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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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草弥の詩作品「およつ御寮人」・・・・・・・・・・・・・木村草弥
o0400030011955918403東福門院像 光雲寺
 ↑ 東福門院像 光雲寺
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──草弥の詩作品──(80)──<後水尾院シリーズ>(6)

     およつ御寮人・・・・・・・・・・・・・木村草弥

「およつ」と呼ばれていた此の女性は、儚い数奇な人生を辿った。
禁中に上がって女官「典侍」という地位にいたが、若い後水尾帝の
寵愛を受けて二人の皇子と皇女を生んだ。
名は四辻与津子というので「およつ御寮人」と呼ばれていた。
生年は分かっていない。 一六三八年に歿している。
丁度この頃、徳川秀忠の娘・和子(まさこ)入内の話が出て、
その最中に天皇に寵愛する女が居て、子を成していることが分かり、
徳川家が怒って一悶着あった。
近臣を罰するなどの詫びを入れて、元和六年(一六二〇)に和子が
女御として入内した。
「およつ」の生んだ第一皇子・賀茂宮は四歳で一六二二年に歿し、
第一皇女・梅宮・文智女王は、十三歳で鷹司教平に嫁したが、
三年足らずで離縁。
およつの死後は和子女御──後には中宮が育て、後水尾帝も可愛がった
ので「円照寺」住持として傍に置いていた。
円照寺は修学院山荘の敷地の一角にあったが、山荘の整備のために
大和に移されたが、寺領を幕府に寄進させるなど、和子は多大の援助
を注いだ。
文智女王は、後年にこんな詩を和子に贈っている。

   思碧潭
君在洛陽我嶺南  屢難飛錫侍清談
思看宮裡凭欄日  玉兎移輪浸碧潭

この自作の詩に詳細な自註を施しているのが知られている。
それは「女院様を慕うにつけて御所の碧潭の額を思うの詩」の意とある。
文智女王は文才があったので後水尾帝も可愛いくて仕方なかった。
かつて和子(東福門院)の入内によって母およつ御寮人は後水尾帝の側から
引き離され、兄・賀茂宮は皇統の一族から、その名を抹消された。
それらのことを見てきた梅宮・文智女王である。
東福門院その人に怨みはなくとも心うちとけぬ日々もあっただろう。
もはやあれから半世紀。
今では蔭となり日なたとなって文智女王を援ける東福門院のやさしさが
身に沁みるばかりであった。
その仲立ちの労を取ったのが、かつて東福門院の侍女であり、のちに
「円照寺」住持となった文智女王に帰依して尼僧として仕えた文海尼
であった。
文海尼は上賀茂の社家松下家の出身。母は梅宮の幼いころに乳母を務めて
いて、因縁は浅くはない。
寛永七年(一六三〇)生まれだから東福門院の侍女・相模(さがみ)として
仕えたが、東福門院は相模を大いに信用し、二十二歳で出家し文海と名を得て
仏道の学問に親しんだ後も、法談を聴いたこともあった。
文智女王が出京できないときは文海が替って京都と奈良を往復して仲介の役を
果たしたのである。
東福門院が歿するとき、文海尼だけを招いたことが、その最もよき証拠である。

梅宮・文智女王は、一六一九年生まれ。一六九七年に歿しているが長命だった。


  
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