・・・・・・・・中原中也

     私の頭の中には、いつの頃からか、
     薄命さうなピエロがひとり棲(す)んでゐて、
     それは、紗(しや)の服かなんかを着込んで、
     そして、月光を浴びてゐるのでした。

     ともすると、弱々しげな手付をして、
     しきりと 手真似をするのでしたが、
     その意味が、つひぞ通じたためしはなく、
     あはれげな 思ひをさせるばつかりでした。

     手真似につれては、唇(くち)も動かしてゐるのでしたが、
     古い影絵でも見てゐるやう───
     音はちつともしないのですし、
     何を言つてるのかは 分りませんでした。

     しろじろと身に月光を浴び、
     あやしくもあかるい霧の中で、
     かすかな姿態をゆるやかに動かしながら、
     眼付ばかりはどこまでも、やさしさうなのでした。

     ・・・・・・中原中也詩集『在りし日の歌』から・・・・・・・
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今日、10月22日は中原中也の忌日であるから、それを記念して、この詩を載せる。
山口市にある「中原中也記念館」のリンクを貼っておくのでアクセスされたい。

Wikipedia「中原中也」にも詳しい経歴などがある。今に至るも、よく読まれている詩人である。

→ 「山羊の歌」に載る詩をいくつか読める。

大正12年(1923年)3月 - 落第。京都の立命館中学第3学年に転入学。晩秋、高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』に出会い、ダダイズムに傾倒するようになる。
冬、劇団表現座の女優で広島出身の長谷川泰子を知り、翌年より同棲。
大正13年(1924年)- 富永太郎と出会い、フランス詩への興味を抱く。
大正14年(1925年)- 小林秀雄と出会う。
3月 - 泰子とともに上京。早稲田大学予科を志すも果たさず。
11月 - 泰子が小林の元に去る。富永太郎病没。
大正15年(1926年)4月 - 日本大学予科文科へ入学するも9月に退学する。
11月頃、アテネ・フランセへ通う。『山繭』に『夭折した富永』を寄稿。
昭和2年(1927年)12月 - 作曲家諸井三郎と出会い、音楽団体「スルヤ」に出入りするようになる。
昭和3年(1928年)5月 - 「スルヤ」第2回発表会にて、諸井三郎が中也の詩に作曲した『朝の歌』『臨終』が歌われる。父謙助死去。葬儀に帰省参列しなかった。
昭和4年(1929年)4月 - 河上徹太郎、大岡昇平らとともに同人誌『白痴群』を創刊。翌年終刊するまでに6号を刊行。

ざっと若い頃の経歴を見ても、長谷川泰子をめぐる小林秀雄とのことなど、いかにも一頃の文学者の典型のような情景である。




ぶどう棚を渡る風に/葉は枝を離れて落ちる/実りを終えて/安堵の心をみせての/静かな落下・・・高田敏子
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──高田敏子の詩──(16)再掲載・初出2005/10/23

       ぶどう棚の下・・・・・・・・・・高田敏子

     ぶどう棚を渡る風に
     葉は枝を離れて落ちる
     実りを終えて
     安堵の心をみせての
     静かな落下

     葉は落ちて
     地から見上げているよう
     光のよさを
     光を受けて紫の色増す
     実りのよさを

     ぶどう棚の下に座って
     落ち葉の一枚を
     ひざにのせている私

     風は少し冷たくても
     秋の深まりを素直に受けて
     落葉からまなぶ
     心の静けさ

(詩集『こぶしの花』1981年花神社刊より)


夕日の赤/あれは ほおずきの赤/風車の赤/柿の実の赤/糸につるした折鶴の赤の色・・・高田敏子
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──高田敏子の詩──(15)再掲載・初出Doblog2005/10/22

         夕日・・・・・・・・・・高田敏子

     すすきの穂のまねく
     秋の道
     まねかれ
     歩みつづけて
     岬のはずれまで来てしまった

     もう先へは行きようもないけれど
     ひろがる海はおだやかで
     やさしい小舟を浮かばせている

     水平線もはっきり見えて
     海上近くに落ちかかる
     夕日の赤
     あれは ほおずきの赤
     風車の赤
     柿の実の赤
     糸につるした折鶴の赤の色

     夕日は刻々海に近づいて
     円のはしが
     水平線に接したと思うと
     刻々の 時の早さを見せて
     沈んでいった

     沈みきったあとも
     私はまだ 赤の色を追っている
     母が髪に結んでくれたリボンの
     赤の色も思い出され

(詩集『こぶしの花』1981年花神社刊より)




こめかみのわびしき日なり毀誉褒貶かしましき日の暮れなむとする・・・木村草弥
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    こめかみのわびしき日なり毀誉褒貶(きよほうへん)
     かしましき日の暮れなむとする・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、自選60首にも採っているのでWeb上でもご覧いただける。
「うた作り」というのは、連作として、はじめから作るものもあるが、ある程度ばらばらに作った歌を、後から一定の小章名のもとにまとめる、ということもする。
この歌を含む一連を後で引用するが、その中では、掲出の歌は、どちらかと言うと異質かも知れない。
しかし、この歌の持っている雰囲気は、季節で言うと、やはり「秋」のもので、決して気分の浮き立つ春のものではないし、まして夏のものでもない。
私の、この歌は歌会で、私の他の歌のことで「的を射ていない」ような批評を小半日聴かされて、うんざりした気分の時の作品である。咄嗟に出来た歌かと思う。
以下、この歌を含む一連を引く。

     雌雄異株・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  なきがらを火の色つつむ頃ほひか盃を止めよ 声を絞れよ

  須勢理比売(すせりひめ)恋せし色かもみぢ散る明るむ森を遠ざかりきぬ

  いつか来る別れは覚悟なほ燃ゆる色を尽して蔦紅葉せる

  こめかみのわびしき日なり毀誉褒貶かしましき日の暮れなむとする

     ・・・・・・・・・・・聖武帝の皇子・安積王 17歳で744年歿
   わがおほきみ天知らさむと思はねばおほにそ見ける和豆香蘇麻山
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(大伴家持・万葉集第三・476)
   秋番茶刈りゆく段丘夭折の安積(あさか)親王葬られし地(つち)

   このあたり黄泉比良坂(よもつひらさか)といふならむ通夜のくだちに文旦を剥く

     ・・・・・・・・白鳳4年(676年)役行者42歳厄除けのため・・・・
   役小角(えんのをづぬ)の開きし鷲峰山金胎寺平城(なら)の都の鬼門を鎮めし

   無住寺に人来るけはひ紅葉に視界がよくなつたといふ声聞こゆ

   日おもてにあれば華やかもみぢ葉が御光の滝に揺るる夕光(ゆふかげ)

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・正安2年(1300年)建立の文字・・
   宝篋印塔うするる文字のかなたより淡海の湖(うみ)の見ゆる蒼さや

   つくばひの底の夕焼けまたひとり農を離るる転居先不明

   いくたび病みいくたび癒えし妻なるか雌雄異株の青木の雌木

   古唐津で茶を飲むときにうら悲し妻が横向き涙を拭きぬ

   厨べの灯が万両の実を照らすつねのこころをたひらかにせよ

   億年のなかの今生と知るときし病後の妻とただよふごとし
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この一連の舞台回しになっている金胎寺は京都府南部の山間部にあり、聖武天皇が一時造営された恭仁京のすぐ近くであり、平城京の鬼門にあたる北東に位置している。
だから、ここに役行者(えんのぎょうじゃ)が、この寺を建てたことになっている。
鷲峰山は高山というのではないが、この辺りでは最高峰ということになっている。
もっとも当地では「じゅうざん」と発音する。「じゅうぶざん」では言いにくいからである。
ここは昔、「行者」が修行したところで、今でも「行者道」と称するところがあり、このサイトでは写真入りで詳しく書いてあるから参考になる。「東海自然歩道」の一部になっているらしい。
ついでに言うと有名な「関が原」も地元では「せがら」と呼んでいるのと同様の扱いである。

この一連は、舞台回しにかかわらず、小章名の通り、私としては妻との間の心の揺れを描いたものが中心になっている。
歌というのは一連として鑑賞してもよいし、一首づつ単独で鑑賞してもらっても、よい。
この一連などは一首づつ、あるいは「一塊」の歌群を別々に鑑賞してもらっても、よい。



猫と生れ人間と生れ露に歩す・・・加藤楸邨
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     猫と生れ人間と生れ露に歩す・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

「露」は、夜晴れていて風のないとき、放射冷却によって地面が冷えると、それに接する空気が冷えて、大気中に含まれる水蒸気が水滴になるものである。
秋に多いので秋の季題になっている。
一面に降り、しぐれのように見えるのを「露時雨」という。
「古今集」に

       啼き渡る雁の涙や落ちつらむ物思ふ宿の萩の上の露

という歌があるが、「涙の露」「白露」「露けき」などの「思い」にかかわる用例とともに、「消ゆる」「徒(アダ)なる」のような「はかなさ」の一面が強調されてきた。
情感の深さにひびくとともに、「むなしい」ところが詠われる。

