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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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高階杞一詩集『ティッシュの鉄人』から・・・・・・・・・木村草弥
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──高階杞一の詩──(2)

高階杞一詩集『ティッシュの鉄人』

  ティッシュの鉄人(部分)・・・・・・・高階杞一

    7 錆

    死が
    やっと間近に見えてきた

    まだ に
    もう が おいついた

    新しい季節に花はまたいっぱい咲くだろう
    草もいっぱい生えるだろう
    その時
    僕はもうここにはいない

    恋人よ
    循環するね

    見えないものが
    壊れていくね

        見えますかあ
        見えますよおおおおおおおおおおおおおお

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「ティッシュの鉄人」という題名の付け方が秀逸である。
この詩集の概要は以下の通り。

発行日:2003年8月31日。 第9詩集。
発行所:詩学社
収録編数:18編
作品制作年:1997年~2000年
表紙及び扉の装画:長谷川義史
定価:1900円(税別)

「スペインの建築家アントニオ・ガウディのことが気になっている。あのまるで
異星人が生み出したかのような奇妙な曲線を言葉に移しかえるにはどうした
らいいんだろうと」(あとがきより)
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●詩批評●高階杞一詩集『ティッシュの鉄人』を読む まぼろしの聖家族を求めて──山田兼士(「別冊・詩の発見」創刊号、2005,04,25 より)

 宮澤賢治の童話「よだかの星」の末尾近くの描写は、方向感覚喪失の詩的形象としてきわめてすぐれたものだ。絶望のあまり無謀な上昇を続けた「よだか」が最後に力尽きて落下(?)する場面である。

もうよだかは落ちてゐるのか、のぼってゐるのか、さかさになってゐるのか、上を向いてゐるのかも、わかりませんでした。

 上昇と下降の区別を意図的に混乱させたこの一節がなければ、よだかが「青い美しい光になって」「カシオピア座」のとなりで「いつまでもいつまでも燃えつゞけ」るという清澄なエンディングはリアリティを持ち得ないだろうし、そもそもそのエンディングが書かれたかどうかも疑わしいだろう。この、垂直軸における方向感覚の意図的混乱もしくは喪失、という方法がこの作品の要である。ここには、絶望が瞬時に希望になり悲しみが喜びに転化するという、詩的想像のマジックがごく端的に示されている。
 高階杞一の詩集『ティッシュの鉄人』の巻頭作もまた、これと同様の詩的マジックを効果的に用いた作品だ。

噛んじゃダメ
このビルはまだそれほどおいしくないし
窓だってまだいっぱいある
上から下へのぼっていくと
どんどん世界が老けていく
高いね
こんな所から落ちたら死ぬね (「聖夜/天使が/空で」冒頭)

 まずタイトルが、「聖夜」という時と「天使」という主語と「空」という場所を示すことで、空から地への天使の下降を描いていることがわかる。だが、開始早々に描かれる天使はビルを噛み窓をいやがるという理不尽さで早くも読者を当惑させ、さらに四行目で「上から下へのぼっていく」と、上下関係の意図的混乱を描くことで、読者の理性的読解に激しく揺さぶりをかける。この困惑と動揺が詩を詩として読むための第一条件であるかのように、続く作品群では、新たな非常識や不条理が、高階作品独特の軽やかなユーモアを伴いながら、次々と読者を方向感覚喪失へと導いていく。例えば、

在って無いもの
スリッパの片方だけのようなもの
どこからか
突然
崩れ落ちてくる

のようなもの    (「タマだか/壁/のようなもの」末尾)

というように、ごく身近なモノが「在って無いもの」という存在論的不条理を代表し、続いて畳みかけるように突然の垂直的崩壊が描かれる時、読者の日常感覚は日常性を失わないまま一挙に非日常的な世界観へと引っ張り込まれることになる。単に「壁」と呼ばずに「壁のようなもの」と輪郭を故意に曖昧にするのは高階作品の常套手段だ。同様に、

手を放したら落ちていった
声より先に
ちょっと涙も落ちた
でも(天気予報は何て言ってた?)
今日は誰も来ないでしょう
ひとりでいると
ストローが
勝手に空へ向かってのびていく
こんな
吸われる今日は何だかコップのようだった
(「コップ/の/日」冒頭)

というような始まり方をする作品では、「僕」や「私」といった主語をあえて用いないことで「コップ」の擬人化をいとも簡単に実現している。ここで要になるのが「勝手に空へ向かってのびていく」「ストロー」の奇妙にリアルな存在だ。不条理のリアリティを細部で支える存在である。
 このような方向感覚の喪失は、もちろん、垂直軸だけに限られるのではない。水平軸での方向感覚喪失もまた、高階作品に頻繁に描かれるモチーフである。

それはまるで昨日の道のようでした
左へ曲がり
さらに左へ曲がり
まっすぐどこまでも折れ続け
あけるといちめんの空でした
            (「晴天/朝/そして」部分)

「まっすぐどこまでも折れ続け」とは、この上なく簡潔な異次元空間の描写ではないだろうか。垂直軸においても水平軸においても日常の感覚をあっさりと乗り越える高階マジックは、さらに、様々な線を交錯させることでいっそう異世界のリアリティを強くする。

