
■人日(じんじつ)や江戸千代紙の紅づくし・・・・・・・・・木内彰志
■人日の日もて終りし昭和かな・・・・・・・・・・・・・・・稲畑汀子
先に書いたように元日から六日まで「六日年取り」として過し、七日は年改まる日と考えられていた。
今日、七日は七種(ななくさ)粥を食べる風習が平安時代から行われ、今に続いている。
一年の無病息災を祈りつつ粥を食べる日であり、七日に門松などの正月飾りを外す地域も多い。
「人日(じんじつ)」 という呼称の由来については、五日付けで先に書いた。
「七種粥」についても、昨年までに何度も書いたので参照されたい。↓ 参考までに「春の七草」の画像を出しておく。

正式には、七日の前日に、今日七日朝に食べる七種の草の材料として用意したものを賞味するのである。
昨日付けで書いたものを再録すると、天明頃の本『閭里歳時記』に「七種の菜を採りて明朝の粥にまじへ食ふこと、旧きならはしなり。城下にてはわづかに芹・菘等を用ひて、必ずしも七草を用ひず。今夕、かの菜を魚板に置き、桶の上にあげ、擂木(すりこぎ)・魚箸(まなばし)等をも載せて、菜を割りながら節あり、<七種なづな、唐土の鳥と、日本の鳥と、渡らぬ先に>と、はやすなり。時々にはやして暁に至る。家々にすることなり」とある。
二番目に掲出した稲畑汀子の句について言うと、昭和天皇の亡くなったのは昭和64年の1月7日だった。
翌日1989/01/08をもって、元号は「平成」と改まったのであった。
私は、その時、ニュージーランドのオークランドからオーストラリアのシドニーへの飛行機の中に居て、そのニュースを聞いたのだった。
思えば、昭和も遠くなったものである。
なお「元号一覧」について考えてみるのも面白いので見てみてください。

■人日や古き映画に原節子・・・・・・・・・・・・・・・木内満子
「原節子」は往年の大スターだった。キリッとした美貌が、まぶしかった。
一時代を画した彼女の写真を掲げておく。
1949年の『青い山脈』では女性教師役を演じ、服部良一作曲の主題歌「青い山脈」とともに大ヒットとなった。また同年から1961年まで、小津安二郎監督と組んだ6作品は、日本映画を代表するものとして、国際的にも有名になった。
1962年の『忠臣蔵』を最後に映画界を引退。1963年、小津安二郎監督の葬儀に姿を見せて以降、公の場に姿を現さないように隠棲。その後は神奈川県鎌倉市で親戚と暮らしているという。
ここでは、「人日」に因む句を引いて終る。
何をもて人日の客もてなさん・・・・・・・・・・高浜虚子
人の日や読みつぐグリム物語・・・・・・・・・・前田普羅
人日のこころ放てば山ありぬ・・・・・・・・・・長谷川双魚
人日の厨に暗き独言・・・・・・・・・・角川源義
人日の夕凍み頃をふらり行く・・・・・・・・・・佐藤鬼房
人日やにぎたまもまた臓のうち・・・・・・・・・・野沢節子
人日の納屋にしばらく用事あり・・・・・・・・・・山本洋子
人日の肝胆沈む枕かな・・・・・・・・・・宇多喜代子
人日や粥に小匙の塩加減・・・・・・・・・・伊藤白雲
人日の空のぼりつめ観覧車・・・・・・・・・・星野恒彦
人日の暮れて眼鏡を折り畳む・・・・・・・・・・岩城久治
人日や日暮れて鯛のすまし汁・・・・・・・・・・秋篠光広
人の日の墓に備への竹箒・・・・・・・・・・熊田侠邨
人日や昭和を楯のわれも老ゆ・・・・・・・・・・江ほむら
人日や海鵜は高き杭を得て・・・・・・・・・・玉木郁子
人日の日を分け合ひし烏骨鶏・・・・・・・・・・天野きく江
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