FC2ブログ
K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
202007<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>202009
戸矢理衣奈『銀座と資生堂』日本をモダーンにした会社・・・・・・・・・・木村草弥
資生堂

──新・読書ノート──

  戸矢理衣奈『銀座と資生堂』日本をモダーンにした会社・・・・・・・・・・木村草弥
          ・・・・・・・・・新潮社2012/01/27刊・・・・・・・・・・  

新潮社のHPに載る「編集者の言葉」を引いておく。

           日本一華やかな街と企業を育てた男

 日本で第一位、世界でも第四位の売上げを誇る化粧品メーカー・資生堂は、日本を代表する企業のひとつ。
「東京銀座資生堂」として知られるように、銀座という特別な街とともに名声を高め、規模を拡大してきました。
 その華やかなブランドイメージの基礎を築いたのが、創業者の三男にして初代社長の福原信三(1883-1948)です。
この生粋の銀座っ子は、大正時代にコロンビア大学で薬学を学び、ヨーロッパ遊学を経て帰国。町の薬局にすぎなかった資生堂を、国際的な化粧品メーカーに育てあげました。
その一方で、寂れつつあった銀座の復興に力を注ぎ、日本に西洋風の生活習慣を根付かせるために奔走し、また一流の写真家として活躍するとともに、
同時代の芸術家たちのパトロンを務めるという、まさに異能の経営者です。
 これほどの魅力にもかかわらず、初期の資生堂や信三に関する本格的な論考は、これまで見られませんでした。
執筆に当たって著者は、同時代の文献にあたるのはもちろんのこと、数年にわたって資生堂に通い詰め、資料館の書庫で貴重な内部資料の山と格闘しました。本書には、こうした「蔵出し」の情報がふんだんに活かされています。
 信三が活躍した大正から昭和前期にかけては、関東大震災や世界恐慌、さらには世界大戦に見舞われた時代でもありました。
日本が似たような状況に置かれたいまこそ、彼の志と美学、経営哲学を再発見していただきたいと思います。

------------------------------------------------------------------
新潮社の読書誌「波」2012年2月号より 書評を引いておく。

     街と企業の切っても切れない関係         福原義春

 明治の新政府にとって首都東京には近代的な商業街が必要であった。
欧化政策を推進する大蔵大輔井上馨はロンドンのリージェントストリートを、東京府知事由利公正はパリのブールヴァール・オスマンをモデルに描いていた。
そして明治五年の大火を契機に、銀座から新橋にかけて煉瓦造りの西洋風商店街を造ることになった。
 それが海軍病院で薬局長をしていた福原有信にとって独立の契機となった。
西洋薬の調剤と医薬分業という大きな目的を達するためには民間で自由な活動をしなければ、というのがその理由であった。
しかもその「場」として新開の商店街である銀座の将来に賭けたのであった。
 創業者福原有信の妻とくは商売を切り盛りし、住み込み店員の食事まで指図するなど現代から見れば店長の仕事をして夫の仕事を助けた。
 かつて銀座の古老からエピソードを聞いたことがある。
晩年のとくは毎朝十時にお伴に手を引かれて銀座通りを散歩するのを日課にしていた。
十時になるとどの店も店先の歩道を掃除するのだが、その人たちに一々挨拶するのはいいとして、まだ戸の開いていない店の前でも立ち止まって
「お早うございます」と挨拶しているのを見た人が訝って尋ねると、とくは「皆様のおかげで銀座があり、銀座のおかげで資生堂があります」と答えたのだという。
 それほど資生堂は銀座とは一体となって発展し、他方ではその銀座のために尽くした。
 それを更に進めたのは後継者の福原信三であった。信三はもともと芸術家肌で気難しくはあったが、何かにつけて閃きのあった人だ。
コロンビア大学薬学部を卒業して米国での実務見習いを経てパリに遊学し、画家の川島理一郎や藤田嗣治との交友が始まった。
 帰国後に有信の跡を継いだ福原信三は化粧品事業に力を入れ、個人商店の薬局だった資生堂を会社組織にして初代社長となった。
 福原信三の時代に資生堂のブランドイメージは定着し、いくつもの代表的商品が時代を支えた。
 地元銀座とのつながりでは、商店会の運営にも関わったほか、大正の末に銀座を象徴する風景として馴染まれた並木の柳が撤去されるのを惜しみ、
当時の文人や五世中村歌右衛門丈などの随筆を一冊に編み『銀座』のタイトルで刊行した。
その反響は大きく、以後企業の文化的発信に力を注いだ。今日的に言えば文化と経営の融合である。
 化学知識をもとに写真芸術運動を起こした信三の、時には尖鋭的な美意識が、銀座という新興商店街に集った事業家たちの考え方や、
そこに集う客層のモダニズムへの欲求にマッチしたとも言えるのだ。
 銀座と資生堂という、切っても切れない関係が、経営者の姿を描くことでよく見えて来るのである。(ふくはら・よしはる 資生堂名誉会長)

