FC2ブログ
K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
202007<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>202009
三井葉子詩集『灯色醗酵』を読む・・・・・・・・・・・・・・ 中西弘貴
わかば頃
三井葉子

──三井葉子の詩・句──

     三井葉子詩集『灯色醗酵』を読む・・・・・・・・・・・・・・ 中西弘貴

<ま>の創造──三井葉子詩集『灯色醗酵』を読む・・・・・ 中西弘貴

一読、甚だ突飛ですが、直感的に太宰を思いました。
なぜ太宰を思ったのか、繰り返し『灯色醗酵』を読み、まだある筈の太宰治全集を捜し
出し、何十年ぶりかで、読み返してみたりしている間に、かなりの時間が経ってしまいま
した。このまま拘っていますとお礼状も出せずじまいになりそうですので、感想を書き記
すことにしました。

  「死なうと思ってゐた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉として
  である。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられてゐた。これは
  夏に着る着物であらう。夏まで生きてゐようと思った。

太宰の『晩年』の巻頭作「葉」の書き出しです。

詩集名にもなつている「灯色醗酵」

    善人なをもちて往生をとぐ。いはんや悪人をや

  このお文章に出会ったのはわたしには大事件であった。どうしたら生き
  られるのか分からなかったわたしのむねに、とつぜん灯がついた。
  価値を作るのは世界を作ることである。
                        (「灯色醗酵」)

この、麻の布地を貰って夏まで生きようと思ったという出会いと、親鸞のお文章に出会
い生きられると思ったという、事物・事柄と生きるという思いとの出会い。親鸞のお文章
に出会ったことと、麻の布地を貰ったことの、比較ではなく、何かとの出会いにより、「生
まれられる」「生まれられる」と思ったことと、「生きてゐよう」と思った呼吸に、なんと
なく共通のものを感じたのでした。
「虚構に出会ったのよ」という詩語からも同様の呼吸を感じました。
太宰の、特に初期のころの作品は、虚構と告白が織り成す特異な文体がみられます。虚
構は告白によって支えられ、告白は虚構の妙のうちに為され、作者の眩きが導入されて告
白と虚構の一致という独特のかたちが創出されていますが、三井さんの『灯色醗酵』に同
じょうなものを感じ取つたように思えます。

虚構と告白の一致。どれが虚構でどれが告白かの詮索ではなく、虚構と告白が互いに織
り成して創出された世界。虚構が発するものと告白が発するものとの間の世界。詩集を読
んでいくと、この<間>〈ま〉が、本詩集の核となっているように思えます。
たとえば、
「現代詩」
「リンゴのひと切れを歯でたのしみ/歯から舌に渡るまを世界と呼び」の渡るまの
〈ま〉。
「夢刺し」
「地獄と極楽のあいだは川が流れていたので/わたしは川を渡るゆめをみた」という
〈あいだ〉。
「橋上」
「あの世とこの世を彼岸と呼び此岸と呼び/虚空には/橋が/懸かっているといい
ますが」の〈虚空〉。
「長雨」
「うつらうつらしているまに暮らし向きが変わるんだろうか」の〈ま〉。
「カミ笑い」
「ヒトとヒトの間にはうつすらとしたミドリの線があり/皮膚のようにヒトを守って
いる」の〈間〉。

「価値を作るのは世界を作ることである。」という「世界」は、「歯から下に渡るま」の
世界であり、その〈ま〉をもって「虚構に出会ったのよ」と断言しているように思えてなり
ません。
〈ま〉とは、時の間、であり、空の間、であり、そして人の間に他なりません。
〈ま〉の造形へ。「虚構の庭は五色の花びら」。三井さんの詩はまさにそこに咲くのでしょう。

   そんならわたしも生きられると十八のわたしは思った。生きられる、で
   はなく生まれられるとわたしは思った。死に死にて生き生きるいのちで
   ある。
虚構──価値を作る──世界を作る──生まれられる
虚構に出会った── 〈詩〉との出会い——虚構の創出——〈ま〉の造形
読者であるわたしの想像が、このような思念を巡らせ、『灯色醗酵』に〈ま〉の創造とい
うことを読み取りました。〈詩〉を語る作品が多くあります。

   詩は連続せずに
   切るので切るということがその姿のうちにあり詩を書くわたしは
   切って傷んでいたかもしれない。

   散文は山の池に写っている
   どこかに行きたかったスカ—トをひっばって
   流れて行く
   秋の雲
                (「夕雲」部分)

詩は切る。散文は流れる。これは作品「姐」でいう「そうか/詩人にとって個体こそが
自律スルが、散文では関係こそが生きると/いうことなンャなァ」に呼応し、散文は〈ま〉
を埋め詩は〈ま〉を創出する。そしてその〈ま〉は、「いのち懸けを あ、そうか/ひょうき
んというのだな」とする軽妙さをも指し示し、また「山里で暮らしていると/眼に入るも
のがゆれている//町にきて/ビルディングの大きな窓から外をみると//朝も昼も/お
んなじ/こんな力サブタを土のうえに作っていたのか」(「現代詩」)と痛烈に力サブタのよ
うなこの国の現代詩を撃ち抜きます。
粟津則雄氏が栞文でいう「秘められていたものがあらわになったことで、ことばのひと
つひとつが、その意味合いと色合いを変える。そして、それぞれ他のことばと新たな関係
を結ぶのである」とは、秘められた〈ま〉が、三井さんの手によってあらわにされたことで
あり、その〈ま〉によつて新たな関係が生み出されるのでしょう。

漢字──ひらかな——カタカナ
三井さんはこの〈ま〉を生み出すために表記の文字を縦横無尽に使い分けます。
一行の文字数から行変え、行空けによる空間の創出。句の挿入により語りと呟きの表現
効果。挿入された句や詩語の語尾に付されるカタカナ表記によって読者に作者自身の呟き
を思わせます。(この作者を思わす眩きの術にも太宰を思いました。)

   詩人か。
   ソンナモン、最低やと小説家の姐はいう。

という書き出しを持ち

   ホンマモンなんてこの世にある力イナと言われそうでアルのを、ひそ
   かにおそれているのである。
   姐よ。

と結語する作品「姐」がとても面白く、 三井さんの虚構と告白の〈ま〉を描いて絶妙と思
いました。

  「ことしも咲いて出る 梅」の、おんなとおとこの〈ま〉
  「日はまた沈む」での、日がのぼり日は沈む〈ま〉
  「断絶」でみる、断絶と共生の〈ま〉
  「踏み返し」では、ウソと実の〈ま〉

たくさんの 〈ま〉のかたちを読ませていただきました。
-----------------------------------------------------------------------
今日とどいた『若葉頃』2012/No.64に載る中西弘貴氏の評論を引かせていただいた。立派な評である。
いま調べてみると、中西弘貴氏は、「富田砕花賞」の第19回 2008年(平成20年)の受賞者らしい。
中西弘貴「飲食」、松尾静明「地球の庭先で」の二人受賞となっている。

『灯色醗酵』については昨年の発行直後に書いた←私の記事を参照されたい。


(お断り)中西弘貴氏の文章はスキャナで取り込んだので、どうしても字の文字化けが生じる。
     殆どは修正したが、もし、おかしいところがあれば指摘いただきたい。直します。よろしく。



コメント
コメント
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバック URL
トラックバック
copyright © 2020 Powered By FC2ブログ allrights reserved.