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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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日向輝子歌集『夕ぐれの記憶を探しに』・・・・・・・・・・木村草弥
日向輝子

──新・読書ノート──

    日向輝子歌集『夕ぐれの記憶を探しに』・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・・不識書院2010/10/30刊・・・・・・・

この作者にも先日の『昭和』読む会にご足労いただいた。 ここに厚く御礼申し上げる。
著者は1955年生まれ。早稲田大学で国語国文学を学び、田井安曇主宰の短歌結社「綱手」に入った、という経歴くらいで、あとは分からない。
詠まれた歌にも私生活は描かれてはいなくて、夫や子供のことも歌に詠まない人である。

この本と一緒にいただいた第一歌集『綺想曲』の「あとがき」に、短歌をやるようになったきっかけとして、

<1991年春、夫の大阪転勤に伴って移り住んだばかりの家の窓から、東京よりもやや色の濃い桜が夙川の両岸を埋め尽くしているのが見えた。・・・・・
心の中で何かが弾け、これまでの私に貼られていたレッテルを破り捨て、知らないもので私の中を満たしてみたいと思った。
それが、何故かわからないのだが、歌だった。私の三十代も半ばを過ぎようとしていた。
思いつきのまま、西宮北口で開かれていたコープ神戸の短歌教室に飛び込んだ私は、そこで井上美地氏の指導を受け、
まもなく田井安曇氏主宰の「綱手」に入れていただくようになった。 >

と書いてある。
この第一歌集の「帯」に
  <古典の豊穣を/よく生きて、/新しい《うた》の/地平を展く/才女の歌!/注目の第一歌集>
と、ある。
このキャプションは、もちろん編集者の書いたものだが、第二歌集である本にも通底すると言えるだろう。

「夕ぐれの記憶を探しに」というタイトルも、しゃれている。
章建てとしては Ⅰ、長き不在   Ⅱ、記憶の器   となるが、
「長き不在」の中身が、よく摑めないので困る。 一応、抜き出してみる。

        長き不在
    あるはなくなきは数そふ世の中にあはれいづれの
      日までなげかん           小野小町


 あかねあわき夕ぐれのそら吹く風よ記憶の夏のささめきに似て

 七月となりたる空は湿りいて桜桃の実のはつかに苦し

 そら色の木槿の花は今日を咲き宏子あらざる十年は過ぐ

 また逢わんと言いしより過ぎし歳月よ木槿の末は軒を越えたり

 禅林寺太宰へ急ぐ人のなかに信子もあらず長き夕ぐれ   桜桃忌 六月十三日

 わが死者と思えど淡きかかわりに過ぎれば泛かぶ二十二歳が

 楊梅のくろぐろ熟るる真昼間は寂しくてならぬ光は降るに

 あなたの知らぬ十年は過ぎ闇のいろあわあわとして蛍とぶ見ゆ

 いま飛ぶは和泉式部のほたるかも夢よりながく水に光りぬ

 死者生者それぞれに見る水の辺の草に明るくほたる点れり

ここに出てくる人名は肉親のものではなく、若くして亡くなった友人の名だろうか。
太宰とか桜桃忌などの文字が出てくるのは、それらの人が太宰ファンだったのか。
太宰治『パンドラの匣』ゆかりの私としては、この一連は素通りできなかった。
この小説の「底本」となった『木村庄助日誌』をかいた木村庄助というのは私の亡・長兄だからである。
ここに書くのは適当かどうか判らないが、少し書いてみる。
「木村庄助」は結核療養中に太宰治に傾倒し私信を送るなど私淑して小説の習作などを書いていた。
病気が重くなり二十二歳で自殺して死んだが、遺言により『療養日誌』十数冊が太宰に贈られた。
この日誌はちゃちなノートではなく丸善で硬い表紙で製本された本格的なものである。
日誌には一冊ごとに金文字の題名が打ち込まれ、現存するものの題名は「太宰を想ふ」と名付けられている。
それを受け取った太宰の手紙なども全集の書簡集にも載っているような深い関係だった。
これらのことは『パンドラの匣』の解説などにも記載されて周知のことだが、一応書いておく。
戦災のために多くが焼失したが、残った日誌は「日本文学館」にページを開いて展示されていた。
後年、兄・重信の要請によって、残った二冊のみが美知子未亡人から返還され、先に書いたように重信の編集で「底本」として出版された。
太宰研究者・浅田高明氏や兄によると、単なる日誌ではなく「小説」として書かれた、という。
たしかに日誌を読んだ感じとしては、そう受け取っても間違いではないと言える。

