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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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草弥の詩作品「儲君とは?」・・・・・・・・・・・・・木村草弥
b12_0035_16_3京都所司代板倉勝重印判状
↑ 京都所司代板倉勝重印判状
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──<後水尾院シリーズ>──(16)

        儲君とは?・・・・・・・・・・・・・木村草弥 

後水尾院については、近衛家に伝わる『陽明文庫』の資料や禁裏の近くに居た僧侶の日記など、資料が多いと言えるだろう。
これは私の詩であって、論文ではないので、なるだけ平易にしたいのだが、説明しないと分かりにくくなるので、最低限にして資料を引きたい。

それらの資料を読んでいると「儲君ちょくん」という今では聴き慣れない単語が出て来る。
これは、元はと言えば中国古代の漢代に発する制度だということである。儲君=皇太子と考えていいのだが、どっこい複雑である。
    
皇太子は、必ずしも在位中の天皇の長男を指すとは限らない。
歴史的に皇位は、長幼の序を重んじつつ、本人の能力や外戚の勢力を考慮して決定され、長男であれば必ず皇太子になれるとは限らなかった。
それゆえ、皇位継承順位が明文化される以前には、皇太子は立太子された当今の子という意味を持つに過ぎない。
また、南北朝時代から江戸時代中期にかけては、次期皇位継承者が決定されている場合であっても、「皇太子」にならないこともあった。
これは、当時の皇室の財政難などにより、立太子礼が行えなかったためである。
通例であれば、次期皇位承継者が決定されると同時に、もしくは日を改めて速やかに立太子礼が開かれ、次期皇位継承者は皇太子になる。
しかし、立太子礼を経ない場合には、「皇太子」ではなく、「儲君」(ちょくん、もうけのきみ)と呼ばれた。
南北朝時代において、南朝では最後まで曲がりなりにも立太子礼が行われてきたとされている。
これに対して、北朝においては、後光厳天皇から南北朝合一を遂げた遙か後の霊元天皇に至るまで、300年以上に亘って立太子を経ない儲君が皇位に就いている。

因みに、今の皇統は「北朝」の系統である。 まさに、後水尾院の頃の時代のことである。
先に書いたように、天皇が多くの「後宮」の女と交わり、多くの子を成した場合には、生母の間の勢力争いとか、天皇の好き嫌いで「儲君」になれたり、なれなかったりした。
後水尾院の場合も父君である後陽成天皇に好かれていなくて、皇弟の後の八条宮に継がせたかったらしいが、徳川幕府の意向で即位されたという経緯がある。
この不仲は後陽成天皇が死ぬまで、ずっと続いたという。
禁裏には、とにかく金が無かった。今風に言えば財政不如意ということである。
世は室町時代に続く戦国時代の後であり、禁裏の権威など、有って無いような時代だった。
御所を取り巻く「築地塀」はあちこち崩れ、盗賊が横行し、禁裏から火事を出したり、町屋からの出火で延焼したりした。それらについては先に書いた。

後水尾院が徳川秀忠の娘・和子を女御に迎えるにあたっては、「およつ御尞人」との間に二人の子が居た、ということで悶着があったが、
結果的には、この縁組によって禁裏には一万石の加増があり、また和子女御には別に一万石の化粧料が持参金として支給されるなど、禁裏の財政は大いに潤った。
私の村の旧家に残る資料には「禁裏御料」の田という名前が出てくる。
また、禁裏と幕府の間を取り持っていたのは「京都所司代」だが、初代と二代は板倉勝重父子だが、私の村には今でも「板倉」という田の地名が存在する。
後水尾院は即位から娘・明正天皇に譲位する頃までは、幕府のやり口に憤懣やるかたない様子であったが、生母・中和門院のとりなしなどもあって、
次第に幕府には金を出させて、自らは、幕府の言い種ではないが、学問、書、絵、和歌などに興味を集中されたのだった。
とにかく禁裏には金が無かった。院の執着された修学院山荘の修築なども、和子女御のちに中宮となるが、その縁からの幕府の出費がなければ出来なかった。

ここで板倉 勝重について少し引いておく。
安土桃山時代から江戸時代の大名。江戸町奉行、京都所司代。板倉家宗家初代。板倉好重の次男。母は本多光次の娘。子に板倉重宗、板倉重昌ら。
史料では官位を冠した板倉伊賀守の名で多く残っている。
優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件、訴訟を裁定し、敗訴した者すら納得させるほどの理に適った妥当な裁きを見せ、大岡忠相が登場するまでは、名奉行と言えば誰もが板倉勝重を連想した。

