FC2ブログ
K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
202007<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>202009
草弥の詩作品『後水尾院葬送記』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
800px-Sennyuji_Kyoto11o4592月輪陵
↑ 泉涌寺山内の月輪陵。後水尾天皇から孝明天皇までの歴代25の天皇が葬られている
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■


──草弥の詩作品──(79)──<後水尾院>シリーズ(10)

      『後水尾院葬送記』・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

洛北の山荘を訪ねる後水尾院のあとには、必ずといってよいほど東福門院の姿があった。
晩年のお二人の円満な様子は、前半生を思えば、想像も出来ないほどの仲の良さであった。
徳川秀忠の娘・和子(まさこ)としての入内から後水尾院の譲位に至る朝幕の確執は、
想像に絶する苦しみを東福門院にもたらしたのだろうが、
そうした困難をはねかえすだけの大きさが東福門院にはあった。
女御と呼ばれていた入内当時から、東福門院の難しさを支えていたのは、
化粧料一万石と言われる経済力であった。
入内当時、禁裏御領全体と殆ど同額の公式な収入が女御御所にはあったからである。
東福門院の派手好み、衣装好きは有名だったらしく、当時の京都有数の呉服商だった
雁金屋尾形家の資料に女院からの注文が残るという。
東福門院は三十七人にのぼる子供たちの良き母親でもあった。
ことに後光明天皇(一六四三~一六五四在位)、後西天皇(一六五四から一六六三在位)、
霊元天皇(一六六三~一六八七在位)三人の親王を自分の子として即位させたことは、優れた配慮だった。
東福門院自身から生まれた二人の親王は早逝し、明正天皇(一六二九~一六四三在位)一人が女帝として
即位しただけで、その後に生まれた親王たちはすべて他の女房から生まれている。
後光明天皇は京極局、後西天皇は逢春門院、霊元天皇は新広義門院を実の母としているが、
これらの女房たちには全く経済力はない。
もし禁中最大の経済的実力者・東福門院と反発しあうことになったら無用の摩擦が起きるだけであり、
そこで東福門院は、親王が即位するにあたって、
わが子として扱い、経済的にバックアップしたのである。
また内親王に対しても、その配慮は行き届いていた。
ことに東福門院入内に際して最大の難関となった「およつ」御寮人の娘・梅宮に対して深切なるものがあった。
後水尾院が修学院山荘造営にあたり、可愛がっていた梅宮すなわち文智女王の円照寺を大和国に移したが、
その寺領として寄進するだけでなく、幕府に命じて寄進させている。

東福門院は、延宝六年六月十五日にわかに病状があらたまって臨終を迎えたが、文智女王に従っていた文海尼ただ一人招いたのであった。
記録には

   法皇御愁傷、以ての外の躰也

と書かれている。 
時に、東福門院は七十二歳、後水尾院は八十三歳。 
この日、元和六年(一六二〇)の入内から、ほぼ六十年に及ぶ二人の生活が終わったのだ。

東福門院の死を悼んで、後水尾院は歌をお作りになった。

     東福門院崩御の時、弥陀の六字を句の上に置きてあそばしける

  南(な)に事も夢の外なる世はなしと思ひしこともかきまぎれつつ

  無(む)かひゐてたださながらの俤に一ことをだにかはさぬぞうき

  阿(あ)け暮れにありしながらのことわざも目の前さらに見る心地して

  弥(み)ぬ世まで思ひのこさずとばかりも此の一ことを何にかふべき

  陀(た)れに思ひ聞きてもみても驚かぬ世をばいつまで空たのみして

  仏(ふ)たたびはめぐりあはむもたのまれずこの世を夢の契りかなしも

八十の賀を過ぎてもなお元気だった後水尾院も、延宝五年(一六七七)に晩年の愛妃・新広義門院を亡くし、
翌年東福門院を失ってからは、急に衰えを見せてきた。
後水尾院は、東福門院のあとを追うように、その二年後、延宝八年八月十九日早朝、崩御され、泉涌寺内の月輪陵(つきのわのみささぎ)に葬られた。

納棺の際の様子について堯恕法親王の日記に詳しく書かれている。
『後水尾院御葬送記』によると、「上段に徽宗皇帝の三尊仏が掛けられ、屏風には不動の像が掛けられた。
院の体は文智女王と朱宮の手で沐浴され、北首西面に安置され、枕元に酢を入れた鉢が置かれた。暑気が激しいから臭気を取るためである。
屏風の絵を外にして引きまわし、中の机に本尊と香炉を置いた。翌日納棺である。・・・・・」