    露とくとく試みに浮世すすがばや・・・・・・・・松尾芭蕉

    しら露やさつ男の胸毛ぬるるほど・・・・・・・・与謝蕪村

    露の世は露の世ながらさりながら・・・・・・・・小林一茶

などが古句の名句とされている。
因みに言うと、一茶の句は長女を乳児のうちに死なせたときの句である。
掲出の楸邨の句は現代俳句として、古句とは違った心象の世界を描いて秀逸である。

以下、明治以後の句を引いて終る。

 病牀の我に露ちる思ひあり・・・・・・・・正岡子規

 露今宵生るるものと死ぬものと・・・・・・・・岡本松浜

 疾くゆるく露流れ居る木膚かな・・・・・・・・西山泊雲

 露の道高野の僧と共に行く・・・・・・・・池内たけし

 露けさの弥撒のをはりはひざまづく・・・・・・・・水原秋桜子

 巨杉の露の日筋を十方に・・・・・・・・高野素十

 落ちかかる葉先の露の大いさよ・・・・・・・・星野立子

 金剛の露ひとつぶや石の上・・・・・・・・川端茅舎

 露の花圃天主(デウス)を祈るもの来る・・・・・・・・山口誓子

 ショパン弾き了へたるままの露万朶・・・・・・・・中村草田男

 露の野やふとかはせみを見失ふ・・・・・・・・五十崎古郷

 露燦々胸に手組めり祈るごと・・・・・・・・石田波郷

 露踏んで相聞の句をつくらばや・・・・・・・・京極杞陽

 露の中つむじ二つを子が戴く・・・・・・・・橋本多佳子

 露の夜の一つのことば待たれけり・・・・・・・・柴田白葉女

 露の土踏んで脚透くおもひあり・・・・・・・・飯田龍太

 幾万の露けき石とわれひとり・・・・・・・・白石蒼羽

 白露や死んでゆく日も帯締めて・・・・・・・・三橋鷹女

 白露の瞳はかなしみの鈴をふる・・・・・・・・石原八束

 露の戸を敲く風あり草木染・・・・・・・・桂信子

 白露の世尊寺道をつくりをり・・・・・・・・大峯あきら



かすがの に おしてる つき の ほがらか に あき の ゆふべ と なり に ける かも・・・会津八一
kogetudaitotuki月光

  かすがの に おしてる つき の ほがらか に
   あき の ゆふべ と なり に ける かも・・・・・・・・・・・・・・会津八一


今日十月十七日は暦によると「朔」日で新月であり、月光は見えないが、敢えて、有名な会津八一の歌を載せる。
これを過ぎると寒くなり、お月見には不向きとなるので、ご了承を得たい。


明治14年新潟県に生れた作者は、歌人としてのみならず、書家として一世に名高かった。没後その名声はますます高い。号・秋艸道人。
元来は英文学者だが、東洋美術への関心が強く、とりわけ奈良美術史研究は第一人者として有名である。
早稲田大学教授。
上の歌は、初出の第一歌集『南京新唱』(大正13年刊)では漢字になっている部分も、歌の声調を重んじる立場から、後年、かな分かち書きに変えた。
奈良春日野一帯に照り輝く初秋の月。「ほがらかに」の働きひとつで風景は一挙に大きくふくらんだ。
『鹿鳴集』昭和15年刊所収。

掲出の写真は銀閣寺の光月台に照る月である。
会津八一については以前に採り上げたが重複しないように少し引く。

かすがの の みくさ をり しき ふす しか の つの さへ さやに てる つくよ かも

もりかげ の ふぢ の ふるね に よる しか の ねむり しづけき はる の ゆき かも

からふろ の ゆげ の おぼろ に ししむら を ひと に すはせし ほとけ あやし も

あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき この さびしさ を きみ は ほほゑむ

かすがの の しか ふす くさ の かたより に わが こふ らく は とほ つ よ の ひと

あまごもる やど の ひさし に ひとり きて てまり つく こ の こゑ の さやけさ

さをしか の みみ の わたげ に きこえ こぬ かね を さみしみ こひ つつ か あらむ

みほとけ の ひかり すがしき むね の へ に かげ つぶら なる たま の みすまる

いろづきし したば とぼしみ つゆじも に ぬれ たつ ばら の とげ あらは なり

あき ふかき みだう の のき に すごもる と かや に はね うつ はち の むれ みゆ
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「会津八一」ならびに、「会津八一記念館」については ← を参照されたい。

なお「会津」の表記については「會津」の字が正字であり、こういうことには八一は煩かったので、念のために書いておく。

私信と書評・・・萩岡良博
修学院夜話_NEW

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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     私信と書評・・・・・・・・・・・・萩岡良博「ヤママユ」編集長

<遅く咲き出て十月初旬まで炎えさかっていた曼殊沙華も、台風が来て、すっかり宇陀の野から消えてしまいました。
 白い秋です。
 詩集『修学院夜話』ご恵贈賜りありがとうございました。
 知らないことを知るのは大きな喜びです。それ以上に、漠然と知っていると思って過ごしてきたことが、知らなかったも同然であったと知ることはより深い喜びがあります。
 詩集冒頭の「一ツ森羨望」から全般にわたって、そんな感想をもちました。
 マヤ文明やアステカ文明、それに洪水伝説も(フレイザーの『洪水伝説』なども読みました)おぼろ気には知っていますが、つきつめて考えてみることはありませんでした。
 「一ツ森羨望」を拝読していますと、小生に伏流していた記憶が渦巻きながら脳内を流れていく喜びがありました。
 庄司薫の『白鳥の歌なんか聞こえない』という小説に、万巻の書物を読んだのにその厖大な知識をただもったまま死んでいく老人の話があったように記憶していますが(五十年ほど前に読んだ小説なので、うろ憶えです)、その老人とは違って、木村様がその該博な知識を詩集としてご恵贈くださるのは、まことに私たちの僥倖です。
 「二ツ森幻視」は、子供が小さい頃、毎年のように敦賀の海へ旅行し、三方五湖展望台に上って日本海を眺めたりしましたのに、常神半島や御蔵島の存在さえ知らないことに慄然としました。そして八百比丘尼の生命そのものである椿への幻視にも。
 また「三ツ森ハレ変異」は、現在のコロナ禍の世を根源的に俯瞰し、蔓延しているコロナ禍短歌を根底から揺さぶる批評になっていると拝読しました。
 そして「修学院夜話」。前詩集の『修学院幻視』が木村様の長年にわたる、ぶ厚い研究の上に立つ詩人の「幻視」であったことが明かされてスリリングでした。
 「徽宗」皇帝のこと、禁裏の火事のこと、板倉勝重と木村様の在所に残る地名のこと、など、挙げていけばきりがないのですが、知らないことを知るスリリングな喜びをもって夢中に拝読しました。「八条宮智仁親王添削歌」の添削例には思わずうなりました。後水尾院の元歌もいいのでしょうが。
 最後に、心に残りました後水尾院のお歌を一首引いて御礼に替えさせていただきます。
    ・花鳥に又逢ひみんもたのみなき名残つきせぬ老が世の春  (注・拙詩集の中の「延宝五ノ比 御年八十二」の個所より)
 木村様のように重厚に歳を重ねたいと思いつつ。 ご自愛下さいますよう。>
    十月十四日                       萩岡良博

追伸
一絲文守の永源寺の条にも心動かされました。貼付しました永源寺の紅葉の切手、小生のささやかな木村様へのオマージュとしてお笑い下さい。
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敬愛する萩岡良博氏から懇篤な、かつ的確な書評をいただき、作者冥利に尽きるというものである。
心より有難く拝受いたしました。有難うございました。


かきなぐる墨絵をかしく秋暮て・・・史邦
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  かきなぐる墨絵をかしく秋暮て・・・・・・・・・・・史邦

    はきごころよきめりやすの足袋・・・・・・・・・凡兆


これは発句と付句という連句遊びの一対である。
史邦の発句の575に対して、凡兆が付句で77と応じたもので、連句特有の約束事があり、簡単には説明できないが、見事な受答えと言える。

少し解説してみよう。
史邦の句の「墨絵」は15世紀なかば宋元画がわが国に流入して以来興った水墨画で、禅宗とも深いかかわりが生じた。
この句が詠まれた頃には、中国伝来という意味で、異国風な新鮮さがあった。
一方、凡兆の付け句の「メリヤス」は長崎などを通じて入ってきた紅毛の舶来品である。
つまり、この付け合いは、二様の異国情緒を取り合わせ、両句あいまって、晩秋ひとり心ゆくままに墨絵に没頭して楽しむ人物を描き出している。
風雅を解する豪商か、それとも脱俗の隠士か。
これは『芭蕉七部集』の『猿蓑』はつしぐれの巻、の一部である。

