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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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緑蔭に三人の老婆笑へりき・・・・・・・・・・・・・・・・・・西東三鬼
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   緑蔭に三人の老婆笑へりき・・・・・・・・・・・・・・・・・・西東三鬼

西東三鬼は、さいとう さんき、と読む。本名は斎藤敬直で、このペンネームの由来はアナグラムだと言える。
明治33年岡山県津山市生まれ。歯科医師。新興俳句運動にかかわり、弾圧事件で検挙された。
戦後、現代俳句協会、俳人協会設立などに奔走。「俳句」編集長も勤めたが胃がんを病んだ。昭和37年没。

この句も単なる写生と見ては、間違うだろう。
老人国家となった今日では普通の明るい日常の光景だが、この句は一種の「不気味さ」を湛えた句として鑑賞したい。
この句は昭和15年刊『旗』に載るもので、彼の戦前の新興俳句最活躍期の作品と見られるからである。
一ひねりある句として私は見る。
以下、彼の句を引くが、戦争、戦後の飢え、などに拘りを見せるほか、前衛俳句としての特徴を示す句たちである。
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 聖燭祭工人ヨセフ我が愛す

 右の眼に大河左の眼に騎兵

 梅を噛む少年の耳透きとほる

 道化師や大いに笑ふ馬より落ち

 厖大な王(ワン)氏の昼寝端午の日

 機関銃低キ月輪コダマスル

 逆襲ノ女兵士ヲ狙ヒ撃テ!

 塹壕の壁を上りし靴跡なり

 主よ我もよふけに家にかへらざり

 国飢ゑたりわれも立ち見る冬の虹

 寒灯の一つ一つよ国敗れ

 中年や独語おどろく冬の坂

 おそるべき君等の乳房夏来る(きたる)

 赤き火事哄笑せしが今日黒し

 黒蝶は何の天使ぞ誕生日

 逃げても軍鶏に西日がべたべたと

 くらやみに蝌蚪の手足が生えつつあり

 モナリザに仮死いつまでもこがね虫

 やわらかき蝉生まれきて岩つかむ

 暗く暑く大群集と花火待つ

 つらら太りほういほういと泣き男

 凶作の刈田電柱唸り立つ

 春を病み松の根っ子も見あきたり・・・・・・・(絶筆)
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Web上から彼の故郷・津山市の「西東三鬼俳句賞」の記事を転載しておく。

西東三鬼について

 新興俳句の旗手、鬼才と呼ばれた西東三鬼=本名・斉藤敬直=(1900-1962)は南新座の生まれ。津山中学に学び、両親を失った十八歳で東京の長兄に引き取られ、歯科医になる。患者に誘われて俳句を始めた。俳号、三鬼はサンキューのもじりだが、波乱の人生を送る彼のぺーソスとユーモアが潜んでいるような気がする。
 33歳で俳句入門して3年後の昭和11年、「水枕ガバリと寒い海がある」を発表、その鋭い感覚が俳壇を騒然とさせるのである。「十七文字の魔術師」の誕生であり、「ホトトギス」的伝統俳句から離れた新興俳句運動の記念碑でもあった。

戦争への道を急ぐ日本。三鬼の「昇降機しづかに雷の夜を昇る」が世情不安をあおるとして弾圧を受け、無季を容認した新興俳句は三鬼が幕を引く結果になる。
 三鬼は、弾圧のショックを胸に東京の妻子を捨てて神戸に移り住む

露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す

 そんなスナップのある安ホテルで、特高警察の刑事につけ狙われながら雌伏する。NHKテレビドラマ「冬の桃」は、その時代の三鬼の随筆をドラマ化したもので、小林桂樹が三鬼に扮して好演、再放送されるほど好評だった。
 俳句がすべてだった三鬼は、昭和17年、転居した神戸市内の西洋館(「三鬼館」と呼ばれる)の和室の畳まで売り払い、「天狼」創刊運動費にあてるほど徹底していた。

