
なめらかな肌だったっけ若草の
妻ときめてたかもしれぬ掌(て)は・・・・・・・・・・佐佐木幸綱
佐佐木幸綱は日本最古の一つである短歌結社「心の花」の創始者・佐佐木信綱の孫にあたる。短歌界の名門の御曹司で昭和13年生まれ。
早稲田大学教授で現代短歌界のリーダーである。
この歌は第一歌集『群黎』に載る若い時の歌。
この頃の歌は、みな若々しさに満ちている。話すべきことは一杯あるのだが省略して、歌を引いてみる。
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サキサキとセロリ噛みいてあどけなき汝(なれ)を愛する理由はいらず
ゆく秋の川びんびんと冷え緊まる夕岸を行き鎮めがたきぞ
ジャージーの汗滲むボール横抱きに吾駆けぬけよ吾の男よ
寄せては返す<時間の渚>ああ父の戦中戦後花一匁(いちもんめ)
厩昏れ馬の目はてしなくねむり麦たくましく熟れてゆく音
ハイパントあげ走りゆく吾の前青きジャージーの敵いるばかり
直立せよ一行の詩 陽炎に揺れつつまさに大地さわげる
たちまち朝たちまちの晴れ一閃の雄心としてとべつばくらめ
ひばりひばりぴらぴら鳴いてかけのぼる青空の段(きだ)直立(すぐた)つらしき
言葉とは断念のためにあるものを月下の水のきらら否定詞
わが夏の髪に鋼の香が立つと指からめつつ女(ひと)は言うなり
噴き出ずる花の林の炎えて立つ一本の幹、お前を抱く
ゆく水の飛沫(しぶ)き渦巻き裂けて鳴る一本の川、お前を抱く
泣くおまえ抱けば髪に降る雪のこんこんとわが腕に眠れ
一国の詩史の折れ目に打ち込まれ青ざめて立つ柱か俺は
父として幼き者は見上げ居りねがわくは金色の獅子とうつれよ
こめかみに人さし指を突き刺せば右も左も中年の崖
祖父・父・我・息子・孫、唱うれば「我」という語の思わぬ軽さ
昨夜(きぞ)の酒残れる身体責めながらまるで人生のごときジョギング
にんじんの種子蒔く子供、絵の中の一粒の種子宙にとどまる
のぼり坂のペダル踏みつつ子は叫ぶ「まっすぐ?」、そうだ、どんどんのぼれ
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佐佐木幸綱

歌人、国文学者。1938年生れ。早稲田大学大学院国文科修士課程修了。大学在学中より「早稲田短歌」「心の花」(歌誌)に参加。跡見女子大学教授を経て、現在、早稲田大学政治経済学部教授。専攻は万葉学、近代短歌。「心の花」編集長。88年より朝日歌壇選者もつとめている。祖父は佐佐木信綱(歌人)。主な歌集=「群黎」(70年、青土社。第15回現代歌人協会賞受賞)、「直立せよ一行の歌」(72年、青土社)、「金色の獅子」(89年、雁書館。第5回詩歌文学館賞受賞)、「瀧の時間」(93年、ながらみ書房。第28回迢空賞受賞)。主な評論集=「萬葉へ」(75年、青土社)、「中世の歌人たち」(76年、日本放送出版協会)、「柿本人麻呂ノート」(82年、青土社)、「父へ贈る歌」(編著、95年、朝日新聞社)。現代歌人協会理事、日本文藝家協会会員。
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早稲田大学教授としての他に、作歌や著述、講演などに忙しい日々を送る。
「口語短歌」を歌って歌集『サラダ記念日』がベストセラーになり、短歌の大衆化に貢献し、また「シングルマザー」として話題を呼んだ俵万智の師匠でもある。
「酒好き」として知られる。写真を見ても、いかにも酒好きという顔である。
主宰する「心の花」について引いておく。

短歌結社「心の花」の歴史
