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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(4月)月次掲示板
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東日本大震災から十年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
entry_25しだれ桜小渕沢
 ↑ 小渕沢しだれ桜

四月になりました。陽春の到来です。
新人の春です。 旧人はひっそりと暮らしましょう。

 アレツポの石鹸切れば暗緑色の出できて遠き地の香たちきぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・吉田恵子
 沖縄のかがやく碧よ、北国の蒼さ冥さよ、海めぐる国・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 森山良太
 空色の階段われと降りて来し黄蝶は水を渡りてゆけり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・森みずえ
 電球を買いにきたのに二段熟成さしみ醤油も買って帰った・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 丸山三枝子
 野仏はめはなうすれてゑむごとく小さくおはす御代田の里に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村順子
 ひたひたひた水は滲み出る凍らない塞いで塞いで世界が濡れる・・・・・・・・・・・・・・・・三枝昂之
 今年また雑草ははやく茂り来て癒えやらぬ土の傷みを覆ふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 石川恭子
 生、老、病、生きて残れる死までしばし 今朝は郭公のこゑを聞きたり・・・・・・・・・・・・志野暁子
 花の枝のどこまで撓む愛されてゐるとふ自負の肢体のごとく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 太田宣子
 どうしても生きてたいです オモイノママという名前の花があります・・・・・・・・・・・・・ かなだみな
 薬狩りのこゑをしづめて夕映ゆる隠沼ありぬわが禁野には・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 萩岡良博
 印象派の始祖としてベラスケスあり風景を外に出でて描き・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・櫟原聰
 唐破風千鳥破風におのづから序破急ありて波うついらか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 楠田立身
 朝食の卓に日は射し詩人の血わが静脈にこそ流るるを・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤原龍一郎
 日本の家族写真の真ん中は普通は子供あめりかは妻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・武藤ゆかり
 耳奥のリンパのゆらぎ朝床に人となるべくかたちひき寄す・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・久我田鶴子
 重ねあふ空あるのみに揚げ雲雀声はたちまちかき消されゆく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・阪森郁代
 春の灯や女は持たぬのどぼとけ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日野草城 
 春来る童子の群れて来る如く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・相生垣瓜人
 あけぼのや春の音とは水の音・・・・・・・・・・・・・・・・・・片山由美子
 春の月情事の後も春の月・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・マブソン青眼
 花冷や日誌に潰す虫その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・さわだかずや
 春闇に溶けてゆきたるハイソックス・・・・・・・・・・・・・・・・赤野四羽
 定まりし言葉動かず桜貝・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・生駒大祐
 霞みつつ岬はのびてあかるさよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・上田信治
 泣く子ゐてあやす子がゐてあたたかし・・・・・・・・・・・ハードエッジ
 春日傘美しければ追ひ越さず・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・牛田修嗣
 だきしめたしまはまるごとみなみかぜ・・・・・・・・・・・・・・ 豊里友行
 一つづつ紅を尽くして落椿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・市堀玉宗
 葉桜や兄の葉書に叱らるる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・折勝家鴨
 春の月赤い薬包紙につつむ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・河西志帆
 猫町を彷徨つてゐる春の夢・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・金子敦
 春は酣なぜに美少女墜つる魔都・・・・・・・・・・・・・・・・・藤原月彦
 死際に手淫歴など尋ねられ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 月波与生
 花時や父の役目を為し遂げて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 津野利行 
 かげろふを通るてのひら濡れてゐる・・・・・・・・・・・・・・・柏柳明子   
 黄砂降るカメラの紐を首に掛け・・・・・・・・・・・・・・・・・・・寺沢一雄
 猫呼びに出てみづいろに春の月・・・・・・・・・・・・・・・・・・杉山久子
 心臓は小さな臓器豆の花・・・・・・・・・・・・・・・・・・クズウジュンイチ
 老々介護垣に青木の花いくつ・・・・・・・・・・・・・・・・・すずきみのる
 繰り返すいないいないばあの春の昼・・・・・・・・・・・・・・ 萱嶋晶子
  故人みな大脳にをり黄沙ふる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・安田中彦
 走っても走っても街 春終わる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大中博篤
 桜貝砂に包んで持ち帰る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池康生
 クリームのやうな寝癖や花の雨・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤御影
 逢ひたくてミモザばかりを眺めたる・・・・・・・・・・・・・・・・・栗山麻衣
 家ぢゆうの家電が喋る四月馬鹿・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 杉原祐之 
 春昼の雨落ち石と飾り石・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・倉田有希
 春泥や楽器はどれも大荷物・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・きしゆみこ
 名古屋まで北海道展は春下る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・工藤定治
 読みすすむ史書の厚みや花の雨・・・・・・・・・・・・・・・・・ 片岡義順
 足指から弛緩していく木の芽時・・・・・・・・・・・・・・・・・・・谷口鳥子
 菜の花や氏名手書きのバス定期・・・・・・・・・・・・・・・・・ 滝川直広
 春の日の金の夕べを空車(むなぐるま)・・・・・・・・・・・・・・ 高梨章
 目醒めよと呼ぶ声ありし蝶の昼・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中村清潔
 幸福の咲くとはこんな桃の花・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 中塚健太
 ふらここを下りぬ死者への鎮魂歌・・・・・・・・・・・・・・・・ 吉川千早
 太白を従へ春の月のぼる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 利普苑るな
 わたくしの春は鼻からやってくる・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩崎雪洲
 ライバルに見せてしまって足の裏・・・・・・・・・・・・・・・・・滝尻善英
 さてここで・・・(おっと台詞を忘れたよ)・・・・・・・・・・・・・・木村美映
 朝東風や青きリボンを結びたる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・下楠絵里
 春の仕掛けのピアノを壊してみた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・普川洋
 雨女しづかに死せり竹の秋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・葛城蓮士
 金魚らに国の名つけて遊びけり・・・・・・・・・・・・・・・・兼信沙也加 
 カキフライが無いなら来なかった・・・・・・・・・・・・・・・・・・又吉直樹
 花子さん桜子さんと野遊へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 黒岩徳将
 にじみながら海は七つと決められる・・・・・・・・・・・・・・・ 兵頭全郎
 春深く剖かるるさえアラベスク・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・九堂夜想
 昭和平成やがて引戸の黒ずみへ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・曽根毅
 腹筋がやっと割れたわ白木蓮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩根彰子  
 牛糞を蹴ればほこんと春の土・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鈴木牛後


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 歌集 『嬬恋』 (角川書店刊)
 歌集 『昭和』 (角川書店刊) 
 歌集 『無冠の馬』 (KADOKAWA刊)
 歌集 『信天翁』 (澪標刊) 
 詩集 『免疫系』 (角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』 (角川書店刊)
 詩集 『修学院幻視』 (澪標刊)
 詩集 『修学院夜話』 (澪標刊)
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摩天楼より新緑がパセリほど・・・鷹羽狩行
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 ↑ エンパイアステートビルからの俯瞰。小さな緑が見える。

       摩天楼より新緑がパセリほど・・・・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

鷹羽狩行は昭和5年生まれ。中央大学法学部卒。山口誓子、秋元不死男に師事。
本名は「高橋行男」(たかはしゆきお)であり、これをアナグラムで並べ替えて「鷹羽狩行」とした。
本名では、いかにも俳人らしくないので、山口誓子が、アナグラムした、と言われている。
これは私の勝手な想像ではなく、本人のエッセイか何かで読んだ記憶がある。

この句も着想が面白い。摩天楼というからには、本場ニューヨークのことだろう。
はじめてニューヨークに行くと、必ずと言っていいほど、摩天楼のエンパイアステートビルに連れて行かれる。
車も人も芥子粒ほどに小さく、新緑の木立も、かなり大きくても、パセリほどという発想は新鮮である。
今の季節では、ニューヨークでは、まだ寒くて新緑は、まだかも知れない。
先日のNHKのラジオでは首都ワシントンのポトマック河畔の桜が満開、と言っていた。ニューヨークは数百キロ北で、気温はまだ低い。

彼の結社は「狩」というが、全国に子結社、孫結社を持っており、俳人協会会長として権勢を振るっていたが先年「狩」は解散した。
後継は片山由美子さん「香雨」ということである。

以下、彼の句を引いて終わりにしたい。
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 落椿われならば急流へ落つ

 天瓜粉しんじつ吾子は無一物

 蓮根掘モーゼの杖を摑み出す

 母の日のてのひらの味塩むすび

 一湾の縁(ふち)のかなしみ夜光虫

 紅い父青い母走馬灯かこむ

 大言海割つて字を出す稿始め

 一対(いつつい)か一対一か枯野人

 鶯のこゑ前方に後円に

 黴の世の黴も生きとし生けるもの

 ひとすぢの流るる汗も言葉なり

 蛇よりも殺めし棒の迅(と)き流れ

 湖(うみ)といふ大きな耳に閑古鳥

 昼は日を夜は月をあげ大花野

 しがらみを抜けてふたたび春の水

 息づきにおくれ息づく薄ごろも

 秋風や魚(うを)のかたちに骨のこり

 人の世に灯のあることも春愁ひ

 しみじみと端居の端といふところ

 太陽をOH!と迎へて老氷河

 落鮎や流るる雲に堰はなく

 麦踏みのまたはるかなるものめざす

 春光や砂の皺より蜆貝

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↑ 富士を望む句碑「伊豆は日のしたたるところ花蜜柑」



夕光にあからさまなる木蓮の花びら厚し風たえしかば・・・佐藤佐太郎
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      夕光(ゆふかげ)にあからさまなる木蓮の
          花びら厚し風たえしかば・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤佐太郎


佐藤佐太郎は明治42年宮城県生まれ。斎藤茂吉に師事。
岩波書店に勤務する。
都市生活に根ざした独自の簡勁な写実主義短歌を展開。
昭和20年「歩道」を創刊、主宰する。
昭和27年『帰潮』により読売文学賞、55年日本芸術院賞を受賞する。
昭和62年没。

この歌は風の止んだ夕方、ぼったりとした厚い木蓮の花が夕日に「あからさまに」に染まっている、という精細な写実の秀歌である。
佐太郎のファンは今でも多く、歌集もよく売れている。
以下、佐太郎の歌を引いておく。
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をりをりの吾が幸(さいはひ)よかなしみをともに交へて来りけらずや

店頭に小豆(あづき)大角豆(ささげ)など並べあり光がさせばみな美しく

地下道を人群れてゆくおのおのは夕の雪にぬれし人の香

めざめしはなま暖き冬夜にてとめどなく海の湧く音ぞする

なでしこの透きとほりたる紅(くれなゐ)が日の照る庭にみえて悲しも

つるし置く塩鱒ありて暑きひる黄のしづくまれに滴るあはれ

今しばし麦うごかしてゐる風を追憶を吹く風とおもひし

連結を終りし貨車はつぎつぎに伝はりてゆく連結の音

戦(たたかひ)はそこにあるかとおもふまで悲し曇のはての夕焼

黄牛(あめうし)は体の皮たえず動かして蝿おひゐたり近づきみれば

桃の木はいのりの如く葉を垂れて輝く庭にみゆる折ふし

キリストの生きをりし世を思はしめ無花果の葉に蝿が群れゐる

金の眼をしたる牝猫が曇りつつ寒き昼すぎの畳をあるく

貧しさに耐へつつ生きて或る時はこころいたいたし夜の白雲

灯を消して吾は思ひきつづまりは人のこころは臥床に憩ふ

あたたかに冬日さすとき老いづきし項(うなじ)の汗をわびしむわれは

ヴェネチアのゆふかたまけて寒き水黒革の座席ある舟に乗る

冬山の青岸渡寺の庭にいでて風にかたむく那智の滝みゆ

すさまじきものとかつては思ひしが独笑(ひとりわらひ)をみづからゆるす

梨の実の二十世紀といふあはれわが余生さへそのうちにあり

遠くより柿の実みゆるころとなりいまだ濁らぬ視野をよろこぶ

日々あゆむ道に明治の赤き花豆菊咲きて父おもはしむ
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終りから5首目の歌は、いろいろ論議された歌で、結句の「みゆ」は、それまでの文脈からすると「--を見る」という他動詞でなければならないが、この歌には上句と下句には「ねじれ」があって、佐太郎としては途中を省略して、「庭に出てみたら」那智の滝が「見える」という表現になったのだろう、ということになっている。
初心者ならば、当然、先に書いたように自動詞、他動詞の関係から、不適切として直されるところである。
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img_501423_59804757_10佐藤佐太郎歌碑
 ↑ 佐藤佐太郎歌碑 関門海峡に臨む「関見台公園」


「花吹雪空に鯨を泳がせん」剛毅まぶしもよ遠き談林・・・岡部桂一郎
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      「花吹雪空に鯨を泳がせん」
          剛毅まぶしもよ遠き談林・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岡部桂一郎


この歌は、一種の「コラージュ」の歌である。
「花吹雪空に鯨を泳がせん」という句が誰の作品か調べかけたが、未だ判らない。
「談林」派の誰かの句だと思うが、岡部が言うように、大きな景の句である。
その句をコラージュとして取り込んで、彼は、それを「剛毅」なと褒める。
たしかに花吹雪の空に「鯨」を泳がせようというのは、彼の言うように剛毅であるが、私から見ると、この表現は談林派特有の「奇抜な着想」と言えるだろう。
いかにも飄逸な歌作りを身上とする岡部らしい「引用」であると言える。

岡部桂一郎は大正4年神戸市生まれ。戦前は短歌結社「一路」に拠ったが、戦後は所属結社などは無い一匹狼として歌を発表してきた。
1994年(平成6年) 作品「冬」にて第30回短歌研究賞
2003年(平成15年) 歌集『一点鐘』にて第37回迢空賞および第18回詩歌文学館賞
2008年(平成20年) 歌集『竹叢』にて第59回読売文学賞

2012年(平成24年)11月28日、死去。97歳。
以下、彼の歌を引いてみよう。
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まさびしきヨルダン河の遠方(をち)にして光のぼれとささやきの声

空気銃もてる少年があらわれて疲れて沈む夕日を狙う

遠くよりさやぎて来たる悲しみといえども時に匕首(ひしゅ)の如しも

間道にこぼれし米の白ぞ沁むすでに東北に冬が来た

みちのくの夜空は垂れて電柱に身をすりつける黒猫ひとつ

砂の上に濡れしひとでが乾きゆく仏陀もいまだ生れざりし世よ

天を指す樹々垂直に垂直にして遠く小さき日は純粋なり

うつし身はあらわとなりてまかがやく夕焼空にあがる遮断機

手のひらを反せば没り陽 手のひらを覆えば野分 手のひら仕舞う

ひと息に行人坂を吹き抜けて途方にくれる昼の木枯

ひとり行く北品川の狭き路地ほうせんか咲き世の中の事

天の川空にかかりて丈高き夾竹桃の花を暗くす

葡萄酒にパン浸すとき黒々とドイツの樅は直立をせり

春の風通りてゆけば紙袋おもむろに立ち裏返りけり

のんき屋という看板をあげている君の店舗の夕蝉しぐれ

まっすぐにわれをめざしてたどり来し釧路の葉書雨にぬれたり

陰(ほと)の毛のあわく繁るは飾りかとおみなに問えば否と答えつ

命終に近づく友を思えども油蝉なく樹の下ゆけり

夕づく日差すや木立の家の中一脚の椅子かがやきにけり

のびやかに物干竿を売る声の煙のような伊勢物語
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上に引用した歌の中に

