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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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山田兼士・詩集『微光と煙』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
山田憲士

──山田兼士の詩と詩論──(1)

      山田兼士・詩集『微光と煙』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                     ・・・・・・・・思潮社2009/09刊・・・・・・・・・

先ず初めに、この本から「微光と煙、また」という詩を引いておく。
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               微光と煙、また

 二〇〇五年秋。大阪天王寺にモンペリエ・ファーブル美術館展がやって来た。半年前に東京新宿ビル四十二階の美術館で見た詩人の肖像画をもう一度見ようと、ぼくは駅を出たところだ。美術館に行くには阿倍野橋を渡らなければならない。橋、といっても川があるわけではない。何条もの線路が走る谷間にかかる橋だ。詩人が歩いたセーヌの橋とはまるでちがう。湯沸かし器が転がっていたりして。西に傾いた太陽の方に走り去る列車を横目で見ながら、橋を渡って天王寺公園の入り口に着く。

 チケットを示して有料ゲートを抜けると「フェルメールの小径」がある。フェルメール展の時に造られた通路だが、要するに偏狭な近道にすぎない(迷路みたいな)。本当は噴水のある公園内を抜けて行くのが好きなのだが、時間を気にしてつい近道を選んでしまう。日本庭園の片隅を過って美術館の表にまわると、石造りの玄関が目に入る。東京の美術館とは対照的に、かなり古い建物だ。十九世紀半ばあたりまでの絵画には、こちらの方がふさわしい。どことなくモンペリエの美術館と似ている。

 目当ての肖像画は、会場の中ほど、陽の射さない一画にあった。照明もかなり暗い。明るすぎた東京の美術館で居心地悪そうにしていた詩人が、ここではゆったり寛いでいるように見える。ガウン姿でネッカチーフを巻きパイプをくわえて(館内禁煙)読書するおなじみのポーズで。ソファに置かれた左手にだけは力がこめられているが、これは詩人の意志を暗示しているのだろうか。

 美術批評家でもある詩人は、これより十年ほど後に、天才的な肖像画家にのみ許される「ロマネスクな要素」について「軽やかで空気のような背景、詩的な家具、ぐったりした姿勢、大胆な態度、等々」と書いている。パイプ、本、ソファ、机、ペン立て……いずれも詩人の内面を暗示するロマネスクな要素といえるだろう。もっとも、ここに描かれた机とソファが「詩的な家具」かどうかは疑問だ。これより更に数年後、詩人は理想の家具を、

《家具はみな、長々と伸びて、ぐったりと横たわり、物憂げな様子をしている。家具たちは夢を見ているようだ。植物や鉱物のように、夢遊病的な生命を与えられている、とでもいえばいいだろうか。織物たちは沈黙の言語を話している、まるで花のように、天空のように、落日のように。》

と、書くことになる。理想的な部屋の理想的な家具たちだ。クールベにここまで期待するのは無理だった。たとえばコローなら……詩的風景画の数々が脳裏に浮かぶ……あの手法で肖像画を描いてくれるなら……《夢想にも似た部屋、本当に霊的な部屋》にくつろぐ姿を思い描いてみる。

《そこでは澱んだ空気が淡く薔薇色と青色に染まっている。/魂はそこで、悔恨と欲望に風味付けられた怠惰に湯浴みする。――それは何か黄昏めいて、青みがかり薔薇色がかったもの、日蝕の間の悦楽の夢ともいうべきものだ。》

 このような部屋には煙がふさわしい。パイプの口から立ち昇るごく微かな芳香を伴った煙が。自分自身が気化して宙を漂うような感覚をもたらしてくれる、阿片とハシシュの代替物であるあの煙。

《この上なく繊細に選定されたごく微量の芳香が、ほんの僅かな湿り気に混じってこの大気の中を漂い、そこでまどろむ精神は、温室さながらの感覚にうっとり揺られている。》

 目の前の絵にもう一つの絵を重ねて、二重の肖像画を思い描いてみる。例えばコローの「青衣の婦人」の背景にクールベの「ボードレールの肖像」を重ねて。

 外に出ると陽はすっかり傾いて、通天閣の後ろに今にも消え入りそう。薔薇色と青色のネオンサインを一瞥してから、前を歩く男の背中をぼんやり見ていると、白い煙がゆるやかに流れてくる(構内禁煙)。湿った芳香がかすかに漂ってくる。いくぶん脚を引き摺ってフェルメールの小径に向かうその人物は、見慣れた例のガウンを纏ってネッカチーフを巻いている。ぼくは足を速めて後を追う。庭園の片隅を抜けて。偏狭な迷路を抜けて川に出て、橋を渡ってパリの路地へと。


