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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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白洲正子『かくれ里 愛蔵版 』・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

    白洲正子『かくれ里 愛蔵版 』・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・・新潮社 2010/09/24 刊・・・・・・・・・

白洲正子は今でも人気があり、よく読まれているらしい。
私は臍曲がりのところがあり、ベストセラーや話題の本には飛びつかないが、この本の紹介に、
私の住む所から山の方に(滋賀県の方に向いて)行ったところにある「宇治田原」のことが出ている、ということが判って読んでみる気になって取り寄せた。

この本の初版は1971/12に出たものだが、それを底本として、写真版を再製版し、当時取材撮影された別の写真版や新たに製作した地図を加えて、再編集したものである。
地図も2010/7現在の地名や名称をもとに製作されている。 写真版も鮮明で、きれいな本である。
カバー図版は、滋賀県の金剛寺蔵・日月山水図屏風。
下記の文章は、この本の「帯」に載っているもの。全文を引いておく。
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      白洲正子生誕100年。山深い里に息づく、日本のこころ。

      山里の自然に息づく伝承、歴史、人々の営み……。
      日本が高度成長期に沸く時代、あえて近江、京都、大和、越前の
      「かくれ里」を求め歩き、独自の美意識を全開に、
      古典の美と魂に深々と触れた白洲正子の代表作。
      カラー写真や地図を大幅に増補した待望の新版完成。
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白洲正子/シラス・マサコ

(1910-1998)東京・永田町生れ。薩摩隼人の海軍軍人、樺山資紀伯爵の孫娘。幼時より梅若宗家で能を習う。
14歳で米国留学、1928(昭和3)年帰国。翌年、白洲次郎と結婚。1943年『お能』を処女出版。
戦後、小林秀雄、青山二郎らを知り、大いに鍛えられて審美眼と文章をさらに修業。
1964年『能面』で、また1972年には『かくれ里』で、ともに読売文学賞を受賞している。
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さて、私が読みたかった記事は「田原の古道」276ページから始まる16ページに及ぶものにある。
メモを取りながらの取材であろうが、細かいところには記載に大ざっぱなところがあり、正確ではない。
例えば、こんな記事である。

<京都から、奈良街道を南下すると、宇治をすぎるあたりから、左の方にあまり高くない岡がつづいている。
 これを綴喜(つづき)の岡というが、麓には、井出の玉水、蟹満寺、小野小町や橘諸兄などの旧跡があり、
 ・・・・・非常に古くから開けていた地方である。>

先ず地名の記載に間違いがある。「井出×」「井手○」である。他所の人は、たいがいこの間違いをする。
添付される地図には正しい地名が書かれているのであるから、なおさらのことである。
「綴喜」郡は木津川の両岸に開けたところで、私の住む旧「青谷」村、旧「多賀」村、井手町は左岸にあるが、
南北には4キロほどしかない。木津川の右岸の方が南北には長くて、ほぼ10キロくらいはあろうか。
地元の人間が「綴喜(つづき)の岡」という場合は、この右岸の西山を指すのが普通であって、この記載は不確かである。
この岡の奥に「宇治田原」があるのは確かであるが、「綴喜」郡田原村、宇治田原村が合併して今の宇治田原町になっている盆地の村である。
いま言ったように宇治田原は盆地であるから、白洲の言う「綴喜(つづき)の岡」というのは、ほんの2キロくらいの奥行きしかない。
彼女は独りで、これらの「かくれ里」を歩いたのではなく「案内人」があった。
だから初出の「芸術新潮」に連載されたときに、これらの間違いを指摘すべきであったのだが、指摘しなかったのか、彼女が従わなかったのか、
いずれにしても、記載には正確を期してもらいたい。
それに「蟹満寺」というのは井手の玉水からは、ずっと南にある寺で国宝の仏像を蔵する有名なところだが、行政的にも旧「相楽郡」棚倉村綺田(かばた)にあり、
現在は「木津川市」に属するから「綴喜」郡とはかけ離れたところに存在するのである。
私が「大ざっぱ」という所以である。

私の気づいたところ以外にも、あちこちに、こういう間違いは多いだろう。これらはメモの混同などが原因である。
得てして有名人は独断的で、他人の意見や親切を無視しがちである。
もともと他所の人間なのだから、地理や地名には不案内なのだから、他人の指摘には謙虚に従うべきだ。
こんな間違いに、いくつも突き当たると、折角の名文が色あせてしまうではないか。
ほぼ全文を読み進めたが、私にも他所のことは正確には判らないので、よく知ることのみ指摘するにとどめておく。

この宇治田原には、「与謝蕪村」の門弟が居て、蕪村も何度か脚を運んでいる文書が残っている。
それらについては彼女は何も書いていないが、案内人も説明しなかったのか、知らなかったのか、あるいは彼女が無視したのか。

巻末に「あとがき」があって、そこには、こう書かれている。

   <芸術新潮に、二年間にわたって連載した随筆である。はじめは一年のつもりだったのが、
    とても入りきらなくて、長くなってしまった上、近畿地方だけのせまい範囲に終った。
    それでも充分書けなかったし、一生かかっても書きつくせるものではないと思う。
    先日、ラジオを聞いていたら、今西錦司氏が、「日本には風景学というものがあっても
    いいね」といっておられた。勿論、生物学の立場から、一つ一つの動物や昆虫について
    研究する人は沢山いても、植物や人類まで含めた大きな景色、たとえば高い山の上から
    三千世界を眺め渡すような、綜合的な学問があってもいいというような意味である。
    そこで、私は、はたと思い当ることがあった。私が漠然としたいと考えていたのは、
    まさしくそういうものではなかったか。あえて学問とはいうまい。・・・・・
    自然が語る言葉に耳をかたむけること、──二年間にわたって、私が無意識の中に、
    曲りなりにもつとめて来たのはそれであった。・・・・・・>

この本は気軽に読みたい。 エッセイなのだから。
図版も写真も地図も鮮明だから「愛蔵版」と銘打ってあるのも、うなずける。
本文の中で、彼女は書く。

     <秘境と呼ぶほど人里離れた山奥ではなく、ほんの
      ちょっと街道筋からそれた所に、今でも「かくれ里」
      の名にふさわしいような、ひっそりとした真空地帯
      があり、そういう所を歩くのが、私は好きなのである。>

この本の「主旨」は、この一文に尽きている。

コメント
コメント
sohya 様
お早うございます。
私も出身地は、現在の松山市には近いのですが、隠れ里的田舎です。近頃無性に田舎暮らし又は石垣島みたいな所で暮らしたいな~と思っている今日この頃です。
2010/10/21(木) 10:13:25 | URL | ももたろう #- [ 編集 ]
奥さんが、そんなところに住むのをどう言われますかね
■ももたろう様。
お早う、と言いたいところですが、もう昼ですね。
奥さんが、そんなところに住むのをどう言われますかね。
沖縄の八重山諸島は、いいところですがね。
石垣島は、いいです。
では、また。
2010/10/21(木) 10:46:53 | URL | sohya #- [ 編集 ]
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