陰(ほと)の毛のあわく繁るは飾りかとおみなに問えば否と答えつ・・・・・・・・・・・・・岡部桂一郎

というのがあるが、岡部の歌には、こういう意表を突く「瓢逸」というか「洒脱」というか、の歌がある。一筋縄でなく、一ひねりした作品である。
また、こんな歌がある。

春の風通りてゆけば紙袋おもむろに立ち裏返りけり・・・・・・・・・・・・・・・岡部桂一郎

この歌は、どこでも目にする日常での出来事を、精細に観察して、うまく歌に仕立てあげた。しかも、どこかひょうきんで、おかしみがある。こういう歌の作り方が岡部の特徴と言える。
春は季節の変わり目で、突風が吹いたりする。道端に捨てられていた紙袋が、通り風にあふられて裏返る。それも「おもむろに立ち」と表現したところが秀逸である。
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掲出句に書かれている「談林」とか、「談林派」というものについて少し書いておく。

俳句という文芸は芭蕉から始まった。
もっとも「俳句」という言葉を考えだしたのは、明治の正岡子規であるが、今ここでは、それには触れない。
芭蕉の前には連歌(レンガ)──連句ともいう──という文芸があり、これは和歌の方から発している。これらは座の文学で、集まった同人のうち、誰かが五七五を皮切りに立句(タテク)を出し、それに次の人が七七をつける。その次の人が五七五をつけて続ける。七七が続く。

 そうやって、三十六句を作る。これを歌仙という。この場合、続ける句はすべて、前の句に繋がりのある内容でなければならない。立句に続く句の内容には順番があって、最初は立句に応じたもの、次は恋、それから花、月などと順序が決まっている。

 それを座の同人が勝手にやっていたのでは収拾がつかなくなるので、捌き人が句を整理する。それが、むかし宗匠といわれた人である。連歌の内容の順番が狂ったり、句が出ない人がいたりすると、適当に他に廻したりしながら、いい連歌を作るための指揮をするのである。

 連歌が仕上がると、書き手がそれを紙に書いたものを見て、皆で鑑賞したり、批評したりして楽しむ。終わって、酒などを飲みながら歓談するという優雅な集まりであった。参加する人たちは、おもに豪商のあるじや、豪農など金持ちが多かった。

 こういう人たちは、元々集まり多い社会の人たちで、商談成立のあと宴会をしたり、能見物したり、遊女遊びに繰り出したりする機会も多いのだが、折角主立った連中が集まるのに、飲み食いだけでは芸がない。皆でもっと高尚な趣味を持とうと、連歌を作る会を山崎宗鑑(そうかん)が作ったのが始まりである。

時代は、信長が世に出るか出ないかの頃、応仁の乱が終わった辺りである。旦那衆の遊びでやっている時代は、まだ良かった。連歌がだんだん盛んになってくると、勝れた作品に賞品を出すようになった。それが次第に参加者の会費から、賞金を出すように変わっていった。

 旦那衆には、お付きの人たちがいる。その人たちも連歌に加わるようになって、連歌の集まりが増え、賞金の額も大きくなり、最後にはバクチのごとき様相を呈した。すると、賞金稼ぎのような人物も現れ、江戸時代には幕府が取り締り令を出したこともあったが、隠れてする集まりでは、効果がなかったという。

 松永貞徳(1570年)が、発句(ホック=立句)の五七五を分離して、独立句として、「俳諧」とすることを始めた。この一派を貞門と称する。
この頃になると、武士などの参加も次第に増えてくる。連歌を作るためには、万葉集や和漢朗詠集や漢詩の教養も、土台として必要となる。しかし、参加者が増えて底辺が広がると、質の低下は避けられない。

俳諧の世界は、教養人だけでなく、市井の一般人も含めて参加する人の数が増えたが、句としては言葉をもて遊ぶがごとき、例えば貞門派のように川柳まがいの句が流行した。それを憂えた西山宗因は談林派をつくって修正を図った。

いわば 俳諧の一派だが、西山宗因を中心に、井原西鶴・岡西惟中らが集まり、延宝年間(1673-1681)に隆盛した。言語遊戯を主とする貞門の古風を嫌い、式目の簡略化をはかり、奇抜な着想・見立てと軽妙な言い回しを特色とするが、蕉風(しょうふう) ──芭蕉一派の発生とともに衰退した。宗因流。飛体(とびてい) 。阿蘭陀(オランダ) 流などとも呼ばれる。

貞門派も談林派も江戸と大阪が中心であったが、次第に全国に拡まった。 

芭蕉が奥の細道で全国行脚ができたのは、このような経緯で各地方に弟子がおり、師の芭蕉の来駕を待ち望んでいたからである。地方の旦那衆が商売で江戸に出てきて、俳諧なる洒落た遊びのあることを知り、勉強して、その地に帰ってから旦那衆が先生になって俳諧の会を開いた。

芭蕉の、江戸の弟子の旦那衆には、商売の相手が各地にいる。芭蕉が江戸を発つに当たっては、地方の商売相手への旦那衆の添え状があったらしい。そこで数日俳諧を教えて、次の土地にはここの旦那の添え状が・・・という風に、芭蕉は路銀も持たずに、俳諧の旅を続けることができたのである。



ちる花はかずかぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも・・・上田三四二
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      ちる花はかずかぎりなしことごとく
         光をひきて谷にゆくかも・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・上田三四二


桜の落花が盛んになる頃である。そこで、この歌を採りあげておく。
この歌は三四二の代表的な名歌として、よく引用される。
短歌では「花」というと「桜」のことを指す約束事が出来てしまった。
万葉集の頃は、花と言えば「梅」の花であったらしい。
だから、この歌で詠まれる「花」は桜のことである。桜は散りはじめると、はらはらと、づつけて散る。
梅の花は、そんな散り方はしない。
そういう落花の様子が、よく観察されて詠まれている。
落花を詠みながら叙景だけでなく、その裏に「ものの哀れ」という心象を漂わせるのが、この歌の名歌たる所以である。

上田三四二については、短い文章ではあるが、まとめて書いたことがある。
三四二は私の居住地・青谷の国立療養所(今の南京都病院)の医師として病院付設の官舎に住いしていたことがある。当地を詠んだ歌もある。
昭和64年1月8日、昭和天皇と同じ日に亡くなった。
小説、評論の分野でも旺盛な執筆をつづけたが、癌に侵され闘病も凄まじかった。
以下、代表的な歌を抽出したい。

 年代記に死ぬるほどの恋ひとつありその周辺はわづか明るし

 地のうへの光にてをとこをみなあり親和のちから清くあひ呼ぶ

 をりをりに出でて電車にわが越ゆる今日木津川の水濁りをり

 湧く霧は木のかをりして月の夜の製材所の道をわが通りをり

 たすからぬ病と知りしひと夜経てわれより妻の十年(ととせ)老いたり

 死はそこに抗ひがたく立つゆゑに生きてゐる一日(ひとひ)一日はいづみ

 おぼろ夜とわれはおもひきあたたかきうつしみ抱けばうつしみの香や

 かなしみの何のはづみにか二十三歳の妻の肉(しし)置きをこよひおもひ出づ

 遠野ゆく雨夜の電車あらはなる灯の全長のながきかがやき

 土器(かはらけ)を投ぐるは厄をはらふため沖かけてとべ今日あるわれに

 金泥の西方の空にうかみいで黒富士は肩の焼けつつ立てり

 内視鏡にあかあかとただれたる襞照りてみづからが五十年の闇ひらかれき

 交合は知りゐたれどもかくばかり恋しきはしらずと魚玄機言へり

 湯気にたつ汁(つゆ)盛る妻よ妻が手に養(か)はれてながき二十九年へつ

 蜂などのゐる寂(しづ)けさやまのあたり藤は垂直にひかりを吊す

 歌ありてわれの一生(ひとよ)はたのしきを生のなかばは医にすぎたりき

 乳房はふたつ尖りてたらちねの性(さが)のつね哺(ふく)まれんことをうながす

 かきあげてあまれる髪をまく腕(かひな)腋窩の闇をけぶらせながら

 夕粧(ゆふけはひ)ほのめきみれば華燭より十(とを)の千夜ののちのけふの妻

 身命のきはまるときしあたたかき胸乳を恋ふと誰かいひけん

 をんなの香こき看護婦とおもふとき病む身いだかれ移されてをり

 谷ふかく入りきておもふ癒ゆるなき身は在りてひと生(よ)の妻をともなふ

 朝戸繰りて金木犀の香を告ぐる妻よ今年のこの秋の香よ

 一杯の茶にはじまりて一日の幾百の用妻が手を経(ふ)る
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上に引いた歌の三、四首目の歌は、当地のことを詠んでいる。製材所は今も同じところで営業している。
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23007008333上田三四二
↑ 上田三四二

上田三四二に因んで書いた私の文を引いておく。

*エッセイ*
 京を詠った私の一首 木村 草弥
 (角川書店「短歌」2001年3月号・大特集
 <旅に出てみませんか・歌めぐり京の旅>⑤ 所載)

   一位の実色づく垣の橋寺の断碑に秋の風ふきすぎぬ・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第二歌集『嘉木』に「茶祭」の題で収録した十五首の歌の
一つである。 毎年十月に宇治茶業青年団の奉仕で催される「茶祭」は
年中行事として定着した。
「橋寺」というのは宇治川の川東にある寺で、川底から引き揚げられた
ことで有名な「断碑」を安置してある。 昨年11月に私が訪れたら台座を
修理中で他へ預けられていたが、今は元通り置かれている。
ここには平成3年に上田三四二の初めての歌碑が建立された。それは

<橋寺にいしぶみ見れば宇治川や大きいにしへは河越えかねき>

という歌で、原文には濁点はふらず、歌は四行書きで、結句の文字は万葉仮名
で「賀祢吉」と書かれている。
京都と奈良の中間にある「宇治」は、この歌に詠まれているように古来、
「宇治川の合戦」をはじめ歴史的に枢要な土地であった上に平等院など
の史跡にも富む。
源氏物語の「宇治十帖」に因んで十年前に創設された「紫式部文学賞」と、
川東に建つ「源氏物語ミュージアム」が成功して、特に秋のシーズンには
観光客で、ごった返すようになった。
因みに昨年の紫式部文学賞の記念フォーラムはNHKの桜井洋子さんの
司会で俵万智、江国香織、川上弘美他の各氏が「愛と恋と文学と」と題して
盛況であった。


春の蛇口は「下向きばかりにあきました」・・・坪内稔典
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      春の蛇口は「下向きばかりにあきました」・・・・・・・・・・坪内稔典

坪内稔典は昭和19年、愛媛県生まれ。立命館大学卒で、高校時代から「青玄」に投句。
昭和63年から「船団」を発行、現在は解散に至る。京都教育大学教授を定年退官して京都市内の仏教大学教授を務められた。

掲出の句のように、言わば、ナンセンス句のような、人を食ったような句を得意とする。
公園などに行くと、水呑み場には「上向き蛇口」があって水が呑めるようになっている。この句は、恐らく、そんな場面を見て考え付いたものであろう。
蛇口は下向きばかりには飽きたから、だから、こうして「上向き」の蛇口になっているのです、ということである。
俳句は575と短い17字しかないから、いま説明したようなことは省略して仕舞ってある訳である。
こうして見てみると、一見、何の工夫もない、さりげない句のように見えるが、周到に計算し尽くされた作句であることに気付くだろう。
どちらかと言うと、「現代川柳」が、こういう形の川柳が多い、と言えば判りやすいか。
ただ教育者だったので、論は達者で、いくつかの評論集『俳句──口語と片言』 『正岡子規──創造の共同性』などがある。その他『辞世のことば』など。
最近は佐佐木幸綱の「心の花」の同人になり、歌人としても存在を主張している。問題児である。
京都新聞の文芸欄の俳句の選者三人の中の一人として活躍されている。
以下、坪内の句を引くが、それを見ていただけば、どんなものか、よくお判り頂ける。
「甘納豆」シリーズの句の連作なども有名である。
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 桜咲く桜へ運ぶ甘納豆

 花冷えのイカリソースに恋慕せよ

 春の坂丸大ハムが泣いている

 春の風ルンルンけんけんあんぽんたん

 一月の甘納豆はやせてます

 二月には甘納豆と坂下る

 三月の甘納豆のうふふふふ

 四月には死んだまねする甘納豆

 五月来て困ってしまう甘納豆

 甘納豆六月ごろにはごろついて

 腰を病む甘納豆も七月も

 八月の嘘と親しむ甘納豆

 ほろほろと生きる九月の甘納豆

 十月の男女はみんな甘納豆

 河馬を呼ぶ十一月の甘納豆

 十二月どうするどうする甘納豆

 桜散るあなたも河馬になりなさい

 水中の河馬が燃えます牡丹雪

 魚くさい路地の日だまり母縮む

 父と子と西宇和郡のなまこ噛む

 バッタとぶアジアの空のうすみどり

 十月の木に猫がいる大阪は

 がんばるわなんて言うなよ草の花

 たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ

 N夫人ふわりと夏の脚を組む

2009518174421坪内稔典
 ↑ 坪内稔典氏




藤原光顕の歌「自分の歩幅で」・・・木村草弥
たかまる_NEW

──藤原光顕の歌──(51)

      藤原光顕の歌「自分の歩幅で」・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・「たかまる」No.121/2021.4所載・・・・・・・・・

           自分の歩幅で        藤原光顕

   三十頁ほど読み残した一冊を探す 明日は春の気配の予報
   咳をしてもひとり そんな爺さんらしい咳をしてみる
   衰えた視力休めるしばらくを魁夷の秋翳を思いうかべて
   薬くさい喉越しが妙に効きそうでドリンクの瓶の微妙の量
   冷蔵庫で保存せよという目薬の冷えはたしかに効く感じする
   ふとという成り行き増えてなんとなく転がっていく一日がある
   茶が三毛に変わったようだが三匹が今日もわが庭の見回りに来る
   ひとひねりできるとメモっておく一首たぶんそのまま忘れる一首
   俺は都へ上って・・・小豆島のトイレのあの落書きはどうなったろう
   夜中の電話何時間でも付き合うからまた呼び出してよ浅野英治
   麺麭と書きたい人がまだいて朝にはあしたとルビふってある
   喉の異常 「癌もコロナも気配無し」 その一言で完治しました
   あと二年でガラケー終了の通知くる二年ならたぶんこっちも終わる
   一円貨を九つちゃんと並べていく ちゃんとじいさんらしくゆっくり
   一杯半の酒で今夜もふりかえる八十五年の長さ短さ
   あっちでミスこっちでソゴを乱発し自分の歩幅で歩いています
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いつもながらの光顕ぶし、である。
お元気そうで何よりである。私のような「独居老人」ではないのだから、あなたは恵まれていますよ。
私より、ずっと若いのだから頑張ってください。
あなたの歌に出てくる「浅野英治」だが、私とは肌が合わなかったなぁ。人それぞれである。



池田澄子第七句集『此処』・・・木村草弥
池田澄子koko此処

──新・読書ノート──

       池田澄子第七句集『此処』・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・朔出版2020/6/7刊第三刷・・・・・・

池田澄子句集『此処』第72回読売文学賞 受賞!

