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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(12月)月次掲示板
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東日本大震災から九年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
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本年も十二月、最終となりました。
泣いても笑っても「師走」の到来です。

 葦べ行く鴨の羽がひに霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 志貴皇子
 いたぶるとなぶるを辞書に引き比ぶ甚振(いたぶ)るうつつは辞書より辛し・・・・・ 沢口芙美
 みまかりてしまへばはらからではなくてうをの牙はも魚にむらがる・・・・・・・・・・・・ 柳沢美晴
 流し樽流れいし世のゆたかなり瀬戸内海に雪降りしきる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 玉井清弘
 廊下ゆく杖の音立つ雪の日の白鳥の声刈田にきこゆ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・板宮清治
 定食を囲んで話すほんとうの笑顔でいようお醤油かけて・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・ 岩尾淳子
 朝しぐれすぎてさだまる海の色うつくしければ自転車に乗る・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三井ゆき
 冬の日は誰のものにもあらざれば一直線に日向を歩む・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 沖ななも
 萩もみぢとらへがたなきあかるさの 窓辺に充ちて、仮の世この世・・・・・・・・・・・・・ 中西洋子
 海底に塩噴く臼のあるといふ説話なかなか嬉しきものを・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 恩田英明
 国家解体おもひみるかな領土なく国語なくただに<言葉>響きあふ水の星・・・・・・水原紫苑
 頭よりヤマメ食ふとき大陸の塵も胃壁も融けつつあらむ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・黒瀬珂瀾
 しつかりと我をみつめて泣くなといふ冬の垣根のつはぶきの花・・・・・・・・・・・・・・・秋山佐和子
 ちよつとだけよろけぬるかな足もとの椿の花を踏むまいとして・・・・・・・・・・・・・・・・・・安田純生
 液晶の青うなばらに文字浮きてきょうの出来事伝えていたり・・・・・・・・・・・・・・・・・ 武藤ゆかり
 樟にほふ乳房と腹をまろまろと彫りいだしたる船越桂・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・久我田鶴子
 捲られてブリキ色なる冬空はボーラと呼ばれし北風の所為(せい)・・・・・・・・・・・・・・・阪森郁代
 メドゥーサの心にばかり気が行つてペルセウス座流星群の星見ず・・・・・・・・・・・・・・石川美南
 アヴォカドをざつくりと削ぐ(朝の第一報の前のことである)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・千種創一 
 亡き母を知る人来たり十二月・・・・・・・・・・・・長谷川かな女
 落ちてゐるからたちの実や十二月・・・・・・・・・・吉岡禅寺洞
 武蔵野は青空がよし十二月・・・・・・・・・・・・・・・・・細見綾子
 わが生死食思にかかる十二月・・・・・・・・・・・・・・・相馬遷子
 御岳に雲の荒ぶる 十二月・・・・・・・・・・・・・ ・ 伊丹三樹彦
 星冴ゆる戌亥を守る鬼瓦・・・・・・・・・・・・・・・・・・・桑田佳穂
 家猫の小さなくしゃみ今朝の冬・・・・・・・・・・・・・・・・ 盛蓉子
 星流るすうっと走る裁ちばさみ・・・・・・・・・・・・・・ 北畠千嗣
 薮柑子胸に秘めたる燠いくつ・・・・・・・・・・・・・・・ 市堀玉宗
 ケーキから小さき聖樹そつと抜く・・・・・・・・・・・・・・ 金子敦
 滝古び父のマフラー母が巻く・・・・・・・・・・・・・・・ 折勝家鴨
 錆釘のいきなり曲るから寒い・・・・・・・・・・・・・・・ 河西志帆
 河を越え伸びをり塔の影師走・・・・・・・・・・・・・・・薮内小鈴
 十二月取れたボタンと行くところ・・・・・・・・・・・・・ 月波与生
 太ももの外側ほぐし冬の虹・・・・・・・・・・・・・・・・・ 吉川わる
 冬麗に象形文字の割り出され・・・・・・・・・・・・・加藤絵里子
 冬枯れのサラリーマンの目を労わる・・・・・・・・・・宮崎玲奈
 脱力のセーター椅子の背もたれに・・・・・・・・すずきみのる
 古暦つまり風葬ではないか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大塚凱
 そこここに団栗ならばそこここに・・・・・・・・・・・・・・・ 高梨章
 リビングの隅の聖樹の消し忘れ・・・・・・・・・・・・・・杉原祐之
 原子炉が目覚めし町や冬の蝶・・・・・・・・・・・・・・・岡田幸彦
 また嘘をつくリアシートにはポインセチア・・・・・・・・ 奥村明
 流るるといはず揺れをる冬の川・・・・・・・・・・・・・・きしゆみこ
 水洟をすする眼の鋭さよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・葛城蓮士
 亡国の名の酒場ある風邪心地・・・・・・・・・・・・・・青木ともじ
 木枯らしはくしゃくしゃにしてポケットへ・・・・・・・・・青島玄武
 ひとの手に墨匂ひたり牡蠣の旬・・・・・・・・・・・・・・青本瑞季
 しぐるるや切絵のむすめ白眼無き・・・・・・・・・・・・・加藤御影
 澄みてなほ水は面をうしなはず・・・・・・・・・・・・・・・小池康生
 冬の川舌のごとくに夜が来る・・・・・・・・・・・・・・・・・青本柚紀
 ただの妻ただの星子の風邪癒えて・・・・・・・・・・・・和知喜八
 さんらんと冬雲のあり午後の塀・・・・・・・・・・・・・・・上田信治
 海豚抱くほかなき海の青さかな・・・・・・・・・・・・・・・青山青史
 善人が黙えらぶ世の鵙日和・・・・・・・・・・・・・・・・・ 竹岡一郎
 枯野行く少し狂ひし腕時計・・・・・・・・・・・・・・・・ハードエッジ
 露の径日の山荘を仰ぎけり・・・・・・・・・・・・・・・・前北かおる
 てのひらに硬き切符や冬ぬくし・・・・・・・・・・・・・・利普苑るな
 外套の中の寂しき手足かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 岬光世
 すつぴんでするりセーター脱ぎながら・・・・・・・・・・ 九里順子
 なにかを捨てて来た道をかえりみる・・・・・・・・・・・・天坂寝覚
 口紅が食み出している帰り花・・・・・・・・・・・・・・・・・岩根彰子
 冬が来るとイヌキが云えり枕元・・・・・・・・・・・・・・ 金原まさ子
 初雪は失せたり歩み来し跡も・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木牛後



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★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 (角川書店刊)
 歌集 『嘉木』 (角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』 (短歌新聞社刊)
 歌集 『嬬恋』 (角川書店刊)
 歌集 『昭和』 (角川書店刊) 
 歌集 『無冠の馬』 (KADOKAWA刊)
 歌集 『信天翁』 (澪標刊) 
 詩集 『免疫系』 (角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』 (角川書店刊)
 詩集 『修学院幻視』 (澪標刊)
 詩集 『修学院夜話』 (澪標刊)
 エッセイ集 『四季の〈うた〉─草弥のブログ抄』 (澪標刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
◆エッセイ集『四季の〈うた〉─草弥のブログ抄』、第四詩集『修学院夜話』、第七歌集『信天翁』、第六歌集『無冠の馬』、第三詩集『修学院幻視』は、下記のところで買えます。  
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アマゾンには在庫してもらってあるので、即刻の配達が可能の筈です。
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京都新聞に『四季の〈うた〉草弥のブログ抄』紹介される
京都_NEW

四季_NEW

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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      京都新聞に『四季の〈うた〉草弥のブログ抄』紹介される

かねて京都新聞南部支社の記者・西田昌平氏が取材に来た記事が、本年どんじりの年末の本日、掲載された。
画像として出したもので記事も読み取れると思う。
これで、この本の上梓のケリが本年中についてホッとしている。
西田昌平は、佳い記事を書く人で、先日は笠置寺の訪問記を書いて、夕刊一面のトップ記事として大きく掲載された。
気鋭の記者として、これからが期待される逸材である。有難うございました。



入江敦彦『イケズの構造』・・・木村草弥
いけず

──新・読書ノート──

     入江敦彦『イケズの構造』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥 
                  ・・・・・・新潮文庫平成19年初版・平成23/02/10三刷・・・・・・・   

「京都本」だが、著者の入江敦彦とは、こういう人である。
   <1961年京都市西陣、髪結いの長男に生まれ、機の音に囲まれて育つ。
    多摩美術大学染織デザイン科卒業。1991年渡英、ロンドン在住。エッセイスト。
    主な著書として、生粋の京都人ならではの視点と鋭い筆致で京都の深層を描き
    話題を呼んだ『京都人だけが知っている』シリーズをはじめ、『イケズの構造』
    『秘密の京都』など。ほかにも英国の文化と生活に関する著作も多数。>

新潮社のホームページに載る紹介記事を引いておく。
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       イケズの構造

     誘って、拒んで、迷わせる……ほんまにイケズな京のひとびと
     よそさん、イケズに出会う

 京都の暖簾をくぐると、そこにはかならずイケズが待ち受けている。と、よそさんはいいます。
 が、果たしてそれは真実でしょうか。
 
■老舗編
 創業ン百年という笄屋さんへ、英国の女友達にあげるプレゼントを買いに行ったとき、
ちょうどそこのご主人が若い女性客へにっこりと最後通告を言い渡しているのに行き当たったことがあります。
「申し訳ありまへんなあ。うちにはお宅さんに売らせていただけるようなもんは置いてへんみたいですわ。また、なんぞの際に寄っとくれやす。おおきに」
 彼女が店を辞したあと思わず吹き出してしまった私に、彼は困ったような笑顔で話し掛けてきました。
「誰ぞに頼まれはったとかでおいやしたんやけど、さっぱり要領を得えしまへんのですわ。
梳かはるんか結い髪に飾らはるんか、自宅で使わはんのか携帯用か、柘植か塗りか。欲しがったはる人の趣味もようわからん言わはるし。
しまいには三千円くらいで適当に何でもええて明後日向いたはるさかいね。すんまへんけどて申し上げたんです」。
 きっと、くだんの子はイナカに帰ってから櫛の依頼人と一緒に「やっぱ、京都ってちょーイケズ」と憤慨するんでしょうね。
「信じらんないよねー。売ってくれないんだよ!」とか愚痴っているに相違ありません。
でも、どう考えたって私には店に非があるとは思えない。
どころか「その先の百円ショップにプラスチック製のがありまっさかい、それにしとかはったらどないです? ご予算で三十本買えまっせ」
くらい言ってやっても全然オッケーですね(彼女には、いっそそのほうが親切に感じられたかもしれません)。
そんなふうに思うのは私が京都人だからでしょうか。
それとも「お客様は神様」的対応から外れたら、それはもう、シキタリに縛められた特異な世界=イケズに分類されてしまうのでしょうか。
 客によって売り物を売らない。これは京都に来たよそさんが遭遇する確率の比較的高い出来事です。
むろん本当にナイ袖は振れナイだけの場合もありますが。
「たったいま売り切れてしまいましてん。すんませんねえ」「ちょうど品切れしてるんですわ。こんどはいつでけるかわかりまへん」
 とやんわりお断りする。
これは「相応しくない」と判断した客から自分たちの扱う商品を護るための手段であり、
本当に必要としてくれているお得意様のためにそれらを確保する方法論でもあります。
バブルの頃、群がる日本人客(よそさん)に向かって商品を床にばら撒き漁らせたパリのブランド店があったそうです。
それに比べて京老舗のなんと奥床しいことでしょう。
  
■訪問編
 数々のシキタリを体で覚えてゆくなかで、販売拒否の次によそさんたちが出会うのが《誘惑のイケズ》です。
早い話が「ぶぶづけ」のバリエーションですね。
「ぶぶづけ」自体は前述したように幻のイケズですが、これに類する“本意でない接待”はあらゆる場所で奈落の口を開けています。
それらに足を突っ込まないように歩くのは骨の折れる作業。
好意の見極めは恋愛というシチュエーションでなくとも失敗すると怪我します。要は距離感とバランス感覚なんですけどね。
 商家が基本のこの街では、ごく最近まで鍵をかける習慣がありませんでした。夏ともなれば玄関は開けっ放し。
そして、そんな物理的な敷居の低さが手伝ってか、彼ら彼女らは些細なことで実に頻繁に行き来します。もちろんアポなし。
けれどまた、それゆえに京都人は「ぶぶづけ」を出されないよう訪問や辞去のタイミングに細かく気を配るようになります。
もちろんその背景には、子どもの頃からの経験の積み重ねがあります。京都人は相手が幼いからって無礼や不躾を容赦しませんからね。
みんな辛ぁーい“ぶぶづけ”を啜りながら人間関係の機微を学んでゆくのです。

「取材先でコーヒーを勧められて、お願いしたんですけどいつまで待っても出てこなかったんですが、これってイケズですか」と、
インタビューを受けたライターさんから訊ねられて困ったことがあります。
ものを書く仕事をしていても近頃は情況を分析して的確に捉える作業なんてしないんですねえ。
 相手が忙しそうかどうか。相手のステイタス。どのくらいの時間を割いてもらったのか。取材の時間帯。取材中の雰囲気。
コーヒーは出前になるのか、その場で淹れるのか。ご挨拶なのか厚意なのか。自分が好かれているかどうか。相手に関する知識がどれくらいあるのか。
これからの付き合いは存在するのか。両者に利害関係はあるのか。あるなら、その程度はいかばかりか。取材のギャランティは発生しているのか。
誰か仲介者があったのか。アポのときの様子はどうだったのか。どんな文脈で「コーヒー」という言葉が登場したのか。
なにより、どんな言い方だったのか。そういう情報がなければ判断のしようがありません。

A ただ単に「コーヒー飲まはりますか」と言われたのか。
B あるいは「そない急かんでもコーヒーなと一杯あがっておいきやす」か。
C それとも「喉渇きましたなあ。コーヒーでもどないです」だったのか。
D もしくは「コーヒーでよろしか」と訊かれたのか。
 仮に、初対面に近い京都人があなたというよそさんにコーヒーを勧めるとしたら、その表現は大きく分けて以上四つのバリエーションに分かれます。

 もしAならば、ただの挨拶の可能性が高いです。ほぼ無意識ですからコーヒーがやってくることは、まずありません。
「おはようさん。どこ行かはんの」と声をかけた京都人が期待してる返事は「ちょっとそこまで」であって詳しい日程ではありません。
あなたが答えるべきは「へえ、おおきに」。そう口にしておいて頃合を見計らい暇を告げるのが定石です。
もし、これが会話を始める前のオファーなら言葉通りの質問。それでいてコーヒーが運ばれてこなければイワズモガナでしょう。
手際よく切り上げる必要があります。

