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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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草弥の詩作品『修学院幻視』 序詩・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
627px-Emperor_Go-Mizunoo3後水尾院
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──草弥の詩作品──(76)──<後水尾院シリーズ>(2) 

    『修学院幻視』 序 詩・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

後水尾院
後陽成天皇の第三皇子。名は政仁(ただひと。即位後、ことひと、に改める)。慶長十六年(1611)、十六歳で即位。
後陽成院は弟・八条宮智仁親王への譲位を望み、父子の間は不和が続いた。
元和三年(1617)、後陽成院は崩御。同六年、徳川秀忠の娘和子(まさこ)を中宮とする。
幕府より多大な財政援助を受ける一方、朝廷の無力化をはかる施策には反発し、
寛永四年の紫衣事件が直接の原因となって、
寛永六年(1629)、皇女である興子(おきこ)内親王に譲位(明正天皇)。
以後、四代五十一年にわたり院政をしいた。
和歌を重んじ、廃絶しかけていた宮中の行事を復活させるなど、朝廷の風儀の建て直しに努めた。
慶安四年(1651)、落飾し法皇となる。延宝八年(1680)、老衰により崩御。八十五歳。
泉涌寺において葬礼が行われ、月輪陵に葬られた。
和歌約二千首を収める『後水尾院御集』(鴎巣集ともいう)がある。
二十一代集以下の諸歌集から一万二千余首を類題に排列した『類題和歌集』三十一巻、
後土御門天皇以後の歌人の歌を集めた『千首和歌集』などを編集した。
叔父智仁親王から古今伝授を受けている。
和歌のほかにも立花・茶の湯・書道・古典研究など諸道に秀で、寛永文化の主宰者ともいうべき存在であった。
『玉露藁』『当時年中行事』『和歌作法』など著作も多い。洛北に修学院離宮を造営したことは名高い。
女性関係は派手で、男女あわせて三十七人の子を産ませている。
禁中法度を無視して宮中に遊女を招き入れたり、遊郭にまでお忍びで出かけた、と言われている。
退位して「上皇」になってからも中宮・和子以外の女性に三十数人の子を産ませ、五十六歳で出家して法皇になった後でも直らず、五十八歳で後の霊元天皇を産ませた。

【仙洞御所】
京都御所の東南にある。
仙洞とは上皇の御所の意で、寛永六年(1629)後水尾上皇の御所として、徳川幕府が桜町の地を相して造進した。
故に桜町宮または桜町の仙洞とも称した。
爾来、霊元・中御門・桜町・後桜町・光格各上皇の仙洞となった。
その間、数度の火災に焼亡し、寛文以後は再興されなかったから、今は庭園だけが残っている。

庭園(江戸)は三部分よりなる池泉廻遊式の観賞庭園。
寛永十一年(1634)小堀遠州が泉石奉行となり、庭師賢庭を用いて作庭したと言われ、
東西約百メートル、南北三百メートルの広大な地に大池をつくり、奇岩怪石を配置し、
古木老樹を植えて深山幽谷の景観を現わしている。
このうち北苑の池泉は巨石を組んで「真」の山水とし、桃山時代に行われた書院式廻遊庭園としての様式がとられている。
中苑の池泉は東部滝組を中心にして行体の景を示し、八ツ橋を架け、小田原石を敷いて浜を作り、中島を設け、爽快な池泉庭園としての景観を形成している。
なお北苑北隅の一潭を「阿古瀬淵」といい、紀貫之の旧栖地と伝え、渡忠秋撰文の石碑が建っている。

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先に発表した詩につづく<後水尾院シリーズ>である。
これらは草稿であるから大幅に推敲される余地があることを了承されたい。


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