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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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草弥の詩作品「渋川春海のこと」・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
P6113279天球儀
↑ 「紙張子製地球儀(実物)」1695年渋川春海作 重要文化財 国立科学博物館
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──<後水尾院>シリーズ──(18)

      渋川春海のこと・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

朝廷から「暦」の事業を拝命しているのは、陰陽師統括たる土御門(つちみかど)家であった。官許、独占である。当主は土御門泰福(やすとみ)である。
「暦」は生活のすべてを司っていた。その暦を発行しているのは朝廷=帝なのであった。

渋川春海が、暦に係わるようになるのは、ずっと先のことである。
安井算哲は、先ず「碁打ち」から始まる。
碁打ち衆として登城を許されたのは、安井、本因坊、林、井上の四家のみである。
碁打ち衆のあり方は、かつて織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人の覇者に碁をもって仕えた「本因坊算砂」に始まる。
算砂は、信長から名人と称えられてその初めとなり、秀吉から「碁所」(ごどころ)および将棋所に任じられた。
そして本因坊算砂の背景には日蓮宗の存在があったことから、家康は城の碁打ちや将棋指しを寺社奉行の管轄とした。
だから碁打ちたちが頭を丸めて僧形であるのは、その理由による。
だが安井算哲=渋川春海は僧形ではなかった。

「渋川春海」と名乗るようになる経緯は次のような理由による。
碁打ちである安井家は一時、河内国の渋川郡に知行地を得ていたことがあり、その上に、

   雁鳴きて菊の花咲く秋はあれど春の海べにすみよしの浜

        この歌は『伊勢物語』(六十八段)に

      むかし 男 和泉の国へ行きけり 住吉の郡 住吉の里
      住吉の浜をゆくに いとおもしろければ おりゐつつゆく
      或る人「住吉の浜をよめ」といふ

         雁鳴きて菊の花さく秋はあれど春の海辺に住吉の浜

      とよめりければ みな人々よまずなりにけり

    昔 男が和泉の国へ行った 住吉の郡 住吉の里 住吉の浜を
    行くと とても趣深かったので 馬から降りて 腰を下ろし
    風景を楽しみながら行った 或る人が「住吉の浜を下の最後
    の句に使って歌を詠め」と言った そこで男は

    雁が鳴いて菊の花が咲く秋もよいものだが やがては飽きて
    しまふでせう それに比べ この住吉の浜の春の海辺は この
    憂き世で長く住み良い浜と思はれます

    と詠んだので この歌に感銘して 他の人々は もうそれ以上詠おうとはしなかった

という逸話に拠っている。

    住吉の浜 = 住み良しの浜 を掛けている
    春と秋 の対比  飽きと憂み の対比
    秋には飽き を掛けている
    海には憂み を掛けている

実は、渋川春海としてではなく「碁打ち」として後水尾院にお逢いしている記録が残っている。
院が碁を好まれたかどうかは分からない。 恐らく将軍御前碁の話などを板倉あたりから聞かれて、お召しになったのか。

貞享元年十月二十九日。大統暦改暦の詔が発布されてから七か月のその日。
霊元天皇は、大和暦採用の詔を発布された。これにより大和暦は改めて年号を冠し「貞享暦」の勅命を賜り、翌年から施行されることが決まった。
この大和暦を学理と天測によって開発したのは、渋川春海であった。朝廷の暦司どりの仕来りを知った上での巧みな采配であった。
土御門家の面目も立て、自分は一旦うしろに引いての「改暦」だった。
以後、渋川春海は、幕府の「天文方」として、また暦の専門家として君臨した。
霊元天皇は、院と新広義門院との間に生まれた皇子であり寛文三年に即位されている。
享保十七年(一七三二)七十九歳で崩御された。長寿であった。

因みに、今でも全国神社の総元締めである神社本庁が発行する暦には「土御門」家の名前が書いてある。その謂れは以下のようである。

天社土御門神道(てんしゃつちみかどしんとう)は、福井県おおい町(旧名田庄村地区)に本庁を置く神道・陰陽道の流派。
天文学・暦学を受け継いだ安倍氏の嫡流が、後に天皇より「土御門」と言う称号を賜い、以後は土御門家を称する堂上家として仕えた。室町中期から戦国期にかけては、都の戦乱を避け、数代にわたり、所領のある若狭国に移住していた。
戦乱の終息後、都に戻ったが、秀次事件に連座し、豊臣秀吉の怒りを買い、またしても、都を追われる事になってしまい、宮廷陰陽道は一時終息する。 しかし、関ヶ原の戦いが終わり豊臣家が衰退すると、土御門久脩(つちみかど ひさなが)は、徳川氏に「陰陽道宗家」として認められ、慶長5年(1600年)には宮廷出仕を再開する事になった。また慶長8年には、家康の征夷大将軍任命式を行っている。
土御門久脩の後、泰重・泰広と続き、その後の泰福が陰陽頭になった時(天和3年5月(1683年))諸国の陰陽道の支配を土御門家に仰せ付ける旨の「霊元天皇綸旨」が下された。同時に、徳川綱吉の朱印状によっても認められ、土御門は全国の陰陽師の統括と、造暦の権利を掌握することになった。山崎闇斎の影響を受けた泰福は陰陽道に垂加神道を取り入れて独自の神道理論を打ち立てた。一般的にはこれが「土御門神道」の開始と言われている。
土御門家の陰陽道組織化は、幕末には全国に広まったが、明治維新後の明治3年(1870年)に陰陽寮が廃止され、太政官から土御門に対して、天文学・暦学の事は、以後大学寮の管轄になると言い渡しを受ける。 それによって陰陽師の身分もなくなる事になり、陰陽師たちは庇護を失い転職するか、独自の宗教活動をするようになった。 そうして民間の習俗・信仰と習合しつつ陰陽道は生活に溶け込んでいったのである。
安家神道(土御門神道)は、そうした状況の中で古神道などの影響を受けながら、かつての関係者の手によって守られた、現代の陰陽道である。 現在は、かつての土御門家の領地であった福井県おおい町(旧名田庄村地区)に日本一社陰陽道宗家「土御門神道本庁」が置かれている。

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DSC01608_convert_20080528151401渋川春海墓
 ↑  渋川春海の墓 東海寺

渋川春海 土御門泰福 など ← に詳しい。


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