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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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草弥の詩作品「禁裏は火事が多かった」・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
800px-Reizeike冷泉家表門
 ↑ 冷泉家表門─冷泉家も御所の一角を成していた
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──<後水尾院シリーズ>──(14)

     禁裏は火事が多かった・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

冷泉為人が2007年に書いた論文を見ると、禁裏は火事が多かったことが判る。
一部を引いてみる。因みに、冷泉為人は現当主であり、財団法人・冷泉家時雨亭文庫理事長である。
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4. 後西天皇の万治四年(一六六一)正月十五日、関白二条光平室賀子内親王家より出火。内裏
を始め、後水尾院の仙洞御所、東福門院の女院御所、明正院の新院御所等が炎上した。火元の関
白二条光平邸をはじめ、公家の邸宅一一九、社寺一六、町家五五八を焼失した大火であった。
これほどの大火であったのにもかかわらず、幸いにも西御唐門、御輿宿、御文庫、北女中雑蔵
の四棟と、塀(築地塀)などが焼け残った。これらの焼失を免れた原因は何かを検討することが
大事。ここでも御文庫、雑蔵、築地塀などの土蔵造が残っているので、土蔵造は防火には有効で
あることが知られる。これは前の承応二年の火災の時においても、同様に御文庫、御蔵、塀など
24が焼け残っている。
さらに寛文三年(一六六三)に後西天皇が譲位する時、築地之内に明地がなかったので、内裏
の南にあった二条家の屋敷地を築地之外へ移転させている。つづいて延宝元年(一六七三)から
はじめられた後西院御所造営のため、院御所の南にあった頂妙寺を鴨東へ移転させている。

5. 寛文十三年(一六七三)五月八日に、内裏は江戸時代になって三回目の火災にあった。これ
は未明丑刻(午前二時)、内裏の東南の関白鷹司房輔邸より出火。内裏をはじめ、仙洞御所(後
水尾院)、女院御所(東福門院)、新院御所(後西院)などが炎上した。さらに左大臣九条兼晴邸
をはじめ、多くの公家邸宅を焼失し、町数一三〇、町家一三〇〇余を焼き尽くす大火であった。
しかしこれほどの大火であったにもかかわらず本院御所(明正院)の中程から北側は焼失を免れ
た。その他御文庫三棟が焼け残った。
明正院の御所の北側半分が焼け残ったのはどうしてであろうか。風向きによるものであろうか、
消火が有効に機能したためであろうか。これらは今後の検討課題である。

6. 東山天皇の宝永五年(一七〇八)三月八日午刻(正午)、油小路姉小路の銭屋市兵衛宅より
出火。西南の風が強く吹いたため、火はたちまち東北に燃え広がり、内裏をはじめ、仙洞(霊元
院)、女院(新上西門院)、東宮(慶仁親王)、中宮(皇后幸子内親王)、女一宮(後光明院女一宮
孝子内親王)などの御所を焼き、左大臣九条輔実邸、前関白鷹司兼熈邸などの多くの公家邸宅を
も焼失した。およそ北は今出川通より南、東は鴨川より西、南は四条通より北、西は堀川より東
の広大な地域が灰燼に帰した。
大火と気象との関係が課題となるであろう。そしてさらにこの宝永の大火後の、内裏新造営や
公家町の復興において、防災の観点から公家町の拡張という公家町再編がなされた。注目すべき
ことである。これについては後述することになる。

7. 天明八年(一七八八)正月晦日の未明五時頃、どんぐり橋近くの鴨川東宮川町団栗図子の空
家(建仁寺町通四条下ル二丁目辺り)より出火した火は大火となった。「天明の大火」という。
翌二月一日は一日中燃えつづけ、二月二日の明け方にようやく鎮火した。洛中、京都の中心部の
ほとんど全てを焼き尽くした大火で、応仁の乱以来といわれる大惨事であった。北は鞍馬口通、
東は鴨川の東、南は七条通、西は千本通までが焼けた。
この天明の大火の再建、復興の特色は、平安朝古制を用いたことである。総奉行となった老中
松平定信は柴山栗山と裏松固禅を登用し、固禅の『大内裏考証』に基づいて、紫宸殿や清涼殿等
の一部や飛香舎を、平安朝の古制に戻して復興、再建したのである。
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参考までに書いておくが、京の町全体の大火事となったのは、次のようなものである。

