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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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草弥の詩作品「 畢詩  あとがきに代えて」・・・・・・・・・・・・・木村草弥
627px-Emperor_Go-Mizunoo3後水尾院
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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<後水尾院>シリーズ──(28)

    畢詩  あとがきに代えて・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

それは突然のことだった。
宗政五十緒(龍谷大学文学部教授・近世文学専攻)が大学院生の女の子を連れて私の家を訪問された。
この頃、宗政は「都をどり」の台詞の作詞を担当していて、今年は宇治茶の茶摘み風景を取り入れたいので参考にと来訪されたものである。
今から二十年も前のことで平成に入ってすぐの頃か。
話しているうちに彼と大学の同学年であることが判明。何しろ一学年には約二百人くらい居るから交友があるのは限られている。
茶園や茶摘み道具の竹製の茶摘み籠を見せたりした。都をどりの場面では茶摘み籠に当家の屋号である○京の印が入っていたりした。
宗政は短歌結社「あけぼの社」という小さな会を主宰して弟子たちに歌や文章を執筆させていた。
その中に森川知史(現・京都文教短期大学教授・コミュニケーション論)という人がいて、この人が何と私たちの従姉の子なのだった。
都をどりの関連でいうと、猪熊兼繁(京都大学法学部教授・法制史専攻)先生に一般教養の法学概論の講義を受けたが京都弁丸出しの漫談のような講義だった。
この猪熊兼繁が先任の都をどりの作詞家だったのが亡くなられて、その後任が昭和五五年から宗政五十緒ということで因縁話のように繋がるのだった。
都をどりは「甲部歌舞練場」を本拠にする格式高いもの。祇園乙部というのはいわゆる遊郭であって、一口に祇園と言っても、いろいろあるのである。
宗政五十緒『江戸時代の和歌と歌人』(同朋社出版、平成三年刊)という本で後水尾院に触れたのが、そもそもの始まりだった。
彼はハーバード大学研究員としてアメリカの大学に居たりして、その筋では名の知られた学者のようである。
彼は一九七七年に「江戸時代前期における宮廷の和歌」という論文で、いくつかの近世和歌史が近世初期の和歌の環境面について触れるところの少ない不満を述べ、
後水尾・後西・霊元三院の文学活動の一端を明らかにしたのが発端となり各氏が研究を始めたらしい。
もっとも昭和五年には、すでに 吉沢義則『頭註後水尾院御集』(仙寿院刊)のような詳しい研究書が存在する。
彼は心筋梗塞で心臓バイパス手術を受けたことがあり、後に私の亡妻も同じ手術を受けたことで、これも因縁めいている。その彼も二○○三年に心筋梗塞の再発で死んだ。
今でこそ龍谷大学は理科系の学部も揃った総合大学になっているが、私たちが学生の頃は龍谷大学は僧侶養成の学生数も数十人という文学部のみの学校だった。
西本願寺の敷地の一番南端のところが校舎だったらしい。
心臓バイパス手術というのは大手術で何時間もかかるので、その時に、彼は「臨死体験」をした、と西本願寺の雑誌に書いていた。

後水尾院に関する記録は膨大なものがあり、近衛家に伝わる『陽明文庫』の文書などを基に、よく研究されている。
『後水尾院御集』(久保田淳監修・鈴木健一著 明治書院刊「和歌大系68」平成十五年)
『後水尾天皇』(熊倉功夫 中公文庫2011年再版)
『後水尾天皇 千年の坂も踏みわけて』(久保貴子 ミネルヴァ書房2003年)
『お公家さんの日本語』(堀井令以知 グラフ社2008年)
『御所ことば』(井之口有一・堀井令以知 雄山閣2011年)
小説『花と火の帝 上・下』(隆慶一郎 新潮社2010年)作者死亡のため未完

などがあるが、 隆慶一郎の小説は実在の人物─たとえば近衛信尋などが登場するが猿飛佐助なども出てくる怪奇的エンターテインメントの作品で、また八瀬童子などを中心とする親衛隊「天皇の隠密」というような者を設定して描写している。
敵方の襲撃者として白玄理なる中国人の術者なども登場する。
エンターテインメント、読み物としては面白いが虚構性が強すぎるのでサスペンス小説として受容した。しかし資料をよく読み込んだ形跡があり、さすがである。
御所ことばの件だが、その頃、宮中の一角に「お湯殿」という女官たちの溜り場のようなところがあり、そこで日常のことを記録した『お湯殿の上の日記』というのが残っていて、それらを堀井令以知らが調べたものなどが知られる。
堀井令以知は一九二五年生れだが、私の住む青谷村の中村という集落出身である。もっとも先代のときに村を出ているから当地の学校には行っていないらしい。
彼は「御所ことば」の専門家としてテレビドラマなどの考証に名前が出ている。
当時の宮廷は、まさに「身分制度」の典型であった。公家と言っても上は五摂家から下級の公家まで、ピンからキリの身分があった。
臍の緒を切った家が身分が高ければ、生まれながらにして摂政、関白などの官位につくことが出来た。一方、下級公家の家に生まれた者は、一生ずっと下級の官位のままである。
本文中にも、その一端を描写しておいたが、こういう本人の実力によらない身分制度が時代の変化に対応できずに統治能力を麻痺させ、制度崩壊を招くことになった。
それが明治維新という形で実現し、新しい立憲君主国家を始めることとなった訳である。

後水尾院は五代四十年にわたって強力な「院政」を布いたことにも象徴されるように、江戸時代全般を通ずる先例を築かれたようである。
そういう、いわば巨象のような後水尾院を、盲人が体の一部分を撫でているようなのが、私のこの詩である。
小説でもない、論文でもない、エッセイでもない、──まさに詩としか名づけようのない一片の木の葉である。
もっと虚構のフィクションに徹した詩にしたかったが、何しろ記録に残るものが多くて、それらを無視できなかった。
全くの虚構と言えば「お夏」「お秋」「お冬」「お春」の一連などだが、現代詩は何でもありだから「見てきたような」虚構で彩ってみた。

後水尾院の三十七人にのぼる皇子や内親王の数を見ていると、今の皇位継承者の断絶云々という騒ぎは何なんだという気がするが、
明治天皇を最後として「後宮」「側室」制度というのが無くなり、これも時代の移り変わりかと、うたた感慨深いものがある。
年長に生まれても「儲君」にもなれず「法親王」として寺院に追いやられた皇子たちの悲嘆も思いやられた。
後水尾院が『禁中並公家諸法度』によって統治や行動に厳しい枠をはめられ「学問・諸芸能」に役割を限定されたのを見ていると、
今の「象徴天皇」そっくりなのに感心する心境になったものである。一方は強制したのが徳川幕府であったが、他方はアメリカ占領軍であった。
歴史的に見て、この両者は、これで良かったのだという気がする。
明治維新の「皇国史観」の強制によって、天皇は「現人神」(あらひとがみ)とされ、「天皇の名」によって悪いことが圧政として強いられた。
たとえば日清、日露戦争をはじめとして第二次世界大戦に至る、当時の世界列強の帝国主義に倣った侵略戦争への突入などがそれである。
その意味では、天皇には戦争責任があったと言えるが、アメリカ占領軍は天皇制を残すことによって占領政策を円滑に進める道を選んだのだった。
先に第五歌集『昭和』を出したが、その読後感の中に「昭和という時代へのノスタルジー」というようなものがあったが、私の中では、もっと「にがい」記憶として存在するのであった。
この詩とも言えないものを書きながら、脳裏にはさまざまなことが想起した。これもいい勉強をさせてもらったと思っている。



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