終戦。三鬼は俳句活動を開始、同志と現代俳句協会を創設、昭和23年、山口誓子を擁して俳誌「天狼」創刊の中心になった。編集長になり、自分も「激浪」を主宰し、昭和28年ぶりに帰郷する。そして昭和37年、惜しまれつつ永眠する。空前絶後の俳壇葬で三鬼を見送った。4月1日は西東忌、三鬼忌として歳時記に不滅である。

●平成4年4月5日、三鬼顕彰全国俳句大会が津山文化センターで開かれた。その朝、記念事業の三鬼句碑が生誕の地、南新座に市文化協会によって建てられ、三鬼の次男、斎藤直樹さんと孫の有哉君の手で除幕された。句は、
 枯蓮のうごく時来てみなうごく。
 昭和21年、奈良・薬師寺で詠んだ作品で、代表作の一つである。苅田龍氏所蔵の色紙の文字を拡大した。「生誕の地」の標柱を立てたが、三鬼の生家は近所にあった。文化協会は標識を立てていたが、老朽がひどく家主が平成二年、取り壊した。旧門下たちが惜しみ、三鬼が移り住んだ同町内の日笠頼助氏宅に句碑を建てることになったのである。

西東三鬼略年譜
明治33年 5月15日、岡山県津山市南新座に生まれる。本名 斎藤敬直。
大正 4年 県立津山中学校に首席入学。7年上京して青山学院に編入学したが中退。
 10年 日本歯科医専に進学する。
 14年 卒菜後、シンガポールで歯科医院を開業。
昭和 3年 帰国して歯科医院開業、のち病院に勤め、8年俳句と出会う。
 9年 同人誌「走馬燈」に加わり新興俳句運動に参加。
 10年 「京大俳句」に加わり、13年、歯科医をやめる。
 15年 「京大俳句」が反戦思想とみられ弾圧が始まる。有志と「天香」を創刊、第一句集「旗」刊行。
 17年 東京から神戸に移り、特高警察の監視下、「三鬼館」に雌伏。
 22年 石田波郷、神田秀夫らと現代俳句協会を創立。
 23年 山口誓子を擁して「天狼」を創刊、編集長となる。第二句集「夜の桃」を刊行。「激浪」主宰。春、30年ぶりに帰郷する。「激浪」の発行所を上之町、室賀達亀方に置く。
 26年 第三句集「今日」刊行。
 27年 新主宰誌「断崖」を創刊。
 31年 角川書店の「俳句」編集長になる。翌年辞職。
 34年 津山での美作婦人大会で「幸福と不幸」と題して講演。
 35年 俳壇あげて還暦祝賀会。
 36年 俳人協会設立発起人になる。10月、胃癌の手術。
 37年 第四句集「変身」を刊行。4月1日、永眠。61歳と11ヶ月だった。8日、角川書店で俳壇葬。5月27日、関西追悼祭。28日、遺骨を成道寺に納める。墓句樽銘は山口誓子筆。第二回俳人協会賞を贈られる。「断崖」は108号で終刊。
 52年 随筆「神戸・続神戸・俳愚伝」を改題「冬の桃」(毎日新聞社刊)を出版し、NHKテレビドラマ化「冬の桃」が放送される。
 53年 津山市文化協会が句碑「花冷えの城の石崖手で叩く」を建立。
平成4年 4月5日、没後三十年、三鬼顕彰全国俳句大会を津山文化センターで開く。選者は稲畑汀子、飯田龍太、金子兜太、沢木欣一、鈴木六林男、三橋敏雄、山口誓子(50音順)。南新座の旧三鬼住居(日笠家)に「生誕の地句碑」=「枯蓮のうごく時来てみなうごく」を除幕する。三鬼回顧展を西東忌の4月1日から誕生日の5月15日まで津山郷土博物館で催す。遺墨(軸11、色紙26、短冊40点)写真、遺品などを展示。


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