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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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倭は 国のまほろば たたなづく 青垣/山隠れる 倭しうるはし・・・・・・・・・・・・・・・・・・古事記
hondenn大神神社

  倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣
    山隠(ごも)れる 倭しうるはし・・・・・・・・・・・・・・・・・・古事記


『古事記』に上のように詠われる大和盆地。その東の山裾に沿って、日本最古の道といわれる「山の辺の道」がある。
その道に沿って南の端に「大神神社」(おおみわじんじゃ)がある。
大和の国には古い社が多いが、日本最古の社としては、この神社をおいて他には、ない。
「三輪山」の麓にある大神神社は、三輪明神と呼ばれる。
大神と書いて「おおみわ」と読むのは、昔は神様と言えば、三輪さんのことだったのである。

記紀神話では、悠久の昔、大国主命(おおくにぬしのみこと)が国家の政治に行き詰まり、祈念したところ、海を照らして神がやってきた。
「我は汝の幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)である。我を祀れば平らかになるだろう。我を倭の青垣、東の山の上に斎(いつ)きまつれ」という託宣を受けた。
そこで、大和の東の青垣に、その神「大物主大神」(おおものぬしのおおかみ)を祀ったのである。その地が現在の三輪山だという。
この神社には本殿、すなわちご神体を鎮座させる建物がない。
古代の信仰そのままに、三輪山そのものをご神体とし、参拝者は「拝殿」から山を直接拝む。
熊野那智大社が「那智の滝」をご神体にするのと同じ扱いである。
写真①は拝殿である。拝殿の奥、神体山の「禁足地」の間に「三ッ鳥居」がある。
文字通り三つの鳥居が合体したもので、平安時代以前の創建とされるが、禁足地のため一般には見られないので、「摂社」の桧原神社の三ッ鳥居を写真②に掲げておく。

hibara1桧原神社三つ鳥居本命

なお桧原神社には拝殿も本殿もない。この三ッ鳥居があるのみである。
この三ッ鳥居を拝んで、その背後の三輪山を拝する、というものである。

miwa1三輪山

「三輪山」は、三輪の神奈備と呼ばれる円錐形の秀麗な山。
写真③は穴師というところから撮影。
山中には大岩が露出して、頂上の奥津磐座、中腹の中津磐座、麓の辺津磐座があり、それぞれ大物主大神、大巳貴神(おおなむちのかみ)、小彦名神(すくなひこなのかみ)が鎮まるという。
磐座(いわくら)は、神が降臨する神聖なところとされる古代祭事遺跡。
三輪山そのものを御神体として古くから信仰されている。
先に書いた「桧原神社」は、北へ1.5キロほど上がったところにある「摂社」だが、この桧原の地こそ、天照大神が祀られていた大和の笠縫邑(かさぬいのむら)だという。
ここから倭姫命(やまとひめのみこと)の伊勢への旅が始まったという。
ちなみに、三輪から、ほぼ真東、つまり日の出の方角に「伊勢神宮」があるのである。だから、「元伊勢」と別称されるのである。

ここで「三輪」の由来について書いておく。それは三輪の「環緒」(おだまき)塚の伝承である。
イクタマヨリ姫は、大変美しい乙女だった。
ある夜、姫のもとにこの世のものとも思われぬ立派な男が現われ、二人はたちまち恋に落ちて結ばれ姫は身ごもった。
不思議に思った両親が「床のまわりに赤土を撒き、巻いた麻糸(おだまき)の糸先に針をつけ、男の着物の裾にさしておくように」と言いつけ、姫が言いつけ通りにして、翌朝になってみると、糸は入口の戸のカギ穴から外に出ており、辿ってゆくと美和山の社まで来ていたので、男が神の御子であることが判った。
麻糸の残りが家の中に三勾(みわ)あったので、ここを三輪と呼んだ。
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「まほろば」については辞典にあたってみてもらいたい。
参考までにWeb上のフリー百科事典Wikipediaに載る英文の記事を引いてみる。

Mahoroba
From Wikipedia, the free encyclopedia

Mahoroba is an ancient japanese word describing a far-off land full of bliss and peace. It is roughly comparable to the western concepts of arcadia, a place surrounded by mountains full of harmony and quiet.

Mahoroba is now written only in hiragana as まほろば. The origins of the word are not clear; it is described in a poem in the ancient Kojiki (古事記) as being the perfect place in the mythical country of Yamato:

Poem from the Kojiki
Japanese Romanized version
大和 は
国のまほろば
たたなずく
あおかき山ごもれる
やまとしうるわし。

Yamato ha

Kuni no mahoroba

Tatanatsuku

Awo-kaki yama-gomoreru

Yamato shi uruhashi

(Note that the Kojiki itself did not use hiragana; the above is a modernized version)
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この英文の解説は「まほろば」を西欧でいう「アルカディア」と同じようなものと書いているのは、けだし名解説であろう。
なお、古事記についても、その頃にはまだ「ひらがな」は無かったことも明記されていて正確である。
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この記事をご覧になった「硯水亭歳時記」氏から、下記のようなコメントが届いた。
私が簡略に書いたものを補強していただいた。ここに全文を転載して、感謝申し上げ披露しておく。
同氏は私よりはずっと若いが、学識ふかく、私がいつも畏敬して付き合っている方である。

古事記のエピローグとして浪漫溢れて!

Sohyaさま

 クマソ征伐の西伐のあと、すぐさま父・天皇からヤマトタケルへ東伐を命じられ、あらゆるところで大苦戦します。そうしてタケルは漸く帰途につきます。
父君とは確執があったのでしょう。ところがもう少しでヤマトだという時に思わぬ事態になってしまい、タケルは死んでしまいます。
能煩野(のぼの=鈴鹿辺り)に着いたばかりでした。
ただ直接倭には帰らず、伊勢の叔母君へ行こうとした矢先のことです。その死の直前に詠った望郷の歌として、「倭は国のまほろば」と詠みあげるのでした。
倭から駆け付けた妻や子は悲しんで、古事記のエピローグとして、或いはヤマトタケルの「斂葬の歌」として、四つの歌を残されました。
「なづき田の 稲(いな)がらに 稲がらに 蔓ひもとろふ ところつづら」、するとタケルの墓から大きな白鳥が飛んでゆきます。
その白鳥を追ってゆき、「浅小竹原(あさじのはら) 腰(こし)なづむ 空は行かず 足よ行くな」と歌を詠み、私は白鳥と違って、歩きづらくとも磯部を伝ってゆくしかないと言います。
そして「海が行けば 腰なづむ 大河原の 植え草 海がは いさよふ」と嘆き悲しみ、
更に「浜つ千鳥(ちどり) 浜よは行かず 磯づたふ」と、タケルのお墓の廻りで、亡き人への追慕の念を詠われます。
この四首は、この故事にちなみ、今でも天皇の斂葬の儀には必ず詠われる歌なのです。
壮大な古事記の話の最後を飾るのに相応しいように思われます。

 大神神社は古来天皇家の神社でしたが、アマテラスがサルタヒコの先導で伊勢に向かわれてしまった後、大物主へ下賜されたものでした。
鳥居は注連縄だけという、如何にも古い形式にヤマト朝廷以前の縄文文化までも連想させ、浪漫溢れるものです。
山岳信仰は一億年に及ぶ日本古来の縄文文化の名残ではなかろうかと想像を膨らませるのに充分なのですから。
 尚纏向古墳こそ最古の古墳であり、ヤマト朝廷があった証で、纏向こそヤマトの古語であったようですから興味がつきません。




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2013/03/23(土) 15:42:44 | | # [ 編集 ]
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