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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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草弥の詩作品「後水尾院と徽宗のこと」・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
449px-Huizong徽宗皇帝
 ↑ 徽宗皇帝像
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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<後水尾院シリーズ>──(13)

     後水尾院と徽宗のこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

後水尾院の葬送のときに、院の遺体の上段に「徽宗皇帝の三尊仏が掛けられ・・・・」と描写されているのは先に書いた。
なぜ「徽宗」なのかというと、芸術、書、絵などの才能に優れた点を院は敬愛されたのである。
徽宗の生涯は政治的には失敗であったといえるが、そんなことは院には判らないことであった。以下のようである。

徽宗 (きそう、1082年11月2日(元豊5年10月10日)~ 1135年6月4日(紹興5年4月21日)、在位:1100年 ~ 1125年)は北宋の第8代皇帝。
諡号は体神合道駿烈遜功聖文仁徳憲慈顕孝皇帝(退位したので「遜」(ゆずる)という文字が入っている)。
諱は佶。第6代皇帝神宗の子。芸術面では北宋最高の1人と言われる。


神宗の第11子として生まれたが、1100年、兄哲宗が嗣子のないまま25歳で崩御したため、弟である徽宗が皇帝に即位した。
宰相章惇ら重臣は徽宗の皇帝としての資質に疑念を抱いていたため他の皇子(簡王)を皇帝に推したが、皇太后向氏の意向により徽宗に決まったとされている。
治世当初は芸術家の魂ともいえる絵筆を折って政治への意欲を示し、穏健な新法派で皇太后の信任が厚かった曾布を重用、曾布は新法・旧法両派から人材を登用して新法旧法の争いを収め、
福祉政策を充実させるなど漸進的な改革を進めた。だが、やがてこれに飽き足らない新法派の蔡京らの策動によって曾布は失脚し、蔡京が政権を掌握するに至る。

550px-Momohatozu_Huizong桃鳩図
 ↑ 桃鳩図 (国宝)

文人、画人としての徽宗はその才能が高く評価され、宋代を代表する人物の1人とされる。
痩金体(「痩金」は徽宗の号)と称される独特の書体を創出し、絵画では写実的な院体画を完成、「風流天子」と称された。
現在、徽宗の真筆は極めて貴重な文化財となっており、日本にある桃鳩図は国宝に指定されている。
200px-Songhuizong4徽宗の「芙蓉錦鶏図」(故宮博物院)。絵の脇の詩文の文字は痩金体で書かれている
 ↑ 徽宗の「芙蓉錦鶏図」(故宮博物院)。絵の脇の詩文の文字は痩金体で書かれている。

皇帝としての徽宗は自らの芸術の糧とするために、庭園造営に用いる大岩や木を遠く南方より運河を使って運ばせた(花石綱)。
また芸術活動の資金作りのために、『水滸伝』の悪役として著名な蔡京や宦官の童貫らを登用して民衆に重税を課した。
神宗、哲宗期の新法はあくまで国家財政の健全化のためであったが、徽宗はそれを自らの奢侈のために用いるに至ったのである。
この悪政の一環としては、土地を測量する際に正規の尺より8パーセントあまり短い、本来は楽器の測定に用いる楽尺といわれる尺を用い、
それによって発生した余剰田地を強制的に国庫に編入したり、売買契約書が曖昧な土地を収用するなどの強引な手段もとっている。
このような悪政によって民衆の恨みは高まり、方臘の乱を初めとした民衆反乱が続発した。
こうした反乱指導者の中に山東で活動した宋江と言う者がおり、これをモデルにした講談から発展して誕生したのが明代の小説『水滸伝』である。
当時、宋の北方の脅威であった遼は皇帝や側近の頽廃により国勢が衰えてきていた。さらに遼の背後に当たる満州では女真族が完顔阿骨打を中心として急激に台頭していた。
女真と協力して遼を挟撃すれば、建国以来の悲願である燕雲十六州奪還が可能であると捉えた北宋の朝廷は、金に対して使者を送り、盟約を結んだ(海上の盟)。
1121年(宣和3年)、金は盟約に従い遼を攻撃したが、北宋は方臘の乱の鎮定のために江南に出兵中であり、徽宗自身の決断力の欠如もあって、遼への出兵が遅れた。
翌年、ようやく北宋は北方へ出兵し、遼の天祚帝のいる燕京を攻撃した。
宋軍の攻撃は失敗を重ね、成果を上げられない事を理由に誅殺されることを恐れた宋軍の指揮官童貫は金に援軍を要請。
海上の盟では金は長城以南に出兵しない取り決めであったが、金軍はこの要請に応えてたちまち燕京を陥落させた。
この結果、盟約通りに燕雲十六州のうち燕京以下南の六州は宋に割譲されたが、金軍によって略奪が行われていた上に住民も移住させられていたため、
この地からの税収は当分見込めない状態であった。
さらに金は燕京攻撃の代償として銀20万両、絹30万匹、銭100万貫、軍糧20万石を要求したが、北宋はこれを受諾せざるを得なかった。
1125年(宣和7年)、このように燕雲十六州の一部奪還に成功した宋朝は、金に占領された残りの州の奪還を計画し、遼の敗残軍と密かに結んで金への攻撃を画策した。
しかしこの陰謀は金に露見し、阿骨打の後を継いだ太宗は宋に対して出兵する事態を招く。
慌てた徽宗は「己を罪する詔」を出すと退位し、長男の趙桓(欽宗)を即位させ、太上皇となった。さらに金軍から逃れるべく開封を脱出したが、欽宗により連れ戻されている。
1126年(靖康元年)、金は開封を陥落させた。徽宗は欽宗と共に金に連行され(靖康の変)、1135年(紹興5年)、五国城(現在の黒竜江省依蘭県)で54歳で死去した。
またこの時共に彼の妃韋氏、息子欽宗の妃朱皇后など、宋の宮廷の妃、皇女、あらゆる宗室の女性や女官、宮女達が、金軍の慰安用に北に連行され、後宮に入れられた後、
1128年6月には金の官設の妓楼である洗衣院に下されて金人皇族・貴族を客とする娼婦になることを強いられた。
結果、韋妃は高宗の生母であったこともあって、耐えて後に南宋に帰国したものの、朱皇后は、その境遇に耐えかねて、身を投げて自殺している。

道教との関係
徽宗は、道教を信仰し、道士の林霊素を重用した。林霊素は「先生」の号を授けられ、道学が設置された。徽宗自身は「道君皇帝」と称し、『老子』や『荘子』に注釈を行った。
その矛先は仏教に対する抑仏政策にも現れ、仏(如来)を「大覚金仙」、僧侶を「徳士」などと改名させて、僧侶には道服の着用を強制した。但し、これは1年間で撤回された。


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