FC2ブログ
K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
202007<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>202009
和合亮一『ふるさとをあきらめない―フクシマ、25人の証言―』・・・・・・・・・・・・木村草弥
51hXJeS24qL__SS500_.jpg

──新・読書ノート──

   和合亮一『ふるさとをあきらめない―フクシマ、25人の証言―』・・・・・・・・・・・・木村草弥
           ・・・・・・・・・新潮社2012/02/24刊・・・・・・・・・・・

     3月11日。どこにいて、何をしていたのか? その後、何が起き、今どんな暮らしなのか?
     職場を失い、家を流され、友を亡くし、家族と離れ、放射線に怯える。
     絶望、悲しみ、怒り――ふるさとは、収束にはほど遠い。
     それでも誰かに助けられ、望みもほの見えてきた。
     被災した詩人に向け語られる、今なお続く一人一人の福島の現実。

新潮社の読書誌「波」 2012年3月号より、著者の「刊行記念インタビュー」を引いておく。
------------------------------------------------------------------------

和合亮一『ふるさとをあきらめない―フクシマ、25人の証言―』刊行記念インタビュー

   不条理を不条理のままに残してはいけない。     和合亮一


自分ではなく誰かに語ってもらったものに〈宿る〉何かにこそ真実がある。このインタビューの仕事を通してそう確信しました。

 表紙の写真は僕が去年の春に、福島市の花見山で撮った一枚です。毎年花見の時期になると、市の人口およそ三十万人とほぼ同数の人が、この山を訪れます。でも、去年の花見山は、放射線の風評被害のせいで、がらがらだった。
『ふるさとをあきらめない』という書名は、去年出した『詩の邂逅』の一節からとったんですが、今回、インタビュー取材を進めるにつれ、やはりこのタイトルはキーワードだなと思いました。このままで負けてたまるか、悔しい、絶対にあきらめない――直接言葉にする人もいたし、言葉の裏側にそれを感じさせた人もいた。
 僕、高校の教師でしょ、よく生徒たちに「心を閉ざしちゃいけない」と言ってるわけです。震災直後、ツイッターに詩を書いていた頃の僕は、閉じた世界から言葉を投げつけていました。連休明けくらいから、自宅から出て、人の話を聞くようになった。そうして耳を傾けてみると、みなさんよく話をしてくれるんです。あの日のこと、それからのこと。
 東北の人間は口べたといわれていますが、そんなことはない。無口になるのは、聞く人が耳を傾けていないからなんです。「どうぞ話をしてください」では、口を開かない。じっくりと耳を傾けるという姿勢があってはじめて話してくれるんだと思うんです。
 二十五人の話を聞き終えて、本当の話は、伝わっていないんだと痛感しました。復興や原発に関する報道は、今でも毎日のように伝えられている。被災者のコメントもそこには含まれてはいる。でも、何ていうんだろう、こう話してほしいということを答えているような。小さな、個別の声はまったく伝わっていない。それは、一人一人が抱えている真実。メディアに載らないような、網からこぼれ落ちた小魚のような事実が、震災後の東北、福島には無数にある。
 あの日起きた、津波現場の壮絶さ。原発が爆発したあの瞬間。ある老家族は避難するのが嫌で、戦時中のようにじっと隠れ住んでいたと言い、ある女性は爆発の瞬間、いい匂いがしたと語った。ひとつひとつが、僕の知らない他人の事実だった。こうした小さな体験が集まって、私たちがここに暮らしているという真実ができあがっている。本当の輪郭、肉感と言い換えてもいい。
 印象に残っているインタビューはいくつもあるんですが、南相馬市の消防団の副団長の方がいました。三月中旬に避難指示が出て、ほとんどの住民が避難していった。消防団員も十人ほどに減った。それでも彼らは、遺体を探して、洗浄する、その作業をこつこつとやり続けていた。
 その頃の僕は、自宅の部屋に閉じこもりツイッターで詩を書いていた。その同じ時間に、放射線の危険があるにもかかわらず、彼らはその仕事をやり続けていた。「自分たちが暮らした海辺の遺体はすべて探して、皆さんに返すんだ」と。中には、三日間、体が海水に浸かりながらも奇跡的に消防団に救け出された人もいた。

