
小 扇・・・・・・・・・・・・・・・・津村信夫
・・・・・・嘗つてはミルキイ・ウエイと呼ばれし少女に・・・・・
指呼すれば、国境はひとすぢの白い流れ。
高原を走る夏季電車の窓で、
貴女は小さな扇をひらいた。
この詩は『さらば夏の光りよ』という津村信夫の詩集の巻頭に載るものである。
この本は奥付をみると昭和23年10月20日再版発行、京都の八代書店刊のものである。
戦争直後のことで紙質は悪く、表紙もぼろぼろになってしまった。
こんな名前の出版社は今は無い。
その頃は紙が不足していて、紙の在庫を持っている会社を探して、とにかく出版にこぎつける、というのが多かったらしい。
私は、この年には旧制中学校を卒業してフランス語を学びはじめた頃である。18歳になったばかりの少年だった。
この短い詩は暗誦して愛読した。

写真②は、復元された「草軽鉄道」の車両の内部である。
詩の中で「夏季電車」と書かれているのは、恐らく、この鉄道であろうと思われる。草軽とは草津と軽井沢の地名であろう。
この本の「年譜」の中で、彼の兄・津村秀夫は、こう書いている。
・・・・・時に、良家の一少女を恋し、これを自ら「ミルキイ・ウエイ」と呼ぶ。詩作「小扇」及び「四人」に掲載せる散文詩風の手記「火山灰」はすなはちその記念なり。総じて『愛する神の歌』の中の信濃詩篇を除く他の作品は、おほむねこの少女への思慕と、若くして逝ける姉道子への愛情をもとにして歌へるものといふべし。・・・・・
室生犀星に師事したことがあるが、彼を識るようになったのも、夏の軽井沢であると書かれている。
この詩の「国境」というのは「くにざかい」と読むのであろう。
この詩は、極めてロマンチックな雰囲気に満ちたもので、この本を読んだ頃、私は、こういうロマンチックな詩が好きだった。
津村信夫は昭和19年6月27日に36歳で病死する。
若くして肋膜炎を患うなど療養に努めてきたが、晩年には「アディスン氏病」と宣告されたというが、私には、この病名は判らない。
この詩の二つあとに、こんな短い詩が載っているので、それを引く。
ローマン派の手帳・・・・・・・・・・津村信夫
その頃私は青い地平線を信じた。
私はリンネルの襯衣の少女と胡桃を割りながら、キリスト
復活の日の白鳩を讃へた。私の藁蒲団の温りにはグレ
ーチェン挿話がひそんでゐた。不眠の夜の暗い木立に、
そして気がつくと、いつもオルゴオルが鳴つてゐた。
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この詩も題名からしてロマンチックである。
津村信夫は、私の十代の青春とともにあった記念碑的な名前である。
(追記)
いま届いた「現代詩手帖」2012年9月号は「杉山平一」特集をしているが、その中に
国中治「杉山平一という複合体」─<近代>を体現する方法
という5ページにわたる文章が載っている。
その文章の末尾に、杉山最後の詩集『希望』から
花火が
パラソルをひらいた
その下に きみ
という短詩を引き、
<この詩の隣にはぜひ津村信夫「小扇──嘗つてはミルキイ・ウエイと呼ばれし少女に」(『愛する神の歌』所収)を置いてみたい。
映画のモンタージュ技法を詩に適用した成功例として、杉山が青年時代から繰り返し言及・称揚してきた作品である。
<小扇>が花火の<パラソル>となって清楚に花開くまでの長い長い年月を、やはり想わずにはいられない。>
として、私が掲出した、津村の、この詩を置いて締め括りにしていることを書いておきたい。
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