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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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草弥の詩作品「後水尾院と後宮の女たち」・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
622px-Emperor_Reigen霊元天皇
↑ 霊元天皇像 新広義門院が生母
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──<後水尾院シリーズ>──(12)

     後水尾院と後宮の女たち・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

日本の禁中でも「後宮」という言葉が使われていたということを知った。この言葉も、もともとは中国由来のものである。
私のこの詩では、これらの女性たちとは別に、後水尾院が巷の遊郭に遊んだり、禁中にも引き入れたと言われる「遊女」がある。
遊女のことは別段で書くので、区別しておく。

後水尾院は生涯に三十七人の子を産ませたことで知られているが、さぞや十数人の女が居たのではないかと思うが、一統を見てみると、女の数は数人のみである。
その代り一人の女がたくさんの子を産んでいる。時系列的に挙げると、このようになる。
■典侍・四辻与津子(およつ御寮人)が二人。
■中宮・徳川和子(東福門院)が七人。
■典侍・園光子(壬生院)─後光明天皇の生母─が五人。
■典侍・櫛笥隆子(逢春門院)─後西天皇の生母─が十人。
■典侍・園国子(新広義門院)─霊元天皇の生母─が六人。
■典侍・四辻継子が三人。
■宮人・水無瀬氏子が二人。  などである。
今までに、その素性について書かなかった人を採り上げてみる。

新広義門院
園国子(その くにこ、寛永元年(1624年)-延宝5年7月5日(1677年8月3日))は、後水尾天皇の後宮の一人。霊元天皇の生母。
院号は新広義門院(しんこうぎもんいん)。父は権大納言園基音(薨去後左大臣追贈)。母は山家藩主谷衛友の娘。兄に准大臣園基福がいる。
園家の本姓は藤原氏であるので、藤原国子(ふじわら の くにこ)と記されることもあり。

叔母の園光子(壬生院)に続いて彼女も後水尾天皇の後宮として召された。天皇とは28歳差であった。
典侍となり、従三位に叙せられた。四皇子二皇女を出産する。うち末子の皇子が霊元天皇となる。
この第十九皇子・識仁親王は、五十六歳で出家・落飾された後水尾法皇の五十八歳のときの子である。
因みに霊元天皇は在位期間は二十四年と短いが、後水尾院と同じように院政を布き幕府と一悶着起こしたりしたが七十八歳という長寿だった。
激しい性格の天皇だったらしいが、江戸時代を通じての和歌の名手と言われているが詳しくは書かない。
性生活も旺盛で十五人の中宮以下後宮の女との間に十七皇子、十三内親王という子だくさんであった。
後水尾天皇の中宮は徳川和子であったため、息子の霊元天皇の即位後にも皇太后位が授与されることはなかったが、
延宝5年(1677年)7月5日、国子が危篤状態になるに及んで霊元天皇は急遽准三宮に叙し、また院号を与えて新広義門院とした。しかし同日中に薨去している。

彼女の存在は出身家である園家に大きな栄華をもたらし、彼女の父である園基音には左大臣が追贈され、兄の園基福には異例の准大臣の位が与えられた。
もともと園家は権中納言を極官とする下級公家だったが、これ以降の園家当主は早世した者を除き、全員が権大納言となっており、羽林家一の名門家となった。
明治維新後にも子爵ではなく伯爵となった羽林家のひとつである。

因みに、羽林家(うりんけ)とは、鎌倉時代以降の公家の家格のひとつで、摂家、清華家、大臣家の下、名家と同列、半家の上の序列に位置し、江戸時代の武家官位においては各大名家に与えられる家格に相当する。
近衛少将・中将を兼ね、参議から中納言、最高は大納言まで進むことができる武官の家柄(ただし、個々の家の立場(旧家・新家、内々・外様など)によって昇進の速度や経路に異同がある)。
ごく稀ではあるが、内大臣まで昇進する者もいた。また、代わりに准大臣や従一位を宣下されたり、本座宣下を受けた例もある。明治維新後の華族令では子爵や伯爵に叙せられた。
羽林とは「羽の如く速く、林の如く多い」という意で、中国では北辰(北斗星)を守護する星の名称。それが転じて皇帝(天子)を護る宮中の宿衛の官名となった。
日本では近衛府の別称(唐名)となり、近衛の将を任ずる家、すなわち羽林家となった。

禁中の身分や行事は中国の例に倣うことが多い。氏素性、身分がすべてを律する世界なのである。

逢春門院 この人については詳しい記事がない。お許しあれ。
櫛笥 隆子(くしげ たかこ、慶長9年(1604年) - 貞享2年5月22日(1685年6月23日))は後水尾天皇の後宮で後西天皇の生母。出仕名は御匣殿、四条局、勾当内侍。
父は左中将櫛笥隆致(贈従一位、贈左大臣)。
寛永8年(1631年)に御匣殿別当として入内し、後西天皇、八条宮穏仁親王、光子内親王、理忠女王など6男4女をもうける。
貞享2年(1685年)5月に従三位、准三宮となり、院号宣下を受けて逢春門院と称する。同月に薨去。