戸矢理衣奈/トヤ・リイナ

1973年生まれ。東京大学文学部社会心理学科を卒業後、同大学院総合文化研究科、サセックス大学、国際日本文化研究センターなどに学ぶ。美意識の変容をテーマに、社会史から経営史まで幅広く研究。『銀座と資生堂―日本を「モダーン」にした会社―』の原型となる論文で2010年、博士号(学術)を取得。独立行政法人経済産業研究所などを経て、株式会社IRlS代表取締役。著書に『エルメス』(新潮新書)、『下着の誕生―ヴィクトリア朝の社会史―』(講談社選書メチエ)など。

目次

はじめに
第一章 「新橋」から「東京銀座」へ
資生堂の誕生/江戸に栄えずして、東京に繁昌する処/銀座のスポークスマンとして/衰退の三大要因/銀座改造計画/小売店の共存共栄/デパートにないものを売る街
第二章 「文明ノ程度」と西洋式空間
有信のソーダファウンテン/アメリカ式喫茶室からパリのカフェへ/「帝都の中心」の評判/パーラーという広告塔/二重生活の解消を目指して/空間がもたらす気分/景観問題と田園都市開発/首都の品格
第三章 社交界の誕生
国民外交のはじまり/帝劇・三越と社交の民主化/「午後の紅茶」のすすめ/茶の湯をめぐる世代間対立/変わる女性の美徳/外交官夫人への憧れ/開かれた社交場としてのパーラー
第四章 帰朝者たちの遊び場
信三の社交場/欧米遊学で得たもの/新進芸術家と若きパトロンたち/文化人のサロンとして/西洋風ライフスタイルの発信/「今の美術家」への反発/写真界の福原先生/遊びは勉強の半面なり/信三の弟たち/香水と遊び心/築かれた無形資産
第五章 商品をしてすべてを語らしめよ
草創期の広告界/意匠部の設立/芸術か商業美術か/花椿、書体、唐草/アート・ディレクターのさきがけ/広告の「格」
第六章 流行はいかに発信されたか
美白クリームと着色白粉/高級志向に応える/耳かくしの流行/転換期のファッションリーダー/銀座ガールの誕生/全国美粧講演会/頭の通らない子供服/引き抜かれた功労者たち
第七章 「人の和」による全国展開
東の価値観、西の商才/産業合理化運動の旗手/有機的連帯を求めて/チェインストアスクール/ショーウィンドウの中の銀座/ミス・シセイドウ来る/遠すぎるパリ、身近になった銀座
第八章 資生堂調の原点
個性の追求/「生命の躍動」/不易流行と俳句的写真観/洗練とコンプレックスの街
終章 銀座・東京・日本
エスカレートする街頭広告/リゾート地の実業家たち/信三、旅に出る/変わらぬ熱意
おわりに

主要参考文献
年表

「立ち読み」も出来る。 お試しあれ。

コメント
コメント
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバック URL
トラックバック
copyright © 2020 Powered By FC2ブログ allrights reserved.