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写真に掲げたように「足袋」というのは日本の履物で二本指に分れ、「こはぜ」という独特の「留め金」で足首に留めるというものであるが、
その材質を西洋渡来の「メリヤス」の生地で仕立てると、何ともしっとりとした感じの足袋に仕上がり、足になじむのである。
こういう「言葉あそび」が歌仙などの「連句」遊びなのである。
芭蕉の頃から盛んに遊ばれたが、現代になって甦り、あちこちで歌人、俳人、詩人などが連句遊びをやっている。
私も一時期、誘われて「付け合せ」てみたことがある。これらは私のWebのHP「連句の巻」を参考に見てもらえば、多少はご理解いただけると思う。
ついでに説明すると「歌仙」というのは、ここに見るような一対が18対つまり合計36の句で出来ているのが、それである。時間の都合で「半歌仙」という18句の一連もある。
こういう連句は、基本的に「座の文芸」であるが、
今では「捌き手」を置いて、Web上で投稿を募り、捌き手が一番適当と思われるものを採用して、次に進むという催しも行なわれている。
連句に興味のある方には、新潮選書に入っている 高橋順子『連句のたのしみ』をおすすめする。もう十数年も前の出版だが、在庫はあるはずである。高橋は詩人で、小説家の車谷長吉の夫人である。
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掲出の写真に「メリヤス」の足袋のものが手に入らなかったのが残念である。


添水鳴る遠ざかり来てあきらかに・・・清崎敏郎
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     添水鳴る遠ざかり来てあきらかに・・・・・・・・・・・・・清崎敏郎

「添水」(そうづ)はまたの名を「猪おどし」シシオドシとも言う。
竹筒の中央に支点を作り、一方を削って水が溜まるようにした装置である。
水が溜まって重くなると竹が下がり水が流れ出て軽くなり、はねあがる。
すると、他端が急に下がり、石や金属を打って、コンと音を発する。
この音により山田を荒らす鳥獣を驚かして追い払う、という仕掛けである。
それから派生して、庭園などに設けて、流水を利用して、音を楽しむようにしたものである。
写真は、庭園にしつらえたものである。
添水というのは、字義からいうと「走り水」に添う、つまり「水路」のことから派生したものであろう。
水を引いて来て、その水を利用して「威し」の仕掛けを作る。

玄賓僧都が

    山田守るそほづの身こそあはれなれ秋果てぬれば訪ふ人もなし

と詠んだのが本意と言われている。
九州では兎鼓とか左近太郎とか呼ばれ、山口では「さこんた」とも言い、また訛って「迫の太郎」とも言われていたという。
水による、しゃれた動物おどしだが、実用には、ほど遠い音だと言える。

こういう音の威しの他に、「添水唐臼」といって、杵を仕掛け、米や稗を搗くものがある。
「水車」の類と言えば判りやすいだろう。

以下、添水を詠んだ句を引いて終る。

 ぎいと鳴る三つの添水の遅速かな・・・・・・・・河東碧梧桐

 ばつたんこ水余さずに吐きにけり・・・・・・・・茨木和生

 ばつたんこまた山の水受け始む・・・・・・・・朝妻力 

 添水かけて木々からびゆく響かな・・・・・・・・大須賀乙字

 添水鳴ると気のつきしより添水鳴る・・・・・・・・西山誠

 闇ふかく添水は己が音を待つ・・・・・・・・有働亨

 京鹿の子咲くと添水のはずみけり・・・・・・・・佐野青陽人

 闇中に声あるものは添水かな・・・・・・・・山中北渚

 ふるさとや添水かけたる道の端・・・・・・・・吉田冬葉

 あれ聞けと尼のかけたる添水かな・・・・・・・・前川舟居

 詩仙堂花なき庭の添水かな・・・・・・・・貞永金市

 失ひし時の重さに添水鳴る・・・・・・・・高橋謙次郎

 手に掬ふ添水に音を生みし水・・・・・・・・大岳水一路

 ばつたんこ法鼓のごとくこだませり・・・・・・・・山本洋子

 次の音自づと待たるばつたんこ・・・・・・・・脇坂豊子

 落柿舎の静けさとまる添水かな・・・・・・・・荒木千都江


短歌に詠まれるものを見つけるのが難しいのだが、こんな歌をひとつ見つけた。

  竹叢に淡く日の射す寺の庭思はぬ方に添水の音す・・・・・・・・・・・・・・神作光一 『未来都市』02年より



父を詠みし歌が少なし秋われは案山子のやうに立ちてゐたりき・・・木村草弥
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   父を詠みし歌が少なし秋われは
      案山子(かかし)のやうに立ちてゐたりき・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。

この頃では、農民が鳥よけのために実用に立てるものは殆ど見かけなくなった。
昔は、写真のような素朴な案山子が立っていたのだが、今ではネットを張ったり、「爆音器」でプロパンガスを爆発させたりして鳥を威すようになり、メルヘンはなくなってしまった。
この頃では廃棄された古いマネキン人形を田んぼに立ててあるのを見ることがある。
変になまめかしいもので、スズメなどの鳥が、どう感じるかは判らない。

私の歌は、もちろん案山子を詠んだものではなく、「父を詠んだ歌」が少ないというのが主眼であるから、ここで案山子のことを、あれこれ書くのも語弊があるかも知れない。
私の父は厳しい人で、反抗しては、よく、こっぴどく叱られたものである。
そんなときは、歌のように私は「案山子」のように突っ立っていたものである。
そんな回想が、この歌には込められているのである。
「案山子」かかしというのは、田畑の収穫を鳥獣から守る仕掛けだが、「嗅がし」から出た言葉だという。
古名は「曾富騰」(そぼと)で、『古事記』に「少毘古那神を顕はし白(まを)せし謂はゆる久延毘古(くえびこ)は、今に山田の曾富騰といふぞ。この神は、足は行かねども、ことごとに天の下の事を知れる神なり」と書かれている。
この「そぼと」は「そぼつ」に変り、案山子と添水の二つに分かれて用いられてゆく。そめ、しめ、とぼし、がんおどし、鳥かがしなどと各地で使われている。

以下、案山子、鳥威しを詠った句を引いて終る。

 水落ちて細脛高きかがしかな・・・・・・・・与謝蕪村

 案山子たつれば群雀空にしづまらず・・・・・・・・飯田蛇笏

 倒れたる案山子の顔の上に空・・・・・・・・西東三鬼

 案山子運べば人を抱ける心あり・・・・・・・・篠原温亭

 案山子翁あち見こち見や芋嵐・・・・・・・・阿波野青畝

 夕空のなごみわたれる案山子かな・・・・・・・・富安風生

 胸うすき案山子舁がれゆきにけり・・・・・・・・只野柯舟

 案山子相知らず新顔ばかりにて・・・・・・・・天野莫秋子

 抱へゆく不出来の案山子見られけり・・・・・・・・・松藤夏山

 かの案山子もつとも睨みきかせをり・・・・・・・・・河野白村

 鳥おどしこれより秋のまことかな・・・・・・・・小杉余子

 鳥威し簡単にして旅に立つ・・・・・・・・高野素十

 鳥おどし動いてをるや谷戸淋し・・・・・・・・松本たかし

 母恋し赤き小切の鳥威・・・・・・・・秋元不死男

 山風にもまるる影や鳥おどし・・・・・・・・西島麦南

 結び目だらけにて鳥威しの糸・・・・・・・・加倉井秋を

 金銀紙炎のごとし鳥威し・・・・・・・・加納流笳

 威し銃たあんたあんと露の空・・・・・・・・田村木国

 強引に没日とどめて威し銃・・・・・・・・百合山羽公

 怺へゐしごとくに威し銃鳴れり・・・・・・・・古内一吐



私信と書評・・・宮沢肇
修学院夜話_NEW

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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      私信と書評・・・・・・・・・・宮沢肇(詩人)

<前略。
 歴史的洞察を踏まえた第一級の資料ともいうべき硬質な御詩集『修学院夜話』をお送り下さり、また先には拙近著をブログにて紹介いただき、ご厚志のほどありがたくまた嬉しく心よりお礼申しあげます。
 木村様には短歌にご専念の由、小生遂に歌には入りませんでしたが、絶えず歌には郷愁を覚えてきました。
 亡父は赤彦一辺倒のアララギでしたし、幼時からの影響かもしれません。高田浪吉、赤彦末子の久保田夏樹氏など終生のおつきあいだったようです。
 大変な状況で、いっそうのご自愛を祈り上げつつ。     怱々。>

宮沢肇 著書
『雄鶏』(1959年) 『青春寓話』(1964年) 『仮定法の鳥』(1982年) 『鳥の半分』(1991年) 『帽子の中』(1996年) 『宮沢肇詩集』(1997年) 『朝の鳥』(2000年) 『分け入っても』(2003年) 『舟の行方』(2009年) 『海と散髪』(2015年) など。
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長野県─信州は短歌の盛んなところで、ここに書かれているように赤彦を始め歌人が多い。
現代歌人でも、新井章、太田水穂、小口太郎、奥村晃作、窪田空穂、五味保義、斎藤瀏、四賀光子、島木赤彦、藤森朋夫、松井芒人、武川忠一など。


現代短歌を読む会『塚本邦雄論集』・・・木村草弥
塚本_NEW

──新・読書ノート──

      現代短歌を読む会『塚本邦雄論集』・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・短歌研究社2020/10/02刊・・・・・・・・・

この本が山下泉氏から贈られてきた。
山下氏は、私が兄事する山田兼士先生の夫人である。
関西学院大学で「塔」創立者・高安國世にドイツ語と短歌を学ばれた。現在「塔」選者である。
掲出した画像から、この本の概要が読み取れると思う。
この会は尾崎まゆみの提唱で2010年に発足している。
これまでに、山中智恵子、葛原妙子、塚本邦雄、前川佐美雄(継続中)と読み継いで来て、現在までに二十名近い参加者を得ているという。

