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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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蒲公英(たんぽぽ)のほとりから沙無限かな・・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
0604042たんぽぽ

      蒲公英(たんぽぽ)のほとりから沙無限かな・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

この句は中国の西域の砂漠で詠んだ句かと思われる。
タンポポは強い草で砂地にも見られる。そのタンポポが咲いている、すぐ脇から果てしない砂漠の沙(すな)が無限に始まる。
大きな景を孕んだ句である。

加藤楸邨については今さらながら語るのは気が引けるが、水原秋桜子の「馬酔木」から出発し結社誌「寒雷」に拠って名句と数々の賞を得た。
以下、彼の句を引くが、その中には人口に膾炙した名句もある。私の好きな俳人である。
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 棉の実を摘みゐてうたふこともなし

 麦を踏む子の悲しみを父は知らず

 蟇誰かものいへ声かぎり

 長き長き春暁の貨車なつかしき

 耕牛やどこかかならず日本海

 雉子の眸(め)のかうかうとして売られけり

 死ねば野分生きてゐしかば争へり

 冷し馬の目がほのぼのと人を見る

 鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる

 ゆく雁や焦土が負へる日本の名

 雪ふりふる最後の一片たりえんと

 原爆図中口あくわれも口あく寒

 馬が目をひらいてゐたり雪夜にて

 山椒魚詩に逃げられし顔でのぞく

 無数蟻ゆく一つぐらゐは遁走せよ

 蝶踏んで身の匂はずや不破の関

 花を拾へばはなびらとなり沙羅双樹

 玫瑰が沈む湖底へ青の層

 驢馬の耳ひたひた動く生きて灼けて

 蟻の顔に口ありて声充満す

 梨食ふと目鼻片づけこの乙女

 繭に似て妻にいま詩がくるところ

 くすぐつたいぞ円空仏に子猫の手

 糞ころがしに砂漠の太陽顔を持つ

 バビロンに生きて糞ころがしは押す

 糸遊(かげろふ)のひとりあそびぬ壺の口

 たつた一つの朝顔にメンデリズム存す

 猫が子を咥へてあるく豪雨かな

 天の川わたるお多福豆一列

 百代の過客しんがりに猫の子も

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ネット上から下記を転載しておく。
b0013476_22452772加藤楸邨

加藤楸邨
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

加藤楸邨(かとう しゅうそん、1905年(明治38年)5月26日 ~ 1993年(平成5年)7月3日)は日本の俳人、国文学者。本名は加藤健雄。妻は俳人の加藤知世子。

略歴
東京市北千束(現・東京都大田区北千束)に生まれる。父が鉄道官吏であり出生直後に転勤となったため出生届は山梨県大月市で出された。父の転勤に伴い少年時代は関東、東北、北陸を転居した。1921年(大正10年)父の定年退職に伴い、母の郷里である石川県金沢市に転居、石川県立金沢第一中学校(現・石川県立金沢泉丘高等学校)へ転校。1923年(大正12年)金沢一中を卒業する。この頃はアララギ派や石川啄木など和歌に興味を抱いていた。1925年(大正14年)父の病死を期に一家揃って上京。1926年(大正15年)東京高等師範学校(現・筑波大学)に併設の東京高師第一臨時教員養成所国語漢文科に入学。

1929年(昭和4年)養成所を卒業し、埼玉県立粕壁中学校(現・埼玉県立春日部高等学校)の教員となる。同年、矢野チヨセ(後の俳人・加藤知世子)と結婚。 1931年(昭和6年)粕壁中学の同僚の勧めで俳句を始める。水原秋桜子の主宰する『馬酔木』に投句、秋桜子に師事する。1935年(昭和10年)馬酔木の同人となる。

1937年(昭和12年)中学を辞め家族を連れ東京に移住。秋桜子の勧めで『馬酔木』発行所に勤務しながら、東京文理科大学(現・筑波大学)国文科に進学。1940年(昭和15年)大学を卒業し、東京府立第八中学校(現・東京都立小山台高等学校)の教諭となる。俳誌『寒雷』を創刊し主宰となる。1942年(昭和17年)馬酔木を離脱。1944年(昭和19年)歌人の土屋文明らと中国に渡り戦地俳句を詠む。1946年(昭和21年)8月、休刊していた『寒雷』を1年8ヶ月ぶりに復刊。戦地俳句を詠んだことで大本営への協力を疑われ批判された。 1954年(昭和29年)青山学院女子短期大学の教授となり、1974年(昭和49年)まで務める。

1968年(昭和43年)句集『まぼろしの鹿』で第二回蛇笏賞を受賞。1986年(昭和61年)には妻のチヨセが死去。太平洋戦争中より始めた松尾芭蕉の研究などの功績により紫綬褒章、勲三等瑞宝章を叙勲した。1993年(平成5年)初頭に病を得て入院。7月3日永眠、享年88。死後の8月2日、従四位を追贈される。

