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草弥の詩作品<草の領域>
poetic, or not poetic,
that is the question. me free !
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──「未来山脈」掲載作品──(37)
ハレとケ 木 村 草 弥
「ハレ」は「ケ」という言葉と対立的に用いられる
「け・はれなく」(褻晴無く)とは「いつも」という意味である
ケは日常、ハレは晴れがましい時ということになる
むかし「褻衣(けごろも)」はふだん着、反対が「晴着(はれぎ)」である
このケは「気」のことだ。日本語ではキ・ケ・カと音が変化する
ケは目に見えず存在する根源のような存在である
では何故「ケ」が「ハレ」と対立するのか
古代人はケという根源の存在が充満してしまうと
万物も隠(こも)ってしまって命が衰弱してゆく、と捉えた
神に祈って「ケ」を祓ってもらうと「ハレ」の状態となる
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「万葉集」研究者の中西進氏の研究を参考にさせてもらった。
ハレとケ、ということは、よく言われることである。「ケ」は「褻」という難しい字を書くが表外漢字に出てくる、れつきとしたものである。

↑ 松尾大社 丑年 大絵馬

↑ 晩白柚お正月飾り
湯浴みして 血の蘇る 大旦(おおあした)・・・・・・・・・・・・伊丹三樹彦
ここ数年間、有名な
去年今年貫く棒の如きもの・・・・・・・・・高浜虚子
を引いてきたが、余りにも芸が無いので、余り知られていない佳句を引いた。
この句は前衛俳人として名のある伊丹三樹彦の作品である。
ご覧になると判るように575の間に「一字アキ」を施した斬新な句である。
現代詩などでは多用する表現である。
ともあれ、年が改まったのであるから、気分を新たにして生きたい。
新年の念(おもい)というのは、古来さまざまに詠まれて来た。
以下、少し引いて年頭の「初」ブログとしたい。
■老の愛水のごとくに年新た・・・・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏
■人死んでまた死んで年新たなり・・・・・・・・・・・・・・・草間時彦
こんな句もある。
■いざや寝ん元日はまたあすのこと・・・・・・・・・・・・・・与謝蕪村
蕪村としては、ぐっと砕けた、磊落な作である。「自筆句帖」は、蕪村が最晩年に自ら記録していた自作句集。
会心とする作には〇印を振ってあり、これも、そのひとつ。
晩年の蕪村の心のあり様をうかがわせるような句である。
俳句をおやりの人には常識だが、歳時記には春、夏、秋、冬の四つの季節のほかに「新年」という季節分けがあって、
分冊の場合は全部で5冊になるのである。
そこに載る句を少し引いておく。
去年の如く今年の如く母のそば・・・・・・・・萩原麦草
この間逢ひしばかりに去年今年・・・・・・・・高浜年尾
針に糸通してゐるや去年今年・・・・・・・・細見綾子
おいらくのほのぼのかなし明の春・・・・・・・・山口青邨
読みさして方丈記あり去年今年・・・・・・・・遠藤梧逸
去年今年一と擦りに噴くマッチの火・・・・・・・成田千空
白光の一筋通ひ去年今年・・・・・・・・平井照敏
去年今年闇の向ふに犬鳴いて・・・・・・・・渡辺七三郎
いそがしき妻も眠りぬ去年今年・・・・・・・・日野草城
命継ぐ深息しては去年今年・・・・・・・・石田波郷
去年今年雨降り埋む妻との隙・・・・・・・・角川源義
去年といひ今年といひて火に集ふ・・・・・・・・鷹羽狩行
去年今年去年今年とて今更に・・・・・・・・能村登四郎
夢もなし吉凶もなし去年今年・・・・・・・・森澄雄
去年今年ニーチェを読んで老い知らず・・・・・・・・野崎ゆり香
洗ひ干す筆のいのち毛去年今年・・・・・・・・松本可南
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