【創刊】前身としての「いささ川」(七号まで刊行、一八九六・一〇-九八・一)の終刊後、一八九八(明三一)年二月、佐佐木信綱を中心に、石榑辻五郎(千亦)編集、井原豊作発行で創刊された。「心の華」、「こゝろの花」等と表記されたこともあった。誌名の由来は、創刊号の信綱の「歌はやがて人の心の花なり」による。なお信綱をとりまく歌人の集団としての竹柏会は、その翌年に第一回大会を開いている。
【歴史】創刊の当時は旧派歌人や新派の根岸派の歌人の活躍がみられ、総合誌としての性格を有していたが、一九〇四(明治三七)年四月号から、竹柏会出版部の発行となり、独自色を強めていった。また明治四〇年代からあけぼの会という在京の「心の花」の精鋭の会が行われ、信綱、千亦、新井洸、木下利玄、川田順等が積極的に出席した。一五年頃には「万葉号」として万葉集の特集が組まれるなど、国文学研究の成果を取り入れようとする動きも、積極的に行われた。また森鴎外、上田敏、幸田露伴等の歌壇外の原稿もしばしば誌上に掲載された。
その後、第二次大戦、佐佐木信綱の死去(六三・一二)等の困難にあいながら継続的に雑誌を発行し、七百号記念号(五七・二)、「心の花83年史」九九九号(八二・一)、「『心の花』近代歌人論、現代短歌の問題」一〇〇〇号(八二・二)、「現代『心の花』小作家論」一〇〇一号(八二・三)、「21世紀を展望する現代短歌のキーワード21等」一一一一号記念号(九一・五)、「記念作品・論文、「心の花」歌人論等 創刊一〇〇年記念号」一一九六号(九八・六)等を刊行するにいたり、現存する短歌の雑誌として、最も長い歴史をもっている。
【特色】「心の花」には、「ひろく、深く、おのがじしに」という理念がある。これは信綱が、「歌に対する予の信念」(「心の花」三一年八月号)として、歌の題材を広く、人間性について深く、個性をおのがじしに、という内容で提唱したものである。このような理念は歌壇のなかで折衷派という批判を受けたこともあったが、佐佐木幸綱が指摘しているように、これは特に「おのがじしに」においては、むしろ個性を尊重する結社運営の理念としても機能した。
そしてこのような自由な雰囲気のなかで、信綱自身をはじめとして、三浦守治、石榑千亦、川田順、新井洸、木下利玄、前川佐美雄(後に、「日本歌人」)、佐佐木治綱、石川一成、佐佐木幸綱、伊藤一彦等の優れた歌人が誕生していった。
また特に、大塚楠緒子、片山広子、柳原白蓮、九條武子、栗原潔子、五島美代子(後に、「立春」)、真鍋美恵子、斎藤史(後に、「短歌人」等)、遠山光栄、佐佐木由幾、築地正子、石川不二子、俵万智等の短歌史をいろどる多くの女性歌人を輩出してきたことは特筆に値する。
さらに信綱をはじめとして、その子の治綱(五二年から五九年まで編集・発行人)、治綱の妻の由幾(五九年から七四年まで編集人、五九年から発行人)、そしてその子どもの幸綱(七四年から編集人)という佐佐木家が、「心の花」を支えていったことが特徴としてあげられる。 結社はイエ型集団としての性格を持つが、実際の家が長期にわたって支えていったのはむしろまれであり、逆に言えば長期にわたって存続している大きな原因の一つとして、家の存在をあげることができるだろう。
このように「心の花」は短歌の伝統を維持するとともに、その時々の短歌史の方向に重要な役割を果たした歌人を輩出してきた、伝統と革新の結社としての特色がある、といえよう。
【参考文献】佐佐木幸綱『佐佐木信綱』(八二・六、桜楓社)、十月会編『戦後短歌結社史・増補改訂版』(九八・五,短歌新聞社)、「心の花の歌人と作品」竹柏会、「心の花 信綱追悼号」(六四・四)、「心の花」八〇〇号(六五・六)、「心の花」九九九号(八二・一)、「心の花」一〇〇〇号(同年・二)、「心の花 創刊一〇〇年記念号」(九八・六)
(篠弘・馬場あき子・佐佐木幸綱監修『現代短歌大事典』三省堂、二000年)
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