楸邨は「真実感合」を唱え、人の内面心理を詠むことを追求し、中村草田男、石田波郷らと共に人間探求派と呼ばれた。

楸邨山脈
『寒雷』からは金子兜太、森澄雄、藤村多加夫、平井照敏、古沢太穂など多様な俳人が育った。
その多さと多様さとから、これを「楸邨山脈」という。
「寒雷」の後継者は、次男の嫁の加藤瑠璃子であるが、運営主体は同人の組織の暖響会であり、加藤瑠璃子は主宰でなく「選者」となっている。

作品

句集
寒雷(1940年)
穂高(1940年)
雪後の天(1943年)
火の記憶(1948年)
野哭(1948年)
起伏(1949年)
山脈(1950年)
まぼろしの鹿(1967年)
怒濤(1986年)

著書・作品集
芭蕉講座(1951年)
一茶秀句(1964年)
芭蕉全句(1969年)
奥の細道吟行(1974年)
芭蕉の山河(1980年)
加藤楸邨全集(1982年)
加藤楸邨初期評論集成(1992年)
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b0013476_22344577寒雷

ネット上の「埼玉の文学─現代篇─」を引用する。

古利根川に培った俳句精神

加藤楸邨(かとうしゅうそん)は昭和初期から平成5年6月88歳で亡くなるまで、60年あまりにわたって活躍した現代俳句界の巨匠である。水原秋櫻子の「馬酔木」から出発したが、第1句集 『寒雷』を刊行した翌年の昭和15年に、みずからも俳誌「寒雷」を創刊主宰し、平成5年7月号で通巻600号を数えた。中村草田男、そして同じ秋櫻子門の石田波郷らとともに 「人間探求(究)派」と称され、新しい現代俳句の潮流を形成した。この楸邨門からは、現俳壇で活躍している田川飛旅子、森澄雄、金子兜太、安藤次男、沢木欣一、原子公平、平井照敏、川崎展宏氏ら、枚挙に暇がないほどの作家を輩出している。楸邨亡きあと、「寒雷」は主宰をおかない形態で現在も発行されている。
加藤楸邨が生前に出した句集は12冊。敗戦までに4冊を出し、戦後は『火の記憶』、『野哭』、『まぼろしの鹿』(昭和42、第2回飯田蛇笏賞)、『怒濤』(昭和61・第12句集・第2回詩歌文学館賞)など8句集を出した。没後、最晩年の作品は遺句集『望岳』(角川書店)として平成8年にまとめられた。昭和49年まで青山女子短大の教授をつとめる。

 鰯雲人に告ぐべきことならず
 隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな
 火の奥に牡丹崩るるさまを見つ
 雉子の眸のかうかうとして売られけり
 鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる
 死ねば野分生きてゐしかば争へり
 落葉松はいつめざめても雪降りをり
 おぼろ夜のかたまりとしてものおもふ
 百代の過客しんがりに猫の子も
 ふくろふに真紅の手毬つかれをり
 
これらは、楸邨の代表作としてよく引かれる句である。いずれも作られた時代を背景において考えると、よく伝わってくるように思われる。1句目は戦争の足音が次第に高くなってきた頃の作である。2句目は後鳥羽院をモチーフに詠んだ200句近い連作「隠岐紀行」の1句。この連作は楸邨の句の世界を画した。3句目は20年の空襲の実景を詠んだもの。4、5句には敗戦直後の闇市の雰囲気が漂っている。6句目は大本営報道部嘱託として土屋文明らとともに大陸に渡り、多くの句( 『沙漠の鶴』)を詠んで、戦争責任を草田男や俳壇内外から問われた頃の作。7句目は病後の旅の作。こうしてみていくと、楸邨は社会的な存在としての自己をつよく認識して、真に表現せねばならない事を詠んできた作家と言える。楸邨は自身のこうした作句の態度を「真実感合」と称した。
句作のほか、戦中から始まった楸邨の芭蕉への傾倒は、『芭蕉講座』『芭蕉全句』『芭蕉の山河』などに結実し、芭蕉句の解釈に新機軸を打ち出した。その仕事は『加藤楸邨全集』(講談社・全14巻、昭和57年完結)、『加藤楸邨初期評論集成』(邑書林、全5巻、平成4年完結)などにまとめられている。また、その業績に対して紫綬褒章、勲三等瑞宝章、第1回現代俳句大賞、朝日賞などが与えられている。没後従四位に叙せられた。
加藤楸邨と埼玉との関わりは、その初期にさかのぼる。昭和4年から12年までの8年間、年齢では24歳から32歳頃に相当するが、楸邨は粕壁中学校(現県立春日部高校)で国語、漢文の教鞭をとっていたのである。そして、その俳句の原点もこの春日部時代にある。
楸邨は明治38年に東京で生まれた。父が国鉄に勤務していた関係で各地を転々とした。関東大震災の年に金沢一中を卒業したが、父病臥のため進学を断念し、石川県の松任小学校の代用教員の職に就く。父の没後生活は困窮したが、読書に没頭し東西の書物にふれる。あわせて歌作に励むようになり、アララギ派や石川啄木、万葉集の歌に親しんだ。その後、昭和4年3月に東京高等師範学校併設の第一臨時教員養成所の国語漢文科を卒業、4月に粕壁中学に赴任した。この年チヨセ(後の知世子、『寒雷』同人)と結婚した。この春日部時代について、楸邨は句集『寒雷』後記やエッセイ「新興俳句の出発」、「俳句との出合い」などで書いている。また水原秋櫻子が『寒雷』に寄せた序文も、この時期の楸邨と両者の出会いを知る上で貴重な資料である。