私たち兄弟三人についてはWikipedia木村重信Wikipedia木村草弥に詳しい。    

先にも書いたが、この人は私生活を全く描かない。夫のことも子のことも何も分からない。
私などは妻も子も父も母も、姉兄妹も歌の題材として、どんどん詠んできた。「塔」の河野裕子なんかも詠んだ方だ。
それがいいというのではないが、鑑賞の糸口が摑めないというのも、もどかしいものである。
この作者の本の編み方として「引用」があちこちに見られることがある。
私なんかも自作、他作にかかわらず、詩歌を「引用」する癖がある。

また結構、社会的な関心もある人であり、たとえば蝦夷・阿弖流為(アテルイ)を詠んだ一連数首があったりする。一首だけ引いておく。

  謀られて都大路の日ざかりに首級をさらす蝦夷阿弖流為

東日本大震災発生以来、かの地に棲息した彼やアイヌへの差別や偏見などが、今の差別になぞらえて、見直されている。
私も昨年秋に採り上げたことがある。参照されたい。

以下、私の気に入った歌を順不同で引いてみる。

*卓上に幾夜かありて熟れてゆくラ・フランスという歪な果実

   *あのころ横浜・伊勢佐木町にほど近い中学校に通っていた私は、
    ベトナムの前線から「休暇」で横須賀に上陸した米国海兵隊員らが
    伊勢佐木町や元町あたりを散策する姿をよく目にした。まだ若い彼ら
    が発する異様な雰囲気。あれは「殺気」だったのだろう。


*花びらを谷戸に散らせる山桜そこに立っていて哀しくはないか
*たそがれの麻布谷町日和下駄荷風散人急ぐ足おと
*たりけりに終わりゆきける一日あり キッチンの夜れいぞうこは泣く
*スクランブル交差点渡るを待つに思い出づ補陀落寺の石蕗の花
*崩れゆく父の記憶の三月にバイカル湖あり 高く鳥は飛ぶ
*うつむきて濯ぎ物する日の暮れに「山笑」(ヤマワラウ)という言葉を聞きぬ
*ユビキタスわれの海馬に馴染まねばふり返るなく出でて行きたり
*薔薇の咲く私鉄沿線分譲地火曜日を行く豆腐屋の喇叭
*八月は俯きて過ぐ 法師蝉のこえの降りくるビルの谷間を
*光しろき空を横切る黒きあり風切羽を地に落として
*ハルニレの下を優雅に歩み来て鴉鳴きたり北の訛に
*わたくしは記憶の器 透きとおる冬の光にたぶたぶ揺れる
*二枚貝ひそと潮吐く 待つという徒労に冷ゆる春の片隅
*潔く五月の空のありたれば裹(つつ)み持ちいる係恋ひとつ

「山笑う」というのは俳句の季語である。山の季節ごとの季語がいろいろあるのである。調べてみられよ。
「ユビキタス」などという今流行りのコンピュータ用語なども、さりげなく取り込まれている。

作者の歌は、リアリズムで詠むというのではなく、一旦、取り込んだ現実を作者のフィルターで濾過して、「心象」風景として詠まれている。
けだし、歌作りの成道として読者の心に迫るものがある。
ただ先にも書いたが、一人合点のところがあり、読者には不親切なのが痛い。
しかし「夕ぐれの記憶を探しに」という題名にぴったりの歌作りとして成功している。

一緒にいただいた、所属する結社誌「綱手」には、作者の専門領域である日本の古典「平家物語」の評伝なども執筆されていて、作者の教養が偲ばれる。

この辺で不十分ながら鑑賞を終わりたい。個々の歌については余り言及しなかったが、お許しあれ。
快い興奮のうちに読了したことをお伝えしたい。

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