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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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草弥の詩作品「近衛信尋 吉野太夫を灰屋紹益と張り合う」・・・・・・・・・・木村草弥
d0116099_8522322吉野太夫の墓
 ↑ 二代目吉野太夫の墓
img吉野太夫
 ↑ 吉野太夫イメージの絵
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──草弥の詩作品──<後水尾院>シリーズ──(5)

   近衛信尋 吉野太夫を灰屋紹益と張り合う・・・・・・・・・・木村草弥

後水尾院の生涯を語るとき、「近衛信尋」の名を欠くことは出来ない。
彼は一体どういう男なのか。

近衞 信尋(このえ のぶひろ、慶長4年5月2日(1599年6月24日)~ 慶安2年10月11日(1649年11月15日))は、江戸時代前期の公家・藤氏長者。官位は従一位関白。幼称は二宮。法号は応山。
慶長4年(1599年)5月2日、後陽成天皇の第四皇子。八條宮智仁親王の甥。幼称は二宮。母は近衛前久の娘・前子。母方の伯父・近衛信尹の養子となる。
慶長10年(1605年)、元服し正五位下に叙せられ、昇殿を許される。慶長11年(1606年)5月28日、従三位に叙せられ、公卿に列する。慶長12年(1607年)に権中納言、慶長16年(1611年)に権大納言、慶長17年(1612年)には内大臣となる。
慶長19年(1614年)、右大臣に進み、元和6年(1620年)に左大臣、元和9年(1623年)には関白に補せられる。
和歌に極めて優れ、叔父であり桂離宮を造営した八條宮智仁親王と非常に親しく、桂にての交流は有名である。
正保2年(1645年)3月11日、出家し応山と号する。慶安2年(1649年)10月11日、薨去。享年51。近衛家の菩提寺・京都大徳寺に葬られた。法名は本源自性院応山大云。

近衛前久、信尹の文化人の資質を受け継ぎ、諸芸道に精通した文化人であった。書道は、養父信尹の三藐院流を継承し、卓越した能書家であった。
茶道は古田重然に学び、連歌も巧みであった。実兄の後水尾天皇を中心とする宮廷文化・文芸活動を智仁親王、良恕法親王、一条昭良らとともに中心的人物として担った。
また、松花堂昭乗などの文人と宮廷の橋渡しも行っていた。
六条三筋町(後に嶋原に移転)一の名妓・吉野太夫を灰屋紹益と競った逸話でも知られる。太夫が紹益に身請けされ、結婚した際には大変落胆したという話が伝わっている。

系譜
父:後陽成天皇
母:中和門院 - 近衛前久の娘
養父:近衛信尹
同母兄弟 後水尾天皇
一条昭良
高松宮好仁親王

正室:不詳
子女 近衛尚嗣
寛俊 - 大僧正法印、勧修寺門
娘 - 東本願寺光瑛室
泰姫 - 水戸藩主徳川光圀室
娘 - 法華寺高慶尼
娘 - 三時知恩寺尼

今に続く公家の筆頭の家柄である。いつも朝廷の中心に居座り続け、天皇家とともに運命を共にしてきた。
多大な日記や記録を保存する「陽明文庫」が有名である。
近衛家の陽明文庫に残る百数十通の院との勘返状(往復書簡)を見ると二人の頻繁な文のやり取りの繁きことが手にとるようにわかるという。
後水尾院とは、すぐ下の弟であり影になって院を支えてきた。母方の近衛家に養子に入ったが、このような血の交流は、後にもしょっちゅうあった。

最高級の遊女と言われる「二代目 吉野太夫」との関係が史実として伝わっている。
吉野太夫というのは代々称された名前で、吉原の高尾太夫・大阪の夕霧太夫と並び、「最高の遊女」であった。
吉野太夫は10代以上続いたと言われるが、特に有名なのが「二代目」。本名は松田徳子という。

京都で生まれた徳子は7歳の時に遊里へ売られた。
そして林弥という禿(かむろ・遊女見習い)となった。

当時の遊里は、五条大橋畔から下流域にあった。六条三筋町(のち島原へ移転)に棲息する。

徳子は持ち前の美貌と、そして頭の良さでぐんぐんと美しく成長し、なんと14歳にして「太夫」となった。
「太夫」というのは最高級の遊女、その中でも「吉野太夫」という名を貰った徳子はピカイチ。

茶の湯・和歌・舞などどれをとっても超一流、また思慮深く教養があり、たちまち京都中の大評判になった。

ある時、京都の鍛冶屋の弟子が吉野を見てヒトメボレ
だが吉野は最高級の遊女なため「値段」がめちゃくちゃ高い。
吉野に恋焦がれたその男は、頑張って働いて大金を貯め、「一生に一度だけでも」と、吉野と一晩を過ごしたのだ。
そしてあまりの嬉しさに、もう思い残すことはない・・・と、その日に桂川にて入水自殺したのである。

そんな吉野太夫だが、この吉野を巡って2人の男が対立していた。
一人は豪商の跡取り息子・灰屋紹益。
もう一人は後水尾天皇の実弟で公家筆頭の近衛信尋。彼は芸術家本阿弥の一族とも繋がりがある。
恋のさや当ての結末は、吉野が選んだのは灰屋のほうだった。吉野26歳・灰屋22歳だった。

が、灰屋にはちゃんとした妻がいた。
そのため父から勘当されてしまった。
でも妻が死んでしまったため、父は灰屋を許し、吉野太夫を正妻にすることを許したのだ。
因みにこの時のエピソードだが、吉野は所持品を売ったりしてけなげに夫に尽くした。
ある日のこと、ある老人が雨が降ってきたので吉野の家で雨宿りさせてもらった。
そこで心ある茶のもてなしを受け、感動した老人が後日吉野のもとへたずねたところ、そこに息子がいたのでビックリ!
この老人は紹益の父だったのだ。こうして2人は勘当を解かれ、正式な妻となったのだった。
吉野を親戚に紹介する日、親戚の女房達は吉野なんかに負けるものか!と、競ってゴージャスな着物を身にまといやってきたが、吉野は質素な着物で、物腰柔らかに挨拶。女房達は恥かしくなったそうである。
だが吉野は病気になってしまい、そして38歳で死んでしまったのである。
灰屋は吉野の死をすっごく悲しみ、吉野の骨を粉にして飲んだと言われている。

    後水尾院は、一夕、近衛信尋と雑談をしておられた

    吉野太夫の噂などが院の耳にも届いていたのである
    
        <汝(なれ)は気ままでいいのう>

    信尋が答える

         <お上 何を仰せられます
          お上こそ生殺与奪の権を
          手中にしておいでです>

    院は苦笑いして

         <何が生殺与奪の権じゃ
          貴(あて)には何の力もないのじゃ
          幕府の食い扶持で生かされておるのみじゃ
          何を以て 生殺与奪の権などと言うか>

   と、改めて苦虫を噛みつぶしたような顔で仰せられた。

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resizeImg近衛信尋懐紙
 ↑ 近衛信尋懐紙

この歌の読み下しは

  <うぐいすも こゑうららけき 春日野の 松に残らむ 雪にならはば>    となる。

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