 私が俳句を始めたのは昭和6年で(『初期評論集成』の新年譜によると、5年の「馬酔
 木」にすでに楸邨の投句が確認できるとある。… …筆者注)、丁度水原先生が ホトト 
 ギスを離れ、新風を樹立しようとせられた時代である。私は学校を終へたばかりで、粕 
 壁中学校に職を奉じてゐた。中学の先生には小島十牛・飯塚両村先生、菊地 烏江・
 石井白村両君等がゐて、皆私より前から俳句を作つてゐた。菊地烏江の「俳句をやら
 ないとつきあはんぞ」といつたなつかしい言葉は今も耳にある。 (『寒雷』後記)

こうして楸邨は俳句の道へ入ったが、当初は短歌への未練がつよく身が入らなかった。しかし、職場の句会の作品を村上鬼城に送って選をしてもらっていた関係で鬼城の句集を読み、楸邨は俳句表現につよく惹かれるようになる。現在の春日部高校の記念館には、楸邨ゆかりの品を展示した一室がある。鬼城の句のほか、春日部での秋櫻子との出会いは、楸邨俳句にとって決定的なものとなった。

 その中に春日部の安孫子病院に、水原秋櫻子先生が医術の方の応援に来ているらし
 いという噂を聞いた。そこで私を俳句に引きこんだ菊地烏江や後に万葉集の英訳をやっ
 た石井白村等と医院の前で先生の見えられるのを待ち受けたのであった。
(「俳句との出合い」)

これが楸邨と秋櫻子との出会いである。文中の安孫子医院は、現在も春日部駅東口の同じ場所で開業している。以後、句会を持ったり、古利根川、元荒川、関宿、宝珠花、船戸の運河などを共に歩いたりして、秋櫻子を囲む場が春日部に形成されていく。この頃のことを秋櫻子も『寒雷』の序文で「……それからといふものは、私の粕壁行は医用のためか俳句用のためかわからなくなつてしまつた」と述べている。折しも、昭和6年は秋櫻子が「『自然の真』と『文芸上の真』」を書いて、虚子の「ホトトギス」から離脱するという、いわば近代俳句史上の事件の年であった。楸邨は、その時の俳句革新に賭ける秋櫻子の意気込みや苦悩を春日部の地で共有したのである。句集『寒雷』は「古利根抄」「愛林抄」「都塵抄」の3章で構成されているが、「古利根抄」の作について楸邨は「……新しく動かうとしてゐた動向に接した私の心が、その美しき世界に、ひたすら歩み入らうとした頃のものである」と言い、「私はどうかすると、先生の目を通して物を見てゐたのではないかとさへ思ふ」(『寒雷』後記)と語っている。
楸邨と秋櫻子が幾度も並んで眺めたであろう古利根川は、梅雨晴れの空の下に変わることなく豊かに流れていた。川のほとりを歩きながら、楸邨の句碑の一つもないのが惜しまれた。

「古利根抄」の作品から任意に引いてみる。括弧内には詠んだ地を示した。

 棉の実を摘みゐてうたふこともなし
 渡舟守いとまのあれや麦ふみに
 下ろす音ひそかなり霧の夜は
 山茶花のこぼれつぐなり夜も見ゆ (以上、古利根)
 隅田川あかるき落穂沈めけり (古隅田川)
 降る雪にさめて羽ばたく鴨のあり 
 畦凍てて洲にかへるなり小田の鴨 (元荒川)
 行きゆきて深雪の利根の船に逢ふ
 暗き帆の垂れて雪つむみなとかな (船戸)
 関の址いまは蓮の枯るるのみ
 径のべに螢こぼれぬ早稲の風 (関宿)

 のちの生活や内面を詠んだ句風と違い、「古利根抄」は自然観照に徹した詠みぶりが歴然としている。短歌的詠法と秋櫻子の抒情への傾倒が色濃い作品群である。
このほか 『寒雷』には、岩槻城址、武蔵嵐山、埼玉沼、川越の喜多院での作もみられる。また、第3句集『穂高』にも、「古利根河畔吟」と題した同時期の作が多数収められている。
楸邨は昭和12年に上京することになるが、こよなく愛した春日部の自然を背景として、その初期の世界がきずかれた。

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