夏の終り・・・・・・・・・・・・・・・大岡信
夜ふけ洗面器の水を流す
地中の管をおもむろに移り
遠ざかってゆく澄んだ響き
一日の終りに聞くわたしの音が
たかまるシンフォニー
節まわしたくみな歌でないことの
ふしぎななぐさめ
キュウリの種子
魚の眼玉
ケラの歌
《ほろび》というなつかしい響き
それらに空気の枝のようにさわりながら
水といっしょに下水管をつたい
闇にむかって開かれてゆく
わたしひとりの眼
ひと夏はこのようにして埋葬される
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夏の終りというものは何となく寂しいものである。
そういう夏を送る心象を巧みに一編の詩にまとめあげた。言葉の選択も的確である。
この詩は学習研究社の大岡信編の『うたの歳時記』2・「夏のうた」(1986年5月刊)に書き下ろしとして載る大岡信の作品である。
「うたの歳時記」と表記して「うた」としてある所がミソで、短詩形の俳句、川柳、短歌、短詩いずれにも当てはまるように「うた」と表記されているのである。
純現代詩人としての大岡の詩は決して平易なものではないが、このシリーズの性格──読者を意識して、この詩のような平易な表現になったものであろうか。
ここで、別のところに載る大岡信の短詩を一つ紹介する。
木馬・・・・・・・・・・・・・・・・・大岡信
・・・・・・・・・・・・・・夜ごと夜ごと 女がひとり
・・・・・・・・・・・・・・ひっそりと旅をしている (ポール・エリュアール)
日の落ちかかる空の彼方
私はさびしい木馬を見た
幻のように浮かびながら
木馬は空を渡っていった
やさしいひとよ 窓をしめて
私の髪を撫でておくれ
木馬のような私の心を
その金の輪のてのひらに
つないでおくれ
手錠のように
(昭和57年9月、小海永二編『精選日本現代詩全集』所載、㈱ぎょうせい刊)
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