念のために、泉涌寺について書いておく。
ここには後水尾院をはじめとして孝明天皇までの二十五人が葬られている。恐らく天皇には「戒名」も付けられていたと思われる。

泉涌寺 伽藍
総門を入ると、参道の左右にいくつかの塔頭(山内寺院)がある。
長い参道の先にある大門(重文)をくぐると、左手に楊貴妃観音堂があり、正面には伽藍の中心をなす仏殿(重文)、舎利殿が建ち、これらの背後に霊明殿、御座所など
皇室ゆかりの建築があり、その背後に月輪陵がある。
大門(重文)-慶長年間(江戸時代初頭)造営の御所の門を移築したもの。
楊貴妃観音堂-大門を入ってすぐ左手の奥まったところに建つ。中国・南宋時代の作である観音菩薩坐像(通称楊貴妃観音)を安置する。
心照殿-楊貴妃観音堂に接して建つ宝物館で、泉涌寺および塔頭寺院所蔵の文化財を順次公開している。
仏殿(重文)-寛文8年(1668年)、徳川家綱の援助で再建したもの。密教寺院の中心堂宇は「本堂」「金堂」と称することが多いが、当寺では宋風の「仏殿」の呼称を用いる。
内部は禅寺風の土間とし、柱、窓、組物、天井構架等の建築様式も典型的な禅宗様になる。本尊は過去・現在・来世を表す釈迦・阿弥陀・弥勒の3体の如来像を安置する。
天井の竜の図と本尊背後の白衣(びゃくえ)観音図は狩野探幽の筆になる。
舎利殿-仏殿の背後に建つ。俊芿の弟子湛海が南宋慶元府の白蓮寺から請来したという仏牙舎利(釈尊の歯)を安置する。
霊明殿-天智天皇と光仁天皇から昭和天皇(南北両朝の天皇も含む)に至る歴代天皇皇后の尊牌(位牌)を安置する。1884年の再建。
御座所-仏殿・舎利殿の背後に建つ。安政年間(江戸時代末期)に建立され、明治天皇が使用していた旧御所の御里御殿を1884年に移築したもの。
女官の間、門跡の間、皇族の間、侍従の間、勅使の間、玉座の間などがある。
玉座の間は、天皇皇后が来寺した際に休息所として使用する部屋である。
平成期(1989年-)に入ってからは、即位報告(1990年)、平安建都1,200年記念(1994年)、在位10年の報告(1999年)などの際に今上天皇が泉涌寺を訪れ、この部屋を使用している。
海会堂(かいえどう)-御座所に接して建つ土蔵造の仏堂。屋根は宝形造。
元は宮中にあり、「黒戸」と呼ばれていた仏堂を明治元年(1868年)の神仏分離令発布を機に泉涌寺に移築したものである。
かつての天皇、皇后、親王らの念持仏(守り本尊)20数体が安置されている。

なお京都市上京区の相国寺境内には後水尾天皇の毛髪や歯を納めた、後水尾天皇髪歯塚が現存する。
八十五歳という長寿だった。
因みに、この長寿記録は、昭和天皇によって破られるまで、歴代天皇の中で長年、群を抜いて一位だった。
その最晩年は、却って長寿の淋しさが、後水尾院を襲ったであろう。
二十五人いた兄弟姉妹のうち存命者は二人のみ。四歳年下の弟で仲のよかった近衛信尋は、
すでに三十一年前に歿している。
近衛家の陽明文庫に残る百数十通の院との勘返状(往復書簡)を見ると二人の頻繁な文の
やり取りの繁きことが手にとるようにわかるという。
佐野紹益と島原の名妓・吉野太夫を争ったという粋な話は先にしたことが思い出される。

諡号は、遺詔により「後水尾院」とされた。
水尾帝とは清和天皇のことで、徳川家が清和源氏を祖とすると名乗っているので、
その徳川氏を上回るとの意思が見える。
数々の経緯のあった徳川氏とのことを思えば、うたた感慨を覚える心地だったのだろう。

辞世のお歌は

   ゆきゆきて思へばかなし末とほくみえしたか根も花のしら雲

いまわの際(きわ)に後水尾法皇は幻を視(み)られた。
修学院山荘の浴竜池の大池に舟が浮かんでいて、およつ御尞人、新広義門院と東福門院が
仲良くこちらを向いて微笑んでいる。


コメント
コメント
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバック URL
トラックバック
copyright © 2020 Powered By FC2ブログ allrights reserved.