口語を駆使した俳句で人気の池田澄子が、80代を迎えて直面したのは親しい句友、そして伴侶の死。
亡き師へ、友へ、夫へ――語りかけるように、切なく真っ直ぐな言葉で、この世の「此処」から放つ380句。
       ◆帯文より
       みずみずしさは作りはじめの頃と変わらず、
         句の中の世界はいよいよ深まり、
        「池田澄子」という唯一無二の詩形が、
          ここに極まっているのである。 
                ――川上弘美

     ◆12句抄
     初蝶来今年も音をたてずに来
     私生きてる春キャベツ嵩張る
     桜さくら指輪は指に飽きたでしょ
     大雑把に言えば猛暑や敗戦日
     ごーやーちゃんぷるーときどき人が泣く
     玄関を出てあきかぜと呟きぬ
     散る萩にかまけてふっと髪白し
     粕汁の雲のごときを二人して
     偲んだり食べたり厚着に肩凝ったり
     この道に人影を見ぬ淑気かな
     生き了るときに春ならこの口紅
     柚子の皮刻み此の世よ有り難う

<著者略歴>
池田澄子(いけだ すみこ) 
1936年、鎌倉に生まれ、新潟で育つ。
30歳代の終り近く俳句に出会う。1975年、「群島」入会のち同人。
1983年より三橋敏雄に私淑、のち師事。
三橋敏雄の勧めで「俳句評論」に準同人として入会。「面」参加。高柳重信逝去により「俳句評論」終刊。
1988年「未定」「船団」入会。
1995年「豈」入会。
2020年3月、「トイ」創刊に参加。
2020年6月、「船団の会」散在。
句集に、『空の庭』 『いつしか人に生まれて』 『ゆく船』 『たましいの話』 『拝復』 『思ってます』 『現代俳句文庫29・池田澄子句集』。
散文集に、『休むに似たり』 『あさがや草紙』 『シリーズ自句自解1・ベスト100』。
対談集 に『兜太百句を読む・金子兜太×池田澄子』。
現在、「トイ」「豈」所属

先に挙げた「12句抄」は版元の朔出版の案内広告に載るものであり、自選かどうかは判らない。
私は、この句集の現物は手にしていない。ネットを検索して数句を拾ったが、約50句を河西志帆さんから送ってもらった。
最初に、それらを拾っておく。

     春寒の夜更け亡師と目が合いぬ
     よい風や人生の次は土筆がいい
     三月十一日米は研いできた
     夕霞壊れた原子炉の方向
     花冷えのこころが体を嫌がるの
     風鈴の窓や開けたり細めたり
     買い置きの水の古りつつ夜の秋
     恨む権利あり被爆者戦没者
     敗戦日化けてでも出てくりゃいいに
     逢えぬなら思いぬ草紅葉にしゃがみ
     行って帰ってきた手を洗う菊日和
     木下闇ときどき亡夫がこちら見る
     鳩よ寒いでしょ舗装道路硬いでしょ
     綿虫よこの世ひろすぎではないか
     年新た白髪は突っ立たんとして
     蓬莱やプラスチックは腐らない
     落梅を拾って嗅いで投げて帰る
     窶れるという字ややこし鵺怖ろし
     青あらし柱は斧を夢に見るか
     こころ此処に在りて涼しや此処は何処
     空返事していて原爆忌の八時
     花野の花の何度聞いても忘れる名
     ゆく川も海もよごれて天の川
     手首ほそきおとこ可愛や萩すすき
     初こがらし左のマスカラがまだ
     敏雄忌の鈴に玉あり鳴らしけり
     日あまねし帰る鳥らにオスプレイに
     夜の汗のこのわたくしに覚えあり
     夜も暑し玉砕という文字にルビ
     俗情に浜昼顔の関与あり
     八月や生きていしかばいつか死ぬ
     赤紙という桃色の紙があった
     待つとなく太陽昇り原爆忌
     羽蟻の夜そう読めば遺書ともとれる
     無花果や自愛せよとは何せよと
     たいがいのことはひとごと秋の風
     情が移りぬ干反り始めし裏白に
     牡丹雪大人ですから黙ってます
     猫の子の抱き方プルトニウムの捨て方
     芹の水むかし間引くということを
     掬えば揺れるプディングあした原爆忌
     千代紙で鶴など折るな夏は暑い
     八月十五日求肥はぐにゆぐにゅと
     死ねば居ずソフトクリーム溶けて垂れる
     父の日のコップの水になる氷
     WiFiの飛ぶの飛ばぬの敗戦日
     苦瓜赤く熟れオスプレイ重たそう
     迎え火に気付いてますか消えますよ
     心太生きていしかば死の怖く
     次の世は雑木山にて芽吹きたし
     病気の人や死にたい人や萩の花
     松明けのビニール袋の口はどこ
     鴨帰る残った方がよいのでは
     文字一切書きたくない日ほととぎす
     手も足もあって十二月八日かな

多く引きすぎたかも知れない。
作者も八十半ばになられたので、言わば「枯れた」境地の句も散見する。
以下、「増殖する俳句歳時記」などから、過去の句集も含めて秀句を引いてみる。

     椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ
     じゃんけんで負けて蛍に生れたの
     ピーマン切って中を明るくしてあげた
     前ヘススメ前ヘススミテ還ラザル
     春灯の灯を消す思ってます思ってます
     アマリリスあしたあたしは雨でも行く
     先生が死んでおられた冬麗 嫌(や)だ
     イエス・キリスト痛かったであろう青葉風   
     今を音たてず此の世に金魚で居る
     わが晩年などと気取りてあぁ暑し
     定位置に夫と茶筒と守宮かな
     缶詰の桃冷ゆるまで待てぬとは
     どっちみち梅雨の道へ出る地下道
     わたくしに劣るものなく梅雨きのこ
     新宿のノエルのたたみいわしかな
     ひとびとよ池の氷の上に石
     恋文の起承転転さくらんぼ
     カメラ構えて彼は菫を踏んでいる
     貧乏な日本が佳し花南瓜
     花よ花よと老若男女歳をとる
     日と月のめぐり弥栄ねこじゃらし
     人類の旬の土偶のおっぱいよ
     震度2ぐらいかしらと襖ごしに言う
     目覚めるといつも私が居て遺憾
     枯野でなくした鈴よ永久に鈴
     まっ白のセーターを着て逢いにゆく
     兵泳ぎ永久に祖国は波の先
     先生ありがとうございました冬日ひとつ
     胃は此処に月は東京タワーの横
     頬杖の風邪かしら淋しいだけかしら
     八月六日のテレビのリモコン送信機
     潜る鳰浮く鳰数は合ってますか





花の下黙し仰げばこの世とはこの束の間のかがよひに足る・・・米満英男
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 ↑ 矢羽根
米満歌集

      花の下黙(もだ)し仰げばこの世とは
         この束の間のかがよひに足る・・・・・・・・・・・・・・・・・米満英男


私の私淑していた米満英男氏の『游以遊心』(短歌研究社2007年刊)という歌集に載る歌である。
これまでに『父の荒地・母の沿岸』 『花体論』 『遊神帖』 『遊歌之巻』とほぼ10年ごとに出されて、第五歌集となる。

はじめに、この「游」という日本では余り使わない字の解説をしておく。
「游」という字は①およぐ②あそぶ、と辞書には書かれている。
現代中国では、この字は「旅游公社」のように「遊ぶ」の意味の熟語として日常的に使用される。
日本で日常的に書くシンニュウの「遊」を使う代りである。「游」の字は、本来は「泳ぐ」意の原字である。
「游子」と言うと、李陵の詩にあるように「旅人」「旅客」を表す。また、たとえば北川省一『良寛游戯』という本の題名になったりしている。
この歌集の「あとがき」で作者は、次のように書く。

──しっかり詠み込もうとする限り、たとえばその<游(およ)ぎ>と<遊(あそ)び>との様子を、いかなる視軸からにせよ、確りと捉えて見詰め直し、その多様な<遊び様>を組み上げるしか、方途はなかなか見付けられないと感じました。──

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   矢羽根本黒(もとぐろ)つがへたるその標的に白桃ひとつふくらみてをり・・・・・・・・・・・・米満英男

この歌集の中ほど103ページに、この歌をはじめとして「晩年の住処(すみか)」という8首の歌からなる一連がある。
煩をいとわず書き出してみる。

    晩年の住処

  矢羽根本黒(もとぐろ)つがへたるその標的に白桃ひとつふくらみてをり

  家族(うから)の匂ひ残る湯槽に浸りつつ何(いづ)れ何時しか皆(みんな)と別る

  日日(にちにち)の縞目のらくら掻い潜り生き来しからに心身斑(まだら)

  貌洗ひ洗ひ重ねし数忘れいつしか晩年の住処に至りぬ

  体内に在る水つねに出入りして時に冷たく時には温(ぬく)し

  眼鏡拭ふ合間にテレビの画面かはり些かは世間進みをりたり

  口中に温もる舌の嵩(かさ)張るを気にしつつ誦(とな)ふ般若心経

  地に敷ける花踏み散らし仄白(ほのじろ)く伸びゐる道を尽きるまでゆく

この「矢羽根」の歌を、簡単に素通りして貰いたくないのである。
この歌は「暗喩」メタファーになっている。読み解いてみよう。
「矢羽根」とはpenisの謂いである。その矢羽根の「本=もと」は「黒」ぐろとしている。つまり男の陰毛の喩である。
そして、つがえた矢の、かなたの標的には「白桃」ひとつふくらんでいる、という。
「白桃」とは「シンボル・イメージ辞典」にも明記されているように、女のふくよかな「臀部」=秘処を表す「約束事」になっているのである。


さりげない表現の体(てい)を採っていながら、作者の心の裡は、瑞々しい精気に満ちて心気隆々である。
今日のBLOG全体の掲出歌を「矢羽根本黒」にしたかったのだが、さすがに控えて「花の下」の無難な歌を選んだのだったが、この歌を含む一連も、この歌集の「巻頭」に載るものである。
書き出してみよう。折しも「落花しきり」の候である。

    桜花面妖

  花の下黙(もだ)し仰げばこの世とはこの束の間のかがよひに足る

  風のはこぶ淡くあやしき囁きを手繰り寄すれば花と逢ひたり

  孤立無援といふ語宜しも一本の桜が雨中にざぶざぶ禊ぐ

  むかし眺めしさくらけふ見るさくらばなそのあはひを繋ぎ来し花遍路

  やまとに生まれさくらに憑(つ)かれ過ぎて来し身を終へるなら桜樹(あうじゆ)の柩

  乳のしたたる如くに花の散り初めしその辺りいちめん胸処(むなど)匂へり

  姦淫の目もてさくらを見詰めゐし祟りか夜中にまなうら痒し

  いづこより生まれ来りてさて何処へ去るや今生の花を誘(いざな)ひ

  花の下より立ち去る際(きは)にうかつにもわが影を連れ出すを忘れぬ

  さくらさくら人に見らるる栄、辱を振り払ふごとただ散り急ぐ

  西行の背を見失ひはてと佇つ行方うすうす桜花(あうくわ)面妖

この一連も、さまざまの「喩」に満ちて楽しめるのであるが、6首目の歌の「喩」なども読み解いてほしい。
歌詠みの先達として「西行」が居るが、この一連の終わりには、しっかりと彼が詠み込まれている。

米満英男氏については前にも記事にしたことがあるので参照されたい。
以下、この歌集に載る私の好きな歌を引いて終わる。

  追ひ追ひて捕り得ざりしもの文芸と女心のその深き絖(ぬめ)

  しどろもどろと言ふ語を<源氏>に見出しぬ唯それのみにて本日愉(たの)し

  喜寿すでに過ぎしうつつに仰ぎ見る天空ならぬ地空の冥(くら)さ

  真夜の湯槽に沈めし肉の彩づけば過ぎ来し方は残夢ざぶざぶ

  湯を沸かす只それのみの間を見つめ現世(うつしよ)と呼ぶ卓に坐しをり

  不時の災ひ待ち侘ぶるごと曇天の下にて約束の女待つ間(ひま)

  何なすといふ訳もなくさし伸ぶる手の先にひとつ檸檬(れもん)の楕円

  共に棲むつれあいとはいへ飲食(おんじき)の好みの違へけふ芋と豚

  沐浴する女人の油絵ほのかなる脂(あぶら)のにほひを放つ 禍津日(まがつび)

  わが晩年もおほよそ挵(せせ)り了(を)へたりき去る卓上に魚骨残して

  妻とわれの覗けぬ狭間ひと瓶のワイン血溜りのさまに鎮もる

  箸洗ひまた汚しゆく反復の果つるときわが肉身は果つ

  歌侮りし頃もありたり紅葉の散り敷く前途遠く間近く

  氷見に喰らひし青鯖旨しせめて生き腐(ぐさ)れとならず遂げむ一生(ひとよ)を

  がばと飛びたる家鴨(あひる)それそれ彼奴(きやつ)でも飛びたいときはありませうな

  忘れ切つたる尾骶骨何となく痒き夜更けほろりと歌一首生む

  不意に鳴るこころの音叉一行の詩に封じ込めその音隠す

  雅兄(がけい)宛と記されし書簡受け我は何方(どなた)の雅(みやび)の兄たるか知らぬ

  一気呵成 すなはちこころ狩るに似て心神仄かに血の匂ひ充つ

そして、巻末の歌は

   一言一行 師匠無くはた弟子もなく歌を詠み来て半世紀過ぐ
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米満氏は多芸の人で、この歌集のカバーの装丁も、ご自分でなさった。
その米満氏も2012年2月20日に亡くなられた。
彼の亡くなったときの記事も見てもらいたい。
ご冥福をお祈りする。

長年のうちに短くなりし分われらは食みしやこの擂粉木を ・・・安立スハル
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 ↑ すり鉢と「すりこぎ」

      長年のうちに短くなりし分われらは
           食みしやこの擂粉木(すりこぎ)を ・・・・・・・・・・安立スハル


昨日、宮柊二を採り上げたついでに、私の先師・安立スハルを選んだ。
先生の名前は、スハルという特異なものだが、本名である。
お父上が日本画家であられたので、こういう命名になったらしい。
京都のお生まれだが、中年以降は岡山市に住いされた。
若い頃から結核で、結婚はされず独身。2006年に亡くなられた。
私は若い時から短詩形に親しんで、現代詩の方にいたのだが、たまたま新聞歌壇に投稿したものが、採用され、短歌の道に入るようになった。
読売新聞(大阪)の夕刊の歌壇の選者を安立さんがしておられ、親しく選評に接するようになった。その縁で「コスモス」にも入会したものである。

昨日の宮の歌と、今日の安立さんの歌を比べてみると、「生れたければ生れてみよ」と「われらは食みしやこの擂粉木を」という発想に、私は師弟としての似通ったものを認めざるを得ない。一般の歌詠いの発想とは、一肌違った自在な詠いぶり、とも言えようか。
安立さんは、私に「歌というのは、こういう風に詠まなければならない、というようなことは、何もないのです」と、よく仰言った。私も勝手な人間なので、その言葉は身に沁みた。

そんな安立さんと、「コスモス」からの出発であったが、何しろ自作の歌が1首か2首しか載らない。
コスモスは大きな結社で掲載するスペースが限られているのだ。そんなことで、もっと歌を多く載せてくれる結社を求めて私は「未来」誌に移ることになる。
安立さんとは、師として以後も礼を尽して来たが、晩年はひどいヘルペスを病まれて結社とも音信を絶たれて私の方へも音沙汰もなかったが、先に書いたようにお亡くなりになった。
以下、少し歌を引いて終わりにしたい。
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   一つ鉢に培へば咲く朝顔のはつきり白しわが座右の夏