三河国額田郡小美村(現在の愛知県岡崎市)に生まれる。幼少時に出家して浄土真宗の永安寺の僧となった。
ところが永禄4年(1561年)に父の好重が深溝松平好景に仕えて善明提の戦いで戦死、さらに家督を継いだ弟の定重も天正9年(1581年)に高天神城の戦いで戦死したため、
徳川家康の命で家督を相続した。
その後は主に施政面に従事し、天正14年(1586年)には家康が浜松より駿府へ移った際には駿府町奉行、同18年(1590年)に家康が関東へ移封されると、
武蔵国新座郡・豊島郡で1,000石を給され、関東代官、江戸町奉行となる。
関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)、三河国3郡に6,600石を与えられるとともに京都町奉行(後の京都所司代)に任命され、京都の治安維持と朝廷の掌握、
さらに大坂城の豊臣家の監視に当たった。なお、勝重が徳川家光の乳母を公募し春日局が公募に参加したという説がある。
慶長8年(1603年)、徳川家康が征夷大将軍に就任して江戸幕府を開いた際に従五位下・伊賀守に叙任され、同14年(1609年)には近江・山城に領地を加増され1万6600石余を知行、大名に列している。
同年の猪熊事件では京都所司代として後陽成天皇と家康の意見調整を図って処分を決め、朝廷統制を強化した。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件では本多正純らと共に強硬策を上奏。
大坂の陣後に江戸幕府が禁中並公家諸法度を施行すると、朝廷がその実施を怠りなく行うよう指導と監視に当たった。
元和6年(1620年)、長男・重宗に京都所司代の職を譲った。寛永元年(1624年)に死去、享年79。

とかく幕府の代弁者として悪者に描かれるが、後水尾院が一番信頼していたのが、彼だと言い、院の「宸筆」の書や絵を賜ったりしている。
上に引いた資料の中にも、「近江・山城に領地を加増され1万6600石余を知行、大名に列している」とあるから、私の村に板倉の地名が残るのも頷ける。

とにかく、色々の曲折を経て、後水尾院は江戸時代を通して、学問、有職故実、和歌の道の第一人者として君臨された。
公生活においても、上皇、法皇として五代にわたって「院政」を布かれ、八十五年に及ぶ生涯を以て、一時代を築かれた。

ここで晩年のお歌 「二十首」─延宝五ノ比(ころ) 御年八十二

       春暁月
   梅が香の夢さそひきて暁はあはれさも添ふ月を見よとや

       独見花
   我のみは花の錦も暗部山まだ見ぬ人に手折る一枝

       風前花
   あひ思ふ道とも見えず風のうへにありか定めず花は塵の身

       惜残春
   花鳥に又逢ひみんもたのみなき名残つきせぬ老が世の春

       款冬露
   言に出でて思ひなぐさめ山吹の言はぬ色しも露けかるらん

       雨後郭公
   心あれや雨より後の一声はものにまぎれず聞(きく)郭公

       樹陰避暑
   秋とひそ岩根の清水流出(ながれいで)て木陰に夏の日を暮しつつ

       荻風告秋
   荻の声ひとりさやけし鳴(なく)虫もおのがさまざま秋を告ぐれど

       山川
   うらみじな山の端しらぬ武蔵野は草にかくるる月も社(こそ)あれ

       月前雲
   もれ出(いで)て今ひときはの光そふ雲にぞ月は見るべかりける

       栽菊
   知らずたれ秋なき時と契おきて植ゑし砌(みぎり)の花の白菊

       寒衣
   思ひやる旅寝の夢もかよふらしうつや砧の音も寒けき

       冬暁月
   冴ゆる夜の澄む月ながら影白く暁ふかき雪にまがひて

       落葉
   朝日にもそむるばかりに夜半の霜解(とけ)わたりたる落葉色こき

       寄月恋
   見るたびにその世の事ぞ思はるる月ぞ忘れぬ形見ながらも

       寄雲恋
   憂しやただ人の心も白雲のへだてぬ中と思はましかば

       寄雨恋
   我袖の涙くらべば秋ふかく時雨る木々も色はまさらじ

       寄風恋
   心あらばうはの空なる風だにも此ひと筆を吹も伝へよ

       海路
   知る知らずここぞ泊りと漕寄せて語ひなるる船の路哉

       釈迦
   散りうせじただ我ひとりとばかりも説きし言葉の花の匂ひは

仮名遣いが今のように統一されていないので読みにくいが、了承されたい。
死の三年前ということだが、達者なものである。 まだまだ紹介する御歌は多い。



   



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