
乾盃の唄・・・・・・・・・・・・・・・・・川崎洋
飲みはじめてから
酔いが一応のレベルに達することを
熊本で
「おさが湿る」というそうな
「おさ」は鰓(えら)である
きみも魚おれも魚
あの女も魚
ヒトはみな形を変えた魚である
いま この肥後ことばの背後にさっとひろがった海へ
還ろう
やがて われらの肋骨の間を
マッコウクジラの大群が通過しはじめ
落日の火色が食道を赤赤と照らすだろう
飲めぬ奴は
陸(おか)へあがって
知的なことなんぞ呟いておれ
いざ盃を
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この詩を見るかぎりでは、川崎洋は、結構な「呑んべえ」だったらしい。
「飲めぬ奴は/陸へあがって/知的なことなんぞ呟いておれ」というところなど、痛快である。
この詩の解説で彼は
<川崎洋>は本名である。生まれたのは東京都大森(現大田区)で、大森海岸に近い。太平洋戦争中、中学二年の時、父の郷里である福岡県へ転居した。有明海に臨む筑後の地で、ここで私は敗戦をはさむ七年間を過ごした後、現住地の神奈川県横須賀市に居を移し現在に到る。横須賀はご存じのように東京湾に面した市だ。
つまり私はずーっと海の近くに住み続けてきたことになる。体が潮を含んだ空気に馴染んでいて、生理的に安らぐからだろうが、そればかりではないような気がする。
日本民族は各地からやってきた諸民族の混交だとはよく言われるところだが、だとすると私は、南太平洋地域から流入した祖先の血をかなり色濃く受け継いでいるように思えてならない。・・・・南へは、行けば行くほど精神は弛緩し、手足はのびのびとする。南の持つ楽天性、向日性、陽気・・・。私の嗜好を並べ立てれば、たぶん歳時記の<夏>に属する項目が目につくだろう。
この詩は、私のなかの南が書かせたに違いないと、不出来の責任を祖先になすりつけたいというのが、いまの心境である。
と書いている。
川崎洋は1930年1月26日生まれで、2004年10月21日に死んだ。
私は彼より年長だと思っていたが、調べてみると私は同年の2月7日生まれだから彼の方が数日早く生まれている。
彼の詩は言葉はわかりやすいが、内容に深遠な思想を湛えているものがある。それについては後日に機会があれば紹介したい。

「盃」などの酒器の写真を載せたが、私は酒は嗜む程度だが、老年期になるまでは日本酒が嫌で、鼻の先に持ってくるだけで不快でビールなどを飲んでいたが、
不思議なことに老年になるとビールを飲むと腹が冷えて、また腹がふくれるばかりで好みではなくなった。
その代わりに日本酒が嫌でなくなり、チビチビと小さい盃で飲むのが性に合ってきた。
加齢によって嗜好も変るのである。
ただし、深酒をして酔いつぶれる人が身近にいて苦労したので、いわゆる「酒飲み」は嫌いである。
少量の酒を肴に文学論など戦わせるような酒が、よい。
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