 Bも挨拶の一種なのですが、これは京都人の悪癖でもありますね。
あなたは絶対に「いや嬉しいわあ。そやけど、そんなん結構です」と遠慮せねばならないのですが、いっぺんくらいでは許してもらえません。
「なんでですのん。よろしやん」「コーヒーお嫌いやったら紅茶にしまひょか」「もう淹れかけてまっさかい。な」と執拗です。
しかしどんなに執拗でも断り続けねばならぬ蟻地獄のような、これは風習なのです。
京都人ですらいい加減鬱陶しいと思っています。が、やめられない。
「これはぶぶづけで言うてるのんとちゃいまっせ」とまで迫られても固辞が原則。当然ながらコーヒーの出る幕はナシ。

 怖いのがC。なぜならこの台詞は京都人にとって精一杯のストレートな「撤収!」の合図。
この台詞には脊髄反射で鞄を抱え直さねばなりません。
喉渇きましたなあと“疲れ”を強調したうえで訊ねるのは、辞退してくれというメッセージだからです。しかもコーヒーでもといっている。
このでもは「なんでもええし」と突き放すでも。あとには無言の「ちゃっちゃと済ませとくれやす」がついています。
「こんど時間のあるときに、また呼ばれまっさ」と席をたちましょう。

 唯一誘いに乗ってもよさそうなのがDです。
(後略……この先は本書でおたしかめください)
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「京都人」と付き合うのは難しいですぞ!!!
では、続編をお楽しみに。

いよいよ本年も押し詰まってきた。 本年も後一日を残すのみである。
佳い年越しをなされるようお祈りして本年の「稿」を終わる。






リルケ死にし日なりき冬の薔薇の辺に・・・脇村禎徳
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    リルケ死にし日なりき冬の薔薇の辺に・・・・・・・・・・・・・・・脇村禎徳

今日12月29日はドイツ人の作家・リルケの忌日である。
掲出句は、そのリルケと冬薔薇とを情趣ふかく描いて秀逸である。
リルケには薔薇を詠んだ24篇の詩があり、それに因んで詩集の表紙を出しておいた。

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ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke、1875年12月4日~ 1926年12月29日)は、オーストリアの詩人、作家。
シュテファン・ゲオルゲ、フーゴ・フォン・ホーフマンスタールとともに世紀転換期を代表するドイツ語詩人として知られる。

プラハに生まれ、プラハ大学、ミュンヘン大学などに学び、早くから詩を発表し始める。
当初は甘美な旋律をもつ恋愛抒情詩を発表していたが、ロシアへの旅行における精神的な経験を経て『形象詩集』『時祷詩集』で独自の言語表現へと歩みだした。
1902年よりオーギュスト・ロダンとの交流を通じて彼の芸術観に深い感銘を受け、その影響から言語を通じて手探りで対象に迫ろうとする「事物詩」を収めた『新詩集』を発表、
それとともにパリでの生活を基に都会小説の先駆『マルテの手記』を執筆する。

第一次大戦を苦悩のうちに過ごした後スイスに居を移し、ここでヴァレリーの詩に親しみながら晩年の大作『ドゥイノの悲歌』『オルフォイスへのソネット』を完成させた。
『ロダン論』のほか、自身の芸術観や美術への造詣を示す多数の書簡もよく知られている。
詳しくはWikipedia → ライナー・マリア・リルケ を参照されよ。

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以下は「冬薔薇」について書いておく。

   冬薔薇を剪(き)るためらひは何事ぞ貴きものを奪ふここちす・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので小項目名「薔薇」というところに、バラを詠った歌をまとめてあるものの一つである。
バラは何と言っても「花の女王」であることは間違いない。在来種の野バラから、さまざまな改良が加えられて、今ではハイブリッドや遺伝子レベルの技術を駆使して新品種が産出されている。
写真②も「レッドヒロシマ」というハイブリッドによる品種物である。

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バラには痛い棘(とげ)があるのが難点だが、今ではトゲのない品種もあるのではないか。
バラの中でも、人それぞれ好みがあろうが、私は写真②のような「真紅」のバラが好きである。豪華なレディーという印象である。
妻の入院中にはあちこちからバラの花束をいただいたことがある。妻の大学の時の友人の某大学教授N女史から、お見舞いの花のアレンジが贈られてきたことがある。
バラが主体のアレンジであって、そんなことから、今日はバラの花のことを書いてみる気になった。

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写真③もハイブリッドものの新品種である。なんとも色合いが華麗である。ついでに、写真④にもハイブリッドもののバラを掲出しておく。これも色合いが鮮やかな花である。

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このバラには「ジーナ・ロロブリジーダ」の名がついている。そう言えばロロブリジーダの雰囲気が出ているバラである。
書き遅れたが写真③のバラの名は「マダム・ビオーレ」とある。N女史などは、まさに、そういう雰囲気にふさわしいとも言える。
そのN女史だが、先年、急性の脳梗塞に罹り半身不随で闘病の末、いまは車椅子の生活を余儀なくされている。

長年、歌作りをやっているとバラを詠み込んで、あちこちに歌を発表しているもので、歌集にする場合には、
それらを「薔薇」という項目にまとめる、というようなことをする。
以下、ここにまとめた「バラ」の歌一連を引いておきたい。
掲出した歌の主旨は「冬薔薇」を剪る時には、万物の命の休止している冬の季節に、せっかく咲いた花を切り取るということに、
極端にいうと「生き物の命」を奪うような気が一瞬した、ということである。

         薔 薇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

     キーボード打てるをみなの傍(かた)へにはコップに挿せる紅薔薇にほふ

     老いびとにも狂気のやうな恋あれと黒薔薇みつつ思ふさびしさ

     飲みあけしミニチュア瓶に薔薇挿せばそこより漂ふスコッチの香り

     鬱屈のなきにもあらず夕つかた何もなきごとく薔薇に水やる

     喪に服し静もる館は薔薇垣を結界として何をか拒む

     冬薔薇を剪るためらひは何事ぞ貴きものを奪ふここちす

     冬薔薇を剪る妻の手に創(きず)ありぬ薔薇のいのちの棘の逆襲

     ほのぼのとくれなゐ淡き冬薔薇にそそのかさるる恋よあれかし

     薔薇図鑑見つつし思ふ園生には緋の花責めの少女ゐたりき

     たまさかに鋏を持てばことごとく刺す意あらはに薔薇は棘見す

     言へばわが心さびしもしろたへに薔薇咲き初めて冬に入りたり

「冬薔薇」を詠んだ句を引いて終る。薔薇は「さうび」(そうび)とも発音する。

 尼僧は剪る冬のさうびをただ一輪・・・・・・・・・・・・山口青邨

 冬薔薇(さうび)石の天使に石の羽根・・・・・・・・・・・・中村草田男

 冬の薔薇すさまじきまで向うむき・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 冬ばら抱き男ざかりを棺に寝て・・・・・・・・・・・・中尾寿美子

 冬さうび咲くに力の限りあり・・・・・・・・・・・・上野章子

 冬薔薇や賞与劣りし一詩人・・・・・・・・・・・・草間時彦

 ぎりぎりの省略冬薔薇蕾残す・・・・・・・・・・・・津田清子

 夫とゐて冬薔薇に唇つけし罪・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 孤高とはくれなゐ深き冬の薔薇・・・・・・・・・・・・金久美智子

 冬薔薇や聖書に多き科の文字・・・・・・・・・・・・原田青児

 ふと笑ふ君の寝顔や冬の薔薇・・・・・・・・・・・・マブソン青眼



湯豆腐を食ひ尽くしたるメディア論・・・秋尾敏
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(お断り)目下のコロナ禍の中にあっては、この記事は不適切かも知れないが敢えて出しておく。

   湯豆腐を食ひ尽くしたるメディア論・・・・・・・・・・・・・秋尾敏

「湯豆腐」の句としては

   ■湯豆腐やいのちのはてのうすあかり・・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

が人口に膾炙して有名である。
久保田万太郎は昭和38年73歳で没した。
晩年、子供を亡くし、それを機に家を出て赤坂に隠れ住んだ。起居のかたわらに一人の女性がいたが、彼女は37年末に急死した。万太郎は深い孤独に陥り、自らも半年後に急逝した。
彼の死のいきさつについて書いたことがあるので、参照されたい。
この句は相手の女性の死後詠んだ句のひとつ。湯豆腐の白い揺れを見つめつつ、一場の夢に過ぎない人生を眼前に見ているような気配を伝える句である。
「いのちのはてのうすあかり」が句の眼目だが、空漠かつ幽遠である。
こういう句の深い「読み」については、若い頃には思い及ばないことで、人生の晩年に至って、ようやく思いに辿りつくことが出来るのである。
昭和38年刊遺句集『流寓抄以後』所載。
この句は何度となく引いてきたので遠慮して、今回は掲出句を引いた。

掲出句は、文化人であろうか、湯豆腐を食いながら「メディア論」を戦わしているという現代的な句である。
「湯豆腐を食い尽くして」も、なお口角泡を飛ばして議論している、という青っぽい連中の、微笑ましい光景であろう。
若い頃には私にも、こういう熱中した時期があった、と懐かしい感慨を持って、この句を抽出した次第である。
今しも年も押し詰まって、遅い忘年会の風景と受け取ってもらっても結構であろう。

湯豆腐は冬の暖かい味覚として、親しみふかいものである。今では季節を問わず食べられるが、やはり冬のものであろう。
京都南禅寺順正の湯豆腐などが有名だが、京都には「豆腐」の老舗がいくつかあり、この頃では宅急便を利用して全国に宅配されているようだ。
以下「湯豆腐」を詠んだ句を少し引いておきたい。

 湯豆腐や澄める夜は灯も淡きもの・・・・・・・・渡辺水巴

 湯豆腐の一と間根岸は雨か雪・・・・・・・・長谷川かな女

 湯豆腐や障子の外の隅田川・・・・・・・・吉田冬葉

 湯豆腐にうつくしき火の廻りけり・・・・・・・・萩原麦草

 湯豆腐に箸さだまらず酔ひにけり・・・・・・・・片山鶏頭子

 湯豆腐やみちのくの妓(こ)の泣き黒子・・・・・・・・高橋瓢々子

 混沌として湯豆腐も終りなり・・・・・・・・佐々木有風

 湯豆腐や紫檀の筥(はこ)の夫婦箸・・・・・・・・日野草城

 湯豆腐や男の嘆ききくことも・・・・・・・・鈴木真砂女

 永らへて湯豆腐とはよくつき合へり・・・・・・・・清水基吉

 鳥羽僧正湯豆腐食べに下りけり・・・・・・・・鈴木栄子

 さりげなき話湯豆腐煮ゆるまで・・・・・・・・山本一歩

 湯豆腐や差し向かひといふ幸不幸・・・・・・・・安藤美保

 湯豆腐のふつふつそつけなき白さ・・・・・・・・日向和夫


ゆきふるといひしばかりの人しづか・・・室生犀星
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──<雪>の句─3態──オムニバス風に──
   
   ■ゆきふるといひしばかりの人しづか・・・・・・・・・・・・室生犀星

この句の「場」を考えてみると「雪が降っていますね」と言った「人」も、それを聞いている相手、つまり句の作者自身も、部屋の中にいて、
おそらくは障子も閉めきったまま静かに対座しているのだろう。
あるいは別の情景も考えられるだろうが、いずれにせよ、雪が降るのを、じかに目撃しているのではない。
障子の外の世界を鋭敏に感じとって、ひとこと発したまま、また黙ってしまった人。
そのため、部屋の中に満ち足りた情感の世界が、一層濃く形づくられてゆく。
「人」は女性でなければなるまい。
昭和18年刊の『犀星発句集』所載。

こういう短詩形の中に、極めて凝縮された、みづみづしい感性の表現の妙は俳句ならではのもので、余白の部分を、読者にさまざまに想像させる表現の妙、と言える。

こんな句は、いかがだろうか。

   ■降る雪や明治は遠くなりにけり・・・・・・・・・・・・中村草田男

草田男の数多い句の中でも、とりわけ有名な句。今では作者名さえ知らずに、この句を口にしている人も多かろう。
この句の由来は、昭和6年、作者が20年ぶりに東京で小学校上級生当時通学した母校青南小学校(東京、青山高樹町在住当時)を訪ね、往時を回想して作ったものという。
初案は「雪は降り」だった。
「降る雪や」という上句が、「明治は遠く」という中七に、離れつつ大きく転じてゆくところに、この句の秘密があり、有名になり過ぎたにもかかわらず、
或る「ういういしい」感慨が紛れずに保たれているのも、その所為だろう。
「明治は遠く」というが昭和6年であるから、大正の15年をいれても丁度20年の年月である。「十年ひと昔」というから「ふた昔」ということになる。
その伝でいうと、今は平成30年であるから「昭和も遠くなった」という感慨を抱いても、まんざら言いすぎでもあるまい。この句は前にも引いたことがある。

雪に因んで、こんな句も、ある。

   ■雪はげし抱かれて息のつまりしこと・・・・・・・・・・橋本多佳子

多佳子は杉田久女に俳句の手ほどきを受けたのち、山口誓子に学んだ。
彼女は女性の情感のほとばしりや揺らぎを的確にとらえて表現した。
対象を即物的に鋭くとらえる厳しさと、句の表情の豊かさでは、近代女流中、有数の人と言ってよい。
30代後半に夫に先立たれたが、追慕の句に優れたものが多く、この句もその一つである。
はげしく雪の降りしきるのを見つめながら、その景色に呼び覚まされるように、かつて強く抱かれて息がつまるようであった、と当時のことを思い出している。
この句も彼女の代表作で、私も以前に引用したことがある。
昭和26年刊『紅糸』所載。

「雪」にまつわる秀句3つを、オムニパス風に採り上げてみた。
京都では年内に雪の降ることは近年では滅多にないが「竜安寺」の石庭の雪の写真を出してみた。




老いざまのかなしき日なり実千両・・・草間時彦
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    老いざまのかなしき日なり実千両・・・・・・・・・・・・・・草間時彦

「千両」「万両」は初冬に赤や黄の実を見せる。極めて日本的な景物である。
同じような実だが、少しづつ微妙に違う。 掲出写真は「千両」の実である。
白い実のものもある。
manryo29白千両の実

同じようなものに「南天」がある。

私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)にも、こんな歌の一連がある。

    妻病めばわれも衰ふる心地して南天の朱を眩しみをりぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

    冬の午後を病後の妻と南天の朱実を見つつただよふごとし

    古稀となる妻を見てゐる千両と万両の朱実はなやぐべしや

妻亡き今は哀切な気分になる旧作である。
南天という木はどこにでも生える強い木で、赤い実は野鳥の冬の絶好の餌で、みんな啄ばまれてしまうが、
その未消化の糞の中の種が、あちこちにばら撒かれて繁茂するのである。
南天の赤色はさむざむとした冬景色の中に点る「一点景」ではあるが、病む身を養う妻を抱えての、
私の愁いは、まことに深いものがあったのである。そんな心象を歌にしたのが、この歌である。
「千両」「万両」の実も、同様の扱いをしてもよいものである。