本書のことである。
この本の「後記」に藤原龍一郎が書いている。

<塚本邦雄生誕百年の年に、塚本邦雄論集を出そうというプランが実現できたことは嬉しい。
 私が初めて現代短歌を読む会に参加させていただいたのは、二〇一五年八月だったのではないかと思う。
 対象歌集は塚本邦雄の二冊目の歌集『装飾樂句カデンツァ』、場所は京阪寝屋川駅前の公共施設だった。
 暑い日だったと記憶している。その後、新大阪駅前の貸会議室などに場所を変えながら、二〇十八年まで続いた。
   ・・・・・ この本の最終校正をしている最中に、岡井隆氏が亡くなられた。時代の変換を否応なく、実感せざるをえない。
 そう思えば、この一巻のそれぞれの塚本邦雄論も、書かれるべき価値、読まれるべき価値が大きくなるのではないか。>

多くを引くことが出来ないので、この言葉を引いて、ご紹介の役目の一端を果たしておきたい。
「帯」裏に ◎本書の内容として「本論集の見取り図」として、こう書かれている。

     ●池田裕美子  幻視=見神の使命とメソッド
     ●尾崎まゆみ  言葉と肉
     ●楠 誓英    塚本邦雄の口語について
     ●楠見朋彦    われの不和
     ●彦坂美喜子  塚本邦雄
     ●藤原龍一郎  魔王転生
     ●山下 泉    塚本邦雄のポエティク 

この本をお贈りいただいた山下泉氏への返礼の意味を込めて、山下氏の論考に少し触れることにする。

山下氏の論は「塚本邦雄のポエティク」の傍題として「リルケのことなど」と書かれている。
リルケは高安國世の研究テーマの一つであったし、その弟子として山下氏が、いつも書かれていることである。
論は Ⅰ 初期詩学の概観 として

   つひにバベルの塔、水中に淡黄の燈をともし──若き大工は死せり       (未来史/雨季に)
   しかもなほ雨、ひとらみな十字架をうつしづかなる釘音きけり            (鎮魂曲/帆の章)
   磔刑の釘うつひびき夜もすがら 死火山の襞に湖はひかりて       (水葬物語/アルカリ歌章)

が引かれている。
ここで私事に立ち入ることを許されよ。
私は第四歌集『嬬恋』に「ダビデの星──イスラエル紀行──二〇〇〇年四月二九日~五月八日」を載せたが、その中でゴルゴダの丘への磔刑の幻視を描いたが、
その中に、ここに引かれる二番目の歌を、塚本邦雄の歌として「挿入」した。
これは私にとって記念碑的な旅だったが、ここに、その歌を見出して感慨新たなるものがある。
畏れ多いことながら、私の幻視は、塚本邦雄の幻視と、そこで繋がった気がしたことである。

山下氏の論は Ⅱ 「見ること」をめぐって   と続くが、本書への言及は、この辺で勘弁いただきたい。

同好の人たちの購読をお願いして、ささやかな紹介を終わる。 有難うございました。    (完)


冨上芳秀の詩「シマヘビ」他・・・木村草弥
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──冨上芳秀の詩──(11)

     冨上芳秀の詩「シマヘビ」他・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・「詩遊」No.67/2020 SUMMER所載・・・・・・・・

     シマヘビ     冨上芳秀

鼻毛を剃ろうとして電動式鼻毛剃り機を使ったが巧く剃れない。ご
わごわと鼻毛が生えている大きな鼻の穴の中を歩いている。足の裏
にツンツンと当たる鼻毛を踏みしだいて歩くのはなかなか骨が折れ
る。ぶわあ、ぶわあとウシガエルが体温のように生暖かい低い声で
鳴いているのが、耳の穴に入ってくる。カエルがいるところには、
それを捕食する蛇がいる。大きな暗いワンドの水際の草の道を私は
はだしで歩いている。一匹のシマヘビが叢の中に逃げようとしてい
る。シッポを捕まえて引きずり出すと毒がないけれど凶暴な鎌首を
持ち上げて噛もうとする。私は袋の中にシマヘビを放り込む。何年
も、昔、私は浅草のヘビ屋でシマヘビを食べたことがあった。ハブ
やマムシは高かったからシマヘビを食べたのだが、それ以来、私の
心身は強靭になった。シマヘビの這っている叢の歳月を足の裏の眼
で見ながら私は歩いている。鼻毛が巧く剃れないで生えている。何
が生えていても足の裏に眼があるので世界の底がはっきり見える。

     輪廻のアルマジロ

世界を支える三本の柱のそばで私たちは鬼ごっこをしていた。現在
の柱、過去の柱、未来の柱の周りを追いかけっこする。女との果て
しのない鬼ごっこ。私はあと何年、生きることができるのだろうか。
輪廻の男と女のみだらな生命力、物の始まりは言葉である。男は女
を受け止めることができると錯覚していたのに過ぎない。ぞっくり
と髪の毛が抜けましたね。次に爪、次に罪、次に歯、次に葉を落と
しながら、裸木になってしまって、春になったので、花を咲かせて
しまった。鼻を裂かせてしまったのは、あなたの穴にある罠でした。
わななくわびさび、わびしいわさび、おかかのお茶漬け、おっ母の
カビ、官能の過敏症。今、生まれたばかりだと思っていたのに、私
はもう老人になってしまっていた。世界は歳月の流れの中で複雑な
現象を私たちに次々と見せる。裸足で逃げ出した女は段階を駆け上
がり、悩みの部屋に駆け込んだ。名前を間違えた女は足を踏み外し、
落ちていかねばならない。間違いは誰にでもある、アルマジロ。交
わる万年床の上のエーデルワイス、また、私は、生まれてしまった
のだった。
-------------------------------------------------------------------------------
この冊子をお贈りいただいた。
冨上芳秀氏お得意の「散文詩」である。何といっても「プロット」が面白い。独特である。
最近の私の作品は、こういう形態の詩を参考にさせてもらっている。有難いことである。
ここに紹介した次第である。


私信と書評・・・小西亘
修学院夜話_NEW

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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       私信と書評・・・・・・・・・・・・・・小西亘

清々しい秋の候となりました。木村様には益々御清祥のことと拝察いたします。
 この度は御詩集『修学院夜話』を賜りましてありがとうございました。お礼を申し上げるのが大変遅くなりましたことを、お詫び申し上げます。
 拝読した感想を一言で申しますと、「読み応えのある書物だった」というものです。後水尾院についてほとんど知識のない私にとって、その作品や背景・人となりを学べた貴重な詩集でした。じっくり拝読しましたが、さらに辞書を繙きつつ再読いたします。
特に一絲文守の詩は一般の漢和辞典にない漢語が少なからずあり、諸橋漢和を引いて読解したいと思っております。
 後水尾院のお歌について「お見事なものである」と評しておられますが、私も同じ思いを持ちました。調べが流麗であり、しかも結句に向かって思いや感情がこもってゆくように感じます。当時の和歌は、大火事などの災難を詠まない、リアリズムではない、王朝和歌の伝統を踏まえるものながら、院のお歌は、単なる形式的な花鳥諷詠ではない、深い思いの籠る詠であると鑑賞しました。
 側近中院通村の歌について。実は自分でも口語訳を作ってみて、後で通釈を拝読しました。助詞をおろそかにしない、しかも和歌の雰囲気をよく伝える、行き届いた訳であると感嘆しました。日頃よく使う教科書や参考書の口語訳に不満を持つ私は、新鮮な思いで拝読いたしました。
 おおけないことながら、木村様の御文章の特長のひとつに、隅々にまで神経の行き渡った、的確さ、明晰さがあると思います。院の和歌をはじめとする作品、それに対する訳語や評、背景の解説、それらが明晰な文で積み上げられてゆくのを読み進むうちに、なるほどこれはまごうことのない「詩集」であると感じ入った次第です。
 後水尾天皇に関わる人物や背景の事実の記述を、ひとつひとつ拝読するのは楽しいものでした。そうして読み進むうちに、若いころ読んだ中村真一郎の『頼山陽とその時代』を思い出し、あるいはその手法によられたものかとも思いました。院と関わりのある人物や背景の事実から、後水尾院その人の人物像が、よりはっきりと浮かび上がってきます。たとえば「生涯を一貫して、幕府の権勢におもねる禅宗界の趨勢を嫌い、栄利を求めず孤高にして気韻ある隠者の禅をめざした」一絲文守などとの交際から、後水尾院の気骨を持った文人の姿が思われたのでした。
 御詩集は「色々の曲折を経て、江戸時代を通して、学問、有職故実、和歌の道の第一人者として君臨された」後水尾院の深さと魅力を十二分に伝えるのもであり、私にとって後水尾院を学ぶ貴重なテクストともなりました。上に述べました通り、再度辞書を繙きつつ拝読したいと思っております。
 御水尾院のいう優れた文人の存在を『修学院幻視』以上に感じさせていただいた詩集でした。充実した読書の機会を与えていただきましたことを心より感謝申し上げます。
 まったく的外れな駄文を綴ったかも知れません。拝読したそのままの感想を述べましてお礼に代えさせていただきます。ありがとうございました。
 今後ともご指導を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。
 末筆ながら、木村様のますますの御健筆を念じ申し上げます。            敬具
      10月11日                        小西 亘
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畏敬する小西氏から頂いた私信であるが、メールにして再送いただいた。お世話をかけました。
小西氏は当地における進学校に勤めておられたが昨年、退職され今は再任用で出勤しておられる。
また郷土史にも関わっておられ、上田三四二などの文学者と当地との関わりなどを本にしておられ当地では有名人であられる。
今は受験シーズンの前段階としてお忙しいことだろう。その中で、ご面倒をおかけしお詫びする。有難うございました。