   金にては幸福は齎されぬといふならばその金をここに差し出し給へ

   自動扉と思ひてしづかに待つ我を押しのけし人が手もて開きつ

   家一つ建つと見るまにはや住める人がさえざえと秋の灯洩らす

   瓶にして今朝咲きいづる白梅の一りんの花一語のごとし

   青梅に蜜をそそぎて封じおく一事をもつてわが夏はじまる

   くちなはにくちなはいちご村の子に苗代苺赤らむ夏ぞ

   若さとは飢か四時間面(おもて)あげず列車に読みて降りゆきし人

   見たかりし山葵の花に見入りけりわが波羅葦僧(はらいそ)もここらあたりか

   島に生き島に死にたる人の墓遠目に花圃のごとく明るむ

   もの書くと重荷を提ぐと未だ吾にくひしばる歯のありてくひしばる

   今しがた小鳥の巣より拾ひ上げし卵のやうな一語なりしよ

   一皿の料理に添へて水といふもつとも親しき飲みものを置く

   本といふ「期待」を買ひて歩みゆく街上はけふ涼しき風吹く

   有様(ありやう)は単純がよしきつぱりと九時に眠りて四時に目覚むる

   悲しみのかたわれとしもよろこびのひそかにありぬ朝の鵙鳴く

   大切なことと大切でないことをよりわけて生きん残年短し

   踏まれながら花咲かせたり大葉子もやることをやつてゐるではないか



群れる蝌蚪の卵に春日さす生れたければ生れてみよ・・・宮柊二
img1035ヒキ卵

      群(むらが)れる蝌蚪(くわと)の卵に春日さす
           生れたければ生れてみよ・・・・・・・・・・・・・・・・宮柊二


宮柊二(みや・しゅうじ)は北原白秋の弟子であり、若い一時期、邸に住み込んで書生の仕事をしていた。
晩年のその頃、北原は短歌雑誌「多磨」を発行していて、その弟子には、その後独立した多くの有力な歌人がいる。
宮も昭和28年に短歌結社「コスモス」を創刊し、有力な結社の主宰者として短歌界に君臨した。

この句は昭和28年刊の歌集『日本挽歌』に載るもの。
季節的には、もうそろそろ蛙の卵も孵化する頃だと思うが、私のところのような田舎でも、なかなか蛙の卵を見つけるのは困難である。
それには理由がある。この辺の農家は兼業農家が多く、米を穫った後の裏作をしないので、田圃は水を張らないままで冬を過ごすので、蛙が卵を産む水がない。
蝌蚪とは「おたまじゃくし」のこと。
この歌の下の句の「生れたければ生れてみよ」という表現が独特である。
こういう発想をする人は多くはない。宮の主宰者としての気概が表れているとも言える。

私が短歌をやるようになるきっかけは、コスモス同人の安立スハルさんの縁であるが、入ってすぐ、
宮が「コスモス」創刊の時に高らかに謳いあげた「歌で生の証明をしたいと思います」という宣言文に感激したことを思い出す。
私が入会したのは平成になってからで、もう主宰者・宮氏は亡くなっておられた。

宮は戦争中は召集されて中国の山西省の前線に下士官として配属されていて、戦後『山西省』という歌集を出して、戦時を詠った歌を「現在形」で作って注目された。昭和61年没。
以下に歌を引用するが、その中には戦時の歌も含まれる。
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01Kaosyasinn,0宮柊二
 ↑ 宮柊二

   美童天草四郎はいくさ敗れ死ぬきはもなほ美しかりしか

   接吻(くちづけ)をかなしく了へしものづかれ八つ手団花(たまばな)に息吐きにけり

   つき放れし貨車が夕光(ゆふかげ)に走りつつ寂しきまでにとどまらずけり

   たたかひの最中静もる時ありて庭鳥啼けりおそろしく寂し

   おそらくは知らるるなけむ一兵の生きの有様をまつぶさに遂げむ

   おんどるのあたたかきうへに一夜寝て又のぼるべし西東の山

   鞍傷に朝の青蝿(さばへ)を集(たか)らせて砲架の馬の口の青液(しる)

   ねむりをる体の上を夜の獣穢れてとほれり通らしめつつ

   軍衣袴も銃(つつ)も剣も差上げて暁渉る河の名を知らず

   ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す

   耳を切りしヴァン・ゴッホを思ひ孤独を思ひ戦争と個人をおもひて眠らず

   一本の蝋燃しつつ妻も吾も暗き泉を聴くごとくゐる

   疲れたるわれに囁く言葉にはリルケ詠へり「影も夥しくひそむ鞭」

   英雄で吾ら無きゆゑ暗くとも苦しとも堪へて今日に従ふ

   藤棚の茂りの下の小室にわれの孤りを許す世界あり

   音またく無くなりし夜を山鳩は何故寂しげに啼き出すのか

   老びとの増ゆといふなる人口におのれ混りて罪の如しも

   人生は十のうちなる九つが嘆きと言ひつ老いし陸游

   頭(づ)を垂れて孤独に部屋にひとりゐるあの年寄りは宮柊二なり

   中国に兵なりし日の五ケ年をしみじみ思ふ戦争は悪だ
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以下は、ネット上に載る「ヨッサン」こと吉田道昌の「宮柊二、一兵卒の歌──戦争を歌いつづけた歌人──その短歌集「山西省」という記事」である。

宮柊二(みやしゅうじ)の短歌集を本格的に読んだのは、中国に来てからだった。きっかけは彼の歌集「山西省」にある。
「山西省」はすぐれた戦争文学として評価されている。彼はどのように戦争を体験したのか、侵略をどのようにとらえていたのかを知りたいと思った。
大学図書館から歌集を借りてきて、読み通し、中国出発の日が近づいた今、これを書いている。

戦後の代表的歌人の一人であった宮柊二は、1939年、歩兵二等兵として日中戦争に従軍した。戦場は中国山西省。
上官の勧めを退け幹部への道を断ち、四年間、彼は一兵卒に自分を縛りつけて、戦争を直視しつづけた。北原白秋の弟子であった。

 おそらくは知らるるなけん一兵の生きの有様をまつぶさに遂げん

柊二27歳。覚悟を決めての「出征」だった。召集令状がきたとき、師白秋は言った。

 白だすき一首したため戦ひに死ぬなと宣(の)らしき昭和十四年

白秋先生は「戦争で死ぬな」とおっしゃった。
軍隊という非情な目的集団に身をおいた柊二は、戦争のリアリズムを歌にしていく。柊二は、どのような兵士であったのか。

 しばし程汾河のほとりに下りゆく綿羊の群を目追い優しむ

 省境を幾たび越ゆる綿の実の白さをあはれつくつく法師鳴けり

 大陸を進軍する兵士たちの前に、羊を飼い、綿を作る中国の農民たちの暮らしがある。ツクツクボウシ蝉がここでも鳴いている。
平和な農村風景に心なごみ、優しくなる。

 麦の秀(ほ)の照りかがやかしおもむろに息つきて腹に笑いこみあぐ

安らぎと喜びをもたらす麦熟れる田園風景は、農民出身の兵士にとっては、ことに日本のふるさとを思い起こさずはいられない。
狂気の戦争心理のなかにあっても、たまさかに正常な感覚をよみがえらせることもあったのだろう。

 稲青き水田見ゆとふささやきが潮となりて後尾に伝ふ

「水田がみえるぞ」というささやきが、隊列の前方から潮が押し寄せるように聞こえてきた。稲田を見たときの反射的な喜び。
それこそ人間の感情なのだが、戦争は非情に押しつぶしていく。
侵略軍の置かれている立場は、そこに生きてきた土地の民からの反撃に常にさらされねばならない。
生命みつる田園ではあるけれど、それをも戦場にしてしまう軍隊は、つねに死に直面している。

 五度六度つづけざま敵弾が岩うちしときわれが軽機関銃鳴りひそむ

 ひまもなく過ぎゆく弾丸のその或は身の廻にて草をつらぬく

 麻の葉に夜の雨降る山西の山ふかき村君が死にし村

 秋霧を赤く裂きつつ敵手榴弾落ちつぐ中にわれは死ぬべし

 あかつきの風白みくる丘陰に命絶えゆく友を囲みたり

 うつそみの骨身を打ちて雨寒しこの世にし遇(あ)ふ最後の雨か

戦友の死。自分もやがて死ぬことになるだろう。柊二が、戦場から師の白秋に出した手紙には次のような文がある。

「『面輪が変わる』といふ言葉がありますが、さうした戦闘の後ではお互いの顔を合わせてゐて、これは誰だったらうと思ひます程に――言い過ぎではありません――変わってしまひます。」

顔が別人になってしまう。それほどの精神的な重圧を兵士たちは受けている。
しかし、逃げるに逃げられない中国の農民たちは、泥靴で踏み込んできた征服者・日本軍の重圧を、日本兵以上に感じながら戦っていただろう。

柊二もまた、中国の兵士と遭遇し、ついに殺してしまう。事実のみを表現している次の歌に、柊二はどのような思いを秘めているのだろうか。
ここには武勲の意識を読み取ることはできない。戦いを余儀なくさせられたものの哀しみ、殺さざるをえなかった相手への哀惜を感じる。

 磧(かわら)より夜をまぎれ来し敵兵の三人迄を迎へて刺せり

 ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくずをれて伏す

何故に戦わねばならないのか。兵は、自分の意思も疑問も一切を押し殺して、戦闘マシーンになる。
自分の行為をリアルに描いているだけに、戦争の非人間性、むごたらしさ、無意味さが冷酷に表われてくる。

 俯伏して塹に果てしは衣に誌(しる)しいづれも西安洛陽の兵

 装甲車に肉薄し来る敵兵の叫びの中に若き声あり

「西安洛陽の兵だ」と、塹壕に倒れている兵士の衣服から確認する。
装甲車に肉薄してくる兵の声のなかに中国の少年兵の声も聞き取った。
征服しようとするものを排除し祖国を守ろうとするものたち、柊二は、眼前に迫り来る人間をつぶさに感じ取る。

「戦争の悲惨は胸をついたが、また戦ふ兵隊に現れてくる人間といふものの深さ、立派さにも目を瞠った。それは敵味方に対して同じだった。わたしは心を引きしめて立派な兵隊でありたいと願ったり、事実戦ひのなかで、死ぬだろうと思ったりしてゐた。わたしを取り囲んだのは運命だったが、しかし、運命に易々と従ったといふだけの感じではない。」と、戦後柊二は書き、「戦争の本質を疑ひつつも、祖国を愛さねばならなかった混沌」のなか、「掬ひ取られる近さに死を置く兵隊」を、柊二は歌った。

戦争というものは敵をつくり、敵と戦う。だが、「敵」とはいったい何なのか。
「敵」の本質は何なのか。

 死にすれば安き生命と友は言ふわれもしか思ふ兵は安しも

 泥濘に小休止するわが一隊すでに生きものの感じにあらず

 ここで死んだらあまりに安い命ではないか。兵の命はあまりに安すぎる。そういう会話もなされていたのだ。
既に生きものの感じがしない小休止する兵たち。「聖戦」、「大東亜共栄圏」という欺瞞を、兵士たちは「皇軍」の実態のなかに見ている。
明治43年、潜航訓練中に遭難死した潜航艇員を悲しみ、与謝野寛はこう歌った、「老いたるは皆かしこかりこの国に身を殺す者すべて若人」。
兵として死んでいくものは、みんな若者たちだ。戦争を遂行し、命令するものたちは死ぬことはなかった。

 信号弾闇にあがりてあはれあはれ音絶えし山に敵味方の兵

 一昨年戦ひ死にし白倉があはれ生きをりき夢なりしかば

 耳を切りしヴァン・ゴッホを思ひ孤独を思い戦争と個人を思ひて眠らず

 汾河の源をさらに十里溯り蕭々たる林に戦ひ死ねり

 日本軍は山深く、大陸深く、戦線を広げ、被害はいっそうひどくなった。
勝ち目のない戦、死を覚悟する兵士たち。敵味方の区別もない悲惨よ。柊二は、中国兵の人間をもとらえる。
次から後の歌は、戦後1946年より1948年までに作られた。(歌集「小紺珠」)

 猫も食ひ鼠も食ひし野のいくさこころ痛みて吾は語らなく

 日本軍は、食糧などを現地調達させた。猫も鼠も食べなければならない戦、それがいっそう現地農民からの奪略を生んだ。

 耒耜(らいし)をかつて創りしものの裔(すえ)便衣藍にして歯の清き兵 

耒耜は、鋤のこと。この人たちは、かつて鋤を創りだした農民の末裔なのだ。日常着の青い服を着て、白い歯が美しい中国兵だ。
この人たちの先祖の鋤が日本に伝わった。大地を耕し、土に生きてきた人たち、そういう人たちを支配することなどできるはずもない。狂気か。

 中国と日本をわれは知れるのみ苦しみて生きむ両民族か 

ほとんどの日本兵は日本から出たことはなく、中国は初めて見る外国であったが、両民族は遠い昔から近い存在であった。
侵略がなければ、このような苦しみもなかったはず。何故自分たちはここにいるのか?

 省境を秋越ゆるとき岩に読みき民族的生命在我們手中 

行軍中、岩に書かれていた文字を見る。「民族の生命は、我らの手中にあり。」 抗日軍には大義があった。侵略軍になんの大義があったか。
柊二は、そのことを感じていたのだろう。歌集「両民族」の歌は、1946年から1948年までに作られた。
戦後、柊二は日中戦争を思い出しては歌にしている。忘れようにも忘れることのできない戦争の悲惨。

 ゆらゆらに心恐れて幾たびか憲法第九条読む病む妻の側 

 新しい憲法が制定された。その第九条、戦争を放棄する、軍隊を保持せず。
それを何度も読む柊二の心に何があったろう。恐れとは何だろう。あの日中戦争を思うにつけ、ふるえる心。

 この夜しきりに泪おちて偲ぶ雪中にひたい射抜かれて死にたる彼 

 戦友の死が、つねに脳裏に浮かんで消えることがない。そして相手の中国人の死も消えることがない。

 銃殺台に上る半ばゆ降りて言ひし陳公博の言葉も悲しも

 日本軍によって銃殺される陳公博が、何を言ったのか。記憶から消すことのできない光景、そして罪。
1948年11月12日、極東軍事裁判でA級戦犯25人に判決が下った。戦争を推進したもの、戦争責任者は絞首刑。天皇は免罪された。
その日、柊二のつくった歌。

 廿五名の運命をききし日の夕べ暫く静かにひとり居たりし

 柊二は自己へ問いかける。原罪という罪はどんな罪だろう。(以下歌集「挽歌」)

 原罪といふはいかなる罪ならむまぼろしに鳴る鞭の音する

 柊二の聞くこの鞭の音は、戦争行為を犯してきた罪を問う鞭の音なのか、鞭うってきた戦争行為なのか。記憶ははっきりと罪をとらえているものだ。
「原罪」という言葉を見ると、ぼくは一人の教師を思い出す。高知の教師、竹本源治。彼の作った有名な詩は「戦死せる教え児よ」だった。
それはこのように始まる。「逝いて還らぬ教え児よ 私の手は血まみれだ! 君を縊ったその綱の 端を私も持っていた しかも人の子の師の名において 嗚呼! 『お互いにだまされていた』の言訳が なんでできよう‥‥」。この詩が作られた1951年、日本教職員組合ははじめて「教え子を再び戦場に送るな」というスローガンをかかげた。学者、文化人は、平和の擁護は、五十万教師の良心と知性にかかっていると訴えた。

 「死ぬな」と言った白秋先生は、彼の従軍中に亡くなった。
1942年11月4日、寧武部隊西野曹長からの軍用電話があった、「北原白秋氏逝けり、君よ知るか」。 柊二は声を上げて泣いたという。