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以下、歳時記に載る南天、千両、万両の句を引いておく。

 実南天二段に垂れて真赤かな・・・・・・・・富安風生

 あるかなし南天の紅竹垣に・・・・・・・・滝井孝作

 南天軒を抽(ぬ)けり詩人となりにけり・・・・・・・・中村草田男

 南天の実に惨たりし日を憶ふ・・・・・・・・沢木欣一

 いくたび病みいくたび癒えき実千両・・・・・・・・石田波郷

 千両の実だけが紅し日照雨過ぎ・・・・・・・・細田寿郎

 かけ足で死がちかづくか実千両・・・・・・・・石田貞良

 千両や筧の雫落ちやまず・・・・・・・・水谷浴子

 万両や癒えむためより生きむため・・・・・・・・石田波郷

 実万両女がひそむ喪服妻・・・・・・・・高萩篠生

 雪染めて万両の紅あらはるる・・・・・・・・鈴木宗石

 いにしへを知る石ひとつ実千両・・・・・・・・伊藤敬子

 清貧は夫の信条実千両・・・・・・・・有保喜久子

 授乳といふ刻かがやけり実千両・・・・・・・・猪俣サチ

 万両を埋めつつある落葉かな・・・・・・・・山本梅史

 万両の実にくれなゐのはいりけり・・・・・・・・千葉皓史

 千両より万両赤し東慶寺・・・・・・・・中村勢津子

 抱くたびに子の言葉増え実万両・・・・・・・・野田禎男
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こうして見てくると、南天、千両、万両ともに、明るいイメージの句は少なくて、むしろ「沈潜」した句が多いことに気付く。
それは、私の歌のイメージとも重なることに驚くとともに、共感するのである。



『四季の〈うた〉草弥のブログ抄』私信と評・・・小西亘
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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      『四季の〈うた〉草弥のブログ抄』私信と評・・・・・・・・・・・・小西亘 

拝啓 
歳晩の候、木村様には益々ご清祥のことと拝察いたします。
 御著『四季の〈うた〉』をご恵贈賜りましてありがとうございました。お礼を申し上げるのが大変遅くなって申し訳ございません。
コロナ禍で延長された長い2学期の授業を終え、やっと今宵パソコンに向かっております。
 今までも幾篇か拝読したブログをまとめられた、私にとって待望の一書でした。歳時記的なアンソロジーとして、また詩歌に関わる知識の宝庫として、書架に加えさせて頂きます。
 「はしがき」に「やっておきたいことは、ほぼやり終えた」と記しておられます。宮柊二の「歌によって生の証明をしたい」の言の如く、木村様の生(いき)の証として魂を込められた気迫のようなものを感じました。
 400頁に余る御著を拝読し、なによりもまず感じたのは、著者がまがうことのない詩人であるということでした。多くの詩歌を引用し語られていますが、著者がその作品にびんびんと響き感じている、鋭い詩的感受性の持ち主であるということが伝わりました。
 それにしても・・・それらが何と幅広く深いものであることか、文学に関わる一教員として、大げさに言えば途方に暮れる思いでした。古典や叙情詩、生活や社会批判の詩、前衛的な作品にいたるまで、あらゆる分野の詩歌が網羅されています。著者の詩人としての感性の多様さ、懐の深さに改めて、驚きの念を抱きました。感服いたしました。そうして、著者の特質である、洋の東西に渡る歴史や、動植物等の該博な知識が踏まえられ、詩歌とともに展開されています。私の知らない、多くの詩人や歌人俳人の作品に触れられたのも大きな収穫でした。
 あれもこれもと思う中で、ひとつのみ取り上げれば、
      ・ いつ爆ぜむ青白き光を深く秘め原子炉六基の白亜列なる
佐藤裕禎の章は衝撃でした。歌集の前書きに、原子力発電所の誘致にともない「ゆい」を持つ共同体が崩れてゆく現地の様が、詳細に綴られています。東芝の社員すら「こんな危険なもの」という原発の工事の杜撰と危険を、国も企業もマスコミも報じない中、体験をもって実感した歌人は、「予言」の歌で告発したのでした。『青白き光』の「まえがき」は、何かの機会にプリントして生徒にも読ませたいと思っております。
 その他にも、様々に新たなご教示を受けました。
 これまでも、木村様の詩集・歌集を拝読して参りましたが、このような形式でお歌が掲載されると、また新鮮に感じられ、新たな作品に出合うかのようでした。
    ・うすべにのゆく手に咲ける夕ざくら父なる我の淡きものがたり
    ・〈汗匂ふゆゑにわれ在り〉夏草を刈りゐたるとき不意に想ひぬ
    ・イシュタルの門の獅子たち何おもふ異国の地にぞその藍の濃き
    ・億年のなかの今生と知るときし病後の妻のただよふごとし
    ・〈国家の無化〉言はれしも昔せめぎあひ殺しあふなり 地球(テラ)はアポリア
一首目は、子が大人になるにつれ、私も同じ思いを持ちます。
二首目、木村草弥という詩人に近づくためには、作者が農に生きた人であることを、忘れてはならないと思いました。詩人の言葉は感性に優れ、表現の妙を尽くしたものであるが、それは観念によって作られたものではく、農の仕事の実体験を踏まえたものである、と。
 恥ずかしいことを申し上げます。私は、前衛詩歌というものが、あまりわからないのです。「詩はダンス」・「詩は意味を辿ってはいけない」・「詩歌というのは日常を非日常化したものである」ーーー木村様の感性が作品に響き、「見事なものである」と評されます。(まさに詩人です)しかし、野暮な私には、引用は控えますが前衛的な作品のなかに、それがなぜ詩として成立するのからないものがあるのです。教室でどう扱うべきだろう、などと考え込んでしまいます。前衛詩の、論理によるときほぐしをしていただきたいと思いつつ、拝読した作品がありました。(それこそ無用のことかも知れませんが)
 一首をとりあげ、あれやこれやと伺い、私の味わいも申しながら、お教えを請いたいと思いました。そのような機会を設けていただければ、嬉しく存じます。
 とりとめも無いことを綴って参りました。失礼なことも申したのではないかと案じます。
 実は私も南山城文学関係の原稿を、昨日、澪標の松村様にお渡ししたばかりです。またお送りさせていただくと思います。
 拙い感想を述べて、御著ご恵贈のお礼に替えさせていただきます。
 今度とも御指導賜りますようお願い申し上げます。
 末尾ながら、寒い折、またコロナ禍収まらぬ折、ご自愛下さるよう念じ申し上げます。 
敬具

12月24日                              小西 亘
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敬愛する小西先生から懇篤な手紙をしただいた。
取捨すると誤解を招くと思うので、ほぽ全文を引いた。読み易いように適宜改行などを施した。
受験の時期を直前にして、進路指導にお忙しい中ありがとうございました。



十人の一人が気付き枇杷の花・・・高田風人子
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   ■十人の一人が気付き枇杷の花・・・・・・・・・・・・・・・高田風人子

「枇杷」はバラ科の常緑高木で、初冬に枝先に三角形総状の花序の花を咲かせる。花は白く香りがよい。
実は初夏に熟する。甘くて香りのよい果実である。庭木としては、めっきり少なくなった。
枇杷の木は葉が大きくて長楕円形で、葉の裏に毛がびっしりと生えている。葉の表面の色は暗緑色である。
『滑稽雑談』という本に「枇杷の木、高さ丈余、肥枝長葉、大いさ驢の耳のごとし。背に黄毛あり。陰密婆娑として愛すべし。四時凋れず。盛冬、白花を開き、三四月に至りて実をなす」とある。
簡潔にして要を得た記事だ。
冬に咲く珍しい植物のひとつである。寒い時期であり、この花をじっくりと眺める人は多くはない。
こんな句がある。

   ■蜂のみが知る香放てり枇杷の花・・・・・・・・・・・・・・・・右城暮石

この句などは、先に書いたことを、よく観察して句に仕上げている。こんな句はどうか。

   ■だんだんと無口が好きに枇杷の花・・・・・・・・・・・・・・三並富美

   ■一語づつ呟いて咲く枇杷の花・・・・・・・・・・・・・・・西美知子

   ■咲くとなく咲いてゐたりし枇杷の花・・・・・・・・・・・・・・・大橋麻沙子

いずれも「枇杷の花」の、ひっそりと咲く様子を的確に捉えている。

biwa004びわの実②

写真②にビワの実を載せる。昨年の初夏にビワの実の記事を書いた。果実として品種改良され、「茂木ビワ」が有名である。

以下、枇杷の花を詠んだ句を引いて終る。

 枇杷の花霰はげしく降る中に・・・・・・・・野村喜舟

 死ぬやうに思ふ病や枇杷咲けり・・・・・・・・塩谷鵜平

 枇杷咲いて長き留守なる館かな・・・・・・・・松本たかし

 花枇杷や一日暗き庭の隅・・・・・・・・岡田耿陽

 故郷に墓のみ待てり枇杷の花・・・・・・・・福田蓼汀

 枇杷の花子を貰はんと思ひつむ・・・・・・・・原田種茅

 枇杷の花母に会ひしを妻に秘む・・・・・・・・永野鼎衣

 枇杷の花くりやの石に日がさして・・・・・・・・古沢太穂

 枇杷の花妻のみに母残りけり・・・・・・・・本宮銑太郎

 枇杷の花柩送りしあとを掃く・・・・・・・・・庄田春子

 枇杷の花暮れて忘れし文を出す・・・・・・・・塩谷はつ枝

 病む窓に日の来ずなりぬ枇杷の花・・・・・・・・大下紫水

 花枇杷に暗く灯せり歓喜天・・・・・・・・岸川素粒子

 雪嶺より来る風に耐へ枇杷の花・・・・・・・・福田甲子雄

 枇杷の花散るや微熱の去るやうに・・・・・・・・東浦六代

 訃を告げる先は老人枇杷の花・・・・・・・・古賀まり子

 贋作に歳月の艶枇杷の花・・・・・・・・中戸川朝人

 伊勢からの恋文めいて枇杷の花・・・・・・・・坪内稔典


寒菊も黄を寄せ合へばさみしからずさ庭の隅のひだまりの中・・・木村草弥
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    寒菊も黄を寄せ合へばさみしからず
       さ庭の隅のひだまりの中・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
「寒菊」というのには、特別に品種があるわけではなく、初冬に咲く晩生の菊をまとめて言っているようである。ここに掲げたものは黄色であるが、白色もあれば淡藍色のものもある。

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写真②のものは白い色をしている。これも寒菊の一種とされている。
私の歌は寒さの中に、けなげに咲く寒菊に寄せて、私の心象を盛ったもので、単なる写生と受け取ってもらっては、困る。

古い俳句を見てみると

   寒菊や粉糠のかかる臼の端・・・・・・・芭蕉

   泣く中に寒菊ひとり耐(こた)へたり・・・・・・・・嵐雪

   寒菊や日の照る村の片ほとり・・・・・・・・蕪村

   寒菊や臼の目切りがぼんのくぼ・・・・・・・・一茶

などの作品がある。
冬の景物には「ものがなしさ」の心象が盛られることが多い。寒菊も、同様である。
以下、寒菊を詠った句を引いておきたい。

 寒菊を憐みよりて剪りにけり・・・・・・・・高浜虚子

 寒菊の雪をはらふも別れかな・・・・・・・・室生犀星

 寒菊や世にうときゆゑ仕合せに・・・・・・・・岩木躑躅

 弱りつつ当りゐる日や冬の菊・・・・・・・・日野草城

 冬菊のまとふはおのがひかりのみ・・・・・・・・水原秋桜子

 寒菊の霜を払つて剪りにけり・・・・・・・・富安風生

 寒菊や母のやうなる見舞妻・・・・・・・・石田波郷

 わが手向(たむけ)冬菊の朱を地に点ず・・・・・・・・橋本多佳子

 冬菊の乱るる色を濃くしたる・・・・・・・・鹿野佳子

 寒菊の空の蒼さを身にまとひ・・・・・・・・渡辺向日葵

 寒菊や耳をゆたかに老い給へ・・・・・・・・越高飛騨男

 冬菊の括られてまたひと盛り・・・・・・・・横沢放川



振り返ることのむなしさ腰下ろす石の冷えより冬に入りゆく・・・木村草弥
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  振り返ることのむなしさ腰下ろす
       石の冷えより冬に入りゆく・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
写真①は、私の歌とは何の関係もないが、「腰下ろす石」ということで、ネット上で検索して発見した「義経の腰掛石」というものである。
頼朝に追われて逃げる義経が、休息のために腰かけたとされる石。京都の郊外の山科の京都薬科大学の校内にある。

 ■躓きし石にものいふ寒さかな・・・・・・・・野村喜舟

という句を先に紹介したが、「つまづく」石か、「腰かける」石かの違いはあるが、こういうように、無機物で、しかも自分とは何ら縁故のない、
いわば「路傍の石」というものをも、詩歌の世界では、おのが対象物として作品化することが出来るのである。
私の歌しかり、この野村氏の句しかりである。
「冷たい」とか「冷える」という冬の寒さをいう言葉だが、これらは肌の感覚で捉えた「即物的」な表現である。
「京の底冷え」というが、これは底の方から、しんしんと冷えてくる感じである。
「石」や「水」という無機物は、冷え切ると、物凄く冷たいものである。

 ■なつかしき京の底冷え覚えつつ・・・・・・・・高浜虚子

という句があるが、虚子は南国の四国・松山の人であるから、何かの機会に訪れた京都の底冷えはひどく身に堪えて「記憶」にとどめられたのであろう。
その意識が、この句の表現になっている。

  ■底冷の洛中にわが生家残る・・・・・・・・村山古郷

  ■底冷えの底に母病むかなしさよ・・・・・・・・井戸昌子

これらの人々は京都生まれだということが判る。
寒さが厳しくなると、水や土、室内のものまで凍ることがある。
若い頃に京都の北の「鞍馬」寺の門前の友人の家に泊めてもらったことがあるが、そこは寒くて、朝起きたら、寝ている肩口に粉雪がかすかに積もっていたことがある。
障子の隙間から入ったものである。
家のすぐ裏に谷川が流れていたが、この辺りでは、撃ち取った猪の体は、そのまま谷川にロープでつないで水に漬けて置いておくのだそうである。
いわば天然の冷蔵庫ということだが、そうすることによって猪についているダニなどの虫が死んで、ちょうど都合がよいのだ、ということだった。
今は暖冬化したので、一概には言えないが、京都市内でも、同志社大学のある「今出川」通より北では、比叡おろしの風に乗って粉雪がちらちら降るのが厳寒の常だった。
京都大学のある辺りも今出川通に面しているので、比叡おろしがまともに吹くので寒い。

「凍る」「氷る」「凍(こご)ゆる」「凍(い)てる」などの言葉を使った句もたくさんある。

 ■月光は凍りて宙に停れる・・・・・・・・山口誓子

 ■晒桶古鏡のごとく氷つたり・・・・・・・・阿波野青畝

 ■凍らんとするしづけさを星流れ・・・・・・・・野見山朱鳥

 ■折鶴のごとくに葱の凍てたるよ・・・・・・・・加倉井秋を

 ■馬の瞳も零下に碧む峠口・・・・・・・・飯田龍太

このように「自然現象」をも「人事」つまり人間にかかわるものとして作品化出来るのである。
今日は私の歌をきっかけにして、冬の寒さの表現の言葉を、さまざまに「敷衍」してみた。
いかがだろうか。