牧神の午後ならねわがうたた寝は白蛾の情事をまつぶさに見つ・・・木村草弥
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↑ ド・ヴュッシー「牧神の午後」楽譜

    牧神の午後ならねわがうたた寝は
        白蛾の情事をまつぶさに見つ・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

秋の季節は生き物の世界でも越冬に備えて、卵の状態で冬を越すものが多いから交尾をして卵を産むのに忙しい繁殖期だと言えるだろう。
「白蛾の情事」というのも実景としても見られるものである。
しかし、この歌ではそれは添え物であって、私の詠いたかったのは「牧神の午後」というところにある。
演奏の曲を出したいところだが、この頃は厳しくて出せないので楽譜を掲出するにとどめる。

 シュテファヌ・マラルメについては ← が詳しい。
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 ↑ポール・パレェ指揮による「ドビュッシー/牧神の午後への前奏曲」CDのジャケット。
 
『牧神の午後』 L'Après-Midi d'un Faune はフランスの詩人シュテファヌ・マラルメの「長詩」である。
着想そのものはギリシァ神話に基づいている。
物語自体は非常に単純なものである。水辺でニンフたちが水浴びをしている。
そこへ彼女たちの美しさに目を奪われた牧神パンが仲間になりたいとやって来るが、ニンフたちはパンが半獣半人の姿なので驚いて逃げてしまう。
追っかける、逃げる、の繰り返しの中で、一人のニンフだけがパンに興味を示し、パンも求愛の踊りをする。
愛は受け入れられたかに見えたが、パンが彼女を抱きしめようとするとニンフは逃げてしまう。
パンは取り残されて悲しみにくれたが、彼女が落としていったスカーフを見つけ、それを岩の上に敷いて座り「自慰」(オナニー)する。
マラルメは、これを劇として上演したかったが無理と言われ、マネの挿絵付の本として自費出版した。
これに感動したドビュッシーが、マラルメへのオマージュとして『牧神の午後への前奏曲』を作曲する。
マラルメの夢のバレエ化が、20年後にニジンスキーによって実現されることになったのである。
初演は1912年5月29日、ディアギレフ・ロシア・バレエ団で、パリのシャトレ劇場において、ワスラフ・ニジンスキーの主演で催行された。
当時、このラストシーンで、ニジンスキーは舞台の上で恍惚の表情を見せ、しかも最後には「ハー」と力を抜く仕草までして見せたと言い、
彼の狙い通り「スキャンダル」の話題を引き起こしたという。

 ↓ 写真は牧神パンとニンフのイメージである。
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↓ 写真に「蚕蛾」を出しておく。
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この蛾は、人間が改良したもので、飛ぶ力は、全く、ない。羽根は退化して体重に比べて極めて小さい。
蚕蛾の場合は、ここまで蛹から成虫になること自体が人工的であって、普通は繭から糸を取り出す段階で熱湯で茹でられてしまって死んでしまうのである。
蛾は雌雄が引き合うのに雌が出す「フェロモン」を雄が感知して、羽根を震わせながら狂ったように寄ってくる。
今では、こういう蛾の習性を利用して、「生物農薬」として、特有のフェロモンを合成して、特定の蛾の害虫の誘引に使っている。
蛾にとっては交尾は「本能」であって「情事」との認識はないのだが、この歌の中では「擬人化」して、情事と詠ってみた。擬人化は文芸の常套手段である。

木村草弥『修学院夜話』書評・・・谷内修三
修学院夜話_NEW

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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──評論・書評──

      木村草弥『修学院夜話』書評・・・・・・・・・・・・・・・・谷内修三
            ・・・・・・・詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)2020/10/11掲載・・・・・・・

木村草弥『修学院夜話』(澪標、2020年11月01日発行)

 木村草弥『修学院夜話』は、糸井茂莉や高貝弘也、柏木麻里のことばの運動とはまったくちがう。「天子諸芸能のこと、第一御学問なり」に、こんな部分がある。42ページ。

後水尾院については、近衛家に伝わる『陽明文庫』の資料や禁裏の近くに居た僧侶の日記など、資料が多いと言えるだろう。
これは私の詩であって、論文ではないので、なるだけ平易にしたいのだが、説明しないと分かりにくくなるので、最低限にして資料を引きたい。

 「これは私の詩であって」とわざわざことわっている。そうことわらないと、読者は詩とは思わないかもしれない。それを懸念している。
 糸井も散文スタイルで書いているが、それを読者が「詩ではない」と思わないことを確信しているだろう。高貝、柏木は行分けだから、もちろん「詩ではない」と読者が言うはずがないと思っているだろう。
 これが木村と、糸井、高貝、柏木を完全にわけている。

 さて。

 それでは木村にとって、詩とは何なのか。
 いや、こういうことは作者に言わせてしまっては意味がない。

 私が、どう感じるか。
 たとえば、おなじ42ページのつづき。

それらの資料を読んでいると「儲君」という今では聴き慣れない単語が出て来る。
これは、元はと言えば中国古代の漢代に発する制度だということである。
儲君=皇太子と考えていいのだが、どっこい複雑である。

 「聴き慣れない単語」とは知らないことばである。だからこそ木村は調べている。そして「元はと言えば中国古代の漢代に発する制度だということである」と説明している。ことばを、いまの、自分の(私たちの)コンテキストのなかでとらえなおしている。ただし、こういうことは簡単ではない。複雑なことが起きるのである。ことばの「意味」はいつでも「イコール(=)」ではない。
 ここからは、木村の考えであるかどうかは、わからない。つまり、私の「誤読」を書くことになるのだが。
 この「ことば」をとうして「イコールではない」というものの世界へ踏み込んでいく。イコールを求めながら(理解することを求めながら)、イコールではないもの、「ずれ」を見つけ出し、それをつかみとる。その運動そのものを木村は「詩」の体験と呼ぶのである。あるいは「詩」の実践と呼んでもいい。
 これを、なんといえばいいのか、実にテキパキと進める。無駄がなく、速度にゆるぎがない。この正確さに、私は引きつけられる。言い直すと、そこに「詩」を私は感じている。ことばが自分の目的に向かってひたすら動いていく。その力に私は「詩」を感じている。
 それは、こんな具合に展開する。「八条宮智仁親王添削歌」(67ページ)、後水尾院が若いときに八条宮智仁親王から添削を受けたことについて書いている。先に後水尾院の歌、次に添削された歌を引いている。(行空きと歌番号は省略)

■ふるほどは庭にかすみし春雨をはるる軒端の雫にぞしる
降るとなく庭に霞める春雨も軒端をつたふ雫にぞ知る
■みる度にみし色香ともおもほえず代々にふりせぬ春の花哉
 見る度に見しを忘るる色香にて代々にふりせぬ春の花かな
(略)
こうして見て来ると、八条宮の添削が、極めて的確であることが判る。しかも添削に当たっては、なるべく後水尾院の元歌の語句を残して巧く直してある。

 事実を積み重ね、そのあとで思ったこと(自分のこころがどう動いたか)を書くというのは「散文」のスタイルである。森鴎外のスタイルである。その散文のなかの、何が「詩」なのか。
 「判る」。発見が「詩」なのだ。その「判ったこと」というのはどこで起きているか。木村の「肉体」のなかで起きている。そして、それが「肉体」の外へ飛び出してきている。「わかった(こと)」は後水尾院の歌と八条宮の添削の間にあり、その「間にあるもの」は木村が指摘するまでは「ことば」としては存在していない。「ことば」にした瞬間に存在し始める。ことばは「後水尾院の歌と八条宮の添削の間にあるもの」と木村の「肉体」をつないだのである。その瞬間、それは「歌と添削の間」にあるのか、木村の「肉体」のなかにあるのか、という区別を超越して存在する。
 木村は、木村が「判ったこと」に、「極めて的確」「巧く」とことばを重ねている。「判る」だけでは、ことばが止まらなかったのだ。これを「ことばの暴走」と考えれば、多くの「暴走することばの詩」につながる。暴走の仕方がちがうだけで、木村のことばも「暴走」するのである。しかし、それは「判る」ということと関係している。

 事実をひとつひとつ確かめ、積み重ねる。そのあとで、「ことば」を「暴走」させる。しかし、その「暴走」はとても小さく見える。これは木村が抑制しているのである。事実を積み重ねることばの動きにも抑制が効いているが、暴走にも抑制が効いている。だから暴走には見えないかもしれない。むしろ、木村は暴走を見せないようにしているとさえ言える。
 その拮抗に、私は、さらに「詩」を感じる。

