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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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木村重信『世界を巡る美術探検』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
重信

──新・読書ノート──

      木村重信『世界を巡る美術探検』・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・・・・思文閣出版2012/07/01刊・・・・・・・・・・

私の兄・木村重信の最新刊の本が贈られてきた。
長年あちこちをフィールドワークして来た彼の集大成とも言えるものである。
Ⅰ ヨーロッパ、Ⅱ アジア、Ⅲ アフリカ、Ⅳ オセアニア、Ⅴ アメリカ と章立てされているが、その中から、一番はじめの記事を引いておく。

  Ⅰ ドル二—・ヴィエストニツェ(チェコ)・・・・・・・・・・木村重信
         氷河時代のテラコッタ製女性像

狩獵漁撈民にとって絶好の地
二〇〇九年五月、諸新聞はドイツ南西部のホ—レ-フェルス洞窟で、約三万五〇〇〇年前の氷河時
代の女性裸像(いわゆるヴィーナス像)が発見されたと、写真つきで大きく報じた。高さ約六センチ、
重さ三三グラム、左の肩と腕が欠損しているが、巨大な乳房と大きな腹、女陰を示す逆三角形が際
立っている。同時に長さ21.8センチのハゲワシ骨製の笛も見出された。
後期旧石器時代のこのような女性裸像は、西はフランスから、イタリアや中・東ヨー口ツパを経て
東はシベリアのバイカル湖畔までの広い地域から、約六〇点発見されている。サイズは10センチ内
外の小さい像が多く、最大のサヴィニヤ—ノ-スル-パナ—口像(イタリア)が22センチである。
これらの女性裸像は動物の骨や牙、石でつくられているが、ただ一つ、テラコッタ(粘土 〈テラ〉
を焼いた〈コッ夕〉もの)製がある(図1左)。出土地はチェコのドル二ー-ヴイェストニツェであ
る。最古の焼成土器は約一万年前にイランでうまれたと考えられているから、それより二万年も前の
後期旧石器時代にテラコッタ製の彫刻がつくられたことは、大きな驚きである。
二〇〇六年七月下旬、私はブルノから約四〇キロ南方のドル二—•ヴィエストニツェに車で向かっ
た。国道E65をフストべチェで降りて少し行くと、前方に東西に長ハノヴェー •ムリ—二湖が見え、
その湖を道路が横断している。その横断道路が終わったところに、ドル二 ー.ヴィエストニツェ村が
ある。ドル二 ーは「低い」の意である。
この村は数十戸の小さい集落であるが(図2)、その中心のバス停留所のところに二階建の考古学陳列館
がある。その二階の窓から外を眺めると、東方のパヴロヴ髙地に口 —マ時代の城塞ディ—ヴチ—.フラディ
が見え、南方の山地にもシロトチー.フラ—デク城の廃墟が望まれる。
北方と西方には先述の湖と、それに流入する、北からのスブラト力川と西からのデイエ川がひろがる。
この地形を見て私は、ここが旧石器時代の狩獵漁撈採集民にとつて絶好の生活の場であったことを実感
した。なぜなら川、湖、山や谷といった地形が、落し穴や追い込みによる獣の狩猟、魚や貝類の漁撈、
木の実の採集にきわめて恵まれているからである。またパヴロヴ高地にロ —マ帝国の守備隊の本拠(ムショヴ)
が置かれたように、獲物である獣を見張るのにも最適の地であった。

マンモス•ハンタ—の生活
陳列館は小ぢんまりした規模であるが、内容は充実している。戦前のカレル•アブソロン(1924~38年)
以来の長年月にわたる発掘調査によって、数多くの遺品が発見された。とくこ第二次大戦後、近くの
パヴロヴ高地の東斜面で、約四平方キロにわたる広大な居住跡が見出され、調査は現在も続行中である。
出土した多くの石器、骨角器(動物の骨や角でつくられた道具や武具)などの遺品に即して、陳列
館では後期旧石器時代人の生活が示されている(女性裸像などの彫刻はブルノのモラヴィァ地方博物
館にあり、ここには複製が展示されている)。それによると、当時この地に住んだ人びとはマンモ
ス•ハンタ—であった。マンモスは季節的に群れを組んで移動するが、通過する谷は毎年きまってい
た。したがってスブラト力川とディェ川が合流するノヴェー •ムリ— 二湖畔のドル二— ・ヴィエスト
二ツェは最良の猟場であった。かれらの武器は投矢と投槍で、弓はまだ知られていなかつたから、マ
ンモス猟は落し穴や追い込みによっておこなわれた。このことは、ここから約一〇〇キロ北東のペチ
ヴァ河畔のプルシェドモスティ—遗跡によつて証明される。この遗跡には六〇〇頭以上のマンモス骨
の堆積があったが、そのなかに食糧獲得や道具製作のためにはあまり有用でない幼獣が多く含まれて
いたからである。
ドル二—・ヴィエストニツェでは、旧石器時代人の生活層が黄土の厚い層に覆われていた。この黄土
は紀元前二万年頃に堆積したが、平地に建てられた住居や生活遺物はすべてその黄土層の下にある。
皮葺き屋根をもつ住居の平面は円形ないし楕円形で、複数の炉があった。炉の近くから石器や骨角器、
テラコッタ製動物像が多く見出された(図3)。またマンモス骨を含む、大きな貝塚が発見されてい
るから、湖や川での漁撈も大切な生活の手段であったことがわかる。
ある住居跡の端に墓があり、四〇歳ぐらいの女性の遺骸が見出された。遺骸は身体の右側を下にし
て、二つのマンモス肩胛骨に覆われ、頭蓋骨には赤色が塗られていた。赤色は生命(血)の表象とし
て、他遺跡の遺骸にもほどこされている。ここの生活層からは、三人の青年の遺骸も見出されている。

出産願望の「ウイ—ナス像」
陳列館の出土状況を示す地図によると、先述の女性裸像は、村の少し東のノヴエー .ムリ—二湖畔
の、紀元前二万七〇〇〇〜二万五〇〇〇年の層から見出され、そのすぐ近くから各種動物像が出土し
た。これらはいずれも、マンモスの骨を焼いた灰と粘土を混ぜ、人物や動物に成形した後、火で焼き
締めたものである。このような技術の発明によって、非常に自由な造形が可能となり、人物や動物の
姿態が的確にとらえられた。 (以下、略)

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多くの人によって、広く読まれることを期待する。
本文はスキャナによって取り込んだが、どうしても文字化けが生じる。出来るだけ修正したが、見苦しいものがあれば指摘されたい。修正します。

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