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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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草弥の詩作品「天子諸芸能のこと、第一御学問なり」・・・・・・・・・・・・・木村草弥
後水尾院御集_0001
 ↑ 「後水尾院御集_」御製1420首余を収録
537px-Callirgaphy_by_Emperor_GoMizunoo後水尾院雅歌色紙
↑ 後水尾院雅歌色紙
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──<後水尾院シリーズ>─(15)

     「天子諸芸能のこと、第一御学問なり」・・・・・・・・・・木村草弥

「禁中並公家諸法度」は、徳川家康が金地院崇伝に命じて起草させた。
元和元年7月17日(1615年9月9日)、二条城において大御所(前将軍)徳川家康、将軍(二代)徳川秀忠、前関白・二条昭実の3名の連署をもって公布された。
漢文体、全17条。江戸時代を通じて、一切改訂されなかった。

この法度の制定に先立ち、慶長18年6月16日(1613年8月2日)には、「公家衆法度」「勅許紫衣之法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」を定めていたが、
この法度によって、さらに天皇までを包含する基本方針を確立した。
以後、この法度によって幕府は朝廷の行動を制約する法的根拠を得て、江戸時代の公武関係を規定するものとなった。

1631年(寛永8年)11月17日には当時の後水尾上皇主導で「若公家衆法度」が制定された。
この制定には幕府は間接的な関与しか行わなかったが、青年公家の風紀の粛正を目的とし、朝廷行事の復興の促進とともに公家の統制を一層進める事となり、
禁中並公家諸法度を補完するものとなった。

全文は17条からなり、その内容は武家諸法度と異なり、幕末まで変わらなかった。
1条から12条が天皇家および公家が厳守すべき諸規定、13条以下が僧の官位についての諸規定となっている。
原本は万治4年1月15日(1661年2月14日)の御所火災で焼失し、その後副本を元にして復元された。

第1条に天皇の主務として次のように規定されている。

一、 天子諸藝能之事、第一御學問也。不學則不明古道、而能政致太平者末之有也。貞觀政要明文也。寛平遺誡、雖不窮經史、可誦習群書治要云々。
和歌自光孝天皇未絶、雖爲綺語、我國習俗也。不可棄置云々。所載禁秘抄御習學専要候事。

意味は「天皇の務めは芸能である、その中でも学問が第一である」として具体的に経史、『群書治要』といった漢籍を宇多天皇の遺誡を引いて勧めたあと、和歌の道こそ、天皇の最もたしなむべき道としている。
さらに『禁秘抄』(順徳天皇が著した禁中行事に関する書で、後世の有職の基準となった)をあげ、禁中の行事、有職の知識を学ぶように勧めた。
ここでいう芸能とは現在の芸能界とか芸能人というのとは異なり、いわば教養として心得るべき知識の総体を指す。
天皇が文化の面での最高権威であり、文化そのものの体現者たれ、とされたのである。
ここでも、先進文化として中国唐代の帝王学である『群書治要』が挙げられている。

後水尾天皇は、十代にあたる時期に熱心に漢学を学んでいた記録があるが省略する。『日本書紀』なども学ばれた記録がある。
歴代天皇の中で、この法度の規定を最もよく体現した人と言えるだろう。

膨大な院の御歌の中から、今回は父君・後陽成院が元和三年に四十七歳で崩御されたときに作られた歌

     九月の末つかた、思ひもあへず倚蘆(いろ)にうつろひしは、ただ夢のうちながら、
     覚むべきかたなき悲しさに、仏を念じ侍りけるついでに、諸法実相といふ事を思ひ出でて
     句の初めに置きて、つたなき言の葉をつづり、いささか愁嘆の思ひを述べ侍るならし

      白雲のまがふばかりをかたみにて煙のすゑも見ぬぞ悲しき

      よそへ見るたぐひもはかな槿(あさがほ)の花の中にもしをれやすきを

      ほし侘ぬさらでも秋の露けきに涙しぐるる墨の袂は

      うつつある物とはなしの夢の世にさらば覚むべき思ひともがな

      知らざりきさらぬ別れのならひにもかかる嘆を昨日今日とは

      つかふべき道だにあらばなぐさめん苫の雫を袖にかけても

      さまざまにうつりかはるも憂き事は常なるものよあはれ世中(よのなか)

      受け継ぎし身の愚さに何の道もすたれ行べき我世をぞ思ふ

前書きに書かれているように歌の頭に「諸法実相」という仏語を置いて作られている。「冠かぶり」という歌の作り方の手法である。
字句の解説をしておこう。
「倚蘆」とは天皇が父母の喪に服する仮屋。正殿の庇の板敷きを地上におろし、十三日間籠る。
「諸法実相」─宇宙間のすべての存在がそのまま真実の姿であること。 出典は「諸法実相者、謂実智所照、諸法実相境也、即是立章門」(法華義疏・序品)。
「ほし侘ぬ」─干しかねて困惑してしまう。
本歌「刈りて乾す山田の稲をほしわびて守る仮庵に幾世経ぬらん」(拾遺・雑秋・凡河内躬恒)
「知らざりき」─本歌「つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はさりしを」(古今・哀傷・在原業平)
「さらぬ別れ」─本歌「世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もとなげく人の子のため」(古今・雑上・在原業平)

解説としてはまだまだあるが、このくらいにしておく。こういうのを「本歌取り」という。
それにしても、この年、後水尾天皇わずか二十一歳である。中院通村の添削があったとしても、お見事なものである。


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