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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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草弥の詩作品「一絲文守のこと他 立花と庭園」・・・・・・・・・・・・・木村草弥
C006-thumb-3168x4752-120_533x800一糸文守筆
↑ 一絲文守筆 禅文化研究所「聴松堂文庫」蔵
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──<後水尾院>シリーズ──(20)

     一絲文守のこと他 立花と庭園・・・・・・・・・・・・・木村草弥

一絲文守(いっし・ぶんしゅ)は後水尾院に寵愛された僧である。
院は政治的、権力的な繋がりの人物よりも、こういう文人肌の人を好まれた。
院は弟の近衛信尋の仲介によって、彼に出会った。
ただ若くして早逝したので、長命の院と違って、エピソードには乏しいが、いかに寵愛されたのかが判るのが、死後三十年も経たのちに「仏頂国師」の号を贈っている。
以下、彼の履歴を引いておく。

一絲文守(1608-1646) 江戸時代前期の僧。
慶長13年生まれ。臨済宗。はじめ堺の南宗寺の沢庵宗彭に師事し,のち京都妙心寺の愚堂東寔(とうしょく)の法をつぐ。
後水尾上皇の帰依をうけ,寛永18年丹波亀岡に法常寺をひらいた。
彼は,生涯を一貫して,幕府の権勢におもねる禅宗界の趨勢を嫌い,栄利を求めず,孤高にして気韻ある隠者の禅をめざした。
この彼の禅の高潔さは,かえって後水尾上皇の知遇をえる契機となり,東福門院,皇女梅宮,近衛信尋,烏丸光広など上皇側近の宮廷貴族があいついで彼に帰依した。
詩文や書画にすぐれ,茶の湯にも通じ,小堀遠州,松花堂昭乗らと交遊した。
正保3年3月19日死去。39歳。岩倉公家の出。諡号は定慧明光仏頂国師。別号に桐江,丹山。

亀岡の法常寺のほかに、永源寺の再興に尽した。
永源寺(えいげんじ)は、滋賀県東近江市にある臨済宗永源寺派の本山。山号は瑞石山。
紅葉の美しさで知られる。開山忌が、毎年10月1日に行われる。
寺は1361年創建。開山は寂室元光(正灯国師)、開基は佐々木氏頼(六角氏頼)。
中世戦乱期に兵火により衰微したが、江戸時代初期に中興の祖とされる一絲文守(仏頂国師)が住山し、後水尾天皇や東福門院、彦根藩の帰依を受けて、伽藍が再興された。
1873年に明治政府の政策により東福寺派に属したが、1880年に永源寺派として独立した。
三重県いなべ市に永源寺跡 があるが、鈴鹿山脈を挟んですぐ東側の三重県いなべ市にも永源寺の一部があったと言われている。
三重県いなべ市の伝承では、永禄年間(1558年 - 1570年)織田信長家臣である滝川一益の軍勢が、北伊勢地方の寺を焼き払いながら迫って来たため、三重県側の永源寺の僧は兵火を逃れるため、寺の宝物などを持ち一夜にして竜ヶ岳の南側にある鈴鹿山脈の石榑峠を越えて、近江の永源寺へ逃れたとされているが、永源寺側の記録には一切触れられていない。
三重県いなべ市の永源寺の建物は滝川一益の軍勢によって焼き払われたが、水田周辺に石垣の一部が残されている。
本尊は世継観世音菩薩。
寺内には彦根藩主井伊直興公の墓所がある。
旧永源寺町は、永源寺コンニャクや政所茶の産地であり、木地師発祥の地として知られる。
また付近からは平成22年に国内最古級・1万3千年前の土偶が発掘された。


後水尾院とその周辺の「文事」が栄えた理由としては、幕府との軋轢によって政治の舞台から追いやられ『禁中並公家諸法度』に従って文事に専念せざるを得なかったことが幸いした。
それだけではなく、後水尾院が本来持っていた文学的志向、大局を見渡せる能力、根底にある大らかな性格なども重要な要素として働いただろう。
「和歌」を中心とした文学活動については今までいくつか述べてきたので、ここでは立花と庭園について述べる。
立花」は、譲位後の後水尾院が和歌と並んで最も情熱を注いだ遊芸である。
いわゆる禁中大立花(寛永立花)においては、二代池坊専好が後水尾院の庇護のもと指導的役割を果たしている。
今日、立花を高度の芸術として大成させたのは専好とされるが、日本花道史の側からみても後水尾院は最大のパトロンの一人であった。
近衛家熙が記した『槐記』の享保十三年(一七二八)二月四日の条には、立花に才能を発揮していた尭然法親王(獅子吼院。後水尾院第十皇子)に対して後水尾院が、
自分の歯が悪くなったのは立花のためであるから、ほどほどにせよと忠告したという逸話が載っている(一般に、物事に凝ると歯が抜けると言われる)。
もっとも、この話には落ちがあって、法親王は、後水尾院の歯が抜けたのは立花のせいではなくて和歌のせいだと言って笑ったという。
庭園」は、もちろん修学院山荘のことである。
寛永十八年(一六四一)頃鹿苑寺の鳳林承章に命じて衣笠山付近に適地を求めさせるなど検討を統けていたが、明暦元年(一六五五)長谷への行幸の途次、
第一皇女梅宮(文智女王)のいた円照寺に後水尾院が立ち寄ったところ、その一带が気に入り、ここに山荘を造する構想が成ったらしい。
万治三年(一六六〇)頃には、ほぼ完成していた。
現在では、上・中・下の茶屋が存するが、万治にできた当時はまだ中の茶屋はなかった。
上の茶屋は最も壮大な庭園で、小高い隣雲亭に立って、眼下の浴竜池から遥か京都北山一带へと目を移していくと、雄大な景色を我が物にしようとした帝王ぶりを味わうことができる。






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