花八つ手生き残りしはみな老いて・・・草間時彦
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     花八つ手生き残りしはみな老いて・・・・・・・・・・・・・草間時彦
  
八つ手の花は冬の今の時期に、ひっそりと咲く。日面ではなく、北向きの蔭のところに植えられていることが多い。
草間時彦の句は、人生の盛りを過ぎた者どもの哀歓を湛えて秀逸である。

私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、こんな歌がある。

  ひともとの八つ手の花の咲きいでて霊媒(れいばい)の家に灯りつき初む・・・・・・・・・・・・木村草弥

  霊(たま)よせの家のひそけきたまゆらを呼びいださるる幼な子の頃

この「霊媒」とか「霊よせ」ということについては、少し説明が必要だろう。
今では青森県の下北半島の「恐山」のイタコなどに、その名残りをとどめるに過ぎないが、昔と言えば昭和初年の頃までは、こういう「霊媒」「霊よせ」というのが、まだ伝統的に各地に残っていたのである。
大都市では、いざ知らず、私の生れたのは純農村であったから、「あの家は霊媒の家だ」という風に職業としてやっている人がいたのである。
もっとも当時は「神さん」とか「お稲荷さん」とかいう名で呼ばれていた。「コックリさん」という呼び名もあった。
科学的な解明というよりも、神がかりな「加持、祈祷」が幅を利かせていた時代である。

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「八つ手」の木というのは家の裏の日蔭の「鬼門」とかに、ひそやかに植えられているもので、八つ手の花はちょうど今頃12月頃に咲くのである。
そういう冬のさむざむとした風景の中に咲く八つ手の花と「霊よせ」の家というのが合うのではないかと思って、これらの歌が出来上がった、ということである。

八つ手の葉は文字通り八つ前後に裂けていて「天狗のうちわ」という別名もある。

八つ手の花を詠んだ句を引いて終りにしたい。八ツ手の花言葉は「分別」。

 たんねんに八手の花を虻舐めて・・・・・・・・山口青邨

 八ッ手咲け若き妻ある愉しさに・・・・・・・・中村草田男

 一ト時代八つ手の花に了りけり・・・・・・・・久保田万太郎

 遺書未だ寸伸ばしきて花八つ手・・・・・・・・石田波郷

 八ッ手散る楽譜の音符散るごとく・・・・・・・・竹下しづの女

 花八つ手貧しさおなじなれば安し・・・・・・・・大野林火

 踏みこんでもはやもどれず花八ツ手・・・・・・・・加藤楸邨

 花八つ手日蔭は空の藍浸みて・・・・・・・・馬場移公子

 寒くなる八ッ手の花のうすみどり・・・・・・・・甲田鐘一路

 すり硝子に女は翳のみ花八つ手・・・・・・・・中村石秋

 かなり倖せかなり不幸に花八ツ手・・・・・・・・相馬遷子

 みづからの光りをたのみ八ツ手咲く・・・・・・・・飯田龍太

 花八ッ手さみしき礼を深くせり・・・・・・・・簱こと

 どの路地のどこ曲つても花八ッ手・・・・・・・・菖蒲あや

 人に和すことの淋しさ花八つ手・・・・・・・・大木あまり


ポインセチア愛の一語の虚実かな・・・角川源義
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   ポインセチア愛の一語の虚実かな・・・・・・・・・・・・・・・角川源義

掲出した角川源義の句は、「愛」と呼ばれる言葉に含まれる諸々の諸相を「虚実」と表現していて秀逸である。
この人は一代で角川書店を築いた人である。「愛」の遍歴でも有名だが、また後日に書きたい。

私の第二歌集『嘉木』(角川書店)にも、こんな一連の歌がある。

   ひととせを描ける艶(ゑん)の花画集ポインセチアで終りとなりぬ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

   ポインセチアの一鉢に似て口紅を濃くひく妻は外出もせず

   あかあかと机辺を光(て)らすポインセチア冬の夜長を緋に疲れをり

という歌が載っている。

ポインセチアは学名をEuphorbia pulcherrima というが、原産地は中央アメリカ──メキシコである。赤い花の部分は正確には苞(ほう)である。
品種改良がすすみ、多くの花があるが写真②は2003年に産出されたばかりの「アヴァンギャルド」という新品種。

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あと二つほど色違いをお見せするが、私などにはポインセチアと言えば、やはり「真紅」のものが好ましい。
すっかりクリスマスのシンボルのように扱われているポインセチアだが、その歴史は、こんな経緯である。
むかし、メキシコにアズテク族というインディアンが住んでいて、生活の中で、この植物を上手に利用していた。苞から赤紫色の色素を採り、切った時に出る白い樹液からは解熱作用のある調剤が作られた。現在のタスコ(Taxco)付近の地域を起源地とするポインセチアはインディアンにCuetlaxochitlと呼ばれて、その輝くような花は「純粋性のシンボル」とされていた。
17世紀に入り、フランシスコ修道会の僧たちが、この辺りに住み着き、その花の色と咲く時期から「赤はピュアなキリストの血」「緑は農作物の生長」を表していると祭に使われるようになった。
1825年、メキシコ駐在のアメリカ大使Joel Robert Poinsett氏(1779-1851)は優れた植物学者でもあったため、アメリカの自宅の温室から植物園などへポインセチアが配られた。「ボインセチア」の名はポインセット氏の名前に由来する。
1900年代はじめから、ドイツ系の育種家アルバート・エッケ氏などの尽力で、市場向けの生産などがはじまった。
ポインセチアは「短日性」の植物で、1日のうちで夜のように暗い状態が13時間以上になると開花する。
写真③④はマーブルとピンクの改良種である。

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歳時記に載る句を少し引いて終りにしたい。

 小書斎もポインセチアを得て聖夜・・・・・・・・富安風生

 ポインセチア教へ子の来て愛質(ただ)され・・・・・・・・星野麦丘子

 時計鳴り猩々木の緋が静か・・・・・・・・阿部筲人

 ポインセチア愉しき日のみ夫婦和す・・・・・・・・草間時彦

 ポインセチアの色溢れゐる夜の花舗・・・・・・・・宮南幸恵

 ポインセチアや聖書は黒き表紙かな・・・・・・・・三宅絹子

 ポインセチア独りになれ過ぎてはならず・・・・・・・・鈴木栄子

 ポインセチアその名を思ひ出せずゐる・・・・・・・・辻田克己

 ポインセチアどの窓からも港の灯・・・・・・・・古賀まり子

 星の座の定まりポインセチアかな・・・・・・・・奥坂まや

 ポインセチア画中に暗き聖家族・・・・・・・・上田日差子

 寝化粧の鏡にポインセチア燃ゆ・・・・・・・・小路智寿子

 休日をポインセチアの緋と暮るる・・・・・・・・遠藤恵美子

 ポインセチア抱いて真赤なハイヒール・・・・・・・・西坂三穂子




佐田公子第五歌集『夢さへ蒼し』・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

     佐田公子第五歌集『夢さへ蒼し』・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・「いりの舎」2020/12/28刊・・・・・・・・

この本が恵贈されてきた。経歴など公表されているものを書いておく。

佐田公子[サタキミコ]
1952年埼玉県生まれ。1981年、日本女子大学大学院文学研究科日本文学専攻博士課程後期単位取得退学。
現在は、東洋学園大学・日本獣医生命科学大学・慈恵柏看護専門学校・早稲田速記医療福祉専門学校・NHK文化センターなどの非常勤講師。専攻は平安文学、和歌文学
短歌結社「覇王樹」編集発行人。

著書
歌集
『鏡の風景』 平成四年
『ももか』 平成十一年
『過去世のかけら』 平成十九年
『さくら逆巻く』 平成二十九年
著書
『栗木京子の作品世界』 平成二十年
『古今集の桜と紅葉』 平成二十年
『古今和歌集論─和歌と歌群の生成をめぐって』 平成二十八年

本の「あとがき」によると、平成二十三年三月~二十八年末までの歌456首ということてある。
平成二十九年九月末に長男を亡くされ、平成三十年十二月末に夫君・佐田毅氏が鬼籍に入られた、という。
だから、この本にはお二人の「死」にまつわる一連は含まれないということである。
ページ数の関係から、それも仕方のないことだとは思うが、このお二人を喪ったという重大事件を収録しないというのは、どういうことなのか。
以前は、直近の作品は収録しないという傾向の時期はあった。しかし、大家であっても直近の作品まで収録するというのが最近の編集の仕方である。
十数年も数年も前の、作者の「現」地点を反映しない歌を読まされる読者に、どういう顔をしろというのか。
主宰者クラスともなれば、歌集は四、五年には一回出したいものである。
現在は、そういうせちがらい、あわただしい世の中なのである。 ひと言、苦言を申しあげておく。 

歌集の題名は「いづこからくる哀しみか やまとうた 二上山の夢さへ蒼し」が採られている。
<思えば古代への淡いロマンから私の人生は始まったようなものである。もっとも当初はその現実の過酷さや哀しみを知るべくもなかったのだが。>
と書かれている。
来年春三月には東日本大震災から丸十年経つことになる。
この歌集には、それにまつわる歌が多く収録されている。

   *み熊野の古き道すぢゆきゆけば牛馬童子の細き目に会ふ
   *ふる道をひたすらたどり辿りなばわれは木霊の影になりなむ
   *カップ麺に湯を入れ二階に持ちきたる直後 大地震大地震来たり
   *停電の復旧したる午前二時 テレビ一面 気仙沼燃ゆ
   *二週間避難所暮しとふ電話 ともかく今野さん無事でよかつた
   *智恵子さん和子さんにあき子さん恵美子さんも桂子さんも無事
   *被爆から六十五年経つ日本「フクシマ」ではない福島である

結社「覇王樹」の会員で、かの地に住むひとたちの安否を案ずる歌が、たくさん詠われている。そのうちの幾つかを引いた。

長男氏の病臥の歌がある。
   *肺水腫、心不全を病む息子 水無月二日雨足激し
   *夫の手の題字に金箔押されをり散りゆく桜のカバーのよろし     歌集『さくら逆巻く』成る
   *わが歌集成れども鬱 鬱 鬱の日々 吾子の病を詠みたる歌集
   *入院のわが子の冬物詰め込むる手提げ袋のぽーんと膨らむ
   *入院の息子に贈る腕時計 箱の中よりチチハハと鳴る
   *カレーパン食べても水は五十ミリ 透析の子はあーうまさうに食ぶ
   *心臓の画像の下の洞白し 子に与へにし左腎のあたり
前歌集にはわが子の病気のこと、などが多く詠われたらしい。
はじめに書いた私の「意見」を取り消したい気分である。お許しあれ。

夫君・毅氏とも仲むつまじく過ごして来られたらしい。いくつか引いておく。
   *わが庵は生家の辰巳 巳の年の夫と歌にて世を睨みをり
   *こでまりの蕾は「しばし待て」と言う 夫よりま白き言葉欲しき日
   *午前二時結句の決まらぬ歌ひとつ憑かれ憑かれて夫と諍ふ
   *氷上を君に抱かれ風を切る北軽井沢の遠きまぼろし
   *ベコニアの咲き盛りをる遊歩道 囁きあへるいくつもの恋
   *わが夫と四十回目の年越さむ かたみに嘶き止めず走らん    翌年は午年なりき
   *籠りゐる夫に見せんと手折りにし赤き山茶花夕べに散りぬ
   *夫と息子に明るき色のTシャツを選ぶ間われの鬱は弾ける
   *若き日の交換日記が出でてきぬ 君はわれわ待ちわれは君待つ
   *君のゐる病室に来て古びたる交換日記を「ほらね」と開くる
   *山茶花をことさら愛づる君なれば赤、白、ピンクを翳してみせん  山茶花は咲いて散ります塀の上それから地上に身投げをします 毅
   *君が肩抱けばわれらはいと淡き人なる影をもちて生れたり
   *生くるため手離すをの子二人をり一人は息子一人は夫
   *君と吾を繋ぐメールの危ふさよ 十指に託す言の葉足らず

作者と夫君の愛の交換を愉しんで読んでみてください。
この他に、勤務する大学での学生との交流の歌。娘さんのことを詠んだ歌などがあるが省略させてもらう。
カバーの絵は「覇王樹」の編集委員で気鋭の画家である高橋美香子氏の手によるものという。
この歌集全般に結社「覇王樹」の会員の皆さんに対する心遣いが見られて「師弟」のほのぼのとした関係を見せてもらった。
これからも佳い歌を詠んでいただき、次歌集の早い刊行を待ちたい。  有難うございました。     (完)






黒猫に白毛混じりて猫にくる老いをながむる感動はあり・・・高田流子
k0655黒猫

──<猫>の歌いくつか──

    ■黒猫に白毛混じりて猫にくる
        老いをながむる感動はあり・・・・・・・・・・・・・・高田流子


私は猫は嫌いなので飼ったことがないが、この歌は、黒猫も老いると白毛混じりになる、という理(ことわり)を面白く、かつ諧謔的に歌にしてある。
この一連に載る歌を、もうふたつ挙げておく。

   ■猫の歳十四はすでに大婆と言ひやればばたり床にたふれる

   ■秋の夜の膝にきたれる黒猫と白髪多きをともに嘆きぬ・・・・・・・・・・・・・高田流子

長年、生活を共にして来たので、この猫は「人語」を解するらしい。この歌も愉快である。
この作者は「年譜」によると昭和15年生まれとあるから、さほど老齢ということもないが、女の人にとっては「白髪」というのは、嫌なものらしい。
猫に向って「お前も白髪が目立つようになったわね」と呟く様子が見えるようである。
「描写」というものは、かくあらねばならない。

私の方の家は猫どもの「通りみち」になっていて、臭い臭いおしっこはするわ、ぐんにゃりとしたウンコをするわ、で大被害なので、猫を可愛がる人の気が判らない。
こんな歌がある。

     ■五日まり行方不明の親猫が霧ふかき朝鳴きつつ帰る・・・・・・・・・・・・関根栄子

この猫は、恐らく交尾期の盛りの時期だったのではないか。
この時期の猫の狂ったような嬌声は安眠妨害である。私はバケツに水を張ったものを用意しておいて、やかましい猫の叫び声がしたら窓からぶっかけることにしている。