戦争が終わり、復員した柊二の心のなかにも、未来へのかぐわしい希望がわき、そしてまた平和に対する認識が生まれてくる。

 たたかひを知りたるゆゑに待つ未来たとへば若草の香のごとく来よ

しかし、あれだけの惨禍をもたらした戦争であったのに、数年して世界の冷戦構造の中に組み込まれていく日本、またもや再軍備が頭をもたげる。

 徐々徐々にこころになりしおもひ一つ自然在なる平和はあらず

 日本の戦争責任を問い、戦争放棄の憲法をうみだしながら、アメリカは戦争への準備を進めていく。やがて朝鮮戦争の勃発。

 戦ひを経来しゆゑ知る悔しみ誰に告ぐべき暑き濁り河

 柊二は、この歌の詞書にこう書いている。「戦争を起こしてはならないといふ希ひをよそに、六月二十五日新しい動きが朝鮮に起こった。」

 公然と再軍備論なすものを憎み卑しみ悶ゆとうったふ

 柊二は、戦に死んでいったものを歌わねばならない。無為に人生をすてさせられたものの挽歌を。日本の挽歌を。

 若きらは国に殉(したが)ひつねにつねに痛ましかりき顧みざりき

 おもかげに顕(た)ちくる君ら硝煙の中に死にけり夜のダリア黒し

 まどろみの中に傷みて見てをり磧(かわら)に死骸の焼かれゆくさま

 過ぎこし四十年に何を得しやさまざまに動揺して生ききたるのみ

 弁明をせずに生きむとおもふけど弁明以外の何を饒舌(しゃべ)らむ
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↑ この記事は昭和25年に朝鮮戦争が勃発する直前に出された歌集『山西省』に寄せて、世界平和の立場から書かれている。
今しも、戦後生まれの世代の手によって憲法改正その他の企てが進められている機会に、先人たちの、こういう記事を載せるのも時宜を得ているかと思って転載してみた。
いかがだろうか。
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吉田

上に引用した「ヨッサンこと吉田道昌」氏の『架け橋をつくる日本語』─中国・武漢大学の学生たち─という本をネット上で取り寄せて読んだ。
吉田氏は1937年生まれの大阪の人で中学校教員をされていた。
のち日本語教師として武漢大学に赴任され、そのいきさつが、この本になっている。(2005年文芸社刊)
引用した宮柊二に関する記事は、この本の228ページから<宮柊二 一兵卒の歌集「山西省」>という項目で11ページにわたって要約されて載っている。

心あたたまる、いい本である。


春暁や人こそ知らね木々の雨・・・日野草城
1349日野草城句碑 服部緑地
soujou1句碑接写

      春暁や人こそ知らね木々の雨・・・・・・・・・・・・・・・・・日野草城

春の夜明け──人々の深い眠りにしみ入るように春の雨が木々に柔かく降り注ぐ。
音もなく降る雨、黙然と立つ木々。人々の眠りは大気の気配に包まれながら、しかも、それを知らない。
早熟の才を謳われた草城だが、この句も第三高等学校時代の青年期の作。若い瑞々しさがあふれている。
当時から熱心に学んでいたという古典和歌への好みは「人こそ知らね」という古雅な表現にも見られるが、それよりも、こういう古典的な味わいをさらっと利用して、
若々しい心象を一層鮮明に見せているところが才能である。
「木々」は最初は「樹々」だったが、のちに改めた。字の重々しさを避けたのだろう。昭和2年刊『花氷』所載。

以下、草城の句を少し引いておく。

 春の夜のわれをよろこび歩きけり

 研ぎ上げし剃刀にほふ花ぐもり

 丸善を出て暮れにけり春の泥

 春の夜や都踊はよういやさ

 庖丁の含む殺気や桜鯛

 朝すずや肌すべらして脱ぐ寝間着

 翩翻と羅(うすもの)を解く月の前

 くちびるに触れてつぶらやさくらんぼ

 秋の蚊のほのかに見えてなきにけり

 足のうら二つそろへて昼寝かな

 しづけさのきはまれば鳴く法師蝉

 二上山(ふたかみ)は天(そら)の眉かもしぐれけり

 白魚のかぼそきいのちをはりぬる

 山茶花やいくさに破れたる国の

 きさらぎの溲瓶つめたく病みにけり

 かたはらに鹿の来てゐるわらび餅

 片恋やひとこゑもらす夜の蝉

 切干やいのちの限り妻の恩

 われ咳す故に我あり夜半の雪

 生きるとは死なぬことにてつゆけしや

 右眼には見えざる妻を左眼にて

 見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く

 こほろぎや右の肺葉穴だらけ

三句目の「丸善」は今では無くなったが、京都では昔から洋書の原書を注文しにゆく本屋だった。全国にある。
「われ咳すーーー」の句はデカルトの有名な台詞「コギト・エルゴ・スム」(われ考える故に我あり)のもじりである。
私も、第二歌集『嘉木』でこれを頂いて一首ものにしたことがある。それは

<汗匂ふゆゑにわれ在り>夏草を刈りゐたるとき不意に想ひぬ・・・・・・・木村草弥

という歌である。

終わりの方の三句は、右目が見えなかったこと、肺が侵されていたこと、が判る。最晩年の句である。
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彼については何度も書いたがネット上に載る記事を引いておく。

日野草城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日野草城(ひの そうじょう、1901年(明治34年)7月18日~ 1956年(昭和31年)1月29日)は日本の俳人。本名は日野克修(よしのぶ)。

略歴
東京上野(東京都台東区上野)に生まれる。

京都大学の学生時代に「京大三高俳句会」を結成。1924年(大正13年)京大法科を卒業しサラリーマンとなる。 高浜虚子の『ホトトギス』に学び、21歳で巻頭となり注目を集める。1929年(昭和4年)には28歳で『ホトトギス』同人となる。

1934年(昭和9年)『俳句研究』に新婚初夜を描いた連作の「ミヤコホテル」を発表、俳壇を騒然とさせた。 この「ミヤコホテル」はフィクションだったが、ここからいわゆるミヤコホテル論争が起きた。中村草田男、久保田万太郎が非難し、室生犀星が擁護にまわった。このミヤコホテル論争が後に虚子から『ホトトギス』除籍とされる端緒となった。

1935年(昭和10年)東京の『走馬燈』、大阪の『青嶺』、神戸の『ひよどり』の三誌を統合し、『旗艦』を創刊主宰する。無季俳句を容認し、虚子と袂を分かった。翌1936年(昭和11年)『ホトトギス』同人より除籍となる。

戦後1949年(昭和24年)大阪府池田市に転居し、『青玄』を創刊主宰。

1946年(昭和21年)肺結核を発症。以後の10数年は病床にあった。

評価
モダニズム俳句の嚆矢(こうし)とされる。新興俳句の一翼をになった。「俳句を変えた男」(復本一郎)と高く評価される。

晩年は病床にあって「深沈とした秀句」を残した。「前半(のモダニズム)とは別種の静謐(せいひつ)な句境を開拓するにいたった」(復本一郎『現代俳句大事典』)。

作品
 春暁やひとこそ知らね木々の雨
 松風に誘はれて鳴く一つ
 秋の道日かげに入りて日に出でて
 荒草の今は枯れつつ安らかに
 見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く

句集
草城句集「花氷」(1927年)
青芝(1932年)
昨日の花(1935年)
轉轍手(1938年)
旦暮(1949年)
即離集
人生の午後(1953年)
銀(1956年)
など

著書
新航路
展望車
微風の旗
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掲出写真は大阪の服部緑地に建つ彼の句碑である。二番目は接写したもの。
ネット上からの転載である。

場所:大阪府豊中市服部緑地の
 広大な公園の円形花壇の北側にある、
 エスメラルダというレストランの裏手
情報提供者:伸さん

春暁やひとこそしらね木々の雨
松風に誘はれて鳴く蝉一つ
秋の道日かげに入りて日に出でて
荒草の今は枯れつつ安らかに
見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く

画像のように、春夏秋冬と無季の作品が五句ならんでいます。日野草城は当初は「ホトトギス」の同人で、俳誌「青玄」の主宰者でした。
昭和の初期に自己の初夜を詠った「ミヤコホテル」で、当時の俳壇にセンセーションをおこしました。

句碑の左側の赤い石の文字は「俳句は東洋の真珠である」という草城作の造語です。
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句碑の石の色が三色になっているのはフランス国旗に因むのか。

上のWikipediaの記事の中に書かれている「ミヤコホテル」の一連を引いておく。

「ミヤコホテル」10句
けふよりの妻(め)と来て泊(は)つる宵の春
夜半の春なほ処女(をとめ)なる妻と居りぬ
枕辺の春の灯(ともし)は妻が消しぬ
をみなとはかかるものかも春の闇
バラ匂ふはじめての夜のしらみつつ
妻の額(ぬか)に春の曙はやかりき
うららかな朝のトーストはづかしく
湯あがりの素顔したしく春の昼
永き日や相触れし手は触れしまま
失ひしものを憶(おも)へり花ぐもり

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「桜」の本いくつか・・・木村草弥
佐野

──新・読書ノート──再掲載・初出2013/04/10

      「桜」の本いくつか・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

「桜」の花が咲きみちる爛漫の春となった。 というより、もう散ってしまったか。
今年の冬は、とても寒かったが、桜の開花には、この厳しい寒さが必要なのだという。

今日は「桜」に関する本を採り上げる。
今回、買い求めたのは
  ■山田孝雄『櫻史』(講談社学術文庫1990/04/16第二刷)
  ■佐野藤右衛門・小田豊二聞き書き『桜よ』─「花見の作法」から「木のこころ」まで(集英社文庫2004/02/25)
  ■佐野藤右衛門『桜のいのち 庭のこころ』(草思社1998/04/24四刷)
  ■安藤潔『桜と日本人ノート』(文芸社2003/03/20第二刷)

桜史

国語学者である山田孝雄の本は昭和十六年に出たものの文庫化したものであり、文語調の難しい本である。読み方も「おうし」と訓む。
ご存じない人のために少し書いておくと、山田孝雄は明治六年(1873年)富山県生まれの人で東北大学教授などを歴任。専門は国語国文学。
いわゆる「山田文法」を体系化した人。 1957年文化勲章を受章。 1958年歿。
この本のカバー裏に編集者のつけた文章を画像にして出しておくので見てもらいたい。 ↓

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ここに書かれているように上古から現代に至るまでの桜に関するもろもろを、厚みにして二センチはあろうかという労作である。
この本が出たのは昭和十六年であるから「ヤマトゴコロ」が最高に強調されたころである。
日本文化は世界の他のところとは違う独特なものである、とされた。
だが、実際には日本文化は中国の老荘思想などから多くのものを受け継いでいるし、日本宮廷の行事、作法なども中国歴代の宮廷のものを踏襲したものが多い。
例えば、芭蕉の思想なども老荘思想に多大の影響をうけている、との芭蕉研究者の比較研究の論考があるのである。
江戸時代は「近世」という時代分けをするが、私は必要があって近世初期の天皇のことを調べてみたので、よく判るが、その頃の宮廷行事は中国の行事そっくりである。
そういう比較研究は戦前には弾圧され、例えば福永光司先生の著述なども陽の目を見たのは敗戦後のことであった。
そんな天皇が尊敬する天子の理想像は、その頃の中国皇帝であったり、文物であったりするのであった。
日本文化の特異性をことさら強調するようになるのは明治維新以後のことであり、それは近代日本を作り上げるために東洋とは「隔て」を置くために「牽強付会」したものと見える。
国粋主義、廃仏毀釈、「神ながらの道」など明治以後の「国家神道」は排外主義となって国を敗戦に導いた。このことに留意したい。
山田孝雄が、そういう思想だという意味ではない。 誤解のないように。
とにかく難しい本である。学者の書く本である。学術的。 詳しくは書かないが、興味のある方はトライされたい。 けだし、そういうことである。

桜よ

佐野藤右衛門の本を二冊あげたが、いずれも彼が話したものを「聞き書き」したもので、「会話体」である。判りやすい。
典型的な京都弁であり、私などには地元の語り口だから読みやすいが、他の土地の人には果たして、どうか。
『桜のいのち 庭のこころ』から一部をスキャナで取り込んでみた。 こんな具合である。 ↓

接ぎ木は夫婦で
接ぎ木は嫁さんと一緒にするんです。おじいさんもおばあさんとやりましたし、親
父もおふくろとやりました。わしもかかとやっています。これもまたその家のという
か、植木屋へ嫁にきたもののひとつの教育みたいなものなんですな。
細こう切ってある枝を台木に接ぐんですが、台木の皮を削いで、接ぎ木の皮も削い
で、形成層の合うところをうまく入れていくんです。その後で、嫁さんが打ち藁で縛
っていくんですわ。
いかに女が上手に締めるか、きつくもなく緩くもなく、 それが実にむずかしいんで
す。共同で、息を合わせなならんのですが、そういう夫婦間の一体的な行動というの
か、そういうものの教えにもなるわけなんですわ。
おじい、おばあが接ぎ木の作業をやっていますわな。私は子供でしたから、接ぎ木
をしとるところにゴザを敷いてもろうて一日遊んでおりますやろ。
でも嫁というか、私の母親はこんなのを見るのは初めてです。まだ若妻ですわな。
それが弁当を持って来たときに、草を引いたりしながら、ついでにおじいやおばあの
やることを見るとはなしに見てますわな。そうして、自分が直接やらんでも、見てい
るうちに仕事に慣れていきますわ。
そして、こんどは接ぎ穂を縛る蓁を打っておいてくれよといわれたら、家でやりま
すわな。そのときでも、打ちすぎてもあかんし、打ってなかったら藁はボリッと折れ
ますやろ。打ち方にもはじめは緩く、だんだんきつくとか、リズムがありますわな。
ただ打ったんではあかんのやから。それで口に水を含んで藁をまわしながら霧を吹き
かけますわな。それらはすべて機械とちごうて、手加減でやっていく仕事です。こう
いう作業を手伝いながら、こつを覚えていくんです。
嫁に来て、すぐに一緒に働きに出るわけではないんですわ。徐々に徐々に、もうほ
んまにちょっと手伝うとか、弁当を運んでいるときにするとか、切った木を持つて帰
つて夜の間に選り分けるとか、何かに少しずつかかわるんですな。それを自然に身体
で覚えていくんです。頭で覚えたことはみな忘れますからね。
初めは外から見るだけですわな。それで、どういうことから始めるのかということ
がわかりますやろ。今のように、あれはああです、これはこうです、こうしなさいで
はあきませんわ。手とり足とり教えてもほんまには覚えませんわ。そういうふうに見
たあとで、こんどは実際にやりながら覚えていくんです。おじいとおばあがやってい
たことを、親父とおふくろがやっていくようになるんです。接ぎ木は、やっぱり夫婦
でするのが楽ですわな。何もいわんでも、「こうせい」というたら、「へい」というよ
りしゃあない。
今はわしが十二センチぐらいの間隔で順番に接いでいくと、かかが後ろから、クリ
クリクリッと巻いてはビューッと藁を伸ばして、切らずにつぎの木をくくつていくん
です。ですから藁はつながっていくんですわ。そうやってつぎつぎとくくって結ばん
でもええのやけど、最後だけはギュッと締めますわな。
この作業をするのは、雨の心配のないときですわ。雨が降ってきたら、すぐに傘を
さしたりしますわな。水が入ってしまうと、形成層がひつつくまでにパッと口があき
よるから。水が入らないように傘がいるんですわ。それからあまりきつく締めてしま
うと、これまたひっつきませんのやわ。両方が脹れようとする力によってひっつきよ
るのやからね。学問的には形成層さえあればひっつきよるというけど、実際には接ぎ
穂と台木の締めぐあいですわ。
だいたい一日仕事でやりますのや。それで、乾きそうになったら、そこに土をすぐ
にかけていくんです。本数はそのときによって、みな違いますけど、千本まではいき
ませんな。
今はビニールでやるものやからみんなだめになるんですわ。ビニールでくくったら、
ひっつくのはよろしいわ。けどそれが腐りませんのや。それで木が脹れたときに木に
食い込んでしもうて、しまいにはポキッと折れよる。
藁だとちょうどついたときに、その藁が腐っとる。だから藁とか荒縄というのは、
うまいことできているんですわ。それなのに街路樹の支柱を見たってややこしいもん
でくくってありますやろ。そやから肥ったときにみんな傷んでますわな。昔の材料は
みな、木が必要でなくなるときには、そのものが腐るようになっておったんです。