 紹介の仕方が逆になったかもしれないが、この詩集は、実は「二ツ森幻視」と「修学院夜話」の二部構成になっている。「二ツ森幻視」は、いわゆる行分け詩である。そのなかの「最後の審判」。

フランス、コンクのサント・フォア教会の「タンパン」
タンパンとは教会の扉の上部の半円形のアーチ部分
キリストの上げた右手に神の国、
下げた左手に地獄の有様が彫られている
十二世紀初めから一一三〇年頃の作品である
シトー会の聖ベルナールは先立つクリュニー会の華美さを嫌った
イエス・キリストの清貧な生活に帰れ、ということである
だが、そのシトー会にしてからが讃美歌合唱に血道をあげていた
ロマネスクの時代は「ヨハネ黙示録」の時代と言われる
『新訳聖書』の最後を飾る歴史物語が定着していった

 サント・フォア教会へ行った。そこで知ったことを書いている。建物の描写から始まり、信仰の変化について書いている。「時間」(歴史)を人間の変化として見ている。そのことだけが、私に理解できることだ。そして、私は、この木村の「時間(歴史)」と人間を結びつける視点が、木村の文体を鍛えていると感じる。この鍛えられた簡潔な文体は信じられる、と感じる。
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畏敬する谷内修三氏が、上記のような書評を書いてくださった。
FBで読めるが、会員でないとアクセスできないかと思い、ここに再録しておく。
いつも私の本が出る度に批評していただき有難うございます。
勝手ながら、この再録をお許しいただきたい。



 


黒猫が狭庭をよぎる夕べにてチベットの「死の書」を読み始む・・・木村草弥
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    黒猫が狭庭をよぎる夕べにて
      チベットの「死の書」を読み始む・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
この歌自体は季節に関係はないが、「死の書」というので、ちょうど秋の彼岸も過ぎたことなので季節の歌と受け取ってもらっても構わない。

430976018X.09.LZZZZZZZエジプト死者の書

関連はないが、同じ「死者の書」(ウォリス・バッジ著)というのが古代エジプトにも存在した。
写真②が、それであるが、チベットにおける「死者の書」の扱いと同じようなことをしたらしい。

チベットの「死者の書」はいくつかのヴァージョンがあるらしいが、説くところは同じである。
チベットでは宗派を問わず、一般に「死者の書」という経典を臨終を迎えた人の枕元でラマ僧が読む習慣がある。
死者がこの世に執着しないように肉親、親類は遠ざけられる。
その経典には、死者が死後に出会う光景と、その対処法が書かれている。
この本の「曼荼羅」に現れる神々は男女交合の姿で描かれるという。(写真③)

yabマンダラ交合図

青い仏に抱きつくようにして交合している髪の長い、白い体の女の姿が見えるだろう。女は「口づけ」しているようだ。
これは歓喜仏(ヤブユム)と呼ばれているが、これは神々の合体の姿の中に、究極的な境地の至福の状態である「大楽」が保持されているからだという。
日本に伝えられた仏教の「理趣経」がそれに当るが、これこそ密教の最も密教的な部分である。
日本では「聖天」さんとして祀られているところで見られる。

死者は49日間バルドゥと呼ばれる生の中間的な状態に留まるが、その間に死者は、死の瞬間に眩しく輝く光を体験する。
最初の一週間で死者は平和の様相の神々の、次の一週間で怒り狂った神々の来迎や襲撃を受け、遂には閻魔大王の前に引き出され、人によっては灼熱地獄に投げ込まれたりする。
そして死者は、それぞれのカルマに従い、六つの世界のいずれかに再誕生してゆく。

今日、仏教(場合によっては「神道」も、これらの影響を受けているという)の色々の行事──たとえば、四十九日の忌明、満中陰の決まりなどは上に書いたバルドゥの考えそのものである。「生れ変り」「輪廻転生」などの考え方も、上に書いたことの表れである。また「地獄、極楽」あるいは「エンマ様」のことなど、われわれ仏教徒が子供の頃から親に言われてきたことを思い出せば、よくお判りいただけよう。
こういう俗事はわかり易いが、哲学的にいうと、深い思想を含んでいると言われている。
哲学者の浅田彰氏の本など、結構むつかしいものである。
写真④の歓喜仏は1900年頃チベットで作られたと思われる金銅製のもので高さ15センチくらいの小さいもの。
00892side1歓喜仏1900頃

このような「歓喜仏」はチベット特有のものではなく、ヒンドゥー教には古くからあるものである。
北インドのカジュラホに行くと、寺院の外壁一杯にレリーフが大小さまざまの交合スタイルで彫刻されている。ズームカメラがあれば鮮明な写真を撮ることが出来る。

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写真⑤はガネーシャという象の頭の格好をした神の歓喜仏である。
このようなスタイルは珍しいが、インドはヒンドゥー教が主流を占める国である。
ヒンドゥー教は多神教で、一神教のような「禁忌」は殆ど、ない。
ガネーシャというのは主神シヴァ神の子供だが、父親の言いつけに背いて罰をうけ、このような象の頭に首をすげ替えられた。
ガネーシャに組み敷かれた女の表情も、むしろ嬉しそうで、エクスタシーの境地にあり、ガネーシャの首に手を廻しているほどである。 
書き遅れたが、この像は宮城県のお寺にあるという。
こういう性に関する大らかさが特徴であると言えるだろう。
余談になるが、インドに行くと、このガネーシャ神を祀った寺院がある。
どうも、このガネーシャは金儲けの神様でもあるらしく、お金持ちの事業家が金ピカの大きな寺院を喜捨して建てているのである。


子がなくて白きもの干す鵙の下・・・桂信子
mozu_1モズ 雄

      子がなくて白きもの干す鵙の下・・・・・・・・・・・・・・・桂信子

「鵙」モズの高鳴きがひびく季節になってきた。
モズは燕雀目モズ科の猛禽。やや大きめものでも捕食する。生餌を食べる鳥である。
掲出の写真①はモズの雄で、眼のところに横に黒い筋(過眼線)がある。
写真②はモズの雌で、雄のような黒い筋がない。色も相対的に地味である。
mozu02-2モズ雌

モズは一年中いる「留鳥」だが、秋には先に書いたように「高鳴き」をするが、これは縄張り宣言のための警戒音と言われている。
モズは「百舌」とも書くが、これは他の鳥の鳴き真似をするからで、じっと聞いていると、さまざまの鳥の鳴き声を真似している。
繁殖期も含めて、高鳴きをすることがないから、目立たないので、気がつかないだけである。
「高鳴き」のシーズンは、人が近づくだけでも、けたたましく鳴きたてる。
秋には「モズの早贄(はやにえ)」と言って、捕らえた餌を尖った枝の先などに刺しておく習性がある。
これは蓄食のためだというが、乾燥してこちこちになったものは食べないのではないか。もともとモズは生餌を食べる鳥である。
写真③はトカゲを捕らえたところ。
mozu03モズはやにえ

↓ 木の枝に刺した早贄(はやにえ)の写真。
hayanie4モズはやにえ

餌は昆虫、トカゲ、蛇、魚、野ねずみ、蛙、小鳥など多岐にわたる。猛禽と呼ばれる所以である。
モズについては私の歌を掲出して昨年に書いたことがあるので、参照してもらいたい。
このようにモズの高鳴きが目立つのが秋なので、鵙の季語は秋になっている。
すでに「万葉集」にもモズを詠んだ歌があるほど文芸の世界では、古い付き合いである。
『本朝食鑑』に「およそ鵙、つねに小鳥を摯(と)りて食ふ。その声高く喧くして、好からず」とあり、猛く喧しい鳥と考えられてきたのも秋の「高鳴き」のイメージから定着したものであろう。
俳句に詠まれる句も多い。
掲出した桂信子の句は、早くに夫に先立たれて「子を産めなかった」女の哀しみをモズに寄せて情感ふかく詠まれている。
以下、モズの句を引いて終る。

 我が心今決しけり鵙高音・・・・・・・・高浜虚子

 大空のしぐれ匂ふや百舌の贄・・・・・・・・渡辺水巴

 われありと思ふ鵙啼き過ぐるたび・・・・・・・・山口誓子

 かなしめば鵙金色の日を負ひ来・・・・・・・・加藤楸邨

 御空より発止と鵙や菊日和・・・・・・・・川端茅舎

 百舌鳥に顔切られて今日が始まるか・・・・・・・西東三鬼

 たばしるや鵙叫喚す胸形変・・・・・・・・石田波郷

 逢はざるを忘ぜしとせむ雨の鵙・・・・・・・・安住敦

 鵙は嘴なほ血塗らねば命絶ゆ・・・・・・・・中島月笠

 鵙鳴けり日は昏るるよりほかなきか・・・・・・・・片山桃史

鵙の贄叫喚の口開きしまま・・・・・・・・佐野青陽人

 鵙の贄まだやわらかき日ざしかな・・・・・・・・塩尻青茄

 生きものの形ちぢみて鵙の贄・・・・・・・・山口速

 鵙鳴いて少年の日の空がある・・・・・・・・菊池麻風

 夕百舌やかがやくルオー観て来たり・・・・・・・・小池文子



武藤ゆかり歌集『みちひらき』・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

      武藤ゆかり歌集『みちひらき』・・・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・南天工房2017/06/06刊・・・・・・・・