     ■立ちどまり現在位置をたしかめて方向音痴のわが猫がゆく・・・・・・・・・・・西海隆子

「犬は人につき、猫は家につく」と、よく言われることである。この歌のように、方向音痴の猫が居るのであろうか。

     ■この電車地下を這ひつつゆくからにうかがふやうな猫の形だ・・・・・・・・・・・池田はるみ

この歌は直接には電車を詠っている。這う形の猫の姿勢のようだ、という比喩になっている。

     ■隣家はこぼたれ小さき闇となり麻布猫族夜な夜な集う・・・・・・・・・・・・千家統子

     ■だれにでも抱かれるわたしのネコはもうわたしのネコであるはずはなく・・・・・・・・・・武藤雅治

「猫」の歌をよく目にすると思っていたが、こうして選り出してみると、なかなか見つからないものだ。
この辺にする。



とぢし眼のうらにも山のねむりけり・・・木下夕爾
001冬景色本命

      とぢし眼のうらにも山のねむりけり・・・・・・・・・・・・木下夕爾

「山眠る」という季語についてだが、春の山は「山笑ふ」、秋の山は「山粧ふ」と擬人法で言うが、冬の山は「山眠る」と言う。
しずかに枯れて、動きのない様子を表している。
『臥遊録』に「冬山惨淡として眠るが如し」とある。この表現を紹介して『改正月令博物筌』という本に「春山淡冶トシテ笑フガ如シ、夏山蒼翠トシテ滴ルガ如シ、秋山明浄ニシテ粧フガ如シ、冬山惨淡トシテ眠ルガ如シ」と書いたあと「冬の山はものさびしうて、しづまつたこころなり」と釈している。
また「山笑ふ」「山粧ふ」「山眠る」の三つを季語に用いて、夏の「山滴る」を季に用いないのは、「俳の掟」だとしている。その当否は別にして、ともあれ冬山の印象の形容である。
この季語を用いた句を引くと

   ■大いなる足音きいて山眠る・・・・・・・・前田普羅

の「大いなる足音」というのは、大自然という畏敬の対象である「季節の歩み」ということであろうか。
そうだとすれば、まことに大きな句意の句であると言える。

   ■眠る山或日は富士を重ねけり・・・・・・・水原秋桜子

この句の趣も壮大なものである。
眠る山に富士山を重ねて想起する、というのであるから何とも大きい句と言うべきだろう。
はじめに掲出した夕爾の句にも、あるいは富士山を重ねることも出来ようか。

   ■水べりに嵐山きて眠りたる・・・・・・・・後藤夜半

この句の場面は京都の嵐山である。
大堰川(保津川)の水辺に対岸の山(嵐山)が映って眠っている、という景である。せせこましくない、大らかな俳意の句である。

   ■山眠る最中(もなか)に我を現じたる・・・・・・・・松本たかし

この句は眠る山に、生臭い、生身の人間を置いたところに「配合」の妙がある。
「現じたる」の「現」=うつつ、である。人間の生きる「うつつ」には、さまざまの魑魅魍魎の跋扈する「現し世」があるのである。

   ■山眠る大和の国に来て泊る・・・・・・・・山口青邨

「大和は国のまほろば」と称せられるところであり、古い神々が鎮座するところでもある。
冬の大和は、まさに「山眠る」というにふさわしい邦(くに)ではないか。
おそらく作者の心の中に去来するものは、そういう心情であろうと推察される。

   ■硝子戸にはんけちかわき山眠る・・・・・・・・久保田万太郎

この句の「山」がどこかは判らないが、この句は、また何と人間臭い句であろうか。
山に向かって開いた窓のガラス戸にハンケチが干されている、という景である。前夜から干されていたのか、ガラス戸のハンケチが、もう乾いている、というのである。
万太郎は、こういうささやかな人事の匂いのする句に秀句がある。

   ■眠りつつ山相怒る妙義かな・・・・・・・・轡田進

「眠る山」は、どこでもよいが、この句の場合には「妙義山」と特定されている。
浅間、妙義辺りの山は活火山で、時折はげしく「怒って」噴火したりする。この句は、そういう事実を踏まえているのは確かだろう。
こういう「地名」の喚起力というものがあり、うまく固有名詞を使うと、句に現実味が出て強い句が出来る。


しばらくはその香に酔ひてをりにけり晩白柚風呂に浸るひととき・・・木村草弥
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    しばらくはその香に酔ひてをりにけり
       晩白柚風呂に浸るひととき・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
この歌の前に

  賜ひたる晩白柚まろく大きかり男手借りてむき分かちたり・・・・・・・木村草弥

という歌が載っているが、晩白柚を下さったのは「コスモス」の古参の安立スハル氏である。

写真①は贈答用箱に鎮座した晩白柚(ばんぺいゆ) 。
この果物は、一般に知られる赤い実のザボン(白柚)の一種で、その実は淡い黄緑色である。
柑橘類の中では最大級で直径は20~25センチ、重さは1.5~2.5㎏にもなる。
原産地はマレー半島。白柚より完熟期が遅いことから晩生白柚→晩白柚と命名された。
発見者は、当時の台湾の農業技師で植物研究家の島田弥市氏である。
晩白柚の父として知られる同氏は熊本県八代郡東陽村の出身で、同村を全国有数のショウガ産地に育てて「ショウガの父」としても知られる他「ポンカン博士」としても有名で、
その生涯を植物研究に燃焼し尽くした人である。

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写真②には、晩白柚の大きさを示すために手に持った人物の顔と対比してもらいたい。
晩白柚の産地の八代地方は、かなり以前からザボンが栽培されていたが、晩白柚は熊本県果樹試験場を経て、一般農家にも広まるようになり、独特の香りと柔らかな食味を持つことから、昭和40年代に入ると急速に栽培量が多くなった。
現在では、昭和52年にハウス栽培に成功して以来、露地よりも1カ月以上早く収穫できるようになり、正月前に出荷できるので、お歳暮やお年始に引っ張りだこ、という。

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写真③はハウスの中に整然と並ぶ収穫された晩白柚の壮観さである。

掲出した私の歌のように、香りが爽やかなので、皮を風呂に入れると絶妙の晩白柚風呂になる。
柑橘類特有の果油によって肌がツルツルになる。柚子湯のデラックス版と考えてもらえばお判りいただけよう。
私の歌のように皮を剥くのも一苦労で、力の強い男手が必要である。
身の味は、やはり酸味が強いので、実のまま玄関などに飾って鑑賞してから熟するのを待って食味すると、おだやかな酸味となる。
晩白柚のもてはやされ方をみると、食料の不自由な時期には見向きもされなかったかも知れないと思われる。
世の中に物が満ちあふれ、少しでも変わった贈答品を、という時代になって、もの珍しさも手伝って今日に至っているように見える。
安立氏が、これを下さったのは、もう十数年も前で、以後、安立氏は帯状疱疹でお苦しみで、歌壇との交際も断っておられ私にも音信がなかったが、
音信不通のまま2006年春にお亡くなりになってしまった。
安立氏は、私を歌の道に導いて下さった恩師であった。


冬山を仰ぐ身深く絹の紐・・・岡本眸
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 ↑ 紅絹(もみ)

──冬山女流三態──

     ■冬山を仰ぐ身深く絹の紐・・・・・・・・・・・・・・・・・岡本眸

冬の山は、草木が枯れて、しーんとしずまりかえって眠っている。枯れ山であり、雪を積もらせていれば雪山となる。
今では冬山登山やスキーが盛んになって、冬の山の中には、却って冬に賑やかになる山もある。
昔は、一般人は、冬には山には入るものではなく、眺めるものだった。だから「遭難」とかいうものは無かったから

   心隈なくぞ覚ゆる冬の山・・・・・・・・才麿

   めぐりくる雨に音なし冬の山・・・・・・・・蕪村

   あたたかき雨にや成らん冬の山・・・・・・・・召波

など、静かな、澄んだ、なごやかな冬山が詠われてきたのが多い。
掲出した岡本眸の句は、どこの山か知らないが、白く雪の積もる山を眺める温泉か何で、身支度をする景を詠んでいる。
句には何も書かれていないが、句の言外に漂う雰囲気が何となく「艶っぽい」ものである。
こういう句は「女句」と言うべく、男には作れない領域である。
静かなとは言っても、やはり「厳しい」冬山である。それに対比して、たおやかな女体を配するという作句の妙、とも言うべきものを的確に表現された秀句と言えるだろう。

    ■この雪嶺わが命終に顕ちて来よ・・・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

という句があるが、これは晩年の作品であるが、一点の汚れもない白亜の雪嶺を前にして多佳子は心洗われる想いがしたのだろう、命終の際には山容を見せてほしい、というのである。
彼女の句には、また

    箸とるときはたとひとりや雪ふり来る・・・・・・・・橋本多佳子

というような、夫に先立たれた、たよりなげな女身の不安な心理を詠った優れた句もある。

季語には「冬の山」「冬山」「枯山」「雪山」「雪嶺」「冬山路」などがある。

    ■冬山のさび藍色のこひしさに・・・・・・・・・・・・・・細見綾子

この句も女流ならではの句というべきだろう。男ならば山「恋しい」とは詠わないだろうと思う。
彼女にとっては、何かの思い出が、かの山にはあり、特に冬山の「さび藍色」に想いが籠っているとみるべきだろう。
この人は俳人の沢木欣一の夫人である。今の季節の句を引くと

    雪渓を仰ぐ反り身に支へなし・・・・・・・・細見綾子

という佳作もある。
今日は、岡本眸の句を皮切りにして、女流の目から見た「冬山」の句を中心に書いてみた。いかがだろうか。
冬山を前にしても「人事」の艶っぽさを滲ませた「女句」の冴えを鑑賞してみて、寒い季節ながら、ほのぼのとした肌の温もりみたいなものを感得したことである。





『四季の〈うた〉草弥のブログ抄』私信と評・・・田畑千草
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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      『四季の〈うた〉草弥のブログ抄』私信と評・・・・・・・・田畑千草(読書会「独楽の会」)

(前略) 
季を追って編集され簡潔なエッセイが短歌、詩と一体となって読み易く抒情の世界へ誘われました。
三輪茂雄先生の登場にはびっくりしました。以前、「鳴き砂」の見学会で一泊旅行に同行下さり、砂を踏むときキュッと鳴る訳を丁寧に説明して下さいました。
島根県太田市の大砂時計の指導もされましたが、まだ見学出来ていません。
どのページにも、ぎっしり詰め込まれた旅、音楽、美術、文化、宗教・・・・・何もかも興味深く拝読させて頂きました。
『卒寿になってなお、衰えぬ詩人としての覚悟、あるいは創作者の止むことのない思い、あるいは業とも呼べる何かが潜んでゐと感じられ・・・・』と評された言葉に、全く同感です。
私が、この一冊を読み終えたとき──この何かが潜んでいる魅力に惹かれて、時には辞書をひき、時には地図を広げて読み進みました。
いろいろな世界へ誘って頂きましたこと心よりお礼申し上げます。 ・・・・・・・
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短期間ではあったが、地元の読書会「独楽の会」で、ご一緒した田畑千草さんから、私の執筆意図を的確に突いた評をいただき作者冥利に尽きるというものである。
有難うございました。ここに紹介する次第である。


           
木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ・・・加藤楸邨
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     木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

木には常緑樹と落葉樹とがあって、落葉樹は冬には葉を落して、春の芽吹きを待つ。落ちかかる葉や、地に落ちている葉を「落葉」と言う。
樹の種類にもよるが、落葉というのは、一時に集中して、ハラハラと落ちる。
美しい眺めであるが、掲出の楸邨の句は擬人的に「いそぐないそぐなよ」と言っている。これは明らかに、人間の一生になぞらえて、「散り急ぐな」と言っているのは確かだろう。

ここで、俳句や短歌などの「句切り」のことについて、少し書きたい。
この楸邨の句は、一読すると「破調」のように見える。「意味」の上から「句切り」をすると、確かに5、7、5というリズムからはみ出そうだが、この句の場合は
 木の葉ふり/やまずいそぐな/いそぐなよ と区切って読めば5、7、5という「定型」のリズムに乗るのである。
こういうのを「句またがり」と言う。
昔は、こういう「句またがり」などは、リズムを崩すとして忌み嫌われたが、前衛短歌、前衛俳句華やかなりし時期に多用され、以後は一つの技法として認められるようになった。
確かに日本語の、こういう5音7音などの「音数律」はリズムを作るものとして重要である。
というのは、日本語は、その特性として「音韻」を踏めないから西洋の詩や中国の詩(いわゆる漢詩)のように「韻」や「平仄」でリズムを取れないから、
その代用として「音数律」という特有のリズムが発見されたのである。
交通標語などに採用されるものの多くが、この5音7音などの「音数律」によって作られているのが、その実証といえようか。
何度もあちこちに書いたので気が引けるが、ポール・ヴァレリーの言葉に

 <散文は歩行であるが、詩はダンスである>

という一節がある。この一節は私が大学生の頃に、文芸講演会があって、三好達治から聞いて、以後、私の座右の言葉として日々ふりかえっている言葉である。
これは「散文」と「詩」との違いを簡潔に言い表した言葉であり、過不足がない優れた表現である。

「落葉」「木の葉」「枯葉」などの句を引いて終る。

 寂寞を絢爛と見る落葉かな・・・・・・・・松根東洋城

 風といふもの美しき落葉かな・・・・・・・・小杉余子

 木曽路ゆく我れも旅人散る木の葉・・・・・・・・臼田亜浪

 多摩人の焚けば我もと落葉焚く・・・・・・・・水原秋桜子

 ごうごうと楡の落葉の降るといふ・・・・・・・・高野素十

 わが歩む落葉の音のあるばかり・・・・・・・・杉田久女

 野良犬よ落葉にうたれとび上り・・・・・・・・西東三鬼

 ニコライの鐘の愉しき落葉かな・・・・・・・・石田波郷

 落葉踏みさだかに二人音違ふ・・・・・・・・殿村莵糸子

 子の尿が金色に透き落葉降る・・・・・・・・沢木欣一

 からまつ散る縷々ささやかれゐるごとし・・・・・・・・野沢節子

 本郷の落葉のいろの電車来る・・・・・・・・伝田愛子

 宙を飛ぶ枯葉よ麦は萌え出でて・・・・・・・・滝春一

 一葉づつ一葉づつ雨の枯葉かな・・・・・・・・八幡城太郎

 落柿舎は煙草盆にも柿落葉・・・・・・・・阿部小壺

 その中に猫うづくまり朴落葉・・・・・・・・佐佐木茂索

 朴の落葉わが靴のせるべくありぬ・・・・・・・山口青邨

 朴落葉うれしきときも掃きにけり・・・・・・・・村田とう女

 落葉して凱歌のごとき朴の空・・・・・・・・石田勝彦


ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて異土の乞食となるとても・・・室生犀星
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   小景異情 その二・・・・・・・・・・・・・・・・室生犀星

     ふるさとは遠きにありて思ふもの

     そして悲しくうたふもの

     よしや

     うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても

     帰るところにあるまじや

     ひとり都のゆふぐれに

     ふるさとおもひ涙ぐむ

     そのこころもて

     遠きみやこにかへらばや

     遠きみやこにかへらばや

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この有名な詩は『抒情小曲集』の巻頭に載るもので、年譜によると