*《 》内はボードレールの散文詩「二重の部屋」からの引用。「微光と煙」は後に『パリの憂愁』と呼ばれる散文詩集表題原案の一つ。
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以下の文章はネット上に載る 瀬崎 祐さんのこの本についてのコメントの引用である。
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詩集「微光と煙」
 帯には第1詩集と書かれているのだが、中を開いてまずは戸惑う。これが詩論集ではなく、詩集? 27タイトルの作品が収められているのだが、その大部分はボードレールやコクトー、中原中也、小野十三郎などについての文章である。そして書の後半になり、幾つかの詩の形をとったものが収められている。散文は「八島賢太」名で発表されており、「あとがき」によれば「近現代の詩人達との対話を<詩論詩>として成立させ」ようとしたとのこと。

 「石蹴りの少女と葦の地方」は神戸から京都に向かう車中のジャン・コクトーと、河原にいる小野十三郎の視線が交叉するという一編。

   葦原を背に工場群を見詰める男がいる。汽車が通過しようとするその瞬間、
   男がふと振り返る。一瞬、二人の視線が交叉する。人を見るまなざしと物を
   見るまなざしが、窓ガラスを隔てて雷鳴を轟かせる。無数の葦が揺れ動き
   「ガラス管(チューブ)」のように光りだす。ガラスが静かに砕け散る。
                  (「石蹴りの少女と葦の地方」最終部分)

 <詩論詩>とは興味深い試みである。そこにあるのは、詩論を誰のために何を求めて書いているのかという、非常に原初的とも言える命題である。著者は詩論を書くために「自らは詩を書かないという姿勢を貫いてきた」とのことだが、この1冊を詩集として提示するという気持ちには、詩論を書くという行為が詩を書くという行為と同じ意味あいであっったことを認めたからであろう。ここにあるのはもう散文詩と言ってもよいのかもしれない。
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私の感想を言う前に、瀬崎 祐さんの文章を引いた無礼をお許しいただきたい。
私の言うべきことが、ここには要約されているからである。
ここに書かれているように、この本は特異なもので、著者も<詩論詩>という新しい地平を切り開く気なのではないか。
このような試みは、岡井隆『注解する者』(思潮社刊2009/07/25)にも見られた。
岡井の本の初出は「現代詩手帖」2008/01~2009/02に連載したものであるから、ほぼ同じような時期に書かれたものと言え、興味ふかいものがある。
岡井のこの本は後に「高見順」賞を得ている。これによって「注解詩」というべき新しい境地が開かれたなどと言われた。

「大阪文学学校」というサイトでは山田兼士の顔写真も見られる。そこに載る記事で彼の著作とコメントが読める。
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山田 兼士(やまだけんじ)
1953年生

☆詩集『微光と煙』(思潮社)。著書『小野十三郎論』『ボードレールの詩学』『ボードレール《パリの憂愁》論』(いずれも砂子屋書房)『抒情の宿命・詩の行方――朔太郎・賢治・中也』(思潮社)『百年のフランス詩』(澪標)『谷川俊太郎の詩学』(思潮社)『詩の現在を読む』(澪標)。編著『小野十三郎を読む』(共編、思潮社)『歌う!ボードレール』(同朋舎)『対訳フランス歌曲詩集』(彼方社)。共著『萩原朔太郎の世界』(砂子屋書房)等。翻訳『ボードレールと「パリの憂愁」』(ヒドルストン著、沖積舎)『フランス歌曲の珠玉』(ル・ルー著、共訳、春秋社)『オレゴンの旅』『エヴァ』(文ラスカル、絵ジョスの絵本、セーラー出版社)。大阪文学協会理事。関西学院大学卒。大阪芸術大学教授。

★詩論家に必要な唯一の使命は「詩人の鏡であること」だと考えています。その鏡を磨きながら、あらゆる表現領域に通底する(はずの)ポエジーを発見する旅こそ己の天職(?)と認識しつつ、散文詩、ライトヴァース、歌詞といった(比較的)周縁に位置すると考えられているポエジーと、いわゆる純粋詩との間を、なんとか往復し続けていたいと思っています。多様性と一貫性の間を揺れ動きながら、ですが。

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