桜切るバ力、梅切らぬアホ
大きな桜を新しく植えるときには、まず土を見ますわな。土を見んことには植えら
れへんから。育ってきたところと、違うかどうか、その土が合うか合わんかを見極め
て、悪かったら土を入れ替えてもらう。そして、植えて、立てますわね。立てて土を
かけたときに、なんやおかしいなと思うときがあるんです。どうかなあと思うときも
あるし、もう大丈夫というときもある。大丈夫やというときにはじめて、地の神と天
の神とに感謝して、酒をかけて、幹の高いところにスルメを結わいつけておくんです
わ。スルメは神事や祝い事で必ず使いますやろ。昔からそういうもんですわな。祭り
はみなスルメですわ。そのとき「ごくろうさん」と一升瓶の酒をかけてやりますな。
それで、わしらは.自然界のもろもろの神に感謝して、最後に「たのんます」というて
帰りますのや。
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佐野藤右衛門には一度講演会で話を聞いたことがある。
この本には彼の写真が載っているが、「植木屋」と言ってはばからない。「野人」そのままのような人である。
十六代佐野藤右衛門を襲名しているが昭和三年(1928年)生まれ。京都農林学校卒。祖父の代からの「桜守」を継ぐ。
京都市右京区山越というところで、土地は昔から仁和寺の寺領だったところで、数代まえから仁和寺出入りの百姓で次第に植木の世話をする植木屋となり、庭師となって行ったという。
屋敷には庭木を囲っておく広い養生用の畑があり、そこにたくさんの桜などの苗木を囲ってある。
彼の朝一番の日課は、起きたら畑に出て庭木の機嫌を伺い、弱っている木には小便をかけておくのだという。
一種のショック療法というか、栄養補給だと彼は言う。
豪放磊落に見えて「下戸」であり、甘いものに目がないという。
この本にも書かれているが、イサム・ノグチと一緒に海外で日本庭園を作ったりした。
本願寺の庭園を引き受けたりしているが、これらも仁和寺とのゆかりからの延長だという。
商売がら庭木を囲っておく広い畑が必要だが、都市化の波で自分が死んだら相続税でガッポリ取られ、商売が続けられるかどうか心もとないと書かれている。
京都御苑内に海外の賓客などを迎える迎賓館が建てられ、その庭園も彼が引き受けたが、宮内庁の役人の素人のくせに干渉がひどいと、
「さぁ、休みや休みや」と職人を引き揚げさせたなどのエピソードも彼の口から聴いたことがある。

佐野藤右衛門の本は、読みかけると面白くて、止められない。 ぜひ読んでみてほしい。

安藤

安藤潔は1937年会津若松市生まれ。新潟大学教育学部卒。公立中学、高校の教諭を二十八年。日本随筆家協会会員。
エッセイ、地元の方言にまつわる本など数冊。
この本には
一、「サクラ」とは何か・・・・・・・「サクラ」の語源、漢字「櫻」、「サクラ」の植物学、「サクラ」の品種一覧
二、古代の「桜」・・・・・・・・・・古代の桜と梅と桃と。「左近の桜」
三、「桜」に魅せられて・・・・・・・西行法師と桜、醍醐の花見
四、「桜」の民俗・・・・・・・・鎮花祭。天然記念物になった桜。
五、お江戸の「桜」
六、「さくら」とことば
七、「桜」を象る
八、「サクラ」の名を借りて・・・・・・・・サクランボ。
九、暮らしの中の「さくら」
全国桜名所

漢字「櫻」はいわゆるサクラではなく「ユスラウメ」のことだという。白川静『字統』には「含桃也」として中国の詩文に見える「櫻花」「櫻樹」は全てユスラウメを指す、という。
このように資料を漁って、よく書かれているが総花的な印象を拭えない。
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佐野藤右衛門の本によると、サクラの先祖はヒマラヤサクラ辺りに辿りつくらしい。
それが中国には根付かず、種が鳥に食べられて日本に運ばれて「糞」と一緒に排出され、日本の地に根付いたものかという。

「桜」の木についても、今はソメイヨシノ一色であるのに批判的である。
ソメイヨシノは東京近郊の染井村で生まれた、オオシマザクラとエドヒガンザクラとの自然交配による雑種であり、しかも種の成らない「一代雑種」である。
だから苗は「接ぎ木」で育てられるのみである。今風に言えば「クローン」である。
あらゆる生き物には「寿命」があるから、クローンは「親」の残した寿命の「残り」しか生きられない。
ソメイヨシノは育種されてから、まだ150年しか経っていないが、寿命は短く、弱ってきている。
ただ、この桜は「活着率」が良いので重宝されてソメイヨシノ一色になってしまった、と嘆いている。
古いソメイヨシノの木で残っているのは、日露戦争の戦勝記念というのが一番多い。明治39年(1906年)頃である。
関西で多いのは昭和11年。というのは昭和9年に室戸台風と大水害があって、その復旧の後に植えた。
それから昭和15年(1940年)は紀元二千六百年記念に植えたのが、いま残っている古いソメイヨシノという。
それにサクラは日本軍隊とともに歩んできたので殆どの聯隊のあとにはサクラがある、という。
それでも名を残してゆくのは、やはりヒガンザクラかヤマザクラだという。
ヒガンザクラは枝垂れるから、どちらかというと女性的。ヤマザクラは幹もしっかりしているから男性的。

もっともっと佐野藤右衛門の本などに深入りしたいが、この辺で終わりにしたい。


チューリップはらりと散りし一片にゴッホの削ぎし耳を想ひつ・・・木村草弥
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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      チューリップはらりと散りし一片に
          ゴッホの削ぎし耳を想ひつ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌はの私第六歌集『無冠の馬』(KADOKAWA 2015/04/25刊)に載るものである。
原文は角川書店「短歌」誌平成24年6月号に発表したものが初出となっている。
雑誌に発表したものは12首だが、歌集に載せる際に2首を習作帖から抜いて付け加えている。
その部分を、ここに引いておく。 ↓

        ゴッホの耳    
         
  白鳥の帰る頃かもこぶし咲き白き刹那を野づらに咲(わら)ふ

  一斉に翔びたつ白さにこぶし咲き岬より青い夜が来てゐる

  三椏(みつまた)の花はつかなる黄に会ふは紙漉きの村に春くればゆゑ

  沈丁の香の強ければ雨ならむ過去は過去なり今を生きなむ

  誰に逢はむ思ひにあらず近寄ればミモザの花の黄が初々し

  生憎の雨といふまじ山吹の花の散り敷く狭庭また佳し

  白もくれん手燭のごとく延べし枝(え)の空に鼓動のあるがに揺るる

  松の芯が匂ふおよそ花らしくない匂ひ──さうだ樹脂(やに)の匂ひだ

  ひと冬の眠りから覚めたか剪定した葡萄の樹液したたり止まぬ

  天上天下唯我独尊お釈迦様に甘茶をかける花祭 ひとすぢに生きたい
    
  チューリップはらりと散りし一片にゴッホの削ぎし耳を想ひつ

  <チューリップの花には侏儒が棲む> といふ人あり花にうかぶ宙(そら)あり

  ブルーベリージャムを塗りゆく朝の卓ワン・バイ・ワンとエンヤの楽響(な)る

  千年(ミレニアム)きざみに数ふる西洋か 日本は百年に戦さ五度(いつつたび)





海女とても陸こそよけれ桃の花・・・高浜虚子
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       海女とても陸(くが)こそよけれ桃の花・・・・・・・・・・・・・・・・・高浜虚子

この句には <4月8日。志摩外海に海女の作業を見る> の前書きがある。
だから本日4月8日の日付にこだわってアップした。昭和23年の作品である。

海女の素もぐりの作業というのは過酷なもので、体は冷えるし、海女小屋で焚き火をして暖めるなどの休息が必要である。
虚子は、そういう労働を目の前に見て、「海女にもやはり陸がいいのだろうな」という感慨を抱いたのであろう。
この句は昭和23年の作品というと、その頃は、まだ海女の衣装は伝統的な白い木綿の磯着だったろう。
今では画像②のように海女もウエットスーツ着用である。
後日この旅の先導役を務めた橋本鶏二の話によると、「ホトトギス」では多作で鳴る鶏二が舌をまくほど、虚子は句帖を開きづめであり、
さすがの鶏二も、その気迫に圧倒される思いだったという。この年、虚子は75歳であった。

「ホトトギス」というと、短歌における「アララギ」と同様に、俳句界を一世を風靡して、いわば肩で風を切るような威張り方であったようである。
短歌界では先年、「アララギ」が解散して、昔の威勢もどこへやら、という昨今であるが、俳句界でも新興の前衛俳句などが出現して、今や様変わりの様相であるように見える。
一方で、老年者の増加で「俳句でも」という「でも俳人」が増え、それらの人々は概して「ホトトギス」的な写生句を作りがちであるから、「ホトトギス」も暫くは安泰であろうか。
私は、どちらかというと、「ホトトギス」的な写生句は好きではない。
私は現代詩から短詩形に接近したので、「詩」のない作品は評価しない。それは写生、非写生の如何を問わず、である。
以下、虚子の作品を少し引いて終わりにしたい。

 その中にちいさき神や壺すみれ

 永き日を君あくびでもしてゐるか──古白1周忌──

 子規逝くや十七日の月明に

 三つ食へば葉三片や桜餅

 村の名も法隆寺なり麦を蒔く

 秋空を二つに断てり椎大樹

 大寺を包みてわめく木の芽かな

 葡萄の種吐き出して事を決しけり

 木曽川の今こそ光れ渡り鳥

 蛇逃げて我を見し眼の草に残る

 手をこぼれて土に達するまでの種

 目さむれば貴船の芒生けてありぬ

 たとふれば独楽のはじける如くなり

 水打てば夏蝶そこに生れけり

 虹消えて忽ち君の無き如し──三国の愛子に──

 蜘蛛に生れ網をかけねばならぬかな

 独り句の推敲をして遅き日を


妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る・・・中村草田男
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 ↑ 句集「長子」と「萬緑」
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↑ 愛知県碧南市にある佐藤忠良の作品

      妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る・・・・・・・・・・・・・・・・・・中村草田男

この句は第二句集『火の鳥』(昭和14年刊)に載るもので、まだ作者が若い頃の作品だが、一種の「鬼気迫る」雰囲気の句であり、
私は、この句に出会ってから忘れ得ない作品である。
出張か何かで、しばらく家を空けていたのであろうか、初句に「妻抱かな」という強烈な欲情の表出があって、中7が「春昼」である。
春の昼日中に妻を抱きたい、という直情的な表現には驚かされる。
「砂利踏みて」という表現が、また秀逸である。砂利というのは、ご存じの通り、ざくざくという音を発する。
妻抱かな、という欲情が、砂利のざくざくという音によって一種の「後ろめたさ」みたいなものを感じさせて文字通り「鬼気迫る」感じを読者に与えるのである。

この句には、後日談がある。
この句に触発された加藤楸邨が、私なら、こう作ると改作したのが、<妻抱かな春昼の闇飛びて帰る>という句である。
この句は、さすがに楸邨も気がとがめたのか、自選句などの中には入っていない。
私は、この改作を「寒雷」の誌上で20歳になるかならない頃に読んで記憶しているのである。
その頃、私は楸邨が好きだったので、楸邨の改作句の方が、より鬼気迫るものがある、と思い込んでいたが、今では草田男の原句の方も悪くない、と思うようになった。
楸邨は、欲情を抱いて「妻抱かな」と帰ってゆくのだから、その「春昼」を「闇」として把握して改作した訳であり、それはそれで見事な「鬼気」の表現だと思う。

ここらで中村草田男の句を抜き出してみたい。

 ひた急ぐ犬に会ひけり木の芽道

 田を植ゑるしづかな音へ出でにけり

 玫瑰や今も沖には未来あり

 蜻蛉行くうしろ姿の大きさよ

 降る雪や明治は遠くなりにけり

 吾妻かの三日月ほどの吾子胎(やど)すか

 燭の灯を煙草火としつチエホフ忌

 万緑の中や吾子の歯生え初むる

 虹に謝す妻よりほかに女知らず

 毒消し飲むやわが詩多産の夏来る

 勇気こそ地の塩なれや梅真白

 父母未生以前とは祖国寒満月

 伸びる肉ちぢまる肉や稼ぐ裸

 葡萄食ふ一語一語の如くにて

 浮浪児昼寝す「なんでもいいやい知らねいやい」

 生れて十日生命が赤し風がまぶし

 雪中梅一切忘じ一切見ゆ

 子のための又夫(つま)のための乳房すずし

 菜の花個日和母居しことが母の恩

 雲かけて萌えよと巨人歩み去る──高浜虚子告別──

 勿忘草日本の恋は黙つて死ぬ

 山紅葉女声(めごゑ)は鎌の光るごと

 芸は永久(とは)に罪深きもの蟻地獄

「万緑」という季語は草田男が中国の古詩からヒントを得て創作したものとして有名だが、虚子は、それを死ぬまで認めなかった、と言われているのも、両者の確執として有名な話である。
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 ↑ 有名な「降る雪や明治は遠くなりにけり」句碑

彼については何度も書いたが、簡単な略歴を引いておく。

中村草田男年譜

明治34(1901)年7月24日
 父の任地清国(現中国)福建省厦門の日本領事館で生まれる。 本籍は松山市二番町。本名は清一郎。
明治37(1904)年 母と帰国し、伊予郡松前町に住む。
明治39(1906)年 松山市に転居。
大正3(1914)年 松山中学校(現松山東高等学校)に入学し、伊丹万作らの同人誌に加わる。
大正10(1921)年 松山中学校卒業。松山高等学校(現愛媛大学)入試に失敗。
 西欧文学を読みふける。
大正14(1925)年 東京帝国大学文学部独逸文学科(現東京大学)に入学し、後に国文科に移る。
昭和4(1929)年 高浜虚子を訪ね師事し、『ホトトギス』と『東大俳句』に入会。
昭和8(1933)年 東京帝国大学国文科を卒業し、成蹊学園に就職。
昭和10(1936)年 第一句集『長子』、沙羅書店。
昭和14(1939)年 句集『火の鳥』、龍星閤、553句収録。石田波郷・篠原梵・加藤楸邨らと座談会に参加し、一時人間探求派とよばれるようになる。
昭和21(1946)年 句集『萬緑』1941年、甲鳥書林。
昭和21(1946)年 月刊俳誌『萬緑』創刊。
昭和22(1947)年 『来し方行方』、自文堂。
昭和28(1953)年 句集『銀河依然』、みすず書房。8月、亡母の納骨のため帰郷。
昭和31(1959)年 『母郷行』、みすず書房。
昭和34(1959)年 石田波郷・星野立子とともに「朝日俳壇」選者となる。
昭和35(1960)年 現代俳句協会幹事長となる。
昭和36(1961)年 現代俳句協会幹事長をやめ、俳人協会を創立、会長となる。
昭和42(1967)年 『美田』、みすず書房。
昭和45(1970)年 万国博覧会のタイムカプセル収納品に句集『長子』が選ばれる。
昭和55(1980)年 『時機』1980年、みすず書房。
昭和58(1983)年 8月5日 82歳で永眠。
about_img02_2中村草田男

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掲出した佐藤忠良の像は、この句とは関係がないが、「抱く」ということからの連想で出しておく。