<二十歳頃より二十四歳位までの作にして、就中「小景異情」最も古く・・・・・>と書かれている極く初期の作品である。初出は『朱欒』大正2年2月、となっている。

    故郷にて冬を送る・・・・・・・・・・・・・室生犀星

     ある日とうどう冬が来た
     たしかに来た
     鳴りひびいて
     海鳴りはひる間も空をあるいてゐた
     自分はからだに力を感じた
     息をこらして
     あらしや
     あらしの力や
     自分の生命にみち亘つてゆく
     あらい動乱を感じてゐた
     木は根をくみ合せた
     おちばは空に舞ふた
     冬の意識はしんとした一時(とき)にも現はれた
     自分は目をあげて
     悲しさうな街区を眺めてゐた
     磧には一面に水が鋭どく走つてゐた

『愛の詩集』所載。初出は『詩歌』大正4年1月。

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という詩もある。
最初に掲げた詩は有名なもので、特に、はじめの短歌のリズムの二行だけを取り出して引用されることもある。
私の持っている『定本・室生犀星全詩集』(昭和53年・冬樹社刊)は全三巻で、一冊の厚さは5センチもあるものである。
近代詩の巨人として、その後の現代詩に繋がる偉業を成し遂げた。
むつかしい語句もないので、年末の忙しい時期だが、ゆっくり鑑賞してもらいたい。





言語とふ異形の遺伝子持ちしよりひとの生くるは複雑微妙・・・沢田英史
ひも

    ■言語とふ異形の遺伝子持ちしより
        ひとの生くるは複雑微妙・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・沢田英史


聖書に「はじめに言葉ありき」という教えがある。
これはイエス・キリストの言葉を信じよ、ということであろうが、「はじめに言葉ありき」という言葉は、さまざまにバリエーションをつけて語られてきた。
人間が他の生物と異なるのは「言語」を持っているからだと言われる。
それは正しいだろう。
だが、掲出した沢田英史の歌のように、この「言葉」というものを持っているが故に、人間は言語に縛られ、動きがとれなくなった、とも言える。
私にも、こんな旧作がある。

   ■「はじめに言葉ありき」てふ以後われら混迷ふかく地に統(す)べられつ・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)の「エッサイの樹」という連作に載る11首の中のものである。
この項目名からも分かるようにキリスト教──旧約聖書、新約聖書に因むものであるが、西欧世界に遊ぶと、キリスト教が、かの地に深く深く根を張り、
がんじがらめに支配していることを知らされる。
私の歌は、そんなヨーロッパの地を覆う、いわゆる「言葉」なるものの存在を意識したものである。

沢田英史の歌は、「異形(いぎょう)の遺伝子」という側面から「言語」「言葉」というものを捉えた秀歌である。

この歌の前に、「対」になるように、こんな歌がある。

   ■遺伝子を残さむがため生くるなり
        生物のいのちは単純明快・・・・・・・・・・沢田英史


この二つの「対」になった歌で、ひとつの主張がなされていると言うべきだろう。
秀歌という所以である。
この沢田氏だが2015年に亡くなられた。 惜しい才能の人を喪ったものである。 哀悼。

ヨーロッパの「精神史」に触れると、この「大枠」の中で、中世以後、デカルトをはじめとして多くの知識人が苦悩してきた事実が判って来る。
そして多くの人がカトリックに回帰してゆく。唯一、回帰しなかったのはサルトルとボーボワールの夫婦だけだったのでないか、という気がする。
「中世」が今に生きている、と言えば、そんな大げさな、と言われるかも知れないが、アメリカのブッシュ大統領が、現代の「十字軍」を標榜していた事実を見られるが、よい。
そして、結果として、イスラームを敵に廻してしまい、にっちもさっちも行かなくなった、というのがイラク戦争の報いであろう。
ひと頃、前ローマ法王が、中世の十字軍は間違いだった、とイスラームに謝った、というのに、ブッシュは時計のネジを逆に廻してしまったのだった。

その後の世界の推移は、ますます混迷を深めている。
「アラブの春」と称せられる運動も、果たしてどういう方向に向かうのか行方定まらない。
独裁者も無くならない。
日本の近海も騒々しい。 中華の「覇権主義」も相当なものである。日本人はますます「内向き」になろうとしているし、気がかりである。



われわれはどこからきたか われわれはどこへゆくのか ランプをかざす・・・栗城永好
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    われわれはどこからきたか われわれは
       どこへゆくのか ランプをかざす・・・・・・・・・・・・・・・栗城永好


『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』
原題は '''D'où venons nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?  である。
この絵と言葉を日本に最初に紹介したのは大正年間の「白樺派」の雑誌であった。
ゴーギャンの絵の題名としても有名であり、現在はアメリカのボストン美術館に所蔵されている。

以下、ゴーギャンなどについてネット上から引いておく。
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ポール・ゴーギャン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ポール・ゴーギャン(Eugène Henri Paul Gauguin, 1848年6月7日 ~ 1903年5月9日)は、フランスのポスト印象派の最も重要かつ独創的な画家の一人。「ゴーガン」とも表記・発音される。

1848年、二月革命の年にパリに生まれた。父は共和系のジャーナリストであった。ポールが生まれてまもなく、一家は革命後の新政府による弾圧を恐れて南米ペルーのリマに亡命した。しかし父はポールが1歳になる前に急死。残された妻子はペルーにて数年を過ごした後、1855年、フランスに帰国した。こうした生い立ちは、後のゴーギャンの人生に少なからぬ影響を与えたものと想像される。

フランスに帰国後、ゴーギャンはオルレアンの神学学校に通った後、1865年、17歳の時には航海士となり、南米やインドを訪れている。1868年から1871年までは海軍に在籍し、普仏戦争にも参加した。その後ゴーギャンは株式仲買人となり、デンマーク出身の女性メットと結婚。ごく普通の勤め人として、趣味で絵を描いていた。印象派展には1880年の第5回展から出品しているものの、この頃のゴーギャンはまだ一介の日曜画家にすぎなかった。勤めを辞め、画業に専心するのは1883年のことである。

1886年以来、ブルターニュ地方のポン=タヴェンを拠点として制作した。この頃ポン=タヴェンで制作していたベルナール、ドニ、ラヴァルらの画家のグループをポン=タヴェン派というが、ゴーギャンはその中心人物と見なされている。ポン=タヴェン派の特徴的な様式はクロワソニズム(フランス語で「区切る」という意味)と呼ばれ、単純な輪郭線で区切られた色面によって画面を構成するのが特色である。

1888年には南仏アルルでゴッホと共同生活を試みる。が、2人の強烈な個性は衝突を繰り返し、ゴッホの「耳切り事件」をもって共同生活は完全に破綻した。

西洋文明に絶望したゴーギャンが楽園を求め、南太平洋(ポリネシア)にあるフランス領の島・タヒチに渡ったのは1891年4月のことであった。しかし、タヒチさえも彼が夢に見ていた楽園ではすでになかった。タヒチで貧困や病気に悩まされたゴーギャンは帰国を決意し、1893年フランスに戻る。叔父の遺産を受け継いだゴーギャンは、パリにアトリエを構えるが、絵は売れなかった。(この時期にはマラルメのもとに出入りしたこともある。) 一度捨てた妻子にふたたび受け入れられるはずもなく、同棲していた女性にも逃げられ、パリに居場所を失ったゴーギャンは、1895年にはふたたびタヒチに渡航した。

『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』1897-1898年(ボストン美術館) (掲出の図版①の絵)
タヒチに戻っては来たものの、相変わらずの貧困と病苦に加え、妻との文通も途絶えたゴーギャンは希望を失い、死を決意した。こうして1897年、貧困と絶望のなかで、遺書代わりに畢生の大作『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』を仕上げた。しかし自殺は未遂に終わる。最晩年の1901年にはさらに辺鄙なマルキーズ諸島に渡り、地域の政治論争に関わったりもしていたが、1903年に死去した。
死後、西洋と西洋絵画に深い問いを投げかける彼の孤高の作品群は、次第に名声と尊敬を獲得するようになる。
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図版②にゴーギャンの自画像を載せておく。
484px-Paul_Gauguin_111ゴーギャン自画像

掲出した歌の作者・栗城永好は昭和6年生まれの「沃野」という結社に所属する人であり、2007年12月に死去された。
この歌は、はじめに紹介した有名なゴーギャンの言葉を歌の中に取り込みながら、趣ふかい歌に仕立てあげた。
この歌につづいて、こんな連作になっている。

   ランプをかざす・・・・・・・・・・・・・・栗城永好

  希望とは待つことである ひつそりと診察を待つ二時間余り

  点滴は天のしたたり 外は雨 誰もおのれの余命は知らぬ

  サヨナラをいくたび言へどどこらまで己れさらしてゐるのだらうか

  虫けらも人間もいのち奪ひあふ地球は青き星といひつつ

何とも命を深く見つめた佳作であることか。最近こういう、しっとりとした佳い歌に出会うことが少ない。
角川書店「平成19年版・短歌年鑑」に載るものから引用した。



島が月の鯨となって青い夜の水平・・・荻原井泉水
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     島が月の鯨となって青い夜の水平・・・・・・・・・・・・・・荻原井泉水

自由律俳句の先駆者である荻原井泉水の、この句に初めて触れたのは、私の少年時代であり、亡長兄の蔵書で彼の句集を見たときである。
彼の経歴を、先ずお見せする。
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 荻原井泉水

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荻原 井泉水(おぎわら せいせんすい)1884年6月16日(明治17年) ~ 1976年5月20日(昭和51年))日本の俳人。本名・幾太郎のち藤吉。

経歴
東京府芝神明町(現・東京都港区浜松町)で雑貨商・新田屋を営む荻原藤吉の3番目の子として生まれる。
長男・長女を幼くして失ったため、延命地蔵で占ったところ「今度生まれる子は男の子であるから、幾太郎と名づけよ。必ず長命する。」というお告げがあり幾太郎と名づけられる。荻原家は家督を継ぐものは代々藤吉を名乗ることとなっており井泉水もこれを継いだが、幾太郎の名を好んだようだ。

麻布中学の頃より俳句を作り始める。正則中学、第一高等学校(一高)を経て、明治41年(1908年)東京帝国大学文学部言語学科卒業。明治44年(1911年)新傾向俳句機関誌「層雲」を主宰。河東碧梧桐もこれに加わる。この年、桂子と結婚。大正3年(1912年)、自由律俳句として層雲より創刊した初の句集『自然の扉』を刊行。大正4年(1913年)季語無用を主張し、自然のリズムを尊重した無季自由律俳句を提唱した井泉水と意見を異にした碧梧桐が層雲を去る。この頃、一高時代の同窓であり1歳年下の尾崎放哉や、種田山頭火が層雲に加わる。しかし彼らが実際に面会したことはなかった。

大正12年(1923年)妻・桂子死去。また同年、母も死去し、京都に転居。昭和4年(1929年)寿子と再婚。翌昭和5年(1930年)、長男海一誕生。昭和40年(1965年)日本芸術院会員となる。昭和51年5月20日死去。享年91と、門弟の放哉や山頭火と違い、延命地蔵のお告げ通り、天寿を全うした。

なお、俳号は当初、荻原幾太郎のイニシャルから愛桜(あいおう)としていたが、生年の納音(なっちん)から井泉水と改めた。因みに、山頭火も井泉水に倣い俳号を納音から付けたが、これは本人の生まれ年からでなく単に音の響きが良いので決めたようだ。

代表著作

句集
『湧出もの』(1920年)
『流転しつつ』(1924年)
『無所在』(1935年)
『金砂子』(1946年)
『原泉』(1960年)
『長流』(1964年)

評論
『山頭火を語る』
『放哉という男』
『一茶随想』
など
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先にも書いた通り私が彼の句に触れたのは少年の頃であり、彼の句集も次兄の蔵書になってしまったから、いま私の手元にはないので、掲出句のほかには引用出来ない。
ネット上に載る記事を以下に引いておくが、これらの句が彼の代表作であるとは、私には思えないが仕方がない。
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荻原井泉水の俳句

秀句とその鑑賞

 佛を信ず麦の穂の青きしんじつ

「佛を信ず」に思い至らす麦の穂の青さ。季感の把握が的確。一粒
の麦から育ち、青い穂に幾多の実を結ぶ。麦の穂の、先ずは形とな
っと青さに佛の一途さを見たのであろうか。麦の穂の青さが訴える
強い印象に佛性が象徴される。 (高橋正子)

 力一ぱいに泣く児と啼く鶏との朝

 空を歩む朗々と月ひとり

 石のしたしさよしぐれけり

 南無観世音杉間より散るは櫻よ


萩原井泉水、日田を詠む

 行く水日永し遠山水いろに暮れていく

 水音水棹の石にふれる音の暗く涼しく

 灯して灯のうつる水を水上へとる

 更けて月はと思う涼しすぎるへさきをめぐらす 

 今は流れに放ちたる舟の舟灯との棹

 山は日を入れて水のひろびろとあるヤナ番

 手からはねてヤナにはねる鮎を手にする

 闇を一つの灯が鵜のはしに鮎がいる

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 井泉水講演から

フォーラムへのコメント

「写生」という言葉が出てきましたので、小豆島で発見された井泉水講演の記録から取り上げてみます。これは昭和初期のころ、井泉水が小豆島で行った講演を伊東俊二が筆記したもので、提供は井上泰好さんです。長文ですから、2、3回に分けてアップします。

「子規は写生主義の主張には非常に真剣で、命を打ちこんで句作に没入したので

ありましたが、晩年になって病床六尺に捕らわれてしまい、自然に接する機会が

無くなったが為に、その句も遺憾ながら新鮮味を欠くようになってしまいました。

その時、周囲の人が子規に頼ってばかりいないで、写生ということを一層深く

掘り下げて研究して、もっと気張ればよかったのですが、そのことをしなかった

が為に写生主義が一つの新しい袋小路に迷い込んでしまいました。

(ここで4句実例を上げてありますが、1例だけ取り上げます)

 職業のわからぬ家や枇杷の花

こういう句になると、句を作る人と否とでその味わい方も異なってきますが、

この句の勘所は、あまり美しくないボヤッとした感じの枇杷の花と、職業のわか

らない家というものを、くっつけたものなのです。こんな句は写生して出来たの

ではなくて机の上で作ったということが直ぐに判ります。枇杷の花と職業の判ら

ぬ家を取り合わせたところに手品のたねがあるのです。病床にばかりいた子規の

晩年は実際に見て作ったと見せかけるようにだんだんなりました。

そういう風になると、味わう上にも写生そのままの句は面白味が無く、こしら

えた句が面白い、物心一如という気持からではなくて、句として面白いのがいい

ということになってきました。

前にも言ったように、俳句は俳句であればいいのではありません。精神がなけ

ればいけないのです。ところが子規の晩年は真精神から一歩退いたものでありま

す。

今日のホトトギスの人達の句の作り方は子規の跡を継いだもので、写生主義を

根本として題による作り方しています。子規が亡くなってから三十年も経

った今も子規の晩年の頃(明治三十五年頃)もちっとも相違がありません。何故

そうであるのか、それは、俳句を題で作ることを、子規が勧めたことが原因であ

るのです。

昔も全然題詠をしなかったのでもありませんが、元禄時代には、今日のような

題ではなく、「山によせて」とかいう風な和歌で出すような題で作ったものでし

た。子規が連句は文学でないといって止めてしまってから、大勢集まった俳句の

会のときに題を出すようになったのです。」

 

