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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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草弥の詩作品「なぜ修学院なのか」・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
01-1修学院浴竜池
 ↑ 修学院浴竜池 
20060928122733修学院飾り棚
 ↑ 修学院茶屋 飾り棚
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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草弥の詩作品──<後水尾院>シリーズ──(9)

    なぜ修学院なのか・・・・・・・・・・・木村草弥

後水尾院を遡ること約八百年前、嵯峨天皇は在位中よりしばしば嵯峨山荘に行幸し、譲位後は歿するまで嵯峨院で過ごすことが多かった。
そして詩を文人たちに作らせたという。
嵯峨上皇の歿後、その皇女で淳和天皇の皇后であった正子は貞観十八年(八七六年)、嵯峨院を大覚寺と改め、嵯峨上皇の尊像、禅経文などを納めて礼拝する仏地としたいと望み、その二宮恒寂法親王を開山として勅額を賜り、嵯峨院の山荘は仏祖をまつる霊地へと替り、以来、禁中と深い結びつきをもつ寺として寺容を誇ってきたのである。
後水尾院の脳裏には、この嵯峨院のことが深く意識され続けてきたのだった。
嵯峨院は明らかに後水尾院の修学院のモデルであった。
後水尾院は、洛西の衣笠山なども候補地として調べさせたり、自らも洛北の岩倉や幡枝などに山荘を設営させたり、御幸したりしたが、気に入らなかった。
後水尾院は大覚寺にあるような「大池」が欲しかった。

話は時代を飛ぶが、後水尾院が修学院に山荘を造営されてから約七十五年後、近衛家熙は大覚寺門跡とともに修学院を訪れた記録が残っている。山科道安の『御記』である。
それによると、近衛家熙は山荘の作者を明快に断言している。
  <御亭をはじめ、御庭の一草一木に至るまで悉く後水尾院の御製なり。>
道安が尋ねる。
  <それは何とてあの遠き処を、遊ばしけるにや。>
家熙は、次のように語った。
  <ふと、あの山を御手に入てより、あの地勢山水を御考へにて雛形が出来て、草木をはじめ踏石捨石に至るまで、皆それぞれに土にて石形をこしらへ、その処に置い見て、恰好よきやうにあそばし、其の七八分も出来たる時分に、ござつつみの輿にのせ、平松可心、非蔵人某などを付られて見分に遣はさるること度々なり。>
非蔵人某とは赤松芸庵かも知れないと言われる。
造営はかなり長期にわたった。すでに明暦元年(一六五五)以前に隣雲亭が建っているのだから、万治三年(一六六〇)以後に茶屋が完成したのは確かだろう。
それが、上・中・下のどの茶屋なのかなどの資料はないし、この後にも工事は続いたであろう。

後水尾院が山荘造営の上で一番気になったのが八条宮の桂山荘である。すでに智仁親王は亡くなっている。
かつて譲位や和子入内をめぐって朝幕間の仲介に努力した智仁親王は、元和年間(一六一五~二四)に桂の里に茶屋を設け、次第に山荘としての体裁を整えていた。
智仁親王は寛永六年(一六二九)に歿し、しばらく荒廃するが、二代目・智忠親王に至って中書院が完成し、今日に至る姿が半ば出来上がった。
後水尾院は、ここを参考にしたいと考えたのであろう。
修学院の造営が進む明暦四年(一六五八)三月十二日、お忍びで桂へ出かけられた。後水尾院は、この忍びの御幸を含めて三回桂を訪ねている。

後水尾院が「大池」に拘られたことは先に述べたが、この地には水が無かったから、今の「浴竜池」を作るために堰堤を築き、山麓に至る流れの水を引き、さらに音羽川の水を引いて溜めた。
そのために山際の地形を造成した際の土を西側に盛って堤を築いた。堤は四段の石垣で約八メートルの高さとし、さらにゆるいカーブで幅広い盛土をもって約七メートルの高さを得て、あわせて十五メートルの高さをもつ堰堤としている。
当然、この堰堤は下の茶屋からみれば異様な姿を見せるので、ここに数メートルの高さの植え込みを作り、さらにその間に楓などを植えた「大刈込」の独特の景観を工夫したのである。
記録によると盗賊が侵入して放火され、隣雲亭も燃え落ちているから、今に残る隣雲亭が明暦以前のものと同じ位置かどうかは分からないが、少なくとも浴竜池が築かれてからの位置はほとんど変わらないと言われている。
前の大池、西浜を越えて遠望される松ヶ崎より岩倉方面の山々の風景は、後水尾院が眺めたのと余りかわらぬ姿をとどめていると思われる。
後水尾院は、嵯峨院が大覚寺として、嵯峨上皇の尊像、禅経文などを納めて礼拝する仏地となり、その二宮恒寂法親王を開山として勅額を賜り、嵯峨院の山荘は仏祖をまつる霊地へと替った故事に倣おうとなされたのは確かだった。
皇子の尊敬法親王に、この山荘を贈るべく寛文六年十月二十五日に「置文」(遺言)を書いておられるが、後水尾院より前に歿しておられ、この計画は実現せず、そのまま禁裏に所属することになった。
因みに、尊敬法親王は寛永十一年(一六三四)に五番目の皇子として出生、名を幸教。兄の後光明天皇の蔭にかくれて目立たない。幼くして、しかるべき門跡寺院への入室が運命づけられていた。
十一歳で青蓮院で得度し尊敬と号した。二十二歳で天台座主。ちょうど後水尾院が叡山領の一部を割いて修学院の山荘を造営しようとしたときの叡山の座主だったわけである。
先に書いた「置文」の書かれたとき三十三歳。
結論から言えば、この修学院に門跡寺院を建立する計画は実現しなかった。
後水尾院の「長寿」は、生涯、余りにも多くの肉親の死に立ち会うという悲劇をもたらした。
尊敬法親王は延宝元年(一六七三)江戸・上野の東叡山寛永寺に遷り、守澄法親王と名を改めたが、その七年後、後水尾院の崩御の三か月前の延宝八年(一六八〇)五月十六日に江戸で歿してしまった。

修学院山荘は後水尾院の<閑放の地>であった。
すでに落飾し、建前としては朝廷の実務を離れた法皇であり、念願通り、案外気楽に山荘へ出かけることが可能だった。
京都所司代も東福門院同伴のときは警備を厳重にしても、院一人であれば、お忍びとして殆ど放っておくことになっていた。

鳳林和尚が後水尾院に随行して山荘を訪れたのは万治二年(一六五九)四月十四日のことであった。
妙法院堯然法親王、照高院道晃法親王らと一緒だった。
床飾りの掛物は京極摂政良経の懐紙と日観のぶどうの絵であった。このあと一同は山荘の南、雲母坂の方へ出かけて俳諧を楽しんだ。
鳳林和尚が

    <卯の花や白きはげにも雲母坂>
  
と禿(はげ)の字を隠して、それに「きらら」を利かせた発句を作ると、
後水尾院は

       <絵にもおよばぬ夏山の隈>

と「脇句」をお付けになった。
続いて「三句」をお命じになったが、ついに誰も出来なかった、と鳳林和尚は日記に書いている。

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