 話を腹で受け止めた

 ほんの一日の出来事で、レールがガシャンと切り換わるように、数多くの人生が変わってしまった。
 中に僕の教え子がいた。高校時代は明るく活発な子でした。彼女は、子供のこともあって浜通りから伊達市に避難するんですが、あまりの寂しさと緊張感のせいで、三半規管をおかしくしてしまう。あの明るい子が……と正直、驚きました。
 二十五人の方のお話を聞いて、こちらが圧倒されたり、涙が出たりという場面が例外なく必ずありました。
 農家の阿部さんという方のお話はお宅で聞かせていただきました。炬燵を挟んで阿部さんと僕。奥さんは横にいらっしゃった。ある話になった時、阿部さんが下を向いて、「悔しいよなあ、悔しいよなあ」と言いながら、ぽろぽろと炬燵の布団に涙を落とすんです。すると、奥さんも何も言わず泣いた。僕もたまらず落涙してしまった。
 一日のインタビューを終えると、体がずしりと重くなった。以前、神戸で震災に遭われた方が、「震災を骨で記憶している」と表現したことがあります。僕たち福島の人間もまったくそれと同じ。取材をはじめた当初は、3・11からあまり日がたってしまうと、詳細を忘れてしまったり、話したがらなかったりと、うまくいかないのではと思ったこともありました。でも、それはまったくの杞憂でした。あの日の壮絶な経験、苦しみの本質は、呼び起こすことができるんですね。まるで昨日のことのように、皆さん話してくれた。
 一人二時間あまりのインタビューの時間は、骨で質問して、骨で話してもらう、腹で聞いたことを腹で受け止める、そんなやりとりでした。
 もうひとつ感じたことは、立ち止まっているのではなく、家族のために、仲間のために、この現状を打開しなくちゃいけないと、動いている人が多かったこと。避難してきた見ず知らずの高校球児のために、毎朝、毎夜、ご飯を作り続けた旅館の女将。土に希望を託す農家の人は個人で除染方法を研究、工夫していた。再開できないパチンコ店を利用して、救援物資を学校や保育所に無給で運ぶ女性店長。規模は小さいけれど夏祭りを企画した人。国会まで行って、村の苦境を訴えた酪農家。福島県のために、東京にあるアンテナショップの「ふくしま市場」を営業し続けた男性。
 こうした具体的な行動の話を聞いていると、何か答えが、そのヒントが見つかるのではと感じた。そういう意味では、福島の人たちにもこの二十五人の話を聞いてほしいと思う。

