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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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草弥の詩作品「昔の修学院山荘見学ツアー」・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
01-1修学院浴竜池
 ↑ 修学院浴竜池
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──草弥の詩作品──<後水尾院>シリーズ(11)

     昔の修学院山荘見学ツアー・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

後水尾院は色々の人を招きながら、さらに山荘の充実に努められた。
万治三年正月には茶屋が完成しているし、これに合わせて「修学院八景」の詩歌を五山の僧や廷臣に命じている。
詩が作られたのは、寿月観、彎曲閣、蔵六庵(以上は現在の下の茶屋の建物)。窮??亭、隣雲亭、洗詩台、止々斎(以上は上の茶屋の建物)。
菩提樹、浴竜池、万松塢(以上は上の茶屋の庭園・池)であった。
因みに、茶屋の建物の名称には仏典から採られているという。
「蔵六庵」は『阿含経』から。「止々斎」は後水尾院の好きな『法華経』の「止々不須説」から、など。
後水尾院は深く仏に帰依していたから、嵯峨院の故事に倣って、将来、後水尾院自身と東福門院の尊像が修学院に於いて礼拝され、
後生菩提を弔ってくれることを密かに期待されていたのだろう、と言われている。
だが、結論的にいうと、この修学院に門跡寺院を建立する計画は実現しなかった。詳しくは別段で書いた。

万治二年の五月から年末まで鳳林和尚の日記『隔?記』には、この八景詩のことが頻出する。それだけ後水尾院も、この山荘の美を文芸の世界に残そうという意欲があったのだろう。
因みに、別の資料によると、この鳳林和尚というのは鹿苑寺く金閣寺)の僧侶だった人らしい。
ちょうど嵯峨天皇が巨勢識人らに嵯峨院の詩を献じさせたのと同じ趣向である。

越えて寛文年間になると修学院を訪れる人の数も増えてきた。
それまでの公家や門跡などの限られた人ばかりではない。
何と、一般の僧侶や、寺に関係する町人など、あたかも今日の離宮見学と同じような団体の見学まで行われた。
これも寛永文化の名残りであって、公家・町人社会が未だ隔絶していなかったことの証左でもあろう。
『隔?記』寛文二年(一六六二)四月二十一日の条を見ると、どうやら前々から依頼しておいた見学の許可が下りたらしい。
「明日、修学院之御屋敷・仙洞離宮之御池、おのおの拝見、ないない申し上げ明日参らるべき旨、予案内者として修学院へ赴く」。
こうした願いに対しては、許可証となるべき<見学之割符> が出されるシステムが出来上がっていたと見え、鳳林和尚も<割符>を受け取っている。
翌二十二日は相国寺衆は大体のこらず同伴、北野社家の日ごろ連歌などで顔見知りのメンバーも、鹿苑寺の寺侍などももちろん一緒である。
その他画家の父子や町の人々、総勢八十人ほどの大きな団体になった。
御殿・御茶屋・亭を見学して前もってことわってあったので池の舟も飾りつけてあって三隻に分乗し、持参の弁当を開いて一日の宴遊を楽しんでいる。
翌日見物の割符を無事に返上して、この見学行は終わった。
この日の記録に見えるように、見物には一応の型があった。御殿・御茶屋の見物、さらに浴竜池での舟遊び、さらに茶や食事の饗応というのが一般的であったようだ。
後水尾院の皇女で近衛基熙に嫁していた級宮常子内親王(旡上法院)は度々修学院山荘に遊んでいて、寛文七年(一六六七)閏二月六日の条には少し早い春を、ここで楽しんでいる様子が見える。
先ず下の茶屋の寿月観の庭の土筆採りがある。
今も寿月観の前に白砂を敷いた小さな庭がある。その向うにかつては彎曲閣が建てられていた。きっと、この渓流端の傾斜地に生えていた土筆でも採ったのだろう。
それより上の池に赴く。田の畦づたいに土筆を採りながらとあるから、今のような松の並木はまだ無かったであろうが、田の中を通って上の茶屋へ行った。
隣雲亭には上がらず、西浜を行って止々斎から舟に乗っている。今も止々斎跡の近くに舟乗り場がある。舟から窮??亭、隣雲亭を眺めて堤にあがり寿月観に帰っている。
寿月観には基熙が居て平松可心らとともに夕食を摂った。
同じ『旡上法院殿御日記』の寛文十一年(一六七一)三月二日には後水尾院のお伴をして下の茶屋より上の茶屋に行き、止々斎で昼食を摂っている。
「所々、葉まじりに桜咲き、山ぶきも少有り、山にはつつじ咲き、みごとのうつくしさ、いふばかりなし」という風情であった。
この時すでに中の茶屋にあたる朱宮の茶屋が完成しており、ここにも立ち寄っている。