敬愛する武藤ゆかり氏から、この本を恵贈された。
武藤氏には私の歌集『昭和』を上梓した際に三井修氏の主宰する同人誌「りいふ」6号2012/07に「魂は痛みを越えて」─木村草弥歌集『昭和』を読む懇篤な批評文を書いてもらった。← リンクになっているのでお読みいただきたい。
そして同年夏に三井修氏のお世話で東京で開いてもらった『昭和』を読む会にも出席していただいた。
その時以来、私の本の批評文を何度も書いてもらっている。

武藤ゆかり 略歴
1965年茨城県常陸太田市生まれ。
東京外国語大学卒業。
1998年 「短歌人」入会。日本写真協会会員。
著書
歌集『夜の姿見』(フーコー)、『ささめ琴』(短歌新聞社)、『ほくろの北斗七星』(近代文芸社)、『ゆかしめて森』(沖積舎)、
『とこはるの記』 『異界伝説』 『たそがれ通信』 『ひなたみち』 『北ときどき晴れ』 以上「南天工房」など。
新聞記者をされていた期間もあり、写真集数冊刊行。写真のプロである。
武藤氏は自宅を「常春庵」と称しておられ、「南天工房」という名前も自前の出版社である。

この歌集の「あとがき」の末尾に、こう書かれている。
<・・・・・『ひなたみち』 『北ときどき晴れ』と本書と合わせて「ひなたみち三部作」としたい。・・・・・>
一ページ6首掲載というぎっしりと重い本で、総歌数1105という大部のものである。これは2012年~2015年に詠まれたもので極めて多作だと言える。
上の文章に続いて
<言語や歴史、科学や地理など、世の中には面白い未知の世界がたくさんある。
 それら魅力あふれる大陸へ向けて、小さな舟を漕ぐように歌を歌っていきたい。
 歌は朗詠であり呼吸である。息を吸い込むときは前向きに、吐き出すときは後ろ向きになり、自分の息が小舟の推進力になれば楽しいではないか。
 たとえどこにもたどり着けなくても、小舟が逆に走ってしまっても、楽しい気分で歌を歌いたい。
 そして、不思議に満ちたこの国の全体が、いつか生命力に光り輝く「いやしろち」と化す夢を見ていたい。・・・・・>

と書かれている。
武藤氏は多弁である。歌も多作である。
何分、歌の数が多いので見落としも多いと思うが、歌を見てゆきたい。

この本は先に引いたように2012年から2015年までのものであるから、第一部から第三部の章立ては暦年によるものだろうか。
第一部には「三河の蝉」 「六ケ所村の九月」 「のへじ行」 「津軽にて」 「りんごの国」 「さいぎさいぎ」 「嶽温泉」などの名前が並ぶ。
巻頭の「三河の蝉」から
  ・二人して帰省してから手渡しの謹賀新年ことしもよろしく
  ・ふるさとの黄門もなか別便でお送りします喜寿の祝いに
  ・痛み止め飲んでいますか要返事折れていなくて幸いでした
  ・虫眼鏡あてて読んでねあずま路の果てより届く郵便はかき
  ・なすの花開きましたと絵手紙に添え書きにじむ前略草々

始めの部分を続けて引いた。
自動小銃の引き金を引くように、歌が連射的に出てくる。そして、それが物語になってゆく。
これが作者の歌の特徴のようである。一首一首に意味を汲み取っては、いけない。

次の「六ケ所村の九月」を見てみよう。
  ・そよろとも風吹かぬ日のかざぐるま弥栄平のおちこちに立つ
  ・大いなる湿原はあり不夜城のむつ小川原港近きところに
  ・窓開けて走っていいか二重柵の内側にある濃縮工場
  ・白鳥は知るや知らずや使用済み核燃料が村にあること
  ・みりぐれいまいくろぐれいなのぐれい灰色という響きにも似て
  ・土地の人らしき男現れて浜なすの実を口に含めり

この土地には見過ごせない「現実」があるのだが、歌は淡々と詠まれてゆく。

  ・おいで風おいで霧雨お岩木の白く凍える鳥の海から──嶽温泉
  ・鳥肌が立つほど痛い耳の奥生きるってのは時々つらい──小岩井農場
  ・凪ぎわたる野辺地の海に真向かいて心にひらく追憶の花──のへじ行
  ・謎めいた配置の神社めぐりたし津軽の北斗七星伝説──津軽にて
  ・沿道にりんご農園続きおりああどこまでも津軽のくには──りんごの国
  ・ゆるやかな林道のぼる嶽温泉やらいの雨にもみじ濡れつつ──嶽温泉
  ・引き算の豊かさ満ちているところみちのく津軽らんぷの宿は──らんぷの宿

第二部から引く。
  ・使用済み核燃料の貯蔵庫に影を落として戦闘機飛ぶ──上北の道
  ・十二湖は鶏頭場の池に雨落ちて九月の水をうつくしくする──深浦の記
  ・硫黄の香ひばの林に漂いて霊場恐山の山門あらわる──恐山参拝記
  ・月よりの微風を受けてかざぐるまゆっくり回る弥栄平
  ・お豆腐にこんもりかつお節掛けておひとりさまのお昼ご飯を──自画像
  ・今日明日の命とばかりうみねこは切羽詰まった声で鳴きおり──うみねこの島
  ・菜食のたまものなれや細き目に笑みを絶やさぬ青年僧ら──永平寺参拝

第三部から。
  ・十三湖きのうの雨に泥となる濁りの底のやまとしじみよ──津軽海峡
  ・めいめいが胸にかなりあ飼いながらその鳴き声を隠そうとする──かなりあの歌
  ・虹の脚なぜか三つに分裂し東海村を突き刺しており
  ・つつがなき暮らしぶりにていとこ殿わが両親をいたく喜ばす──青森屋
  ・湯上がりのお客をさらに熱くするすこっぷ三味線熟練の技
  ・はは二度目ちちは初めてわれ五度目三途の川を仲良く渡る──恐山へのいざない
  ・口寄せに尋ねたきことあるという母の主張は強くはなけれど
  ・酸ヶ湯には美肌成分あるようで父の素肌はいよよつやめく──酸ヶ湯へのいざない
  ・目に見えず鼻に臭わぬ高濃度核物質の汚染やいかに──地層
  ・秋晴れの東海村は石神の小学校に鐘ひびくなり
  ・極楽はろっかぽっかの露天風呂くびから上は氷点下でも──ろっかぽっか
  ・花びらを変色させて酸性の雨が降るなり常陸太田に──操縦室
  ・昼寝する黒毛和牛の向こうにも菜の花畑広がっており──菜の花慕情
  ・葦毛崎いかにと問わばあまがける銀河鉄道始発駅とぞ

「東海村」は作者の住むところである。なぜ、ここに住んでおられるのか知らないが、或いは夫君の勤務地なのか、と想像する。
雑駁な鑑賞に終始したことをお詫びする。作品数が多すぎて神経が集中しなかった。
「多作」が作者の本領である。これからも、ご健詠を。  有難うございました。        (完)



竹杭が十二、三本見えてをりその数だけの赤トンボ止まる・・・木村草弥
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  竹杭が十二、三本見えてをり
   その数だけの赤トンボ止まる・・・・・・・・・・・・・木村草弥


いよいよ赤蜻蛉の飛び交う季節になった。
この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載せたものである。とりたてて巧い歌でもないが、叙景を正確に表現し得たと思っている。
赤トンボというのは竿などの先端に止まる習性をもっており、また、群れる癖もある。
よく観察してみればお判りいただけると思うが、私の歌のように立っている杭の先端すべてに赤トンボが止まって群れているという情景は、よく見られるところである。
この歌は「嵯峨野」と題する一連5首のものである。下に引いておく。

    嵯峨野・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

   北嵯峨の遊女の墓といふ塚に誰が供へしか蓼の花みゆ

   竹杭が十二、三本見えてをりその数だけの赤トンボ止まる

   虫しぐれ著(しる)く響かふ嵯峨の夜は指揮棒をふる野の仏はや

   輪廻説く寂聴は黒衣の手を挙げていとほしきもの命とぞ言ふ

   さわさわと風の愛撫に任せつつうつつの愉悦に揺るる紅萩

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赤トンボの「赤」色は繁殖期の「婚姻」色らしく、赤色をしているのは「雄」だという。雌は「黄褐色」をしているらしい。
赤トンボというと、三木露風の歌が有名で、判り易く、今でも愛唱されている。
赤トンボの句を少し引いて終りにする。

 赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり・・・・・・・・正岡子規

 から松は淋しき木なり赤蜻蛉・・・・・・・・河東碧梧桐

 生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉・・・・・・・・夏目漱石

 肩に来て人なつかしや赤蜻蛉・・・・・・・・夏目漱石

 洞然と大戦了り赤蜻蛉・・・・・・・・滝井孝作

 赤とんぼまだ恋とげぬ朱さやか・・・・・・・・青陽人

 旅いゆくしほからとんぼ赤とんぼ・・・・・・・・星野立子

 美しく暮るる空あり赤とんぼ・・・・・・・・遠藤湘海



うつしみは欠けゆくばかり月光の藍なる影を曳きて歩まむ・・・木村草弥
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     うつしみは欠けゆくばかり月光の
            藍なる影を曳きて歩まむ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。