牛と
河馬と
どちらが世界か
みんなして対面していた
時折どこからか縦や斜めが降ってきて
壊れたものもいくつかあったが
もうわたしたちは帰ります
(中略)
後に残った
牛と
河馬と
わたしが並んで
上を見ていた
上の
すこしずつ消えていくものを考えていた  (「天/高く」)

「みんなして対面」というのがそもそも単純なようで複雑な空間構造だが、そこに「縦や斜めが降ってきて」世界が次第に消滅する。とんでもない大破局がいともあっさりと表現されるのも、方向感覚喪失を引き起こす高階マジックによるものだろう。最後に「上を」見ることで天空の消滅まで描かれて作品は終る。
 上下左右前後、さらには(ここでは言及しないが)内外と自他までが自在に交換し合い交錯し混合することで独自の異世界を柔軟に創出するのが高階杞一の空間マジックだ。このような異世界の輪郭を、高階自身が詩集「あとがき」でアントニオ・ガウディの建築になぞらえている。「あのまるで異星人が生み出したかのような奇妙な曲線を言葉に移しかえるのはどうしたらいいんだろう」と。

 高階杞一の『ティッシュの鉄人』(二〇〇三年、詩学社)は全十八篇から成る詩集。うち七篇が六か七あるいは十の短詩(中には相当長いものもあるが)による組詩になっており、その構造はかなり複雑だが、概略を記すことにする。まず「I」の八篇はいずれも見開き二ページに収まるオーソドックスなスタイルの行分け詩。「II」の四篇のうち三篇は「I」と同様だが「窓辺のあぶく」一篇のみが「1」から「10」まで番号を付された組詩(初出は最も古く一九八七年)である。そして「III」の六篇はいずれも組詩で、巻末作品を除く五篇は散文のスタイルを取っている。連想が連想を呼ぶ悪夢世界だ。
 以上のような概要から、この詩集は主に三種類の構造体から成ると見てよさそうだ。第一は言うまでもなく目次に記された「I」II」「III」の三章構成が示す三層構造。第二に、組詩と単独詩の対立構造、そして第三は行分け詩と散文詩の対立構造。以上三種類の構造が、ガウディの「サグラダ・ファミリア聖堂」の構造原理ときわめて近い類縁関係にあるのではないか、というのが私見による仮説である(その構造を支える最大の要因が、意図的な方向喪失による立体迷路の創出にほかならない)。
 まず、三章構成については、「I」を建築の上層部分にあたる構造に見立てることができる。垂直軸を中心とする立体迷路の空間である。これに対してすべて組詩から成る「III」は、地上を彷徨する男が夢の中の日常のように次々と奇妙な体験を経た後に使い古しの「鉄人」になって「死」を間近に控えつつ「循環する」(「ティッシュの鉄人」)世界を歩き続ける(現代人そのものの喩でもあるかのような)姿を描いて終わっている。「III」の章は概ね水平軸を中心とした地上の迷路と見ていいだろう。「II」の章は上層階と下層階の中間に置かれた中二階のような空間、と言えばいいだろうか(サグラダ・ファミリア聖堂のこの部分にはたしか礼拝室があったと記憶している)。散文詩と行分け詩が混在する「窓辺のあぶく」は過去の時間の導入による境界領域の出現である。
 単独詩と組詩の対立は、そのまま「I」章と「III」章の対立に呼応するかのように、天上的静謐と地上的混沌を暗示している。複雑な線を捨象して単純な線のみの静止画像で日常の中の非日常を描き出した作品群と、夢の中でいっそう複雑化した日常を力動的な動画作品として描き出した作品群、と言えばいいだろうか。これもまた、サグラダ・ファミリア聖堂のスタティックな装飾美とダイナミックな空間構造との対立に呼応する。
 最後に、散文詩と行分け詩の対立もまた、細部の描写を追究する写実的な執拗さと、能う限り抽象化した線で普遍を目指す暗示的な簡潔さ、といった対立に還元することができる。この対立が同一空間に共存することで醸し出される具象と抽象の双曲線こそがこの構造体の秘密である。
 サグラダ・ファミリア聖堂は二十年ほど前に一度訪れたことがある。工事用エレベーターで塔の天辺あたりまで昇ったのは、高所恐怖症の私としては稀少な体験だ。上昇しているかと思えば下降し、下降しているかと思えば上昇し、隣の塔に行こうと思えばとてつもなく遠回りを強いられ、といった立体迷路の中では、次の瞬間に何が現れても不思議はない奇妙な感覚に襲われる。着工後百二十年以上経った現在もなお、いつ完成するのかだれにもわからないとのことだが、そもそもこの建築に「完成」ということはあるのだろうか。「永久の未完成これ完成である」と言った宮澤賢治の「四次元芸術」のように、この建造物こそ目の前に具現する永遠の未完ではないか、と考えたくなる。高階杞一のことばが構築する異世界もまた、これと同様の未完世界にして四次元芸術なのではないか。
 では、このような立体迷路の中で詩人はいったい何を求めて書き続けているのか。夢と現実が同じ資格で共存するしかなく、天上と地上がかろうじて化合し得るような、また、過去と現在が交じり合うことで彼岸と此岸が交感可能になるような、空間の創出である。異空間そのものであるようなそんな詩空間でこそ、生者は死者と共に生きることができる。別れた愛しい人ともまた。まぼろしの聖家族(サグラダ・ファミリア)を求めて、詩人は異形の建築を創り続けるのだ。
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 ↑ 山田兼士の書評を引いておいた。


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