承前、これは井泉水が小豆島で行った講演を伊東俊二が筆記したものです。仮名遣いは現代風にしました。
 

「その頃俳句会を運座と言いました。旧派の方でもよくやりますが、運座という

のはたとえば、十人ばかりの人が寄ったとしますと封筒を十枚用意して各人に一

枚ずつ渡し、各人が好きな題を、牡丹なら牡丹、或いは時鳥とか若葉とか書いて

次へ回す。次の人は麦なら麦と書く、こうして隣から隣へと回します。
 

その中には滋養食だとか鍋祭りだとか、ちょっと解らないような題を出して人

を困らせるというような悪戯をする者もあったりします。

鍋祭りというのは近江の国の津久摩神社の祭礼のことなのですが、そのお祭り

には、里の女が婚家の数によって鍋の数を増して頭にいただいて神幸に従う、奇

習があります。それが珍しい風俗なので俳句の題になっているのですが、一茶な

ども、「今一度婆もかぶらんつくま鍋」と・・・こんな句を作ったりしています。
 

運座ではどんな題が回って来てもそれには必ず一句を詠まねばならない掟にな

っていますので、隣から回ってきた題が難しいと困るわけです。

それで懐に忍ばせている季寄せや歳時記などをそっと取り出して、俄か勉強を

して十七字にまとめて出すようなことをします。
 

私もその頃、運座の句会に好んで出歩いた頃は、歳時記を片っ端から読んで、

題に出るものの意味や趣味を研究したものです。
 

子規に夏木立十句とかいうものがありますが、一題十句といって一つの題でた

くさんの句を作る、そういう風な作り方もしたものです。
 

こうなると、自然面白そうにこしらえて行くようにならざるを得ないことにな

り、写生主義の真実の建前を通すことが難しくなりました。写生俳句が行詰まっ

たのはこの為であります。」(つづく)

 
承前、
 

「それから、句の形が、五七五を離れたら俳句でないということを鉄則として

いた為に行詰まらざるを得ないわけなのです。
 

難しく言いますと、数学のパーミテーション(錯列法)によって数えてみても、

僅か十七字に過ぎない俳句の数は決まった数でしかないのです。例えば、時鳥の

題ならば、ホトトギスで五字とられますからあとは十二字です。十二字でホトト

ギスらしい事を詠もうとしたところで、人の想像にも、物にも限りがあるのです

が、そうそう良い句が限りなく出来る筈はないのです。
 

俳句が十七字の物とすると俳句の全数はパーミテーションの式による四十八字

の十七乗という限られた一定の数になります。その中には、いろはの並んでいる

ものもありましょうし、勿論、俳句として価値のないものも込めての数でありま

す。
 

俳句が一升のものとすると、元禄時代に三合、天明時代に三合、明治時代に三

合出てしまって、あと一合だけしか残っていないのだ・・・・と、ある人が言いまし

たが、ちょうど小豆島の水不足のようなもので・・・俳句の行詰まりは数学的の運

命なのです。」

 

このあと、子規晩年の作品から新鮮味を失った経過、さらに新傾向俳句運動、野村朱鱗洞の紹介と続きますが、いちおうここまでとします。
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「短歌」の世界でも同じだが、俳句の世界でも「自由律」というと、定型を墨守する連中からは毛嫌いされている。
戦争中は自由律は弾圧されたので、彼もすっかり逼塞してしまったようである。
先にも書いたように私は「詩」を書いていたので、そんな定型云々ということは何ら気にならなかった。
当時は、この句以外にもいくつか覚えていたのだが、今では、この句以外は忘れてしまった。
平井照敏編「現代の俳句」(1993年講談社学術文庫刊)にも彼は含まれていない。
種田山頭火や尾崎放哉は収録されているのに残念である。彼の句集などが手に入れば後日に書きたい。
なお、彼のペンネーム「井泉水」が納音から付けられた、とあるが「納音」とは少し詳しい「暦」なら載っているので参照されたい。
念のために下記にネット上に載る資料を転載しておく。
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納音
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納音(なっちん)とは、六十干支を陰陽五行説や中国古代の音韻理論を応用して、木・火・土・金・水の五行に分類し、さらに形容詞を付けて30に分類したもの。生れ年の納音によってその人の運命を判断する。

荻原井泉水、種田山頭火などはこの納音から俳号をつけた。

海中金 かいちゅうきん 甲子・乙丑
爐中火 ろちゅうか 丙寅・丁卯
大林木 たいりんぼく 戊辰・己巳
路傍土 ろぼうど 庚午・辛未
釼鋒金 じんぼうきん 壬申・癸酉
山頭火 さんとうか 甲戌・乙亥
澗下水 かんかすい 丙子・丁丑
城頭土 じょうとうど 戊寅・己卯
白鑞金 はくろうきん 庚辰・辛巳
楊柳木 ようりゅうぼく 壬午・癸未
井泉水 せいせんすい 甲申・乙酉
屋上土 おくじょうど 丙戌・丁亥
霹靂火 へきれきか 戊子・己丑
松柏木 しょうはくぼく 庚寅・辛卯
長流水 ちょうりゅうすい 壬辰・癸巳
沙中金 さちゅうきん 甲午・乙未
山下火 さんげか 丙申・丁酉
平地木 へいちぼく 戊戌・己亥
壁上土 へきじょうど 庚子・辛丑
金箔金 きんぱくきん 壬寅・癸卯
覆燈火 ふくとうか 甲辰・乙巳
天河水 てんがすい 丙午・丁未
大駅土 たいえきど 戊申・己酉
釵釧金 さいせんきん 庚戌・辛亥
桑柘木 そうしゃくもく 壬子・癸丑
大溪水 だいけいすい 甲寅・乙卯
沙中土 さちゅうど 丙辰・丁巳
天上火 てんじょうか 戊午・己未
柘榴木 ざくろぼく 庚申・辛酉
大海水 たいかいすい 壬戌・癸亥
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因みに、私の干支から言うと、私の納音は「路傍土」となるらしい。
私は「草」や「土」が好きなので、この路傍土という納音は気に入っている。
正確には生年からの「年納音」と、生まれ日からの「日納音」というのがあり、「納音配当」というのに当てはめると

 あなたの結果

 生まれ年の干支 庚午
 生まれ年の九星 七赤金星
 生まれ年の納音 路傍土
 生まれ日の納音 霹靂火

という結果が出てきて、私の生まれ日の納音は「霹靂火」というらしい。
私は一時、同人雑誌に所属していたときの雑誌の名前が「霹靂」(かむとき)だったので、この不思議な一致にも驚いている。


大空のあくなく晴れし師走かな・・・久保田万太郎
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    大空のあくなく晴れし師走かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

今日は「師走」という言葉について、少し書いてみたい

「師走」とは陰暦十二月の異称で、ほぼ太陽暦の一月の時期に該当するが、他の陰暦の月の名称と違って、師走だけは太陽暦の十二月にも使う。
師走の語源として「お経をあげるために師僧も走るほど忙しい」とする説から、年末の多忙を表わす語として定着したためだろうと言われている。

はじめに申しあげておくが「師走」の読み方としては「しわす」ではなく「しはす」と訓(よ)みたいものである。

『万葉集』巻8・冬雑歌(歌番号1648)に

   十二月(しはす)には沫雪降ると知らねかも梅の花咲く含(ふふ)めらずして

という「紀少鹿女郎」の歌として載っている。
この歌の原文は

   十二月尓者 沫雪零跡 不レ知可毛 梅花開 含不レ有而
しはすには あわゆきふると しらねかも うめのはなさく ふふめらずして

であって、これを上記のように訓み下しているわけである。
この訓み下しが誰によってなされたかは知らないが、万葉集の頃に、すでに「十二月」が「しはす」と読まれていたという証明にはならない。
つまり「しはす」という訓みが、十二月=しはす、ということが、すでに定着していた頃に「訓み下された」に過ぎないからである。
書き遅れたが、万葉集の頃には、日本にはまだ文字はなかったので、日本語を書き表わすには、漢字を借用して表記された。
だから漢字の「音」オン「訓」クンを漢字に当てはめている。万葉集では、それに「漢文」の「反り点」のように(上の歌の例の③⑤のフレーズ)文章が綴られている。

以前に書いたことだが、分かりやすい例をあげてみる。

有名な柿本人麻呂の歌(巻1・歌番号48)の

     ひむがしの野にかぎろひの立つ見えて反り見すれば月かたぶきぬ

は名歌としてもてはやされるが、これは賀茂真淵が訓み下したものであって、原文は

     東 野炎 立所レ見而 反見為者 月西渡

であって、「月西渡」を「月かたぶきぬ」と訓むのは「意訳」ではないか、人麻呂は単純に「月にしわたる」としたのではないか、という万葉学者の異論もあるのである。

万葉集の「訓み下し」に深入りして脱線したので、本論に戻そう。
「角川俳句大歳時記」の「師走」の考証欄には以下のように書かれている。

元禄11年に出た『俳諧大成新式』という本に

<ある説に、およそ亡き人の来ること、一とせに二たびなり。盂蘭の盆内と年の尾にありて、いにしへは大歳(おほどし)にも魂(たま)迎へせしよし、兼好のころもなほありと見えたり。それをとぶらふ僧と、仏名の師と、道もさりあへず走りありくゆゑに、師走といふなりとあり。>

と書かれているのが、今日、一番妥当な説として定着しているらしい。

ここで「師走」を詠んだ句を引いて終る。

 隠れけり師走の海のかいつぶり・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

 エレベーターどかと降りたる町師走・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 極月や晴をつづけて巷ある・・・・・・・・・・・・松根東洋城

 極月の人々人々道にあり・・・・・・・・・・・・山口青邨

 病む師走わが道或はあやまつや・・・・・・・・・・・・石田波郷

 青き馬倒れていたる師走かな・・・・・・・・・・・・金子兜太

 がんがんと鉄筋のびる師走かな・・・・・・・・・・・・高柳重信

 法善寺横丁一軒づつ師走・・・・・・・・・・・・稲畑汀子

 極月の舞台悪党ぞろぞろと・・・・・・・・・・・・馬場駿吉

 極月の書棚に置きし海の石・・・・・・・・・・・・高室有子

 自転車よりもの転げ落ち師走かな・・・・・・・・・・D・J・リンズィー

 極月の罅八方にかるめ焼・・・・・・・・・・・中村弘

 ソムリエの金のカフスや師走の夜・・・・・・・・・・・・深田やすを

 赤札を耳に師走の縫ひぐるみ・・・・・・・・・・・・大町道

 迷いなく生きて師走の暦繰る・・・・・・・・・・・・田島星景子

 関所めく募金の立ちし街師走・・・・・・・・・・・・杉村凡栽


『四季の〈うた〉草弥のブログ抄』評・・・谷内修三
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)                     2020-12-09 10:58:09 | 詩集

       木村草弥『四季の〈うた〉草弥のブログ抄』                    
                       (澪標、2020年12月01日発行)

 木村草弥『四季の〈うた〉草弥のブログ抄』は木村がブログで書いてきた詩歌の批評集。私はあまり本を読まないので、知らないことばかりが書いてある。さらに私は、本を読むとき好き勝手に読んでいるので、「常識」とはかけはなれた読み方をしてしまう。木村の批評に出会って、えっ、そういう意味だったのか、とびっくりする。「そういう意味だったのか」と書いたが、私にあらかじめ感想があるわけではなく、そのとき初めて知った作品に対してそう思うのだけれど。
 その例をひとつ。
 飯田蛇笏の「老いの愛水のごとくに年新た」という句を引いて、こう書いている。

彼は、老いの愛は「水のごとく」と詠むが、今の老人がどうかは読者の想像にまかせたい。

 この木村の批評を読んで、あ、「老いの愛/水のごとくに/年新た」と詠むのかとはじめて気がついた。私は「老いの/愛水のごとくに/年新た」と読んでいたのだ。そう読んで、この「愛水」を木村はどう読むのか、と期待した。
 その期待(?)に答えるように、木村は

老人にも「愛」の感情とか「性」の欲求というものは、あるのである。

 と書き始めている。「性」ということばがちゃんと出ている。

今の時代は、文明国では人々は長生きになり、老人も「性」を貪るらしい。
飯田蛇笏は七七歳で亡くなっているが、いまの私は彼の没年を超えた。

 と文章はつづいている。
 いよいよ木村自身が「性」を語るか、と思っていたら、冒頭に引用した一行である。あ、「愛水」ではなく、「愛/水のごとく」なのか。「愛=水」なのか。
 まあ、「淫水」ということばはあるが、「愛水」ということばはないようだから、私が誤読しただけなのだけれど。「淫水」ではなく「愛水」か、ちょっとしゃれているなあ、詩につかえるかもと思ったのが間違いの最初だったのだ。
 詩は、テキトウなことば、でたらめな(つまり流通していない)比喩があたりまえというか、「売り」のひとつになっているから、「新しいことば」に出会うと、私はついつい興奮してしまう。その「癖」がでたということか。
 しかしね、

■八十の恋や俳句や年の花 細見しゆうこ

こうなると、「すごいね」と言う他はない。
ピカソは八〇歳にして何番目かの妻に子を産ませているから不思議ではない。

 と木村は書いている。
 やっぱり「性」について書いている。だったら「愛水=淫水」であってもいいじゃないか、と思うのである。
 私の大好きなスケベなピカソのことも書いてあるし。
 で、少し脱線して書いておくと、ピカソが何回結婚したか知らないが、七人の恋人がいる。そして子どもは四人。最後の子どもはパロマで、1449年生まれ。ピカソは1881年生まれだから、八十歳のときの子どもではない。ただし、ピカソの最後の妻(恋人)ジャクリーヌとは1953年に出会っている。七十歳すぎである。このジャクリーヌとの出会いがもう少し早かったら、「私はピカソの隠し子」として生まれていた可能性がある。……私は、どこまでもどこまでも、自分中心に「世界」を見つめるくせがあるので、こんなことを考えたりもするのである。
 こういう私の「脱線」を修正するためではないだろうけれど、木村は、こんなふうに締めくくっている。

最後に、きれいな、美味な、美しい句を引いて終わりたい
■明の花はなびら餅にごぼうの香
(略)
この餅を貫いている「棒」は、「ごぼう」を棒状にカットして甘く柔らかく煮たもので、微かに牛蒡の香りがする。掲出句は、それを詠んでいる。

 なるほど。
 しかし、「棒」とか「貫く」ということばは、やはり、私には性につながることがらを思い起こさせる。
 いくらていねいに説明されても、なかなか最初の「思い込み」を洗い落とすのはむずかしい。

 こういう奇妙なことは、ふつうは思っても書かないかもしれない。でも、私は思ったことは思ったこととして、それが間違いだとしても、あるいは筆者に対して失礼だとしても、書いておきたいのである。
 何かしらの「必然」があって、私はことばを「誤読」する。もちろん「必然」というものはなく、単なる「無知の誤読」ということかもしれないけれど、それはそれで「無知」であることが私の生き方なのだから。