壬生院
園 光子(その みつこ、慶長7年(1602年)-明暦2年2月11日(1656年3月6日))は、後水尾天皇の後宮の一人。後光明天皇の生母。院号は壬生院(みぶいん)。
父は権大納言園基任(薨去後左大臣追贈)。園家の本姓は藤原氏であるので、藤原光子(ふじわら の みつこ)と記されることもあり。初名は国子、継子。
後水尾天皇の典侍の一人に選ばれ、後宮に入った。宮中では京極院・京極局と称されていた。寛永10年(1633年)に後光明天皇を出産した。
その後も守澄法親王、元昌女王、宗澄女王、桂宮などを出産。
後光明天皇治世の承応3年(1654年)8月18日に准三宮に叙せられたが、同年中に天皇が崩御している。これを受けて光子は10月26日に落飾している。
また後継の後西天皇から壬生院の院号を宣下された。薨去後には京都泉涌寺に葬られた。墓は泉山月輪陵にある。
国母となった彼女の存在により出身家の園家の地位は大きく上がり、光子の父である基任には正保2年(1645年)に左大臣が追贈されている。
なお光子の兄である園基音の娘園国子も後水尾天皇の後宮に入り、霊元天皇を出産している。国母を二人も輩出した園家はその後大いに繁栄していく。

水無瀬氏子は生没年不詳。帥局、小兵衛局と称した。
新宮は夭折 (戒名/月桂院宮)。豊宮は仁和寺御室となり、当初承法法親王と称したが性承法親王に改称。
1656(明暦2)年二品、1678(延宝6)年薨去2日前に一品に叙された (戒名/法金剛院、後大御室)。
 四辻継子は生没年不詳。およつ御寮人の姪。
榮宮は徳川家光猶子となり、知恩院門跡となる。1654(承応3)年親王宣下、1679(延宝7)年二品。1779(安永7)年贈一品 (戒名/無量威王院宮)。
英宮は梶井門跡・天台座主。1660(万治3)年親王宣下、1673(寛文13)年二品 (戒名/正法院宮)。
睦宮は光照院門跡。尊賀女王(ソンガ)から改称。字は瑞慶 (戒名/宝地光院宮)。

院のお手のついたものは、もっと多く居ただろうが、子を成した人が記録に残っているだけだから、女の数は増えることはあっても、やはり特定の女との性交渉だったことが判る。
特に、院との相性もあるから、晩年の愛妃であった新広義門院のことが記録に残っているのも当然だろう。
しかも園家は、その後もずっと天皇家と深い関係が明治まで続いて、伯爵位を得ているのだから、新広義門院の功績は大きかったというべきだろう。

これらの女の人を見ていると、五十くらいで死んだ人もあるが、いずれも七十、八十という長命であり、下々の庶民の寿命から考えると、とても長寿である。
やはり衣食住など特権的な地位のおかげであろう。
後水尾院の前後の天皇の記録を見ると、いずれも中宮、典侍、後宮など多い場合は十数人抱えており、子の数も二十数人から三十人に及ぶものがある。
だから後水尾院が特に色好みというわけではないようである。
宮中というところは、天皇の胤を宿して自家の出世繁栄を得たいと、公家の上下を問わず女を禁裏に差し出したようである。

『後水尾院御集』より「恋」の歌をいくつか引いておく。

             顕恋
   つつみこし思ひの霧のたえだえに身は宇治川の瀬々の網代木

             旧恋
   先の世の夢を忘れぬ契かとたどる斗(ばかり)の中の年月

   思ひやれ逢はぬ月日にいつしかと昔がたりも積る恨を

             遠恋
   忘れずは思ひおこせよ海山も心のうちにさはるものかは

   行きかよふ心ばかりび岩根踏む山は遠くて近き道なる

             片恋
   などか我つらき心のつらからぬむよし相思ふ道はなくとも

   恋わぶる人の嘆を身に知らで思ひ知らぬも憂き心かな

   我のみの涙ぞつらき羽かはす鳥のためしもあれば有る世に

             難忘恋
   年月を隔てし憂さも憂さながら見しは昨日の俤にして

   恨みじよ詞の限り尽くすとも一節をだにえやははるけん

   情こそ思ふに憂けれつらしとておほよそ人に恨やはある

             関路恋
   したひこし俤ながら鳥が音にいそぐ関路のならひさへ憂き

             寄月恋
   もろともに見し夜忘れぬ面影に霧ふたがりてくもる月かな

   たのめしはあらずなる世に俤の昔おぼゆる月さへぞ憂き





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