白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ・・・若山牧水
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      白鳥(しらとり)は哀(かな)しからずや空の青
         海のあをにも染まずただよふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・若山牧水


明治41年、早稲田大学英文科卒業の年に自費出版した第一歌集『海の声』に入っている有名な歌である。
「白鳥」はここではカモメのこと。空や海の青に鳥の白を対比させて、広大な自然の中に生きる海鳥の、また作者自身の孤愁を詠っている。
「空の青海のあを」という繰り返しが、表現の流れの中で、見事に生かされて感情を流露させている。
この歌は明治40年雑誌『新声』12月号に発表されたもので、牧水21歳の作。
しかし、残念ながら、詠まれた場所は、どこか判らない。
593b7a36a3ebd64f022b2bb327c64da1長岡半太郎・牧水記念館
 ↑ 長岡半太郎・若山牧水記念館

大正4年3月から翌年12月まで貴志子夫人の病気療養を兼ねて若山牧水も居住したことを記念し、房総半島を望む神奈川県横須賀市長沢の海岸に昭和28年に、
「長岡半太郎記念館・若山牧水資料館」が建てられた。
ここはわが国の物理学の草分け・長岡半太郎博士が長年学問研究や憩いの場としていた別邸を復元した建物で博士の遺品・資料と共に、
近くに住み博士とも親交のあった詩人 若山牧水氏の関連資料などを展示している。

65cddca9c2a8cd0fff0462f24848cf6e牧水・貴志子歌碑
 ↑ 牧水・貴志子歌碑
記念館の近くにある歌碑は、表は牧水、裏は貴志子夫人の歌が長男旅人氏の筆で刻まれている。

   表<海越えて 鋸山は かすめども 此処の長浜 浪立ちやまず>
   裏<うちけぶり 鋸山も 浮び来と 今日のみちしほ ふくらみ寄する>
       (「鋸山」=対岸にある房総の山の名)

この歌碑のすぐ傍に、こちらは有志者の寄付により建立された
   <しら鳥は かなしからずや そらの青 海のあをにも そまずただよふ>の歌碑が立っている。
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若山牧水は短歌結社「創作」を主宰するが、「旅の人、酒好きの人」として有名である。
各地を旅行し、酒のもてなしに預かると、酒の勢いもあって、書画を多く残している。

 白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり

という歌は人口に膾炙した有名な歌である。
以下、少し牧水の歌を抜粋して終わることにする。

 われ歌をうたへりけふも故わかぬかなしみどもにうち追はれつつ

 ああ接吻(くちづけ)海そのままに日は行かず鳥翔(ま)ひながら死(う)せ果てよいま

 君かりにかのわだつみに思はれて言ひよられなばいかにしたまふ

 けふもまたこころの鉦をうち鳴しうち鳴しつつあくがれて行く

 幾山河越えさり行かば寂しさの終(は)てなむ国ぞ今日も旅ゆく

 ちんちろり男ばかりの酒の夜をあれちんちろり鳴きいづるかな

 とろとろと琥珀の清水津の国の銘酒白鶴瓶(へい)あふれ出る

 朝地震(なゐ)す空はかすかに嵐して一山白きやまさくらばな

 山ねむる山のふもとに海ねむるかなしき春の国を旅ゆく

 この手紙赤き切手をはるさへにこころときめく哀しきゆふべ

 たぽたぽと樽に満ちたる酒は鳴るさびしき心うちつれて鳴る

 摘草のにほひ残れるゆびさきをあらひて居れば野に月の出づ

 かんがへて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏のゆふぐれ

 さうだ、あんまり自分のことばかり考へてゐた、四辺(あたり)は洞(ほらあな)のやうに暗い

 酒やめてかはりになにかたのしめといふ医者がつらに鼻あぐらかけり

 ウヰスキイに煮湯そぞげば匂ひ立つ白けて寒き朝の灯かげに

 酒ほしさまぎらはすとて庭に出でつ庭草をぬくこの庭草を

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ところどころに、医師から酒を慎むように言われる歌や、酒飲みのいじましい心境の歌なども出てくる。結局は酒で命を縮めたのであろうか。昭和3年没。44歳であった。
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ネット上に載る記事を転載しておく。

若山牧水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

若山 牧水(わかやま ぼくすい、 明治18年(1885年)8月24日~ 昭和3年(1928年)9月17日)は、日本の歌人。本名・繁(しげる)。

略歴
宮崎県東臼杵郡東郷村(現・日向市)の医師・若山立蔵の長男として生まれる。
明治32年(1899年)宮崎県立延岡中学(現・宮崎県立延岡高等学校)に入学。短歌と俳句を始める。 18歳のとき、号を牧水とする。

明治37年(1904年)早稲田大学文学科に入学。同級生の北原射水(後の白秋)、中林蘇水と親交を厚くし「早稲田の三水」と呼ばれる。 明治41年(1908年)早大英文学科卒業。7月に処女歌集『海の声』出版。翌、明治42年(1909年)中央新聞社に入社。5ヶ月後に退社。

明治44年(1911年)創作社を興し詩歌雑誌「創作」を主宰。この年、歌人・太田水穂を頼って長野より上京していた後に妻となる太田喜志子と水穂宅にて知り合う。明治45年(1912年)友人であった石川啄木の臨終に立ち合う。同年、喜志子と結婚。大正2年(1913年)長男・旅人(たびと)誕生。その後、2女1男をもうける。

大正9年(1920年)沼津の自然を愛し、特に千本松原の景観に魅せられて、一家をあげて沼津に移住。大正15年(1926年)詩歌総合雑誌「詩歌時代」を創刊。この年、静岡県が計画した千本松原伐採に対し新聞に計画反対を寄稿するなど運動の先頭に立ち計画を断念させる。昭和2年(1927年)妻と共に朝鮮揮毫旅行に出発し、約2ヶ月間にわたって珍島や金剛山などを巡るが体調を崩し帰国。翌年夏頃より病臥に伏し自宅で死去。享年43。沼津の千本山乗運寺に埋葬される。

牧水の死後、詩歌雑誌「創作」は歌人であった妻・喜志子により受け継がれた。

旅を愛し旅にあって各所で歌を詠み、日本各地に彼の歌碑がある。大の酒好きで一日一升程度の酒を呑んでいたといい、死因の大きな要因となったのは肝硬変である。自然を愛し特に終焉の地となった沼津では千本松原や富士山を愛し、千本松原保存運動を起こしたり富士の歌を多く残すなど、自然主義文学としての短歌を推進した。

また、情熱的な恋をしたことでも知られており喜志子と知り合う前の園田小枝子との熱愛は有名なエピソードである。出身地・宮崎県では牧水の功績を称え、平成8年(1996年)より毎年、短歌文学の分野で傑出した功績を挙げた者に対し「若山牧水賞」を授与している。

牧水は埼玉県秩父地方を数度訪れて歌と紀行文を残している。秩父市の羊山公園には「牧水の滝」と名づけられた滝があり、そこには

「秩父町出はづれ来れば機をりのうたごゑつゞく古りし家竝に」

という秩父の春を歌った碑がある。

歌集
海の声
独り歌へる
別離
路上
死か芸術か
みなかみ
山桜の歌
など



千曲川柳霞みて/春浅く水流れたり/たゞひとり岩をめぐりて/この岸に愁を繋ぐ・・・島崎藤村
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       千曲川旅情の歌 ・・・・・・・・・・・・・・・・・島崎藤村

    千曲川柳霞みて

    春浅く水流れたり

    たゞひとり岩をめぐりて

    この岸に愁(うれひ)を繋ぐ

詩集『落梅集』に納められる有名な「千曲川旅情の歌」の最終連。
千曲川の古城跡にたたずみ、戦国武将の栄枯のあとを回想し、「嗚呼古城なにをか語り/岸の波なにをか答ふ」と歎じながら、近代の旅人の愁いを歌いあげている詩だが、藤村はこの詩をのちに「小諸なる古城のほとり」と合わせて「千曲川旅情の歌」一、二番とした。
これは、そのうちの二番にあたる詩の最終連という訳である。
藤村の歌いぶりは、漢詩的な対句表現を多用したり、和歌的語法を用いたりして、伝統的な詩の美感や技法を巧みに近代的表現の中に移し得ている。
この一連では、5音7音という日本の伝統的な音数律をうまく使ってフレーズを構築し得ている。
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藤村は木曾の馬籠宿の庄屋に生まれる。
馬籠は中仙道の街道筋にあたり木曾十一宿という古い宿駅のひとつで父は明治維新まで馬籠の庄屋、本陣、問屋を兼ねていた。
滅び行く旧家の血統は、故郷の風土とともに、一人の近代日本の巨大な作家を形成するのに重大な役割を果たした。
若くして東京に遊学したが、1899年、小諸義塾の教師となる。そこで秦慶治の三女・冬子と結婚し、結婚を期に詩から散文への転換をめざす。
1912年にまとめられた『千曲川のスケッチ』や第一短編集『緑葉集』などは散文家としての最初の結実である。
『破戒』は、前年に小諸の学校を辞して帰京し、背水の陣をもって執筆にあたったという。その後『春』『家』『新生』『夜明け前』など、小説家として、その当時の文学界をリードした。
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↑ 詩碑「過ぎし世をしづかにおもへ/百年もきのふの如し」

参考のために下記を転載しておく。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『千曲川旅情の歌』(ちくまがわりょじょうのうた)は島崎藤村の詩であり、この詩に作曲した歌曲も有名である。

明治38年に発行された「落梅集」が初出。同詩集冒頭に収められた『小諸なる古城のほとり』、後半の『千曲川旅情の詩』を、後に藤村自身が自選藤村詩抄にて『千曲川旅情の歌 一、二』として合わせたものである。この詩は「秋風の歌」(若菜集)や「椰子の実」(落梅集)と並んで藤村の秀作とされ、詩に歌われた小諸城址に歌碑が建立されている。

幾度と無く曲が付けられ、多くの歌い手に歌われてきた。特に、「小諸なる…」に作曲した弘田龍太郎の歌曲作品「千曲川旅情の歌」(「小諸なる古城のほとり」)は広く演奏され、NHKのTV番組名曲アルバムなどでも度々放送されている。弘田は後半の「昨日またかくてありけり」にも作曲している。


「小諸なる古城のほとり」 -落梅集より-
 島崎藤村

小諸なる古城のほとり 雲白く遊子(ゆうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず 若草も籍(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ) 日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど 野に満つる香(かおり)も知らず
浅くのみ春は霞みて 麦の色わずかに青し
旅人の群はいくつか 畠中の道を急ぎぬ

暮行けば浅間も見えず 歌哀し佐久の草笛(歌哀し)
千曲川いざよう波の 岸近き宿にのぼりつ
濁(にご)り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む


「千曲川旅情の歌」 -落梅集より-
 島崎藤村

昨日またかくてありけり 今日もまたかくてありなむ
この命なにをあくせく 明日をのみ思ひわづらふ

いくたびか栄枯の夢の 消え残る谷に下りて
河波のいざよふ見れば 砂まじり水巻き帰る

鳴呼古城なにをか語り 岸の波なにをか答ふ
過し世を静かに思へ 百年もきのふのごとし
 (百年もきのふのごとし)

千曲川柳霞みて 春浅く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて この岸に愁を繋ぐ
 (この岸に愁を繋ぐ)


ねがはくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ・・・西行法師
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    ねがはくは花のもとにて春死なむ
          その如月の望月のころ・・・・・・・・・・・・・・・西行法師


もし願いが叶うならば、爛漫たる桜の花のもとで死にたいものだ、まさにその二月十五日の満月のころに。
 古来、日本の歌や句では「花」というと「桜」の花を指す決まりになっている。
「如月の望月のころ」は旧暦で二月十五日、望月─満月のことであるが、今の太陽暦では三月末にあたる。
西行の熱愛した桜の花盛りの時期だが、その日は、また釈迦入滅の日でもある。仏道に入った者として、最も望ましい死の日だった訳である。
この歌は、自分の歌の中から秀歌72首を自選して三十六番の歌合(うたあわせ)の形に組み、藤原俊成に判を求めた「御裳濯河歌合」(みもすそがわうたあわせ)に含まれている。
時に、西行70歳。
3年後の建久元年2月16日、彼は驚くべきことに、願った通りの時に死んだ。73歳だった。

西行が入滅したのは、河内の弘川寺(現在の大阪府南河内郡河南町弘川)である。
先に書いたように釈迦涅槃の日に、しかも熱愛していた桜の満開の望月の時、という頃に命を終えたということが、世人の深い感動を誘ったのである。
 写真①②は弘川寺。
因みに、芭蕉をはじめ、西行の足跡を慕って諸国を行脚した歌人や俳人はかなりの数にのぼるが、西行終焉の地・弘川寺を突き止めたのは、
享保17年(1732年)、藤原俊成の『長秋詠草』の記事によって発見した歌僧・似雲であると言われている。
img003弘川寺

いま弘川寺を訪ねると、似雲が再興したと伝える「西行堂」が本堂背後の丘にあり、その脇に川田順の筆になる

<年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山>・・・・・・・・・西行(山家集)

の歌の石碑が立つ。
そして木下闇の広場には佐佐木信綱の書で

<仏には桜の花を奉れわが後の世を人とぶらはば>・・・・・・・・・・西行(山家集)

の大きな歌碑が立っている。
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写真③は、本堂を見下ろす場所にある西行堂。
img004西行堂

以下、Web上に載る記事を転載しておく。
(草弥・註。↓ この記事はその後抹消されたらしい)

弘川寺・西行終焉の地を訪ねる(大阪府南河内郡)

 春風の花を散らすと見る夢は 覚めても胸のさわぐなりけり   西行

西行に興味を持ったのは、
十数年前、藤田美術館で西行伝筆の一幅に出会ってから…。

 にわかにも 風の涼しくなりぬるか 秋たつ日とは むべもいいける

 よみ人知らず・西行・伝・筆とされる。ようするに詠んだ人は不詳だが西行が書いた「書」であると伝えられる高野切れの一幅。記憶のままなので正確であるかどうかの保証はない。この時代にはときの階位が低いと「よみ人知らず」とされるようだが、仮に西行が詠んだ歌ではないにしても何らかの意図を持って西行が書いたことはほぼ間違いがないし、何より覚え易い。
三度ほど暗誦して諳んじることができる。
西行の歌ほどすんなり心の内部に入ってくる歌はない。あまり歌に詳しくはないが、その頃の貴族の生活や社会環境まで併せて考慮しなければならなかったり、ときの職業歌人が技巧を弄したような歌もあまり好きではない。前段階での勉強が必要な歌に、私自身はなかなか共感できる深みにまで達することができない。もしくは私にそこまでの余裕がないか…。
西行の歌に、ある意味、辞世のような迫真性を持つ歌が多いと思うのは私だけか。
とにかく、以来…私はどんな炎暑の夏も、ある時期がくれば毎年のように前述の、よみ人知らず・西行・伝・筆の句を思い出し、その度に西行のことを思い出す。その季節ともなれば、夏の南風とは違う微かな涼風に、たしかに秋の訪れを感じるし、それは900年の時間を飛び越えて感じる同じ風のように思えるからだ。

弘川寺は天智天皇の四年、役行者によって開創され、天武、嵯峨、後鳥羽、三天皇の勅願寺で、本尊は薬師如来。西行終焉の地としてその名を知られる。
西行堂は、江戸中期、西行を慕って広島よりこの地を求めた歌僧似雲によって建立された。
晩年の西行はこのあたりで起居し歌を詠み暮らしたのだろうか。
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私事で恐縮だが、私の姉・登志子は昭和19年2月に結核で死んだが、死期を悟ってからは、しきりに花の下で死にたい、と言った。
その花とは、私たちの村は梅の花の名所であったから、「梅」の花を指しているのだが、彼女の意識の中には、
花の種類こそ違え、西行の、この歌があったのは確かなことであった。
そして姉は、その願いの通り、梅の花咲く季節に死んだ。