 別のことも書いておく。坪野哲久というひとの短歌が紹介されている。そのなかに、こういう一首がある。

母よ母よ息ふとぶととはきたまへ夜天は炎えて雪零すなり

 なんともいえず「肉体」そのものに迫ってくる。「夜天は炎えて雪零すなり」という情景を、私は知っている、と思う。私の母は冬ではなく、五月に死んだのだが、冬に死んだらやっぱり「夜天は炎えて雪零すなり」という日だったか、と夢想する。私は冬に生まれ、雪になじみがあるので、雪にひっぱられるようにして、そう読んでしまうのだろう。
 この歌について、木村は、こう書いている。

ふるさと石川県に臨終の母を看取った時の歌であろうか。
ときあたかも冬の時期であったようで、能登の怒濤の寄せる海の景物と相まって、母に寄せる心象を盛った歌群である。

 私は富山の生まれである。能登半島の付け根である。だから能登の海は知っている。能登の雪も知っている。
 知らず知らずに、私は私の「肉体」が覚えていることを通して坪野の歌に向き合っていたことになるのだろうか。
 こんな歌も、坪野は書いている。

母のくににかへり来しかなや炎々と冬濤圧して太陽沈む

 この冬の海も、私は「肉体」で知っている。「肉体」が覚えている。私は「肉体」が覚えていることをひっぱりだしてくれることばが好きである。
 木村の書いていることへの「批評」ではなく、私の「肉体」が感じていることを、木村が書いているものを借りて書いてみた。木村が引いている膨大な詩歌(短歌、俳句が中心)のほとんどが私の知らないものである。「頭」で読み、「頭」で書いても、きっと「誤読」になる。おなじ「誤読」なら、「肉体」が感じるままの「誤読」の方が嘘を書かずにすむだろうと私は考えている。
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畏敬する谷内修三氏が、私の最新刊の本『四季の〈うた〉草弥のブログ抄』のことを書いてくださった。
有難うございます。 ここに全文を引いておく。



群青のストールに深く身を包む冬の眸をもつ人に逢ふため・・・村田嘉子
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(お断り)目下のコロナ禍の中にあっては、この記事は不適切かも知れないが敢えて出しておく。

──銀座態──

    ■群青のストールに深く身を包む
        冬の眸(め)をもつ人に逢ふため・・・・・・・・・・・・・・・村田嘉子


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「深く身を包む」ストールの羽織り方と言えば、このスタイルであろうか。
今どき流行りの着方というと、こういうことになるのだろうか。
「冬の眸をもつ人」という言い方が、とてもしゃれている。
おでかけの行き先は、もう銀座しか、ないだろう。

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   ■いつぽんの櫂のわたくし朝雨の
        ガラスの林道漕ぎ銀座まで・・・・・・・・・・・・・・小黒世茂


この歌の作者は前衛歌人であった塚本邦雄の愛弟子で、才気煥発な女の人である。
銀座も、すっかり高層化したので、それを「ガラスの林道」と表現した比喩に満ちた歌である。
先に挙げた歌ではないが、この時、彼女は、どんな服装をしているのであろうか。
さまざまに、読者に想像させるのである。
短詩形の場合、答えが一つしかないような作品では面白くない。さまざまに考えさせるのが、よい。

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   ■夜の青 乾く銀座の石畳
       雪よりほかに乞ふものはなし・・・・・・・・・・・・・高崎淳子


今の銀座の、どこに石畳があるのか、私は知らない。
今は、もう無いとしても、乾く冬の銀座の石畳に雪よ、降ってほしい、という表現は秀逸である。

    ■モンパリの歌母と口ずさみ歩む夜の
        外堀セーヌの春の香のたつ・・・・・・・・・・石田容子


この歌は、銀座をフランスのパリになぞらえて詠まれている。パリの町並みはナポレオン3世によって都市計画がなされ、5階以上の高さの建物はないが、外見的には似ていなくもない。

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      ■雪赤く降り青く解け銀座の灯・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

赤い灯、青い灯、と俗称される巷灯が、時ならぬ雪に映えているのを巧みに詠んでいる。

よく知られていることだが、ここでネット上に載る銀座の成り立ちを転載しておく。
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銀座の地形と成り立ち ~銀座が海だった頃から~

それは海から始まった
徳川家康が江戸に幕府を開いた1603年(慶長8年)には、銀座はまだ海だった。
江戸に城はあったものの、城の東側は利根川水系の作る低湿地で、葦(あし)が繁っていた。
江戸の西側には、関東ローム層からなる武蔵野台地が広がっていた。
武蔵野台地の東側には、いくつもの谷が深く切れ込み、坂や崖を作っていた。
現在の東京都心の高台は、こうした台地の先端部分に当たる。
上野、本郷、小石川、四谷、赤坂、白金などいわゆる山の手を形成する高台だ。

日比谷入江の埋め立て
江戸城も、こうした台地の先端に築かれていた。
江戸城から見ると、現在の日比谷あたりは浅い海の入江。
日比谷の海を隔てて、日本橋から半島のように砂州が出ている。
これを江戸前島といい、前島の付け根の部分に、江戸湊(みなと)が築かれた。
幕府が最初に埋め立てたのが、日比谷の入江だった。
江戸城の目の前まで入り込んでいた入江だけに、船で攻め込まれる危険があったからだ。
加えて、武士たちを住まわせる屋敷も必要だった。
そこで埋め立て工事に拍車がかかり、江戸城から前島にかけて、新しい陸地が造られた。

水の都 江戸
日比谷の埋め立てに先立って、江戸城と江戸湊を結ぶ堀が造られた。
道三堀というこの運河は、現在は姿を消しているが、江戸城へ物資を運ぶ幹線運河だった。
川の多い江戸では、水上交通が便利であることに、幕府はいち早く気がついた。
武士、町人にとっても同じこと。
猪牙(ちょき)舟で行ける所まで行き、降りてから歩くのが普通だった。
ヴェネツィアの水上タクシーと同じ様に、猪牙舟はお江戸の人たちの足だったわけだ。
水をたたえた堀と猪牙舟の実物は、「江東区立深川江戸資料館」に再現されている。

消えた三十間堀
銀座にも、掘割が巡らされていた。現在、掘割も川もまったく残っていない。
すべて埋め立てられ、道路や高速道路に変えられてしまった。
橋は消え、その名前だけが交差点や高架橋の名称として残っている。
消えた川と掘割の代表例が、銀座通りの東側を並行して流れていた「三十間堀」だ。

三十間堀にかかる三原橋とその上を走るチンチン電車
江戸時代に造られ、1949年(昭和24年)に埋め立てられて姿を消した。
名残は唯一、「三原橋」という名前が、人びとのなかに通称として残っていること。
晴海通りと旧三十間堀が交わるあたりは、歩くと、橋のあった証拠の起伏が感じ取れる。

橋あってこそ銀座
最も有名な数寄屋橋は、外濠(ぼり)にかかっていた。
現在、上を高速道路が走る。

数寄屋橋附近
銀座にあった橋のすべてが、今は水ではなく車の流れる道と接している。
白魚橋(昭和通り)、京橋(高速道路)、城辺橋(外堀通り)、山下橋(同)、土橋(同)、新橋(同)、蓬莱橋(昭和通り)、采女橋(首都高)、万年橋(同)、三吉橋(同)etc.
今こうした橋は銀座への入口として、往時と同じ役割を果たしている。
流れる水はなくなっても、銀座へ足を踏み入れるときめきは、変わらない。


「詩」鳥のゆくえ・・・永井章子
イプリス_NEW

       「詩」鳥のゆくえ・・・・・・・・・・・・永井章子
               ・・・・・・「イプリスⅡ」32号所載・・・・・・

        
         鳥のゆくえ      永井章子

     ・・・・・・・・・・
あの頃は彼女と頻繁に会っていた 会う度に彼女は鳥の話をした
     ・・・・・・・・・・
あれは何年前のことだったろう Mさんの家に行ったのは 多分私が強引につ
いて行ったのだと思う 家に行けば鳥のことが少しでも分かるかもしれない
質問だってできるかもしれない そんな気がして
あの日Mさんの家のドアを開けると 部屋の真ん中に置いてあった大きな鳥籠
がいきなり目に飛び込んできた でも近づいてみると真新しい籠の中には鳥は
いなかった何もいなかった 鳥籠の周りには エノコログサが植えられたいく
つもの植木鉢がおいてあって 緑色の穂が揺れていたから夏だったのだろうか
予想外の光景に驚いた私はMさんとこの日何を話したか全く覚えていない
     ・・・・・・・・・・
Mさんにとって鳥とは何だったんだろう
暗い荒野にMさんが放った一羽なのだろうか それとも果てのない空間を飛ん
でくるかすかにひかる一羽なのだろうか
     ・・・・・・・・・・

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長い詩なので核心だけに絞らせてもらった。
「詩」は意味を辿ってはいけない。と誰かに、くどく言われた。
そこが「抒情詩」と違うところである。
永井さんについては、

『出口という場処へ』で少し書いたのでアクセスして読んでみてください。
そこには彼女の本のことなども引いてある。前の本『表象』のこともリンクで読めるようになっているので、よろしく。


『四季の〈うた〉草弥のブログ抄』私信と評とケーキ・・・神田鈴子
四季_NEW

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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      『四季の〈うた〉草弥のブログ抄』私信と評とケーキ・・・・・・・・・・神田鈴子(「地中海」所属)

十二月に入って寒さも加わり、コロナ禍に振り回された、この一年も過ぎ去ろうとしておりますが、お変わりございませんか。
先日は、ご立派な著書「四季の〈うた〉」を御上梓されまして本当におめでとうございます。・・・・・
亀甲模様の美しい装丁にも惹かれ、ずっしりと重量感のあるご本をこれからゆっくり拝読させて頂きたいと思っております。
今年卒寿を迎えられた木村様のバイタリティに只々感嘆しておりますが、コロナの終息の目処も立たないこの日頃をどうぞお体お大切にお過ごし下さいますよう心より祈っております。
心ばかりの御礼にケーキを焼きましたので御賞味下さいませ。           神田鈴子
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敬慕する神田さんから私信と見事なオレンジケーキ一本を賜った。
神田さんはケーキ作りの名手で、ケーキ教室を主宰されていた。
有難く拝受して、少しづつ頂くことにする。 有難うございました。
お礼に即詠の拙作を一首
       君賜びしオレンジケーキ深き香の切ればたちくる真昼なりけり      草弥





     
『四季の〈うた〉草弥のブログ抄』私信と評・・・永井章子
四季_NEW

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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      『四季の〈うた〉草弥のブログ抄』私信と評・・・・・・・・・・永井章子(詩人「イプリスⅡ所属」)

前略ごめんください。
先日は御本「四季の〈うた〉」をご恵贈いただきまして誠に有難うございました。
ついこの間、御詩集「修学院夜話」を戴きましたばかりですのにと本当に驚き感嘆いたしました。
いつも、いろいろなことに、ご造詣が深くていらっしゃいますことは存じ上げておりましたが、御書にも春日真木子氏が「旺盛な知識欲と博識」と書いていらっしゃいますように、「四季の〈うた〉」を拝読いたし、その思いがさらに強いものになりました。
物知らずの私は、短歌の言外の意味を理解できる程の知識が乏しく、難しく感じますが、その反面、詩より短歌でこそ気持ちをより鮮明に表すことが出来ることがあるということを、この御本で感じました。
特に奥様のこと、お母様のこと、そしてお茶のことを詠まれましたものに、そのように思いました。
例えば奥様のこと
  ・コーラスのおさらひをする妻の声メゾ・ソプラノに冬の陽やさし
  ・妻消す灯わが点す灯のこもごもにいつしか春となりて来にけり
  ・ががんぼを栞となせる農日記閉ざして妻は菜園に出づ
  ・母よりも姑と暮らすが長しと言ひ妻は庭べの山椒をもぐ
  ・たそがれて皆居なくなる茶の花の夕べを妻はひとりごつなり
  ・はまなすの丘にピンクの香は満ちて海霧の岬に君と佇ちゐき
  ・億年のなかの今生と知るときし病後の妻とただよふごとし
  ・「弥いちゃん」と妻を愛称で呼ぶこともなくなつたかな、ふと思ひ出す
  ・水昏れて石蕗の黄も昏れゆけり誰よりもこの女のかたはら
例えばお母様のこと
  ・菊の香はたまゆら乳の香に似ると言ひし人はも母ぞ恋しき
  ・この世紀はじまる年に生れ来て戦も三たび経し我が母は
  ・仏壇に供ふる花の絶えたりと母は茶花の露けきを挿す
  ・しぐれつつ十二月七日明け初めて母は九十一、われ六十一
例えば御茶のこと
  ・茶師なれば見る機のなき鴨祭むらさき匂ふ牛車ゆくさま
  ・日月を重ねて揃ふ茶のみどり摘むゆびさきは陽光に刺され
  ・白丁が「三の間」に身を乗りいだし秋の水汲むけふは茶祭
  ・たはやすく茶の花咲くにあらざらめ酷暑凌ぎて金色の蘂
その他では
  ・別離とは白き紙かも夏逝くといのちの影をうつして居たり
  ・真実とはいかなる象なすものか檀のまろき実くれなゐ深く
  ・生きものはみな先ず朝を祝福せむ、徹夜してまで作るな短歌     (これは、つい笑ってしまいました)
そして「はねず色のうつろひやすき花にして点鬼簿に降る真昼なりけり」に関連して─詩歌というのは日常を非日常化してたものである─と述べておられることが深く心に届きました。
また多くの俳人、歌人の方のご批評も興味深く、中でも千種創一氏の─事実ではなく真実を─木村様が感動したと書かれておりますのを、私も、とても感銘を受けました。
その他でも、古歌のこと、原発のこと、イスラエルやドイツ等々の外国旅行のこと、音楽のこと、と多数、数え上げるときりがない程いろいろ教えていただきました。
私事で恐縮ですが、2002年に60歳の夫を亡くしましたが、他のテーマの中で、少し夫のことに触れることがありましても、夫をメインにした詩をどうしても書くことが出来ないできました。
今回、御本をいただきまして特に奥様への短歌では一首で思いや状況の広がりが目に浮かび、短歌の凄さを知りました。

「イプリス」32号に一作参加しています。相変わらず言葉を重ねても言い足りないような詩を書いています。ご笑覧いただけましたら嬉しいです。
時節柄くれぐれもご自愛下さいませ。
重ねて御礼申し上げます。    12月5日         永井章子
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永井章子さんから詳細なお手紙を賜った。
私の制作意図と、「抒情詩」である短歌の特質をみごとに読み解いていただき有難うございます。
永井さんとは三井葉子さんの詩の会で、短時間ご一緒したに過ぎないが、今に至るまでお付き合いいただき有難うございます。 
頂いた「イプリスⅡ」の詩作品は別途ここで紹介させていただく。



  
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