「月」は天象としては、いつも我々の身近にあるものだが、太陽のように自ら光を発するものではなく、
太陽の光を反映するものとして、昔から「寂しい」存在として詩歌に詠まれてきた。
掲出した私の歌も老境に入って「欠けて」ゆくだけの「我が身」を「月光」の影になぞらえて詠んだものである。
「月」は「花」と並んで、古来、日本美の中心に置かれるものである。
「花」とは花一般ではなく「桜」のことを指す決まりになっている。
「花」=桜は春を代表するもの。「月」は秋を代表するもの。
月は一年中みられるものではあるが、秋の月が清明であるために、秋を月の季節とするのである。

陰暦朔日は黒い月だが、二日月、三日月、弓張月と光を得て大きくなって満月になり、また欠けて有明月になり、黒い月になる。
朔日の月を新月と言い、新月から弦月(五日目)頃までの宵月の夜を夕月夜という。
夕方出た月は夜のうちには沈んでしまうので夕月という。月白は月の出る前の空のほの白い明るさをいう。

「万葉集」には

     わが背子が挿頭(かざし)の萩に置く露をさやかに見よと月は照るらし

と詠まれ、
「古今集」には

     月見れば千々にものこそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど

     木の間より漏り来る月の影見れば心づくしの秋は来にけり

と詠まれる。
このように、日本の古典には、月は秋の美しいものの頂点に置かれ、「さびしさ」「物思い」「ものがなしさ」などの気持のこもるものとされてきた。
俳句でも、松尾芭蕉の句に

    月はやし梢は雨を持ちながら

    義仲の寝覚の山か月悲し

    月清し遊行の持てる砂の上

    其のままよ月もたのまじ伊吹山

    秋もはやばらつく雨に月の形

などがあり、月を詠んだ秀句と言われている。

与謝蕪村にも

    月天心貧しき町を通りけり

の秀句がある。
このように「月」は歴史の厚みのある代表季題中の代表と言われている。

以下、明治以後の私の好きな句を引いて終わる。

 月明や山彦湖(うみ)をかへし来る・・・・・・・・水原秋桜子

 月光のおもたからずや長き髪・・・・・・・・・篠原鳳作

 東京駅大時計に似た月が出た・・・・・・・・池内友次郎

 徐々に徐々に月下の俘虜として進む・・・・・・・・平畑静塔

 少年が犬に笛聴かせをる月夜・・・・・・・・・富田木歩

 月の中透きとほる身をもたずして・・・・・・・・桂信子

 つひに子を生まざりし月仰ぐかな・・・・・・・・稲垣きくの

 なにもかも月もひん曲つてけつかる・・・・・・・・栗林一石路

 月明のいづこか悪事なしをらむ・・・・・・・・岸風三楼

 農夫われ来世は月をたがやさむ・・・・・・・・蛭田大艸

 三日月や子にのこすべきなにもなし・・・・・・・・白井郷峰




『修学院夜話』書評・・・三浦好博
修学院夜話_NEW

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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──評論・書評──

     『修学院夜話』書評・・・・・・・・・・・・・三浦好博(「地中海」編集委員)


Ⅰ の「二ッ森幻視」の白比丘尼伝説は日本全国28都県89区町村121ヶ所にあるのですね。
若狭の八百比丘尼が一番有名なのでしょうか。
空海の引用との関係が難しかったです。日々般若心経を唱えていますし、四国八十八ヶ所と高野山巡りも10年前にやりました。
「三ッ森ハレ変異」の生き物が常にカオスを創出しながら、コスモスに導く生き様、そして現在の新型コロナ禍の手酷い「褻ケ」という認識に共感しました。
「コズミックフロントネクスト」を良く見ていますが、地球外生命体の探求に当然応用されるのだと思います。

Ⅱ の『後水尾院御集』の若い頃の添削を受けた恋の歌もいいですが、私は晩年のお歌がしみじみとしていいなと思いました。
公家諸法度の中に、「天皇の務めは芸能である」は良く解ります。和歌や後に出て来る茶の湯などの他に、能楽も当然入っていたのでしょう。
本歌取りの本歌を教養としていかに沢山そして深く理解して覚えているかが問われたのは、現代に通じると思います。

 簡単な感想ですが、読ませて戴きありがとうございました。          @三浦好博
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畏敬する三浦氏から、このような書評を賜り深く感謝いたします。
いつもいつも的確な評をいただいています。
「白比丘尼伝説」は日本全国28都県89区町村121ヶ所にあるようです。
「若狭」の伝承が有名ですね。私の本は、これを物語にしています。有難うございました。




私信と書評・・・阪森郁代
修学院夜話_NEW

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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──評論・書評── 

      私信と書評・・・・・・・・・・・・・阪森郁代(歌人)「玲瓏」所属
          ・・・・・・・角川短歌賞・第30回(1984年) - 「野の異類」で受賞・・・・・

<過日は『修学院夜話』を賜りまして、有り難うございました。
 このたびもまた、作者の知的領域の広さと深さに圧倒されています。教えられることばかりです。
 中でも興味をそそられましたのは、「一絲文守のこと」でした。
 永源寺を再興し、いなべ市にも一部があったと言われている、とのこと。
 石榑南に照光寺という古いお寺がありますが、照光寺の すぐ東のあたりに「大門」「寺内」という地名が今も残っています。
 このような「謂れ」があったとは、全く知りませんでしたので、とても嬉しいことでした。
 余計なことを書いてしまいましたが、記念の一冊になりました。有り難うございました。>

                                             阪森郁代
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敬愛する 阪森郁代さんから、このようなメールをいただき、妙な因縁のようなものを感じている。
感謝して、ご披露する次第である。



私信と書評・・・加藤明美
修学院夜話_NEW

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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──評論・書評──

     私信と書評・・・・・・・・・・・・加藤明美(中国研究者)

<今年の仲秋の名月は素晴らしいものでした。
 『修学院夜話』を上梓されまして、ご恵贈下さいまして有難うございました。
 私にとりまして中々むずかしく脇に置いていたのですが、「徽宗皇帝の三尊仏が後水尾院の葬送のときに院の遺体上段に掛けられ・・・・」とのこと。 
 この段に来て目を見開き拝読させて頂きました。
 私の少しの知識の上に大きな宝物が覆い被さって、この上ない幸せに存じました。
 訪中時に、どこかで必ずと言っていいほど、芸術(徽宗皇帝)に触れて参りました。
 秋の夜長、この『修学院夜話』一頁一頁を楽しみに拝読させて頂きます。
 私は「ウイグル族」のことを少し書こうかと思っています。・・・・・>
     10月5日           加藤明美




私信と書評・・・永井章子
修学院夜話_NEW

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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──評論・書評──

     私信と書評・・・・・・・・・・・永井章子(「イプリスⅡ」所属)

<前略。・・・・・
 御詩集『修学院夜話』ご恵贈いただきましてまことにありがとうございました。
 大変興味深く拝読させていただきました。
Ⅰ 「二ツ森幻視」では、30数億年前、生物が地球上に現れた時、生物はたった一つの型だったと書かれておりますが、
生命の誕生からの壮大なドラマが、この世で一番のミステリーだと思いました。
Ⅱ 「修学院夜話」では、徳川全盛の世にあって、唯一芸能の世界が後水尾院の自由に力一杯活躍できる場であったのだろうと想像いたしました。
 和歌のこと、一絲文守のこと、池坊のパトロンのこと、紫衣事件、沢庵和尚のこと、茶の湯のこと、修学院焼のこと、他に渋川春海のこと等々、
 いろいろ御本から教えていただき、豊かな時間をいただきました。
 また私は和歌のことはよく存じませんが、後水尾院の御歌が八条宮智仁親王の添削後、明らかに、より魅力的なものになっていますことに感じ入りました。
 重ねて御礼申し上げます。時節柄どうかくれぐれも、ご自愛下さいませ。>
     10月5日            永井章子 


      
私信と書評・・・浅田周宏
修学院夜話_NEW

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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──評論・書評──

      私信と書評・・・浅田周宏 (『浅田家文書』当主)

<前略。・・・・・
ご本『修学院夜話』をいただき、有難うございました。
 お礼を申し上げるのが遅れました。 お詫びいたします。
 ・・・・・・・ 
 ご本の中で、「天社土御門神道」のことが出てきます。
 娘が小さい時、毎年夏休みに家族で小浜・犬熊の民宿で泊り、海水浴を楽しみました。
 自宅から車で京都へ出て天神川沿いに北上、周山街道経由で小浜へ向いました。
 その途中堀越峠を下ると、「土御門神道本庁」の看板があったことを思い出しました。20年以上前の話になります。
 今は京都縦貫道路も出来て、この道を通ることもなくなりました。・・・・・>
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この浅田氏の手紙は、私の文章中の「渋川春海」の項目に関するものである。
 リンクになっているのでアクセスされよ。→ 『浅田家文書』については、Wikipediaの項目に出ているので参照されたい。
浅田家は、もと摂州所在の武士で豊臣秀吉の命により、今の所に移住したと思われている。大豪農。今も地元の名士である。
これはメールでいただいた。当該部分のみ抄出した。有難うございました。


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