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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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山田兼士『百年のフランス詩』─ボードレールからシュルレアリスムまで・・・・・・・・・木村草弥
山田憲士②

──山田兼士の詩と詩論──(2)

     山田兼士『百年のフランス詩』─ボードレールからシュルレアリスムまで・・・・・・・・・木村草弥
                   ・・・・・・・澪標2009/05/20刊・・・・・・・・・
この本は、今はもう無くなったが月刊「詩学」2003/01~2006/04号まで全36回にわたって連載された「フランス詩を読む─ボードレールからシュルレアリスムまで」に加筆修正を施したものだ、という。

先ずはじめにネット上で見られる細見和之の、この本の紹介を引いておく。
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        山田兼士『百年のフランス詩――ボードレールからシュルレアリスムまで』

         七つの引き出しをもつ書物(「樹林」2009年秋号より)  細見和之

 本書はタイトルにあるように、ボードレールからヴェルレーヌやランボーを経てブルトン、エリュアールのシュルレアリスムまで、じつに百年におよぶフランスの近現代詩の流れを、対訳形式で追ったものである。その百年の歴史を彩る、二六人の詩人、三六篇の詩の原文と著者自身による翻訳を見開きの形で掲載した部分、それが本書の骨格を形づくっている。読者にとっては懐かしい詩人もあれば、未知の詩人もあるだろう。ランボーやヴェルレーヌあたりからぱらぱらめくってもいいし、最初からきちんと通読してもよい。各作品に添えられた、詩人紹介と作品解説は、文字どおり読者にとってフランス詩への手ほどきとなるはずだ。

 同時に本書は、いろんな仕掛け、引き出しをそなえている。私がざっと数えただけでも七つぐらいはありそうだ。

(1)ボードレール、とりわけその後期の「散文詩」を軸に、「ボードレールから始まる現代詩」という詩観・詩論をもつ著者によって、フランス詩百年の歴史に明確な輪郭が与えられていること。それぞれの詩人と作品はたんに年代順に網羅されているのではないのだ。これによって、ロートレアモン『マルドロールの歌』のような出所不明の作品も、収まるところに収まるという印象になる。

(2)とはいえ、本書はいかめしい「フランス文学史」の本ではない。とくにアポリネール、プレヴェールあたりはシャンソンとして歌われる作品が採られている。現代詩を同時に「歌」と地続きのものとして捉えること、そこにも著者の詩観・詩論が生きているのだが、ここではそれが、フランス詩を親しみのある日常的なものとして受けとめようという姿勢と結びついている。プレヴェールの「バルバラ」なんかやっぱり泣ける。これとマラルメの「海の微風」を等距離で感覚すること。この視点はとてもだいじだ。謎めいたロートレアモンも難解な印象のマラルメも、著者の翻訳と解説で読むと、なにかとても軽やかだ。

(3)その「歌」の訳でもそうなのだが、それぞれの翻訳にずいぶん工夫が凝らされている。シャンソンになっている作品では実際に唄える形での新たな「訳詞」が心がけられているし、しばしば脚韻の再現もなされている。もちろん、日本語での脚韻による再現には無理があるのだが、著者の翻訳は、苦心惨憺というよりも一種の遊び心を伝えてくれるようだ。いっちょおれもやってみようか、という気にさせてくれるのである。

(4)たとえば、ゴダールの映画でロートレアモン『マルドロールの歌』の一節が朗読されていたシーンの紹介など、サブカルチャーとフランス詩のゆたかな結びつきを想起させること。日本でも寺山修司全盛のころにはいくらもありえたことだろうが、いまでは現代詩が映画やテレビで朗読されるシーンはちょっと考えにくいだろう。これは(2)と関わって、現代詩を日常的なものにしたいという著者の願望をも伝えているに違いない。

(5)作品解説において、随所で日本の詩人、作家が引き合いに出されている。いちばん多いのは谷川俊太郎だが、萩原朔太郎、中原中也、宮沢賢治、さらには小野十三郎、村上春樹が、たんにフランス詩からの影響ではなく、詩人として、作家としての体質という観点でも論じられている。その意味でこの本は、同時に「百年の日本詩」という性格をひそかにそなえている。とくに谷川俊太郎と小野十三郎の絡みは、大阪文学学校の関係者には意外であるとともに、とても親しみやすい切り口だろう。

(6)最後の九篇として収められているのはいずれも「散文詩」であって、ボードレールの『パリの憂愁』に始まる表現形態を現代詩の本質として理解する、という姿勢があらためて打ち出されている。個人的にはマラルメの『ディヴァガシオン』が好きな私は「パイプ」の孤独な痛みに打たれたが、「詩論詩」という著者自身が実作で提示してきた作品形態へとそれは収斂するのである(これについては、著者の試みが間もなく詩集として結実するはずだ)。

(7)ロートレアモン『マルドロールの歌』に始まってボードレール『パリの憂愁』において本格化した著者自身のフランス詩体験、ひいては現代詩体験を伝える、一種の自伝的な本でもあること。これはこの一冊からは見えにくいことかもしれないが、他の著者の本と照らせば明らかだ。ゆたかな学識を背景にしながらも本書の記述がけっして重くないのは、著者自身がいわば好奇心に駆られるままに接してきた作品体験が根底にあるからだと思う。

 ざっと七つの仕掛けないしは引き出しをあげてみた(開けてみた)。全体で一五〇頁足らずの本に、最低限これだけの襞が抱え込まれている。いや、ほんとうはもうひとつある。

本書の原型はいまでは廃刊になってしまった月刊の詩誌『詩学』に二〇〇三年から二〇〇六年にかけて連載されたものだ。当時、『詩学』の編集も、その発行元である詩学社自体も、大阪文学学校に在籍していたことのある詩人寺西幹仁が懸命に支えていた。詩学社最後の社主として『詩学』を廃刊することにもなった寺西は、その後不意に病死してしまった。『副題 太陽の花』という詩集を刊行した寺西は、私の同世代で、なにより詩が好きな男だった。私は本書を読みながら、これを編むことは寺西への著者なりの追悼であるという印象を拭えないのだ。