 切り離される福島

 昨年末の紅白歌合戦で、猪苗代湖ズが「福島はまったく復興していません!」と叫んでいたけれど、まったくその通り。震災から約一年、福島と他県との温度差がすごく気にかかる。僕はそれを川にたとえるんだけど、川のこちら側(福島)とあちら側(他県)を繋ぐ橋が必要なんだと思う。そのひとつが、愚直に福島の人たちの話を聞くことだと今回、僕は思った。そして、福島の人たちも口を閉ざしていないで話すことだと思った。
「おれたちはおれたち」。これからはますますそうなっていくんでしょう。でも、それは一番危険なことです。
 大きな揺れと爆発を体験した記憶はぬぐいきれずにある。多くの人はそれを封印してしまう。その気持ちもわかる。特にメディアの人たちは、そういう人たちの傍らに座ってじっと話を聞いてほしい。本気で聞けば、必ず本気で話してくれる。みんなだいたいのところで話を聞くから、だいたいのところで話をやめてしまう。それでは、いつまでも本当の結論にたどりつけない。
「復興ムード」の一方で、福島はどんどん切り離されている。中間貯蔵施設を双葉郡に置くという決定が象徴的だった。「起きてしまったことは起きてしまったこと。しょうがないじゃないか。申し訳ないけれど、我慢してくれ」と国は言っていることと同じ。そうやって、線を引こうとしている。
 インタビューの中で、ある女性が言ってました。「震災が起きる前、国とはやさしい父母のように感じていた。いざ何かあれば身を挺して助けてくれるんだと。でも、とんでもなかった。ああ、私たちは全然、愛されていなかったんだなあと思った」と。
 例えば、殺人のような目をそむけたくなる事件があります。痛ましいから、目をそむけたい。忘れてしまいたい。この震災だって、結局はそういう幕引きになっていくんだと思う。政府とメディアは「復興は進んでいる」と、最後には目をそむけさせることになる。やがてふたをされる。あとは福島でがんばってください、と。
 そうさせないために、どうすればいいか。中央メディアにまかせるのではなく、この震災の意味を福島の側がデザインして、全国にうまく伝えなくてはいけない。福島の人間が、生き残りをかけてそうさせないようにしなければいけない。
 今の僕にできることは、僕が話すのではなく、愚直に耳を傾けて話をしてもらい、それを一人でも多くの人に読んでもらう。それが「川」に橋を架ける行為だと自分では思っている。
 気どって言うわけじゃないけれど、取材を進めていく途中から、どんどん福島を本当の意味で守りたい、と思うようになった。当初、県内各地に行って、ある程度の人数の話を聞くなんてことができるのかと不安なことも正直あった。週日は学校がありますから、週末に取材をお願いすることになる。足を運んでみると、改めて福島はけっこう広かった。でも、五人、十人、十五人と進むうちに、その行為自体が前に進む糧になっていった。そのモチベーションの奥には、お互い悔しいという気持ちがある。皆さんから伝わってくる、怒りや憤り。
 ある人がおっしゃっていました。怒りや憤りは、常に新鮮にしておく必要がある、この新鮮さこそがまた次の力にもなる、と。それは、臥薪嘗胆に近い。ある時、何かあれば爆発させることができるみたいな。
「ふるさとをあきらめない、福島に生きる、と和合は書いているが、避難させないことに責任をとれるのか」と言われることもある。
 僕は、避難しない人が悪いんだという考え方で終わらせたくない。不条理を作ってしまった。そしたら、そこはそのままにしてあきらめて、避難すればいいじゃないか、そうしてふるさとを放棄していったら、いろんなところに空白地帯ができてしまう。不条理が不条理のまま残る。目をつぶるんじゃなくて、目を開いて、日本人全体の問題として考えるべきだと僕は思う。
 日本の歴史の中で、何の罪もない人が、ある日をもって「被る人」となり、優者と劣者という構図をつくってしまう土壌がこの国にはある。沖縄、水俣、広島、長崎がそうです。
 今回、福島ナンバーやいわきナンバーの車が傷付けられたり、罵声を浴びたりする話を何人もの人から聞いた。
 鈍い痛みを抱えながらも、僕たちは日本人の感情の基層を壊すようなことをしなければいけないと思っています。 (わごう・りょういち 詩人)

b013eeba6a68977efa19868d57a21cdd-360x360.jpg
和合亮一/ワゴウ・リョウイチ

1968年福島生まれ。福島市在住。詩人。高校の国語教師。『AFTER』(思潮社)で中原中也賞受賞。『地球頭脳詩篇』(思潮社)で晩翠賞受賞。2011年3月11日、伊達市にある学校で被災。避難所で数日過ごした後、自宅からツイッターで詩を発信し続け大反響を呼ぶ。近著に、『詩の礫』(徳間書店)、『詩の邂逅』(朝日新聞出版)、『詩ノ黙礼』(新潮社)など。ツイッターは今も続けられている。

「立ち読み」も出来るのでアクセスされたい。


---------------------------------------------------------------------
和合亮一については、昨年に詩集を採り上げた。今もっとも注目を浴びている現代詩人である。
何と言っても、被災地の福島にずっと住んでいるというのが強みである。
東日本大震災一周年を前にして、この本を採り上げた次第である。
明日付けでも、もう一冊採り上げる予定である。


コメント
コメント
sohya 様
こんにちは~
最後のV、何か胸に来ますね。
そして、おバカな政府に余計に腹が立ちます。
2012/03/09(金) 14:47:06 | URL | ももたろう #- [ 編集 ]
美しいG線上のアリア・・・
それに被る力強い言葉。
高台へ、高台へ・・・

涙が止まりません。
日本人の誇りを感じました。
2012/03/09(金) 20:59:12 | URL | 阿修羅王 #QmhNi1cU [ 編集 ]
ご覧いただき有難うございます
■ももたろう様。
■阿修羅王さま。
お早うございます。
ご覧いただき有難うございます。
あの惨事に詞(ことば)を失っておりましたが、
こういう立派な「詩」を書く人も居るのだと、
改めて「文芸」「芸術」の力を再認識する次第です。
色々の意味で、それぞれの立場で3:11を厳粛に
受け止めたいと思います。
では、また。
2012/03/10(土) 06:06:25 | URL | sohya #- [ 編集 ]
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバック URL
トラックバック
copyright © 2020 Powered By FC2ブログ allrights reserved.