Post Coitus 不思議な店のマスターは至つて無口シェイカーを振る・・・永田和宏
sperm_16024523精子
 ↑ 精子の電子顕微鏡画像

        ■Post Coitus 不思議な店のマスターは
                   至つて無口シェイカーを振る・・・・・・・・・・・・永田和宏


この歌に引き続いて

     受精後と読むは科学者 性交ののちと言ふとももとより可なり

     よろこびか哀しみか然(さ)あれ受精とは精子を迎へ容れること


と続いている。 これらの一連は角川書店「短歌」誌2015年一月号に載るものである。
ご存じのように永田は細胞生物学者で、京都大学、京都産業大学教授を経て、目下、JT生命科学誌記念館の館長である。
有名な歌人・亡河野裕子の夫である。 Wikipedia─永田和宏

この歌の出だしのラテン語「Post Coitus」というのも、いかにも学者らしい、ディレッタントなもので、私などは、こういう知的な「言葉遊び」に微笑む。
実際に、こんな名前のバーがあるのかどうか、も私には判りかねるし、フィクションとして捉えるのが、むしろ面白い、と言える。

つづいて、こんな歌が見つかったので引いてみる。

f0071480_17544581亀のピカソ

       ■はなたれてちぢむペニスよこのあした
                <東大教授>もパンツを脱いで・・・・・・・・・・・坂井修一


この歌の作者はコンピュータ学を専攻する東大教授であり、かつ歌人である。
この歌には詞書「朝風呂」と振られており、かつ「11/9」という日付がついている。
この歌は歌集『亀のピカソ─短歌日記2013』に収録されているものだが、初出は、ふらんす堂のホームページに「短歌日記」という一年間の連作のシリーズとして掲載されたものである。
これらは、もちろん「歌」作品であるから、フィクションとして捉えるべきであろう。
朝風呂でなく夜の風呂だったかも知れないが、詩的真実=リアリティ、として呈示されていると理解すべきである。
しかし「東大教授」という地位に居る人物の歌だからこそ、そして坂井修一という知の巨人の背景がわかるからこそ面白いのである。

彼の経歴について、Wikipdiaを引いておく。   ↓

坂井 修一(さかい しゅういち、1958年11月1日)は日本の歌人、情報工学者、東京大学教授。愛媛県出身。
短歌結社「かりん」に所属し馬場あき子に師事。科学者としての視点を生かしながら人間的な振幅を示す表現が特徴。現在、現代歌人協会理事。また、工学の分野でも活躍し、電子技術総合研究所(現:産業技術総合研究所)に勤務していたときに、汎用性があるという意味で世界初といわれている高並列データ駆動計算機「EM-4」の開発に参加する。その後マサチューセッツ工科大学に学び、筑波大学助教授、東京大学工学部助教授、情報理工学系研究科教授。情報処理学会フェロー、電子情報通信学会フェロー、日本学術会議連携会員でもある。
妻は同じく歌人の米川千嘉子。

こんな歌は、どうだろうか。

海図

      ■断食(ラマダン)を正しく守る前相撲
                 大砂嵐はエジプト人なり・・・・・・・・・・・三井修


この歌は歌集『海図』に載るものである。 三井修氏は、私がいろいろお世話になっている人である。
角川「短歌」誌2015年一月号に載る巻頭・特集の文章によると、

<大砂嵐の本名は アブダラハム・アラー・エルディン・モハメッド・アハマッド・シャラーン。
 四股名・大砂嵐は、本名に因んで、砂=シャ、嵐=ラン、から付けたというのは本当か。>

と書かれている。 私も真偽のほどは判らないが、相撲部屋の親方が、上のようなことで付けたとすれば、極めて愉快である。
その彼も今や幕内力士の中堅として活躍していたが、交通違反を犯して検挙され、先年、廃業した。
私も注目していたが、残念なことである。
本名を見ると、イスラム教でも、キリスト教と同様に、ミドルネームに聖人などの名前を連ねるらしい。
三井修氏は東京外国語大学でアラビア語を専攻され、商社で何度も中東の地に駐在員として活躍された人であり、中東研究の第一人者である。  Wikipedia─三井修
歌集『海図』については、このブログで先年に紹介した。

今日は、現在、トップを走る歌人たち三人の「言葉遊び」と私が呼ぶ歌を引いて、書いてみた。 いかがだろうか。


身も心も・・・吉野弘
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 ↑  青土社; 増補新版  2014/4/21刊

──吉野弘の詩──(6)

     身も心も・・・・・・・・・・・・・吉野弘

   身体は
   心と一緒なので
   心のゆくところについてゆく。

   心が 愛する人にゆくとき
   身体も 愛する人にゆく。
   身も心も。

   清い心にはげまされ
   身体が 初めての愛のしぐさに
   みちびかれたとき
   心が すべてをもはや知らないのを
   身体は驚きをもってみた。

   おずおずとした ためらいを脱ぎ
   身体が強く強くなるのを
   心は仰いだ しもべのように。

   強い身体が 心をはげまし
   愛のしぐさをくりかえすとき
   心がおくれ ためらうのを
   身体は驚きをもってみた。

   心は
   身体と一緒なので
   身体のゆくところについてゆく。

   身体が愛する人にゆくとき
   心も 愛する人にゆく。

   身も心も?
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今どきは、何事も赤裸々になってしまったから、こういうピュアな心情は「死語」になったようにも思われるが、大切にしたいものである。



詩画集・高階杞一・浜野史『星夜(せいや) 扉をあけて』・・・木村草弥
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──高階杞一の詩──(12)

        詩画集・高階杞一・浜野史『星夜(せいや) 扉をあけて』・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・澪標2021/04/10刊・・・・・・・

この本が恵贈されてきた。
巻末に載る記事によると、親鸞聖人750回大遠忌(2012年1月)の法要を盛り上げるために、浄土真宗本願寺派(西本願寺)が2007年から2012まで、年二回、計十回発行した新聞「安穏」に、その巻頭を飾る詩として依頼された高階氏の作品──縁、いのち、つながり、かがやき などのテーマに沿って書かれたものだという。
この本にするときに「絵」は「浜野史」さんが描かれたものである。

高階氏は、その作品が作曲されて合唱コンクール課題曲に採用されるなど、広い分野に自作が引かれる作家である。
それらについては、このブログでも取り上げたことがある。
作品を見てみよう。

       春の改札

  青い空に
  雲がひとつ
  うかんでいます

  野原に
  いちめん
  黄色い花が咲いています

  こどもと犬が
  立ちどまって見ています
  こどもは雲を
  犬は黄色い花を

  絵本のような 美しい国

  あちらへ行くには
  どこで切符を買えばいいのでしょう

  遠い
  改札の向こうでは
  まだ眠っているものたちへ
  目覚ましが
  やさしく
  鳴り続けています



        星夜(せいや)

  遠い北の海で
  シロクマがくしゃみをする
  その音が
  風にのって
  遠い南の果てのペンギンに届く
  ペンギンは首をかしげ
  遠くを眺める
  (誰か風邪でもひいたのかしら)

       だいじょうぶ ?

  その声が風にのって
  シロクマに届く
       ・・・・・・・・
  凍えそうな夜
  ひとりで空を見ていると
  いちめんの星のどこからか
  やさしい声が降ってくる

       だいじょうぶ ?
       ありがとう、心配してくれて

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全部で九篇の詩作品が納められ、それぞれに浜野史さんの絵が描かれている。
高階氏の多彩な活躍に瞠目するばかりである。
「春の改札」の作品が付曲され、楽譜も販売されている、という。
何とも幅ひろい活躍ぶりで嬉しいことである。益々のご活躍を。
ご恵贈ありがとうございました。         (完)







       


新井瑠美第二歌集『朱金の扇』・・・木村草弥
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 ↑ 第二歌集『朱金の扇』

      新井瑠美第二歌集『朱金の扇』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・短歌公論社1978/12/14刊・・・・・・・・

新井瑠美さんは、先年亡くなられたが、思いついて古本で買い求めた。第一歌集は買えなかった。
新井瑠美さんについては、第三歌集『霜月深夜』について書いたことがある。← リンクになっているのでお読みいただきたい。

塚本邦雄の取り巻きとして文芸誌──例えば「季刊・雁」などに評論を書くなど絢爛たる活動をしておられたようである。
亡・夫君新井進はプロゴルファーとして一世を風靡していた人で城陽カントリークラブ所属のレッスンプロとして活躍しておられ、その縁で晩年は城陽市に住んでおられた。
この第二歌集の住所は京都市伏見区桃山町となっている。
そんなプロゴルファーとの結婚のいきさつなども聞きそびれたので判らない。

この本の頃は「短歌世代」という結社におられたようである。
主宰者は引野収、浜田陽子夫妻である。後年、米満英男氏が、ご両人の全歌集の復刻版を上梓され私も戴いたが、今は日本現代詩歌文学館に寄贈したので手元にはない。

彼女の文体は、塚本邦雄讃美の人らしく、絢爛たる装いをまとっている。

巻頭の連作「待つことの」は

  ■こえに喚び声に応えて一本の樹がかたむける夜のきりぎし

  ■蔓のたぐい引攣れているまひるまの昏い渓間にくだる掌と掌よ

  ■相触れてのちの鼓動のややゆるく戻りきたればかそかに女

  ■たぐりつつ眠らんとする夜のふしどわが掌にふたぐ創あらばまた

のような歌が並んでいる。いずれも「才気」煥発な表現である。
なお、晩年には歴史的かなづかいを採用されていたが、この頃は新かなづかいを使っておられる。
この頃は新井さんも、まだ若かったので、わが「肢体」を詠んだものもセクシーである。情念に充ちた自分の「ししむら」を詠んで「挑発的」ですらある。
メタファにくるんであるが、いくつか引いてみよう。
  ■嫋嫋と夜をしめりゆく笛もたば若竹のごとしなうししむら

  ■堪えながら鏡面に反らす足指のふとしも魚のやさしさに似て

  ■夜をかけて展りきりたる情念の花のしずかに閉じゆかんとす

  ■受入れるほどの愛とは思わぬに泪にじみてきたる月の夜

  ■肉付きのゆたけき體に廻しくるちから漲るいっぽんの腕

  ■おのずからまなこ閉じつつ委ねおりわがししむらの花の息づき

  ■紅唇 少しくあけて息吐くと汝が腕のなか縊るも易し

  ■二の腕のあらわに捲きて少しずつ移りきたれる月に羞しむ

  ■やわらかく乳首を含む頭を抱きこの月の夜をただようならん

  ■極まれば双の乳房は摑まれてのみどの奥をなだれゆく声

  ■果てたれば汝がかたわらに脚のべて月のしずくをいよよ身に浴ぶ

  ■ふてきなるわが挑発の脚組めばこのうす絹の朱もまつわる

  ■相ともに短かき夜半を沈みしが手まくらに搏ついのち正しく

  ■激情の風吹き過ぎて深海の底のようなる部屋に眠りつ

  ■きそいつつ夜の花火に打ちあげる花火といずれ蒼き星屑

これらは、いずれも「情念」に燃える歌群と言えよう。
次に挙げるのは「子」を詠った歌である。「突き放した」ような歌いぶりが彼女の特徴である。

  ■湯のなかに漂うやわき肉塊とこれの小さき頭に育つもの

  ■干しあげておだしき冬の陽にあるは末世を生くる児の旗印

  ■懸命にペダル踏む児が花の季をいくたび過ぎて創つくならん

  ■シーソーの片側に置く児の重さ次第に本気にならねばならぬ

  ■いまははやわれをいで発つ若ものの四肢りんりんと鈴を響らせり

私は晩年の彼女しか知らないので、これらの子育ての歌には瞠目するのみである。

この歌集の後半、四分の三あたりに「余光」という項目があり、その中に、この歌集の題名が採られた唄がある。

  ■ただ待つというばかりにてゆうぐれの穹に朱金の扇を閉ざす

あとは私の気に入ったものを少し引いて終わりたい。

  ■アンブレラ・蛇の目・絵日傘・赤柄傘・頭上にひとは捧ぐるものを

  ■はろけきかな<青のピカソ>と揉まれきて変形されし首を陽に延す

  ■丹念に指の化粧をほどこしてさても放埓の指の組みざま

  ■夜の鏡 脱色しゆく髪見えてその先おぼろのもろこし畠

  ■流麗にひびくことばと霜月の風にはららぐ一山の紅

  ■うすものの裾揺らせて人くだる秋へひたすらなるエスカレーター

  ■消ごむの角みなまろき灯のしたに消し得ぬ部分としてのわれがあり

  ■シャンデリヤはるけき思慕のかたちしてガラスコップの底に動かず

  ■あかときのわが耳底にひびくかとふるき渡来のギヤマンの笛

そして巻末の歌は

  ■青湖を超えゆく雲や一羽翔ち一羽つづけるのちの寂けさに

才気煥発に一世を過ごされた彼女を偲び一刻を過ごした。たまゆらの彼女との「えにし」を振り返るばかりである。



満開の桜の大樹を見あげていると、/こんなに咲いてよいものかと/空おそろしくさえなってくる・・・新川和江
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lif1511300026-p1新川和江

──季節の詩──

                   新川和江

    満開の桜の大樹を見あげていると、

    こんなに咲いてよいものかと

    空おそろしくさえなってくる

    一、二りん掌にのせ、

    これぐらいが

    ほどのよいわたくしの春──と呟く、

    人が一生に咲かせる花も、

    思えば数えるほどのものなのだから。
----------------------------------------------------------------------
この詩はNHKの雑誌「きょうの料理」の巻頭に載ったものだという。
だから「無題」である。
今しも桜満開の季節だが、桜の花を眺めていて、この詩に書かれているような「感慨」を覚えたことはないだろうか。
人を圧倒するように咲き誇る「桜花」・・・・。
私などは、ここに新川さんが書いたような感じがしたものである。
というより咲き誇る「春」に圧倒されるような「抑圧」を感じたものである。
私は虚弱児だったから、特に、そういう受け取り方をしたのかも知れない。

今日の一篇として掲げておく。

1983年、吉原幸子と共に女性のための詩誌「現代詩ラ・メール」を創刊。1993年の終刊まで女性詩人の活動を支援した。
その詩は多くの作曲家によって歌にされており、飯沼信義「うつくしい鐘が…」や鈴木輝昭「良寛」のように、作曲家のために詩を書き下ろしたものも少なくない。
『産経新聞』の『朝の詩(うた)』の選者としても知られている。常連の投稿者の一人である柴田トヨを高く評価した。
私のブログに柴田トヨ詩集を扱ったものがある。 → 「柴田トヨ詩集」  ← アクセスされたい。

受賞歴
1960年 『季節の花詩集』第9回小学館文学賞受賞。
1965年 『ローマの秋・その他』第5回室生犀星詩人賞受賞。
1987年 『ひきわり麦抄』で第5回現代詩人賞受賞。
1993年 『潮の庭から』(加島祥造共著)で第3回丸山豊記念現代詩賞受賞。
1998年 『けさの陽に』で第13回詩歌文学館賞受賞。
1999年 『はたはたと頁がめくれ…』をはじめとする全業績に対して第37回藤村記念歴程賞受賞。
2000年 『いつもどこかで』で第47回産経児童出版文化賞JR賞受賞。
2007年 『記憶する水』で第25回現代詩花椿賞受賞。
2008年 『記憶する水』で第15回]丸山薫賞受賞。




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