     京の町を襲ったふたつの大火

 花の元禄期ともいえる十七世紀末、京都には伝統的な権威の象徴でもある京都御所と、武家の権力を示す二条城が置かれ、近世京都の形成がなされていた。
だが、十八世紀を迎えて、京都はふたつの大火による災害を被り、甚大な打撃を受けることとなった。「宝永の大火」および「天明の大火」である。

 宝永の大火は一七〇八(宝永五)年三月、油小路通姉小路付近から出火し、二日間に渡って燃え続けた。
火は西南風に煽られ、延焼地域は東北部へと拡大し、最終的には東は鴨川、西は堀川、北は今出川南、南は四条までが被災地域となった。
「宝永五年炎上記」によると町数四一五町、家数一万百三十軒余、寺数五十ケ所、社頭十八ケ所、西道場十二ケ所、東道場二十三ケ所、土蔵火入六百七十余と記録されている。
さらに禁裏御所の焼失も余儀なくされ、七十八軒もの公家屋敷ほか、諸藩の武家屋敷も二十四軒焼失している。
 宝永の大火よりちょうど八十年後に起きたもうひとつの大火が天明の大火である。応仁以来の大惨事をもたらし、京都史上、最大規模の大火ともいわれている。
「天明炎上記」「京都大火」「京都大火記録」などの記録も多く残され、当時は京都焼亡図や木板による大火記録も売り出されたばかりでなく、後にわらべ唄にもなったほどだ。
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 炎が上ったのは一七八八(天明八)年一月二十九日未明、鴨川東宮川町団栗図子の空家から出火した。
火は鴨川の西岸へも飛び火し、やがて全市中へと燃え拡がった。
火消の人々の尽力ではもはやどうにもならず、火消たちは禁裏をはじめとする警固を担い、また亀山、高槻、郡山、膳所、淀、篠山などからかけつけた近国の大名もなす術なく、
各所の警衛にあたるほかなかった。
 焼失家屋は三万六千軒以上、洛中の戸数がおよそ四万軒であるから、実にほぼ九十パーセントが焼失したことになる。焼けた寺は二百一ケ所、神社は三十七にのぼっている。
また、この大火により御所も炎上を免れず、二条城や周辺の武家屋敷の焼失をも招いている。
 禁裏においては、宝永の大火の先例にならい、下鴨神社への避難の行幸が決まった。
が、その後、御所が炎上したとの注進を受け、還幸が不可能となったことから再び聖護院へと行幸している。
 天皇は仮御所を聖護院に置き、そこで避難の日々を過すこととなった。
あわせて仙洞御所は青蓮院、女院御所は修学院竹内宮御殿、女一宮は妙法院へと落ち着き、東西両町奉行はそれぞれ焼け残った北南両二条門番頭の屋敷に入って仮奉行所とした。
 この天明の大火で死者についての正確は記録は残されていない。「大島家文書」では百五十人とされているが、「伊藤氏所蔵文書」では千八百人余と記されている。
 なお、寺町清浄華院境内には、「焼亡横死百五十人之墓」と刻まれた天明大火の供養塔が建てられ、死者が祀られている。

念のために書いておくと「仙洞御所」とは上皇、法皇などが住まいされる所。「女院御所」とは中宮以下女人が暮らす所である。
「仙洞御所」は寛文以後は再興されなかったから、今は庭園だけが残っている。

こんな大火事という災難に遭ったのに、これらを詠んだ歌は無い。
その頃の「和歌」は、今の短歌のように叙景、抒情などもリアリズムではないから、身辺に起こることを詠むことはないのである。
その頃の和歌は「王朝和歌」とか「堂上和歌」とか呼ばれるが、雅を基本として、「本歌」という過去の歌を引いて詠うのが常道である。
こういうのを「本歌取り」という。
今の短歌は、こういうのを剽窃として、つまり盗み取ってきたとして嫌うので、時代的にひどく変わったものである。
その頃は、「本歌」を、いかに多く知っているかが教養として尊ばれたのであった。






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