このような山荘の遊びのパターンは修学院に限らず、後水尾院の好んだ風流の一つであった。
後水尾院は先にも書いたように前後三回にわたって八条宮の桂山荘を訪れているが、寛文三年(一六六三)三月六日の桂御幸を、これも鳳林和尚の記すところによると、和尚は早々に桂に到着し、玄関より書院に移り、あちこち見物し、やがて一同が揃ったところで庭に出ている。例によって鳳林和尚は讃嘆の辞を記す。「処々之佳景、桜木奇石、方地百里絶言語佳境、御茶屋処々之飾、御菓子驚凡眼者也」。
書院で切麦(索麺)などを食べたのち、増水した桂川に舟を出している。
さすがに舟が自由にならないというので桂川の舟遊びは早めにきりあげて山荘の池に舟を浮かべることになった。
法皇、朱宮、級宮以下法親王たち。すなわち後水尾院は娘や息子たちに囲まれて舟遊びに興じ、舟の中では菓子がふるまわれ、たぶん舟を降り、茶屋に移ってからであろうが茶がたてられている。

これらの宴遊記録を見て気づくのは、宴遊の中で池の舟遊びと茶の湯が重要な役割を果たしている。
寛文二年(一六六二) 十月十八日の修学院での後水尾院の「口切りの茶」では、夕方から舟に乗り、開飛亭に移って、ここで後段と濃茶がふるまわれている。

浴竜池は平安時代以来の貴族庭園の伝統をよく伝えるものであった。池泉舟遊式ともいうべき舟遊びに主眼のある庭園であった。
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(お断り)
この記事を入力・編集中、はじめの方にある「窮??亭」のハテナ字の部分の字「スイ」を一昨日来「表外漢字」として入れて「記事を保存」にすると、とたんに、この字以降の記事が消える現象が発生。
何度も記事を入れては消え、またやり直しを繰り返し、fc2にも原因と対策を聞いたりして。。。問題は解決しなくて、ハテナ字の部分はそのままにすることにした。
原文はマイドキュメントの文書として保存してあるから詩集を編むのには困らないが、ブログ読者にはご了承を得たい。
「窮??亭」のハテナ字はIMEにも載っている、レッキとした表外漢字で発音は「スイ」、三画の「辶」部にある画数の多い字。
この字を入れると、とたんに記事が消えるので、どうしようもない。
このJIS表外漢字は、fc2の編集機能の「規格」から外れる、ということなのである。
しかし、ハテナマークになる、くらいにしておいてもらわないと困る。その字以後の文章が全部消えてしまうなんて。
この部分は、この記事に必要な「固有名詞」で欠かすことが出来ないし、他の字で代用できないので困る。
この字を知りたければWikipedia修学院離宮をご覧あれ。出ている。
なお、この建物は後水尾院の創建当時から、そのまま残る唯一の建物である。
この建物の「扁額」は後水尾院直筆のものである。
詳しい写真は → ここ または こっち に見事なものが載っている。 お試しあれ。
他の建物は建て替えられたりしており、創建オリジナルではない。
もう一字は別の字だが、これもこのままにする。
とにかくハテナマークの部分については、そのような次第なので、ご了承を。


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