最後に、その寺西幹仁への追悼の意味もこめて、本書からプレヴェール「バルバラ」の一節を引用しておきたい。

思い出せバルバラ

あの日

雨が降った

幸せそうな

きみの顔に

町に海に

船にも

やさしい雨が

おおバルバラ

バカな戦争が

ふたりを分けた

鉄の雨

火の雨が降った

きみをいとしく抱いた

あの人は

生きているのか死んでしまったのか
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細見和之
ほそみ・かずゆき
1962年生まれ。大阪大学大学院人間科学研究科博士課程修了、現在 大阪府立大学人間社会学部教授。博士(人間科学、大阪大学)。ドイツ思想専攻、詩人。主な著書に『アドルノ』(講談社)『アドルノの場所』『ポップミュージックで社会科』(以上、みすず書房)『アイデンティティ/他者性』『言葉と記憶』『ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む』(以上、岩波書店)。主な訳者にべンヤミン『パサージュ論』(共訳、岩波現代文庫)、アドルノ『否定弁証法講義』(共訳、作品社)、ヨーナス『生命の哲学』(共訳、法政大学出版局)。主な詩集に『言葉の岸』(思潮社)、『ホッチキス』(書肆山田)などがある。

山田憲士③
高階杞一、細見和之、山田兼士、四元康祐の四人を編集同人として『びーぐる─詩の海へ』(季刊・澪標刊)という詩と詩論の雑誌を出している。
↑ 最新号(2010/10)は「詩人の遺言/死と詩人」という特集だった。
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もうひとつ下記の書評を引いておく。
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  山田兼士『百年のフランス詩』書評 フランス詩の窓から 文月悠光(「現代詩手帖」2009年9月号より)         

フランス詩を代表する二十六の詩人の紹介と、詩三十六篇の対訳、日本現代詩との接点に触れた解説文から成る一冊である。フランス詩入門書としての性格を持ち合わせながら、解説の言葉はそれ自体に深入りしない。むしろ、フランス詩の百年間を通して、今日に受け継がれる日本現代詩の精神を解き明かしている。また特筆すべきは、翻訳に対する著者の細やかな心遣いだ。原語特有である韻文詩のリズムを再現すべく、日本語と果敢に戦う。対訳という、逃げ場のない形式を自らに課して、訳詩のはかり知れない奥深さを読者に示している。

各詩人の肖像画や自画像なども、対訳と同様にこの本を際立たせている。時代によるものなのか、写真など、詩人の顔そのものをはっきり観察できるものはあまり用いられていない。しかし、ときに緻密で、ときに大胆な肖像画たちは、その詩人独特の雰囲気を強く醸し出している。ヴェルレーヌが描いたランボーを見れば、「そんなにパイプを吹かしたいか」という突っ込みは必至であろうし、コクトーの自画像(こけた頬、二つの目から放たれる激しい光線)に関しては「怪人」としか言いようがない。ダリやマネ、ピカソによる肖像も多く、詩人と画家の間に築かれていた交友関係も窺うことができる。

 対訳の中から、ユゴーの「開いた窓」、ボードレールの「窓」を紹介したい。前者は朝方ベッドの中でまどろみながら、窓から入り込む外界の音を追いかけた、聴覚のみから成る作品である。「フランス語の声。メルシー。/ボンジュール。アデュー」とは素直で面白い。一方、散文詩である後者は「開いた窓を通して外から見る人には、閉じた窓を見る人ほどに多くのものが見えることは決してない」という逆説的な一文から始まる。引き籠もりがちなある女性の人生を、彼女の家の窓から僅かに観察できる容貌や所作を頼りに作り上げた・僕・は、その仮想の物語を自分自身に同化させる。それを可能にしたのは、窓の切り取る不鮮明な像に、彼が想像を掻き立てられたからに他ならない。その点に留意してこの詩を読み解いていけば、一つの感覚を失うことは、想像力や他の感覚を逆に研ぎ澄ませることが発見できる。それは、音だけで率直に世界を捉えたユゴーの作品にもいえる。確たる感覚を持つことが、描写への近道ではない。くっきりと結ばれた像が、忘れ難い印象を残すとは限らない。強い言葉の集合体が、読者の心を打ち抜く一篇になりえないように。

あらゆる物を克明に写しすぎた、暴きすぎた現代社会は、何か大事な事柄を見落としているように思える。如何にもそれらしく見える虚像に騙されてはならない。今こそ窓ガラスを一枚差し入れるときだ。目の前にある事物を絶えず疑い、真実を手繰り寄せていく詩人の姿勢が必要なのだ。彼らの曖昧な肖像は、そのことを一種の希望と共に呈している。

僕の外にある現実なんかどうでもいいだろう?それが僕が生きることを助け、僕があることを、また僕が何であるかを、感じる助けになったのなら。

  (シャルル・ボードレール「窓」結び)


 フランス詩の窓から、日本の現代詩が見えてくる。

文月悠光については← Wikipediaに詳しい。
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他人の文章の引用ばかりで申し訳ないが、これらの文章に見事に要約されているのでお許しを。
この本にはイラストや写真、詩の原文などが配置され、さぞや編集者は苦労しただろうと思われる凝った本である。一度試されよ。
かつて大昔に、フランス文学の一端を齧ったものとして、座右に置いて、ぼつぼつと読み進めている。

なお「山田兼士の研究室」というサイトをお持ちである。アクセスされたい。

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